水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

契約の神

Ex6

2019年3月10日 夕礼拝

 

 主の召しを受けても、さんざん躊躇していたモーセですが、主に兄アロンをスポークスマンとして付けるから大丈夫だと説得されて、ファラオのもとへと行きました。しかし、前回みたように、派遣された当初、モーセは神のことばをファラオを怒らせないように少々水増しして伝えるというありさまでした。

 ファラオは、お前たち怠け者の奴隷の神、主など知らない。そんな神のいうことを聞く気などまったくないという反応でした。あらかじめ主から、この結果については告げられていたことではありましたが、改めてその通りになって見ると、モーセとアロンはがっかりします。ファラオは、へブル人奴隷のレンガ造りの労働条件を理不尽に悪化させるというパワハラをします。意図したのは、モーセとへブル人たちの仲を裂こうということです。お前たち、モーセのいうことなど聞いていたら、よけいに生活は苦しくなるのだぞと身をもって知らしめようとしたのです。

 案の定、重労働でくたびれ果てていたへブル人たちはモーセとアロンに反発し、彼らを呪うようなことさえ口にします。それで、モーセはがっかりしてしまいます。こういう背景で、6章は始まります。

 

1 必要なのは忍耐 1節 

 

 がっかりしているモーセに対して、主は今一度、「今にわかるよ」となだめます。

1,主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」

 種を蒔いたら、翌日には花が咲き、その翌日には実がなるというものではないのですが、この段階のモーセはまだそのことを学んでいませんでした。作物を育てるといえば、地を耕して畑を作り、肥料をまいて、種を蒔いて水をやり、一週間ほどして芽が出て、カラスが食べに来るのを警戒しながら、草取り等を死ながら、忍耐していると、段々と茎が出て葉っぱが出て成長し、何か月かして花がようやく咲いて、それからしばらくすると実がなるものです。

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは」なんっですか?そう「忍耐です。」へブル10:36

 神のみこころを行なうことは種まき、種まきからいきなり収穫とはなりません。神のみこころを行なわなければ、約束のものが手に入ることがないのは事実ですが、神のみこころを行なったからといって、翌日約束のものが手に入るだけではありません。忍耐が必要です。目先の状況、人の反応にいちいちふらふらしないで、忍耐をもってコツコツと神の御心を行ない続けることが必要です。

 

2 契約の確認  2-9節

 

 そして、神は契約の内容をモーセに確認してくださいます。

(1)わたしは主である

2,神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしはである。

3わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブ全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。

 

 これを読んで、あれ?と思う人が多いでしょう。というのは、「主」という太字の名は、創世記の最初の方から出てくるからです。主の名を呼び始めたという表現は、セツ族の人々でも出てきました。では、ここで言う「主という名では知らせなかった」とはどういう意味なのでしょうか。「知らせる」というヘブル語のことばの意味は、単にヤーウェという名前だよということを意味するわけでなく、その名に含まれている深い意味を教えることはなかったという意味なのです。ヤーダーという動詞は、深い意味があるのです。

 ですから、ここで語られていることは、ユアハウェという神の名がこれまで全然用いられていなかったという意味ではありません。ただ、この神の名には特別の意味が含まれていることについては知らせていなかったという意味です。

 では「主」という名にはどういう意味があるのでしょう。それは主は全能の神であるだけでなく、民にお与えになった契約にどこまでも忠実なお方であり、神の民を救い出すお方であるという意味です。主という名と契約と言うことは、密接に結びついています。特に、「わたしは主である」という表現は特別のもので、モーセ五書で25回用いられていて、どの場合も、同じ「主は全能の神であるだけでなく、民にお与えになった契約にどこまでも忠実なお方であり、神の民を救い出すお方である」という思想と結びついているのです。みなさんも注意して読んでみてください。4節以降、契約の中身が出てきます。「契約を立てた」(4節)、「契約を思いい越した」(5節)と出てくるでしょう。

 

  • 契約の中身は3点あります

 先祖アブラハムへの契約の内容の一つは、カナンの地を与えるということです。

4**,わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。

 先祖アブラハムへの契約の内容の第二は苦役から救い出すこと。

6**,それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。**

 そして第三に、契約の主題はは7節前半です。

7わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。**

8わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」

 

 なぜ、主題が7節前半とわかるかというと、次のキアスムスとなっているからです。

 A約束の地を与える、

 B苦役から救う、

 C神が彼らを民とし、神が民の神となる

 B苦役から救う、

 A約束の地を与える

 というキアスムスになっているので、波紋の中央にある神が彼らをご自分の民とするが中心テーマだとわかるわけです。天地万物の主、全能の神が、主という名を明らかにして、アブラハムに結んだ契約を今実行しようとしているのだとおっしゃるのです。

 けれども民は疲れ果て、心かたくなにしたのです。

 9モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。

 

3 モーセの口下手、逃げ口上・・・聖書―神の契約の書

 

10-13 主はあらためて失意のモーセにパロに対する命令を下しますが、モーセは自分は口下手であると訴えるので、モーセだけでなくアロンに命令を下される。

10,主はモーセに告げられた。11「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」

12しかし、モーセは主の前で訴えた。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

13,主はモーセとアロンに語り、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられた。

 14-26は話の本筋から離れて、モーセとアロンが属するレビ諸氏族の系図がは注釈としてさみこまれています。筆者の意図は、26-27節を見るとわかるように、ファラオに対して主の御告げを伝えたモーセをアロンの来歴を紹介することです。26,このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。

27,エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。

 話の本筋からやや離れますが、ここで聖書という歴史の書の特徴を確認しておきましょう。聖書の特徴は出エジプトの立役者であるモーセさえも美化し英雄的に描くことをしないで、ありのままに描いているところです。

28,主がエジプトの地でモーセに語られたときに、

29主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」

30,しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 モーセは主に召されて預言者とされたものの、臆病で引っ込み思案で、自分は到底そんな重責を担うことはできませんと何度も逃げ回っています。そうして逃げ回ったことが、何度も繰り返し記されています。こうしたところが聖書の特徴というか、聖書が神の言葉であるゆえんです。

 旧約聖書は、イスラエル国家の根幹をなすもので、表面的に見ると、世界の国々で政府が歴史書と同じようなものに見えます。国家というものは、歴史を編むにあたっては、その国家の正統性を擁護することを目的とし、その国の過去の指導者たちは美化されるものです。古代エジプトのある碑文には戦争に勝ったことは記録されていますが、負けたことは書かれていないといいます。私たちの国でいえば、古事記日本書紀がそうした歴史書で、8世紀前半に大和朝廷の正統性を示すものとして書かれました。現代でも国の歴史に何を記し、国民に何を教えるかについて議論があります。古代史では日本の歴史教科書と韓国の歴史教科書でおいてちがいがあります。現代史では天皇と日本政府と軍隊が何をしたかについて論争があります。安倍さんは「美しい国、日本」と言って、あったことをなかったことのようにして美化する歴史修正主義者たちです。国家による歴史の記述は、すこぶる政治的なものです。

 ところが、聖書は不思議なほどに人間を決して美化しません。モーセという最大の預言者であり、国家の土台にあたる人物も、聖書においては口下手を理由に主の召しから逃げ回る臆病者というわけで形無しです。旧約聖書は、国家の正統性を表し、美化するために編纂したものではないことが明白です。旧約聖書は、諸国の歴史書とはまるで異なっているのです。では、聖書とはなにか。聖書という書物の性格を一言で言えば、真実な主なる神がご自分の民に与えた契約の書なのです。私たちの神は、契約の神、主です。私たちに救いの契約を与え、与えた契約に対しては、どこまでも忠実に実行してくだわるおかたなのです。

 主イエスは最後の晩餐で新しい契約を結んで言われました。マタイ26章28節「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」主は恵みによってご自分が流した契約の血の真実にかけて、私たちを赦し、私たちを救ってくださるのです。

 

 

 

 

 

神の価値観、この世の価値観

出エジプト5章

2019年2月28日 苫小牧夕拝

 

 1  モーセはまだ怖がっていた

 

 イスラエルの民に、神のみ旨を告げたところ、彼らは先祖アブラハムへの契約をおぼえていてくださり、彼らを顧みてくださった神に礼拝をささげました。そして、いよいよモーセはパロのところへ出かけてゆきます。

1**,その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」

モーセが告げた主からの命令の趣旨は、主の前にれいはいをさせよということです。

するとパロは、なんで自分がヤーウェとやらの命令を聞かねばならないのだと反発します。彼は人に命令することはあっても、命令を受けることなどないのです。特に、エジプトの神々でなく、奴隷にすぎないイスラエル人の神の命令など聞く気はさらさらありません。

2**,ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」

 パロの剣幕におそれをなしてしまったモーセは、次のようにパロに答えます。

3**,彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」**

 

 少しおかしいですね。モーセは主のことばをそのまま伝えていません。4章23節を振り返ってみましょう。「わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」

 モーセは、パロには刺激が強すぎると思って、少しみことばを和らげて話してしまっているのです。モーセはまだ主のしもべに徹することができないでいると思われます。しかし、ここで彼を責めるのはよしましょう。神様も責めていらっしゃらないからです。この後、モーセはパロとの交渉を通じて、徐々に神のしもべ、神の預言者らしく、鍛えられていくことを期待しましょう。

 

 2  パロ、この世の王

 

(1)パロの俗的価値観

 ついでパロは、モーセたちの言うことを曲解して言います。

4**,エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」**

5**,ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」**

 

 パロの解釈では、モーセとアロンは、単にイスラエルにサボる口実を与えようとしているにすぎないということです。神を礼拝することなど、労働者が仕事をサボるための口実に過ぎないのだというのが、権力者であるパロの価値観なのです。

 この箇所を読むと、私が神学生時代に、私の知り合いの牧師澤正彦牧師が起こした、「日曜日授業欠席処分取り消し訴訟」のことを思い出します。小学生の娘さんが日曜日に授業参観があったのですが、娘さんは日曜学校と礼拝に出ることを希望して、あらかじめ学校にその旨を知らせて授業参観には出ませんでした。すると学校は、この子を欠席処分にしたのです。

 これに対して原告両親は、時善意教会学校の宗教行事の参加させるため出席できない旨を各担任に通知すると共に、①公立学校は日曜日に授業すべきではない、②日曜日に授業を行う場合はあらかじめ父母、子どもに任意であることを伝え、出欠をとるべきではない、③日曜日授業は、教育法が保障している宗教教育の自由をおかすものである、との要請を出していた。しかし授業は行われ、欠席とされたので、欠席の取り消しと損害賠償を校長、東京都に請求した。」のでした。

 けれども、学校も裁判所も、これを認めませんでした。神を礼拝することなど、学校をサボる口実にすぎない。神を礼拝することなど、たいした価値のない私的なことにすぎないという価値観が、日本社会の法廷と学校の価値観だということなのでしょう。それで、私はこの出エジプト記5章を読むと、あの裁判を思い出すのです。しかし、天地万物を造り、日々私たちのいのちを支えてくださった神様に感謝をささげ礼拝することほど公的で重要な務めは、ほかにはありません。

 「人間の主な目的はなんであるか?」といえば、「それは神を礼拝し、神を永遠によろこぶ」ことなのですから。その神礼拝のためにこそ、日々の仕事もあるのです。神をあがめることが目的であり、仕事その他の営みはその手段なのです。神礼拝に仕事が勝るという考えは、偶像礼拝にほかなりません。そして偶像化された仕事は、人を苦しめ不幸にしてしまいます。

 

(2)パロのパワハラ

 そして、パロは嫌がらせをします。6節から9節まで。

 6**,その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。**

7**,「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。**

8**,しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。**

9**,あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」**

10**,そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。**

11**,おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」**

12**,そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。**

13**,監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」**

14**,ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」**

15**,そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。**

16**,しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」**

17**,ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。**

18**,今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」**

 

 これは典型的なパワーハラスメントですね。職場のパワーハラスメントとは、「職務上の地位や人間関係などの職場内での優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為を」のことです。まさしく、これですね。パロは、真の神様を礼拝をしたいという人間としての当然の権利の主張に対して、パワハラで応じたのでした。

 経済第一主義といいますか、マモニズムといいますか、そういうものにパロの頭と心は一杯で、神様を礼拝することなどくそくらえというような状態でした。そして、自分こそ最高権力者であると自負していたのに、自分に対して命令をする「神」という存在に我慢がならなかったのです。パロはこの世の権力者の陥りがちな典型的な醜い姿です。パロの愚かなプライドは、自らとエジプトの民に災いを招くことになります。

 

3   イスラエルの民の反応

 

 イスラエルの民は、こうした事態の中でどのように反応したでしょうか。モーセとともに堅く信仰に立ったでしょうか。そうではありませんでした。こんな結果になったことについて、モーセとアロンをなじったのでした。

19**,イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。**

20**,彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。**

21**,彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」

 

 ほんの少し前には、モーセとアロンから主の啓示を聞いて、奇跡まで見せてもらって、主をあがめたのに、試みに遭わせられると途端にこんなことを言うのが忘恩の民イスラエルでした。こうした様子はこのあとも何度も何度も繰り返されます。無理もないといえばそうなのかもしれませんが、同情ばかりしているわけにはいきません。みなさんは同じ過ちを犯さないように、彼らイスラエルの民を反面教師としていただきたいと思います。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」(ヘブル13:17)

 神様と民の間にはさまれたモーセとアロンを見ると、なんだか中間管理職の悲哀のようなものを感じます。モーセは、民のために、主の前に嘆くのです。

22**,それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。**

23**,私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」

 

結び

 

 主から召しを受け、使命をいただいて遣わされたモーセですが、まだ腹がすわっておらず、パロのことを恐れていました。これからモーセは鍛えられていくのです。神様は忍耐をもって、私たちの人生を導き、神の役に立つ器へと造り変えていってくださるお方です。

 この世の価値観、経済第一主義、マモニズムの背景には、サタンがうごめいているものです。私たちは揺るぐことなく、

「問 人間の主な目的はなんであるか? 

答え 人間の主な目的は、神を礼拝し、神を永遠によろこぶことである。」

という告白をもって生きてまいりましょう。

 

意外な出来事も

使徒4:18-31

 

2019年2月24日 苫小牧主日 夕礼拝

4:18 それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。

 4:19 【主】はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」

 4:20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 4:21 【主】はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。

 4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。

  【主】はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。

 4:23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

  4:24 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。【主】はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

 4:25 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」

 4:26 そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

  4:27 さて、【主】はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。

 4:28 モーセは自分を遣わすときに【主】が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。

 4:29 それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。

 4:30 アロンは、【主】がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行ったので、

 4:31 民は信じた。彼らは、【主】がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

 

 

1.舅に挨拶して、出発 

18-23節 

 主の召しに答える決心をしたモーセはまずしゅうとのイテロに挨拶をしました。18節。このときには、自分が主なる神の啓示を受けたこと、自分にはイスラエルをエジプトから脱出させる使命があることについては触れていませんね。モーセのまだ気弱なところがうかがえるところです。

4:18 それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。

 ミデヤンの荒野を行く道で、モーセを励ます主からのことばがありました。

 4:19 「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」

 4:20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 

 モーセはこの働きが長丁場になることを覚悟していて、妻と息子たちをともなっていきました。(子どもたちが幼いような印象を受けます。結婚しても長く生まれなかったのかもしれません。荒野での年数が40年という伝統的見解はちょっと違う可能性があります。モーセはエジプトに戻る時80歳ですが、一度目にエジプトから去った年齢はもっと高齢になってからかもしれません。)20節の表現で注目すべきは「神の杖」です。モーセが「ただの羊飼いの杖」と思っていた杖ですが、今は「神の杖」となっています。神がモーセイスラエルの民の羊飼いとして立てたことの証の杖です。

 次に、主は全体的な見通しを与えて、モーセが目先に生じることがら、パロの反抗などによって失意落胆してしまわぬように配慮してくださいます。

 4:21 【主】はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。

 4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。

  【主】はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。

 4:23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

 

 そんなに簡単に成し遂げられる任務ではない。パロは頑なで、なかなか言うことを聞かないが、最終的には22,23節のような事態になるということです。これをあらかじめお話になったのです。

 

2 主がモーセを殺そうとする

24-26節 

 ところが意外なことが起こります。妻と子供たちをつれて、モーセはミデヤンの荒野をアカバ湾沿いに北上し、アラビア商人の道を通ってシナイ半島を東西に横切る旅をしていくのですが、まだ家を出てまもないとき、途上で意外な出来事が起こりました。

 4:24 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。【主】はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

 4:25 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」

 4:26 そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

 

 いったい、これは何事でしょうか?主ご自身が、モーセをお召しになり、エジプトに遣わそうとしていらっしゃるのに、その主がモーセを殺そうとされたのです。それは、モーセが自分の子どもたちに神の民の契約のしるしとしての割礼を施さないままでいたからだと考えられます。割礼は、400年前アブラハムの時代に、神さまがアブラハムとその一族の男子に契約の印としてさだめたものでした。創世記17:9-14

 17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

 17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。

 17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。

 17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。

 17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 

 おそらくモーセが子どもたちに割礼を施していなかったのは、妻チッポラが反対したからであろうと推察できます。モーセはもう自分がエジプトに戻り、イスラエルの民のもとに戻ることはあるまいと思っていたので、それほど強くは言えなかったのではないかと思います。モーセはエジプトからの逃亡者として入り婿という立場上、強く言わなかったのであろうと思われます。しかし、自分の家を治められないものが神の家の指導者になることはできません。そこで、神様はこの問題をクリアしてから、彼は遣わそうとされたのです。

 旅路で突然モーセが倒れました。主に捕まえられたのです。妻チッポラは、「ああ、これは自分がモーセに反対して息子たちを無割礼にしておいたせいだわ」と気づいたのです。気づいたからこそ、彼女は急いで火打石をとって子どもたちに割礼をほどこしたのです。自分が夫モーセに反対して子どもたちに割礼を授けなかったことのせいで、主がモーセを打ったのだと彼女は啓示されたのか、自ら悟ったのか、いずれにしても原因はその問題だとわかりました。そこで、彼女は急いで子どもたちに割礼をほどこし、それをモーセの足につけるとすぐにモーセは元気になりました。

 モーセはこれからイスラエルの民の指導者として立たねばなりません。指導者として立つ者が、自分の妻や子供たちについて、神のみこころを行なっていないでは指導することができません。新約聖書も監督(牧師)の資格について次のようの述べています。

 3:2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、

 3:3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、

 3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

 3:5 ──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──(1テモテ3:2-5)

 

3.アロンが来る

4:27-31

 モーセはまだ荒野にいます。他方、主はエジプトに住んでいるモーセの兄アロンに告げられました。「荒野に行って、モーセに会え。」アロンはその命令にしたがって、神の山ホレブまで歩き、そこでモーセに会いました。おそらくこの間音信不通というのではなく、時々は、連絡をとっていたのだろうという思われます。

 ですが、いずれにせよアロンがこのタイミングでやって来たので、モーセはたいへん励ましを受けたでしょう。主は、先におっしゃったとおりに、自分だけでなく兄アロンにも語ってくださって、ともに主のために働くことになるのだと確かめることができたからです。出エジプト記 4:27、28

 それから、主はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。

 モーセは主が彼に命じたすべてをアロンに告げ、アロンはモーセの代弁者となることを話しました。こうして二人はエジプトのイスラエルの所に出かけて行きます。

 

 エジプトのゴシェンの地に到着すると、アロンは民の長老たちを集めました。そして、モーセにそしてアロンにアブラハム、イサク、ヤコブの神、主が現われた顛末、そして、主が彼らを指導者として出エジプトを成そうとしていらっしゃることを告げたのです。スポークスマンであるアロンのことばに、長老たちはなるほどと説得されました。もう何年間もあっていない、若者たちはほとんど知らないモーセが直接彼らに語っても説得力がなかったでしょう。

 そして、長老たちは民を集合させました。モーセは、民の前で主がお与えになった、あの神の杖のしるしを行ない、メッセージをつげたのです。

 するとイスラエルの民は、400年前先祖アブラハムにご自分を現してくださった主が、私たちの苦しみを顧みてくださったのだと感激し、礼拝をしたのでした。イスラエルの民はエジプトに長らく住み着いているうちに、万物の主であられる神を見失っていたというのが実際であったと思われます。けれども、人間が不真実でも主はご真実です。主はアブラハムへの契約のゆえに、イスラエルを覚えていてくださったのです。

出エジプト記 4:28-31

それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

 

結び

 こうして、いよいよエジプトのパロとの対決が始まります。

 本日の箇所からいくつかのことを学びましたが、最後に一点だけもう一度。

 イスラエルの指導者として立とうとするモーセは、まず自分の家庭を霊的に指導できるようになることが求められたということです。これは牧師として私自身がわきまえるべきことです。幸いに、神様のあわれみによって、私の妻は私の霊的指導に従ってくれる妻です。そして、子どもたちはみな洗礼を受けていますが、神を畏れる生活をし続けて行けるように、日々祈っています。みなさんにも、私と家族のためにお祈りいただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖徒たちの名

ロー16:1-16          

 

2019年2月24日 苫小牧主日朝礼拝

 16:1 ケンクレヤにある教会の執事(2017奉仕者)で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。

 16:2 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人(支援者、パトロンです。

  16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

 16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 16:5 またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

 16:6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。

 16:7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。 16:8 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。

 16:9 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。 16:10 キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。 16:11 私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。 16:12 主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。

 16:13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。

 16:14 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。

 16:15 フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。

 16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。

 

                                 

 使徒の手紙はいよいよ最後のあいさつに入ります。パウロは多くの手紙で、その最後に多くの兄弟姉妹の名前をあげて、あいさつをします。その人物群のなかから数名取りあげて、みことばを味わいたい。

 

1.支援者、女執事フィベ

 

 まず、1節と2節のフィベです。パウロの手紙をはるばるローマまで届けに行ったのはご婦人でありました。そして、この婦人はケンクレヤというマケドニア半島はコリントの隣町の教会の執事をしていたのです。フィベは多くの人を助け、またパウロをも助けた人であると紹介されています。2節後半は、新改訳2017では「彼女は、多くの人の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。」と訳されています。支援者ということばのもとのことばはプロスタティスで、英語ではパトロンです。つまり、フィベはパウロや他の伝道者たちの働きを経済的に支援する働きをした人でした。資産があったことと行動力から見ると、ちょうどピリピの町の最初の回心者であった、あの紫布の商人ルデヤのような女性実業家だったようです。

 初代の教会においても、主キリストのしもべとしての女性の奉仕はよく用いられたことだということが、ここにもうかがえます。御在世当時の主イエスの伝道生涯においても、女性信者たちのサポートがありました。ルカ8:1ー3に少しそのことが書かれています。

8:1 その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。

 8:2 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、

 8:3 自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。

 

 彼女たちは経済的にも主と弟子たちの働きを陰ながら支えたのです。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。」(ルカ6:20、21)とか、「金持ちが神の国に入るよりらくだが針の穴を通る方がやさしい」と主イエスは富に警戒すべきことを教えられましたが、回心して主イエスに仕えるようになった人々で富に恵まれた聖徒たちは、富に支配されずに、かえってこれを活用して、主イエスパウロをはじめとする伝道者たちの支援をして神の国の前進に役立ったのでした。

 使徒の働きにも、女性たちの名前が出てきます。フィベ以外では、ヨッパのタビタ。タビタ別名ドルカス(かもしか)は資産家ではないのですが、縫い物をする賜物があったので多くの聖徒たちを慰めたとあります(9章36-43節)。彼女が死んでしまったときに、やもめたちはみんな手に手に,タビタにつくってもらった上着や下着を見せて泣いていたとあります。そして、主はペテロを用いてこの老婦人が死んだときに、あまりに悲しむ人々が多かったので、この人にいのちをお返しになったとあります。

 このように、初代教会以来、主イエスを信じ恐れる女性たちが、それぞれの賜物を用いて主のお役に立って来たことがわかります。今日でも教会において女性の奉仕はたいへん重要なのです。

 フィベのような女性たちはどのような態度で主のお役にたったのでしょうか。2節の第二の文のなかに「この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」とあります。フィベは、「助ける」支援するという賜物を神様から授かっていた人でした。助けるという賜物とはどういうことでしょう。教会においてリーダーシップをとる賜物の人がいて、それを陰ながら祈りつつ、つつましく、しかし、しっかりと責任を持って支える。これがフィベの奉仕の姿でした。「女性執事」という務め自体が、「奉仕者」としての務めでした。教会においてリーダーシップを取るのは長老であり、これは男性が責任をもって行うことになっていました。これをしっかりと補助し支えるのが執事たちの務めでした。執事には男性、女性の両方がいました。

 そもそも、神様が最初に女性をお造りになった時、彼女を「ふさわしい助け手」としてお造りになったと記されています。その与えられた女性としての賜物を、喜びを持って活用していたのが、フィベなど初代教会の女性の執事たちであったわけです。

 今日の教会もフィベのように、陰ながら、祈り深く、しっかりと「助ける」働きをする女性の奉仕者を必要としているのです。

 

2.同労者、プリスカとアクラ

 

 次に使徒パウロが挙げる名は、「プリスカとアクラ」です。

 16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。 16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 彼らは使徒時代における最も著名なクリスチャン夫婦でしょう。プリスキラというのも同じ人です。『使徒の働き』ではルカは「プリスキラ」と呼んでいます。プリスカが正式な呼び名で、プリスキラというのは愛称です。たとえば「幸子さん」というのと「さっちゃん」というちがいのようなものです。

 この夫婦はもとローマに過ごしていましたが、クラウデオ皇帝が49年にユダヤ人のローマ退去を命令したことで、コリントに来ていました。この時に、コリントに伝道に来ていた使徒パウロと出会ったのです。使徒18:1-3

 18:1 その後、パウロアテネを去って、コリントへ行った。

 18:2 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、

 18:3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

 

 アクラとプリスカは、パウロと同じくテント造りを職業にしていましたので一緒に働きました。当時ユダヤ教のラビは、いつでもどんなところでも伝道できるために、ラビの修業をすると同時に手に職をつけることになっていました。パウロはサウロと呼ばれた時代もともとラビとなる訓練を受けていたので、パウロはテント造りを自分の手の職としてのです。アクラとプリスカとはパウロ先生がなるべく伝道に専念できるようにと、祈りにおいても経済的にも支えたわけです。

 けれども、このすぐ後の記事に出てくるように、コリントの町での伝道においてはひどい迫害があり、パウロに協力した会堂司ソステネは法廷に訴えられてむち打ちに刑になっています(使徒18:17)。その木が常緑樹であるか落葉樹であるかは、夏の間はわかりませんが、厳しい冬が訪れるとおのずとあきらかになるものです。迫害のとき、プリスカとアクラ夫妻は常緑樹であることを示しました。こんな時にもプリスカとアクラは使徒パウロを、自分たちのいのちを賭けて助けたのです。その後、二人はパウロの伝道旅行に同行してエペソに行き、パウロを助けています。その後、二人はローマに最終的に戻りました。それで、今ローマ教会への手紙のなかでその名を呼ばれているのです。

 このようなわけで使徒パウロプリスカ、アクラ夫妻について「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えて下さい。この人たちは、自分のいのちの危険を犯して私のいのちを守ってくれたのです。」と言っています。

 初代教会の宣教師パウロの働きを支えたのは、「同労者」と呼びうる信徒夫婦だったのでした。その経済ばかりか、そのいのちまでもかけて伝道者を支えたプリスカとアクラの夫婦。その名前は、神の国のいのちの書に、栄誉ある名として記念されているのです。今日にあっても、キリストの教会には、福音の働きにはプリスカとアクラがぜひとも必要なのです。あなたも、主キリストにいのちをささげて、プリスカに、アクラになっていただけないでしょうか。「夫がまだ・・・」という方は、「後悔することなく主にご奉仕するためです。どうぞ、私の夫も救って下さい。」と真心込めてお祈りしてごらんなさい。主はお答になります。

 

3.主にあって選ばれた人ルポス

 

 多くの名が挙げられていますが、あと一人だけ取りあげておきます。13節。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」パウロにとってルポスは兄弟のような親しい関係にあって、ルポスの母親を「私の母」と呼んでいるのです。ルポスとはだれでしょうか。マルコ15:21を開いて下さい。

「そこで、アレクサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」

 主イエスがドロローサの道を歩んでいかれる時、主の代わりに無理やりに十字架を背負わされたクレネ人のお上りさんがいました。エルサレム詣でにやって来たシモンでした。シモンにとっては、それは無理やり背負わされた十字架でした。最初はいやいや背負ったにすぎませんでした。

 しかし、その後、シモンは主イエスを信じるようになり、その妻もその息子たちアレクサンデルとルポスもクリスチャンとなってのでした。ルポスはその名をパウロに挙げられているように、初代教会において責任ある立場を持つ人となっていたようです。

 「主にあって選ばれた人ルポス」とあります。パウロは「君のおやじさんは、一方的に神様に選ばれてイエス様の十字架を背負ってドロローサの道を上った人だ。人類のなかでたった一人、主の十字架をかつぐという栄誉にあずかった人だ。そして、その息子の君もまた、主に選ばれた人だ。」といいたいのでしょう。

 重い十字架。「なぜ、わたしだけがこんな苦しい目に合うために選ばれたのか?」と思うような奉仕。しかし、それは「主にあって選ばれた」ということなのです。それを担って、イエス様の後について行く時、その選びは栄誉あるものと変えられるのです。  

                                                                               

 結び

 よき支援者フィベ。いのちがけの同労者プリスカとアクラの夫婦。主にあって選ばれた人ルポス。いずれの聖徒たちも、私たちの主にある兄弟姉妹です。私たちも主のいのちの書に栄誉ある名をしるされている者としてふさわしく、この町にあって、主と教会に奉仕をしたいものです。                                                                 

 

 

奉仕への召しと備え

Ex4。1-17

 

 

 荒野で羊を数十年間飼う生活をして、すでに80歳を迎えていたモーセでしたが、心身共に強壮ではありました。この日もミデヤンの荒野を草を求めて羊を追ってきたところで、主とお会いしたのでした。燃えても燃え尽きない柴の木に主は臨在を表されて、モーセイスラエルのエジプト脱出のリーダーとしてお召しになったのでした。主は「わたしはある」という名を表し、さらに今後の計画を明らかにされました。

 けれども、これほどはっきりとした召しを受けながら、なおモーセは躊躇していました。かつての若い日であれば、肉の自信まんまんに「わたしがイスラエルを救います」と言えたはずのモーセでしたが、今は、そんな自信はひとかけらもなくなってしまっています。4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」

そんなモーセを神様は奉仕へと召しだしたまうのです。どんな方法によってでしょうか。それが本日のみことばです。

 

1 「あなたの手にあるものは」vv1-

 

 主は「あなたの手にあるそれはなにか?」と問われました。彼は「杖です」と答えます。「ただの杖です。こんなものが、エジプトの権力者ファラオに対して、いったい何の役に立ちますか?」という気持ちです。モーセが持っていた杖はお爺さんだから持っていたのではなく、羊飼いの必須アイテムの杖です。

 羊飼いの杖一本で、何万という軍団を要するエジプト王に対抗するのは、竹やりでB29を相手に戦うようなものです。しかし、人間の目にはつまらないものであっても、神様が目を留め、神様が命じたまうままに用いるならば、これが証しの道具となることを、この御言葉は教えます。 

4:2 【主】は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

 4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

 4:4 【主】はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。

 4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。

 

 杖はモーセがもともと持っていたものです。ただの羊飼いの杖です。が、こんなものは何の役にも立たないと思っていたものですが、神がこれを選び用いなさるならば、すばらしい働きができるのです。私の恩師の朝岡茂牧師は戦前にピョンヤンで生まれ、戦後、すべてを失って帰国されましたが、中学生の時に結核を発病しました。当時、不治の病とされたのです。それから十数年間の闘病生活の末、朝岡先生はイエス様を信じて洗礼を受けました。救われた喜びで、「これからの残された人生、自分のために生きたのでは、申し訳ない。」と思い、自分の人生をイエス様におささげしたいと表明しました。けれども、そのとき、すでに片肺を失っていた朝岡先生は、自分には説教者、牧師となることは無理だと思っていました。けれども、先生は癒され強められ、私などよりもはるかに大きな声の出る説教者として大活躍なさったのです。

 自分など役に立たないと独り決めしてはなりません。主がお用いになるとき、役に立つのです。

 

2 ツァラアトのしるし、ナイル川の水を血にというしるし

 さらに主はモーセに「手をふところに入れよ」とおっしゃいました。するとその手はツァラアトに冒され雪のように白くなり、また、懐に入れるともとに戻りました。

4:6 【主】はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。

 4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。

 

ツァラアトは当時、非常に恐れられていた病です。ツァラアトのもっとも重症の場合は、雪のように白くなり、治癒不可能なのだそうです(エリコット)。神さまはモーセの手を、そういう最も重症のツァラアトにたちどころにし、たちどころに癒して見せたのです。これは驚異でした。神は生殺与奪の権を持つお方であるあかしです。

 

 さらにもう一つのしるしを主はモーセに与えました。 

4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」

 ナイル川の水を血にするということは、何を意味するのか?ナイル川は世界最長の川です。遥か遠くアフリカ大陸の熱帯雨林から滋養分をたっぷりに含んだ水を集めて砂漠の国エジプトを潤し、大地を肥沃にし、そして大西洋にそそぐのです。歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」といったように、ナイル川あってこそのエジプトです。ナイル川がなければ、エジプト文明というものは成立不可能でした。エジプト人は、ですからナイル川を神としてあがめていました。けれども、そのナイルの水をもまことの神は支配するお方であるというしるしです。主なる神の圧倒的主権を表現します

 「わたしはある」という神が、私たちの生殺与奪の権と、ナイルの神をも支配するお方であることをこれらの印は意味しました。私たちを神様がお召しになるとき、戸惑うことがある。しかし、神様はすでにその使命達成のために必要なものを、能力を備えていてくださるということです。

 

3 同労者を備えてくださる

 このように印を用意されてもモーセは躊躇します。それは、彼が口下手だったことです。 

もう一つ、10節

4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 四十年ほど前、エジプトにおいて最高の学問を授けられたモーセは雄弁でした。古代社会において、雄弁術というのは政治を行う上で最も重要な素養でした。けれども、数十年、荒野で羊たちだけを相手に過ごす生活をして、モーセは今や口が重くなっていました。無理もないことです。私は大学受験浪人をしたとき図書館で受験勉強をしましたが、朝9時に入館するとき「おはようございます」といって、晩6時に帰宅するときに「さようなら」という以外一言も口を開かないでいると、実際、舌が回らなくなることを経験しました。まして、モーセは荒野で四十年です。羊相手なら話はできても、人間相手には話はできないと彼は感じました。まして、相手は最高権力者パロです。

 しかし、躊躇するモーセに主はおっしゃいました。

 4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。

 4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 しかしなおもモーセはしり込みしました。自分は到底、そんな召しにお答えすることはできません。もっとふさわしい人がいる、と。

 4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

 

  すると、主は怒りながら、アロンをスポークスマンつまり代弁者として用意するとおっしゃいました。

4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

 4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。

 4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

 4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

 

 このたびは神様はモーセに雄弁な口を授けるのではなく、雄弁な助力者としてアロンをお与えになったのでした。

  私たちはここから何を学び取るべきでしょうか?私たちは、神様のために召されたとき、全部自分で背負い込んでしまう必要はない。なんでも自分でできなければならないと考える必要はない。自分ができないならば、神様にそうしたまものを持っている人を与えてくださいと祈ればよいのです。神さまは必要な人をちゃんと備えてくださいます。

 

 

素晴らしいイエス様

ルカ8:40-56

 

1 会堂司ヤイロと娘

 

ルカ 8:41-42

 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。

 彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。

 会堂管理者ヤイロとあります。神政政治が行なわれていた当時のユダヤ社会では、会堂管理者といえば町の名士でした。社会的に地位と敬虔で立派な人だという名誉を持っていましたし、雇い人たちが大勢いる屋敷の様子を見ても、経済的にも豊かだったのだろうと想像がつきます。

ヤイロは父親として、娘が今日、十二歳を迎えるまで蝶よ花よと育てられました。ヤイロは、わが娘には経済的な面だけでなく、道徳的にも宗教的にも一流のものを身に付けさせてやろうと思っていたはずです。そして今は12歳。12歳というのは、ユダヤ社会では特別な意味がありました。神殿礼拝が許される年齢が12歳だったのです。つまり、12歳というのは、宗教的な意味で一人前になったと見なされる年なのでした。ここまで立派に育ってきた愛娘は、ヤイロにとっては目に入れても痛くない宝だったのです。

ところが、十二歳のある日突然、この娘は急病に冒され、生と死の間をさまようことになります。けれども、今、娘が病に冒され死が間近に迫ったとき、父ヤイロは、自分は娘に何もしてやることができないという現実にはじめて直面したのです。娘のためならば、自分のいのちでもくれてやってもと思うのが親心ですが、何もしてやれないのです。会堂管理人としての宗教的・道徳的生活の誇りも、名誉も、お金も、娘に迫り来る死に対しては、まるで無力でした。ヤイロはプライドを打ち砕かれて、イエス様のもとに来たのです。そして若い青年イエス様の前にひれ伏しました。

 

 

2.長血の女

(1)イエスにさわること:女の信仰

ルカ 8:43-44

 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも治してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。

 ヤイロの話を聞いて、イエス様は彼の家に向かいます。ところが、簡単には前に進めません。この頃にはイエス様の名前はガリラヤ地方ばかりかユダヤ地方にまで鳴り響いていましたし、しばらく舟でゲラサ地方に行ってしまったあと、お帰りになったばかりですから、癒しを受けたい人、話を聞きたい人、ただの野次馬たちが殺到していました。道を歩いてヤイロの家に行くこともたいへんです。「群衆がみもとに押し迫ってきた」とあります。

 そうした群衆の中に青白い頬をして、ショールを頭からまとったひとりの女がいました。彼女は「十二年の間長血をわずらっていた」と書かれています。ヤイロの娘が12歳であったことと不思議に符合しています。長血という病は婦人病の一種で、月のものの血がずっと止まらないという病気でした。旧約聖書には「血はいのちである」ということばがありますから、彼女は、出血するたびに、毎日少しずつ迫ってくる死の影に脅えていました。毎日、疼くような痛みにたえ、体調不良の中で彼女はすごしてきたのです。

 しかも、当時の社会では、このような血が流れる婦人病は宗教的に汚れているとされ、人々の中には出てきてはならない、さわってはいけないとされていました。ですから、彼女は社会からも排斥されてひとりぼっちだったのです。

 ところが、疼痛とひたひたと近づく死の恐怖と孤独の中にいたとき、彼女は主イエスの噂を耳にしました。遠くからイエス様の話を聞いたこともあったのではないかと思います。ですから、彼女はイエス様のお着物のふさにでも触ることができたら、きっと直ると信じたのです。そして、彼女はその信仰を実行にうつしたのです。

 女は、からだに異変を感じました。絶えずうずくような痛みに悩まされていたのに、その痛みが去りました。いつも貧血でフラフラしていたのに、今はからだの内側から力が湧いてくるようです。癒されたのです。彼女は「イエス様は救い主であり、全能者でいらっしゃるから、イエス様にふれれば必ず直る」と信じました。そして、事実、信じたとおりになったのです。

 

 するとイエス様は立ち止まられました。そして、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。」(ルカ 8:45)のです。ペテロは当惑して言います。「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」つまり、おおぜいの群衆が押し迫って、みんなイエス様にさわりまくっているのです。まるでお相撲さんが花道を行くときに、ファンがその体に触れるみたいに、みんなイエス様にさわればいいことあるとか思ってさわりまくっているのです。それなのに、「誰がわたしにさわった」なんておっしゃっても、そりゃ無茶な質問ですよとペテロは言ったのです。けれどもイエス様は、なおおっしゃいます。だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」(ルカ 8:46)。

 イエス様が「だれかがわたしにさわった」とおっしゃるのは、ただ単に物理的にイエス様にさわったという意味ではなさそうです。たしかに物理的には、何十人と言う人々があるいはもっと多くの人々がイエス様のからだを触りました。けれども、彼らはさわっているようで実は、本当の意味ではイエス様にさわっていなかったのです。イエス様を本当の意味でさわったのはたった一人でした。エス様のからだから神様の力を引き出すような触り方をした人はたった一人でした。あの長血の女だけが、信仰をもってイエス様にさわったのです

ですから、イエス様は、(ルカ 8:48)「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」とおっしゃったのです。

 

 エス様にお会いする、イエス様をさわるということはどういうことなのか?私たちは本当の意味でイエス様をさわっているのか?」と、私たちはこの出来事から、考えさせられます。多くの人はイエス様のファンであるかもしれない。イエスの伝記を読むかもしれない。福音書を読むでしょう。そのようにして、イエス様にふれるということをしているかもしれません。けれども、あなたはイエス様のおからだから力が引き出されるような触り方をしているでしょうか?そこが問われているのです。

「娘よ。あなたの信仰があなたを治したのです。」イエス様は、こうおっしゃるのです。たしかに私たちもクリスチャンとして、礼拝の生活をしています。洗礼も受けました。では、私たちは、ほんとうにイエス様を具体的生活のなかで、イエス様のからだから流れてくる「力」を経験しているでしょうか?それは信仰をもってイエス様にふれているかどうかということなのです。あなたは、あの長血の女のように、本気でイエス様を信じてイエス様に触れているでしょうか?

 

(2)社会的にもいやす 

 『誰がさわりましたか?』『だれかイエス様にさわしましたが?」と弟子たちがみんなに問い掛けると、女は震えながら前に出てきました。

ルカ 8:47

 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した

 どうしてイエス様は、わざわざこの女の人を前に出させたのでしょう。ご自分がなさった奇跡をみんなの前に明らかにするためでしょうか?そうではありません。イエス様はしばしばご自分が行なわれた癒しの奇跡があまり知れ渡ることを望まれないこともあるのです。では、なぜこの場合はわざわざ彼女を公衆の前に引き出すようなことをなさったのでしょうか。それはイエス様の必要のためではなく、彼女の必要のためでした。

 彼女は長血という病気に罹ってから、社会的には孤立した立場にありました。みんなに触れてはいけないとされていたのです。でも、今、確かにその病は癒され、きよめられたということが明らかにされました。これから、彼女は誰はばかることなく、社会の中に生活することができるようになるのです。イエス様は、彼女の肉体を癒してくださっただけではなく、社会的にも癒してくださったのでした。

社会的に癒されたというのは、単にこの町の人々に彼女の癒しが知れ渡ったということだけではありません。そうではなく、彼女自身のびくびくと縮こまっていた心が社会に向かって開かれたということです。彼女は、十二年間、人前に出ることをはばかって生活をして来ましたが、このときみんなの前で自分の身に起こってきたこと、つらかったこと、悲しかったこと、そして、このたびの癒しの御わざを話して、新しい人生の出発をすることが出来たのでした。

 

3 恐れないで、ただ信じていなさい

 

 さて、長血の女が十二年間の身の上話をしているとき、会堂管理者ヤイロはイエス様の傍らでイライラしていました。『先生早く、そんな女にかかわっていないで、私の娘のところに来てください。』という気持ちだったにちがいありません。「女はもう用は済んだではありませんか。早く行きましょう。」という気持ちだったでしょう。

でも、イエス様は長血の女が話す12年分の身の上話にじっと耳を傾けていらっしゃいます。地位も名誉もお金もある会堂管理者の娘であろうと、社会からはけがらわしいとして打ち捨てられた長血の女であろうと、イエス様にとっては同じです。

 そうしているうちに、管理者の家から使いの者が息せき切って走ってきて言いました。「ご主人様、お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」(8:49)

ヤイロはその場にへたり込んでしまいます。イエス様はおっしゃいました。恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」(8:50)

 使いの者は、『お嬢様は危篤です』といったのではありません。『死んだ』と言ったのです。それなのに、なおも「恐れないで、ただ信じなさい」とおっしゃるのです。「死は人類最後の敵」であるとも「死は恐怖の大王」であるとも言われます。どんな財力を持つ人も、権力をほしいままにした帝王も、死には決して打ち勝つことはできませんでした。死は人類最後の敵なのです。恐怖の大王なのです。

 実際、ヤイロの屋敷に着いてみると、そこはもう葬式の備えが始まっていました。人々は主人ヤイロの娘の死を嘆いているのです。死を前にしては、誰もが無力感をいだいていました。イエス様は、「死んだのではない。眠っているのです。」つまり、わたしが神の力をもって娘をもう一度目醒めさせようとおっしゃるのです。けれども、人々はイエスをあざ笑ったとまで書かれています。「すでに息が絶えて、心臓の鼓動が止まって、体はつめたくなり、死後硬直も始まっています。何が眠っているだ?」と嘲笑ったのです。死に対しては、たとえイエスでもなんにも出来るわけが無いと思っているからです。

 まことに人間に対して、死は絶対的な力を持っているようです。死は恐怖の大王です。最後の敵です。

 ルカ 8:52-53

 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」

 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。

 けれども、イエス様は死に勝利なさったただひとりのお方です「死など恐れるな。死者もわたしにとっては、眠っているも同然だ。」とおっしゃる方がここにいるのです。ご自分の死によって死を滅ぼしてしまわれたイエス・キリストです。

 死は、アダム以来人間の罪に対する呪いとして入ってきたものです。しかし、イエス様はあの十字架の上でその人類の罪に対する呪いとしての死を死んでしまわれました。ご自分の上に永遠の呪いを引き受けることで、私たちを呪いとしての死から解放してくださったのです。イエス様は、死んでいる12歳の娘に向かって命令なさいます。「子どもよ。起きなさい。」(8:54)「すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」のです。

 涙に暮れていた父親ヤイロも母親も、そして同室を許された三人の弟子も驚愕したにちがいありません。これは病の癒しではないのです。死者のよみがえりです。

 

 でも、私はそれに続くイエス様のおことばを読むときに、つくづくイエス様はすばらしいなあと感動するのです。「それでエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」(56-57節)

 私なら「どうです。先ほど笑った人たち、わたしの力がわかりましたか。」とでも言いたくなりそうなところです。でもイエス様は、ひとこと「この子、おなかがすいているでしょう。なにか娘に食べ物をあげなさい。」とおっしゃったのです。いったい、神さま以外に、だれがこんなことを言えるでしょうか!じ~んと来ます。イエス様はほんとうに素晴らしいお方です。神の御子です。

 

結び

 自分の無力を悟って打ち砕かれて、イエス様の前にひれ伏したヤイロの信仰。また、絶望のなかからイエス様に触れてイエス様のおからだから力を引き出した長血の女の信仰。私たちは前半でこういうことを学びました。

 そして、わたしたちのイエス様は、まことに信頼すべき神です。身分や地位で分け隔てをなさらないイエス様、死の中からいのちを呼び出す権威を持つイエス様は、おなかのすいた子どもにも、やさしいあわれみをかけてくださる神なのです。このイエス様を信じずして誰を信じるべきでしょうか。

 

神のご計画とその実現

Ex3:15-22

2019年2月10日 苫小牧夕礼拝

 

3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。

  あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。

  これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。

  あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。

 3:17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』

 3:18 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、【主】が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、【主】にいけにえをささげさせてください』と言え。

 3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。

 3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。

 3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。

 3:22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」

 

 

1 約束のものを手に入れるために

 

 神様はモーセに対する使命をここできちんと話されます。16、17節。

 3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。

  あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。

 3:17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』

  次に、エジプトの王パロのもとに行って告げるべきメッセージを話されます。18節。

3:18 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、【主】が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、【主】にいけにえをささげさせてください』と言え。

 それだけではなく、エジプトの王との交渉が難航すること、パロが心をかたくなにすること、しかし、それにもかかわらず神様がその力強い御手をもってエジプトを打ち、彼らはついにエジプトを去ることができるという見通しというか、約束をモーセにお与えになるのです。

 3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。

 3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。

  このあと、主のお言葉通りにモーセがしたがい、パロとの交渉が始まりますが、途中で何度もモーセは挫折しそうになったり、イスラエル人たちが不平を言ったりしますが、結局は,神様のおことばどおりにことは成っていくわけです。

 へブル書10:36「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは、(       )です。」というみことばがあります。(      )にはどういう言葉がはいるでしょうか?・・・・・・・答えは忍耐です。

 神様は約束をくださる。その約束に到達するためには、神のみこころを行なわなければなりません。その向こうに約束の成就があります。そこに到達するまでに、さまざまな試練があるでしょう。挫折もあるかもしれない。しかし、約束のものを手に入れるまでには、忍耐が必要です。

 私は1958年生まれなのですが、この年、世界的な発明がなされました。それはチキンラーメンです。世界初の即席ラーメンです。お湯をかけ2分待てば、ラーメンが食べられるのです。これを発明した安藤百福さんは本当に偉い、忍耐の人ですが、チキンラーメンは現代の人間中心の急ぎ足の文明の象徴のように思えます。機械文明は人間の都合、会社の都合にしたがって、ベルトコンベアを早回しすることによって、待たないですむようになっています。

 けれども、いのちあるものの成長に必須なのは忍耐ではないでしょうか。野菜やお米を作ればわかることです。子供を育てればわかることです。そこには、なすべきことをなし、時を忍耐、待つことが必要です。おぎゃあと生まれてお湯をかけて2分待ったら成人式というわけには決して行きません。

 同様に、忍耐ということ。待つということは、神様が私たちの神のしもべ、神の子どもとしてのいのちが成長のために必須であるということを聖書は教えているのではないでしょうか。私たちの霊的な成長のためにも、忍耐が必要です。

 

2 文化と福音

 

 21節、22節に興味深いことが書かれています。本日の二つ目のメッセージです。

3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。

 3:22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」

  パロはイスラエルの民を迫害します。しかし、エジプトの民は彼らに好意を持つようになります。そうして、はなむけとしていろいろな飾りをくれるのです。出エジプト11:2,3

 この飾りは何に用いられるのでしょうか。まず、彼らはモーセが山に登っている間に不安になって、これでアロンに金の子牛の像を作らせてこれを拝んでたいへん大きな罪を犯しました。出るエジプト32:1-4

しかし、その後,神様の怒りを受けたあと、許されて,今度は神様の幕屋の調度品を造るためにみんな溶かしての材料とされたのです。35:20-21

 

 このことは私たちに文化についてたいせつなことを教えています。私たちは異教の文化のなかに生きています。その文化をむげに否定してしまうことはない。けれども、それをもとの形のまま安易に受け容れて妥協すると異教化してしまって、金の子牛事件のように偶像崇拝の罪に陥る。混合宗教、シンクレティズムです。

 そうではなく、それらをとり入れ、完全に溶かしてしまって、キリストの福音の鋳型に流し込み、神様の御心にかなう文化を作り上げるということがもう一つの道です。恐らくクリスマスは、そうした成功例でしょう。イエス様の誕生の時、羊飼いたちが荒野で羊を飼っていました。それはおそらく5月か6月であったことを意味しています。では、教会はキリスト降誕の記念を12月25日としています。それはヨーロッパ世界に福音が広がっていったときに、ケルト人やゲルマン人が行っていた冬至の祭りを換骨奪胎したものだと言われています。暗く長い夜が、この日を境に短くなり、日の光が日々強くなっていくことと、暗闇のこの世にいのち光、義の太陽であるキリストが来られたことを重ねて、当時の祭りに伴っていた異教的習俗をすっかり中身を取り去ってしまって、キリストの祭りとしたのでした。

 すでに行われている日本の教会の実践例は、1月1日の元旦礼拝、11月の子ども祝福式でしょう。ほかにも可能性があることでしょう。