Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

愛の奇跡

マタイ1:18-25

 

2017年12月24日 イブ礼拝

 

1.神の愛の奇跡――受肉

 

19世紀、デンマークキルケゴールという哲学者がおりました。彼は著書の中でひとつのたとえ話をしています。ある国の王様が、領内を視察していたときに、ふと見かけた庶民の一人の娘に一目ぼれしてしまいました。けれども、王は考えました。「もし自分が王として娘のところを訪ねたならば、娘は私が権力ある王だからという恐れをいだき、それが理由で、私に礼儀正しく接することはするだろうが、決して私を一人の男性として自分を愛してはくれないだろう。」そこで王は庶民の姿に身をやつして、この娘のところに出かけて交流してゆくのです。そして彼女と理解しあい、時間をかけて愛を育てて後、自らが王であることを明らかにし、求婚するのです。王が庶民をめとることは異常なことですが、愛は身分のちがいという垣根を乗り越えさせるものなのです。

 イエス・キリストの誕生について「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」と記しています。この出来事はきわめて異常なことでした。異常というのは、処女がみごもることが生物学的にむずかしいなどという程度の話をしているのではありません。そうではなく、そもそも神が人となられたということが、きわめて異常だと言っているのです。まことの神は天地万物の創造主ですが、人間は被造物にすぎません。神は無限ですが人は有限者にすぎません。神は絶対者ですが、人間は相対者にすぎません。神は永遠者ですが、人は朝あっても昼には消えてしまう露のようなものです。それなのに、神があえて人となられたのです。

 あのたとえ話では王様は可憐な娘に一目ぼれしたのでしょう。けれども、愚かにも人間である私たちは神などいるものかと嘯き、あるいは偶像を拝んでいたような憎たらしいものでしょう。可憐なわけではありません。それなのに、神は私たち人間を救うために、人となられたのです。この奇跡は、神の私たちに対する一方的な愛が引き起こした奇跡なのです。神が人となられたことは、奇跡のなかの奇跡です。その奇跡は私たちの理解を超える、神様の愛によって実現したのです。

 

2.愛による正しい応答――神に用いられた人ヨセフ

 

「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」この短い一節には、人間的な観点からいえば、非常に困ったことが記されています。それは、婚約したふたりがいっしょにならないうちに、子供が宿ったということです。現代日本では芸能人たちのふるまいの影響のせいなのか、「できちゃった婚」が当りまえのようですが、聖なる律法を持つユダヤ社会では、婚約中の女性がみごもるということは、スキャンダラスなことでした。当時のユダヤ社会では、婚約ということが現代日本におけるよりもはるかに重大な責任を伴うこととされていました。婚約すると二人はまだいっしょに暮らし交わりを持つことは許されませんでしたが、一定期間、社会の中で夫婦としての責任を果たすことが求められたのです。そうした婚約期間を経て、ようやく二人は結婚しともに暮らすことが許されました。そんなきまじめなユダヤ社会のなかで、婚約中の女性のおなかが大きくなってくるということは、恥ずべきことでした。世間の人たちは事情を知りませんから、ヨセフと婚約しているマリヤのおなかが大きくなってくれば、「ヨセフとマリヤはもっとまじめな人間だと思っていたけれど、人は見かけによらないものだ。」とナザレの町中の人々が、ひそひそと噂をされ、社会的に信用を失うことになりました。

けれども、ヨセフが直面していた現実はさらに深刻でした。マリヤの妊娠についてヨセフにはまったく身に覚えがなかったのですから。ふつうならば激怒して「マリヤ。いったい、誰がおまえを犯したんだ。おまえのおなかにいるのは、どこのどいつだ!」と問い詰めそうなものです。しかし、ヨセフは、マリヤがふしだら女だから、こんなことになったのではないと確信していました。当時のイスラエルが置かれた状況は、ローマ兵がたくさん駐屯していました。当時イスラエルのあちこちでローマ兵に襲われ身重になった娘たちがいたようです。

ヨセフには、怒りに任せてユダヤの法廷にマリヤを訴える権利があるにはありました。有罪となれば、マリヤは法律にしたがって町の人みなから石打ちで処刑されるでしょう。これは旧約聖書にある聖なる律法の定めでした。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」(出エジプト20:10)不倫の罪は、婚約している二人が結婚前に一線を越えてしまうのとはレベルがまるでちがう死罪にあたる大罪でした。けれども、ヨセフはマリヤを法廷に訴えず、内密に去らせようとしたのです。「 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」

 ここを見ると、神様の前で「正しいdikaios」ということは聖なる律法を重んじて生きることです。けれども、それは正しいとは律法をただ逐語的に他人に当てはめることではないのだということがわかります。ヨセフはいいなずけのマリヤを信頼し彼女がふしだらゆえにこんなことになったのではないということを確信し、マリヤは被害者として子どもを身ごもらせられたににちがいないと判断しました。ですから法廷に告発するのは正しいことではない。けれども、このまま娶るわけにもいかないので、内密に去らせて、彼女が生きてゆける道を配慮すべきだと彼は考えたのです。律法の根本精神は愛だということをわきまえた、ヨセフの誠実さが「正しい」といわれているのです。

 神は、このように誠実でかつあわれみの心を持つヨセフを信頼なさって、尊い御子を託されたのでした。

 

3.愛の神がくださった救い主――救い主の名

 

 さて、ヨセフはマリヤを内密に去らせようと決意したものの、なお悩みながら寝台の上を転々としていました。結婚の日を目指してマリヤと共にすごした喜ばしい日々のことが思い出されたり、どこの誰がマリヤをかどわかしたのかと思えば憤りを感じます。また、マリヤを内密に去らせるとしても、その先マリヤとおなかの子はどこでどのように生活して行けるだろうと心配したり、なかなかぐっすりと眠りにつくことができません。

 そんなヨセフに主の使いが夢で啓示を与えました。 

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ダビデの子ヨセフ」と御使いは彼に呼びかけました。メシヤはダビデ王の子孫としてその家系から生まれることになっているというのは、ユダヤ人の常識でした。マリヤの胎に宿る子は、姦淫の子ではなく、聖霊によって宿った神の御子なのだと告げたのです。

 

 続いて御使いは生まれてくる子の名前を告げます。生まれてくる神の御子には、イエスという名とインマヌエルという二つの名が与えられます。その名には、その果たすべき使命と、この方がくださる救いとはなんであるかが明らかにされています。

 

(1)イエス

 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 イエスというのは、「救い」という意味のヘブル語ヨシュアギリシャ読みです。イエス様とは「お救いさま」と言う意味です。イエス様は救い主としてこられました。単に「救い」と言われても、いろんな救いがあるでしょう。たとえば貧困からの救い、病気からの救い、心の不安からの救い、争いからの救い、災害からの救いなどなどと。では、イエス様は私たちを何から救ってくださる救い主なのでしょうか。イエス様は「ご自分の民をその罪から救ってくださるお方」なのです。

 罪から救ってくださるといいますが、聖書で「罪」とはなんでしょう。泥棒とか人殺しも罪ではありますが、ここで聖書がもちいている「罪」ということばのもともとの意味は「的はずれ」という意味のことばが用いられています。人間にはもともと的があるけれど、その的から外れた生き方をしている、それが罪だということです。陶器師は湯飲みを作るとき、お茶を飲みやすいという的にしたがって形作り、お皿を作るときには食べ物を載せて映えるようにという的にしたがって形作るでしょう。神様は、人間を作るときに神を愛し、隣人を自分自身のように愛して、神とともに生きるという的をもって造りました。罪とは、神を愛し隣人を愛するという的を見失い、自己中心になっていることを意味しています。ところが神を見失っているので、人は自分が何者であるか?なんのために生きているのかがわからなくなって人生むなしくなりました。会社を大きくすることが人生の目的、お金をかせぐことが人生の目的などということで一生懸命にやったけれど、家族が崩壊してしまうなどということはありがちなことです。神なき的外れの人生こそが、聖書でいう「罪」なのです。

 イエス様は、私たちをこの神なき的外れの人生から解放するために来られた救い主です。

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 

 

(2)インマヌエル

 救い主イエス様にはもう一つの名があることを御使いは告げました。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 イエス様は私たちを神なきむなしい、独りぼっちの人生から救い出し、「インマヌエル」つまり神と共にある人生に入れてくださいます。神様がともにいてくださる人生がどんなにすばらしいものであるか、どのように説明すればよいでしょうか。それはあまりにも豊か過で、ごく一部を表現できるにすぎませんが、私自身が経験してきたことを三つにまとめてみます。

第一は、まことの神様とともに生きるようになって人生の目的がわかりました。私は高校生のとき身近な者の突然の死に直面して、自分はなんのために生きるのだろうという問いにぶつかって、答えを見つけられませんでした。当時は国文学者になろうと思って受験勉強していましたが、大学にはいり、国文学者になってなんになるのか、ああむなしいと感じました。あなたの人生の目的とはなんでしょうか?人はなぜ生きなければならないのでしょう。けれど、イエス様を信じ、神様を知ってから永遠に神を喜び、神の栄光をあらわすことが私の人生の目的となりました。

第二は、永遠の神の前に罪が赦されているという魂の平安です。神の御子イエス様が、私の罪のためのあがないとなってくださいました。私の罪がいかに重くても、神様の御子がそれをいのちを捨てて償ってくださったのです。ならば、イエス様を信じる私の罪が赦されていることは、疑いえないことです。ですから、「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています」が、その神のさばきを恐れる必要がありません。その安心があります。

第三には、神さまが、私のことをわが子として愛していてくださるという喜びです。私は今も失敗し神様を悲しませてしまうこともあります。けれども、さして役に立たない私の存在をも神様はわが子として喜んでいてくださいます。クリスチャンにとって人生の途上で起こってくるいろいろな苦しみや悲しみも、神様からの善意に満ちた試練です。生きていればいろんなことがありますけれども、それもこれも神様が私の成長を期待してくださっている試練なのですから、あわてることはないし、あせる必要もありません。困った事態に遭遇しても、この出来事にどのように対処するように神様は期待していらっしゃるのかなあと考えながら、対処することができます。

万物の支配者である神があなたの味方であることほど、すばらしい祝福はほかにありえません。イエス様は、その祝福をあなたにも用意してくださいました。ですから、インマヌエルというもうひとつの名をお持ちなのです。

 

むすび

神様はクリスマスにおいて破格の愛を私たちに現してくださいました。神の御子は、その栄光の座を捨てて、地上に人となっておいでくださり、私たちを神なき的を外れた人生から救い出して、神とともに生きるすばらしい人生、永遠のいのちへと招いてくださいました。あなたも、イエス様を私の救い主として受け入れ、主をたたえましょう。