水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ラケルの死、イサクの死

創世記35:16-29   

2017年3月19日 苫小牧夕拝

 

 ここには二人の親の死が記されています。ヨセフとベニヤミンの母ラケルの死と、エサウとヤコブの父イサクの死です。それぞれに親として子を思う情愛を痛切に感じさせる場面です。

 

1.ラケルの死――ベン・オニでなくベニヤミン

 

 ラケルという女性の最期を記す個所ですから、彼女の生涯を振り返って見ましょう。一言でいえばラケルは、たいへん女性らしい女性でした。ラケルはその魅力も、その短所も女性らしい女性でした。ヤコブは、そのラケルの女らしさに惹かれたのでしょう。

 ラケルの信仰という面についていえば、特筆されるような素晴らしいことは、はっきり言ってほとんど見えません。彼女はもちろん真の神を知り信じていましたが、残念ながらその信仰にはパダン・アラムの地の迷信的な部分も含まれていたようです。彼女はヤコブとともにカナンに向かう時、父親のテラフィムをくすねてきたとあります。決して誉められたことではありません。

 ラケルはヤコブとパダン・アラムの井戸で出会いました。そして、ヤコブは一目惚れして接吻し、ラケルもヤコブに好意を抱くようになりました。相思相愛の二人は七年後、結婚するのですが、こまったことに父の策略にはめられて姉レアもいっしょに結婚することになってしまいました。ラケルはヤコブに愛されましたが、それでも姉レアを激しく嫉妬しました。姉レアがヤコブの子どもを次々に生んだからです。それでラケルは結婚した当初から、ひたすらヤコブのために子どもを生むことを切実に願い、そのために涙を流したり、怒ったり、そしてついには命まで差し出したのでした。

 ラケルは夫ヤコブに愛されていることだけで満足できず、子を得ることでも姉レアに勝ちたいと願いましたが、不幸なことに、どうもラケルは多くの子どもを生めるほど丈夫な体質ではなかったようです。おそらく多産な姉レアは体格もがっしりとして牝牛を思わせるようなタイプで、ラケルはその名が雌羊を意味するように体格はきゃしゃだったのでしょう。

 そんなラケルでしたが、おそらく結婚後十数年もたって、ついに一人の男の子ヨセフを得ました。30:22‐24。どれほどの喜びだったことでしょう。ヨセフという名は「加える(アサフ)」という意味の名前で、「神様がもう一人の子を加えてくださるように」というラケルの願いがこめられた名前でした。つまり、ヨセフだけでなく、もう一人生まれますようにということです。

 そして、願いどおりに、さらに数年後、もう一人の子がラケルのおなかに宿りました。一族がヤコブの故郷に帰り着いて間もない頃のことでした。ラケルはもちろん喜んだでしょう。けれども、生来それほどからだの丈夫でなかったラケルのからだには、高齢出産はたいへんこたえました。しかも、ヤコブの一家は半分は遊牧の生活ですから、水場、草地をもとめてしばしば移動をしなければならないのが宿命でした。身重なラケルにとっては、それがたいへんだったようです。

 ベテルを旅立ち、エフラテに行く道の途中で激しい陣痛がラケルを襲いました。ヤコブは大慌てで仮の産屋を作り、出産となったわけです。産屋から何時間も何時間も聞こえ続けるラケルの苦しみの叫びがしても、男親であるヤコブがなすすべもなく、産屋の前を右に左にうろうろし、座り込んでは頭を抱えているありさまが目に浮かぶようです。

 たいへんな難産でした。長い長い時間がかかって、ようやく赤ん坊が出てきてオギャアと声を上げました。男の子でした。「心配なさるな。今度も男の子です。」と産婆さんが息も絶え絶えの母ラケルに声をかけました。

 赤ちゃんは生まれたけれど、ラケルのいのちが危ないことに気づいた産婆はヤコブを呼びました。「ご主人様、奥様が、奥様が!」ヤコブは慌てて産屋に入ってきます。すると、意識の薄くなっていくラケルが「ベンオニ(わたしの苦しみの子)・・・」とつぶやいて、息を引き取ってしまったのです。恋女房の死にヤコブがどれほど嘆いたことか、想像に余りありますが、聖書は沈黙しています。行間からヤコブの号泣が聞こえてきそうです。沈黙が、その嘆きの大きさをまざまざと表現しています。

 ヤコブは、生まれたばかりの我が子を抱いてヤコブは「ベンオニ」と呼びかけようとして、「いや」とかぶりをふって言いました。「いや、ベニヤミン!」と。その意味は、「幸いの子、わが右手の子」。最愛の妻ラケルがそのいのちに代えて生み出した子であり、その苦しみも嘆きも尋常でなかったのです。さればこそ、この子は母の苦しみを幸いにかえて生きて欲しいという父の願いでした。

 

 このベツレヘムの母ラケルの嘆きはこんな三節だけにすぎませんが、後々まで伝えられて預言者エレミヤも用い、そして、2000年後、ベツレヘムヘロデ大王によって三歳以下の子どもが虐殺されてしまったときにも、このラケルの嘆きが引用されています。

「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声、ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」(マタイ2:18)

 ラケルという名は聖書では、わが子を思い、わが子のために苦しみ嘆く母のイメージなのでしょう。 「もう一人の子を加えてください」という祈りに主はお答えになったのであり、この子と引き換えにラケルのいのちは召し上げられたのでした。ラケルの生涯は、妻として夫に子を設けることをもって貫かれ、そのためにいのちまでも差し出すことをもって全うされたのでした。

 

 アダムとエバが堕落したとき、神は女性に向かって一つの呪いのことばをかけられました。「わたしはあなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子をうまなければならない。」このことばは、すべての母となろうとする女性にかけられているのですが、ラケルにおいては最も典型的にこの苦しみが経験されたのでした。

 ラケルはたいへん女性らしい女性であると申しました。それは必ずしも良い意味ではありませんでした。しかし、ラケルの女性らしさは、この死の瞬間の嘆きのなかで最も輝いたともいえます。我が子を地上に生み出すために、おのれの命さえも危険にさらし、あるいはあえて差し出すという女性のみがなしえる犠牲的愛ですラケルは女性としての弱さもたくさんもった女性でしたが、子のためにいのちを犠牲とするという母の愛の典型的な姿をもあらわしたのです。

  地上において最も神の愛に近い姿をしているのが、母の愛であるといわれます。子のためであれば、自分のいのちも進んで差し出すような愛。そこに、私たち罪人のためにいのちをお捨てになったキリストの愛に似たものがあるのです。ラケルの嘆きと死は、そういう意味ではキリストの十字架の受難の型でした。

 

2.イサクは「高齢のうちに、満ち足りて」死んだ(新共同訳)

 

 27-29節.イサクは180歳にして主のもとに召されました。29節のことばは、翻訳によってやや異なる。

新改訳では「イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿をまっとうして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」

口語訳では「イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」

新共同訳では「イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。」

 ここでは新共同訳を採りたい。「満ち足りて」と約されるサベーアということばは、満足させる、満ちたらせるということ。

 息子たちが仲たがいをしていたときには、イサクはたいそう心配したでしょう。自分の親としての至らなさが、こういう結果を生んだことを思えば、毎日毎日、慙愧の念にさいなまれたことでしょう。しかし、今や「イサクは満ち足りて死んだ」とあります。それは、二人の息子エサウとヤコブとが仲直りをし、二人で自分を見送ってくれるからです。イサクとリベカが何かをしたのではありません。彼ら夫婦は子育てについていろ失敗が多かったのです。しかし、ただ、神様がヤコブをこの地に連れ戻してくださり、ただ神様が二人を仲直りさせてくださったのです。神の恵みというほかありません。彼は神の恵みによって満ち足りていたのです。

 イサクとリベカ夫婦は、父は兄エサウをえこひいきし、母は弟ヤコブをえこひいきしました。そこに彼らの子育て、兄弟関係つくりには大きな過ちがありました。そのために息子たちが仲たがいをして、弟息子は家出同然になってしまったのです。しかし、こうした親の過ちにもかかわらず、神様は最後にこの二人の息子たちに和解を恵んでくださいました。もし二人が憎み合っているという状態のまま、イサクが世を去らねばならなかったとしたら、それはほんとうに残念なことだったでしょう。心残りだったでしょう。しかし、主がこの二人に和解を恵んでくださったので、これは父イサクにとって何よりの慰めでした。まさにイサクは満ち足りて死んだのです。

 

 親として世を去るときに、一番気がかりなのは子どもたちの行く末のことです。親孝行は人間にとって神がお与えになった義務です。親があなたのことが心配で死んでも死にきれぬようなことのないように生きることはたいせつなこと。特に親の心配の一つは、子どもたちが仲良く生きて欲しいということでしょう。親は自分が生きている間は、なんとか保たれている子どもたちであっても、自分が去った後にはどうなることかと心配で仕方ないというケースも少なくありません。

 小海で会堂を建ててくださった大工の棟梁とお話をしていたら、ご自分には二人の息子がいるけれども、弟は大工になるが、兄貴には大工は決してさせないと言われました。それは先代の家訓だそうです。兄弟が同業者となるならば、いずれ利害をめぐる醜い争いが起こりかねないからです。親はこんな風に配慮、心配をするものです。 事実、親の葬式のときに財産の相続争いを始める親不孝な子どもたちはいくらでもいます。

 「あなたの父母を敬え」と十戒の第五番目にありますが、その実践の一つは兄弟仲良くするということです。神を愛しているというならば、兄弟とけんかして親を悲しませてはいけません。キリストを信じているというならば、姉妹同士が陰口を言い合うようでは親の心はどれほど悲しむことでしょう。近くに住む兄弟もいるだろう、遠くに住む姉妹もいるかもしれない。もし恨まれるようなことが思い当たったら、先にクリスチャンになったあなたの方から和解することが義務です。これが神様から皆さんへの今週の宿題である。

 

結び

 幼い頃から仲の悪かった息子たちの数十年ぶりの和解をみて、心満ち足りて世を去ったイサクの幸いな最期。自分のいのちと引き換えに、我が子を生み出したラケルの壮絶な最期。一見すると、ずいぶん異なる二つの死の姿ですが、子を思う親の死の姿として尊いものだと思います。そして、いずれにもそこには父なる神が、子としてくださった私たちに対して注いでくださっている愛の姿の影がほのみえるのです。

 「愛は神から出ているのです。」とありますから、すべての愛は神の賜物なのです。もちろん人間の愛は、不完全で小さく罪のしみさえもこびりついているようなものにすぎませんが、それでも神の愛の影なのです。

 我が子のためにいのちを投げ出した母ラケルの愛は、神から注がれている愛の影を見るのです。私たちのために十字架にいのちを投げ出してくださった御子イエス様の愛を。

 不完全な父イサクは、我が子たちの仲たがいに晩年心痛め続け、ついに恩寵によって子たちの和解をみて満ち足りて世をさりました。子どもたちが互いに愛し合って生きることを切望する父なる神の愛を思わされます。

いきいきと生きる

ヨハネ福音書4:1-26

2017年3月 苫小牧伝道礼拝

序 

昨年まで私が暮らしていた信州は、日本一の長寿県でした。理由は、きれいな空気、労働、そしてきれいな水だろうといいます。アルプスの森に注いだ雨が地下にもぐって湧き出してくる豊かな水です。苫小牧も引っ越してきて、おいしい水だなと思いました。豊かな森に恵まれているからですね。人間のからだの6割から7割は水でできているそうですから、水は私たちにとって、必要不可欠です。朝、起き抜けに水を一杯飲むという習慣だけで健康を回復したなどという人もあるくらいです。

 イエス様は、この必要不可欠な水のたとえをもって、意義深い人生について語られました。きょうはこの個所からみことばに学びます。

 「しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった」とあります。まずこのことばに着目。 イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方へと弟子たちと旅をしていらっしゃいました。イスラエルの国は当時、一番南部がユダヤ、中部がサマリヤ、そして北部がガリラヤとなっておりました。ですから、普通に考えるとユダヤからガリラヤに行こうとすれば、サマリヤを通っていくということになるでしょう。けれども、ユダヤ人たちはユダヤからガリラヤに行くのにわざわざヨルダン川を渡りまして、東に迂回してペレヤ地方をとおりサマリヤを通らないでガリラヤに行くのが普通であったそうです。ですから、イエス様が「サマリヤを通っていかねばならなかった」というのは、地理的にそうであったということではありません。

 では、どういう意味でイエス様は「サマリヤを通ってかなければならなかった」のでしょうか。その理由はただ一つ。ここに登場する一人の女性に会うという、そのことのためにイエス様はサマリヤを通っていかなければならなかったのです。もちろん、この女と神様の御子であるイエス様は初対面です。しかし、イエス様の側ではこのサマリヤの女のことをよくご存知だったのです。この人に神様のくださる永遠のいのちを伝えるために、どうしてもイエスさまはサマリヤを通っていかなければなりませんでした。

 サマリヤの女というのは、決して身分の高い女性でも、道徳的に立派で名の通った人でもありません。むしろ、名もない一人の女性にすぎません。あえて名があるといえば、悪名高いという意味で近所の人たちにその名は知られていました。彼女は道徳的に問題のあったのです。けれども、イエス様はこの一人の女に会うためにサマリヤを通っていかねばならなかったのです。宗教とは人が神を探し求めることだとすれば、福音は宗教の廃棄です。神様が人間を捜し求めて来られたのです。

 

1.時は正午――女の素性

 

 さて、イエス様はサマリヤに入られるとスカルのヤコブの井戸の傍に腰をおろされました。乾燥地帯では井戸を中心に町が形成されるわけで、このヤコブの井戸も1800年ばかり水を出し続けてここに町が営まれていました。時は6時頃とありますが、現代でいえば12時、正午です。太陽が頭の真上にあって、暑い盛りでした。イエス様が井戸のかたわらにおりますと、そこに一人の女が頭に甕を載せて水を汲みにやってきました。

 井戸の水を使う生活をしたことのある方はいらっしゃるでしょうか。私の母は戦時中、父親の仕事の関係で壱岐の島に住んでおりまして、井戸水で生活したそうです。長女でしたから、一番厳しく育てられました。母に与えられた朝一番の仕事は水汲みです。井戸と台所の間を何度も行き来して水を大きなかめに入れ、これを一日の生活用水とするのです。

ところが、この女性は昼日中に井戸に出てきました。彼女は、誰にも会わないですむときを見計らって水を汲みに出てきたのでした。彼女は、後を見れば分かるように5人の男を遍歴し、今は、六人目と同棲しているという不身持な女でした。イスラエルでは純潔ということが尊ばれましたから、こういう素性の女性は軽蔑されました。それで彼女としては、人目をはばかって、真昼間に井戸にやってきたのでした。

 すると、今日に限って井戸の傍らに見知らぬユダヤ人の男が、腰をおろしています。そして、言いました。「水を飲ませてください。」そこで彼女は言いました。「あんたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の女のあたいに飲み水をくださいなんていうのさ?」ユダヤ人はサマリヤ人とは付き合いをしなかったのです。この女の化粧とか髪の結い上げ方とか身なりを見れば、問題ありげであることは、明白でした。

「あんたたちが嫌っているサマリヤ人、しかも、その中でも、きたならしいものでもみるようにいつもあたしのことなんか鼻にもかけないくせに、どうして声をかけるのさ?」と彼女は言うわけです。

 

2.飲んでも渇く水

 

 するとイエス様は不思議なことをおっしゃいました。10節。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

ついさっき、「水をくれ」と言いながら、「わたしは水を持っているよ、求めるならばあげようか。」とおっしゃるのです。しかも、その水は「生ける水」であるというのです。

 でも、この女はイエス様のいう「生ける水」というのがただの物質的な水のことだと思い込んでいるので、とんちんかんなことを言います。11,12節。

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 

 そこでイエス様は、「生ける水」とは、物質的な水のことを言っているのではないことを明らかにされます。13節14節。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

 イエス様は物質としての水をきっかけとし、そこから飛躍して、ご自分が与えようとしている神とともに生きる聖霊に満たされた人生のすばらしさ、意義深さについて話していらっしゃるのです。いのちの水とは、イエスを信じる者に与えられる聖霊を意味しています。他方、「この水を飲むものはだれでも渇きます。」とイエス様がおっしゃるのは、ちょうどサマリヤの女があの男、この男と渡り歩いてきたそのむなしい人生を象徴しているようです。

 彼女は「この人ならば、あたしのことを幸せにしてくれるにちがいない。」と甘い夢を抱いて最初の結婚をしました。けれども、現実の結婚生活はそんなに甘いものではありませんでした。半年が経ち一年も経つと、「こんな人じゃあたしは幸せにしてもらえない」と、わかれてしまいました。   けれども、しばらく一人でいると、また心の渇きを感じます。「誰かあたいをかわいがってくれないかしら。」と思っていると、今度こそ素敵な男を見つけました。「前の男はだめだったけれど、今度はあたしのことをかわいがってくれるにちがいないわ。」と彼女は、二人目の男といっしょに暮らし始めるのです。けれども、二カ月、三ヶ月、半年たつと、「こんな男なら、前の人のほうがましだったわ。」と思い始めます。そして、また別れてしまいました。  もう男はこりごりだと思ってしばらくいるのですが、またしばらくすると所在無く、「誰かあたいのことを愛してくれないかしら。」と渇きを覚えるようになるのです。・・・・こんなことを繰り返しているうちに、今は六人目の男と暮らしているのです。

 「この水を飲むものは誰でもまた渇きます。」と主イエスがおっしゃる通りでした。

 イエス様が井戸水にたとえておっしゃろうとするのは、世の与える満足です。この女性は男の愛によって満足を得ようとしましたが、決して満たされることはありませんでした。・・・わたしは本日の聖書の箇所を思いめぐらしていたら、明け方にふと頭のなかに「こんな女に誰がした・・・」という終戦直後に流行った、あの歌の一節が浮かんできました。あの歌には悲惨な時代の背景があってのことなのですから、簡単に片づけられるとは思っていませんが、とにかく自分がこんな女になってしまったのは、あの男のせいだ、この戦争のせいだ、あの親のせいだ、あの先生のせいだ・・・とみな人のせいにしていると、そのひとは自分の責任はとらなくてよいので気楽かもしれませんが、結局、依存的で奴隷的な生き方をしていくほかないことになってしまいます。他人に過度に期待し、依存するから、相手にうるさがられてしまう。そして裏切られたと思って失望し恨み続けるという生き方なのです。これは恋愛にかぎらないことで、あの人のせいで自分はこうなった、この社会のせいで自分はこうなたと、「こんな女に、こんな男にだれがした」と嘆き続ける奴隷的な不自由な生き方になってしまいます。

 神様は私たち人間を自由な存在として造られました。ほんとうは、同じ出来事に出くわしても、ある人は右の道を選び、ある人は左の道を選ぶ自由があるのです。

 

3.生ける水

 

 この女性に対して、イエス様は「生ける水」(いのちの水)である聖霊を与えようとおっしゃるのです。イエス様のくださる聖霊にはいくつかの特徴があります。

(1)聖霊を受けるものは決して渇くことがない

 この女性は、男性に依存しました。人間はどんなに良い人でも限界があり、罪があります。人間に期待しすぎると、きっとがっかりさせられる日が来ます。お互い、罪ある限界のあるものであることをわきまえ、受け入れあって生きることが大切です。ほんとうに私たちを満たすのは永遠のお方だけなのです。

 人間とは、とても不思議な存在です。人間のからだは有限な物質からできています。ところが有限なものの塊にすぎないはずの人間は、絶対、無限、永遠へのあこがれを持っているのです。ソロモンはまた言っています。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

「永遠への思い」というのは、言い換えると変わることのない人生の意義を求めて渇いているということです。しかし、この世にあるどんなものに永遠のものを求めても、それは必ず空しくなるのです。なぜなら、この世にあるものはどれもこれも有限で、永遠不滅のものではないからです。男女の愛はうつろいます。親の愛さえも有限です。人間の手がける事業もやがて壊れます。子どもも巣立つ日が来ます。

けれども、主イエスはおっしゃいました。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

主イエスが与える水は、渇くことのない人生を与えるのです。むなしくならない、永遠に意義ある人生を与えようと主イエスはあなたにおっしゃるのです。

 

(2)聖霊は泉となってあふれる

 主イエスが与えるという聖霊のもう一つの特徴は、その人のうちで泉となりあふれて、周囲の人々を潤すことです。イスラエルには、二つの湖があります。北にあるのがガリラヤ湖で、レバノン山脈に降った雨が地下水となってこんこんと湧き出ています。魚が豊富なので漁業は ガリラヤ地域の基幹産業となっています。このガリラヤ湖の水があふれてヨルダン川を南へ南へと下ってゆき、そしてユダヤ地方の死海に注ぎます。この死海は、海抜マイナス405メートルという世界で最も海抜の低いところにある湖です。当然のことながら水は注ぎ込むばかりです。結果、この湖にはヨルダン川をはじめとするいくつかの川が運んでくる塩分が蓄積して、塩分30パーセントの塩水になっています。海水は3パーセントですから、どれほど濃いかわかりますね。当然、魚もなにも住むことはできない死の湖になってしまっています。

 これはサマリヤの女を象徴するようです。サマリヤの女は、飲んでも渇き、そして常に「誰かが私を愛してくれないかしら」「だれか私を幸せにしてくれないかしら」という常に求めるものでした。サマリヤの女は、愛されることばかり考えていました。いったん不幸になると「これはあの人がけちだから」とか「あいつが乱暴だから」という風に被害者意識のなかに暮らすことになるのです。

 しかし、イエス様のくださる永遠のいのちの水は、その人のうちでこんこんと湧き出す泉となります。それはちょうど底が抜けてしまった池の下に突然水脈が開けて、こんこんと湧き出すようなものです。そのように神様を知り、神様と人格的な交わりを持つことができるようになると、あなたの人生はこんこんと湧き出す泉のようになります

  イエス様を信じると、その人の内側、その一番深いところに泉が開けます。そして、愛されることばかり求めていた人が、むしろ愛することを望むようになります。被害者意識に縛られて奴隷のようにしていた人が、むしろ主体的に責任をもって自由人として生きていくことができるようになります。それは責任ある自由人の誕生ということもできます。環境に心縛られ、人に心縛られていた人が自分で自分の人生に勇気をもって進もうとするようになるのです。

 

4.生ける水(聖霊)を受けるには

 

(1)自分の罪を認める

 さて、サマリヤの女はイエス様がおっしゃる生ける水が欲しくなりました。飲んだら二度と渇くことのない水、あふれて周囲の人々までも潤す水、そのいのちの水がほしくなりました。彼女の中では、イエス様のおっしゃることが半分わかり、半分は単に物質的な水のことと思われるようなあいまいさですが、ともかく彼女は「その水をください」(15)と言ったのです。

 そうしますと、イエス様は「さあ、どうぞ。飲みなさい。」とおっしゃったかというとそうではありませんでした。イエス様は何をおっしゃったか。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」(16)とおっしゃったのです。彼女が隠しておきたい人生の恥部、その罪を指摘なさったのです。彼女はしどろもどろに「私には夫はありません」と言いましたが、イエス様は全部ご存知で、彼女がしてきたことをおっしゃいました。

 

 イエス様がくださる生ける水は実にすばらしい水です。聖霊です。それは飲めばほんとうにたましいを潤し、もはや渇くことがないのです。もうあれやこれやむなしいものを求める必要はありません。それどころか、この水を飲めば周囲をも潤すような人生を送ることができるのです。 けれども、それをいただくには準備をしなければならないとJesus様はおっしゃっているのです。準備とは、主の御前に自分の罪を認めて告白することです。あの人が、この人が、というのは横において、「神様の前で私の罪は」と考えるのです。

 あなたにはこのサマリヤの女のような問題は、あるいはないかもしれません。けれども、人には誰にも言えない、自分でも認めたくないような罪や弱さがあるものです。それをイエス様の所にもってくることです。

 

(2)イエス様を救い主、神の御子と信じて受け入れる

 このあと礼拝の場所をめぐってのちょっと面倒な問答があります。ユダヤ人はエルサレム神殿で礼拝を捧げるのが正統であるといい、サマリヤ人はゲリジム山で礼拝をささげると言ってきた。今日はくわしく立ち入って説明することはしません。

肝心な点だけ申しますと、エス様の時代、新約時代が来たからには、地球上の特定の場所ではなく、世界中で、霊とまことによる礼拝がささげられるのだとおっしゃるのです。

つまり、エス様が来られ、世界中の民族が肌の色や言葉や国籍を超えて、真の神様を礼拝する時代が来たのだとおっしゃっているのです

 その宣言があまりにもすごい内容なので、こんなことを宣言する権限があるのは、数千年待ち望まれた救い主キリストだけだろうと女は思いました。25節。するとイエス様はこともなげに「あなたと話しているこのわたしがそれです。」とおっしゃったのです。私がその救い主キリストであるとおっしゃるのです。

 まことの神は、万物の創造主でありますから、日本の神、アメリカの神、イタリヤの神、インドの神がいるわけではありません。すべての民族国語を超えて、すべての民族をおつくりになったお方が、真の神であり、世界中の人々がこのお方にこそ礼拝するときが来ているのです。イエス様は、そのことを宣言する救い主です。

 

むすび

 イエス様から聖霊をいただくために必要なことは、結局、己の罪を認めて、イエス様こそ救い主キリストであると信じることにほかなりません。イエスさまは神様の前に「ごめんなさい」という人のために十字架にかかって償いをしてくださり、その償いが成し遂げられたことの証拠として三日目に復活されました。神様の前にごめんなさいと頭をさげ、イエス様という救い主をありがとうございますと受け取るならば、あなたも、永遠のいのちへの水が、腹の底から湧き上がってくる素晴らしい人生に入ることができます。