水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

聖書を読み直す?

 「聖書を読み直す」という言い回しをときどき目にする。「これまでは、このように教えられて来たけれど、聖書はほんとうにそういうことを教えているのかを読み直すのだ」というのである。

 こういう企ては、正しく聖書がほんとうに語っていることに迫る場合と、かえって聖書がほんとうに語っていることから遠ざかってしまう場合がある。後者の場合というのは、「聖書を読み直す」という動機が、今の時代の思想とか風潮などに調子を合わせたいということである。こういうことは、古代の教会からありがちだった。グノーシス主義というのは、聖書をギリシャ宗教思想の二元論に合わせて解釈しようとしたものだった。近代のシュライエルマッハーの『宗教論』は、著者が最初の方で述べるように、当時の知識層に受け入れられるようにと意図して聖書を再解釈したものであるが、その「宗教」は汎神論になってしまっている。先の戦中に流行した「日本的基督教」も同じである。

泉湧く人生      

詩篇84篇  2022年11月13日 苫小牧主日礼拝

 詩篇84篇の詩人は、王という立場の人であったようです。それは8,9節を見るとわかります。「油注がれた者」とは第一義的に王を意味していました。

8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

 しかも、万軍の主よ、と呼びかけ、「われらの盾をご覧ください」とあるところを見ると、どうやら王はいくさに赴こうとして、その前に主の家、立ち寄って祈っているようです。やはり、竪琴の名手であり詩人であったダビデその人かなあと想像されます。

 

1 詩篇84篇に一貫する主題のことばは、「主の家」です。主の家とは、新約時代の教会の予型です。

 

1節「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。」でいう「あなたの住まい」は神殿を意味します。

2節「私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」の「主の大庭」というのは神殿の中庭を意味しています。そこで民は礼拝をささげるのです。

4節「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。」というのは神殿に仕える祭司たちを意味しています。

5節「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。」のシオンは神殿を中心とするエルサレムの山を指しています。

そして、10節にも「あなたの大庭」「神の家」はやはり神殿とその礼拝の中庭を意味しています。

 

 神さまの神の民に対する契約の中心は、神が神の民とともに住んでくださるということです。そして、旧約時代、神殿はその恵みの事実を象徴する施設でした。旧約時代の神殿は影であり、新約時代はその実現した本体が出現します。新約時代において現れた神殿の本体とは、主イエスのからだである教会、神の家です。

 キリストは御自分のからだが神殿であるとおっしゃいました。そして、キリストのからだとは教会です。建物のことではありません。キリストのからだである教会とは、キリスト者の礼拝共同体です。主イエスがおっしゃったでしょう。「二人でも三人でも、わたしの名によって集うところに、わたしはいる」と。このイエス様の御名によって集ったこの集いがキリストのからだであり、今この礼拝の場に、主は臨在しておられるのです。ですから、主にお目にかかりたいならば、主の名によって集う礼拝の集いに来るべきです。

 ですから、これから詩篇84篇を読み進めるにあたって主の家」とは教会のことであることを意識しましょう。

 

2 1ー3節は詩人がどれほど熱心に主の宮を慕っているかということが情熱的、詩的に表現されています。

1**,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。2**,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。3**,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。

 「万軍の主よ」と詩人は呼びかけます。肉眼と肉の耳で得た情報によれば、多勢に無勢であるけれども、万軍の主がともにいてくださるという事実のありがたさです。

 主の宮というのは、ダビデの時代であるとすると、移動式神殿である幕屋でした。主の宮には祭司が住まい、四六時中灯火をともして、そこに臨在なさる神の御声を聞いたのでした。詩人は、雀やつばめたちが、この主の宮に祭壇のそばに巣作りをするのを見て、「ああ、あのスズメや燕たちように主の臨在の近く、主の宮に住むことができたらどれほど幸いなことだろう」とうらやましくて、絶え入るばかりだと言っているのです。ダビデは欠点もありましたが、彼は実に主なる神を愛する人でした。

 私たちはどうでしょうか?身辺に何かがあると、「すぐに教会に出かけて祈ろう」と思いますか?それとも、「今は色々大変だから、落ち着いたら教会にも行きましょう」と思うのでしょうか。どちらが本当の神を愛する人でしょうか。

「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。

私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」

 

 「二人三人わたしの名によって集うところに、わたしもいる」とイエス様がおっしゃいました。キリスト教会の交わりの内には、主イエス様がご臨在していてくださるのです。今、キリストの名によって礼拝をささげているここは主の住まいなのです。この教会の交わりを慕い愛する人は主を愛する人です。その人は祝福を受けます。

 

3 なんと幸いな人ことでしょう

 

 次いで4節から7節で、詩人は二度にわたって「なんと幸いなことでしょう」と歌っています。

4**,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ 5**,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。

 詩人である王が「なんと幸いなことだろうか!」とうらやんでいるのは、「主の家に住む人たち」つまり、祭司たちのことです。王には立派な宮殿がありますが、ダビデ安息日ごとには礼拝に出かけて行く主の家に住みたいなあと感じています。祭司たちはいつも幕屋で、主なる神に仕え、主を賛美しているのです。なんと幸いなことだろうと、うらやましくてならないのです。王は、ユダ族でしたから、レビ人のように祭司になることはできませんでしたが、主の宮で主の御顔をあおぎ思いめぐらすことを、一つの願いとしました。詩篇27:4「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」

 詩人は「なんと幸いなことでしょう!」と繰り返します。「その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人です。祭司ではない自分は神殿に住むことはできないけれども、その力が主にあり、心の中にはシオンへの大路があるならば、その人は幸いです。シオンというのはエルサレム神殿のある山ですから、やはり神殿を指しています。 我力でがんばって生きているのでなく、主を自分の力として生きている人。心はいつも主の家、教会に向かっている人は幸いだというのです。

 

4 泉湧く人生

 

 主を力とし、主の宮、教会へと心が常に向いている人は、たとい試練をくぐることがあっても、その人生で素晴らしいことがあります。6節7節

6**,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。7**,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。

 苦戦するかもしれませんが、きっと勝利に導かれるということです。人生の中でも戦いがあります。私たちも「涙の谷」をすぎなければならないことはあります。けれども、クリスチャンはその「涙の谷」を泉が湧く所となります。池というのは、外から入ってくる水をためているくぼ地にすぎません。しかし、泉というのはその底からこんこんと水を湧き出させているものです。主イエスは言われました。ヨハネ4章14節「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」つまり、池は受けるばかりの人生ですが、泉はあふれる人生であり、他者をうるおす人生です。私たちの人生には、涙の谷間を通る時があります。しかし、イエス様と共に歩むならその涙の谷間が、あふれるいのちの泉となるというのです。

 ・・・どういうことだろうかと思いめぐらすうち、2コリント1章のパウロのことばを示されました。「4,神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」

 イエス様を信じるあなたはきっと経験したことがおありでしょう。堪えがたい苦しみの中にあるとき、イエス様の十字架を見上げるならば、「ああ、イエス様も苦しまれたのだ」と、不思議にその苦しみと悲しみが慰められたということがあるはずです。そして、苦しみの中で十字架の主イエスに出会った人は、他の同じような苦しみの中にある人を慰めることができます。「涙の谷」は泉わきでるところと変えられます。だから「主の家」、教会の集いを恋い慕うクリスチャンは幸いです。受けるより与えるほうが幸いであり、慰められるよりも慰めるほうがさいわいです。主の家で、十字架の主の慰めを受けるとき、私たちはほかの苦しみの中に置かれている人の慰めとなるでしょう。

 

5 そして、神殿で、王は、万軍の主に向かって祈り、耳を傾けてくださいと乞い求めます

8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ 9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

 詩人は王です。今、戦いのために戦地に赴こうとしています。しかし、彼は戦に自分の力、武器、作戦によって勝てるとは思ってはいません。万軍の主が共にいてくださってこそ、この戦に勝利できることを彼は確信していました。ですから、神殿で、主なる神に向かって祈るのです。

9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

 主がともにいてください。主が油を注いて王として立てた、この王である小さな私の盾に目に留めてくださいと、せつに祈るのです。

 そして、この賛美の最後に歌い上げます。

10**,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。

私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。**

 

 どんな贅沢な調度品に囲まれた王の宮殿でご馳走を食べ、多くの家臣団にかしずかれて過ごす千日よりも、この主の家、神殿で神のお顔を仰ぎ見て、賛美をささげて、祈りをささげるこの一日の方がはるかに勝っている。自分は悪人たちの天幕の奥の豪華な座に座るよりも、たとえ門番でもよいから、神の家にいたいというのです。今の時代でいえば、どんな豪邸にいるときよりも、主にある兄弟姉妹と礼拝を捧げる教会にいるときが幸せです、ということです。

 

  • 頌栄

主の宮をこよなく大切に思い、慕い求める王である詩人は、いのちを的にする戦地に赴くまえに、主の宮を訪ねて祈り、主がわたしの太陽であり、主がわたしの盾であるという確信にいたって、平安を得て、勇気を与えられて出陣します。そうして、最後にもう一度「なんと幸いなことでしょう」と謳い上げて結びます。「11**,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。**12**,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。」

 

結び 私たちの人生にも戦いがあります。しかし主の家に主日ごとに集い、新しい週の戦いに主が伴ってくださることを祈りましょう。主が共にいますならば、あなたの通った辛かった涙の谷は、泉湧くところとなり、あなたに出会う渇いた人たちを潤すことになります。 

復活の証人・・・シャローム

ヨハネ福音書20:19-23

2020年4月12日 復活日礼拝

 

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 

 

 金曜日、主イエスは敵にとらえられて深夜の裁判にかけられ、午前九時に十字架につけられてしまいました。あざけりと怒号のうずまくゴルゴタの丘で、主イエスは十字架に釘付けにされ、さらし者にされました。しかし、あの十字架の上で、主は「父よ。彼らをおゆるし下さい」と私たちのために祈ってくださったのです。

 3時間がたって正午になると、突然太陽は光を失ってあたりは暗闇になりました。この暗闇は遠く小アジア半島の歴史家も記録に残しているものです。恐ろしい暗闇は、神の呪いの象徴でした。すなわち、聖なる神の人類の罪に対する怒りを、人類の代表となって主イエスは十字架の上で一身に背負われたのでした。午後3時、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と暗闇を引き裂くイエスの声が響きました。神の御子が人となって、神に呪いのうちに捨てられたのです。そのことによって、私たちが祝福を受けるためでした。イエスは「父よ。わが霊をみ手に委ねます。」というと、息をひきとられ、アリマタヤのヨセフの墓に葬られたのです。

 墓に葬られたのが金曜日の日没前のことです。その日から数えて、三日目の朝、うずうずしていた女たちは主イエスの墓へと出かけてゆきました。そのおからだに香料を塗って差し上げたいと考えたからでした。ところが、墓に行ってみると、大きな墓にふたをする石はどけられて、主のからだはすでになく、天使がいたのでした。そのことを、女たちは弟子たちに告げに行きました。弟子たちは、にわかにイエスが復活したということを信じることはできませんでしたが、女たちのあまりの熱心さに、これはただごとではないと考えて、ヨハネとペテロが墓に走ってゆきました。すると、墓はたしかに空っぽだったのです。ヨハネは、その様子から、主イエスがほんとうによみがえったのだと悟りましたが、ペテロは何が何だかわけがわかりませんでした。

 

1 恐怖

 

 主イエスが十字架にかけられて三日目の夕刻、「イエス様のおからだはどこに行ったのだろう?」「女たちがいうように、イエス様はほんとうによみがえったのだろうか。」そんなわけで、弟子たちは不安と当惑のうちにすごしていました。

 しかも、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を固く締めていました。それは、イエス様を殺した連中が、イエスの残党狩りを始めることを予想していたからです。祭司長や長老たちは、にっくきイエスを十字架にかけて殺しただけでは飽き足らず、イエスの弟子たちにも魔の手を伸ばしてくるかもしれませんでした。

 弟子たちは数日前まで、勇気凛凛、野心に燃え上がっていたのです。エルサレムに一週間前に入城して以来、ユダヤ当局はイエス様を論破するために、パリサイ派だのサドカイ派だのの学者たちを遣わしましたが、イエス様は彼らをやすやすと返り討ちにしてしまったからです。これから我らの大先生、イエス様は待ち望まれたメシアとして自分を宣言なさるにちがいない。そうしてダビデの王座に着いて、ローマの支配を排除して、ダビデ、ソロモン王朝の栄華を回復してくださるにちがいない。その時には、私たちも、イエス様の右大臣、左大臣、その他大出世させてくださるはずである。そういう野心でした。

 ところが、イエス様はどういうわけか、ゲツセマネの園で、むざむざ敵に対してご自分を渡してしまったのです。そして、暗黒裁判にかけられ、最後には、あのむごたらしい十字架にかけられて、処刑されてしまったのでした。

 十字架刑のむごたらしさを見ていた弟子たちは震えあがってしまいました。死の恐怖です。あのエジプト脱出のとき、ファラオのかたくなさに対するさばきとして、死の使いが家々を回って、あちこちの家で悲鳴が上がっていたとき、人々は恐怖におののいていましたそうして、戸を固く閉ざしていました。死が押し迫る恐怖です。弟子たちもまた死の恐怖の中に置かれていました。

 

2 シャローム

 

 ところが、そこにイエス様が来られ「彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」」「平安があなたがたにあるように」、というのはヘブライ語でシャロームといいます。死を恐れることはない。シャロームだよ、とおっしゃるのです。

 弟子たちは、パニックになりました。ルカの並行記事を見ると、幽霊だと思ったというのです。無理もありません。墓が空っぽになっているとは言っても、弟子たちは半信半疑だったのです。ヨハネが墓の中の、イエス様のからだをまいてあった様子について話して、イエス様は復活したはずだと言っても、半信半疑でした。いや信仰10%、残り90%は疑っていましたから、死人が出現するというなら、それは幽霊だと思ったのはもっともなことです。

 そんな弟子たちのために、イエス様はその手と足を見せました。幽霊には手や足がないというのが常識だったのでしょうか。弟子たちは恐る恐るイエス様の手のひらを見てみると、そこには長い釘で撃たれた傷がありました。衣のすそを挙げると、その足にも釘の後がありました。さらに、脇腹を見ると深々と槍の跡がありました。まちがいありません。主イエスです。

 そこで主イエスはもう一度、力強く、そしてやさしくおっしゃいました。 

20:21 「平安があなたがたにあるように。」

 復活のイエス様は、弟子たちに平安をあたえてくださったのです。

 弟子たちは失意と恐怖の中にあって、扉を閉ざしていました。

 失意というのは、自分たちの希望であるイエス様が死んで奪い取られてしまったことでした。自分たちの、うきうきするような野心的な計画も、ぜんぶ壊れてしまったことでした。そして、もう一つ失意の理由は、命を捨ててでもイエス様に従っていきますと口々に言ったくせに、いざ敵がやってくると、弟子たちはみんなイエス様を捨てて逃げてしまったことです。自分はこんなに卑怯で弱虫の情けない人間だったのかと挫折を感じ、悔やんでも悔やんでも取り返しがつかないと、がっかりしてしまったのです。

 恐怖というのは、死の恐怖です。ユダヤ当局のイエスの残党狩りが始まれば、自分たちはイエスの弟子団の中で、特選の十二人の弟子たちとして逮捕され、拷問され、処刑されることになるでしょう。その死の恐怖です。

  けれども、罪と死と悪魔に対して勝利を収めて、復活した主イエスは力強くおっしゃるのです。「シャローム。平安があなたがたにあるように。」「シャローム。平安があなたがたにあるように。」

 主イエスは、罪を死と悪魔に対して勝利して、弟子たちに、その勝利に基づく平安を与えに来られたのです。彼らの罪のすべてをあの十字架で帳消しにしました。そして、死は罪の結果人類に入り込んだ呪いなのですが、罪を帳消しにすることによって、もはや死の力をもつ悪魔は無力化されてしまいました。イエス・キリストのうちにある者は、たとい死んでも生きる者とされたのです。その肉体はいずれ滅びる日が来たとしても、それは永遠のいのちへの門です。キリスト者にとって、肉体の死とは、天国に連れて行かれて、栄光の主と共に至福のうちに暮らすための旅立ちなのです。

 だから、シャローム、平安があなたがたにあるように、です。

 

 今朝、あなたにも、主イエスはおっしゃいます。「シャローム!平安があなたがたにあるように。」

 今、世界中が新型コロナウィルスの恐怖におののいています。おののいて、部屋の中に閉じこもっています。その恐れは、結局は、死に対する恐れです。新型コロナにとらえられて死んでしまったらどうしよう、という恐れです。けれども、私たち主イエスの弟子となった者たちは、もはや肉体の死の恐怖から解放されています。

「あなたの罪は、わたしがすべて十字架の死によって解決した。罪に対する罰としての、地獄の永劫の苦しみは、私がすべてなめつくした。だから、あなたは、死を恐れることはない。死は永遠のいのちへの門なのだ。」

 主イエスは、そうおっしゃるのです。シャローム。それは、神との平和です。神の、あなたに対する怒りは去って、今や平和がもたらされたのです。

 

3 派遣

 

(1)聖霊

 主イエスは、彼ら弟子たちにシャロームを与えました。それは、神との平和です。キリストにつく者は、キリストの十字架と復活のゆえに、神との平和を持っています。死んでも死なないいのちを持っています。肉体の死の向こうには、輝かしい天の家が待っています。これは素晴らしい福音です。よき知らせです。

 そこで、主は、弟子たちにこの十字架と復活の福音を携えて行け、と派遣なさるのです。派遣するにあたっては、聖霊を彼らをお与えになったのでした。  

20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 神の息とは、神の霊です。イエスの息は聖霊です。弟子たちは、弱い者でした。主イエスについて行きたいと願い、たとい死ななければならないとしても、私はついていきますと言いながら、イエス様を見捨てた者たちでした。そんな彼らが、これから後は、ユダヤ教当局に逮捕され、拷問を受けるようなことがあっても、大胆にキリストの十字架の福音を語り続けました。彼らは、明らかに変貌しました。弟子たちは、死をも恐れずに宣教して、新約の時代の教会の礎を築き上げたのでした。彼らの殉教の血は、教会の種となったのです。

 何が彼らを変えたのでしょうか。主イエスの復活の事実と、主イエスがお与えになった聖霊です。

 

(2)天国の鍵の権能

 聖霊をお与えになって、弟子たちに主イエスが語られたことは、弟子たちが築く教会に、天国のカギを託すという内容です。

 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 この十一人の弟子だけのことではありません。教会に対して、イエス様は、この天国のカギを託されたのです。教会は、「悔い改めて、イエスをあなたの罪と死からの救い主として信じなさい。」と宣言します。この宣教に対して、「私は確かに神の前に罪があります。イエス様を信じます。」と告白する人に対しては、「あなたの罪は赦されました。」と教会は宣言します。その人の罪は赦されて、天国の門が開かれます。そのあかしとして、洗礼を授けます。

 

 しかし、キリストの福音を聞いても、「私は罪を認めません。イエスなんて信じないよ。」という人の神の前での罪はそのまま残ります。

 

結び

 イエス様は、弟子たちに、そして世世の教会に、この苫小牧福音教会に、天国のカギを託してくださっているのです。人々は、失望の中にいます。また死の恐怖の中にいます。それは肉体の死の向こうに永遠の滅びが待っているからです。

 しかし、私たちは、復活のイエス・キリストがくださったシャロームの中にいます。神との平和を持っています。この善き福音を喜び、そして、復活の証人として生きてまいりましょう。

 

赦し赦される

マタイ6:12-15

 

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

14**,もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15**,しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

1 ごとく

 

 主イエスが私たちに教えてくださった祈り、主の祈りを続けて学んでいます。主の祈り全体を朗読しましたが、本日は、12節に特に耳を傾けたいと願っています。

12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 これは神様に対する、私たちの第二の祈願です。しかも、この祈願については、イエス様は念を押すように、続く14,15節で同じ趣旨のことばを繰り返していらっしゃいます。

14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

新改訳は「負い目」(オフェイレーマタ)と「罪(違反)」(パラプトーマタ)を訳し分けていますが、隣り合わせに書かれたことですから、同じ意味でもちいられていると見るべきところです。

この箇所には翻訳上の問題があります。文語訳では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、われらの罪をも許したまえ」となっていました。文語訳聖書では「ごとく」という比例を表すことばが入っていたのに、新改訳では訳出していないことです。ギリシャ語本文では、「ホース」つまり文語でいえば「ごとく」とか現代語でいえば「ように」という意味のことばが入っているのです。イエス様は、あなたが隣人を赦すことと天の父に赦していただくことは、比例関係にあるのだと教えているのです。「私が隣人を赦す程度に応じて、天のお父さま、私をも赦してください」ということです。逆に、「私が隣人をゆるさない程度に応じて、私を赦さないでください。」と祈っているのです。私が隣人を計るその物差しで私をも計ってくださいと祈っているのです。

 練馬で伝道していたころ、教会にKさんというご婦人がいました。「私は『われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく』と祈るたびに、心探られるんです」とおっしゃいました。その姉妹は、昔からお兄さんと馬が合わなかったそうで、自分の心の底にお兄さんに対する怒りや恨みの感情が沈殿していることに気づかされて、この祈りをするたびに毎回怖くなるとおっしゃいました。この祈りをささげるたび、同じような恐れを感じているという人が、ここにもいらっしゃるかもしれません。それは大事な恐れです。

 

 父の子どもに対する取り扱いの中で

 

 もっとも、ここでいう赦しというのは、イエス様を信じたときに神様がくださった永遠の赦しとは違います。そうでなければ、誰かを赦せない気持ちになるたびに私たちは自分がほんとうに神様の前に赦されず、地獄行きかも・・・と毎度疑わねばならなくなってしまうでしょう。恵みによって救われるのでなく、人を赦すという功績によって救われるということになってしまうでしょう。そういう誤解を避けるために、新改訳聖書の翻訳者は、「我らがゆるすごとく」の「ごとく」を訳出しなかったのでしょう。

 では、ここで父に求めている赦しとはなんでしょうか。聖書に書かれている赦しには、永遠的な意味でのさばきにおける赦しと、神様がすでにご自分の子とした者たちに対するこの世における扱いの中でのさばきにおける赦しの二つがあります。

 永遠的な意味での裁きとは、死んだら天国に入れられるが地獄に入れられるかを決める裁きです。この永遠的な意味での裁きに関しては、私たちは自分の罪を認めてイエス様を信じたときに、赦しをいただきました。信仰義認です。自分の罪を認めて、イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを感謝して受け入れたら、神様は私たちを永遠に赦してくださいました。これがクリスチャン生活で踏むべき一塁ベースです。

 

 もう一つの赦し、それは、天の父の子どもに対する、この世における取り扱いとしてのさばきと赦しです。主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」と始まります。ですから、この祈りは、神の子どもたちの、天のお父さんに向かってささげる祈りです。つまり、すでに神の子どもとしていただいたクリスチャンとしての祈りです。ですから、神のまえで永遠の罪のゆるされ、子どもとされた者として、この「私の罪を赦してください」と祈るように教えてくださったのです。

 たとえば、ある人に二人の息子がいたとします。あるとき、兄息子が父親が丹精してきた高価な五葉松の盆栽をいじっていて枝を折ってしまったとします。「おとうさん、ごめんなさい」と彼が言うので父は赦してやりました。ところが、翌日この兄息子が大事にしているプラモデルを、弟息子が遊んでいて壊してしまいました。兄息子はかんかんに怒って、弟を赦そうとせず「おまえとは絶交だ」と宣言したとします。

 そのようすを見ていた父親は兄息子になんというでしょう。「なぜ弟を赦してやらないのだ。お前が弟を赦さないように、お父さんもおまえを赦してやらない。お前とは絶交だ。」といって、おとうさんは兄息子としばらく口をきかなくするのです。兄息子に、赦すことの大切さを教えるためです。兄息子は悲しくなって、やがて弟を赦してやり、お父さんとの交わりを回復するわけです。

 主の祈りで言っている、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」というのはそういう、地上において父なる神の、子供たちへの取り扱いにおけるさばきと赦しの話です。すでに神の子どもとしていただいた私たちを、父なる神様はこのように取り扱って、赦しあうようにと望んでおられるのです。私たちは、人を赦すにしたがって、どれほどの犠牲を支払って天の父が自分を赦してくださったのかということを悟り、イエス様の十字架がどれほどありがたいものであるかを知るのです。逆にいうと、もしあなたが人を赦さないでいると、私たちは自分が神様の愛を実感できなくなり、平安を失います。自分は神様に赦されていないと感じ、天国に自分は行けないのではないかという思いにさえとらわれます。しかし、赦すとき、天のお父様が私を赦してくださったんだなあという喜びと感動が帰ってきます。神を愛することと、隣人、特に主にある兄弟姉妹を赦すことは、切っても切れない関係にあるのです。

 

3 人を赦さないことは、祈りの妨げとなる

 

 イエス様は、神様は私たちの祈りに聞いて下さるということを、何度も教えてくださいました。今年の目標のみことばも、「いつでも祈るべきであって、失望してはならない」です。また、ヨハネ伝には「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)とあります。「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」とはすごい約束ですね。素晴らしい約束ではありませんか。天地万物を所有していらっしゃる神様が、私たちが欲しいものを何でも与えようとおっしゃるのです。

 けれども、その前に条件があります。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」という条件です。イエス様のことばが私たちの中にとどまっているというのは、「私たちがイエス様のおっしゃったことを聞き流さないで、従っているならば」という意味です。もし私たちがイエス様のおことばを聞き流したり、反逆したりしていながら、いろいろお願いしても神様はそんな祈りには聞いて下さらないと言われているのです。

 特に、私たちの祈りの妨げになることがある、とイエス様は教えてくださいました。それは人を恨んでいることです。イエス様はこうおっしゃっています。

「22**,イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23**,まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。24**,ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。**

25**,また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(マルコ11:22-25)

 

 「山に向かって海に入れ」というのは、巨大で常識的にはかなえられないような祈りの課題であっても、神様がかなえてくださるということの譬えです。そのような祈りの課題でも、すでに得たと信じたらかなえられると教えられたのです。しかし、その祈りを妨げることがあります。その祈りが、神様に届かなくするものがあります。それは、祈るあなたが誰かを恨んでいることです。あなたの心が誰か隣人への恨みで汚されているならば、神様は、あなたがどんなに熱心に切望したとしても、その祈りをお聞きにならないのです。

 ですから、赦すことです。神様がどれほど自分を赦してくださったのかを思い出しましょう。あなたの罪のために、御子イエスを十字架ののろいにあわせてまで、あなたを赦してくださったのです。

 

結び

 今週は受難週、そして、本日は聖餐式です。主イエスは、あのゴルゴタの十字架の上で、あなたの罪のために苦しみ、死んでくださいました。それは、あなたの罪が神の前に赦されるためです。

 赦しましょう。どれほど、神様が自分を赦してくださったのかということに思いをいたしましょう。十字架で侮辱と激痛と呼吸困難に耐えながら、「父よ。彼らを赦してください。」と祈ってくださった、主イエスを見上げましょう。そのとき、赦すことができるようになります。

 

 

われらの日ごとの糧を

マタイ6:11-15

 

 

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。**

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』**

14**,もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15**,しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

 

1 糧を

 

 あるクリスチャンのご婦人が、おかあさんの思い出をつづられた文章のなかにこんな一節がありました。「母は、国の行く末のことや世界の平和のことを祈りながら、また、裁縫をしていて見失った一本の針が見つかるようにと祈る人でした。」神様にとって大きすぎる祈りの課題はないし、また、小さすぎる祈りの課題もないのです。

 主の祈りの前半は、「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように」と、ひたすら神の栄光が表わされるようにという崇高な内容でした。ところが、後半にはいるとなんと、「きょうのご飯をください」というたいそう身近なことがらのお願いとなります。そんなこと祈っていいの?と戸惑いそうですが、いやむしろ、そのような身近なこと、具体的なことをも祈りなさいとイエス様はおっしゃるのです。神の王国ははるかかなたの理想ではなく、私たちの具体的な生活のなかに始まるのですから。

 イエス様は、尊い神の御子でいらっしゃいますが、私たちと同じように人として来てくださいました。しかも、イエス様は貧しい家を選んでお生まれになりました。生まれてすぐにヘロデ大王の魔の手を逃れて、ヨセフ、マリアとともにエジプトに逃避行さえなさったのです。やがて政治的状況が変わりナザレに戻ると、養父ヨセフは早く亡くなり、イエス様は長男として苦労なさったようですから、ひもじいということのつらさということをよくご存知でいらしたのでしょう。実際、福音書には、イエス様は空腹をおぼえたという記事もあります。そんなイエス様ですから、きっと飽食の時代の私たちよりも「きょうのご飯をください」という祈りの切実さをよく御存知です。

私たちは「御国が来ますように」とこの国にも神様の御支配がありますようにと願って、世界の為政者たちのために、官僚たちのために、また平和のためにも祈り、同時に、「今日、私たちにごはんを与えてください。」と祈り、「あの熱で苦しんでいる姉妹の病気を治してください」とも祈るのです。そのように祈ってよいです。大きなことも小さなことも、どちらも、祈るべきです。神様を私たちの四畳半に閉じ込めておくのでなく世界の平和のために祈り、為政者のために祈るべきですが、同時に、おなかが痛くなったら祈りますし、頭痛が治りますようにとも祈るのです。試験が落ち着いてしっかりできますように、よい仕事が見つかりますようにとも祈ります。

 神様はなによりも偉大な万物の主ですが、同時に、神様はたいへんやさしく細やかな配慮に満ちたお父ちゃんです。だから、私たち小さな者たちの小さな祈りを「さあ聞いてあげよう。なんでも話してごらん。」と待ちかまえていらっしゃいます。食べ物のことだけはありません。マルチン・ルターは子どもたちのための「小教理問答」でこんなふうに教えています。

「問い それでは日ごとの食物とはどんなものですか。

 答え それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」

 

 私たちはこういうすべてのよきものを、天のお父様を信頼してくださいと求めてよいのです。むしろ求めるべきなのです。今、新型コロナウィルス肺炎のことで騒いでいますが、一面、私たちは確かに天に国籍があるので、いつ死んでもOKなのですが、もう一面、この世界に遣わされて地の塩、世の光として生きるために、新型コロナからも守っていただく必要があります。だから、「私たちを新型コロナウィルスから守ってください」と祈ってよいのです。遠慮する必要はありません。

 

2 われらの

 

 しかも、この祈りは「わたしの日ごとの糧を」ではなく「われらの日用の糧を」というお願いです。どうちがいますか?
 私ひとり満腹になればいいやというのではなくて、「私たちみんながご飯たべられますように」と祈るんだよとイエス様は諭しているのです。自分のおなかの心配をするだけでなく、まずは主にある兄弟姉妹のおなかの心配、財布の心配をして祈りなさいとおっしゃるのです。

うちだけトイレットペーパーがあればと利己的な願いをするのでなく、私たちみんなトイレットペーパーをと祈るのです。そうしたら、バカな買いだめはしないでしょう。また、自分のためだけでなく、今入院加療中の兄弟姉妹のためにも祈るのです。コロナ騒ぎで、人間の醜い自己中心性が暴露される時代です。自重しましょう。

 

 また、これは私たちの目に入る兄弟姉妹たちだけでなく、もっと視野を広げて祈りなさいということの求めでもあります。私たちの教会では、毎月第一主日、国際飢餓対策機構のためのカンパを続けています。私たちの国の中でも格差がどんどん広がる経済政策が行われていますが、諸外国では毎日、毎時間、餓死している人たちがいるというのが現実です。カンパをすることもよいことですが、よい政治が行われるようにという祈りも大事なことです。富が偏在することによって、片方は食べ物を食べないで捨てており、片方はひもじくて石ころをかじっているこの世界を、公正なものにしていく良い国際政治が行われる必要があります。政治家たちが、良心をもって知恵をもって愛をもって、正しい政治を行うように祈ることも、「われらの日ごとの糧を」から教えられることです。

 

 食べ物だけではありません。先ほどルターの祈りの紹介をしました。わたしたちがともに生きていくためには、それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」といったすべてのものが必要です。

 聖書はとくに、信頼できる支配者、よい政府を求めて祈りなさいと勧めています。

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。**

2**,それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。**

3**,そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」(第一テモテ2:1,2)

 

 主イエスが荒野で悪魔の試みにあったとき、悪魔が「一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」(ルカ4章5-7)と誘惑しました。権力者というのは、たいへんな職務なのです。悪魔は権力者を手中に収めれば、さまざまな悪いことができるので、彼を誘惑するのです。ですから、聖書は私たちに権力者のために願い祈りとりなす必要があるというのです。彼らが悪魔の手に落ちれば、私たちは平安で落ち着いた生活をすることができなくなります。

 祈りの課題は、彼らが悪魔の誘惑から守られ良い政治を行うように。彼らも罪人ですから、悔い改めて救われるように、ということです。特に、今の世界は自分勝手にふるまう権力者たちがはびこっています。私たちは、彼らのためにとりなし祈らなければなりません。

 

3 日ごとの

 

 また、「日ごとの糧を」という願いです。以前は「日用の」と訳されていましたが、子どもが日曜日のごはんだと思ってしまうようなので、「日ごとの」と改めたようです。向こう1年分でなく、向こう一か月分でもなく、一日の糧を求めているのです。私たちは、一日一日生かされているのですから、今日という日を主を見上げて精一杯に生きるのです。

 

 でも一か月分、一年分と買い占めたいという思いを持つ人たちがいます。なぜでしょう。二つ理由があると思います。一つは心配だからなのでしょうね。でも、そうする人がいると、結果として、全然食べるもののない人が出ることになります。一生かかっても決して使えないほどの富を独占することによって、結果として多くの人たちを飢えさせてしまいます。

 原因は、心配、思い煩い、取り越し苦労です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」だといえるでしょう。主イエスは続くところで、おっしゃっています。25節―27節。そして34節。

 25**,ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

26**,空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。**

27**,あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。・・・・・

34**,ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 

 天の父に生かされている神の子どもなのですから、心配しないで、今日という日を、主を見上げて一生懸命に生きましょう。

 

 私たちが日ごとの糧をと祈らないもう一つの理由は、私たちが傲慢であるからだと聖書は教えています。。**ヤコブ書4章

13**,「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。**

14**,あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。**

15**,あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。**

16**,ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。**

17**,こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。

 

 

結び

 天の父にとって、大きすぎる祈りの課題はありません。また小さすぎる祈りの課題もありません。この国のために、また、主にある兄弟姉妹のために、また、自分の仕事、子ども、孫、生活の糧のために、すなおに天の父に求めて歩んでまいりましょう。

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**

 

ほんとうの祈り

マタイ6:5-8

 

また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 

 

 ほんとうの祈りと題するからには偽りの祈りがあるのです。イエス様は、偽善者の祈りおよび異邦人の祈りとの対比によって、本当の祈りとはなにかを明らかにしてくださいました。

 

1 偽りの祈り

 

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 

 ここでは施しと祈りと断食が、ユダヤ教徒の敬虔なわざとして記されています。いずれも、それ自体としては良いことですけれども、それを人目につくように行うことで尊敬を得ようとする、その心根がさもしいと主イエスはおっしゃるわけです。

 主イエスは「祈るときには、偽善者のようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂やとおりの四つ角に立って祈るのが好きだから」とおっしゃいました。しかし、人の前で祈ること、また、公の集会で代表して祈ることを禁じているわけではありません。イエス様は、他のところで二人でも三人でもともに祈る祈り、集会における祈りについて教えていますし、聖書の中には祭司や王の公の集会における共同の祈りがいくつも記されています。また、主イエスの大祭司の祈りと呼ばれる長い祈りがヨハネ福音書15章には記されています。

むしろ、大きな集会では、大きな声ではっきりとみなさんにわかるように祈ることは大切なことです。学生のころ、私は声があまり通らないので、よく恩師朝岡茂先生から、「水草君。公の祈りは、胸をはって腹の底から声を出すようにしなさい。そうでないと、みんながアーメンといえないよ。」と注意を受けたものです。

 ではイエス様は、偽善者たちの祈りの何が間違っているとおっしゃったのでしょうか。それは、祈るときの意識を置くべき中心点が間違っているとおっしゃっているのです。祈るときの意識の中心点はどこにおくべきでしょうか?それは天の父なる神様です。天の父を愛し、天の父との交わりをすることが祈りの中心点であるのに、イエス様が偽善者たちが祈るのをご覧になると、その心は天の父に向かっておらず、人間に向けられているのがわかって、胸が悪くなってしまったのです。立派なことばで堂々と祈りを捧げながら、彼らは薄目を開けて「ああ、私の祈りを聞いて、人々は感動しているぞ。『ああ、なんて敬虔ですばらしいお祈りだろう』とため息をついているぞ。」などと心の中でつぶやいているのが、耳のよいイエス様にはすべて聞こえていたのです。

 ただし、「意識の中心点」という言い方をしたのは、代表の祈りの場合、中心ではないけれども、端っこのほうには、ともに祈っている兄弟姉妹への配慮が必要であるからです。明瞭な発声で、その場のTPOにふさわしい祈りをささげなければ、兄弟姉妹は心からアーメンということができません。TPOというのは、時と場所とその時祈る理由ということです。例えば、礼拝の開会における祈りは、開会にふさわしい内容であることが大切ですし、説教の後の応答の感謝祈りの場合には、説教に表された神のみ旨に応答し、感謝と献身をあらわすものであることがたいせつです。

 しかし、人前での祈りであっても、やはり意識の中心点は、今、祈りをささげている相手である父なる神であって、人間ではありません。

 

2 密室の祈り

 

 公の祈りが父なる神に向かう真実な祈りであるための前提は、その人の日常生活に祈りがあることです。祈りの祭壇がちゃんと毎日の生活で大事にされていることです。密室とか、静思の時とか、デボーションとか呼ばれますが、とにかく日々の生活の中心に、まず一人神様の前に出て、神のみこころを聴き、そして、神に向かって語るときを確保することが大切です。

 ですから、主イエスは「6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とおっしゃいました。

 密室の祈りというのは、誰が見ているわけでも聴いているわけでもありません。ただ神と私との二人きりのときです。どれほどの時間を、神様との交わりに割いているかを知っているのは神様とあなただけです。三浦綾子さんがどこかに書いていらっしゃいますが、この神様と二人きりのときを持ちたいと思うのは、恋人が二人きりになりたいと思うのと同じように、自然なことです。

主イエスは多忙な伝道生活の中で、しばしば、弟子たちを離れてさびしいところに独り退いて祈っていらっしゃいました。

「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」マルコ1:35

「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」マタイ14:23

 主イエスにとって、この荒野での父との交わりこそ、その力の源泉でした。主イエスはしばしば荒野に退いて祈られましたが、何を祈られたかはほとんど隠されています。

 個人の祈り、密室の祈りは、神様の前に徳を積むための手段、修行ということではなく、愛の父との人格と人格の交わりであり、クリスチャンの日常生活の力の源泉です。車にたとえたら、密室の祈りはガソリンスタンドです。そこで渇いた霊に潤いをいただいて、エネルギーをつめこんでこそ、日常生活のなかでクリスチャンとしての思いとことばと行動が可能となります。

 密室で隠れたところで聞いていてくださる父なる神の前では、私たちは何の取り繕うこともいりません。そもそも、全知全能のお方の前で取り繕っても無駄なことです。ありのままの姿で出て、魂を注ぎだして祈るのです。親にも、子にも、夫にも、妻にも、聞かせることがない、魂の悩みも悲しみも傷も恥も、すべて父なる神様の前では打ち明けてお祈りするのです。

 忙しさにかまけ、あるいはテレビに時間を取られて、父との交わりの時を犠牲にしていると、当座はなんということもなくても、結局は、すべてが空回りしていることにやがて気がつくでしょう。家庭生活も、仕事も、教会生活もうわべだけのものとなって、力と喜びを失ってしまうことになります。神様との交わりとしての密室の祈り、荒野の祈りは命の源泉に顔を突っ込んでごくごくと飲むことなのですから、それなしに生活していて、クリスチャン生活に実りがあることはないのです。

 

 アブラハムの生涯を味わっていて、12章と13章で気づいたことがあります。それは、アブラムが神様の召しを受けてカナンの地に到着した直後のことです。彼はカナンの地に到着すると、すぐにそこに祈りの祭壇を築いて神様を礼拝しました。けれども、しばらくすると激しい飢饉がカナンの地を襲いました。アブラムは不安になって周囲の人々を見ると、みんなこぞってエジプトに食料を求めて避難して行くのです。アブラムは、約束の地をあとにしてそこで一族を連れてエジプトにくだります。しかし、エジプトが近づくにつれて彼は臆病風に吹かれてしまいます。そして、妻に「お前は美女だからエジプト人たちは、おれをねたんで殺すだろう。だから、おれをおまえの兄だと言って、おれをかばってくれ」と頼むのです。はたして、エジプト人は美女サライに目を留めて、エジプトの王の大奥に彼女を入れてしまうのです。

アブラムがこんな臆病風に吹かれて男の風上にも置けないような行動を取ったのはなぜでしょうか。あの旅立ちの日には、あれほど勇敢でさっそうとしていたアブラムは、なぜこれほど臆病になってしまったのでしょうか。じっくりその個所を読むと、飢饉が襲ったとき、彼は祭壇のところに行って主の前に祈ったと記されていないことに気づきます。彼は、約束の地に到着して最初は祭壇を築いたけれども、そのあとは祭壇をお留守にして、忙しく働いていたのです。そして飢饉がやってくると、神の約束を捨てて崩れててしまったのです。ですから、神様によって救われてエジプトからまた約束の地カナンに戻ると、アブラムは、あの最初の祈りの祭壇のところに来て、ひれふして悔い改めて祈ったのでした。

 あなたの生活の中心には何があるでしょうか。仕事でしょうか、趣味でしょうか。あなたの生活の中心に祈りの祭壇を築くことが、実りある生活の秘訣です。生活の中で、祈りの祭壇を築くことをほかの何よりも優先すべきです。朝一番にテレビのスイッチを入れない、新聞を最初に開かない。まず祈る、みことばを開くことです。社会生活をしていれば、私たちを不安にさせることが満ちています。この頃はほとんどのニュースが新型コロナウィルス肺炎で埋め尽くされています。たしかに世界の光、地の塩として生きていくために、これらのことを知ることも大事ですが、しかし、ニュースを聞く前にまず神様の御声に耳を傾けるべきです。そうしてこそ、世の光、地の塩として社会的な責任をも果たしていくことができるでしょう。

 

3 ほんとうの祈り

 

 神に祈ること、祈りの祭壇を生活の中心とすることの大切さを学んできて、次に、その際の本当の祈りとはなにかについて、異教徒の祈りとの違いをもって教えられます。7節と8節に進みます。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

 異邦人のように同じ言葉をただ繰り返すというのは、たとえば、「******」を100回唱える、1000回唱え、万回唱えると功徳があるなどという異教的な祈りを指しているのでしょう。どうやらイエス様の時代には祭司や律法学者のなかにも、このような異教的な風習としてなにか同じ言葉を繰り返して行けば、功徳を積むことになるのだという異教的な教えが入り込んでいたことをうかがい知ることができそうです。

 異教ではなぜ自分でも何を意味しているかわからないようなことばをただただ繰り返すということをするのでしょうか。それは、異教徒は、聖書のことばをもって語りかけてくださり、また、私たちの語ることばに耳を傾けてくださる、生ける人格的な神を知らないからです。何かの意味不明の呪文の神秘的な力、魔力によって、何事か不思議を体験しよう、欲望をかなえようというのが、異教の祈りです。

 イエス様は、このような同じことばの無意味な繰り返しといった呪文のような祈りをしてはいけないとおっしゃったのです。それは、祈りはパッパッパと短いことが肝心だといっているのではありません。主イエスさまは、荒野に退かれると長い時間、父なる神との交わりをもっていらっしゃいました。格別、ゲツセマネの祈りは2時間から3時間ほどにも及ぶ長い祈りでした。またアブラハムがソドムのためにとりなし祈った祈りも、相当長い祈りでした。人格的な交わりをするためには、それ相当の時間もかかるでしょう。ささっと報告して、ささっと終わりというのでは交わりになりません。愛する人とならば、ずっと一緒にいたいと思うでしょう。神様を愛していれば、同じことです。

 イエス様が、ここで『同じことばを繰り返すな』とおっしゃるのは、私たちの父なる神は、生けるご人格でいらっしゃるのだから、まずは父のみことばを読んで、味わって、そうして普通にお話をするように、父なる神様にお話をすればよいとおっしゃりたいのです。

 

6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 ここを最初読んだときには、「なんだ、それなら、なんでお祈りなどする必要があるんだろう」と思う方が多いようです。異教の祈りは、確かに「家内安全商売繁盛 パンパン」とか「どこそこ大学に合格できますように パンパン」というふうに、何かを手に入れるためにお願いをするというものでしょう。

 ほんとうの祈りとはそんなものではありません。たとえば、あなたが子どもでお父さんがいるとします。日ごろはお父さんをまったく無視して生活していながら、ただ何か欲しい物があったときだけ、「自転車を買ってくれ」「プレステを買ってくれ」というだけだとしたら、こんなに失礼なことはないでしょう。お父さんは自動販売機ではないのです。祈りにおいて、お願いをしてよいのです。ですが、お願いだけではいけません。祈りとは父なる神様との人格的な対話ですから、まず、心を白紙にして、その日、聖書によって神様がお話になることを読んで耳を傾けることです。それから、その神様を賛美することです。そうして、自分の思いのたけを神様に全部ありのままに申し上げて、そのなかで、「このようなものが必要なので、よろしくお願いします」と申し上げるのはよいことです。

父親はだいたい子どもがその時期にどんなものが必要であるかは知っているでしょう。知っていますが、子どもから求められて与えることに、愛の交わりの喜びを感じるものです。父なる神は、人間の父親以上に子どもである私たちの必要をよくご存知です。ですが、私たちが祈って求めることを願っていらっしゃいます。祈りのうちには、愛の交わりがあるからです。

 

結び

 本日はほんとうの祈りについて学んできました。二点確認して結びます。

 

 第一に、祈りにおいて、意識の中心は人間ではなく、父なる神様に向けることが大事だということです。人々にどんなふうに感動的に聞かせようか、などといった邪念は捨てて、父なる神に向かって、祈ることです。しかし、共同の祈りとして代表でささげる場合にはそこにいるみんなが心からアーメンといえるように、はっきりと的をしぼって祈りましょう。

 

 第二に、ほんとうの祈りとは、生ける神との人格的な対話です。

 それは非人格的なもの、マジナイのようなものではありません。修行でもありません。

 それは、生ける神様に対するお話ですから、ただ一方的に報告することではなく、耳を傾けるときがたいせつです。

 

 第三に、私たちの個人生活の中心に、祈りの祭壇があるでしょうか。もしかして、カナンの地にやってきてしばらくして忙しさにかまけて祈りの祭壇をおろそかにして崩れかけていたことがあるとしたら、立て直しましょう。生活の端っこに祈りを押しやっていたとしたら、生活の中心に祈りを据えなおすことです。朝起きたら、祈りの時間をまず第一にすることです。父なる神様との交わりを、一日の一番のときに確保するように生活全体を立て直すことです。

 

「私のことばに耳を傾けてください。

   主よ。私のうめきを聞き取ってください。

 私の叫ぶ声を耳に留めてください。

   私の王、私の神、私はあなたに祈っています。

 主よ。朝明けに私の声を聞いてください。

   朝明けに私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。」

詩篇5:1-3