Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

万事相働きて益となる

ロマ8:28-30

 

2018年7月15日 苫小牧主日伝道礼拝

「 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

 

 

1.神の摂理

 

 ローマ8章28節は、神の摂理を教える言葉です。神がご自分を愛する民のために、うれしいこと、かなしいこと、さまざまな出来事、出会いを上手に配分して、最終的に益にしてくださるということです。

 紀元前1800年ころ、イスラエル民族の先祖ヤコブの息子にヨセフという17歳の青年がおりました。彼は12人兄弟の11番目で、父から特にかわいがられて、頭もよくてその上ハンサムでした。父のえこひいきのせいで、兄たちから妬みを受けて、ヨセフはエジプトに行く隊商に奴隷として売り飛ばされてしまいます。

 エジプトでポティファルという高級官僚の家のしもべとなったヨセフは、やることなすこと成功して主人から信頼され、家の管理人マネージャーとなります。ところが、ある日、ポティファルの妻がヨセフに言い寄ります。「ヨセフ、あたしと寝ておくれ」。ハンサムが災いしました。しかし、ヨセフは言いました「神の前にもご主人に対しても、そんな罪は犯せませんと言います。」 ところが恥をかかされたと逆上した邪悪なポティファルの妻の讒言によって、主人は激高しヨセフを投獄してしまいます。

 囚人となったヨセフは、しかし、不貞腐れることなく牢屋でもマネジメントの能力を発揮します。また、ヨセフの後、王の怒りを買って牢屋のなかに入って来た献勺官いわゆるお毒見役の夢を神のくださった知恵によって説き明かしてやりました。お毒見役は、ヨセフの予告通り、三日後に出獄しました。お毒見役は、その恩を忘れてしまいます。

が、数年後のある日、エジプトの王ファラオが妙な夢を見ました。それは何か不吉なことを意味しているようで、気になって仕方ありません。周辺のだれに聞いても夢を説き明かせるものがおりません。そこでお毒見役は言いました。「牢のなかでヨセフという男に会いました。ヨセフは夢を説き明かすことができます。」そこでヨセフは王に呼び出されて、夢を説き明かしました。ヨセフは言いました。「王の夢の意味は、今後7年間大豊作がやってくるが、そのあと7年間大飢饉がやってきます。王は、初めの7年間に十分に食糧を備蓄して、続く7年の大飢饉に備えるべきです。」

王はヨセフの知恵に驚きまた尊敬し、ヨセフを緊急で総理大臣に取り立てました。果たして7年間の大豊作が来ましたが、ヨセフはその間に巨大な備蓄倉庫を造らせて、備えをしてまいります。7年が過ぎると大飢饉がやってきました。オリエント世界は飢えましたが、エジプトは大丈夫でした。そこでアフリカからもヨセフの故郷カナンの地からも食料の買い付けに来る人々の列ができました。その中に、あのヨセフをねたみ憎んで奴隷として売り飛ばした兄たちもおりました。ヨセフは兄たちを見つけ、最初は警戒しましたが、兄たちがヨセフを売ったことを心から悔いていることを知り、これは神の導きなのだと確信するにいたります。そうです。神は、イスラエルの民を生かしておくために、いっさいのことを配慮なさったのだとわかったのです。そこで、ヨセフは兄たちに告白します。

45:4 「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 

まさに、神の摂理です。28節。

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 たとい目先は不都合なこと辛いことであっても、神様を愛して生きる者たちには、神様は万事を働かせて益としてくださいます。摂理と訳されることばは、プロヴィデンスということばですが、これは「配慮」「配剤」とも訳されることばです。配剤とは医師が患者の病状にあわせて、あの薬、この薬と上手に組み合わせて処方することです。人生にはいろいろなことがあります。照る日、曇る日、嵐の日、神様を愛して生きる者たちにも、さまざまなことが起こります。けれども、神様を愛して生きる者たちには、神様は、結局は益となるように、すべてのことを相働かせて配慮をしてくださいます。

 ここで「働かせる」と訳されることばはsynergeiということばなのですが、synというのは「ともに」という意味です。「ともに働かせる」ということです。つまり、ヨセフが兄たちの恨みを買ってエジプトに売られたこと、これはつらいことです。エジプトで、ポティファルの家で管理能力を磨いたこと、その妻に陥れられて囚人となったこと、そこで、お毒見役と出会ったこと、エジプトの王が夢を見たこと。すべてが共に組み合わせられて、彼が総理大臣となり、カナンの地で一族滅亡の危機にあった家族を安全なエジプトに呼ぶことができるようになったのでした。それで、「万事相働きて益となる」です。だから、人生いろいろあっても、「ハレルヤ、感謝します」と毎朝言って生きていけるのがクリスチャンです。これは楽しい人生です。

 

 イエス様を私の救い主としてまだ確信がないけれども、聖書を読み始め求めはじめている方、あなたの人生に起こりくるさまざまなことも、益に変えられる、そういうすばらしい人生を手に入れたいとは思われませんか。そのように望むならば方向転換なさることです。神様なんかいらないと背を向けて来た人生を方向転換して、神とともに生きる人生を始めることです。

神なんか要らないと思って自力で生きてきたと思って来たけれど、振り返ってみれば、あの出来事も、あの出会いも、すべて神様のご配慮のおかげだったのだということに気が付かないでしょうか?本当に自力で生きてこられたのでしょうか?「ああ、今まで思いあがっておりました。確かにあのことも、このことも自分ではなくて、あなたの大いなるご摂理のおかげでした。」と神様にお詫びして、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてください。神様ぬきで生きられる、そのご配慮に感謝もしないで生きて来たこと、それを聖書では罪といいますが、その罪を背負うために神の御子イエス様は十字架にかかって、三日目によみがえってくださいました。イエス様を救い主として受け入れ、日々、神様に感謝して生きるようになれば、あなたはこの世にあっても、次の世に入るまえの最後の審判においても、安心して歩んで行くことができます。

 

.救いの順序

 

 本日の聖書箇所8章28節は、こうした神のご摂理を教えていますが、もう少し詳しく読み進めますと、特に、神様が人間をお救いになる順序について教えていることがわかります。30節をご覧ください。ここで、記者は「救いの順序(ordo salutis) 」を述べています。

「①神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、

②召した人々をさらに義と認め、

③義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

すなわち<第一に予定、第二に召し、第三に義認、第四に栄光を与える>という順序です。

 

第一に、「予定」とは、地の基が定められる以前に、私たちがキリストのうちに選ばれたということです。それは、恵みによることであり、神様のまったく自由なみこころによることです。エペソ人への手紙の1章では、「 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。今あなたはここにすわってともに礼拝をささげていますが、実は、あなたが、神様を求める前、お母さんのおなかに宿る前、万物が創造される前から、神さまはあなたをキリストのものとして選んでいたのです。

 

第二に、「召し」というのは、神さまがその計画を歴史として実行に移されて行き、歴史の中にあなたが生まれ、神様があなたを「呼び出したこと」です。神様はこの召しを、内側と外側から実行なさいます。外側とは、福音の宣教です。キリストの福音を説教で聞かされることです。今、私は「イエスさまはあなたの救い主です。信じてください。」とお招きしています。これが外側からなされる、神様の召しです。内側の召しとは聖霊の照明、つまり、聖霊様があなたの心に、「牧師が今話していることは本当だよ。確かにキリストは、あなたの救い主だよ。信じなさい。」と教えて下さることです。

あなたがあるときイエス様の福音の宣教を聞いて、「ああ、イエス様は私の罪のために死んでくださったんだ」と信じた時、神様のキリストにある選びのご計画が実行に移されたのです。

 

第三に、「義と認めること」つまり義認です。このようにして神様のお呼びがかかった人は、神の前に罪を自覚し、イエス・キリストを救い主として信じるようになります。そして、イエスを信じた人は、イエス様の十字架における罪の償いと復活のゆえに、神様の御前に義と認められます。これが義認です。

 

第四に、「栄光を与えられる」これは、イエス様を信じて義と認められた人が、イエス様の栄光に満ちた似姿に造りかえられていくことを意味します。私たちは鏡のように、自分で輝くことはできません。主キリストの栄光を映しながら、生涯にわたってキリストに似た者へと変えられていくのです。聖書によれば、もともと最初の人アダムは神様の御子であるキリストに似たものとして造られ、その品性の完成を目指すものとして創造されました。しかし、アダムが神様を見失ってから、その目標を見失って、自己中心的・利己的になってしまいました。それが人を苦しめ、自分を苦しめているとわかっても、自分で自分を変えることができません。

しかし、悔い改めてイエス様を信じると、その人のうちにキリストの御霊が住んでくださるので、人は、イエス様の足跡にしたがって、生きることを望むように変えられていきます。それは言い換えれば、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶということです。また言い換えると、愛である父なる神様に似た子どもに変えられていくということです。神学のことばでは、ふつう「聖化」といいます。その完成をとくに神学のことばでは栄化と言いますが、それは天の御国にはいるときに実現します。

 

 この「予定-召し-義認-聖化・栄光化」という大きな救いの順序の枠のなかで、28節と29節は理解されます。

 

3.神の配剤はすべてを「益」と変える

 

(1)「益」とは義認と聖化を意味する

 「8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 28節のみことばは、神の摂理を教え、私たちを励ますみことばです。激しい試みのなかにあるとき、私たちは幾度となくこの御言葉に励まされてきたでしょうか。この苦労も、いずれ益と変えられるのだという信仰をもって、私たちは病気や肉親の死や事業の失敗や失恋やいろいろなことをくぐり抜けてきたでしょう。ところで、ここに「神はすべてのことを働かせて益としてくださる。」という場合の「益」とはどのような益を意味しているのでしょうか。

  先に30節に見たように、大きな救いの枠組みを見ますと、それは明らかになります。予定と召しに続く益とはなんですか。そうです、義と認められること、そして、栄光を与えられるということです。神様の前にイエス様の十字架のゆえに罪赦され、子どもとされ、つぎに栄光を与えるとは御子イエスに似た者とされていくことです。要するに、28節は<神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神様はその人を義と認め、父と御子イエスに似た者とするために、すべてのことを働かせるのだ>といっているのです。詩篇に「試みにあったことは幸いでした。そのことによって、私はあなたのおきてを学びました」とありますが、そういうことです。

 29節の前半も同じことをいっています。神様に予定された人を、イエス様の似姿にすると定めていたとあります。

「8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

 つまり、28節でいう「益」とは事業が成功するとか、お金がもうかるとか、望む人と結婚できるとか、第一志望の大学に進学できたとかいう類のことを意味していません。ここでいう「益」とは、神の前に罪赦され義と認められて神の子(クリスチャン)とされて、キリストに似た品性に徐々に変えられていくことを意味しています。そのために、神は、うれしいことも悲しいことも、成功も失敗も、すべてを働かせるのだと教えているのです。

 先にお話ししたヨセフの人生でいえば、ヨセフが苦難を経て、ついにエジプトの総理大臣になったことが「益」だというのではなく、ヨセフがあの憎んでも憎み切れないような兄たちを、主にあって赦すことができる愛の人として成熟したことなのです。苦難を経て、忍耐を学び、神への信頼を学び、人を赦すことを学び、知恵を身に着けていったことです。神の似た品性の実を結んだことが「益」なのだということです。 

 また、私たちは粘土です。神様は陶器師です。陶器師は一つの器を作る前に、まず粘土をしっかり踏みつけ、押えつけ、バンバンたたき、なかの空気、小石、不純物を出してしまうのです。そうしないと、焼いたときに割れてしまいます。神様は陶器師です。私たちをしっかり踏みつけ、押さえつけ、私たちの中の不純物を押し出してしまいます。それは自分でひそかに誇りに思っていること、神様に頼らないで自分で頑張れてしまうと思っている部分です。神様におゆだねしていない部分です。私たちは、神様のご摂理のなかにうめくかもしれない。涙することもありましょう。けれども、神様はそうした試練をもかならず益と変えて下さる。試練を堪え忍ぶなら、やがて神様のお役に立つ、有益な器としていただけるのです。それは、自分の能力や、力によらず、御霊に頼る人です。陶器師が、踏みつけ、押えつけた粘土を、その手の中でまるで魔法のようにしてひとつの器に造り上げ、、熱い釜の火のなかに入れると、見事な陶器ができ上がります。

  

.兄弟たちのなかで

  もう一つの大切な点は、「御子が多くの兄弟たちのなかで長子となられるためです」と言われている点です。多くの兄弟たちとは、すなわち、教会のことです。教会とは建物ではなく、主にある兄弟姉妹、クリスチャンの集いのことです。イエス様はその長男です。長男として、父なる神様の御前に私たちをとりなして下さるのです。

 私たちの成長、霊的な成長は、個人個人におけることではありません。それ教会の交わりの中でなされるのです。クリスチャンの成長は、個人個人ばらばらのことではなく、主にある兄弟姉妹との交わりのなかでこそなされていくのであるということなのです。なぜですか?それはクリスチャンの聖化とは、愛の成長であるからです。もし、聖化ということが、単に、いわゆる悪いことをしなくなるということであるというならば、人と会わないどっかのネパールの山奥の洞窟にでもはいって修業した方がよいかもしれません。人がいなければ、人を憎むことも、ねたむこともないでしょうし、話す相手もいなければ悪口をいう誘惑もないでしょう。盗む相手もいなければ、盗みようもないでしょう。けれども、それは聖書にいう、聖化とはちがうのです。

 キリストの栄光を映す者となるとは、愛する人、赦す人に変えられるということです。私たちは、具体的な主にある兄弟姉妹との交流の中で、愛されること、愛すること、赦すこと、赦されること、与える喜び、与えられる喜び、兄弟とともに泣くこと痛むこと、主にある兄弟とともに喜ぶことなど、すべてのことを経験しながら、主に似た者に造り上げられていくのです。

 

むすび

 神様の摂理によって、あなたの人生も導かれてきました。そして、この朝、ローマ人への手紙8章のみことばを聞いたこともまた、神様のご摂理です。自力で生きて来たと思っていたけれど、確かに振り返ってみれば、あのこと、このこと、あの出会い、この出会いは、神様のご摂理であったと悟り、神様に感謝する人生に立ち返りたい人はいるでしょうか。それならば、神様にごめんなさいと申し上げて、イエス・キリストを信じることです。

 

  すでにイエス様を信じ受け入れている兄弟姉妹。神様はあなたを永遠の昔にキリストのうちに選び、そして罪赦して神の子どもとしてくださいました。神様は神を愛する者を、ご自分に似た者として仕上げていくために、さまざまな出来事や出会いを経験させてくださいます。格別、キリストを長子とする神の家族の中で、私たちをキリストに似た者へと造り変えて行ってくださいます。

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」                                          

 

父の期待に応えて

ローマ8:17-25

父の期待に応えて

相続人

 

 8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

  8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

 8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

 8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

 8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

 

1.子の宿題 その1  父と兄に似た者に

 

 罪赦され、かつ、神の子どもとされた私たちは、神の家族の中での生活をしています。これが私たちクリスチャンの教会生活です。神の王国の表現でいえば、私たち一人一人は王子であり王女です。私たちは、罪をキリストの贖いのゆえに無代無償で赦されました。さらに、神様は私たちを奴隷や使用人でなく子どもとして受け入れてくださいましたから、その働き以前に、存在そのものを喜ばれています。そうしたら何もしない怠け者となるでしょうか。

もしあなたが王さまで、家には使用人と自分の子ども王子や王女がいたら、あなたは使用人と子どもと、どちらにより多くの期待をするでしょうか。いうまでもないことです。使用人にではなく、自分の子どもに対してより多くの期待をするにちがいありません。なぜなら、子どもは自分の王国を担う相続人であるからです。

  「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

 父なる神様の私たち神の子ども、王子、王女に対する期待は大きいのです。実際、旧約の律法の下にあった人々に対する期待よりも、福音によって救われた神の子どもたちに対する期待のほうがずっと大きいと聖書は述べています。

エス様はおっしゃいました。

「 (律法の下にある)昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(5:22,23)

「(律法の下にある昔の人々に)『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(5:38,39)

 

 パウロのことばを引けば、律法には「盗むな」とありますが、新約では

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)

とあります。

 この福音の時代、父なる神様から私たちに対する期待は、旧約時代よりも大きいのです。クリスチャンの目指すところは、キリストに似た者となることであり、また、天の父に似た者となることです。天の父に似た者となるというのは、もちろん全知全能になれということではありません。最近、若い人たちの言葉遣いでなんでもかんでも「神」ということばを付ける傾向があります。サッカーでシュートが素晴らしいと「神シュート」とか、野球で走塁がうまいと「神走塁」とか言いますが、ああいう能力に関してすぐれたものとなることはまったくちがいます。天の父のようになり、御子イエスのようになるとは、御霊の実を結ぶこと、愛という実践においてです。品性において、父子聖霊のようになることです。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

 クリスチャンはイエス様を信じて、義と宣言していただき、神との平和を持つ者です。さらに、神の王国の王子・王女とされた者です。そして私たちクリスチャンの天の御国に帰るまでの宿題は、まず、天の父、長男のイエス様に似た者、御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実を結ぶことです。天国とは神様とともに過ごすところですから、その備えとして、キリスト的な品性を磨いていくことが大事です。これが、クリスチャンの宿題その1です。

 

2.宿題その2 相続人の務め

 

 もう一つのクリスチャンに与えられた宿題は地の相続人、世界の相続人としての務めです。主イエスはおっしゃいました。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するから。」と。主イエスが再臨なさると、最後の審判を行われます。その時、「地と天は逃げ去って跡形もなくなる」と黙示録にあります。そうして、主は「新しい天と新しい地」を創造なさって、私たちを新しい地に住まわせてくださると約束されています。その「新しい地」を相続する相続人なのです。「地」というのは被造物世界のことです。現在、私たちが暮らしているこの被造世界は、アダムの堕落以来、虚無に服し滅びの束縛の下にあるのだと今日の聖書箇所は教えています。

 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

 8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

 8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 

 アダムが神に背いたとき、人間が堕落しただけでなく、被造物も虚無に服し滅びの束縛の下に置かれました。創世記3章は、その事態を「地は人間に対していばらとあざみを

生えさせる」と表現しています。被造物世界は、人間に対して従順でなくなり、反抗するようになったというのです。被造物世界は神の恵みに満ちていると同時に、呪いもまた入ってきています。私たちは田畑の作物を食べて生きて行けますが、田畑でものを作ろうとすれば、作物よりも雑草のほうがはびこります。動物たちもともに生きている世界ですが、ヒグマやライオンに襲われて命を落とす人々もいます。ミクロの世界でも納豆菌とか乳酸菌やビフィズス菌など有用な微生物がいる反面、病原菌もいて人間の健康と生命を脅かします。私たちが住むこの世界は神の祝福と、他方で呪いがあります。それが、被造物が虚無に福祉、滅びの束縛の中にあるという意味です。

 このように被造物はアダムの堕落以来、虚無に服しているのですが、主イエスが再び来ら、新しい天地が造られるときに、栄光のうちに入れられます。その有様を預言者イザヤは次のように描写しました。イザヤ11:6-9

「 11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、

   子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。

 11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、

   獅子も牛のようにわらを食う。

 11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

 11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。

   【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」

 

 想像を絶する神の愛と正義が支配するすばらしい世界です。キリストがくださる救いということは、単に人間の霊・魂だけのことではありません。「8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」とあるように、罪のしみひとつない復活の栄光のからだをも含めた救いです。いや、人間だけの救いではありません、被造物全体の救いです。動物も植物も微生物も被造物世界全体が、滅びの束縛から解放されて神を賛美するのです。

 クリスチャンの兄弟姉妹がときどき「うちで飼っていた犬が死んだんですが。あの子は天国に行けるのでしょうか?」と遠慮しながら質問なさることがあります。実は、中世のキリスト教神学は、人間の霊魂だけが救われて天国に行くという、聖書的というより、むしろギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けました。霊肉二元論というのは霊は善だが、物質・肉体は悪だという考え方です。その考え方から、人間は肉体の束縛を離れて霊の世界である天国に行くことが救いであるということになります。人間の霊以外のものはみな物質的で肉体的だから救いの対象外だとされたのです。しかし、聖書はなんと教えているでしょうか。伝道者の書 3:21 「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」を引いて、人間の霊は神のもとに行くが、獣の霊は地に下るのだと言いますが、よく読めば「誰が知っているだろうか」と書かれているように、それを確かなことと教えているわけではありません。

 善い神様が霊も魂も肉体も動物も植物も無機物も造られたのですから、基本的にすべてのものは良いものなのですから、霊だけでなく魂も肉体も動物も植物も無機物もつまり全被造物が救いの対象なのです。では、どの動物が救われるかといえば、もっとも正確には神がお選びになったものが救われるのです。あのノアの箱舟に入った動物たちのように。クリスチャンの飼っている動物が神様の救いの対象である可能性が高いことは、ヨシュア記7章のアカンの事件からも説明できます。神様がエリコの町を滅ぼされたとき、神様はそこにあるすべてのもの聖絶せよと言われていたのに、アカンという男が、欲に目がくらんでシヌアルの外套、銀、金の延べ棒を着服し、テントに隠しましたから家族も共犯でした。結局そのことが公になると、彼の家族だけでなく、家畜まで滅ぼされました。アカンがこの家族の契約のかしらであり、彼の家族も家畜もその契約の下にあったからです。このことから推論すると、クリスチャンが飼っているワンコとかニャンコもまたその契約のもとの置かれていますから、新しい御国に救われるということができるというのが聖書的な考え方であろうと思われるわけです。

 私たちは、アダムの時以来の滅びの束縛から解放された新しい被造物世界を、長男であるキリストとともに共同相続して、これを相続人として治めるのです。

 

3.希望と御霊によって生きる

 

(1)希望によって

 クリスチャンは、今の罪の世を何によって忍耐してい生きていくことができるのでしょうか。罪は、他人ごとではなく、自分自身がキリストにあって義と宣言されて神に赦され愛されているものでありながら、なおもまとわりつく罪ゆえに悩まされることです。そんな状況にあって、助けとなるのは、主の再臨への希望と御霊のとりなしによってであるとパウロは続けます。

 8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

 8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 

 今は罪と悪魔と世との闘いで悪戦苦闘をして、がっかりすることが多いとしても、私たちには希望があります。その希望とは、キリストにあって義と宣言された者、子として愛されている者として、主の用意してくださるきよい新しい天地が私たちを待っていることです。そこでは、いっさいの罪も悪魔も滅び去って、万物が父子聖霊の神を賛美しているのです。そこでは、人間だけでなく、獣も鳥もカエルも昆虫もミミズも木々も花々も微生物までもが、神を賛美しているのです。この驚くべき栄光の希望をもって、私たちはこの世を相続人として責任ある生き方をするのです。牧師や伝道者だけでなく、家庭の主婦、会社員、自営業、医療や福祉関係者、教員、学生、遣わされたところで、それぞれにふさわしい花を咲かせて生きればよいのです。また、私たちの遣わされた日本という国は国民主権という原則に立っていますから、そうしたこの国や地域の政治に対する責任をも有権者として与えられています。世に流されないで、神様のみこころはなんであるかをよくわきまえて、投票したり意思表示をしたりあるいは政治家に成ったりするすることが必要です。新しい天地はまだ来ていませんから、限界はありますが、その限界の中で、主のみこころが天で成るように地でもなるようにと努力するのです。

 その努力は無駄にはなりません。今の世においてなす努力は、次の世の人生のためのいわば予行演習のようなものです。今の世と次の世は、ちょうど今のからだと復活のからだのように、非連続性と連続性の両方があるのです。主は戻って来られたら、「あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはたくさんのものをあなたにゆだねよう」とおっしゃるのです。今の世にあって、主に対して忠実に、主がくださった務めに関して誠実に生きることは、次に来る永遠の人生のためにとても意味のある大事なことなのです。

 

(2)御霊のとりなしによって

 しかし、こうした努力も、もし人間の頑張りによるならば、へこたれてしまうか、傲慢になるかです。私たちがキリストに対する希望をもちながら、神のみこころが地になるために生き抜くのに必須なのは御霊に助けられて祈ることです。

 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

結び

 奴隷は主人の顔色を恐れて働くのでしょう。けれども、子どもが働くのは、父の愛の期待に応えようとするからです。恵みをもって注がれている父の愛に対する喜びの応答なのです。私たちが奉仕の生活に励むのは、神様に対する恐怖とか義理によるのではありません。あの御子イエスの十字架の愛を見たら、だれも自分のために生きることはできなくなって、主のために生きるようになるのです。

 私たちは神の子どもですから、長男であるイエス・キリストとの共同相続人です。教会は、お父さんが父なる神様、お兄ちゃんがイエス様、そして私たちは御子の御霊によって兄弟姉妹なのです。ですから、私たち教会はキリストとの共同相続人です。

 私たちは地の相続人です。それぞれの家庭に、地域に、施設に、学校に、この地域に、この国に、この世界に派遣されてまいりましょう。そこで、神様の愛に誠実に答えて生きていきましょう。そこで、キリストの弟、あるいは妹として、神の栄光を表すあゆみをすすめましょう。 そうして、やがて訪れる新しい天と新しい地での歩みに備えましょう。

神の子どもとして

ローマ8:12-16

 

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 

 

1.最高の恵み

 

 キリストイエス様を信じてバプテスマを受けたとき、私たちはキリストとともに罪という主人に対して死に、新しい主人である神に対して生きるものとなりました。このことを私たちは先にローマ書6章で学びました。それは言い換えると、先ほどお読みしたように「8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」ということです。肉と言うのは神様に背く自己中心の古い性質で、それが癖のように残っているのですが、それに死んで御霊によって生きていくのが私たちクリスチャンの歩みです。

 ところが、7章で私たちが知ったことは、クリスチャンは時として律法によって生きて行こうとすることによって、かえって自分の内側に住む罪が引き出されて、前にも進めず後ろにも退くこともできないような葛藤に陥ることを見たことです。神の前に正しい生き方をさせるはずの律法が、かえって罪を刺激して、罪を引き出すという奇妙なことが起こるのです。すべてではないかもしれませんが、多くのクリスチャンはパウロがしたような経験をするようです。

 その挙句、パウロはまず救いの原点に立ち返りました。ローマ8章1節「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることはありません」ということです。キリストが私たちのために罪に定められ、罪の罰を受けてくださったからです。そして、私たちは罪をすでに赦された者として、私たちはキリストの御霊によって生きていくのです。これがクリスチャンの生き方です。大事なことなので、もう一度確認しますが、第一はクリスチャンはキリストに結ばれた者として、神の前に罪はすでに赦されたという認識が大事です。第二に、すでにキリストにあって罪赦された者として、キリストの御霊によって神のために実を結ぶ生涯を生きていくのです。この御霊は、私たちをキリストを長男とする神の家族、神様の子どもとしてくださるお方です。イエス様は実子ですが、私たちは養子です。

 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)

 ローマ書においてこれまでパウロは1章から5章で、人は律法の行いによって神様の前に義と認められるのではなく、恵みのゆえに信仰によって義と認められるのだということを力説してきました。そして、6章、7章において罪を赦された者、義と認められた者として義の奴隷として正しく生きる原理的なことについて語ってきました。その上で8章において、神の子としての恵みのうちに生きることを教えるのです。

 この順序はなにを意味しているのでしょうか?神の子どもとされたという恵みは、信仰によって罪赦されて義と認めていただいたという恵みを土台として与えられた最高の恵みであることを意味しているのです。信仰によって義とされたことは、実にすばらしいことで、私自身その恵みに感激して、20歳の2月に神様の前に自分のいのちをおささげしたのです。自分の罪を知らされたとき、そして、私の罪のためにイエス様が十字架にかかってまで私を救ってくださったとわかったとき、「もはや自分のために生きたのでは申し訳ありません。神様、私の人生をあなたにおささげします。」と祈らないではいられなかったのです。ですが、パウロによれば、神の子どもとされたという恵みは、義とされた恵みを土台として、クリスチャンに与えられる最高の恵みなのです。最高の恵みというのは、これ以上ない究極的な恵みであるということです。

 しかも、この最高の恵みは、クリスチャンであるならば、誰でも受けている恵みなのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもである」とあります。神の御霊によって、「イエス様は主です。神の御子です」と信じる信仰を与えられている人がクリスチャンです。神の御霊に導かれているのがクリスチャンです。すべてのクリスチャンは、神様の子どもとしていただいているのです。

 

2.奴隷的クリスチャン

 

 しかし、私たちクリスチャンは神の御霊を受けているにもかかわらず、時々、神様からいただいた「神の子どもとされた恵み」の味わいを忘れてしまうことがあるというのです。そのときには、信仰生活を送りながら再び恐怖に陥って、また自分が神様の子どもとされているにもかかわらず、自分は奴隷にすぎないのだと思い込んでしまうのだというのです。だからこそ、パウロは次のように強調しなければなりませんでした。

 

 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(8:15)

 

 クリスチャンが奴隷的な恐怖をいだいているとはどういうことでしょうか。ここに「再び恐怖に陥れる」ということばがあります。かつてイエス様を知らないときには奴隷的な恐怖に脅かされる生活をしていた。けれども、イエス様に出会っていったんは、そういう奴隷的恐怖から解放されたのに、いつの間にか「再び」そういう奴隷的恐怖をいだくようになってしまったというのです。いつのまにかまた昔のイエス様を信じる前の奴隷的な恐怖にしばられるような生き方をするようになっているのです。

 いったい奴隷としての恐怖とはなんのことでしょうか?これは律法の下にある状態と、福音の中にある状態の違いとしてパウロがガラテヤ書3章から5章で力説していることです。奴隷と子どもの決定的なちがいとはなんでしょうか。それは子どもは自由だけれど、奴隷は不自由であるという違いです。奴隷は、主人から何ができるか、何がどの程度できるかという、その働きの多寡によって評価されるという恐怖に縛られています。けれども、子どもの場合はなにができるかできないかという働き以前に、父親はその子どもの存在そのものを喜んでいるのです。子どもはそういう自由をもっています。

 私たちはキリストを知る以前、いつも何ができるか、何ができないかということで人を裁いたり、自分をさばいたりして、生きていたのではないでしょうか。ある神学者(C.ホッジ)は、アダムが善悪の知識の木から実を取って食べて以来、すべての人は自力救済主義者となってしまったのだといいます。そうして、いつも何ができるできないで傲慢になったり卑屈になったりして生きているのです。

 

(2)やっぱり神の子どもなのです

 

エス様を信じて罪赦されたのに、またもこういう奴隷的恐怖にふたたび縛られるようになってしまった人々に対して、パウロは、いや確かにあなたがたはすでに神の子どもとされているのであって、奴隷ではありませんということをしきりに強調しています。

神の子どもとされたという事実には、二つの側面があります。一つは、身分的・法的なことです。イエス様は神の実子ですが、イエス様を信じる私たちのことを、神様は私たちを養子として入籍してくださったのだということです。 ある死刑囚がいました。彼は王様の一人息子を殺したかどで死刑が確定していたのです。いつ刑が執行されるのかと毎日ビクビクしながら、その癖、表面的には「死ぬことなんて何にも怖くねえや」と虚勢を張って獄中生活をしています。ところが、ある日、王から赦免が発令されました。突然のことに驚きながら手続きをすませると、彼は刑務所の鉄扉の前に立ちます。「二度と戻ってくるなよ。」と看守が声をかけます。「へい。お世話になりやした。」・・・ここまでが義と宣告されることです。

 「しかし、すねに傷ある俺にはシャバの風は冷てえだろうし、また舞い戻っちまうんじゃねえかな。」そんな不安が心をよぎります。ギーッ。扉が開きました。「アッ」そこには彼がその息子を殺した王様とその家族が立っています。「すみませんで済むとは思いませんが、俺はこのとおり赦しをいただきました。この上は、王様の奴隷としてなんでもさせていただきやす。」ところが、王は最後まで言わせず彼の肩をガバと抱き寄せて答えます、「いや、君は奴隷ではない。君は、これからわしの家族だ。この子たちも君と同じ境遇だったんだが、今は私の子たちだ。」そう言って、あろうことか王は彼の指に相続人の指輪をはめてくれました。・・・・これが子とされたということです。

私たちの救いにあてはめれば、このときに指にはめられた王の子どもとしての保証の指輪こそ、御子の御霊なのです。神の子供とされたという事実は一面、法的立場的なことですが、もう一つの側面は、実質的なことです。それは父はイエス様を信じる者のうちに御子の御霊をくださったので、私たちは神様を父として慕う心を授かったのです。

私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(8:15,16)

 御子の御霊は、私たちのうちに神様への信頼と愛と喜びをあふれさせてくださいます。自分は奴隷ではない、神様の子どにしていただけたのだという喜ばしい意識を継続的に与えてくださるのです。

 八木重吉という詩人は、この神の子どもとされた喜びをこんなに素朴な詩に表現しています。

1925年大正14年2月17日より

 われはまことにひとつのよみがえりなり

  

おんちち

うえさま

 

おんちち

うえさま

 

と とのうるなり

 

 主にある兄弟姉妹。天の父は、あなたがどんな働きができるか、どれほどうまくできるか、どれほど献金できるかということでなく、それ以前に、あなたの存在そのものを喜んでいてくださるのです。もし主のためにご奉仕がなにかできるとしたら、それは素晴らしい恵みです。ですが、病を得たり、年を取ったり、急な経済状況の変化で貧しくなったり、さまざまな状況のなかで、自分はなにもできなくなったと落胆している方が、あるいは、いらっしゃるかもしれません。けれど、主は、あなたの存在そのものを喜んでいてくださいます。

 

 

結び

 私たちは、なにか立派なところがあったから救われたのではありません。ただ罪のかたまりでしたが、神のあわれみの故に選ばれ、御子の贖いゆえに罪赦され義と宣告されたのです。

そのとき、神は私たちを単に義と宣告するだけでなく、私たちを子として迎えてくださいました。私たちは御子イエスを兄とし、神を父とする神の家族のうちで生きるべく召されたのです。私たちは子ですから、奴隷のように不自由ではありません。感謝と自由をもって、奉仕の生活に生きるのです。

神の子どもである私たちは相続人ですから、かの日の新しい天と新しい地の栄光をめざして、今の世にあって、父の愛をあかしし、正義が世になっていくように生きて行きます。簡単なことではありません。けれど、あせる必要はありません。胸のうちに深い平安がります。なぜなら、父なる神様が私たちとともにいてくださって、私たちの存在そのものを喜んでいてくださるからです。

老後を賢く生きる

                    老後を賢く生きる                 南牧村老人会

                                                                19990525

 

はじめに 

 三年前から、家の近くに小さな畑を借りて、いろんな種をまいてお百姓のまねごとをしています。けれど、なにしろ経験がありません。今年四月なかば、ねぎを植えました。土を一杯かけてやれば元気だろうと思って、家内とふたりでせっせと土を深く掘ってねぎを植えたのです。ところが、十日ばかりすると、よその畑のねぎは元気なのに、うちの畑のねぎはつぎつぎとしおれてきたのです。「どうしてでしょうねえ?」と福山牛乳のおじさんに見てもらいました。「こりゃあだめだよ。ねぎを植える時は、又のところまで土をかけちゃいけない。かけると腐ってしまう。又の下まで土をかけて、土用までに土寄せを二回して、土用になったら土をうんとかけてやればいい。」と教わりました。経験がない、無知というのは恐ろしいものです。以来、福山牛乳さんには畑のことをいろいろと教わっています。

 こんなわけで、私はまるでお百姓仕事には経験がないのです。私は、自分の人生の経験ということからいえば、みなさんのわずか半分や三分の二ほどではないでしょうか。戦争中や戦後やさまざまな所を通って来られ、ご苦労なさったみなさんに比べると、戦後生まれの私の経験や苦労など足下にも及びません。ですから、正直なところ、こんな私が、みなさんに何かをお教えするなどおこがましいな、と感じているのです。格別、「老いを賢く生きる」と言っても、私はまだ老人になったことがないのですから。

 ところで、先日、私よりも若い方の講演を聞きました。リハビリの専門の楽しい先生でしばしば老人ホームなどでもお話するそうです。この先生の場合、リハビリの知識と経験については、誰よりも通じているから講演者として意味があるのでしょう。そこで、もし私が皆さんにお話して意味があるとすれば、鼻たれ小僧の乏しい経験談などではなく、牧師として聖書に記されていることがらを、わかりやすくお分かちするほかあるまいと思いました。きっと、ご依頼くださった方もそういう事を期待していらっしゃると思います。 そこで、今日は、いただきました「老後を賢く生きる」という演題に沿って、聖書からなるべくわかりやすくお話をしたいと思うのです。特に、老使徒パウロという人物のことばをひもとくかたちでお話したいと思います。

 お渡ししたプリントに、聖書で老後に関する生き方を記した個所を何か所か引用してみました。

 

1.外なる人は衰えて・・・(伝道者12)

 

 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:16)

 使徒パウロとはキリスト教界の初代宣教師で、神様に豊かに用いられた人です。この手紙は彼が相当年を取って後に、コリントという町にある教会にあてて書いた手紙です。年を取ってあっちもこっちも身体が弱ってくると、段々心細く勇気がなくなります。ついつい引っ込み思案になります。使徒パウロの場合、目に病があって、視力がだんだん失われつつありました。しかし、彼は「私は勇気を失いません」といいます。それは「外なる人は衰えても、内なる人は日々あらたにされているからだ」というのです。「外なる人」とは、この肉体のことです。「内なる人」とは霊のことです。外なる人は、確かに年を取るにつれて衰えていきます。肉体の衰えについて、聖書は次のように描いています。

              

(1)老化と死

朗読 伝道者12:1-8、13、14

 2節「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(年を取ると、白内障になってだんだんとものがよく見えなくなり、涙腺が故障して始終涙が出て止まらない。)

 3節「その日には、家を守る者は震え(手が震える)、

力ある男たちは身をかがめ(背骨が曲がる)、

粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ(歯が抜けて少なくなって)

窓から眺めている女の目は暗くなる。」

 4節「通りのとびらは閉ざされ、臼を引く音も低くなり(耳が遠くなり)、

人は鳥の声に起き上がり(やたら目覚めが早くなり)、

歌を歌う娘たちはみなうなだれる(自慢の美声もしわがれてくる)。」

 5節「彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる(坂道で息切れをしてふうふういっている)。

アーモンドの花は咲き(髪は白くなり)、

いなごはのろのろ歩き(足取りものろのろとなり)、ふうちょうぼくの花は開く(性欲が減退する)。

だが人は永遠の家へと歩いて行き(つまり、死に向かっていき)、嘆く者たちが通りを歩き回る(葬列の嘆き)。

 6節。「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ(金の器とは灯火皿のことで、銀のひもはそれをつるすひも。灯火はいのちの象徴で、灯火が消えてしまうことは死を意味する。)

 みずがめは泉のかたわらで砕かれ滑車は井戸のそばでこわされる(水もいのちの象徴。死の荒涼としたありさまの描写)。」

 

 ゾクゾクするような老化の現実を見据えた文章です。この筆者自身、老人になってその老いの現実を見据えて書いているのです。外なる人は衰え、最期は死に至ります。

 

(2)死の先

 しかし、これで終わりではありません。死の先を語るのが聖書です。

「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。空の空。伝道者は言う。すべては空。」(12:7)

 聖書のことばヘブライ語では人のことをア-ダ-ムと言い、土のことをアーダマーといいます。聖書の神は創造主である神です。神様は人間を土から造られたからです。しかし、人は単なる土人形ではありません。神様は、これにいのちの息(霊)を吹き込んでくださいました。こうして人は生きる者となりました。やがて私たちの肉体は土に帰る時がやってきますが、霊はこれをくださった神様の御許に帰ることになるのです。そして、神様の御前で私たちは裁きを受けることになります。

「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」(12:14)

 ですから、希望をもって生き抜くためには、私たちは神様にお目にかかる用意をしておかなければなりません。なんの用意もしないでいきなり、審判者である神様の法廷に引き出されたら、びっくり仰天、あわててしまうでしょう。

 

2.内なる人は日々新たに(2コリント4:16-19)

 

(1)前向きに生きる

 さて、パウロの手紙にもどります。私は、この老い使徒パウロのことばを見ると、なんと雄々しく前向きな人生だろうと思うのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」すばらしいことばではありませんか。パウロ老いて死を目前にしながら、なお前向きなのです。まず、老いてなおこの前向きの姿勢でいられるのはすばらしいことです。

 山形のT牧師が老人ホームに招かれてお年寄りにお話をしたそうです。この先生は珍しい人で、手品をするプロ級の腕を持った人ですので、まず前座として手品をしました。でも、いくら手品をしてみても、おじいさんおばあちゃんたちは、何が起こったのかを見ているだけで、ちっとも感激してくれません。そこで、この牧師は内心がっかりしながらお話にはいりました。「さて、では次にお話をしましょう。題は『元気で長生きして、ぽっくり死ぬ方法』」と言いました。すると、先程まで眠そうにしていたご老人たちがみんな身を乗り出して、聞いてくださったそうです。そうでしょうね。

 「元気で長生きして、ぽっくり死ぬ方法」、その心の持ちようとはなんでしょう。T牧師に言わせれば、それは、新しいことに挑戦する心、言い換えると、前向きの心を持ち続けるということです。

 金さん、銀さんという双子のおばあちゃんが、以前TVに出ていました。そこで若いレポーターがいたずら心を起こして、金さんと銀さんをゲームセン(ゲームセンター)に連れていったのです。そう、パロとかリッチランドなどにある、あれですね。そしたら、金さん、銀さんどうしたと思いますか。ふたりとも夢中になってゲームに興じているのです。「そうか、これが若さの秘訣、ぼけない秘訣なんだなあ。」と感心してしまいました。どうも金さん、銀さんのほうが私よりも若いかもしれないななどとも感じたのです。みなさんはどうでしょう。「なにを馬鹿なことをしている。こんな年して、今さらゲームなんかばかばかしい。恥ずかしい。」というでしょうか。

 青年とは、前を見て新しいことに挑戦する心を持っている人のことです。老人とは、後ろを振り返って、「あの頃は良かったなあ」と思っている人です。そういう意味では、かりに二十代でも「十代はよかった」などと後ろを振り返ってばかりいる人は、もう老人ですし、かりに八十代でも九十代でも、新しいことへの興味を持ち続けている人の魂は青年です。戦後のキリスト教界の指導者に安藤仲市牧師という方がいたのですが、この方はよく「四十、五十は鼻たれ小僧。男盛りは七八十。」とおっしゃり、「胸に燃えるヴィジョンがあるかぎり青年である。」ともおっしゃいました。安藤先生はかつて日本が軍靴で踏み荒らしたアジアに、キリストの愛の福音を広めることをビジョンとしていたのです。たしかに安藤先生は、使徒パウロと同じように死の瞬間まで青年でした。

 自分の枠を決めてしまって、新しい事に挑戦する心を失うと老いていくのです。引っ込み思案はやめましょう。引っ込み思案は小ボケの始まりだそうです。新しい事に挑戦しましょう。例えば、畑仕事も、毎年毎年春はナス、ネギ、トマト、ジャガイモといった決まったものしか作らないというのではなく、何か聞いたことも食べたこともないけれど、ズッキーニとかカラーピーマンとかルバーブとか見たこともないような、新しい野菜の種でも蒔いて、新しい工夫をしてみましょう。

 

(2)死を前にして、なおも前向きに

 老いるという現実はさびしいものです。ですが、老いてなお前向きということでは、使徒パウロはさらにすごいことばを残しています。それこそ、金さん銀さん以上です。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリ4:16)

 肉体は衰えても、内なる人は、昨日より今日、今日より明日のほうがどんどん新しくなる、若くなるというのです。どうして使徒パウロは、老いて後、こんなにも力強く、こんなにも前向きなのでしょうか。それは、使徒パウロは主イエスキリストに対する信仰によって、死の向こうに永遠のいのちの希望、復活の希望をしっかりと持っていたからです。

 2コリント5章1~5節朗読

 幕屋というのは、テントです。テントに数年も暮らしていたらぼろぼろになってくるでしょう。雨もりがしたり、破れたりしてきます。みなさんのうちにテント暮らしの人はいないと思います。もし、テントしか住む家がないならば、不安ですよね。でも、テントがいよいよぼろくなって使い物にならなくなったら、立派な本建築の家に引っ越してきなさいと準備してくれている人がいるとするならば、安心です。その日が楽しみでしょう。

 地上の幕屋はだんだん朽ちていきます。地上の幕屋とは「外なる人」のことです。年を取るとあっちもこっちもガタが来始めます。親しいご老人が、「病院にいくと、医者はすぐ『ああ。ばあちゃん、それは『老人性~』だよ。』と目でも耳でも手でも足でも、頭でもどんな病気でも「老人性ナントカ」と名前をつけられておしまいですよ。いやんなってしまう。」と話していました。年を取ってこの外なる人、ぼろぼろになっていくテントしかなくて、引っ越す先がないならば、それは死ぬことが不安なのは当然です。

 でも、使徒パウロは希望に燃えていました。なぜかというと、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても(つまり肉体の死がやってきても)、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない天にある家です。」パウロはこの肉体が用済になって地上の生涯が終わったら、天国に行って本建築である復活のからだを受けるという希望がありました。だから、地上の幕屋が壊れるとき、死の時が恐ろしくはないのです。むしろ楽しみなのです。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」

 使徒パウロが最期の最期まで、若く、前向きだった秘訣はここにありました。すなわち、使徒パウロは死のかなたに輝く希望を抱いていたということです。

 私の恩師に朝岡茂牧師という方がいます。この先生の死は希望に満ちていました。朝岡先生は、死の床で「教会は万歳です。イエス様が見える。イエス様が見える。」といって、天に召されて行ったのです。

 

3.いつまでも残るもの--神にお会いする備え

(1コリント13:4-14:1抜粋)

 

 こういうわけで、聖書が教えるところでは、老いを賢く生きるためには、ちゃんと肉体を去って神様の御前に行く備えをする必要があるのです。神様の御前に出ることが希望に満ちているならば、それこそ最期の息を引き取る瞬間まで、私たちは前向きに生きることができます。神様にお会いする時、裁判があります。裁判官は、私たちが生まれてこの方心の中で考えたことも、口でいった言葉も、手で行なったことも全部ご存じの神様ご自身です。

 伝道者の書には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。・・・神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」とありました。

 使徒パウロも「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあって、した行為に応じて報いを受けるのです。」(2コリント5:10)と言っています。

 

 私たちは審判者におめにかかる用意をすること、造り主の目に価値ある生き方をすることが、聖書がいう知恵ある生き方、賢い生き方ということになります。

 

(1)地獄の沙汰は金次第ではない

 新約聖書のなかに「貧乏人ラザロと金持ち」というイエス様が話されたことがあります。ルカ福音書16:19-31

 ここを見てはっきりとわかることは、地獄の沙汰は金次第ではないということです。門前の貧乏人ラザロが死んだ時、だれも彼を葬ってもくれなかったようです。けれど、神様の御使いは神様を慕い愛しているラザロを天国に連れていってくれました。一方金持ちが死んだというときは、たいそうな葬式がなされ町の名士たちが集まりました。日本風に言えば、長々しい院号のくっついた戒名が誇らしげに付けられ、黒御影の巨大な墓も用意されたのです。

 私の実家は神戸なのですが、神戸と言えば広域暴力団山口組の本部があるところです。神戸の地方裁判所の目の前に山口組の事務所があるのです。もう十数年まえ、山口組の三代目組長田岡さんという人が死にましたが、そのとき組は田岡さんのために、院号付きの長々しい最高の位の戒名を買ったのです。しかし、ふざけてはいけない。地獄の沙汰は金次第ではありません。神様にワイロは通用しません。神様は公正な審判者です。

 金持ちが死んだあと目が覚めると、そこは地獄でした。地獄の沙汰は金次第ではないのです。別に金持ちが悪いというのではありません。そうではなく、イエス様がおっしゃったのは「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」ということです。門前に飢えて苦しんでいる人がいるというのに、それを見殺しにしてしまうようならば、その金は呪われた富なのです。なぜ神様は、世の中に富む人と貧しい人をいさせるのかといえば、より多く持つ人が、貧しい人と富を分かち合う愛の交わりが生まれるためなのです。それなのに、あの金持ちは自分のために蓄えて、門前で人が餓死するのを見殺しにしたのです。神はそんな金持ちを地獄に落とされました。

 

(2)いつまでも残るもの-信仰・希望・愛--神様の前に持っていけるもの

 肉体の死の向こう、審判者である神様の前にまで持っていけるものとはなんなのでしょう。肉体が朽ち果てても、いつまでも残るものとはなんなのでしょう。いつまでも残るもの、それは、信仰と希望と愛です。

 1コリント13章 抜粋

「愛は寛容であり、愛は親切です。

 また人をねたみません。

 愛は自慢せず、高慢になりません。

 礼儀に反することをせず、

 自分の利益を求めず、

 怒らず、

 人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 愛は決して絶えることがありません。

 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

 その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」

 

 地上の富や名声や社会的地位などは、死後、神様の前になに一つ持って行くことはできません。 私たちは、肉体を離れても、私たちが神様の前に持っていけるもの、いつまでも残る信仰と希望と愛をこそたいせつにしなければなりません。それこそ、「老後の賢い生き方」です。

 

 信仰と希望とはなんでしょう。それは、イエス様に対する信仰と、その信仰に基づく、永遠のいのちへの希望です。私たちは心の思いと言葉と行動において、多かれ少なかれ罪のあるものです。(嘘をついたこと、脱税であれ、なんであれ盗みをしたこと、人の悪口を言ったこと、人を憎んだこと、)だから、このまんまで神様の法廷に引き出されたら、まちがいなく有罪判決を受けてしまいます。

 どうすればよいでしょう。裁判では弁護士というのがつくものですね。神様は私たちのためにすばらしい弁護士を送ってくださいました。それが神様のひとり子であるイエス・キリスト様です。イエス様は、二千年前地上に来られて、なんと私たちのために、十字架の上で身代わりに私たちの受けるはずの地獄の呪いを受けてくださったのです。そしてよみがえられたのです。ですから、イエス様を信じていれば、神様の法廷でイエス様があなたのことを弁護してくださいます。「この被告水草修治は確かに有罪です。人を憎んだこともあり、小さいころお母さんのヤクルトを盗み飲みしたこともあります。けれど、この被告水草修治の身代わりに、私がすでに十字架で苦しみました。償いは完了しております。」と。

 私はイエス様を信じてイエス様に弁護士を依頼してありますので、神様の法廷では無罪がもう確定しているのです。ですから、使徒パウロと同じように死のかなたに希望をもっています。地上の使命を終えて、あちらに行くその日が楽しみです。

 

 もう一つの準備。それは、愛です。お金や屋敷や社会的地位や立派な墓石などは、神様の前に持って行くことはできません。けれど、信仰と希望とともに、愛の行ないは神様の前に持っていくことができます。神様は、私たちを天国に迎えてくださってから、地上で行なった愛のわざに対してご褒美をくださいます。

「愛は寛容であり、愛は親切です。」

  相手をありのまま受け入れること。相手を変えてやることが親切と思ってはいけない。相手をありのまま受け入れ、かけは自分が補ってあげようという心。

「また人をねたみません。」

「愛は自慢せず、高慢になりません。」

「礼儀に反することをせず」

 ありがとう、ごめんさない、どうぞというエチケットをたいせつに、年をとったらなおのこと身だしなみもたいせつに。

「怒らず、人のした悪を思わず」

 人の(夫、嫁、だれでも)その失敗を数えないこと。

「不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

神が彼を取られたので

創世記5章

 

2018年6月14日 HBI

 

序 聖書にはあちらこちらに系図が出てきます。系図を通して神様は何を教えようとしていらっしゃるかは、その特徴に着目することによってわかります。

 

1.アダムからノアにいたる

 

創世記5章の系図の特徴の一番目は、アダムからノアにいたるラインだけを記したものであって、すべての人のことが記されているわけではないということです。カイン族のことは何も記されていませんし、また、アダムから生まれたセツ系の子孫の中でも、特にノアにいたるラインのみが記されているのです。だから、たとえばカインとアベルの誕生については何も記されておりません。

また、「何歳になってだれそれが生まれた」という書き方がされていますが、その歳まで誰も生まれなかったというわけではないでしょう。むしろ、他にも何人も生まれたのですが、ノアにつながるラインとはならなかった子どもたちの名はすべて省略されているのです。

つまり、アダムからノアにどのように子孫がつながって行ったのかという、その点に特化した系図なのです。というのは、ノアから出る者たち以外は、大洪水によってすべて滅びてしまうからです。

 

 平均寿命900歳

 

この系図の特徴の第三番目は、登場する人々の寿命がおおよそ900年であり、現代に比べると非常に長命であるという点です。あまりにも年数が長いので、学者のうちには、この寿命は個人の寿命ではなくて、それぞれ部族の存続した年数を意味しているのではないか、という説を唱える人がいます。けれども、そうであれば「およそ何百年」というふうになるはずで、何百何十何年ということにはならないはずですから、無理な解釈でしょう。

また、当時の暦の数え方が現在とは異なったのではないか、などと考えたらどうでしょう。今の1年は12ヶ月ですが、毎月1年と考えて今の1年を12年と数えるというわけです。そうすると、900歳ということは75歳を意味することになり、常識的な数字となります。しかし、この説に従うと、11章のアブラハムからノアにいたる系図との調和が図れなくなってしまいます。結局のところ、一番自然な読み方は、この寿命の長さの記述をあれこれ理屈をつけないで、そのまま受け取ることです。

この平均900年もの寿命は大洪水の前までのことでした。6章~9章の大洪水を経て後、急速に寿命が短くなっていったことが、創世記11章の系図に記されています。これは何を意味しているのでしょうか?二つの理由が考えられます。一つは創世記6章で神が「人の齢は120年にしよう」とおっしゃったことです。大洪水の後、人間の寿命が急速に短くなっていったのは神がなさったことだというメッセージです。これと関連して、大洪水の前後で自然環境に激変が生じたと結果、寿命が短くなったという説を立てる学者がいます。ノアの大洪水によって現在の地層が形成されたという研究者たちです。実際、世界中の地層の中で発見される動植物の化石は、かつてこの地球の自然環境が現在とは相当に違っていたということを明らかに示しています。羽の長さが80センチものトンボ。爬虫類もかつては非常に巨大なものたちがいたことがおびただしい化石からわかっています。ブラキオサウルスは全長25m、、巨大ワニ12m、巨大蛇15m。哺乳類でも、巨大ゴリラ3メートル、巨大ナマケモノ6m、巨大サイ8mといった化石があります。現代に生息するゾウガメの年齢が200歳を超えるそうですから、大洪水前の巨大な生物たちの寿命は、相当長かったと推測されます。なぜそのようなことが可能だったのかというと、大洪水の前には大気の状態、地表に降り注ぐ有害な宇宙線の状態などが指摘されます。酸素濃度が高いと生物は巨大化することが知られていますから、大気の状態が現代と違っていた可能性が高いでしょう。

ですから、現代の物差しで大洪水前の生物のありさまを測ることはできないのです。こうした事実は、この系図に記されている900年もの寿命の長さを説明するための助けにはなるでしょう。

 

 「生きて、・・・死んだ」そして「神がエノクをとられた」

 

 この系図の特徴の第3番目は、「誰それは生まれ・・・何年生きて、誰それを生んで・・何年生きて死んだ」と繰り返されている点です。繰り返し繰り返し「死んだ」「死んだ」「死んだ」「死んだ」と読んでいくと、なんとも不気味です。かつて人類の契約のかしらであるアダムが罪を犯したとき、彼に対して、神はおっしゃいました。創世記3章19節

「3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。

   あなたはそこから取られたのだから。

   あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

 

アダムの罪に対する呪いは、確実にその子孫たちに及んでいったのだとこの系図は語っています。死はアダム以来人類を支配しているのです。

 

 しかし、この系図にはもう一つ特徴があります。それは、系図のなかでもっとも短命なエノクの生涯に関する記述です。彼のこの世での生活は365年でした。しかも、彼に関しては、ほかの人々と違って「死んだ」とは書かれていないのです。「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。ある日、エノクが突如としていなくなってしまったのです。そして、彼がいなくなったとき、人々は「ああ、神がエノクを取られたのだ」という啓示が与えられたのでしょう。そうして、みなが納得したのです。エノクはそういう人生を生きた人でした。

「5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。 5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。

 5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」

 

 エノクの人生をひとことで言うならば、それは「神とともに歩んだ人生」でした。22節、24節に繰り返されています。だれもがエノクさんという人を思い浮かべると、彼はいつも神とともに歩んでいる人だったなあと思い浮かべる、そういう人だったのです。うれしいことがあったときには、神に感謝をささげ、悲しむべきことがあったときにも、神に祈りをささげ、何事もないときにも神を賛美している。それがエノクでした。寝てもさめても、いつも神様とともに歩んだ人、それがエノクでした。ですから、エノクが突然いなくなったとき、人々は「神がエノクを取られた」と示されて、それが胸に落ちたのです。

 エノクさんがある日散歩をしていると、神様が彼の傍らをいっしょに歩いていらっしゃいました。エノクがあのこと、このことを神様にお話し、神もまたエノクにあれこれと語りかけられる。そうして神とともに歩むうちに、気がつけば太陽は西の空に低くなっていました。神様はおっしゃいました、「エノク。もう晩くなりましたね。うちに来ますか。」するとエノクは、「では、そうさせていただきましょうか。」と答えて、彼は神の家に帰って行ったのでした。エノクという人は、神とともに歩む人生でした。

  エノクのことを考えると、私は同盟宣教団の創始者フレデリック・フランソン先生を思い出します。彼は日本を何度か訪れていますが、そのたび定宿にしていたのが、ある仕立て屋さんの家でした。その仕立て屋の主人がフランソン先生のお洋服がひどくすりきれているので、服を新調しましょうと何度提案しても、先生はまったく無頓着です。そこで、主人は一計案じまして、夜中に先生の服の寸法を測って、次回泊りに来られた時、夜中に新しいのに取り換えて置いたそうです。翌朝、フランソン先生は何も気づかないまま朝食の席につきました。それで主人は言いました「先生、お洋服」。するとフランソン先生ははじめてまじまじと自分の服を見て、こう言ったそうです。「おお!主が新しくしてくださった。」フランソン先生の秘訣は4つのCです。すなわち、

Constant Conscious Communion with Christ

 「エノクは神とともに歩んだ」ということを読むと、憧れを感じ、私もそうありたいと感じるとともに、ちょっと自分と引き比べると、なんだか先天的に自分とは質が違う人だなあという印象をもってしまうかもしれません。生まれながら、神を愛し、神とともに歩む人生を歩んだエノク。神の人エノク。聖人エノクというイメージです。

 しかし、ここに短く記された彼の人生の描写を注意深く読むと、彼の人生にも霊的な転機があったのだということがわかります。

「5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」

 人生の65年目、エノクにはメトシェラという子どもが与えられました。そのときにどういう出来事があったのかは記録されていませんが、彼はわが子を胸に抱いて、一つの決心をしたのでした。「そうだ。これからは神とともに歩む人生を生きよう。」と。それ以前、セツ系の一族に生まれたエノクが神を知らなかったわけではありません。しかし、まあまあ親が神を信じているから自分も一応神を信じ、祈りもするという程度だったのでしょう。けれど、メトシェラが生まれたときから、彼は変わりました。神とともに歩むことを決心し、以後300年間、神とともに歩む人生を歩みとおしたのでした。あるとき、彼は自分の人生のハンドルを神にお任せすることにしたのです。自分の欲望や夢の達成、そうしたものを追い求める人生をやめて、神に人生をおささげしたのでした。それは幸いな人生の始まりでした。そうして、ある日、神はエノクを取られたので、エノクはいなくなったのです。彼が世を去ったとき、人々は彼の墓碑銘というべきか、記念碑に、「エノクは神とともに歩んだ」と刻んだのです。

 

結び

 エノクの人生は当時の標準からすれば、標準の半分にも満たないものでした。決して、長いものではありませんでした。しかし、その人生はまことにすばらしい人生でした。彼が神とともに歩んだからです。あなたは、何とともに歩む人生を生きているのでしょうか。もし、あなたが突然を世をさったなら、人はあなたの墓碑銘としてなんと刻むでしょうか?「***はカネとともに歩んだ」「***は趣味とともに歩んだ」「***は会社とともに歩んだ」いろいろあるかもしれません。「***は聖書とともに歩んだ」もいいでしょう。でも、やはり「***は神とともに歩んだ」と刻んでもらえるような人生を歩みたい。

 神が人となられたのは、実に、私たちが神と共に歩む人生を生きるためです。

 

マタイ福音書1:23

 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

   活かされて生きる-いのちの御霊の法則― 

Rom7:7-8:11

 

1.肉が問題である・・・肉が問題であることに気づかないことが多い

 

 本日の本文には、「肉」とか「肉的」ということばが何度も出てきます。8章5、6,8節

5,肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。

6,肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。

7,なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

8,肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

 

 肉の問題と言っても、ダイエットの話ではありません。聖書では「肉」ということばは肉体、人間を意味している場合もありますが、ローマ書8章とガラテヤ書5章で「肉」は、聖霊(御霊)と対立的に用いられています。このように聖霊と対立的に用いられる文脈においては「肉」(σαρξ)とは「罪の奴隷としての人間のあり方」を意味しているのです。信仰生活における成長・聖化の一つの面は、この「罪の奴隷としての自分のあり方=肉」を克服するということです。

 まず、肝心なことは信仰生活の問題の中核は、この自分の肉にあることを認識することです。私たちは、自分の信仰生活がうまくいかないのは、あの人が悪いからだ、この人がわるいからだ、この環境が悪いからだなどというふうに考えがちです。そして、自分の「肉」に問題があることが見えないのです。このような性質は初めの人アダム以来、人間に入ってきました。

 最初の人アダムは、善悪の知識の木の実を食べてしまった時、神様からそれを追及されました。その時、彼は言いました。「あなたが私にくださったこの女が、私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは、「妻が悪い。妻が私が神様にしたがうことの妨害をしたのであります」といったのです。それどころか、「私にこんな変な妻をくれたのは、神様あなたではありませんか。あなたがこんな女を妻にくれたものだから、食べたんです。」と言ったのです。そして、最初の女も言いました。「へびが私を誘惑したのです。へびが悪いのです。」この時、悪魔はヒヒヒと喜んだでしょう。自分の肉に問題があるのに、ほかの者に責任を転嫁して、自分の肉にこそ問題があることに気がつかない、これこそ悪魔の巧妙な罠です。確かに悪魔は誘惑します。環境も困難かもしれません。しかし、私たちがその問題を人のせいにし、悪魔のせいにし、環境のせいにし、はては神様のせいにするとき、私たちはもはや的をはずしてしまっているのです。

 もしあのとき、アダムが「はい。私が悪かったのです。」と申し上げたら、悪魔ははぎしりしたでしょうに。私たちは問題があるときに、相手の問題、状況の悪さに目を向けることが多く、罪を犯している自分自身に光を当てることをしないことが多いのです。それではサタンの思うつぼです。まず、私たちは、信仰生活の問題の中核は、自分の肉にあるということに気づかねばなりません。

 

2.「肉」に対して律法で戦うなら勝ち目なし

 6章でキリスト者は罪に死んで義の奴隷となった者だと自覚せよという話がありました。では、罪に死に、キリストにあって義の奴隷として神に対して生きている私たちは、どのようにしてその義の道に歩むことができるでしょうか。

 7章でパウロが語っていることの第一点は、律法を頑張って守ろうとするならば、肉に対する勝ち目はないということです。 7節から20節では、もし律法によって「肉」と戦い、正しい道を歩もうとするならば、どのような結果に至るかがパウロの体験が記されています。パウロは御存じのようにもともとパリサイ人であり、たいへんまじめな人でした。それで彼としては述懐の第一番目から第九番目までは、守り通すことができたと思っていました。偶像崇拝などはしたことがないし、主の御名をみだりに唱えたこともない、安息日は厳守している、父母に不敬なこともしたことはない、殺し、姦淫、盗み、偽証などしたことはない。まじめ人間パウロは大丈夫でした。けれども、十戒の第十番目の戒め「むさぼってはならない」という禁止命令をパウロが真剣に受け止めて、実行しようとすればするほど、律法は彼のからだの中にあるむさぼりの罪を引き起こしたというのです。「むさぼってはならない」「むさぼってはならない」と自分に言い聞かせて彼は「むさぼり」という自分の肉と勝負したのです。勝負の結果はどうだったでしょうか。惨憺たるものでした。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ罪は死んだものです。」

 第十戒とは「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人の者を、欲しがってはならない。」です。パウロは朝に夕にこの戒めを繰り返して生活を正そうとしました。けれども、そうすればするほど「むさぼり」が彼を捕らえたのです。律法は私たちに罪を自覚させ、自力ではきよくは生きられないことを教えるのです。

 

3.原理を発見する

 

 彼はその己の現実のなかから驚くべき「原理」を発見するのです。

 7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

 7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

 ここに原理と訳されていることばはノモスと申しまして、法則とも律法とも訳されます。アルキメデスの原理とか万有引力の法則とかいうように、法則とは何度試してみても同じ結果が現れることです。りんごが枝を百回離れると百回とも地面に落ちる。一万回枝をはなれても一万回たしかに地面に落ちる。だから法則です。

 パウロが発見した法原理とはつまり、心に善をしたいと願っている私の内に悪(罪の法則)が宿っていて、善をしたいにもかかわらずしたくない悪をしてしまうということなのです。これは法則ですから、くつがえすことはできません。たとえば、万有引力の法則というのがあります。手を上げて下さい。はい、上がりますね。けれども、一時間上げたままでいてくださいと言っても、みなさん手が下がってしまうでしょう。そうです。万有引力の法則がありますから、さがってしまいます。つまり、法則に対して私たちはしばらくは自分の力で抵抗することができます。けれども、それはしばらくの間だけなのです。そして何度やっても同じ結果になります。

 私たちは罪の力に対してしばらくは抵抗できるでしょう。一時間、二時間、一日、三日・・・と。しかし、また同じ罪を犯してしまうのです。人によって弱点は違うでしょう。「怒っちゃいけない」とか「悪口言っちゃいけない」とか「むさぼってはならない」と思って何日かがんばっていても、また気がつくと同じ罪を犯しているのです。なぜですか。からだの中に罪の法則のせいです。それは法則です。何回やっても同じことです。それは法則であり原理ですから、肉に対しては私たちは「すべきだ」「・・してはいけない」と自分に言い聞かせて自分で戦おうと努力しても勝ち目はないのです。

 大事なことは、自分の罪をはっきりと曇りなく認識することです。そして、「私はあの人を憎んでいます。」とか「あの人を心の中で殺してしまいました。」とか率直に神に向かって告白することが大事なのです。自分自身に決定的に挫折したとき、神の働きが始まります。

 

.いのちの御霊の法則によって(8章)

 

 パウロはこの律法による罪の自覚によって、二つの認識に追いやられます。

 

(1)キリストにある義認の恵み、肉の支配からの解放を再確認する。 

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を罪のために、罪深い肉とおなじような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(8章3節)

 救われる以前、人はみな「肉」の支配下にあります。つまり罪の奴隷です。肉の命令の言いなりにならねばなりませんでした。 人間が罪の奴隷となってしまったために、律法は人間を神の御前に義とできなくなりました。そこで神は、御自分の御子イエスを人間として派遣なさり、人間として罪の罰を受けさせたのです。そこで、私たちは原理的にすでに肉の支配から解放されたのです。

 このように信仰によって、神から義と宣言されたという事実は、聖化の途上で己の罪の現実に目覚めた聖徒を支え、肉から解放されたのだということを自覚させるのです。律法は、こうしてもう一度キリスト者をキリストの恵みの原点に連れ戻すのです。私たちは弱いのです。けれども、私たちはキリストにあってすでに肉から解放されたものだということを、まず確認することです。あなたの罪は、あの主の十字架の上で死んでしまったのです。肉の支配も終わったのです。主イエスを信じる者は、すでにキリストとともに死刑になり、そして、キリストとともに葬式も終わってしまったのです。

 

(2)いのちの御霊の法則で生きる

 パウロが「罪と死の法則」を自覚させられて至ったもうひとつの所は、「いのちの御霊の法則」の認識です。2節。「罪と死の法則」に勝つには、「「・・・しなければならない」という律法で生きることではなく、もう一つのより強力な法則によるほかないのです。すなわち、罪と死の法則にまさるもう一つの法則によってのみ勝利を得ることができます。

 心の法則は神の律法に従いたいと願うものです。それは神が心に律法の命じる行いを記しておられるからです。それはいわゆる良心です(ローマ2:15)。道徳的な人は良心によって「あれは善、これは悪」と判断して道徳的な生き方をします。 けれども、からだの中には罪と死の法則があり、これは神の律法に反逆するものであり、かつ、心の法則よりも強力なため、からだは罪の法則にしたがってしまうのです。道徳的な人は、「あれは善、これは悪」と判断しながら、自分自身が悪と判断することをしてしまうのです。道徳的な人は、他人を見て非難しながら、自分も同じことをしてしまうのです。

 「心の法則」によっては「罪と死の法則」に対する勝ち目はありません。「罪と死の法則」から解放されるためには、「罪と死の法則」よりも強力な法則をもってしなければなりません。罪と死の法則よりも強力な法則とは、いのちの御霊の法則です。

 これを図解すると下の通りです。

 

心の法則 < 罪と死の法則  < いのちの御霊の法則

(律法に賛成) (律法に反逆)  (律法から解放され律法を十二分に満たす)

 

 ですから、私たちは「むさぼってはならない」という律法に固執することによってではなく、「いのちの御霊の法則」によってこそ勝利の生活をすることができるのです。「いのちの御霊の法則」によって生きるとはどういうことでしょうか。それは、自分の理屈であれは善、これは悪という判断をしている生き方でなく、「主のおことばですから従います。」という生き方をすることです。それはキリストが私のかわりに生きて下さるということなのです。

 このことについて、主イエスの「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。」(マタイ5:41)ということです。当時、ユダヤローマ帝国の属州とされており、ローマ人は任意に被支配者であるユダヤ人を1ミリオン使役することができました。ひどい話です。堪え難い屈辱です。けれども、主は2ミリオン行けと言われるのです。この世でもっともひどい人も1ミリオン行けというのが限界です。しかし、主イエスは2ミリオン行きなさいと命じます。主イエスはローマの法律よりもひどい律法で私たちを縛ろうというのでしょうか。いいえ。逆です。1ミリオン行く人は、肉の力でいやいや苦痛の中で行くでしょう。しかし、2ミリオン行く人は、喜んで行くのです。彼はもはや律法に縛られているのではなく、敵をも愛する愛によって自発的に行くからです。2ミリオン行きなさいという命令は、私たちを縛るのではなく、むしろ内に与えて下さった御霊のいのちを引き出すものなのです。これは、律法と新約的な命令との違いに適用されるものです。

 律法は「偽証してはならない」と言いましたが、新約の命令は「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」と言います。律法は「盗むな」と言いますが、新約の命令は「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」です。律法は「主の御名をみだりに唱えてはならない。」と言いますが、新約の命令は「悪いことばをいっさい口から出してはなりません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。」です。神の聖霊を悲しませてはいけません(エペソ4:25-30)。

 主イエスを信じているあなたは、すでに、いのちの御霊を受けているのです。この世には悲しみながら不平を言いながら1ミリオン行くクリスチャンと、喜んで2ミリオン行くクリスチャンがいます。キリストを信じる私たちには、愛をもって2ミリオン行くいのちが与えられています。ここに聖化における信仰の重要性があります。私は、義の奴隷となったと信じると同時に、私のうちにはいのちの御霊がおられ、2ミリオンを行くいのちがある事実を信じるのです。ただ形式的にとらえてはなりません。聖霊の内なる促しに信仰をもって自由に従うことです。

 「あなたの敵をも愛せよ」と言われる主に単純に従うことです。理屈をいえば、「ムリ!」でしょう。しかし、主イエスを見上げるのです。十字架において、あなたを愛された主イエスを見るのです。そうすると、あなたの内に生きる主イエスの御霊が、愛させてくださるのです。私たちクリスチャンは、自力でがんばって生きるのではなく、キリストの御霊によって生かされて生きるのです。                            

神の民と地の民

創世記4:16-26

2018年5月17日 HBIチャペル

 

 ここ4章16節から26節には、二つの民の歩みが記されています。一つは16節から24節までに書かれている神に背を向けて去ったカインとその子孫の一族です。これをカイン族と呼ぶことにします。もうひとつは、25,26節に記されている、神がアベル亡き後に神がアダムとエバに与えたセツとその子孫の一族です。これをセツ族と呼ぶことにします。カイン族は、神なしで自力で生きることを誇りとする一族であり、セツ族は主の名を呼び求めて生きる一族です。アウグスティヌスは、著書『神の国』で、この箇所を「女のすえと蛇のすえの抗争」(創世記3:15)、神の国と地の国の歴史の絡み合いの歴史の発端として描きました。

 

1 カイン族

 

(1)エデンの東・・・反抗と不安

4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

「ノデ」とは、さすらい・放浪という意味のことばです。兄弟を殺し悔い改めを拒んだカインは、大地に呪われて落ち着くところを持たずに放浪するようになりました。そんなカインは、エデンの東に住みますが、その地の名はノデというのです。その意味は、さすらい・放浪という意味ですから、皮肉です。

神に背を向けた人は自分自身の落ち着くべきところを持っていません。「自分は誰なのか?自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」がわからなくなるのです。自分の存在理由と自分の存在も目的がわからなくなってしまいます。造り主である神を見失った人はだれもが、その魂は落ち着く先を知らずさまよっているのです。世に生まれては来たけれど、生きる意味がわからず、むなしく死んでゆくのです。カインの末裔の悲惨です。

  

(2)レメク・・・一夫多妻主義・権力欲

 続く17節から24節には、神に背を向けたカインが町を築き、カインの子孫に最初の一夫多妻主義者レメクが生まれたということがしるされています。抜粋して読んでみます。

4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 カインが妻を得たというけれど、この妻はどこから来たのかという議論が昔から論じられます。アダムとその妻エバから生まれた娘たちがいたのでしょうし、兄弟たちも他にいたということを意味しています。カインと同じように、神と父母に反抗して去った兄弟姉妹たちがいたのでしょう。こうしてカイン族が増えていきますが、そこにレメクという男が登場します。

 4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。

  結婚は、本来、神の第二位格である御子に似たものとして造られた男女が、全人格的な交わりをし、神と神の民、キリストと教会の交わりの麗しさを表わすために定められた制度です。けれども、レメクは二人の妻アダとツィラをもちました。レメクにとって妻とは、自分の情欲を満たすための道具にすぎなかったのです。また、女性のほうも「あなた好みの女になりたい」というふうな、奴隷に甘んじるような、しかし、本音のところでは、夫の人格でなくその財力や権力を自分の虚栄心を満たすアクセサリーとみているのです。

 レメクは、その妻たちに、自分の権力・暴力を自慢して歌うのです。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。

   「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。

   私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 カイン族の精神は、神への反抗心と不安ですが、もう一つの特徴は、その不安を覆い隠すために、力を振りかざすということです。権力であれ、暴力であれ、経済力であれ、己の力でもって、神なしに成功してみせてやるという権力への意志です。

 

(3)都市・文明・芸術

 このカイン族から、都市と産業と芸術が生まれてきたというのは、注目すべきことです。

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

 

 カインが最初に町を建てたことについて、フランスの哲学者ジャック・エリュールは著書『都市の意味』という書物のなかで、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数 多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。」と発言しています。労働・文化形成自体は神の命令です。しかし、堕落後の人類の歩みを見る ときに、特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。カインは神の守りを信頼することが出来ないので住まいの周囲に塀を築き、やがてそれが都市となりました。しかし、都市について、聖書は一貫して、神に反逆し、やがて滅ぶべきものとして描いている点に注意しておくべきです。バベル、ソドム、ゴモラ、エリコ、バビロン、ツロ、ローマ、そしてエルサレムというふうに都市は人々の権力と欲望と罪が集中して、やがて、自然災害か、あるいは戦争で滅ぼされていくのです。

 また、神が明日も私たちを養ってくださることを信じない人々が、安定的に食料を得るために家畜を飼い、天使たちの賛美の聞こえない人々が自ら慰めるために音楽を工夫しました。そして、青銅と鉄器の発明者は最初は農機具は斧に、やがては他国を侵略するための武器をカイン族にもたらしました。その直後に、あのレメクの例の暴力を賛美する歌が出てきます。

「4:23私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 都市と文明が、最初にカイン族から出てきたということを聖書が啓示している意味を私たちはよく考える必要があります。文明や技術や芸術は、後に、神の民によっても用いられていくもので、一般恩寵です。

 しかし、警戒すべき面があります。それは、都市というもの、また、文明の利器や芸術は、カイン族にとっては、神に代わるもの、つまり偶像であったということです。芸術も科学も産業もみな一般恩恵ですから用いてよいのです。しかし、芸術至上主義とか、科学主義とか、経済至上主義は、みな偶像崇拝です。文明・技術・芸術は、どこまでも神のみことばの支配の下に置くかぎりは有益ですが、神のことばの支配の外においてそれ自体を目的化するならば、科学も芸術も経済も有害なものとなってしまいます。

 

3.セツ族は主の御名を呼ぶ

 

 カイン族が華々しい文明・都市国家を築き始めているとき、他方で、神はアダムとエバに、今は亡き敬虔な息子アベルに代わるもう一人の子セツを授けました。

  4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

 このセツから、セツ族が出てきて、その系譜はノアに続きます。セツがどういう人物であり、その一族がどういう人々であるかを示すことが26節に表現されています。

 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。セツは、彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた。(2017訳)

 セツは自分に生まれた男児をエノシュと名づけました。エノシュというのは「人」を意味するもう一つのことばです。エノシュということばは、形容詞の「弱い」ということばと同根のことばで、特に、神の前における人間の小ささ、弱さを表現するときに用いられることばです。(たとえば、詩篇8篇) セツはわが子が生まれたとき、この子が病弱でちゃんと成長できるだろうかと心配して、エノシュつまり「弱し」君と名づけたのではないかと思います。セツは父親として、「主よ。この弱い子に、いのちを与えてください。」と神の前にひざまづいて祈りつつ、このエノシュは育てられていきます。神の前に虚勢を張るのではなく、神の前にありのままの自分の弱さを認めるところに、祈りが生まれてきます。祈りこそ、神の民セツ族の特徴でした。カイン族の力強さ、華々しさカッコよさに対して、セツ族はパッとしないのです。例えていえば、トランペットと鼻笛みたいな違いです。1コリント1章のことばです。

1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 

 

結び・適用

 カイン族は城壁を築き、次々と文明の利器と芸術と強力な武器を生み出し、富を獲得して妻を何人もめとって華々しい歩みをしていました。他方、セツ族は、病弱の息子が生まれて、その子のために祈り始めました。世間というものは、こういう姿を見ると、カイン族が祝福されていて、セツ族はあまり祝福されていないというふうに判断するものです。いや、私たちキリスト者もカイン族の価値観に影響されてはいないでしょうか。ショッピングモールを兼ね備えたようなメガチャーチが神に祝福されていて、主の御名を真剣に呼び求めている細々とした群れには同情はしても、祝福されているとは思わないのかもしれません。

 イエス様がガリラヤで伝道をしていたとき、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人という群衆を満腹にしてやったことがありました。その時、人々はイエス様を王として担ぎ出そうとしました。自分たちはその利得にあずかろうとしたのです。しかし、イエス様はこの群集たちを避けて、この世の王として成功することを避けました。主イエスには、十字架にかけられて殺されてのち三日目に復活し、私たちを滅びから救うという使命があったからです。

 この世は、神に背を向けて、富と快楽と権力と栄誉を求めて生きています。しかし、主が祝福されるのは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」なのです。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

  悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

  柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」マタイ5:3-15