Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

過去・現在・未来

ロマ5:1-11

 

5:1 ですから、信仰によって義と認められた(過去)私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(現在)。

 5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます(現在)。

 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました(過去)。

 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった(過去)ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた(過去)私たちが、彼によって神の怒りから救われる(未来)のは、なおさらのことです。

 5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた(過去)のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる(未来)のは、なおさらのことです。

 5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった(過去)私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいる(現在)のです。

  

序 クリスチャンになったなら、どんな人生観をもって生きて行けるのか?そういうことの一部分を、過去・現在・未来ということで整理して記されているのがこの箇所です。まず1節から5節では、「信仰によって義と認められた」ということは過去です。「キリストによって神との平和を持っています」は現在です。そして、「神の栄光を見ること」は未来です。そして、現在はそれを希望して喜んでいるのです。

 

1.過去:義とされた

 (1)生まれながらの人間

 万物の創造者である神は人間に二つの大事な戒めをお与えになりました。第一は、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』第二は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。聖書ではよく罪ということを言いますが、罪とはなんでしょうか。罪とは、まことの神を愛さないことと、隣人を自分自身のようには愛さないことです。

 まことの神を愛さないとは、太陽も雨も空気もいのちも無料でくださってお世話になりっぱなしの神様に対して感謝も礼拝もしないで、自分の力で生きていると思いあがっていることです。 また、神様は全人類を愛しなさいではなく、「あなたは隣人を自分自身のように愛しなさい」とおっしゃいます。あなたのごく身近な人です。妻や夫や子供や親や友達を自分自身のように愛しているでしょうか。ところが私たちは、隣人を愛することがなかなかできません。神への罪の欠けと、隣人愛の欠けという罪の根っこから、憎しみや親不孝や殺人や盗みや浮気や偽証などといった罪が花を咲かせ、やがてその罪の実がみのるです。

 私たちは毎日のように政治の世界では偽証がまかり通っているのを見たり、巷には殺人事件や窃盗のニュースを聞かされたり、芸能界ではくっついたり離れたり姦淫罪がはびこっているのを知らされてうんざりしますが、心の中の思いまでもご存知の神さまの前では、私たちも五十歩百歩なのです。罪の中に生きている私たち人間を聖書は「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)と表現しています。つまり、私たちは生まれながらには、神との平和を持っていないのです。

 

(2)神との平和

 そこに平和をもたらしてくださったのは、キリストです。世界を造られた神の御子であるキリストは、人となってこの世に来られ、人間の代表として十字架の上で聖なる神の怒りを受けてくださいました。誰でも自分は神様の前では罪があることを素直を認めて、イエス様を信じるならば、神様はその人の罪の罰はもう終わったと宣言してくださるのです。それが、義と認めるということです。 

 安定した祝福あるクリスチャン生活の1塁ベースは、イエス様を信じたその時に神の御前に義と宣告していただいたという事実です。神が義と宣告してくださったので、今、キリストを信じる者は神と平和な関係の中にあります。キリストにあって平和を得る前は、私たちは神の聖なる怒りの対象であり、永遠の滅びに陥るべきものでしたが、今や、その怒りは去ったのです。

5:1 ですから、信仰によって義と認められた(過去)私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(現在)。

クリスチャンになっても、人生のなかにさまざまな苦難が襲ってくることもあります。この手紙を書いているパウロ自身、主イエスの福音を伝えたせいで、多くの苦難を経験しました。ユダヤ教徒からは裏切者として迫害を受けましたし、ローマの役人に投獄されたこともあります。伝道旅行では嵐の海で危うく船が沈没しそうにもなりました。また、彼は持病もちでもあったようです。けれども、そうした苦しみの中で使徒パウロは決して神の愛を疑うことはしませんでした。神は私をまだ私を怒っておられるから、こんな罰が当たったのではないかとか、神は私を地獄に落とそうとしているのではないかなどと恐怖を覚えることはありませんでした。

 なぜでしょうか。それは、彼がキリスト者の過去について正確な認識を持っていたからです。すなわち、私が悔い改めてキリストを信じた、あの瞬間、神は私を義と宣言してくださった。したがって、神は私との間に樹立された平和は1ミリも揺るがないのだということです。

 

 クリスチャンになったけれど、罪をふたたび犯してしまうと、もう自分みたいな人間はだめだ、神も私をお見捨てになるのではないかとおびえる人がいます。こういう考えは、一見謙遜なように思えますが、実は神の真実を疑う失礼な考えです。主イエスを信じる者を義とするのは神であって、人ではありません。主イエスを信じる者を義とするという契約は、神御自身がご自分の真実にかけて打ち立てられたものです。たとえこの天地が崩れ落ちても神の愛と真実は微動だにしません。

 

2.現在:神との平和の中で艱難をも喜ぶ

 

(1)喜び

 神との平和があるので、クリスチャンの人生には、根本的な安心と喜びがあります。その喜びとは「楽しみ」とは違います。楽しみとは外から来るものです。たとえばゲームをしたときの楽しみ、テレビがおもしろい、病気が直った、お金がもうかった、高級車を買った、念願の学校に入学できた、ご馳走を食べた・・・こういうものはみんな外側から来る楽しみです。こうした人生の楽しみを否定する必要はありませんけれども、こうした楽しみはいずれ過ぎ去るものです。ゲームも車も家もやがて飽きます。この病気はなおってもいずれ別の病気は再びやって来るし、お金には羽が生えています。みんな一時的なものです。

 神との平和が樹立したキリスト者には内側からあふれる喜びがあります。そして、その喜びは尽きることがありません。

  主イエスは言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわきでます。」(ヨハネ4:14)

 どういう喜びでしょうか。それは、私は神様に赦されている、愛されている、私は神様に生かされているという喜びです。人生の途上の別離や苦痛や争いによって悲しみに一時心が沈むようなことがあっても、心の奥底にこの神様に愛され赦されているという喜びが、絶えることのない地下水脈としてあるのです。

 

(2)艱難をも

 ですから、クリスチャンの人生においては、かりにもろもろの艱難が訪れたとしても、失望することはないのです。いえ艱難さえも喜ぶことができるのです。

 堀越牧師の証。堀越青年は、戦中の人ですが身長180センチもあって大きく立派だけれど、なにか困難が起こってくると、いつも「ああだめだ」とつぶやいては逃げ出していたそうです。ところが、クリスチャンになりこのみことばと出会いました。「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3‐5) 従来、堀越青年は、艱難がくると次に逃避、そして、品性はいつまでも練られず、そして一層自分に失望していたのです。逃避と失望の悪循環の人生でした。けれども、神様は堀越青年に、<艱難→忍耐→練達→希望>という道を教えて下さいました。それ以来、艱難にぶつかると堀越青年は、「よし忍耐をすればよいのだ。そうすれば、練達、そして希望へのつながるのだ。」という、ちょっとやそっとでグラグラしない希望ある人生を歩むようになったのです。

 なぜクリスチャンは艱難をもこのように受け止められるのでしょうか。それは、「聖霊によって神の愛が心に注がれているからです。」とあります。父なる神は、ご自分の子とした者たちを、御子キリストに似た者として育てるために、愛ゆえに人生に試練をお与えなさるのです。神は、私たちを打ち砕き、練りにねって、神とキリストに似た者につくりかえるのです。これを聖化といいます。神様は、義と宣言して平和の関係を樹立した者たち、つまりクリスチャンたちをイエスに似た者につくりかえるのです。また、聖化とは聖霊との関係で表現すれは、「御霊の実を結ぶ」ということです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。聖化とは、父なる神に似せられていくことであり、キリストに似た者とされていくことであり、御霊の実をむすぶことです。

 その聖化の手段として、神様は基本的に、霊の糧であるみことば、霊の呼吸である祈り、霊的な運動である教会生活、そして試練という4つのことを用意してくださいました。

 

3.未来:最後の審判の怒りをまぬがれるという希望

 

 クリスチャン人生の未来についていうならば、それは確かな希望です。「5:5 この希望は失望に終わることがありません。」とパウロがいう希望とはどういう内容なのでしょうか?文脈から言って、パウロがここでいう希望とは終末的な希望です。

 「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています」その審判において、私たちは神の恐るべき聖なる怒りを被ることはが、決してないという希望です。積極的に言えば、天の国、神の御国に確実にいれていただけるという希望です。このことをパウロは続く6節から10節で論証しています。その論証は次の通りです。

  キリストが父なる神のみ旨にしたがって、不敬虔な私たちのために、十字架で進んで死んでくださったという事実に、神の私たちに対する驚くべき愛が現れています。

5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました(過去)。 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった(過去)ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 6節に「弱かったとき」「不敬虔な者」8節に「まだ罪人であったとき」とあります。これは、神に背を向けて神に敵対していたとき、という意味です。パウロもとの名をサウロについていえば、イエスは神をけがした輩であり、イエスに追随する連中はとんでもない冒涜者の群れだと思って、片っ端から弾圧して牢屋に閉じ込めていたとき、イエス・キリストはサウロを愛し、サウロのために十字架でいのちを自ら進んで死んでくださったのです。私に関していえば、「神などいるものか」と思い込み「神に頼るなど弱い人間がするはずべきことだ」と言って、神に敵対していたあの時、キリストは私を愛して進んで十字架で、そのいのちを捨ててくださいました。

 だとすれば、悔い改めてキリストを信じて神との平和を得て、神を「お父様」と呼んで礼拝の生活をしている私たちを、神が最後の審判において、有罪として怒りをくだす道理がないではないか。敵対者であった者をさえ愛していのちをくださったお方が、家族のうちに迎えて交わっている私たちをゲヘナに落とすわけがないではないか、とパウロはいうのです。9,10節

 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた(過去)私たちが、彼によって神の怒りから救われる(未来)のは、なおさらのことです。 5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた(過去)のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる(未来)のは、なおさらのことです。

 積極的な言い方をするならば、かの日には、私の罪のためにそのいのちをも惜しまずに十字架で捨ててくださった愛の主が、私たちを出迎えて「よくやって来たね」と肩を抱いてくださるのです。それは、どれほどの感激でしょう。今、私たちはすでにその前味を味わっていますが、その時には十分に味わうことになります。今、私たちは主を古代の銅の鏡に映すようにぼんやりと見ていますが、かの日にははっきりと見ることになります。それはどれほどの感動でしょうか。

 

結び

 このようなわけで、クリスチャンは、キリストを信じたとき義であると宣言され、罪赦されたという揺るがない事実を土台として、現在、神との平和をもっています。そして、未来に関しては、神はすでに神と和解した私たちを最後の審判において、救ってくださることはあまりにも確かなことなのです。かの日には、天地の主、また私を愛し、私の罪のためにいのちまでも惜しまれなかった、すばらしい主にお会いできるのです。

 こうした過去の揺るがない土台としての義認と、未来のたしかな希望の中で、私たちは今日を生きるのです。

カインとアベル――聖書的礼拝の根本原則

創世記4:1-7

 

2018年4月19日 HBIチャペル

 4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。

 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

 4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

 

序・・・文脈をわきまえる   

 聖書のある部分を正しく読む上で重要なことの一つは文脈をわきまえることです。文脈とは、そのテキストの前後、創世記の中での位置、モーセ五書の中での記事の位置、旧約聖書の中での位置、そして、旧新約聖書全体の中での位置を考慮することです。聖書66巻は多くの記者たちが筆をとったのですが、唯一の著者聖霊の指導のもとに書かれたものであるからです。

 創世記4章のカインとアベルの礼拝の記事の場合、注目すべき文脈は3章からのつながりが一つです。カインとアベルの父母が、神に背いて罪を犯したとき、神はある動物を犠牲にして作った皮衣を着せて二人をエデンの園を追い出しました。二人は、こうして人類最初の家族が形成していきました。その家族の中で起こったのが4章の悲劇でした。

 もうひとつ注目すべき文脈は、カインとアベルの記事は、モーセ五書の中で最初に出てくる神礼拝の記事であるという点です。そういう意味で、真実の礼拝とは何かが示唆されているのではないかという視点をもって読むべきだということです。

 以上を前置きとして、本文に入っていきましょう。

 

1.原罪

 

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

「産みの苦しみを増す」ということばのとおり、骨盤が割れるかと思うほどの苦しみをへてカインを産んだ時、エバは「私は主によってひとりの男子を得た!」と言いました。このことばは、先に神が彼女に与えたあの約束を意識してのことばです。つまり、「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」(3:15)という主の約束が自分の出産によって成就するのだと彼女は期待して、生まれたわが子カインを胸に抱いたのです。

ところが、それは思い違いでした。子どもたちが成長していくにつれ、互いに争ったり、意地悪をしたり、親にウソをついたり、反抗したりし始めたのです。子は親の鏡。その有様は、振り返れば親であるアダムとエバ夫婦の姿でもありました。そうして、ある日、息子のカインは、救い主どころか、人類の歴史における最初の殺人者となってしまうのです。自分が腹を痛めて産んだ子どもたちの一人が、もう一人を殺してしまうという、母親にとって、これ以上に悲惨な経験はありません。あの日、善悪の知識の木の実を盗って食べて神に反逆したことが、これほどに恐ろしい結果を生んでしまったことに慄然とさせられるのです。

罪は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと遺伝していきます。「原罪」です。人は、生まれながらに罪の性質を帯びて生まれてくるのです。ダビデはあのバテシェバ事件の後に、このように嘆いています。詩篇51篇5節

 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 

2.アベルの捧げものは神に受け入れられ、カインの捧げものは拒否された

 

 さて、「ある時期になって」(3節)、成長したカインとアベルとは、主のへのささげ物を持ってきたとあります。彼らは父アダム、母エバから、幼いころから造り主である神様に対して礼拝をささげることを教わって育ってきたのでしょう。アダムとエバとは、自分たちが神のことばに背いて楽園を追放されてしまったこと、それにもかかわらず、神は救い主を到来させる約束を与え、ある動物の血を流して罪の恥を覆う衣を着せてくださったのだと、子どもたちに語って聞かせてきたわけです。神に礼拝をささげる父と母を、子供たちは見てきたのです。 そして、今日、カインは大地を耕す農夫として、アベルは羊飼いとして、自立して働くようになって、いよいよ大人として神へのささげものをする、そのときが来たというのが、「ある時期になって」ということばの意味でしょう。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 

 なぜ神様はアベルのささげものは祝福して受け入れ、カインのささげものには目を留められなかったのでしょうか?三つの解釈があります。

 第一の解釈は、神がどの人間のささげものを受け入れるかどうかは、神の主権に属することであって、人間は云々すべきでないという説です。ヨブ記で義人がなぜ苦しまねばならないか?とか、ある者は神に選ばれある者は選ばれないのはなぜか?といったたぐいの人間にはわからないことと同じように考えるべきだというわけです。

 しかし、神の捧げ物として何がふさわしいのかということについて、神が彼らに何も啓示していなかったとは文脈上、考えにくいのです。なぜなら、4章7節で、神はカインに対して「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」とおっしゃっているからです。ごく普通に推論すれば、カインは神にささげる正しい捧げ物とは何かを知っていながら、あえて正しく行わなかったから受け入れないのだと言われていることは明らかでしょう。私たちは、神の定めた捧げものの原則については、わからないというのでなく、わかるべきです。 

 

 第二の解釈は、アベルは心を込めてささげたが、カインは心をこめないで、おざなりにささげたから、その態度が受け入れられなかったのだという説です。「チェーン式新改訳聖書」の脚注には、「主がアベルのささげ 物に⽬を留められたのは、ささげ物に対する彼の態度である」とあります。つまり、捧げ物としては、動物でも大地の作物でもよかったのだが、アベルの態度はよく、カインの態度がよくなかったのだという解釈です。新改訳聖書第一版から第三版までは翻訳が、ことさらにアベルの態度が良かったという印象を与えるものになっています。 第三版では次のようです。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 

  4節は口語訳聖書、文語訳聖書では単に「肥えたもの」とあるだけです。新改訳2017では「自分の羊の中から肥えたものを持ってきた」とプレーンな訳に改められています。

 

 第三の解釈は、アベルは動物犠牲をささげたから受け入れられたが、カインは大地の産物をささげたから受け容れられなかったという理解です。三つ根拠があります。

 第一の根拠は、そもそも創世記第4章に書かれていることで、両者の礼拝の単純明白な違いは、アベルのささげ物は羊であったのに対して、カインのささげ物は大地の産物であったという一点だけだということです。「カインは農夫だから農産物をささげるほかなかったじゃないか?」という人がいるかもしれません。そんなことはありません。カインは羊をささげるべきだと知っているなら、アベルに頼んで「肥えた羊を、農作物と交換して譲ってくれ。」と言えばよかっただけのことです。カインはあえて、そうしなかったのです。ここに彼の問題があります。

 第二の根拠は、カインとアベルは、動物の犠牲の血が流されて自分たちの罪が覆われたという経験をした両親に育てられて礼拝の生活をしてきたということです。推測に属することですが、おそらく彼らは「罪が赦されるためには血が流されなければならない」という原理に基づいた礼拝を幼いころから教えられてきたはずです。しかし、カインはあえて、神の求めに背いて、俺流のささげ物を神の前に持ってきたということになります。

 第三の根拠は、はじめに話したように、カインとアベルの捧げものの記事は、モーセ五書における最初の礼拝の記事であるゆえに、ここには礼拝の根本的原理が表されている可能性が相当高いということです。その根本原理とは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)ということです。

 

3.礼拝の根本原理

 

本日の箇所から礼拝の根本原理を学びます。

)熱心でも自己流の礼拝はだめ

 礼拝に関して、私たちが心をこめることが大切なのはいうまでもありませんが、心さえこもっていれば、俺流の礼拝でよいわけではないということです。私たちが心込めるべき点は、礼拝における神の定めに対して忠実であることについてです。これが聖書的な礼拝におけるregulative principleすなわち規制原理です。カインの過ちは、神の定めた礼拝の原則を無視して、自己流の礼拝をささげたということにあります。カインは主の定めに背いて、「俺が畑で汗して作った作物だ。神が受け入れてくださるのは当然だ。」という思いで、大地の作物を捧げものとして差し出して、神に拒絶されたのでした。

 聖書の中には、自己流の礼拝をささげて、神に打たれた人が他にもいます。ひとつの例は、大祭司アロンの息子ナダブとアビフです。彼らは(おそらく異教的な工夫をこらした)異なる火を神の前にささげて、神の火に焼かれてしまいました(レビ10章)。また、サウル王は妙に信心深い人でした。ですからペリシテとの戦の前にいけにえをささげないと、負けるんじゃないかと恐れました。それで預言者サムエルがささげるべき神へのささげものを、王である彼がささげて神の怒りをこうむりました(1サムエル13章)。

 神は、私たちの日常の行動については、私たちの自由裁量に相当まかせおられて、なすべきすべてが聖書に書かれているわけではありません。けれども、こと礼拝については、神は人間がさまざまな自己流のあるいは異教的な工夫を付け加えることを禁じています。「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしてはならない。」(申命記12:32)というのが原則です。

 ウェストミンスター信仰告白は次のように述べています。

 「第21章 宗教的礼拝および安息日について

1 (前略)このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきでない。

 

(2)血を注ぎだすことがなければ

 今日の箇所から聖書的宗教の本質を学び取ることができます。神様は、アダム以来罪に落ちてしまった私たちの礼拝に関して、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)という根本原理をお定めになっています。旧約聖書レビ記における祭儀のなかには、全焼のいけにえ、罪のためのささげ物、和解のいけにえなどとともに、穀物のささげものというものも含まれていますが、穀物のささげものは単体でささげものではなく、血を流す生贄といっしょにささげられるものでした。

 旧約時代には牛や羊の動物犠牲が繰り返しささげられましたが、それらはイエス・キリストの十字架の犠牲という本体を指差す影でした(ヘブル10章)。新約時代には本体であるキリストの十字架の犠牲がささげられたので、もはや動物犠牲をささげる必要はなくなりました。もし今日動物犠牲をささげるとしたら、それはキリストの十字架の贖いの完全性を否定することになります。

エス様の十字架の死による贖罪を抜きにして、私たちの礼拝は成り立たないものであることを、覚えなければなりません。イエス様を抜きにして、私たちは父なる神に近づくことはできないのです。キリスト教信仰とは、近世のソッツィーニや近代自由主義神学や、近年キリストの代償的贖罪を軽んじる人たちが言うように、「キリストの愛に満ちた生き方をまねして生きて行けば、世界は平和になりますよ」という道徳ではありません。キリスト教信仰とは、私たちが神と和解するためには、キリストの十字架の死と復活が必要不可欠であったと主張する代償的贖罪の信仰なのです。新約の時代の教会では、聖餐式がそれを明瞭に表しています。

 

結び

 聖書的な礼拝の根本原理。礼拝については、神がお定めになったことに、人間の勝手で足したり引いたりしてはなりません。 確かに、新約時代には、旧約聖書レビ記にしるされたような事細かな規定は廃止されましたが、旧約新約を通じて貫かれている礼拝の根本原理は、「血を流すことなしに罪は赦されない」ということです。旧約時代には、動物犠牲の血が流され、新約時代にはもろもろのいけにえの本体である主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた贖罪のわざを根拠として、私たちは神に近づくことができるのです。

 「(キリストは)やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)

 

恵みと信仰によって

ロマ4:1-12                    

 

 

4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

 4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

 4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、

   幸いである。

 4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」

 4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、

 4:10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

 4:11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、

 4:12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

 

 

序 一塁ベース

 私が小学生のころ長嶋茂雄選手が巨人軍で活躍していたころ、ある試合でホームランをかっ飛ばしたことがありました。大喜びで一塁ベース、二塁、三塁と回ってホームベースを踏むと、主審がアウトをコールしました。長嶋選手は一塁ベースを踏んでいなかったのでした。 神様が、クリスチャンにくださる地上における主な祝福は、義と認められること、神の子とされること、聖化すなわちキリストに似た者とされることの三つです。これらの祝福には様々な祝福がともないます。

注意すべきは、救いの一塁ベースは、あくまでも義と認められたということです。義と認められること抜きに、聖化つまりキリストに似た生き方をしようとするのは、一塁ベースを踏まないまま二塁、三塁と回った長嶋選手のようなもので、ホームでアウトになってしまいます。ですからパウロはこのローマ書において相当分量を使って、丁寧に義とすることについて教えています。

 

1.ユダヤ教の考え方

 

 さて、4章1節から始まるパウロの議論は、「パウロよ、君の理屈は一応分かる。しかし、旧約聖書によれば人が義とされるのは、選ばれた神の民として律法を行なうことによるのではないだろうか?」とユダヤ主義者たちの反論を想定しています。1世紀のころ、ユダヤ教における教えは本来の悔い改めの宗教から外れていた様子が、福音書を読むとわかります。

 旧約の宗教は本来的には、人を罪と死に定め、悔い改めに至らせるものです(2コリント3章)。神の正しい律法を誠実に行おうとすれば自分の欠けと罪が明らかにされ、神の前に胸を打って悔い改めるという宗教性です。律法は罪を自覚させるために与えられました。旧約時代最後の預言者バプテスマのヨハネが、荒野の叫びをもって「斧は木の根元にすでに置かれている。悔い改めよ」と命じた、あれが旧約聖書の宗教です。

 ところが、福音書を読むと、イエス様の時代、同じ旧約聖書に立ちながら異なることを教える人々がメジャーになっていたことがわかります。それは律法を持つことに安んじ、実質的には破りながら形の上では守ったことにして満足する律法解釈を展開する人々です。

 もともと人間は、神の御子キリストの似姿として造られたのですから、善は当然なすべきことをしたにすぎないのです。盗まないのは当たり前、殺さないのは当たり前、ウソをつかないのは当たり前、姦通しないのは当たり前のことで、別にほめられるようなことではありません。そして、罪はなすべからざる異常なことであり、罪から来る報酬は死です。ところが、その当たり前のことが守れなくなっているのが人間です。行ないによって、神様の御前であなたは正義であると宣言してもらえる人は一人もいません。罪を悔いるほかなく、恵みにすがるほかないのです。ロマ3:23、24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの故に、値なしに義と認められるのです。」

 そして27節前半「3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」

 そうです。私たちは悔い改めてキリスト・イエスによる贖いだけを根拠として、価なしに、つまり無代無償で、義と宣言していただいたのです。ですから、神様の前に、私たちの誇るものなどなにもありません。私たちに何が出来るかと言えば、ただただ神様の恵みに感謝を生き方をもって表現するだけです。神の恵みに感謝する生活、それがクリスチャンの人生です。

 

2.アブラハムダビデも信仰によって義とされた

---神の約束を信じる信仰・義とされるのは神の恵み--

 

そこで、パウロが取り上げるのは、アブラハムダビデです。アブラハムイスラエル民族の尊敬される始祖であり、ダビデダビデソロモン王朝の創始者であり英雄です。彼らは、神の前にどのように義と認められたと旧約聖書は教えていますか?とパウロは問うのです。

(1)アブラハム--神の約束を信じる--(1-3節)

旧約聖書を見ると、アブラハムは行ないではなく、その信仰を神から義とみなされたと書かれているではないかとパウロは言うのです。ローマ書4章3節は創世記15章6節からの引用です。

4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

 

神様はアブラハムに彼の子孫を星の数のようにし、さらに彼を通して世界の民が神の祝福にあずかるという約束を与えました。アブラハムと妻サラは常識的にはもはや子を得ることができる年齢やからだではありませんでした。しかし、彼は神の約束を信じました。それは、この約束をくださったのが、ほかでもない神であったからです。その神の約束への信仰が義とみなされたのです。

 私たちの新約時代におけるキリストにあって義と認めていただくための信仰の中身は、アブラハムが信じたことそのものとは少しちがいます。私たちは、自分の罪のために御子イエスが十字架にかかられたゆえに、主イエスを信じるならば神様はわたしたちを義となさると信じます。アブラハムに学ぶことは、神の約束を信じるというその点です。そもそも誰かの人格を信じるというのは、その人がしてくれた約束のことばを信じるということでしょう。「私は、あなたを信じています。でもあなたの約束だけは信じられない」などということはありえません。ことばは人格の代表だからです。その人格を信じるならば、その約束のことばを信じるのです。 アブラハムは百歳近くにもなって子もないのに神が「あなたの子孫を星数のようにし、君は世界の民の祝福のもとになるんだ」とおっしゃったとき、その約束を信じました。神を信頼していたからです。そして義とされました。

 私たちはたしかに神様の御前では罪があります。神様は正義の審判者であり、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。罪ある者が罰を受けるということはあまりにも確かなことです。また、罪ある自分が罪ゆるされるとはありえないことに思えるかもしれません。けれども、その神が「主イエスを信じなさい。そうすれば義と宣言する」という約束をくださいました。これは神の約束です。この約束を信じるならば、その信仰が義とみなされるのです。 このように、神の御前での裁判において義と宣言をいただくのは、神の恵みふかい約束を信じるその信仰によるのです。私たちはアブラハムに、神の約束を信じる信仰が義とされることを知ります。

 

(2)ダビデ--恵みによって義と認められる(4節-8節)

 つぎに、ダビデが例に上げられます。6-8節。

4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。 4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」

 7,8節のことばは詩篇32編の引用です。32編を開いてみましょう。1-5節。

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

 32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。

 32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

 32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、

  私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 セラ

 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

  私は申しました。

  「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」

  すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

 

 これは彼がバテシェバ事件を起こしてしまったときによんだ詩篇です。ダビデは、部下の妻を横取りして姦淫の罪を犯し、その部下まで謀にかけて殺してしまったという最大級の罪を赦免されるために、なにか償いとして修業をしたのでしょうか。ばくだいな布施をしたのでしょうか。いいえ。5節「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめをゆるされました。」とあるように、罪を告白したのです。

 私たちは、アブラハムからは神の約束を信じる信仰を学びましたが、ダビデからは、人が神の御前に義とされるのは、本人の何かのよい働きではなく神の恵みによる、ということを学びます。4、5節。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」

 このときダビデには、神の御前に誇る功徳はありませんでした。むしろ、恥ずべき罪があっただけです。まさに、彼はイスラエルの王でありながら神を恐れることを忘れ、肉欲にしたがって姦淫罪を犯し、殺人罪を犯しました。まさに不敬虔な者でした。けれども、彼は赦されました。なぜですか。神の恵みのゆえにです。ダビデ自身には神の御前に罪がありましたが、罪示されて神を見上げたダビデを神があわれんでくださいました。神が恵みをかけてくださいました。神はこれからおよそ千年後にゴルゴタの丘に立てられる御子の十字架に、ダビデの罪をもくぎづけにして彼を赦し、義と宣言されたのです。後払いの罪の償いです。新約時代の私たちはすでに二千年前に支払われたキリストの償いのゆえに罪ゆるされました。後払いか前払いかという違いはあるものの、罪の赦しの根拠はイエス様の十字架です。

 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(4:5)

 以上のように私たちは、行ないによらず、ただ恵みによって信仰によって神の御前に義とされた、その実例を旧約聖書アブラハムにもダビデにも見ることができます。特にアブラハムからは、神の約束に信頼する信仰を、ダビデからは、人が義とされるのは人の行いによらず神の恵みによるということを学びました。恵みによるということと、信仰によるということは、同じ事柄を表す二つの表現です。

 

3.割礼の意味、そして洗礼の意味---義とされた保証(9-12節)

 

 ここで想定されたのは、ユダヤ人からさらに出される疑問です。「じゃあ、パウロ。割礼はどうなるんだ。神は割礼を受けなさいと先祖アブラハムに命じられたのでないか。割礼という行いによって、義と認められるのではないのか。」と。割礼とは、アブラハムの時代にユダヤ人の男子が生後間もなく受けるべしとされた神様からの儀式でした。そして、異邦人でもユダヤ教徒になりたければ、割礼を受けなければなりません。割礼を受けることにより、ユダヤ人の仲間入りをし、そして救われるとされたのです。 そこでユダヤ教では、割礼という律法の行ないをすることによって、神の御前に義とされると誤解してしまったのです。

 このユダヤ教の誤解を解くために、使徒パウロは答えます。「たしかに、神様はアブラハムに割礼をお命じになった。しかし、アブラハムが神に義と認められたのと、割礼を受けたのとはどちらが先だったかい?」というのです。創世記を見ますと、神様がアブラハムの信仰を義と認めたのは、創世記15章のことです。他方、割礼を命じられたのは創世記17章のことです。ここからわかることは、アブラハムは割礼を受けたから、神の御前に義とみなされたのではなく、むしろ逆の順序だということです。義と認めていただいたから、割礼を受けたのです。割礼は、どういう意味があるのですか。それは、神様の御前に義と認められましたよ、という印・保証なのです。

 これは新約の教会では洗礼に適用されます。新約の時代、旧約の割礼と対応する儀式は洗礼です。洗礼はイエス様がお定めになった儀式ですから、確かにたいせつなものです。けれども、洗礼を受けるという行ないによって人は義と認められるのではありません。順序は逆で、主イエスを信じて神様の御前に義と認められたことの保証として、洗礼を受けなさいというのです。

 そして、洗礼を受けたことは神様に信仰によって義と認められた、罪赦されたよという保証書をもらったようなものですから、洗礼を受けると安心してクリスチャン生活を送ることができるのです。また、聖餐式はその赦しと救いを確認するときです。神さまがキリストにおいて与えてくださった救いの約束にあずかったという保証、それが洗礼でありまた聖餐式です。

 

結論

 私たちは、ダビデのように姦通や人殺しはしたことがないかもしれません。けれども、十戒に照らせばまちがいなく罪を犯したことがあり、自分の立派な行いを根拠として神様から「あなたは義だ」と宣言をいただくことのできない者です。

そこで、神様が恵によってキリストの十字架において私たちの罪を処理して、キリストの義を用意し差し出してくださいました。私たちは、ただキリストを信じる信仰という空っぽの手によって、キリストの義を受け取って、それを根拠として神様の御前に義と宣言されたのです。

そのキリストにあって義と認められたこと証しとして、洗礼と聖餐が与えられました。

この神の恵みによる救いによって、私たちは、誇りとさばき、つまり、人に対する優越感や劣等感といった不自由な心から解放されて、罪ゆるされた自由の中で、神にひたすら感謝して生きる道を与えられています。なんと幸いなことでしょうか。

神の正義の証明

ロマ3:25-31                    

2018年3月25日 受難週主日

  3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

  3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

 

                                    

 

 今週は受難週で、次の主の日は復活節です。本日は、特に主イエスの十字架の意味を深く味わい、感謝を新たにするときとしたいと思います。主イエスの十字架の受難と死という出来事の意味といえば、私たちの罪の償いを身代わりにするためであったということを私たちは知っています。本日の聖書箇所でいえば、3章26節の末尾に「イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」とある通りです。

 しかし、主イエスの十字架の受難と死には、もうひとつ非常に重要な意味と目的があったことを本日のローマ人への手紙は教えています。それは「神の正義の証明」ということです。 

 

1 主の十字架は神の正義の証明である 

 

 テレビや新聞で凶悪犯罪のニュースを見聞きすると、「神さまがいるならば、なんでこんなに悪人たちが放置されているのだろう?神さまはいないんじゃないか?」というふうにふと感じる人がいます。実は、昔から、このような疑問にとりつかれて、神様に疑念を持つひとがいました。この疑問は、神は正義のお方であって、全能者なのだから、悪者が野放しにされているように見えるのは納得できないという意味です。こういう難問を考えて論じるのを神義論とか弁神論と言います。

 中世の神学では哲学的な考え方で、この難問に挑んで「悪は善の欠如したすがたである」というふうに答えたそうです。けれども、神様はこの疑問に対して抽象的な哲学的な理屈で答えるのではなく、あのゴルゴタの丘に立てられた御子イエスの十字架の事実によってお答えになったのです。

 ローマ人への手紙25、26節には神がキリストによる罪の贖いをこの世にお示しになった目的が二つ書いてあります。

「神は、このキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

  • それは、御自身の義を表すためです。というのは、今まで犯されてきた罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。それは、今の時に御自身の義を表すためであり、こうして神御自身が義であり、また、
  • エスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」

 先週私たちは「イエスを信じる者を義と認めるため」に、イエス様が私たちの身代わりとして十字架で神の怒りを受けられたということを学びました。イエス様が私たちの罪を背負ってくださり、私たちを罪の呪いとしての永遠の滅びから救ってくださいました。

 イエス様の十字架の出来事にはもう一つの目的があるのだと聖書は述べています。それは、「神御自身の義を表すためである」と書かれています。「表す」(ενδεικνυμι)ということばは、「証明する」とも訳されることばです。神様は、御子イエスさまを十字架におかけになって、罪に対する神の怒りのなだめの供え物として歴史の中に公に示されました。それが、どうして神が正義のお方であることの証明であるというのです。どういうことでしょうか?

 この歴史を振り返れば実に数えきれないほどに多くの罪が犯されてきました。アダムとエバの神への反逆に始まり、その息子カインは弟アベルを殺害してしまいました。以来、人間は、その唇をもって神をののしり、あるいは人を憎み傷付け、あるいは人を欺き、その手をもって盗みを働き、姦淫を犯し、殺人を犯し続けてきました。けれど、表に現れた罪は氷山の一角にすぎないでしょう。 人の心の中では、さらに数かぎりない悪徳がうず巻いています。

 ある人たちはそういう世界を見て、「この世界にはこんなに罪が満ちているのだから神などいるはずがない」と断じ、また「神がいたとしてもそれは正義の神ではありえない」と論じたりするのです。全能の神が実在するならば、どうしてこのような罪が放置されているのかと言うのです。

 けれども、しばしばそういうことを論じる人は自分自身を振り返ることを忘れています。自分の心が、自分の唇が、自分の手足が犯した罪を数えあげるならば、自分自身もまた罪人の仲間であると認めざるをえないでしょう。それなら、ほんとうは、「神が正義のお方であるならば、どうして神は、この私を生かしておくのだろうか?罪に定め罰して即座に地獄行きにしてしまわないのだろうか。放置なさるのだろうか?」と疑問をいだき、「私をすぐ今地獄に落としてください」と言わねばならないのが、私たちの実態です。

 ロマ書は答えます。このように多くの罪が放置されてきたわけは、神の忍耐のゆえです(25b)。

「というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」

 とあります。生殺与奪の権をもつ神様は、私たち一人一人が、神が造られた世界を罪で汚し、神の御心を悲しませるのですから、これを滅ぼしてしまう権限をお持ちです。ちょうど陶器師が、練り上げ焼き上げた陶器が自分の気にいらないものであったら、これを壊してしまう権利を持っているように。けれども、神様はあわれみ深いお方ですから、私たちと世界を即座に滅ぼすことはなさいませんでした。忍耐をもって、多くの罪を見逃して来られたのです。

 しかし、罪がどんなにたくさん犯されていても、それを最後の最後まで見逃し続けるならば、神が正義の審判者であるということが疑われることになりましょう。実際、先に言ったように、この世の中には自分の罪は棚に上げて「この世は罪に満ちている。それゆえ神はいないのだ。いたとしても、それは正義の神ではないのだ。」などと論じる人々がいます。そこで神は、御自分が正義のお方であるということをこの歴史の中に証明し、宣言なさることにしたのです。

 ある裁判官が正義の裁判官であるということは、どういうことから明らかになるでしょうか。一つには犯された罪に対して、罰を与えること、つまり、公正な償いを要求することによってです。もう一つは、悪を滅ぼし罪を正し、その統治する世界に正義をもたらすことによってです。

 神はこの世に満ち満ちる罪に対して、どれほどの罪の償いを要求なさったでしょうか。それは、尊い神の御子が人となって地上にくだられ、十字架において私たち罪人が犯した数々の罪に対する恐るべき呪いを受けて死ぬという罪の償いでありました。神が要求なさったのはこの宇宙全体よりも価値のある償いでありました。きよい罪のない神の御子を犠牲として要求されたのです。この十字架の出来事は、神が、清濁合わせのむようなお方ではなく、まことに燃えるような正義の裁き主であることを明らかに証明し、宣言しているのです。

 

 もう一つ、神の正義がキリストの十字架によって証明されたというのは、御子の流された血潮によって、悪魔の力決定的に打ち破ったからです。今もこの世には悪が満ちています。けれども、それは悪魔の断末魔の叫びです。キリストの十字架と復活によって、悪魔は決定的な打撃を受けたのです。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブ2:14、15)

やがて御子イエスが再び来られるならば、世界にはあまねく正義が公然と満ちる日が来ます。その約束が、御子の復活によって証明されたのです。こうして、神が正義のお方であり、この神様が造られた世界に罪が犯されるのを放置はなさらず、正義をもたらされるのだということが宣言されたのです。

                                                                                              私たちは、御子イエスの十字架の出来事というと、人の救いのためであったということにのみ焦点を当てて捕らえがちです。しかし、御子イエスの十字架の出来事は、私たち人間の救いのためだけではなく、神が正義であることの証明なのです神様のこの万物の歴史に対する計画のなかでは、神の正義証明るという計画のなかに私たち義と宣言るということが含まれているのです。 

 

  主の十字架によってこそ、神の恵みの栄光が現れ(27-30節)

 

 第二点です。            

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」この誇りとは何の誇りでしょう。それは律法を行う者が持つ誇りです。神さまのさばきにおいて、「私は立派に律法を守ってきました、あなたに責められるところは何一つありません」胸を張るような、ばかげた誇りです。なぜ馬鹿げているかといえば、人間は神のきよい御目から見れば、ことごとく罪があるからです。結局、神の前では律法は偽善者をつくるのみです。

 パウロによれば、人間は、罪については二通りしかありません。第一は罪をあからさまに犯して、人間というのはこういうものだよと罪にあぐらをかいてしまうことです。第二は罪を犯さずに道徳的に生きようと賢明に努力するのですが、そのまじめな努力のすえに、「私は正しい。あいつらよりもよほどまともな人間である」と誇りをもって、人をさばく罪です。実際には、神の御目の前で罪のない人はいないのに。 要するに、人間は、罪を犯してこれに慣れてしまうか、偽善に陥るかのいずれかであるというディレンマのなかにあるのです。

 ところが、福音書を読めばよくわかりますが、神は、傲慢と偽善という罪を特に嫌われます。主イエスのご生涯を見る時に、主イエスが憎まれた罪のうち最大のものは殺人でも盗みでも姦淫でもありませんでした。それは偽善の罪でした。「忌まわしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のような者です。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨やあらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は正しそうに見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27、28)

 罪にまみれているか、それとも、偽善の仮面をつけるかのというこの、どうしようもない谷底からどのようにして私たちは救われうるのでしょうか?

 「行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(27b)

 神は、罪と偽善というジレンマにある人間に、救いは行いによらず、信仰による道を神は用意されました。そこに誇りはありえません。信仰によるということは、どういうことかというと、「私はほんとうに惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」ということです(7:24)「私は乞食です。しかし、お恵みを感謝します」ということです。信仰とは乞食が差し出す手です。乞食はただ「おありがとうございます」というでしょう。 恵みにより、信仰によってキリストの義を受け取ったなら、そこに誇りはありえません。ただ神への感謝と賛美があるのみです。こうして、神さまは私たちはあからさまな罪さと偽善とのジレンマから救い出されたのです。ただ感謝するほかありません。

 神さまの御子が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったということ、これだけが律法を持つユダヤ人も、律法をもたない異邦人もともに救うために、神がお選びになった方法です。まことの神は天地万物の創造主である神なのですから、それはユダヤ人だけの神ではなく、あらゆる民族国語の人々にとってまことの唯一の神です。この神が、律法によらず信仰によって義と認めるという救いを用意なさったのは、まことに当然です。(29、39節)

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

 そもそも、神様の救いの計画のなかにおいて、恵みによる救い、信仰によって義と認められるという一本の道によって、罪人は罪人らしくただ神に栄光をお返しすることになるのです。罪ある私たちは、恵みによって救われました、すべての栄光は神にお返しします、と主を賛美するのみです。

 

3.恵みによる救いは律法を確立する

 

 最後に使徒パウロは「それでは、私たちは信仰によて律法を無効にすることになるのでしょうか。」と問いかけ、自ら「絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と答えます。

 パウロが、救いが人間の行いを根拠とせず、ただイエス様の十字架の贖いを根拠とする恵みによるのだとキリストの福音を伝えると、ユダヤ主義者たちは「恵みによって救われたのだから、十戒を守ってまじめに生きる必要はない。罪を好きなだけ犯そうではないかということになるではないか。パウロはとんでもないことを教えている」言って非難しました。

 しかし、というようなことは現実には起こりませんよ、とパウロは続けます。恵みによる救いはなぜかえって律法を確立することになるのでしょうか? 無代無償で救われたら、人はどうして十戒を前よりも熱心に満たそうとするのでしょうか? それは、エス様を信じて、神との関係が正常化された人は、神と聖霊による交わりをいただけるようになるからです。聖霊によって新しく生まれた人は、内側から造り変えられて、喜んで主に従う生活をする人になるのです。十戒を守る程度では飽き足らず、喜んで神のみこころを行なう人になるのです。盗んでいた人は、むしろ、自分の手で働いて貧しい人々にほどこしをする人になります。人を憎んでいた人は、敵をも愛する人に変えられます。こうして律法の行ないによらず、神の一方的な恵みによる救いは、かえって律法を確立することになるのです。 そして、一切は自分の行いではなく、神の恵みによるのだという喜びとともに、神に栄光をお返しするのです。

 

まとめ

 この歴史の中に、御子イエスの十字架が公にされたことによって、神の義は勝利しました。すなわち、十字架によって神がいかに正義に満ちたかたであるかということが証明され、かつ、キリストの十字架によって悪魔の力が打ち破られたからです。

 そして、私たち人間が自分を縛っていた行いに関する誇りも消えて、ただ神に感謝をおささげし栄光をお返しすることができるようになったのです。主イエスの十字架こそ、神の義の勝利なのです。                                                        

あなたの救いのため

ローマ3:19-26

 

 

序 神(創造主)の実在

 私は千鳥幼稚園という教会付属の幼稚園にかよっていました。そのころはぼんやりとですが、「神様はおるんやろうな」と思っていたような気がします。けれども、卒園後は全く教会には通わなくなって、中学生のころには「いったい、神様なんているのかなあ?」と思うようになりました。高校生のころには、「神様なんかいないよ」と思うようになっていました。それは、「なんとなく」のことでした。世間のおとなたちが、神様なんかいないよと言っているので、なんとなくそう思っていただけのことです。

 「神は存在するのか?」この問いに答えるには、まず、その人がいう「神」の定義を説明してもらわねばなりません。もし、その人の言う「神」が、イザナギイザナミだとか天照大神だとかゼウスだとかいうものであるとすれば、そのような神々はもともと人間が空想したお話なのですから、空想の世界にしか存在しません。

 しかし、もし、「神は実在するのか?」と問う人のいう「神」が、天地万物を設計し創造したお方を意味しているとするならば、そういう神が実在する事実を示す証拠は、私たちの身の回りにたくさんあると聖書は教えています。

 手を出してこぶしを握ってください。それがあなたの心臓の大きさです。心臓は私たちの体中に血液を送り続けているポンプです。心臓は1分間に70回拍動し、一日におよそ10万回拍動しています。 では心臓が、一日に送り出す血液の量はどれほどでしょうか。実に8トンです。8トンのタンクローリー一杯の量を、毎日毎日体に送り出しているのです。私たちの拳ほどの小型のポンプが、生まれてこの方、ずっと寝ているときも休むことなく拍動しているのです。これは実に驚くべき事実です。

 心臓は、人間が造ったどんなポンプもまったく及びません。学者が詳しく調べれば調べるほど、心臓はきわめて精巧で丈夫な設計があることがわかってきました。一点だけ説明すると、心臓にはペースメーカー細胞があって、それによって一定の拍動を保っています。これが故障すると不整脈が起こります。今では人工のペースメーカーに交換できます。ずいぶん小型化されて4センチ×5センチの大きさです。でも神様の造られたのは1.5ミリ×0.5ミリです。人間にその仕組みが分かってきたのは、ここ数十年のことにすぎません。しかし、心臓ははるか昔から働き続けています。人間は単に神の創造のわざの不十分な真似をしたにすぎません。人間よりもはるかに知恵のあるお方が、これを設計したのです。

 あなたのいのちを今、この瞬間も支えている精巧な心臓の設計をしたお方、それが、聖書を通して私たちに語り掛けている神です。あなたに心臓を与え、今日も生かしていてくださる創造主がいるのです。

 では、このお方に対して、あなたは何をすべきでしょう。旧約聖書詩篇139篇の詩人は次のように言いました。

「 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

   私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって 恐ろしいほどです。

  私のたましいは、それをよく知っています。」

 そう。日々、創造主に感謝して生活すべきしょう。あなたが道を歩いていて、ポケットから財布を出したはずみにハンカチを落として、後ろを歩いていた人に拾ってもらったらなんといいますか。「ご親切にありがとうございます。」と言うでしょう。まして、心臓ばかりか、あなたのからだ全体、食べ物、空気、水、この地球、太陽すべてを用意して、提供していてくださる創造主がいるのです。このお方に感謝して生活するというのは、人間の当然の義務なのです。

 

1 律法――罪を自覚させる

 

 さて、先ほどお読みした聖書の本文に移ります。

 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 「律法」ということばが出てきます。私たち人間が、創造主である神に対して、日々どのように感謝して生きるか、その方法を、神が具体的に定めたものが「律法」です。旧約聖書にはたくさんの律法が記されていますが、その要約として有名な「十戒」があります。

 第一、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」

 第二、「あなたは自分のために偶像をつくってはならない」。この二つの戒めは、世界を造り、あなたに命を与え、食べ物も、空気も、水もすべてのものを日々提供して、心臓を動かしていてくださる創造主だけが神ですから、それ以外のもの、神ならぬものを神として拝んではいけませんという命令です。

 第三、「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない」。あなたは、たいせつな人の名はたいせつに扱うでしょう。そのように、真の神さま、イエス様の名を冗談や罵りのことばに用いてはいけません。

 第四。「安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ」。仕事は大事だけれど仕事中毒になってはいけない。週に一日は、いのちを与え、健康を与え、仕事をさせてくださった創造主である神に感謝する特別な日として取り分けて、神様に感謝をささげるために教会に通う生活をしなさい。

 第五。あなたの父母を敬いなさい。親不孝はいけません。あなたは親孝行しているでしょうか。親をほったらかしにしていませんか。

 第六。殺してはならない。心の中をご覧になる神ですから、「あんなやつ死んでしまえ」という殺意も殺人です。心の中に憎しみを宿し続けていてはいけません。暗くなる前に、ゆるすことです。

 第七。姦淫してはならない。結婚関係外の性交渉を姦淫の罪です。

 第八。盗んではならない。1000円でも1万円でも100円でも、盗みは罪です。

 第九。偽証してはならない。嘘をついてはいけません。地獄に落ちます。

 第十。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。他人の奥さん、他人の出世、他人の幸せはともに喜ぶべきであって、ねたんではいけないということです。

あなたは、生まれてから今日にいたるまで、創造主が定めたこれらの中の戒めを、間違いなく実行してきたでしょうか。破ってきたでしょうか。・・・正直に、厳密に、自らを振り返るならば、「ああ、自分は創造主なる神の前では有罪なのだ。」ということに気づくはずです。それが、3章20節の言っていることです。

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  私たちは、創造主の前に罪があります。十戒をぼんやりと眺めているだけならば、なんとも思わないかもしれません。けれども、これは神が私に与えた律法なのだと受け止めて、真剣に十戒を守ろうと日々意識的に努力してみれば、自分が日々、すべてを見ておられる審判者である神の前に罪に罪を重ねていることに気づくでしょう。

 私たちは自分で自分を救うことが決してできません。神の前に律法を日々実行して、その報酬として救いを得ることは不可能であり、日々十戒を破って、その報酬として滅びを得るほかないのです。

 

2.キリスト―神の贈り物としての義とそれを受け取る方法

 

 そこで、神は恵みによって、私たちを律法とは別の方法で救うことを計画されました。

(1)「今は」

  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 「今は」というのは、神の御子イエスが来られた後の時代には、という意味です。イエス・キリストと言う方は、およそ2000年前人となって、この世界に生まれてくださいました。けれども、実は、イエスというお方は太陽も月も地球もまだ造られる前から、父なる神とともに生きておられた、神の御子なのです。

 ヨハネ福音書の17章にあるのですが、イエスはあるときお祈りしているとき、「父よ。世界が存在する前にごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」と話されました。また、同じヨハネ福音書の最初には「初めに、ことばがあった、ことばは神とともにあった、ことばは神であった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とありますが、この永遠のことばロゴスと呼ばれるお方が、人となって私たちの間に住まわれたのです。それが約2千年前の最初のクリスマスの出来事です。このお方が来られて後の「今」という時代には、律法とは別の方法で救いの道が開かれたのです。

 「律法と預言者」というのは旧約聖書のことです。「神の義」ということばは耳慣れない表現です。「神との正しい関係、神との正常な関係」という意味です。ですから、「神の義が示されました」は、「神の赦しが与えられました」「救いの道が開かれました」と言い換えても、だいたい当たっています。

 まとめると、

「しかし、イエスが来られて後の今の新約の時代には、律法とは別に、しかも旧約聖書で予告されて、神の赦しがあたえられました」

――ということです。

 

(2)信仰によって・・・赦しを受ける手段

 その神の赦しという贈り物を、私たちはいったいどのように受け取ることができるのでしょうか?22節に教えられています。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 十戒に照らしてみると、私たちは間違いなく罪があります。自分で自分を救えません。しかし、イエス・キリストを信じるという方法によって、神の義、つまり、神の前の罪のゆるしをいただくことができます。冷たい滝に打たれるとか、燃え盛る火をくぐるとか、断食を40日間するとか、凍り付いた苫小牧ではだしでお百度を踏むとか、莫大な献金をするとか、そういう修行によるのでなく、イエス様を信じる信仰という手段によって、神の義を受け取るのです。

 イエス様がエルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架にかかられたとき、イエス様の両隣には犯罪人たちが十字架につけられました。最初は二人とも、苦しみの中で十字架の下の人々といっしょになってイエスを罵っていました。「おまえが神の子なら自分を救い、俺たちを救ってみろ」などと言いながら。しかし、片方の男は、イエス様が十字架につけられながら、敵のために「父よ、彼らをゆるしてください」と祈るありさまを見て、ああ、この方は神の御子なのだと信じました。そして「イエス様、あなたが天の王座に着くときには、あっしのことを思い出してください」と申し上げました。するとイエス様は「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃいました。彼は、何も良いことはできませんでした。イエス様に水一杯さしあげることさえできません。でも、彼が自分の罪を認めて、イエス様を信じたとき、イエス様は彼の神の御前での罪を赦して天国の約束をお与えになったのです。

 罪の赦しという贈り物は、自分の罪を認めて、イエス様を信じることによって受け取ることができます。「神の義」つまり罪の赦しは、すべての信じる人に与えられる」のです。

 

3 罪の赦しの根拠と神の義の証明

 

(1)全ての人は罪がある

 しかし、神様は正義のおかたです。なんとなく清濁併せ呑むことは決してなさいません。では、なぜイエス様を信じたら、私たちの罪はゆるされるのでしょう。その根拠はなんでしょう。それについて説明が続きます。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」ということについては、すでに説明しました。私たちは、神の前に罪を犯したので、神からの栄誉は受けられず、死後の審判の後には永遠の滅びが待っているということです。私たちは生まれながらには、神の聖なる怒りの対象です。「すべての人」ですから、そこに自分自身が含まれているということを、自覚することが大事です。それがわかり、認めてこそ、イエスによる救いがいかに大切であるかがわかるからです。

 

(2)罪の赦しの根拠

 そのように滅ぶべき者ですが、神様はなお私たちを愛してくださいました。それが「神の恵み」ということです。祝福を受ける資格がない者を、神は愛してくださるのです。それが恵みです。

 「3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 神様は、私たちが自分で自分をきよくも正しくもできず、そのままでは地獄行きなので、ただ一方的なご好意によって、神の義、罪のゆるしを差し出してくださいました。私たちに出来ることは、信仰という空っぽの手を差し出して、神の義、罪のゆるしを受け取るということです。

 

  では、神様が赦してくださるという赦しの根拠はなんでしょうか。私たちのまじめな日常生活、熱心な修行を根拠として救われるというのでもありません。信じることが立派だから、それを根拠として罪が赦されるわけではありません。信仰というのは、いわば空っぽの手にすぎません。また、では、何を根拠として私たちは神様の前での罪を赦してもらえるのでしょう。次のようにあります。

 神は正しい審判者です。私たちに好意をもってくださって、赦してやりたいと思っても、なんの根拠もなく赦すわけにはゆきません。それでは神の正義は満足しません。赦すべからざるものを、何に根拠もなる「まあいいよ、いいよ」という裁きをしていたら、神の正義が成り立たず、世界は壊れてしまいます。

 正義の神が私たちの罪をお赦しになる根拠は、神の御子イエスが聖なる神の怒りをなだめる「なだめの供え物」となられたことです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 イエス様は、あの十字架の上で、その一身に私たちの罪に対する神の聖なる怒りを受けてくださいました。神の怒りを受け止めて、神の怒りをなだめてくださったのです。二千年前、神の御子イエス・キリストは、あの十字架の上で私たちのために苦しみ、私たちを罪とその呪いから救い出してくださいました。

 まとめます。

 神は私たち罪人を赦す動機はなにか?神の恵みです。

 正義の神が私たちを赦す根拠はなにか?御子イエスのなだめの供え物です。

 この神の赦しを受け取る手段はなにか?私たちがイエスを信じる信仰です。

結び

 万物の創造主は生きておられます。私たちはこのお方に、この世にあっていのちを与えられて日々生かされています。このお方にどのように応答するのかが問われるのです。

 救いの道と滅びの道が、あなたの目の前に用意されています。

 滅びの道とは、神の前での自分の罪を認めず、差し出された救い主イエス様を拒み、神の聖なる怒りを受けることです。

 救いの道は、神の前における自分の罪を認めて、イエス・キリストを私の救い主として、信じることです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

義人はいない、一人もいない

ローマ3:1-18

 パウロはキリストの福音を語るに当たって、初めに罪人に対して神の怒りが啓示されているのだと述べました。そして、神の前には律法を持たない異邦人も、律法を持っているユダヤ人も罪があるのだと語ってきました。神の聖なる怒りは、異邦人の罪に対しても、ユダヤ人に対しても燃えています。
 異邦人の罪は、偶像礼拝、性的不道徳、そして、神を知ることなど無益だと背を向け、ねたみや憎しみや殺意や傲慢や盗みや親不孝などのもろもろの罪を犯していることです。これらは、神の前では永遠の死罪つまりゲヘナの滅びに値するのです。かつて無神論者であった自分を振り返ると、これらの罪はまさに、私の犯していた罪ですと告白せざるをえません。
 他方、ユダヤ人たちは、律法をもっておりました。彼らは偶像礼拝はしませんでした。また、異邦人に比べるならば道徳的な生活をしています。けれども、使徒はかつて彼自身がユダヤ教徒であった経験からユダヤ人の急所をつきました。「異邦人をさばくあなたが、実は、陰では異邦人と同じことを行なっている。」と。そのありさまは、神の御目の前には異邦人の罪深さと五十歩百歩です。そのくせ、ユダヤ人は異邦人を見下しているから傲慢という罪ゆえに一層罪深いのだというのです。
 この観点からいえば、人間には、二通りしかありません。一つは聖書を知らずあからさまな罪にどっぷり浸っているので、もはや何が罪かということさえわからなくなっている状態です。偶像崇拝という罪は、その典型でしょう。偶像をを拝むことが信心深いよいことであるとさえ、人間は思うようになってしまいました。聖書という不変の基準がなければ、どこまで腐って腐っていることすらわからなくなるのです。 もう一つの道は、聖書を知っていて異邦人よりはましだと自己満足している偽善と傲慢の罪です。しかし、両者とも神さまの御目から見たら、同じような罪ある者なのです。つまり、人は、ルカ伝15章放蕩息子の譬えでいえば、親の金をふんだくって家を飛び出して放蕩に明け暮れた弟息子か、帰ってきた弟を憎み軽蔑して受け入れようとしない兄のような偽善者の冷酷な罪か、どちらかです。
 さて、きょうの所では使徒パウロは、前半ではユダヤ人の言い訳や反論を封じ込め、後半では人類は例外なくみな罪人であると論じます。

 

1.決して、そんなことはない

 異邦人をさばくユダヤ人、あなた自身は偽善者であると、鋭いナイフを首につきつけられたユダヤ人からの最後のあがきのような3つの反論があるだろうと予想して、パウロは話を進めます。
(1)第一の反論は1節2節・・・ユダヤ人のすぐれたところの意味について。


3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。


 これは言い換えると、「パウロよ、君のいう通りだとすると、ユダヤ人に優れたところは何もないことになり、神が定めた割礼も律法も無意味ということになるではないか。」ということです。それに対して使徒は答えます。そうではない。ユダヤ人にすぐれた所はある。だが、それはユダヤ人自身が異邦人よりも立派な生き方をしているからとか、ユダヤ人が特権階級であるからという意味ではない。そうではなく、神が一方的にユダヤ人に約束と旧約聖書をくださった恵みは優れているというのです。
 ユダヤ人の問題は割礼も律法も神の一方的恵みであることを忘れて、自らを選民として誇り、異邦人を見下していたことです。神がユダヤ人を選んだのは、彼らを誇らせるためではなく、彼らを祭司の民として彼らのうちから全人類の救い主キリストを与えるためでした。
 新約時代の私たちクリスチャンに適用するならば、私たちが洗礼を受け、聖書を与えられているのは、特権意識をもち傲慢になるためではありません。むしろ、自分のような罪ある者をゆるしてくださったキリストの愛にお応えして、神と隣人を愛する生き方によってキリストをあかしするためにこそ、私たちは洗礼を受け、聖書の御言葉をいただいているのです。

(2)第二の反論は、3-6節・・・・神の真実は揺るがないことについて。

3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
  「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
  さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

 3節は、神が選んだユダヤ人のうちに不真実な人がいて、神のことばにしたがわず、偽善に陥っているなら、ユダヤ人を選んで契約を与えた神の真実は無に帰してしまったことになるのか?という問いです。 
 絶対にそんなことはないのです。申命記にあるように、神がイスラエルに与えた契約は、神に従う者には祝福を与え、従わないものには呪いを与えるという定めです。神は公正な裁きをなさいます。神が、ユダヤ人の中の不真実な人を公正にさばくとき、そのさばきによって、神の真実さが明らかになるのです。
 たとえば、ある窃盗事件の裁判において、被告が裁判官の昔の親友だったとします。もし甘い判決をくだしたら、不公正な裁判官だということです。逆に、その裁判官が被告にたいして厳正な判決がくだしたら、その裁判官は真実な裁判官だという評判になるでしょう。神が選んだユダヤ人が契約に対して不真実だった場合、その罪に対して厳格なさばきを下すならば、そのことによって神の真実があかしされるわけです。
 
(3)第三の反論は、7節・・・悪人は罪に定められる


3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。 3:8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。


 変な理屈です。裁判官の昔の親友が泥棒を働いて、裁判にかけられました。しかし、裁判官は友だちだからと甘くすることなく、罪を法律に照らして、公正無比な判決をくだしたとします。こうしてその裁判官は真実な人だという事実が明らかにされます。
 すると、その泥棒が裁判官に向かって「おい、俺が泥棒をしたおかげで、君は真実な裁判官だってことが明らかになったんじゃないか。だったら、俺は結局良いことをしたことになるじゃないの。どうして、良いことをした俺が有罪にならなきゃいけないの?善を現わすために、ちょっとばかり悪をしただけだよ。」めちゃくちゃな論法ですが、このように論じる者どもは当然罪に定められます。
 こうして、ユダヤ教の律法主義者からの反論をパウロは封じ込めました。

 

2.すべての人は罪人

 ここから後半です。すべての人は罪人であるという結論にいたります。
(1)義人はいない
 「では、どうなのでしょう。私たち(ユダヤ人)は他の者にまさっているのでしょうか。」パウロはもう一度言います。先には、1節で「ではユダヤ人のすぐれたところはいったい何ですか?」と問いかけ、「それはあらゆる点において大いにあります。」と答えたのに、今度は「決してそうではありません。」というのです。文脈が違います。先に「ユダヤ人にすぐれたところがある」と言ったのは、ユダヤ人は、神が彼らに割礼と律法を与えて人類救済の通り管として用いようとなさったという恵みの出来事がすぐれたことだというのでした。
 それに対して、今回の文脈は、心の思いまでも見抜かれる正義の神の前では、ユダヤ人も異邦人も例外なく、一人残らず罪人なのだということです。パウロは、異邦人もユダヤ人もすべての人は罪あるものだという主張を、旧約聖書のことばに訴えて締めくくります。私たちユダヤ人は旧約聖書を持っているから自分たちはほかの民よりも、神の御前には正しいのだと思い込んでいるが、旧約聖書は私たちについてなんと言っているだろうということで、10節から18節が記されています。すべて旧約聖書のあちらこちらからの自由引用です。
 まず結論から宣言します。10-12節。


「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
  善を行う人はいない。ひとりもいない。」


 私は18歳のとき初めてこの箇所を読んだときは衝撃的でしたが、すっきりしました。「あ、神さまの前では一人の義人もいない。そうなんだ。」聖書を道徳の教科書のように思って、頑張って義人にならなくてはいけないと肩いからせて読んでいたのですが、「義人はいない。ひとりもいない」と言われてしまったのでした。<私は神の目の前で罪人だ>という根本的事実が、救われるための前提です。
 「義人はいないひとりもいない」から、私たちは神さまに対して、「あの人がああしたから」とか「こうだから」と言い訳するのは無意味だとわかりました。だから「はい、ごめんなさい。たしかに私は罪人です」と認めるほかありません。
 「義人はいない、ひとりもいない」からこそ、神の御子イエス様がたった一人罪なきお方としてこの世に来られて、十字架で私たちの罪を背負ってくださらねばならないことがわかりました。
 「義人はいない、ひとりもいない」からこそ、クリスチャンになってから行うさまざまな奉仕やささげものは、「させてもらっている」こと、神さまからの恵みなんだとわかりました。だから、少しばかり奉仕ができても、誇ることではなく、かえって、主のために少しでもお役に立てて感謝ということになります。だから、心は自由です。

 

(2)悪いことばは、人殺しにまでエスカレートする
 罪は、どんなふうにエスカレートしていくのかが次に記されています。まず、ことばの罪について13-14節。


3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
  「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

 ことばはあなたの人生を左右します。国と国との条約はことばによります。私たちが家を買うような大きな契約をするときもことばによります。結婚の誓いもことばによります。争いもことばによります。ことばは人生の舵です。
 そういう大切なことばが悪用されると悲惨なことになります。嘘をついて他人を罠に陥れたり、悪い噂を立てたりするのです。呪いと苦さをもって人を非難する罪です。聖書はことばを非常に重んじます。ことばは大きな船の舵のようなものです。小さな舵が巨大な船を右に左にと動かします。あなたが心につぶやくことば、あなたが口にすることばが、あなたの精神を支配し、あなたの人生を支配することになります。
 もし今欺きのことば、毒のあることば、呪いのことばがあなたのうちにあることに気づいたら、今すぐに神様の前にそれを告白して、捨てて、赦しきよめていただかねばなりません。あなたの心に悪い言葉を住まわせてはいけません。暗くなるまで放置しては放置してはいけません。さもなければ、悪魔があなたを支配するチャンスを得ることになります(エペソ4:26,27)。欺き、毒、のろい、怒り、苦さに満ちた言葉を心に住まわせたままでいると、それはやがて口から飛び出して、平和を破壊します。それは家庭を破壊し、友情を破壊し、教会を破壊し、人殺しにまで発展してしまうこともあります。もしそれが責任ある大統領とか総理大臣のことばであれば、戦争を引き起こし、何万人もの人が傷つき命を失うことになります。15-17節。


3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
 

 そして、18節は、あらゆる罪と悲惨の根っこの問題は神への恐れの欠如です。


3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 人の顔色を見て恐れたり、自分の将来の生活がどうなるのだろうと恐れたり、地震津波原発事故を恐れたりはしても、肝心の神に対する恐れが欠けているのが、的を外れた人間のありさまです。本来、万物の創造主である神をこそ私たちは畏れるべきです。生殺与奪の権をもっておられるのは、神なのです。神が、人間をご自身に似た人格的存在としてお造りになり、神を畏れ、神に誠実に応答して生きることが、人間の本来の姿です。
 しかし、多くの人は神に背を向けて、たいせつなことばを軽々しく使い、その言葉に操られるようにして、自分の人格と人生を破壊しています。神を畏れていないからです。

結び
 きょうは少しいろいろと学びました。3点確認します。
 第一は、ユダヤ人の不真実によって、神の真実が揺るがず、かえって神は不真実な者たちを正しくさばくことにおいて、ご自分の真実、公正さを明らかになさいます。

 第二は、神の前で義人はいない一人もいないという事実です。あなたは自力では救われえないのです。ただ神の恵みによって救われるのです。自分の罪を認めてイエス様にすがりましょう。私たちの奉仕も献金も救われるためではありません。恵みによって救われたことに対する感謝と喜びの表現です。

 第三に、私たちの罪の中でも、特にことばの罪に警戒すべきです。悪いことばが、争いを引き起こし、ついには人殺しや戦争にまでエスカレートします。だから、もしあなたの心の中に、神を軽んじ人を呪うような悪い言葉を見つけたら直ちに、神様の前に悔い改めて、罪を捨てることです。悪魔にチャンスを与えてはなりません。
 私たちは、神を畏れて生きてまいりましょう。

心の割礼

ローマ2:17-3:2

 

1.ユダヤ主義者の偽善

 昔、保健体育の授業のなかで水難救助の話を聞いたことがあります。だれかが池でおぼれて「助けて―!」と叫びながらアップアップと暴れているのを見つけても、すぐに飛び込んで助けようとしてはいけないというのです。近づくとしがみつかれて、一緒に沈んでしまうからです。もう暴れることもできなくなって、力尽きたと思ったら、さっとうしろから近づいて救うのだそうです。自分では自分を救えないとわからないと、恵みは働かないのです。使徒パウロが、異邦人の罪、ユダヤ人の罪を徹底的に論じるのは、人間は決して自分で自分を救うことができないことを私たちに悟らせるためです。

 ローマ人への手紙1章後半でパウロは、異邦人が神の御前では滅びに値する罪があることをあからさまにしました。2章にはいると、そういう異邦人たちを獣に等しい連中だと軽蔑している誇り高いユダヤ主義者たちを取り上げました。たしかに、ユダヤ人であるあなたは真の神を知っており、神のくださった律法を持っている。だが、「あなたは」神の前に正しい生活をしているのかということを問います。2章でパウロは、「ユダヤ人は」と客観的・一般的な問いかけでなく、「あなたは」と問いかけることで、きびしく迫るのです。
「ですから、すべて他人をさばく人よ、あなたは・・・さばくあなたが、それと同じことを行なっている」(1)「あなたは自分は神のさばきをまぬかれるのだとでも思っているのですか。」(3)etc...パウロは、自分自身ユダヤ人ですから、ユダヤ人が抱えている霊的な問題性のことが誰よりもよくわかっていました。そして、なんとか同胞ユダヤ人も悔い改めてほしいと願っていましたから、その迫りは激しいのです。 まず17-20節においても「あなたは」とパウロは迫ります。ここでは、ユダヤ人たちの誇り高さが表現されています。


2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
2:18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
2:19 20 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、


 あなたはユダヤ人であり律法を持っていることに満足し、神を誇りとしている。たしかにあなたは異邦人のように石や木や動物を拝んだりなどしていない。それであなたは、異邦人たちを盲人に見立てて自分たちは彼らを導く役割を持っているとか、愚かな異邦人たちを幼子にたとえて彼らをしつけるのは自分たちユダヤ人だという優越感をもっていますねというのです。
 意外なことかもしれませんが、当時のユダヤ教は異邦人伝道に熱心で、主イエスも彼らに向かっておっしゃいました。「偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸を飛び回」っている、と。たしかに、旧約聖書出エジプト記19章には、イスラエル国には「祭司の王国」として世界の諸民族の祝福の基となることが告げられています。彼らを通して、異邦人は神の祝福を受けるのです。ですから、彼らが異邦人伝道に熱心であったこと自体は良いことです。ユダヤ人たちは、ヘレニズム世界そしてローマ帝国が成立すると、東はペルシャ、西はイスパニアにいたる世界に広がって各地にユダヤ教の会堂を造り、礼拝を始めました。ユダヤ教の宣教によって異邦人の中には、先祖伝来拝んできた多神教の神々などというものがいかにも人間が作り出したものにすぎないことがわかり、旧約聖典に啓示された世界の創造主である神が真の神であると信じて、改宗する人々が起こったのです。
 けれども、イエス様は続けておっしゃいました。「海と陸を飛び回って、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする・・・」(マタイ23:15)と。どういうことでしょう?せっかく改宗した異邦人たちは、あなたのようなユダヤ教徒たちの宗教生活の実態を知るようになると、あなたの偽善に倣って偽善的な宗教生活に陥っているではないかというのです。

 

2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。 2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。 2:24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。


 イエス様のエルサレム神殿での「宮きよめ」の事件に、この残念な実態がよく表れています。いよいよエルサレムに入城なさったとき、主イエスはまず神殿に行かれ、異邦人の庭にはいりました。エルサレム神殿は一番奥から祭司の庭、イスラエルの庭、女性の庭、そして、異邦人の庭となっていました。主イエスが一番外側の異邦人の庭で見たのはなんでしたか。異邦人たちが礼拝の庭は、ひっきりなしに荷車をガラガラ引いて近道するために横切る商売人たちがいました。彼らは神殿の外側を通ると遠回りなので、近道をしていたのです。また両替人やいけにえのための動物やハトを売る商売人にたちが、「これはいい品だよ。やすくしとくよ。」とか言ってうるさくしていたのです。
 「異邦人の庭」というのは、異邦人改宗者たちの礼拝の場です。はるばる外国から過ぎ越しの祭りに天地の創造主をあがめにやってきた、異邦人改宗者である巡礼たちは、厳かな気持ちでエルサレム神殿まできたのに、そこは「強盗の巣」だったのです。せっかく異郷世界の中で、真の神を信じる一大決心をして回心した異邦人たちでしたが、その本山であるエルサレム神殿にやってきて失望しました。「なんだこれじゃあ、ゼウス神殿やアポロン神殿と何もかわらないじゃないかと。」長野県の善光寺とか、浅草の帝釈天みたいなものです。その庭には、イカ焼きとかお好み焼き綿あめとか金魚すくいとかいろいろ屋台が出ていて、にぎやかなもんです。「聖書の宗教は天地の創造主をあがめる真理だと思っていたけれど、所詮こんなものなのか。」と異邦人改宗者たちは思ったことでしょう。「神の名はあなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」という状況です。商売人たちを神殿内に入れることを許可していたのは、ユダヤ教の祭司や長老たちです。主イエスは、あのとき非常にお怒りになって、両替人やいけにえのハトを売って商売している連中を神殿から追い出しました。

 

2.心の割礼こそ

 

 そして、使徒ユダヤ人が誇りとしている割礼について語ります。割礼とは、紀元前二千年ころアブラハムの時代に、神様が神の民のしるしとして定めた儀式です。創世記17章に記されています。

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。 17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。 17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。 17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 ユダヤ人の男児は、生まれて8日目に割礼をほどこされました。また、血統的にユダヤ人でなく外国人であっても、割礼を受ければ神の民ユダヤ人とされるわけです。これが旧約時代における神の民のしるしでした。新約時代における洗礼式にあたる契約の印だということになります。ただ、割礼は女性にはほどこされなかったという点は洗礼とちがいますけれども。
 しかし、とパウロは言うのです。割礼を受けて私は神の民の一員でございますと胸を張っていても、もし神があなたに与えてくださった律法をないがしろにしているならば、神の民としての値打ちがないではないか、と。

2:25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

 十戒は、偶像崇拝の禁止、安息日を守れ、父母を敬え、殺すな、盗むな、偽証するな、むさぼるなと言ったことを命じています。神の民であるなら、せめて十戒を守るべきです。それなのに、あなたは異邦人を「律法を知らないみじめな連中だ」とさばきながら、実は、「盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫し、偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめているのですか」というのです。パウロがなぜこんなことを言えるのかと考えてみれば、パウロはサウロと呼ばれた時代、熱心なパリサイ人として、ユダヤ教の祭司や教師たちの生活の実態を知っていたからであろうと思います。サウロ自身は、まじめ人間でしたが、ユダヤ教の祭司や律法学者の中にはこういう不埒な人々もいたのでしょう。真の神を知っていて、割礼という神の民のしるしを受けていて、真の神から律法をいただいていて、しかも人にはそれを教えている。それなのに、実は、その律法をあなどる生活をしている実情に対して、彼は憤りを感じていたのです。
 そこでさらにパウロはひっくり返して言います。

2:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
2:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。


 パウロは異邦人に伝道をするようになり、異邦人の生活ぶりを知るようになりました。悔い改めてイエス・キリストを信じた人々が、割礼など受けなくても、神を愛し隣人を愛する立派な神の民らしい生活をしているのを見るようになりました。もし、割礼というしるしを受けていなくても、神を畏れ、隣人を自分のように愛して神の律法にかなう生活をしている異邦人がいたら、その人こそまさに神の民ではないかというのです。それは、聖霊によって新生した人のことです。

 

3.ユダヤ人であること割礼⇒クリスチャンであり洗礼を受けていることの意義

 そして、第三のポイントに進みます。3章1節です。

3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。

 割礼を受けていても、神の民としての実質が生活の中に伴わないユダヤ人たちをパウロは非難してきました。こういう議論をしてゆくと、ふつう、ユダヤ人のすぐれたところなどないし、神の民の印である割礼にはなんの益もないと続きそうです。ところが、パウロの答えはさかさまです。

3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。


 ユダヤ人たちが、神の民のしるしである割礼を受けていながら、律法に背く生活をしているからといって、割礼を受けていること、神の言葉である律法を授かっていることが意味のないことにはならないというのです。割礼も律法も、神様が彼らに与えてくださったすばらしい祝福であることに変わりはありません。ただ、彼らは神から授かった祝福を無駄にしてしまっていることが問題なのだということです。
 
 新約の時代の神の民、クリスチャンに適用してみましょう。新約の時代、割礼にあたる儀式は洗礼です。父と子と聖霊の名による洗礼を受けても、クリスチャンとして、神のことばに従って実を結んでいなかったら、洗礼はなんの値打ちがあるのでしょうか?洗礼を受けていながら、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することにおいて実を結んでいないなら、クリスチャンである値打ちがあるでしょうか。洗礼を受けていながら、肉の行いに走って、御霊の実を結んでいないとすれば、クリスチャンとなった甲斐がありません。
 しかし、洗礼やクリスチャンであることの値打ちがないわけではありません。パウロの論理にしたがっていえば、クリスチャンのすぐれたところ、洗礼の益は、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に神の言葉である聖書がゆだねられています。神のことばを託されていることは、実に、驚くべき恵みであり特権です。その大いなる特権を無駄にすることがないように、私たちは神を愛し、神の言葉である聖書のことばに親しみ、忠実にしたがう生き方をして主のために実を結ぶものでありたいと思います。
 今年ももう2月まで来ました。この二か月間を振り返って、クリスチャンとしての日常生活はどうだったでしょうか。神の国とその義を第一に求める、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)という実りある生活を送ることができたでしょうか。そうは行かず、肉の思いと行いにとらわれたことがあったでしょうか。聖餐式を前に神様の前にひとりになって、自らを振り返りましょう。もし欠けがあったならば、それを主に告白して、悔い改めて聖餐にあずかりましょう。
 3月、主の日をたいせつにし、聖書通読に励み、この新しい月、神さまに応答して主のために実を結ぶ生活をしてまいりましょう。