Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

訴える祈り―正義のさばき主―

詩編

 

ベニヤミンびとクシのことについてダビデが主にむかってうたったシガヨンの歌

7:1わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。
どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、
わたしをお助けください。
7:2さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、
助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。
7:3わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、
もしわたしの手によこしまな事があるならば、
7:4もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、
ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、
7:5敵にわたしを追い捕えさせ、
わたしの命を地に踏みにじらせ、
わたしの魂をちりにゆだねさせてください。〔セラ
7:6主よ、怒りをもって立ち、
わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、
わたしのために目をさましてください。
あなたはさばきを命じられました。
7:7もろもろの民をあなたのまわりにつどわせ、
その上なる高みくらにおすわりください。
7:8主はもろもろの民をさばかれます。
主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、
わたしをさばいてください。
7:9どうか悪しき者の悪を断ち、
正しき者を堅く立たせてください。
義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。
7:10わたしを守る盾は神である。
神は心の直き者を救われる。
7:11神は義なるさばきびと、
日ごとに憤りを起される神である。
7:12もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、
その弓を張って構え、
7:13また死に至らせる武器を備え、
その矢を火矢とされる。
7:14見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、
害毒をやどし、偽りを生む。
7:15彼は穴を掘って、それを深くし、
みずから作った穴に陥る。
7:16その害毒は自分のかしらに帰り、
その強暴は自分のこうべに下る。
7:17わたしは主にむかって、
その義にふさわしい感謝をささげ、
いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。

 

 

 

 

表題にある「ベニヤミン人、クシュ」という人物について聖書ではこの箇所にあるのみで、ほかにはありません。

 

1 アウトラインは次の通り

 

2節。ダビデはまず敵が追いつめてくる時、主に身を避けて、私を救い出して下さいと率直に祈ります。4、5節。まず、神の正しい裁きの前に自分をさらします。もし自分の非があるならば私を懲らしめてください、と。

6~16節。そのうえでダビデは、神の正しい裁きを求めるのです。その時、ダビデは自分の表面的に現れた行動ではなく、心と思いを調べなさる神を意識しています(9、10)。人はうわべを見るが、主は心を御覧になるからです。    

17節 そして最後は、義なる神をたたえる賛美に突き抜けています。祈り抜いて、ついに神の正しい審判がくだり自分は救われると確信にいたったからです。  

 

 率直に祈り、そして、最後には主を賛美するにいたるというこのダビデの賛美と祈りに、私たちはその率直さ、正直な祈りを態度をまず学びたいと思います。詩篇6篇もそうでしたが、率直さは詩篇の最大の特徴だと思います。こんなこと祈っていいのかなと、私たちには思えてしまうほど正直な祈りです。

 もう一つは、しかし、その率直な祈りは変えられていきます。祈りは中途半端で不満なままで、不安なままで終わってしまうのでなく、主への賛美へと突き抜けるまで祈りたい。主を賛美するために、私たちは造られたのです。

ダビデの祈りの秘訣を見てゆきましょう。

 

2 神の正義に訴える

                                           

 注目すべきは、ダビデはここで正義の審判者である神を見ているということです。6、8、9、11。17。

7:6 【主】よ。御怒りをもって立ち上がってください。

  私の敵の激しい怒りに向かって立ち、 私のために目をさましてください。

  あなたはさばきを定められました。

 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。

  正しい神は、心と思いを調べられます。

7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

 7:17 その義にふさわしく、【主】を、私はほめたたえよう。

  いと高き方、【主】の御名をほめ歌おう。

 神は正しいお方、神は正しい裁きをなさる審判者である。この詩篇におけるダビデの祈りの力強さの根源の第一はここにあります。

 私たちはこのところ、詩篇に祈りを学んでいます。その中で、あの願い、この願い以上に大事なことは、神御自身に目を留めることだと学びました。神御自身の聖なるご性質に訴える祈りは力強い祈りとなります。神は真実で正しいお方ですから、神は御自身を否むことができないからです。「神よ、あなたは正義の神、あなたは正しい審判者です。」と訴える声に、神は「確かに、その通りである」とお答になります。アブラハムも、ソドムの町のために取り成すときに、このようにとりなしました。また、カナンの女も主イエスに「こどもにパンをやるものだ。子犬にやるパンはない。」と言われた時、答えた「その通りです。ですが、子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

 神御自身の義に訴え、神のお約束に訴える。6篇では神の恵み深さに訴えました。

 

(賛美)神が義なる審判者でいらっしゃることを知り、神の義をたたえましょう。

私たちは、あなたが義であられますから、正しい裁きをしてくださいますから、安心します。この世にはいろいろな不正が行われています。不平等がまかりとおっています。けれど、やがて神よ、あなたは人の心の底まで探り極めて、正しい裁きをなさいます。ですから、私はあなたの名をたたえます。悪が一時は栄えているように思えても、神は後の日にかならず正義の裁きをされますから。正義の神を賛美します。

 

(実践)それゆえ、私たちは安んじて正しい道を歩みます。それがたとえ、細い困難な道であり、また、それが「損」をする道であっても、義なる道を選ぶのです。その時、私たちは大胆に正義の神の裁きを求める祈りができます。

 

 量るように量られることをわきまえる

 

 しかし、このような訴えをする祈りの場合、詩人は大事なことをわきまえていました。それは、「人は量るように量られる」という原則です。私たちが他者を量る、その物差しで自分も神様から量られるのです。

7:3 私の神、【主】よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、

 7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、

  また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、

 7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。

  私のたましいをちりの中に  とどまらせてください。 セラ

 でも私の敵には辛くはかってください。でも私には甘く図ってください。という祈りは聞き入れられません。神は正義の審判者、公正なお方ですから。

 詩人は今、「親しい友」と思った人に裏切られ、悪い仕打ちを受けているのです。友が敵となって、彼のいのちを奪われそうになっているのです。このような経験をダビデはその人生の修羅場でなめたことでした。かつて彼の腹心と思った人々が、叛逆した息子アブシャロムについて、ダビデ王を追い落とし、今はダビデのいのちを狙っているのです。親友だと思っていた人に裏切られ、敵に回られることほどつらいことはないでしょう。

 

 そんな中で彼は神に正義のさばきを求めて祈り叫んでいるのです。そのとき、ダビデは自分の胸に手を当てて、自分はあの友に対して、そんな悪い仕打ちをしたのでしょうか?と反省しているのです。そして、公正なさばきを求めるのです。ただ私の味方になってくださいというのでなく、正しくさばいてくださいと言っています。

 

4 世界の審判を求める

 

 自らを振り返ったうえで、詩人は激しく主に訴えます。6節から16節。

 

7:6 【主】よ。御怒りをもって立ち上がってください。

  私の敵の激しい怒りに向かって立ち、 私のために目をさましてください。

  あなたはさばきを定められました。

 7:7 国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。

 7:8 【主】は諸国の民をさばかれる。

  【主】よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。

 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。

  正しい神は、心と思いを調べられます。

 7:10 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。

 7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

 7:12 悔い改めない者には  剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

 7:13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 7:14 見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。

 7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。

 7:16 その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は、おのれの脳天に下る。

 

(1)怒る神

神は愛の神ですということは、私たちはよく言いますが、同時にまた神は聖なる怒りの神です。ヤコブ書1章20節に「人の怒りは神の義を実現するものではありません」とあるように、人間は自己中心ですから、その怒りは神の正義を実現するような立派なものではありません。私たちは、自分が傷つけられたとき、自分が損害を受けた時、自分の気分が害されたときには、怒りやすいものです。けれども、他の人が傷つけられたり、損害を受けたりということについては、結構、寛容であるものです。実に不公正です。ですから、私たちは自分の怒りを、安易に聖なる怒りであるなどと思いあがるべきではありません。

神は「怒る神」と11節で呼ばれています。神の怒りは、人間の利己的で気まぐれであったりする怒りとはちがって罪に対する怒りです。神は世界をすべ治めるにあたって、善と悪とを定め、悪に対しては御怒りを感じられるのです。

 また、神の御目はうわべでなく、私たちの心の動機、思いまでご覧になるのです(10節)。世界中のすべての人々の心の思いと行いをご覧になっている神様ですから、地上で不正が行われていることに7章11節にあるように「日々怒る神」なのです。

 私たちはこの神を畏れなければなりません。

 

(2)世界の審判者

 さらに注目したいのは、7節、8節、「主は諸国の民をさばかれる」ということばです。旧約聖書イスラエル民族、イスラエル国家の宗教を語っているというのは一つの事実ですが、旧約時代すでにその民族の枠を超えたものがあるのです。この詩では、世界中の国々の民に神の目は及んでおり、悪者はやがて罰せられる時が来るのだと

8節【主】は諸国の民をさばかれる。

11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

12  悔い改めない者には  剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 

神の裁きは歴史の中で行われてきました。どんなに栄えている軍事大国も、神の歴史の審判の中で崩壊してゆきました。北イスラエル民族が堕落したときには、西方からアッシリヤ帝国の剣をもって北イスラエル王国を崩壊させました。そのアッシリヤ帝国も傲慢で傍若無人でしたから、今度は神さまはこれをバビロンを起こすことによって滅ぼしました。そのバビロンもまた傲慢になり、パレスチナに来てついにエルサレム神殿は崩壊させました。、しかし、最強をほことったバビロンは、一夜にして崩壊して、メドペルシャ帝国に後退させられてしまいました。神は、このように歴史を支配されるのです。

 それでも世界に正義が完全に行われたことはありません。正義の神の世界に対するさばきは、主イエスが再び来られた時の最期の審判によって行われます。私たちの最終的な希望は、主イエスの再臨による最後の審判です。

 

結び

 私たちは、詩篇7篇を味わい、世界のさばき主であられ、世の不正に対しては日々怒る神であられることを学びました。私たち現代人の間では、なんでも許してくれる甘い神観が流行しているかもしれません。旧約時代、神は厳しく、新約時代は神は優しいのだということをまことしやかに言う人々もいます。しかし、もしそうであれば、神の御子が十字架にまでかかることはなかったでしょう。神の義は、御子の犠牲を必要とするほどに厳しいものなのです。新約時代においては、神は極めて公正なお方であり、かつ極めて愛に満ちたお方であることが、旧約時代よりもさらに明らかにされたというのが正しい聖書理解です。

 この正義の審判者である神の前に、時に、ダビデのように正しい裁きを求めて祈りたいときがあるでしょう。正しいものが不当な扱いを受け、悪しき者がさかえているようなことが往々にしてありますから。しかし、そのとき、私たちは他人を量る、その物差で自分も量られることを覚えておきましょう。神は公正なお方です。

           

字のない本

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ヨハネ3章16節伝道説教

 

 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信ずる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

 

「字のない本」は、色で聖書の福音をメッセージにした本です。金色、黒色、赤色、白色、緑色の5色からなります。今日は、この字のない本を用いて、聖書の要、聖書の要約と呼ばれるヨハネ福音書3章16節を解き明かしたいと思います。

 

1 金・・・神の国

 

 金は神の国、天国を意味しています。

 

(1)神の国とは

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい。」といってイエス様は宣教を始められました(マルコ1:15)。イエス様が宣べ伝えた神の国とは何なのでしょうか。

 神の国ということばの「国」というのは「王国」とか「支配」という意味のことばです。神が王であり、そこを支配なさっている領域があれば、そこは神の国であるということです。神様王としてのみこころが実現しているところ、そこが神の国なのです。

 では、神様のみこころとは何かといえば、人間が「心を尽くし知性を尽くし力を尽くして神を愛し」また、「が隣人を自分自身のように互いに愛しあう」ということです。そういうことが実現した世界が「神の国」です。

 こうした神のご支配はいつ到来するのでしょうか。この点について二つの面を語られました。一つは、「神の国はすでに来ている」ということであり、もう一つは「神の国はいまだ来ていない」ということです。

 

(2)神の国・・・未来のこと

 聖書がいう神の国の一面は、未来のことです。ですから、主の祈りにおいて「御国が来ますように」と私たちは今日もお祈りしました。聖書にはイエス様が再び来られて最後の審判が行われた後、神の国が完全なかたちで到来する時がくると約束が記されています。

  「21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙示録21:1-4

 死も悲しみ叫び苦しみもない国。それは、神がともに住んでくださる国です。これが聖書の言うところの天国です。愛と正義の神様のご支配が完璧に及んでいますから、人の心も動物たちの心も、細菌やウィルスにいたるまで清くされて、そこには死も悲しみ叫び苦しみもないのです。

 

(3)神の国・・・すでに ルカ17:20-21

 ですが、今日ニュースなどを見て、戦争や家庭不和や社会問題の満ちているこの世界には、そんな素晴らしい「神の国」はないなあとがっかりしてしまいそうです。けれども、イエス様は、神の国についてもう一つのことをおっしゃいました。

「17:20 さて、神の国はいつ来るのか、と・・・尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)

 「あなたがたが神とともに生きる人生を生きているならば、すでにそこに、神の国はあるんだよ。」ということです。「心を尽くし知性を尽くし力を尽くして神を愛し」「隣人を自分自身のように愛する」ことを人生の根本原理として、日々努めている人々の交わりのただなかには、すでに来るべき神の国は来ているのです。今の世を生きていれば、確かにいろんな問題があります。自分自身が問題でもあります。しかし、イエス様を信じて従う者たちはこの世にあっても、すでに神の国の前味を経験して生きることができます。

 私たちは確かに不完全ですし、欠点も弱さもあるものです。けれども、それでもイエス様の愛と正義のみこころを行いたいと願い、お互いを思いやって、祈りあい、支えあっていきるとき、そこに「神の国」はすでに来ているのです。

 

「悲しみ尽きざる浮世にありても 日々主と歩めば御国の心地す

 ハレルヤ 罪とが 消されし わが身は いずくにありても

 御国の心地す」

 

 そして、イエス様を信じて、そのみこころを行うために生きている私たちが、それぞれに与えられたこの世の生涯を終わるときには、イエス様が迎えに来てくださいます。その時には、イエス様のみもとに行って、すべての悲しみや苦しみは罪から解放されて、喜び踊ることになります。

 

2 黒・・・闇・・地獄

 

 しかし、この神とともに生きる神の国のすばらしさを見えなくして、味わえなくしてしまうものがあります。次に、黒について説明します。

 

(1)霊的な暗闇・・・神が見えない

 多くの人は、神が生きておられ、自分のことを愛していてくださるということが見えなくなって闇の中をさまよっています。私自身も高校生のときには「神など存在しないのではないか」と思っていました。そして、自分は何のために生きているのかがわからず、人生むなしいなあと感じていました。

 しかし、聖書は「神の目に見えない本性、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界が造られたときからこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない」と述べています。創造主である神のことは、その作品である被造物世界を見ればはっきりとわかるというのです。たとえば、モナ・リザという作品を見るならば、レオナルド・ダビンチという画家の卓越した画家としての能力とか精神性といったものがうかがい知られるでしょう。モナ・リザという作品を見て、絵の具がたまたまぶちまけられたらあんなふうに神秘的な女性の絵になっただけだなどという人はいないでしょう。モナリザを見て、「これは偶然できた模様だと思っていた。作者がいるとは思わなかった。」などという弁解がナンセンスであるように、モナ・リザという一枚の絵よりも何億倍も複雑で精密にできて組み合わされて運航しているこの全宇宙と地球の動植物は、偶然できたのだと思い込んでいました」などという弁解はナンセンスです。人も動物も植物もみな創造主の作品です。礼拝すべきなのは、世界を造り、これを支配していてくださる創造主です。

 

(2)罪

 黒があらわすことは、第二に罪です。罪とはなんでしょう?それは創造主の戒めに背くことです。十戒という神の戒めを説明してみます。

第一、まことの神以外の神々を礼拝してはならない。

第二、偶像を造ってはならな世話をしてはならない拝んではならない。

第三、まことの神の名をみだりに唱えてはならない。

第四、安息日を憶えてこれを聖なる日とせよ

第五、あなたの父母を敬え

第六、殺してはならない

第七、姦淫してはならない

第八、盗んではならない

第九、嘘をついてはならない

第十、隣人のもの、隣人の妻を欲しがってはならない(人の幸福をねたむな)

 

これらの戒めに、心の中で、言葉で、行動で背いたことが一度でもあるでしょうか。あれば、あなたは神の前に罪人です。そして聖書は「義人はいない一人もいない。善を行う人はいない。一人もいない。」と断言しています。

 

(3)黒が意味することの第三は、地獄です

 聖なる愛に満ちた神とともに生きることは素晴らしいことです。それが神の国ということです。神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるとき、人は本当に生きがいと喜びを感じることができます。それが完全な意味で実現するのは、やがて来る神の国いわゆる天国ですが、先にお話ししたとおり、この世にあっても、これまでの神なき人生から方向転換をして、イエス様を信じるなら、神を愛し隣人を愛して生きる喜びと平安を経験することができる。「神の国はあなたがたのただなかにあるのです」と主イエスは言われました。

 けれども、神の国にふさわしくないものがあります。それは罪です。罪あるままでは、私たちは決して神とともに親しく生きることはできません。死後も天国に入ることはできません。真の神をないがしろにしたり、人を憎んだり、欺いたりした罪をゆるされて清められないならば、この世で神の国の前味をあじわうことはできないし、次の世に行っても神の国には入れません。燃えるゲヘナに落とされてしまいます。

「21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録21:8

 実際、今の世にあってもこれらの罪を犯せば、私たちは暗い気持ちになるでしょう。人に憎しみや殺意を抱いたり、偽りを言ったり、不品行なことをしていれば、心は真っ黒になってしまいます。憎しみや怒りや殺意や不道徳からは地獄のにおいが実際にするではありませんか。

 以上のようなわけで、黒が表すのは罪の暗闇と、恐ろしい地獄です。

 

3 赤・・・イエスの十字架の血

 

 では、どうすればいいのでしょう。私たち自身は自分で自分の心をきよくすることができますか。体の表面は石鹸で洗えても、心を清めることができるのは神様だけです。神様は父子聖霊の愛の神です。あなたが、神に背を向けた暗闇の中に独りぼっちでいるのを見て、罪の中に滅びることをお望みになりませんでした。なんとかして助けてやりたいと思ってくださいました。そこで、父は御子イエスをおよそ二千年前にこの世に人間として遣わし、罪をあの十字架の死をもって償ってくださいました。神さまは正義の審判者として、罪に対しては罰を与えねばなりません。その罰を、御子イエスが、あの十字架上で、あなたの身代わりとなって受けてくださったのです。赤は、キリストが十字架で流された血潮を意味しています。

 私は高校3年生の夏にある機会があって、『塩狩峠』という映画を見ました。その映画の中で、雪の降りしきる中、一人の牧師が旭川の街頭に立って、叫んでいました。紹介します。

 

イエス・キリストは、何ひとる悪いことはなさらなかった。生まれつきの盲をなおし、生まれつきの足なえをなおし、そして人々に。ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさんおわかりですか。

 みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは自分の命をわれわれにくださったのであります。彼は決して罪を冒さなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとる悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずです。しかし彼はそれをしなかった。

 悪くない者が、悪いものの罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにはっきりと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかもみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。いいですかみなさん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。

『父よ、彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればな李。」

 聞きましたか、みなさん。今自分を刺し殺す者のために、ゆるしたまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります。」

 

 あの十字架で流された血潮は、あなたの罪を償い、きよめるために流された神の御子キリストの愛の証なのです。

 

4 白・・・罪のゆるし、罪のきよめ

 

 続いて、白です。イエス様は十字架にかかられた金曜日から三日目の朝、空が白んだとき復活なさいました。そして、私たちの罪がゆるされきよめられたことを確証してくださいました。その後、イエス様は弟子たちに現れて、40日目に天の父のもとに復活した姿のまま戻って行かれました。

 白はイエス・キリストを信じた者が、神の前に真っ黒な罪を赦され、そして、生涯をかけてその罪の性質を日に日に清められていくことを意味しています。

 神様は、イエス様を信じた者については、その罪を赦したと宣言してくださいます。これを義認といいます。そうして、人は洗礼を受けてクリスチャンになると、そこからイエス様から聖霊の力によって、自分ではどうしても拭い去ることができなかった罪の性質から解放されていくのです。これを聖化といいます。こうして、罪から解放されて、心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神を愛し、兄弟姉妹と隣人を自分自身のように愛するそういう人生に変えられてゆくのです。

 

5. 緑・・・教会生活。キリストに結ばれてともに成長する

 

 そのクリスチャンとして共に成長していく教会生活をあらわすのが、緑色です。春になると木々が芽吹き、畑にも緑が見えて成長してゆきます。そのように、主にある兄弟姉妹たちとともに礼拝の生活をし、神を愛して生きるとき、あなたの人生はたしかに変えられます。それは、神の国を待望しつつ、今、ここにある神の国に生きる人生です。

 この世は憂き世というように、辛いことのある世の中です。けれども、主イエスを信じるならば、地上にいながらにして、御国の心地がするのです。あなたも、主イエスを信じて、ともに神の国に生きようではありませんか。

 

 

悲しみ尽きざる 憂き世にありても

日々主とあゆめば 御国の心地す

*ハレルヤ 罪とが消されし わが身は

いずくにありても 御国の心地す

 

かなたの御国は 御顔のほほえみ 

拝する心のうちにも 建てらる

 

山にも谷にも小屋にも宮にも

日々主と住まえば御国のここちす

 

 闘いの祈り   

詩篇第6篇                                                    

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌

6:1主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。
6:2主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:4主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。
6:6わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
6:7わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:8すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。
6:10わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

 

 この詩篇は私にとってたいへん印象深く思い出深い一篇です。私が神学校1年生のとき、父がガンで余命半年を宣言され神戸で最期の床に臥せっていたときに、東京の神学校におりました私はこれにシューマンの曲を付けたものをいくどとなく歌ったものでした。歌ったというよりも祈ったものでした。

 また、その1年後、朝岡牧師がガンとの壮絶な戦いを経て天に凱旋された後、神学校で開いた詩篇を歌う会で白石君が詩篇第六編を歌ったことを覚えています。日頃、クールな白石君が、絶句して歌えなくなり私が後半を歌いました。詩篇第六編は、魂から絞りだされる叫びであり、嘆きであり、そして勝利の祈りなのです。

 

1.苦難に主の怒りを見る(1-3節)

 

 「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私をこらしめないでください。」と詩人ダビデは叫びます。いったいどういう状況の中に彼は置かれたのでしょうか。

8節にあるように彼は「不法を行なう者ども」に取り囲まれ、10節にいう「敵」から攻撃を受けていたのです。そして、彼は肉体的にも弱り果て、骨は震えるほどであり、魂もおののいていたのです。(2、3節)

6:2 【主】よ。私をあわれんでください。

  私は衰えております。

  【主】よ。私をいやしてください。

  私の骨は恐れおののいています。

 6:3 私のたましいはただ、恐れおののいています。

  【主】よ。いつまでですか。あなたは。

 

 しかも、その状況をダビデは、主の御怒りの現れとして認識しているのです。主が私に怒りを燃やしていらっしゃる。主が私を憤っていらっしゃるのだと彼は認識したのです。

「主よ。御怒りをもって私を責めないで下さい。」

 

 あらゆる状況のなかに主の御手を見いだすこと。これはダビデの信仰でありました。ダビデの生涯をたどるとき、彼がこの詩篇のような状況に置かれたと考えられるのは、アブシャロムの反乱のときエルサレムから逃れて行くときのことでしょう。実の息子に背かれ、エルサレムを出て裸足でオリーブ山を登って悔い改めたダビデです。ダビデ一行がバフリムまで来た時、サウルの家系の者のシムイがダビデを呪ったのでありました。2サム16:5-14

 ダビデは、この事件では神の怒りの御手が自分の上にくだっていることを実感しないではいられませんでした。シムイのいうことは不当なことであり、誤解でもありました。けれども、ダビデはあえて反論しようとしませんでした。言い返そうとしませんでした。彼がシムイその人を見ていたならば、言い返したでしょう。仕返しをしたでしょう。けれども、彼はシムイを見ていたのではなく、主の御手を見ていたのです。2サム16:10-12節。

ですから、ダビデは「主よ。御怒りで私を責めないで下さい。」と祈るのです。

 

 あらゆる状況において主の摂理の御手を見るということ、これがまず今日の詩篇に学ぶことです。私たちの身の回りに起こること、格別苦難ということについて、何一つ無意味に起こることではありません。たとえ、そこに悪しき人々の悪だくみや悪魔の働きがからんでいたとしても、究極的に神様のご支配があるのです。試練については特にこう言われています。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5)

 「主の懲らしめを軽んじる」とは苦難を単なる偶然の出来事、災難としてしか見ることをせず、このことを通して主に向かい合おうとしないことです。ある人が、「病気は生き方を考えさせる神の促し」と言いました。病気だけではありません。私たちは順境にあっては主に感謝し、逆境にあっては反省して主と向かい合うべきです。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後のことを人にわからせないためである。」(伝道者7:14)

 

2.嘆願の激しさ・執拗さ

 

 次に私たちがこのダビデの祈りに驚くのは、その嘆願の激しさと執拗さではないでしょうか。4節から7節。

 6:4 帰って来てください。【主】よ。

  私のたましいを助け出してください。

  あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。

 6:5 死にあっては、

  あなたを覚えることはありません。

  よみにあっては、

  だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

 6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、

  私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、

  私のふしどを押し流します。

 6:7 私の目は、いらだちで衰え、

  私のすべての敵のために弱まりました。

 

 

 祈りは禅坊主のような悟り澄ましたものではありません。禅坊主は「無」を前にして沈黙し、なにごとかを悟るのだそうです。人格的な神を知らぬ彼らとしては、それ以外ないからでしょう。しかし、聖書的祈りとは今生きて働かれる人格の神をかきくどくことであり、生ける神との激しい格闘なのです。

アブラハムはソドムのとりなしにおいていくどもいくども、主なる神がついにはへきえきするまで粘り強くその助命を嘆願しました。ヤコブは主と相撲を取り、主に勝利者と呼ばれました。モーセイスラエルの民に対して怒りを燃やされる主の前に立ちはだかって、イスラエルを滅ぼすなら私をまず殺してからにしてくださいとまで言いました。

 そして、私たちの主イエスのゲツセマネのあの三時間にわたる祈りについてヘブル書はこう記しています。「キリストは、人としてこの世におあられたとき自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

  私たちの祈りはどうでしょうか。安易に「みこころのままに」と言うことによって悟り澄ましたような、実はいんちきの、怠慢な、口先だけの祈りに堕してはいないでしょうか。

 

3.恵みのゆえに

 

 とはいえ、ダビデの祈りはただ激しいだけのものではありませんでした。ただ単に頑固で自己主張が強いというものではありませんでした。彼の祈りがここまで粘り強くありえたのは、彼の自我の強さのゆえではありません。彼は主というお方をよく知っていました。ダビデは悔い改めつつ祈っているのです。

 ダビデはこう祈りました。4節。「帰って来てください。主よ。私のたましいを助けだして下さい。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」「あなたの恵みのゆえに」とダビデはいいました。「恵み」とはなんでしょうか。恵みとは「祝福を受ける資格のない者に注がれる、神からの一方的な祝福」のことです。

 ダビデは、自分が神から祝福を受けて当然であるなどとは思っていませんでした。彼は自分は今、神から懲らしめを受けるべき人間なのだとわかっていました。今、彼の上に主の御手がくだっていると認めていました。そして、彼は自分の義に訴えて、神様に救いを求めているのではないのです。彼は自分は「私はこれこれこれだけ立派なことをしてきましたから、神様あなたは私を救うべきです。」などと愚かなことは言わないのです。神の御前に立つ時、仮に自分が良いことをなしえたことがあったとしても、すべての良きことは神様の恵みによってさせていただいたのですし、すべての悪いことは私たちが自らなしたことなのですから。

 しかし、ダビデは救いを求めえたのです。どうしてですか。「あなたの恵みのゆえに」です。「主よあなたは恵みとまことに満ちたお方です。滅ぼされて当然の、この私をも哀れむとお約束くださったお方です。私によきところはありませんが、あなたはよいお方です。ご自身の結ばれた契約に対して真実なお方です。あなたは恵みに満ちたお方です。ですから、私はあなたの恵みゆえに救っていただけると望みを抱いているのです。」というのです。

  私たちの祈りが弱々しいときは、自分の義によりたのもうとするからです。私たちの祈りが力強いときは、主の恵みとまことによりすがるときです。

 

4.勝利の確信を得る(8-10節)

 

 嘆きと叫びと涙にはじまった祈りは、ついに勝利をもって終わります。

 

 6:8 不法を行う者ども。みな私から離れて行け。

  【主】は私の泣く声を聞かれたのだ。

 6:9 【主】は私の切なる願いを聞かれた。

  【主】は私の祈りを受け入れられる。

 6:10 私の敵は、みな恥を見、

  ただ、恐れおののきますように。

  彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。

 

 

 祈りの戦いを戦い抜いたとき、勝利の確信を得たのです。そのとき、まだ肉眼では状況は変わってはいないのです。ダビデを取り囲む敵は減っていません。けれども、祈り抜いたとき、ダビデは「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」と確信したのです。

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)と主イエスがおっしゃった通りです。この確信と平安とに至るまで祈り抜くことがたいせつなのです。聖歌256番の四節にも、「祈れみわざは必ず成ると信じて感謝をなしうるまでは。」とあります。ヤコブモーセも主イエスも祈りの戦いの後に、確信にいたって新しい歩みをしています。ヤコブは、あなたはイスラエルという祝福ある名をいただきました。モーセは、主御自身がいっしょに行くと約束をいただきました。主イエスは、十字架に苦しみを受けた後に、死者のなかからよみがえらせていただけるという勝利の確信をいただきました。そうして、確信をもって新たな歩みをそれぞれにしたのです。

 私たちの祈りにおいてたいせつなことは、この主への賛美と感謝と平安にまでつき抜けることです。「すでに得たり」と信じうるまでに御心を求め、御心を確信することです。嘆きは賛美に変えられ、願いは感謝に変えられ、不安は平安に変えられるのです。

 

結び

 ダビデは祈りの発端において苦難に主の怒りを見ました。しかし、ダビデは自分の義ではなく神の恵みによりすがって執拗な祈りの戦いを展開しました。そして戦いの到達点において、恩寵が苦難を乗り越えるのを見たのです。そして、確信を得、賛美にいたったのです。  

十字架を覆った暗闇

マルコ15:33-34

神殿の幕は破棄された(1)

マルコ

 15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

 15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

 

1.イエス様が十字架にかかられた時間

 

  マルコ福音書には、主イエスが十字架にかかられた時刻について記録があります。

「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」(マルコ15:25)

「 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。」(マルコ15:33)

 つまり、午前9時から午後3時までの6時間、イエス様は十字架についてくださったのです。この6時間は、午前9時から正午までと、正午から3時間とでずいぶん様子が異なっています。すなわち、前半は主イエスはじりじり照りつける太陽の下で十字架にかかっていらしたのですが、後半は暗闇に覆われていたという違いです。

 前半は十字架の下の人々がイエスをひどいことばで罵ったりして騒然としていました。そういう状況の中で、ルカ福音書の並行記事では十字架上のイエスが自分を十字架にかけた人々のために、「父よ彼らを赦してください」と祈ったり、隣の十字架上の死刑囚のために個人伝道をして救いに導いたといった記録があります。ヨハネ福音書の並行記事には、主イエスは残してゆかねばならない母マリヤを気遣って、愛弟子に託したりしたことが記されています。

 それに対して、正午、太陽が光を失いあたりは真っ暗になったあとは午後3時までいっさいが沈黙してしまいます。イエスさまも沈黙なさっていますが、十字架の周囲の人々の声も記録されていません。そして、午後三時になると、主イエスは暗闇を引き裂くように「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫び、「父よ。わが霊をあなたに委ねます」と言って亡くなられたのです。

 日差しの下、人々がイエスを嘲り、イエスは彼らのためにとりなし祈るという前半三時間。そして暗闇と沈黙の三時間と、その後のイエスの「わが神、わが神」という叫びと死。前半、主イエスは十字架の苦しみを忍びつつある程度の余裕をもっていらっしゃいました。この間、イエス様に対してなされた懲らしめは人間たちによるものでした。 しかし、後半の三時間、イエスは暗闇と沈黙の中で苦悶してひとことも発せられませんでした。この暗闇の中で何が行われていたのでしょうか?

 

2.暗闇

 

 次に、主イエスが十字架にかかっておられた後半の3時間、あたりを覆った暗闇は何であったのか、その意味は何だったのかについてお話しますです。

27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 (1)暗闇が歴史的事実であること

 正午から、いったいどのような仕組みで全地が三時間にもわたって暗くなったのでしょうか。黒雲が空を覆ったのでしょうか。そうではありません。ルカ福音書23章44節の並行記事には「太陽は光を失った」と記されています。太陽が光を失うことによって、全知は闇に閉ざされたというのです。そんなことがありえるでしょうか。この記述はよくある文学的フィクションなのでしょうか。

 当時、パレスチナからはるか遠く小アジア半島にフレゴンという人がいました。彼は日記をつけるのが趣味という人でした。そのフレゴンが、このときに起こった未曾有の大日蝕の記録を残しています。もちろん、この小アジアにおいたフレゴンは、イエスのことを知りませんし、このとき、はるか遠いパレスチナエルサレム城外の丘で何が起こっているのかを知る由もありません。そのフレゴンがこのように書き残しているのです。原文はラテン語です。

Quarto autem anno CCII olympiadis magna et excellens inter omnes quae ante eam acciderant defectio solis facta; dies hora sexta ita in tenebrosam noctem versus utstellae in caelo visae sint terraeque motus in Bithynia Nicae[n]ae urbis multas aedes subverterit.

「第202回のオリンピック大会の第4年目、日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であった。昼の第6時(すなわち正午)、星が見えるほどの夜となった。ビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した。」

   出典 http://www.textexcavation.com/phlegontestimonium.html

 「星が見えるほどの夜」とありますから、黒雲が空を覆ったのではないことがわかります。ルカ伝に記録されるとおり「太陽が光を失っていた」のです。

 フレゴンのいう第202回のオリンピック大会の第4年目というのは、西暦でいうと32-33年にあたります。まさに主イエスが十字架にかかられた年です。その年のユダヤ暦ニサンの月14日(ユリウス暦4月3日)、この古今未曽有の3時間にもおよぶ大日食が、全地を暗くしたということがわかります。神の御子であるイエス様がゴルゴタの丘の十字架にかかった六時間のうち後半三時間、闇が全知を覆ったのは、歴史上の事実なのです。

 

)暗闇の意味

 では、あの西暦33年ユダヤ暦ニサンの月の第15日の朝9時から午後3時、太陽が光を失って世界を覆った三時間の暗闇の意味はなんだったのでしょうか。まず、この暗闇は単なる自然現象としての日蝕ではありえません。調べてみましたら、皆既日食は最長で7分半ほどであり、金環日食で11分ほどです。ところが、あの日の暗闇は3時間にもわたったのです。 さらにまた、ユダヤの過越し祭の食事の夜は満月と決められていますが、満月の時には日蝕は物理的にありえません。したがって、主イエスが十字架にかかった日の古今未曽有の暗闇はただの自然現象でなく、神が引き起こされた特別な奇跡でした

 聖書において、神が時に起こされる奇跡を「しるし(セーメイオン)」と呼びます。しるしとはサインです。サインというものは、私たちがその意味をキャッチしなければなりません。神様は「御子イエスが十字架にかかった後半の3時間、太陽の光を失わせ闇で地を覆う」というサインを用いて、私たちに何を悟れとおっしゃっているのでしょうか?何を読み取れとおっしゃっているのでしょうか?

 それを理解するには、神さまが聖書のなかで「暗闇」がなんの表象(しるし)として用いていらっしゃるのかを理解する必要があります。旧約聖書の預言書には「暗闇」という印について次のようにあります。

アモス8:9「その日には、―神である主のみ告げ―わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに知を暗くし・・・」

ヨエル2:31「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」

ゼパニヤ1:14,15

「【主】の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。

 聞け。【主】の日を。勇士も激しく叫ぶ。

 その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、

 やみと暗黒の日、雲と暗やみの日」

 

これら預言者たちのことばを読めば、神が「暗闇」という「しるし」を用いて、終末の審判において罪人に下される神の聖なる御怒りを表現しようとなさっていることがわかります。神は聖なるお方であり、正義の審判者です。神は忍耐強く哀れみ深いお方であり、私たちの悔い改めを待っていてくださいますが、最後の最後には歴史に審判をくだし、決着をつけられるのです。その日には、隠されていたすべての罪が明るみにだされて、公正な審判がくだされ、罪人には聖なる怒りが下ることになります。

 かつてエジプトにおいて、ヘブル人を苦しめるエジプトを懲らしめるために、神はエジプトの上に十の災いをくだされました。第一の災いは血、第二の災いは蛙・・・・そして第九番目の災いはエジプト人たちを覆う暗闇でした。そして、第十番目の災いは、エジプトのすべての初子が撃たれるという恐るべき災いでした。そのとき、神が命じられたとおりに小羊をいけにえとしたヘブル人たちは災いを免れました。

 主イエスのタラントの譬えの中で、悪い不忠実なしもべが、主人が戻ってきたときに、外の暗闇に追い出されて歯ぎしりをするとおっしゃいました。暗闇は終わりの審判において罪人に下される聖なる御怒りを表しているのです。

 

 以上からわかることは、二千年前、あのゴルゴタで主イエスが十字架にかけられたとき、十字架の主イエスを覆い全地を覆った暗闇は、父なる神から、神の聖なる刑罰の表象であったということです。神の聖なる裁きが、あの三時間、尊い御子イエスの上に下されたのです。あの暗闇の三時間は、本来、私たちが受けるべき永遠の呪いが詰め込まれた三時間でした。

 御子は闇の中で、天を仰いで父の御顔を捜し求めました。御子はこの世界が造られる前から、どんなときでも御父との親しい愛の交わりのうちにおられました(ヨハネ17:5,24)。父の許を離れて、この世に降られて後も、その伝道生活のなかで御子はしばしば荒野に退いて父との交わりのうちに、平安と喜びと力とを得ておられました。天から「これはわたしの愛する子である。わたしはこの子を喜ぶ。」というやさしく力強い父の声さえも響いたのです。

 しかし、呪いの暗闇が全地を覆ったとき、御子がどんなに父の御顔の光を求めても、何も見ることはできませんでした。御子は「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれたとき、天の父は耳を覆って、最愛の御子から顔を背けられたのでした。

 

3 御父の思い

 

 御子イエスが暗闇の中で、天を振り仰いでみ父の御顔を探されたとき、天の父はどのような思いでいらしたのでしょうか。御子を見放した父は冷酷なお方なのでしょうか。父の御心を少しでも理解するために、私たちはこの出来事のさらに2000年前アブラハムがモリヤの山で愛するひとり子イサクをささげた記事を思い起こしましょう。アブラハム75歳、妻サラ65歳で、神の約束の地へと旅立ち、それから25年がたち、ついに待ち望んだ子が生まれ、その子をイサクと名付けました。その名の意味は「彼は笑う」でした。神が、アブラハムとサラとに笑いかけてくださったからです。

 約束の子イサクはアブラハムの宝でした。いのちでした。彼と妻の四半世紀の信仰生活の結晶でした。愛するひとり子イサクをアブラハムは愛し慈しみ育てました。ところがある日、アブラハムは神のお声を聞きます。

アブラハムよ」アブラハムは「はい、ここにおります」としもべとしての答えをしました。すると、神は恐るべき命令をお与えになりました。

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

 自分の宝、自分のいのち、彼の信仰の生涯の唯一の希望。星の数ほどの子孫が現れ、世界中は祝福されると約束された子、それが独り子イサクでした。その子を全焼のいけにえとしてささげよと、なんとも不可解なご命令を神はお与えになりました。アブラハムは胸引き裂かれました。神の約束を信じて故郷を旅立った日から今日まで、さまざまなことが彼の脳裏を去来したでしょう。神の約束と神のご命令が正面衝突している、この状況にあって、アブラハムはあくまでも神の約束を信じ、神のご命令にしたがったのです。そして、すんでのところで神は彼の友をお助けになりました。

 紀元前二千年モリヤの山でのアブラハムのイサク奉献の出来事は、その二千年後に、同じ場所で神ご自身が行われるイエス・キリストの十字架の出来事の型でした。天の父は、私たちを罪の呪いから救うために、尊いひとり子、愛するひとり子をいけにえとしてささげられたのでした。神の思いは、神の友アブラハムが知っています。

 御子を十字架においてささげた父の心を偲ぶ岩淵まことさんによる賛美歌。

 

         

 父の涙

 

心に迫る父の悲しみ 愛するひとり子を十字架につけた

人の罪は燃える火のよう 愛を知らずに きょうも過ぎて行く

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 

父が静かに見つめていたのは 愛するひとり子の傷ついた姿

人の罪をその身に背負い 父よ 彼らを赦してほしいと

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 

 

祈りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝一番に祈る

詩篇5篇                                                           

 聖歌隊の指揮者によって笛にあわせてうたわせたダビデの歌

5:1主よ、わたしの言葉に耳を傾け、
わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2わが王、わが神よ、
わたしの叫びの声をお聞きください。
わたしはあなたに祈っています。
5:3主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。
わたしは朝ごとにあなたのために
いけにえを備えて待ち望みます。
5:4あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。
悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
5:5高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。
あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。
5:6あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。
主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。
5:7しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、
あなたの家に入り、
聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。
5:8主よ、わたしのあだのゆえに、
あなたの義をもってわたしを導き、
わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
5:9彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、
そののどは開いた墓、
その舌はへつらいを言うのです。
5:10神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、
そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、
その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。
彼らはあなたにそむいたからです。
5:11しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、
とこしえに喜び呼ばわらせてください。
また、み名を愛する者があなたによって
喜びを得るように、彼らをお守りください。
5:12主よ、あなたは正しい者を祝福し、
盾をもってするように、
恵みをもってこれをおおい守られます。

 

 

 

 

 

1.朝一番の祈り

 

「私の言うことを耳に入れて下さい。主よ。私のうめきを聞き取ってください。

 私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」

 

 このようにダビデ王の朝の祈りは始まります。この朝の彼の祈りは「うめき」でした。今から始まろうとする一日、困難が予想され、敵があることを思うときに、彼はうめくような思い、叫ぶような思いにさせられるのでした。王という職務についていれば、毎日毎日むずかしい懸案があることでしょうからもっともなことです。

  しかし、ダビデは祈っています。「私の王、私の神」と。ダビデは王ですが、自分が最高責任者であると思うと責任の重さに押しつぶされてしまいますが、ダビデは自分がてっぺんにいるのではなく、神が自分の王として君臨してくださるのだということに安心を得ているのです。神は、王として彼の叫びに耳を傾けてくださるのです。祈りはあるときには整えられた美しいことばで祈られることもありましょう。けれども、主は、かりに私たちの祈りがそのような美しいことばでなくとも、うめきであろうと叫びであろうと、私たちの祈りが魂の奥底からの真実であるかぎり、それを聞いてくださるのです。

 「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。

  朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」 

                                                                        

 朝、一番に祈るということはとてもたいせつなことです。旧約の聖徒たちも、そして私たちの主イエスも、新約の時代の先輩たちも、主のために実り多い生涯を送った聖徒たちはことごとく朝の祈りをたいせつにした人たちでした。ほかの詩篇で見るならば、

59:16「まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。」

88:13「しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。」

 

 主イエスのガリラヤ伝道の初日は多忙をきわめました。翌朝、弟子たちはくたびれはてて泥のように眠りこけていました。しかし、その時、主は暗いうちから祈っていらっしゃいました。福音書はこう記しています。

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)

 「絶えず祈りなさい」と聖書は命じるのですから、私たちは心で祈りつつ一日中過ごします。クリスチャン生活は二十四時間祈りです。けれども、同時に特別に主の御前に静まって祈りの時を一日のうちに持つ必要がある。それは朝一番です。何をするよりも先に、まず主に祈ることが必要です。家族に「おはよう」という前に、まず神様に「おはようございます」とあいさつすべきです。新聞を読む前に、ニュースを聞く前に、仕事をする前に、とにかく起き上がったら、神様にご挨拶します。 朝一番の祈り、ダビデにそれが必要でした。神の御子である主イエスにさえそれが必要でした。ましてや、弱い私たちにはなおのこと、神との交わりとしての朝の祈りが必要です。

 なぜでしょうか。それは、虎視眈々と私たちの魂をつけねらっている悪魔がこの世にいるからです。なんとかして、私たちを誘惑し、罪を犯させ、落胆させて、神様の役に立たぬ者にしてしまい、私たちを滅ぼしてしまおうとするやからがいるからです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよ

うに、食いつくすべき者を捜し求めながら、歩き回っています。」(1ペテロ5:8)

 そこでダビデは祈ります。

「朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」

 何があろうととにもかくにも朝明けに祈る。最優先順位に朝の祈りをもってくることです。主婦など聖書を味わうことまで含めた朝まとまった時間が取れないとしても、まず祈る。聖書は人心地ついてからだとしても、まず静まって祈ることです。それは10分あればできることです。

 

2.聖別(4-7節)

 

 神様に向かって祈りのうめき、叫びをあげて、しばらく心静めると、神様のきよさが感じられます。朝の祈りにおいてたいせつな第一のことは、「ああしてください。こうしてください。」とお願いを並べたてることではありません。お願いもよいことですが、それが一番ではない。

 何が第一にたいせつか? それは主と向かい合うことです。そして、主に触れることです。主を知ることです。主に知って頂いていることを知ること。そして、主に自分の身も心もゆだねることです。みことばを味わあったあと、そのとき問いの最初はかならず「神様はどのようなお方ですか?」ということです。神様がどのようなお方であるかということを御言葉を通して思い巡らし、このお方に向かって祈るのです。                                                                             

 神様はあなたの便利屋ではありません。神様は朝早くあなたの注文を聞きに来たご用聞きではありません。神様はあなたの主であり、あなたの友となってくださったのです。愛するとは、まず相手に関心を持つことです。相手がどのような趣味があるのか、どのような性格なのか、どのような生い立ちなのか。人格を愛するならば、私たちは相手がどのような人なのかを知りたくなるものです。ただ自分の言いたいことを言い、注文をつけて「はい。ではようなら。」というならば、よくてご用聞きに注文をしているようなものです。神様をご用聞きや自動販売機のようにあつかうような失礼が許されるはずがありましょうか。それでは、あなたが主であって、神様があなたの奴隷ということになってしまいます。そんな祈りを主はお聞きになるでしょうか。逆でしょう。

 どうすればよいか。まず神様の御名をお呼びする前、1分、二分心静めしばらく唇を閉ざして、神様御自身がどのようなお方であるかを聖霊様の導きのうちに味わうことです。そして、最初の呼びかけになります。

「天の御父様」

「私を愛の大盾で囲んで下さる神様。」

「聖なる神様」

「私の羊飼いなる神様」

「歴史の支配者である神よ」「天地万物の造り主なる神様」

 祈りはこの最初の神様への呼びかけで導かれます。

 

 この朝の祈りでは、ダビデの前に神様は「私の王」つまり、正義のさばき主として立ち現れてこられました。

「あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいはあなたとともに住まないからです。」(4節)

と。この神認識があとの祈りを導いています。神様は「誇り高ぶる者」「不法を行なうもの」「偽りを言う者」「血を流す者」「欺く者」を忌み嫌われるのです。正義の王のきよい臨在を意識したときに、ダビデはまずこうした罪を離れる必要を感じました。神様の御前に出ようとしたとき、まず罪を離れなければならない。傲慢、不法、偽りをまず告白し、主の恵みによる赦しに包まれて、御前にひれふすのです。

 「しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれふします。」

 ディボーションとは神様の御前にひれ伏すことでした。神様に知性も感情も意志も体も心も持ち物もみなあゆだねすることでした。この世から聖別して自分を神様のものとしてしまうことでした。

 

3.世の戦いに

 

 正義の王である神を知り、主の御前にひれ伏して自分を聖別した後、ダビデの祈りはこれから出てゆかねばならない世の戦いにかんすることに向けられて行きます。神様の御前に聖別されて、私たちは世捨て人となるわけにはいかない。神様の御前に聖別された後、世に派遣されて行かねばならないのです。

「真理によって彼らを聖め別かってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17、18)

 

 そこで願いが生じてきます。祈りの課題が生じてきます。

 自分が遣わされて行くべき世を思うとき、ダビデ王は危険を感じたのです。さまざまな人々や手練手管を用いて自分を誘惑しようとしていると感じたのです。だから「主よ。私を待ちぶせている者がおりますから、あなたの義によって私を導いて下さい。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」と祈ります。

 ダビデが特に警戒したのは、その唇をもって誘惑し、へつらい、欺こうとしてくる人々

のことでした。

9節「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。

彼らののどは開いた墓で、彼らはその舌でへつらいをいうのです。」

 

と。ダビデは国王という務め上、毎日毎日多くの人々の訴えや進言を聞きました。多くの人々の意見を聞き、だれのことばに真実があり、だれのことばに偽りがあり、へつらいであり、だれの意見を取りあげるべきであり、だれの言葉を退けるべきかということを常に的確に判断しなければならなかったのです。

 人間の性(さが)としては自分をほめそやし、持ち上げてくれる人のことばを聞きたいものでしょう。自分の過ちを指摘することばには、耳を閉ざしたくなるものでしょう。しかし、そうするならば私利私欲のために巧みなことばをもって王を利用する人々によって国の前途を誤ることになりましょう。ダビデは、だから、主に向かって祈るのです。

      

「主よ。私を待ちぶせている者がおりますから、あなたの義によって私を導いて下さい。

私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」

「神よ、彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。云々

 

 

 私たちは、国王ではありませんけれども、キリストにあって私たちには預言職(伝道する務め)、祭司職(祈り捧げる務め)とともに王職が与えられています。それは、この世にあって与えられたさまざまな持ち場、立場において、正義を行なって行くことです。

 世にはいろいろな誘惑がありましょう。人々は、あなたを名誉欲、金銭欲、性欲、世間体、人情こうしたさまざまなものをもって誘惑するでしょう。しかし、小なりとはいえ、私たちもまたキリストにある王としてこれらの誘惑を退けて、義を行なわねばなりません。そのためには、やはり毎朝祈る必要があります。

「主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いて下さい。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」と。

 

4.頌栄

 

 そして、祈りは最後に賛美と祝福をもって閉じることになります。11、12節。

「こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」

 

 祈りは賛美にまでつきぬけるならば、すばらしい。それは確信にいたった印です。私たちの人生はつきつめるならば、主を賛美するために与えられた人生にほかなりません。ほかのことはそのための手段です。仕事をするにも、遊ぶにも、食べるにも飲むにも、神の栄光を現わすようになのです。

 主が再び来られて新しい天と新しい地が来るならば、そこではただただ主への賛美がなされるのみです。そして神の愛のうちに私たちは生きることになります。

 

むすび

「主よ。朝明けに、私の声を聞いて下さい。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」朝一番の祈りは、第一に自らを主の御前に聖別して主と交わること、第二に、主によって一日の悪魔との戦いに備えること。第三に、主に栄光をお返しすることでした。神は、きょうもあなたに、「さあ、行ってらっしゃい。わたしがあなたとともにいる!恐れることはない。わたしが愛の大盾であなたを囲む。」と力をくださいます。

 

主イエスの覚悟

マルコ15:22-32

 15:22 そして、彼らはイエスゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。

 15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。

 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

 15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

 15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

 15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。

 15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。

 15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。

 15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 

 

1.ゴルゴタ・・・死について

 

 主イエスはサンヒドリン、ピラトの官邸での裁判で有罪とされ、激しく鞭打たれた後、重い荒木の十字架を背負って処刑場へと向かわれました。その処刑場の名はゴルゴタと呼ばれました(22節)。ラテン語ではcalvariaといいます。 ゴルゴタとはサレコウベという不気味な名がこの丘に付けられたのは、処刑場にサレコウベがごろごろ落ちていたからであろうと推測した中世の画家は、十字架の下にサレコウベが落ちている絵を描きましたが、それは誤解のようです。考古学者であったゴルドン将軍は、白い石灰岩でできた丘にできた自然の穴がちょうどサレコウベに見えるところを見つけて、これこそゴルゴタの丘だという説を唱えました。これがゴルドンのカルヴァリーと呼ばれる丘で、伝統的に言われてきたゴルゴタの丘よりもヨハネ福音書の記述と調和するものです。いずれにせよ、ゴルゴタとは不気味な処刑場の名にふさわしいものでした。

 されこうべに象徴される死は人間にとって不気味なものです。ある人たちは「命ある者はすべて死ぬのだ」と自分に言い聞かせて、死の恐れを超越しようと厳しい修行しました。また、「死は恐れるに足りない。なぜなら、死が訪れたとき、私はそこにいないからだ。」などと言った哲学者もいました。しかし、そんな修行や屁理屈が必要だということ自体が、死はいかにも不自然で恐ろしいものだという事実を示しています。死が本当に恐れるに足りないならば、強弁する必要もなければ修行する必要もありません。

 聖書は、本来、死は異常なのだと教えています。死は、神に対する人間の反逆に対する呪いとして始まったからです。「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」人は、心の底で死に対しておびえながら生活をしています。なぜでしょうか?愛する者との別れがあるから。それも一つの理由でしょう。しかし、もっと深い理由があります。聖書によれば「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(1コリント15:56)とあります。大きなスズメバチがブーンと目の前に迫ってきたら私たちは恐れます。なぜですか?ハチにはとげがあるからです。もしとげを抜いてしまったなら、ハチは怖くもなんともありません。なぜ人は死を恐れるのか?それは死にはとげがあるからです。そのとげとは罪です。そして、「罪の力は律法です」というのは、罪があるならば、人は神の律法の基準にしたがって、有罪判決を受けて燃えるゲヘナに陥らなければならないという意味です。

「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています。」とみことばは言っています。死後、あなたの生前の心の思いと言葉と行動のすべてをご存知の聖なる審判者の前に立たねばなりません。神の前に出て、罪のない人はただの一人も存在しません。誰にも隠しておきたい恥ずべき罪が洗いざらい神の前に露わにされ、神の律法に従って有罪判決が下されます。だから、人が死を恐れるのは正常なことです。

 神の御子イエス様は、私たちを死後の有罪判決から解放するために、二千年前、人としての性質を帯びてこの世に生まれてくださいました。そして、ゴルゴタの十字架の上で、私たち人間の罪に対する律法ののろいを一身に引き受けて死んでくださったのです。

 

2.苦味をまぜたぶどう酒を拒む・・・イエス様の覚悟

 

 さて、ゴルゴタの丘に到着すると、処刑人であるローマ兵たちは、イエスの処刑の準備に取り掛かりました。イエスを十字架の上に仰向けに押し倒し、犬釘で打ち付ける前にすることがありました。それは「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲ませることでした(23節)。マタイでは「苦みを混ぜた葡萄酒」とあります。それは、一種の麻酔効果があるものでした。

 十字架刑というのは、一見すると、江戸時代の磔に似ているのですが、実際にははるかに残酷なものです。ローマ帝国における十字架刑というのは十字架に釘で打ちつけて後、これを引き起こしてぶら下げてから、止めをさすことなく、苦痛の中に長時間放置して、絶命するのを待つというものでした。十字架が引き起こされると両手と足のくぎに全体重がかかり激痛が走りますが、突っ張るのをやめると呼吸困難に陥ります。十字架上の罪人が、余りにもひどくもだえ苦しむので、残忍なローマ兵もさすがに見るに耐えず、「没薬を混ぜたぶどう酒」を犯罪者に飲ませることになっていました。どんな犯罪人も、この苦味を混ぜたぶどう酒をごくごくと飲んで、からだの神経を麻痺させて少しでも苦痛をのがれようとしました。イエス様の両脇の強盗たちも苦味をまぜたぶどう酒を飲んだのです。

 ところが、イエス様は、今まさに釘が撃ち込まれようとしているのに、ローマ兵たちが「ほれ、飲め。少しは楽になるぞ。」と没薬を混ぜたぶどう酒を差し出されると、あえて、これを拒否なさいました。

 15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。

なぜでしょうか?それは、主イエスは私たちを罪の呪いから贖いだすための苦しみの杯を一滴残らず飲み干す覚悟を固めていらしたからです。エス様はご自分に下される激痛によって、私たちに平安を与え、その打ち傷によって私たちを癒すのだから、自分が十二分に苦むのだ覚悟を決めておられたのです。もったいないことです。

旧約聖書イザヤ書の預言に、このように書かれています。

53:5 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

   私たちの咎のために砕かれた。

   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

   彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 

 イエス様はこの預言を成就するために、没薬を混ぜたぶどう酒を「いらない」と拒否なさったのでした。私たちの呪いをその身に引き受け、その引き換えに、ご自分が持っておられる祝福を私たちに差し出されたのです。

 

3.兵士たち・・・無関心・辱め

 

 エス様のこの十字架の死に対して、十字架の下の人々はどんな反応を示したのでしょうか。

 異邦人であるローマの兵士たちは、イエスにさんざん辱めを加えました。力こそ正義である価値観のローマ兵たちにとっては、無抵抗で敵に捕まえられ、弟子たちにも見捨てられた弱弱しいイエスは軽蔑すべき者でしたから。兵士たちは、没薬の入ったぶどう酒を拒むのを不思議に思ったでしょう。「なんだこいつ!俺たちの温情を拒みやがって。へんな野郎だ。さんざん苦しむがいいや。」とでも思ったでしょうか。

 そして、兵士たちは、十字架の下で悪ふざけにくじ引きを始めました。もちろんイエス様の着物が欲しいわけではありません。くじ引きをしてイエスの着物を分けたのです。主イエスは犯罪者のように着物を剥ぎ取られて、衆人環視の中に置かれたのです。かりにあなた自身、衆人環視の中で、裸にされてさらしものにされたら、と考えるとどうでしょうか。イエス様は、私たちのために十字架に釘付けにされるという肉体的な苦痛だけでなく、精神的な辱めをも忍ばれました。ほんとうに申し訳ないことです。

 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

 「ユダヤ人の王である」という罪状書きにしても、彼らがイエスをほんとうに王として遇しているわけではなく、単なる悪ふざけにすぎません。イエス様の苦しみや悲しみの深刻さに対して、十字架の下の兵士たちの悪ふざけがあまりにもひどい。

 

 主イエスの死は単なる死ではなく、辱めの果ての死でなければならなかったのはどういうわけなのだろうか?と私は長く考えました。例えばお釈迦さんの死といえば、悲嘆にくれる弟子たちに囲まれて、静かに入滅したということが言われています。また、ソクラテスは、裁判にかけられ不当な裁定であったという点では、イエスさまと共通しています。しかし、彼は、自らの哲学に従って「悪法も法なり」として死刑判決を受け入れ、自ら毒杯をあおって従容として死につきました。いずれも尊厳ある死です。ところが主イエスの死は、弟子たちには逃げられ、侮辱のきわみの死でした。なぜでしょうか。それは、私たちの神の前の高ぶりという罪に対する報いを、主イエスが代わりに受けてくださったことを意味しています。「神などなくても、自分は生きていける」といった、神の被造物にすぎない人間としての分を越えた愚かな傲慢の罪に対しては、侮辱が報いられねばならなかったのです。

 

4.「神の子なら十字架から降りて来い・・・誤解されたメシヤ像

 

(1)道行く人々

 十字架はゴルゴタの丘の上の小路の端に立てられ、両脇には二人の強盗の十字架が立てられました。(38節) かたわらを行く人々は、十字架にはりつけにされたイエスを見上げて、罵ります。その中には、つい六日前には、「ホサナ!ダビデの子に。」と歓声を挙げて棕櫚の葉をふりながらイエス様のエルサレム入城を迎えた人々もいたはずです。

15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 通行人たちはなぜイエス様に対する態度を変えたのでしょうか。彼らは、「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。と叫んでいます。マタイの並行記事では「神の子なら自分を救ってみろ」ともあります。彼らが期待した「神の子」とは、奇跡をなす圧倒的な力をもち、十字架などものともせずに釘をぐいっと引き抜いて、飛び降りてきて、ローマ兵たちをなぎ倒し、ピラトをその座から引きずり下ろして叩き切るようなヒーローだったからでしょう。彼らがイエスに期待したのは偉大な奇跡を起こし、剣の刃でにっくきローマ帝国を打倒して、この国に独立をもたらし、かつてのダビデ・ソロモン王朝の栄華を再現するような偉大な王でした。

ここ数日の間、イエス様はエルサレム神殿を訪れては、次々にやって来る論敵を、見事に退けてこられました。サドカイ派パリサイ派も、弁舌においては、イエス様にはまったく太刀打ちできませんでした。民衆の期待は膨らみました。ところが、英雄だと期待させたイエスは、ゲツセマネの園で何の抵抗もせずにむざむざと逮捕されてしまい、ユダヤの法廷でも雌羊のようにおとなしく、ローマ総督ピラトの法廷でも惨めな姿を晒し、ついには、十字架刑になってしまったのを見て愛想が尽きたのでした。頭上に掲げられた「ユダヤ人の王」という罪状書きの看板も腹立たしいことでした。彼らの根本的な間違いは、彼らの「神の子」観、メシヤ観でした。民衆は軍事的英雄としてのメシヤを期待し、その期待がはずれたのでイエスを見捨てたのでした。

 

(2)祭司長たち

 他方、「祭司長、律法学者、長老たち」は、ユダヤ最高議会のメンバーたち、つまり当時のイスラエルの支配階級の人々です。イスラエルローマ帝国の属州の一部であり、ローマ帝国政府は、それぞれの属州の支配階級を利用して統治を行っていました。サンヒドリンの人々は、ローマ帝国の支配体制の一部をなしていました。彼らがイエスを亡き者にすべきだと考えたのは、イエスがこの体制を揺るがす危険人物だと考えたからです。要するに、彼らがイエスを殺した理由は、保身、既得権益を維持することでした。

エスを裁判にかけたとき、サンヒドリン議員たちは、自己正当化する理由が見つかりました。それは、イエスは自分のことを神の御子であると証言したという事実です。「人間が神の子を名乗るとは、神への冒涜も甚だしい。当然、冒とく罪で死刑にあたる」と彼らは考えたのです。

ここ3年間、ずいぶんてこずったけれども、ついにこの危険人物イエスを十字架にかけることができたという満足感に浸りながら、イエス様を嘲ります。彼らの抱いていたメシヤ観も道行く人々と似たり寄ったりでした。彼らにとってメシヤとはイスラエルの王として、強大な権力を振るう者でした。十字架につけられたイエスなど、彼らのイメージするメシヤとは遠く隔たっていました。

 15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。 15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 

結び

 主イエスの十字架の下には、神に無関心で、どこまでも世俗的で、腕力や権力にしか価値を見出さないようなローマ兵たちでした。ローマ兵たちにとって十字架は愚かなことであり、みじめなものでした。彼らにとって「王」というのは栄光と権威と富をもち剣をもって敵を打ち倒す強力な存在でなければならなかったのですが、イエスは富も剣も栄光も持たなく、衣まではぎ取られた、それこそなにもない男でした。

また、民衆も同じです。イエス様を世俗的な王に祭り上げようとして、そうでないと知ると失望してイエスを見限ったような民衆でした。憎きローマを追い出し、自分たちの愛国心を満足させ、生活をよくしてくれるそういうメシヤを彼らは期待していました。そういう民衆にとってもイエスが十字架にかかったことは愚かなことでした。

 また、サンヒドリン議員たちは、自分たちの権益を守ることに窮々としていて、それを脅かすと思いこんだ狂信的な革命家イエスを謀殺してしまうような人々でした。彼らにたてついて十字架にかかってしまったイエスは愚か者にすぎませんでした。

 彼らが思い込んでいたメシヤは、愛国心であれ、生活改善であれ、自己実現であれ、肉の欲望を満足させてくれるそういう男でした。神の前における、自分の罪をきよめてくださる王ではなかったのです。イエスの十字架の死は、滅びにいたる人々には、理解しがたい愚かなことなのです。

 

しかし、主イエスはあえて十字架に自ら進んでつき、その没薬の葡萄酒さえも拒んであえて激痛をしのばれたのです。なぜでしょうか?それは、私たち人間の根本的な問題は、貧困でもなく、病気でもなく、民族の誇りを奪われていることでもなく、神の前における罪であるからです。

主イエスは、貧しさの憂いや生活の困難もあえて舐めてこられました。多くの病気に苦しむ人々を、病からも解放してこられました。けれども、主イエスは、私たちが抱えている根本問題は、貧困や病気ではないことをもご存知でした。貧困も病気も人を神から引き離すことはなく、永遠のゲヘナに陥れることもありませんから。

罪こそは人を神と断絶させ、ついには私たちを永遠の滅びに陥れるものです。そこで主イエスは、聖なる神の前における私たちの罪を引き受けてくださいました。そして、私たちが神とともに生きる永遠のいのちに生きることができるようにしてくださいました。そして、イエス様を信じる者にとって、恐るべき死は克服され、死は永遠のいのちへの門と変えられたのです。

 

「十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」1コリント1:18

 

十字架を負う恵み

マルコ15:16-21

 

  15:16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。 15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。 15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。 15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。 15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

  

 

1.王として

 

(1)王のいでたち 

ローマ総督ピラトがイエスに有罪判決を言い渡すと、総督の兵士たちはイエスを官邸に連れ込みます。すると、その中庭に兵士たち全員ぞろぞろとイエスの周りを取り囲みました。彼らは、この餌食をなぶりものにしてやろうとニヤニヤと残忍な笑みを浮かべています。この後、兵士たちはイエス様に対する振る舞いは何を意味しているのでしょうか。
 彼らはイエスの着物を脱がせて、緋色(深紅、赤い)外套を着せ掛けました。ローマ兵のマントなのでしょうか? 次に、そこいらに生えていた荊を輪にして、イエスの頭に王冠として押し付けました。主の額から幾筋もの血が滴り落ちました。王の杖としては葦の棒を持たせられます。

緋色のマント、荊の冠、右手に王の杖は、王としてのいでたちでした。そうして、おどけてイエスの前にひざまづいて「ユダヤ人の王さま、ばんざい!」と彼らはイエスを侮辱したのです。そうして、さらにイエスにペッとつばきを吐きかけ、王の杖である葦を取り上げて、イエスの頭を何度もたたいたのでした。

 

兵士たちはなぜ主イエスにこんな侮辱をしたのでしょうか?ユダヤのサンヒドリンがイエスを訴えた罪状は、「イエスユダヤ人の王を名乗り、民を煽動して、ローマ皇帝にたて突いた」ということであったからです。十字架でイエス様の頭上に掲げられた罪状書きにも「ユダヤ人の王」と記されました。聖画でときどき見かけるINRIというのは、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMナザレのイエスユダヤ人の王」の頭文字です。敵になんの抵抗もせず、むざむざと捕まえられてなぶられっぱなしで、王と名乗っているイエスを侮蔑したのです。軍事力で世界を手中に収めたローマ人の価値観は、「力こそ正義である」というものでしたから、彼らからすれば、無抵抗を貫くイエスが王と名乗るのはちゃんちゃらおかしいことだったのです。

 

(2)王として自由な精神

 「力こそ正義」という世界では、暴力に対しては暴力を報い、怒りに対しては怒りをもって報い、憎しみに対しては憎しみをもって報いるというのが、常識です。しかし、そこには必ず絶えることのない憎しみの連鎖が生じます。国と国の間でも、民族と民族の間でも、仕返しに対して仕返しをする、すると、その仕返しに対してさらに仕返しをし、そのまた仕返しに対して仕返しをして、その連鎖はやむことがながありません。しかも、その連鎖は世代を超えて子々孫々にまでつながっていくのです。彼らを操る黒幕は悪魔です。 これは国と国の間だけでなく、私たちの社会生活、家庭生活でも同じことです。意地悪をされたから、意地悪をして返す。すると、それに対してまた意地悪が返ってきて、エスカレートして行き、ひどくすると殺人が起こってきます。背後で彼らをコントロールするのは悪魔です。

 王である主イエスは、まったく違う道を選びました。罵られても罵り返さず、右のほほを打たれたら左のほほを差し出し、憎まれたら愛するという道でした。悪魔も、主イエスをコントロールすることができないのです。奴隷とは不自由な者で、自分をコントロールできません。これに対して、王とは自由な存在です。誰に支配されることもなく、自分の主体的な意志で自分の行動を選ぶことができる。それが王です。敵をも愛する主イエスは、真に自由な王でした。

 荊の冠を押し付けられて額から血を流し、葦の王杖を持ち、コブシで殴りつけられ、つばを吐きかけられた主イエス。しかし、その主イエスの心は憎しみに囚われることなく、父なる神を見上げ、敵を愛していらっしゃいました。主イエスは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、いっさいを天の父にゆだねていました。これこそ、気高い、自由な王としてのキリストの姿でした。このようにして、王なるキリストは、悪魔と戦い、罪と戦い、私たちの贖いを成し遂げられるのです。

 

(3)いばらの冠の王

 キリストが王であることについては、歴史の中で多くの人々が誤解してきたように思います。中世ヨーロッパのアッシジのフランチェスコの青年時代を描いた「ブラザーサン、シスタームーン」という映画があります。その中で、アッシジの町から青年たちが鎧兜に身を固めて長槍をもって隣国との戦いに出陣していく場面があります。その時、町の司祭が十字架のキリスト像を掲げて、彼らを祝福するのですが、そのキリスト像は銀色の鎧に身を固めて金色の王冠をかぶって、恐ろしい顔をしているのです。つまり、大将軍としての王キリストです。青年フランチェスコもそうして出陣しますが、戦地で憔悴して帰還し、療養生活をします。やや体調がよくなり野を散歩していたとき、崩れ落ちたサン・ダミアーノ礼拝堂を見つけました。その正面には優しいお顔をした十字架のキリスト像が掲げられていました。フランチェスコは、これに慰められたのです。

 福音書に記録された本物のキリストは、いばらの冠をかぶり、今にも折れそうな葦の王杖をもった優しい王なのです。この事実が意味することを、私たちはよくかみしめなければなりません。キリストは神に敵対する私たちを憎むことでなく、私たちを愛し、私たちの罪をかぶるために十字架で命を捨てる、そのようにして悪魔に勝利を収めた王なのです。

 

2 クレネ人シモン・・・十字架を背負う恵み

 (1)無理やり十字架を背負わされて

ピラトはイエスユダヤ人たちに引き渡す前に、兵士たちにひどく鞭打たせましたから、イエスの背中の皮膚は破れてしまい、主イエスは相当に憔悴していました。そのイエスの血まみれの背中に兵士たちは、はりつけにするための十字架を背負わせます。十字架を担う主イエスは、エルサレム城外のゴルゴタの丘への道を進んで行かれます。石畳の、両側に家並みが迫るだらだらとした坂道です。一歩一歩進んでゆく道の両側に、野次馬がずらりと並んでいて罵声を浴びせかけます。過越しの祭りの時期ですから、エルサレムには人があふれていました。

 その野次馬の中にクレネ、北アフリカリビアから、やってきた1人の巡礼がいました。彼の名はシモン。彼はエルサレム神殿に詣でるために、一張羅に着替えて神殿に向かおうとしていたのです。ところが、ゴルゴタに引かれていく囚人たちが通る道のところで足止めになっていたのでしょう。すると、シモンの前に十字架を背負った囚人があえぎながら歩いてきたのですが、その男だけは頭に荊の冠をかぶせられています。そして、彼の目の前まで来るとけつまずいて倒れ、重い十字架がドスンとその囚人の上に落ちたのです。ローマ兵がその囚人に駆け寄って「立て!立ち上がれ!」と罵り、群衆たちがも嘲りますが、どうしても立ち上がることができません。ローマ兵はあたりをぐるりと見回すと、気の毒そうに眺めているシモンを指差すと命じました。

「おい。お前が、イエスの十字架を運んでやれ!」

 シモンはいやでした。しかし、ローマ兵たちに無理やりにイエスの十字架を背負わされてしまいます。

  15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

 シモンは決して自ら進んでではなく、いやいやイエスの十字架を処刑場にまで運ぶ役を担うことになったのでした。ずっしりと背中に負わせられた血まみれの十字架に、せっかくの晴れ着もイエスの血にまみれてしまいました。周りの人々はシモンのことを、間抜けな野郎だなあと気の毒そうに見ています。シモンは泣き出したい気持ちだったでしょう。けれども、前を一歩一歩進んでいく主イエスの背中を見ながら、彼はゴルゴタへと向かって行ったのでした。

 

(2)クレネ人シモンのその後

 不思議なことは、イエス様の十字架を背負ってゴルゴタまで運んだ、こんな名もないような人の名が、福音書記者によって、きちんと「クレネ人シモン」と記録されているという事実です。この事実は何を意味しているのでしょうか?少し考えれば、わかることですが、後日、クレネ人シモンという名が初代教会の中でよく知られる名前となっていたことを意味しています。つまり、シモンは後日初代教会のメンバーとなって、教会の集いの中で、「実は、おいらがイエス様の十字架をゴルゴタまで背負って、お手伝いをしたんだよ。」と証しをすることがあったのでしょう。初代教会では、「クレネ人シモンさん」といえば、イエス様の十字架を背負った男、ということでした。

  マルコ15:21の紹介を見ると、「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父」とあります。

アレキサンデルとルポスという兄弟が初代教会の名の知れたメンバーだったからです。ルポスという名は、使徒パウロがローマ教会に宛てた手紙の中に登場します。そこでは「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私との母によろしく」(ローマ16:13)とあります。このところを見ると、使徒パウロは巡回伝道においてルポスのお母さんにずいぶん世話になっていて、ルポスとは兄弟のように親しい間柄になっていたことがわかります。

 さらに、アフリカ・リビアのクレネ出身のシモンらしき初代教会の人物をさがすと、その名はまず使徒の働き13章1節に見えます。

13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。

 「ニゲルと呼ばれるシメオン」と呼ばれている人です。ニゲルというのはギリシャ語で「黒い」という意味ですから、アフリカ・リビア出身のシモンの肌が黒かったという意味でしょう。彼はアンテオケ教会における指導者の1人になっていたということがうかがえます。

 こうしてみると、無理やりに主イエスの十字架を負わされたシモンでしたが、この主イエスとの出会いから、彼はキリストへの信仰を与えられ、さらにその信仰は妻に、息子のアレクサンデルとルポスにも伝えられたことがわかります。彼らはみな初代キリスト教会において、一生懸命に福音の宣教のために献身的に協力する人々となっていったことがわかります。シモンが泣きながらでも十字架を背負ってイエス様について行ったことは、実は、シモンに与えられた神の恵みだったのです。

 

結び  三つのことをまとめます。

 第一。主イエスは荊の冠をかぶる王でした。その姿は表面的には惨めさのきわみでした。しかし、主イエスこそは自由な精神をもった王でした。罵られても罵り返さず、憎まれても愛し、悪に対して善を報いることがおできになったことは、主イエスがまことに気高い自由な精神の王だったことの証です。主イエスは気高い自由な王でしたから、相手が悪をなしても、善を報いることができたのです。

 

 第二。クレネ人シモンは、最初は無理やりに十字架を背負わされました。けれども、ゴルゴタに向かって一歩一歩踏みしめて行かれる血まみれの背中を見ながらついて行き、十字架の上で「父よ、彼らを赦してください」と敵を赦す祈る主イエスの声を聞いたとき、「このお方は神の御子だ」とわかったのです。そして、その信仰は妻へ、息子たちへと受け継がれ、シモンの家族は、主の十字架の福音のために奉仕をする祝福された家族となっていったのです。十字架を背負う恵みです。

 

 第三に私たちの贖罪的生き方、十字架を背負う生き方について。私たちの罪を背負って十字架に死に、私たちを神の前にゆるすことのできるお方は、むろん、神の御子であるイエス様だけです。しかし、イエス様を信じる私たちに、主イエスはおっしゃいます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:23,24)主は、私たちにも十字架を背負ってついてきなさいとおっしゃいます。そこにいのちがある、と。

 先週の北海道の牧師研修会で教わったばかりですが、賀川豊彦はイエス様とイエス様にしたがう人のことを、「人格的白血球運動者」と呼びました。白血球というのは、体の中に入り込んだ病原菌を自分が引き受けることによって、からだ全体を病から救う働きをしています。そのように、賀川さんは世の罪をわがこととして引き受けることによって、世界に光をもたらしました。また、やなせたかしさんもまたアンパンマンに贖罪的な生き方を表現しました。アンパンマンは、おなかがすいて弱っている者のために自分の頭をちぎって食べさせてあげます。また、人が捨てたゴミを自分のゴミとして拾う生き方です。人の迷惑をイエス様の愛によって喜んで引き受けることによって、暗い世の中を明るくし、汚れた世の中をきれいにしていく。それが贖罪的な生き方であり、そういう生き方をするキリスト者のまわりに神の国が広がっていくのです。

 

新聖歌445

「重くともなれが十字架 担い行け笑みもて

 試みにあいし人々 助けうる時あらん

*笑みをたたえて 感謝 抱きて

 十字架を担え 神より報いをば受くべし」