Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

二つの法廷

Mk14:53-72

 

 

 14:53 彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。

 14:54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。

 

14:55 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。

 14:56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。

 14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。

 14:58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」

 14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。

 14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

 14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

 14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。

 14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。

 14:65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

 

 14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

 14:67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

 14:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。

 14:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。

14:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

 14:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。

 14:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

 

 

 ゲツセマネの園で逮捕された主イエスは、後ろ手に縛り上げられて、深夜大祭司カヤパの官邸の庭に連行されました。大祭司カヤパは、深夜三時ころに最高議会サンヒドリンを緊急に召集しました。祭司長、長老、律法学者たちが、カヤパ官邸に集まってきたのです。

 文字通りこれは暗黒裁判でした。まず、当時のユダヤの法律では刑事事件における裁判は、夜行なってはいけないとされていたからです。さらに、刑事裁判は過越しの期間中は行なえないとされていたのです。そして、裁判の場所も神殿の境内の切り石の門という場所と定められていたのです。ところが、ここはカヤパの官邸です。

 彼らがこんな夜中に、場所もわきまえず、非合法な裁判を行なったのは、イエスを支持する群衆の反対や暴動を恐れたからです。闇から闇へと主イエスを葬り去りたかったのです。55節に「祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めた」とあるように、裁判の意図ははっきりしています。彼らの目的はイエスを抹殺することにすぎないのに、いかにも形だけは裁判として整えようとする彼等の得意の偽善です。

 この官邸の庭には、主イエスの弟子ペテロもこっそりと入り込んでいました。そして、裁判の様子をそれとなくうかがっていたのです。そこにはたき火がされていてペテロの顔も炎のなかに浮かび上がっていました。

 ここではマルコは「挟み込み」という書き方をしています。53,54節でペテロのいる庭の描写があって、ついでイエスの裁きの描写が55-65節まで、そして、66節から再びペテロの描写です。この挟み込みによって、二つの法廷が同時進行しているようすが生き生きと表現されています。一つは被告は主イエスで、裁判長は大祭司カヤパです。もう一つは大祭司の屋敷の庭で、被告はペテロで、裁判長はニワトリです。

 

1.カヤパの法廷―エスは誰なのか?

 

 さて裁判官カヤパは、イエスの犯罪の証拠はいくらでもあるから、簡単に方がつけられるだろうと思っていました。ぞろぞろ証言者が出てきて、いろいろな訴えがなされました。安息日なのにイエスは病人をいやした。取税人たちとご飯をいっしょに食べた。ところが、意外なことに、実際にはイエスがなさったことで、律法に照らして、非合法であると訴えうる理由は結局なにも見つからなかったのです。ある律法学者からすれば気にくわないけれど、非合法とはいえないことばかりでした。イエスがなさったさまざまな癒しの御業や奇跡は、みな神の不思議な愛のわざでした。

 最後に、数人の証人が立ち上がりました。57-59節。

 14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。

 14:58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」

 14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。

 

 この件はヨハネ伝2章に記されています。

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

 2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 

 本来、ここでいう神殿とは主イエスのからだの復活を意味していました。そもそも神殿とは何かといえば、それは神と人とが出会う場です。人は、神と会見するために神殿に礼拝に行くものです。旧約時代はエルサレム神殿に神が臨在を現わされたので、ここで神の民は礼拝をささげてきました。けれども、新約時代には神が人となられたイエス・キリストが十字架と復活の業を成し遂げられ、ご自身が神と人との仲介者となられたのです。それで、エルサレム神殿は歴史的遺物として以上の意味はなくなりました。今、私たちは、世界中どこにいても、月に行っても、イエス・キリストにあって神と出会うことができます。

 

「 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:6,7)

 しかし、主イエスが「この神殿をこわしてみなさい」といわれたことの意味は、当時の人たちにとっては謎めいていて、イエスを処刑するに値する証言とはなりえなかったのでした。

 結局、ユダヤの法廷においても主イエスが律法を破ったとは判決をくだすことができませんでした。そうです。主イエス御自身、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりするものは、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:17-19)

 おそらく大祭司の印象では、イエスが律法を破っていることを立証することはたやすいことだったのでしょう。けれども、イエスが語ったこと行なったことについての一つ一つの証言をきちんと調べていくと、主イエスは律法を破ったことがないことが判明してきたのです。むしろ、律法の根本精神である「神への愛と隣人愛」を教えこれを徹頭徹尾実行なさったことばかりがあきらかになったのです。そして、かえって主イエスによって祭司連中の偽善ばかりが、暴露されるというありさまでした。

 「どいつもこいつも役立たずの証人どもめ」とカヤパは舌打ちして、今度はイエスに反論してはどうかと進めます。反論させて、しっぽをつかもうとしたのでしょう。

 14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

  しかし、主イエスはあくまでも静かでした。まもなく朝が来ます。カヤパは焦っていました。そこで、カヤパはもはや、やぶれかぶれでイエスに尋ねます。

61節「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

 実は、これが一番のそして唯一の問題だったのです。イエスは石打になりかけたという噂は届いていました。「アブラハムが生まれる前からわたしはいる」と言って石打にされそうになったことがあるとか、「わたしと天の父なる神はひとつです」と言ったというのです。しかし、イエスがこの法廷で「はい。私は神の御子です」と答えるわけがありません。なぜなら人間が「あなたは神の御子ですか」と尋ねられて「はい。そうです。」と答えるということは、ユダヤでは間違いなく、死刑にあたる、神への冒瀆罪であったからです。

 ところが、驚いたことにそれまで沈黙を守っていたイエスが口を開きました。62節「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

 一瞬、法廷はシーンと静まり返りました。イエスが、御自分が神の子、キリストであると証言したからです。イエスはこのためにこそ、この法廷に臨んでいらしたのです。

 カヤパは衣を引き裂いて、叫びます。63、64節。

 14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。 14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。

 

 ユダヤの法廷によれば、イエスの罪状は結局、一点でした。それはイエスが自分のことを「ほむべき方の御子、キリストである」と証言したことです。主イエスが死刑になった理由は、御自分のことを神の御子キリストであると証言したことによるのです。

 イエスはだれなのか?という問いに対して、19世の学者さんたちは「愛の道徳の教師である」と言うのが流行っていましたし、20世紀になるとむしろ「ユダヤの革命家である」などと答えるのが流行しました。けれども、この裁判における証言を読むならば、そんな説がまったくナンセンスな答であることが判明します。新約聖書が告げるイエス様はどう見ても「人となられた神」以外ではありえないのです。

  しかし、残念なことに、この証言を聞いても大祭司カヤパは悟りませんでした。そして勝ち誇ったように言うのです。

14:63 「これでもまだ、証人が必要でしょうか。 14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」

 こうして、ついにイエスを死刑に定めることができた、と。そして、人々は神の御子につばきをはきかけ、顔を覆ってこぶしで殴りつけたのです。主イエスは沈黙され、右を打つ者に左のほほを向けていらしたのです。

 

2.もう一つの法廷---ペテロは何者か?

 

 さて、イエスの尋問の最中、もう一つの法廷が開かれていました。被告人はペテロです。カヤパの法廷では、イエスはだれなのかということが尋問されたのですが、ここではペテロはだれなのかが問われるのです。

 ペテロは大祭司の官邸に中庭で、たき火にあたりながら、裁判をそれとなく見ていました。と、大祭司の女中がペテロを尋問します。

67節。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」するとペテロは「何ば言いよっとか?わからん。見当もつかんばい。」としどろもどろにガリラヤなまりでしゃべくって、ビクビクと出口のほうへと場所を移します。

 すると女中は、そばの人たちに向かって「この人はあのイエスの仲間です。」と言いたて始めます。しかし、ペテロはそれをまたまたガリラヤなまりで打ち消します。ところが、ペテロのガリラヤなまりを聞いて、人々は「たしかに、おまえはイエスの仲間だ。ガリラヤなまりですぐわかる。」と。ペテロが懸命にガリラヤ弁で打ち消すほど、馬脚が現れます。大祭司の前でいろいろ不利な証言を聞かされながらも、静かにしていらっしゃるイエスとなん対照的ではありませんか。

 するとペテロは三度目に呪いをかけて誓い始めました。「わしは、あんたたちの話しちょる人のことなど知らん。もしうそじゃったら、わしは地獄に落ちてもよか。」

 すると、すぐにニワトリが二度鳴きました。「コケコッコー、コケコッコー」

 こちらの法廷では、ニワトリがペテロの有罪を宣告した裁判官でありました。ペテロ有罪だ。ペテロは、エスを裏切った臆病者だ。卑怯者だ。罪人だ。」とニワトリが宣告したのです。

 あの最後の晩餐の時、主イエスが言ったことばのとおりでした。「にわとりが二度なく前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは「たとえほかの連中がみんな裏切っても、この私はあなたを知らないなどとは申しません。」と胸を張ったのです。「私は義人です。」と言ったのです。けれども、この法廷でペテロは「シモン・ペテロ。あなたは、卑怯な裏切り者である。」と宣告を受けなければならなかったのです。

 

 あなたも、もしかしたら、このような法廷に突然立たせられることがあります。「あなたはクリスチャンじゃないのか」「あなたは、イエスを信じているんじゃないのか」と問われたことがあるのではないでしょうか。そのときには、どんなに困難な状況であったとしても、たといそれが死を意味する場合でも、「はい。私はイエス様を信じています。私はクリスチャンです。」と告白できるものでありたいと思います。

 私が高校三年生のとき、世界史でずいぶんキリスト教会の過去におかした十字軍、魔女狩りといった罪について熱心に教えてくださる先生がいました。そのころ、別の授業であったかと思いますが、「クリスチャンの人はいますか」と先生がどういう文脈であったか問うたことがありました。すると、Hさんが「はい」といって手を挙げました。そして、「どういうことを信じているんですか」と問われると、立ち上がって「私はイエスさまが、私の救い主であることを信じています。」と答えました。当時、欠席がちで病弱なんだなあという印象をもっていたのですが、その証はしっかりしたものだったので、印象深かったことです。

 主イエスはおっしゃいました。

「 10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32,33)

 

 

 ペテロは、鶏の声を聞いて、「泣き出した」とあります。慙愧の涙でした。 

 ところで、ルカ福音書の平行記事には、ペテロの三度目の否認の瞬間、「主が振り向いてペテロを見つめられた。」(22:61)と記されています。そのまなざしはどんなまなざしだったでしょうか。それは、賛美歌作家のいうとおり、弱いペテロをいつくしむまなざしであったろうと思います。

「ああ、主の瞳、まなざしよ。

 三度 わが主をいなみたる 弱きペテロを顧みて

 赦すはたれぞ 主ならずや」

「ペテロ、君は自分が強いと思っていた。自分は正しいと言っていた。けれど、ほんとうは君は弱く、君は罪深い者だ。その君を、わたしは赦そう。君を赦すためにこそ、わたしは今辱めを受け、君をゆるすためにこそ十字架にかかるのだ。」とそのまなざしは告げていたのです。

 その主イエスのまなざしに触れた時、彼は声を上げて泣き出しました。自分の罪を目の当たりに知らされ、その罪を悔いる涙でした。

 私たちは、どこまでも主にしたがって行きたいと思います。主イエスがあの十字架でいのちまで惜しまず捨ててくださったのですから、したがって行くのは人間として、主の弟子として当然のことです。けれども、私たちはときに自分の罪と弱さのゆえに、つまずき倒れることがあります。情けないことです。しかし、主はそういう情けない私たちの罪の償いのためにこそ、あの十字架への道を歩んで行かれたのです。 

  

むすび

 主イエスはまぎれもなくほむべき方の御子キリストでいらっしゃいます。天地万物を造り、これを支えている神の御子が、救い主キリストとして、罪に満ちたこの世界に来なければならなかったのは誰のためでしょうか。きよい神の御子が、辱めを受け、苦しみのきわみである十字架に向かって進んでいかねばならなかったのは、誰のためだったでしょうか。

 それは、ほかでもない弱く罪深い私のため、あなたのためでありました。私たちは安全地帯にいるときには、結構、自分は正しく、ほどほどに愛もあり、誠実な人間であるかのように思い上がっているものです。そして「あの連中よりは、自分はよほどましな上の人間である」などというふうにひそかに思っていることもあるかもしれません。けれども、現実に悪魔の誘惑や危険にさらされる時、思いもかけない自分という人間の醜い実態を見せつけられることがあるのです。そのとき初めて、「自分には愛などなかったのだ。自分はこんなにも卑怯な人間だったのか。」と愕然とするのです。

 しかし、主イエスは、私たちのその弱さ、醜くさをすべてご承知の上だからこそ、私たちが神の前で赦されるために十字架にかかってくださったのです。私たちは主にしたがって行きたい。けれども、もし、つまずき倒れてしまったならば、子供のように、ペテロのようにごめんなさいと悔い改めて主の前に泣くほかないのです。

 

 「キリスト・イエスは罪人を救うために、この世に来られた。ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」 1テモテ1:15

 

羊は散らされた

マルコ14:43-52

 

1 ユダの裏切り・・・悪魔の影

 

 ゲツセマネのオリーブの林には、満月の光が煌々と満ちていました。主イエスは三時間にもわたる激しい祈りが終わり、苦き杯を飲めという父のみこころを確信なさり、眠っている弟子たちを起こしました。と、主イエスの目に、オリーブの木々の黒い影の向こうから多くのたいまつが近づいてくるのが映りました。主イエスを逮捕するために、祭司長が遣わした者たちです。主イエスは落ち着いていらっしゃいますが、眠い目をこすっていた三人の弟子たちは、電流に撃たれたようになりました。祭司長の手の者たちは、剣や棍棒をもって近づきます。見ると、その先頭に暗い表情のユダが立っています。ユダは、大祭司の手の者たちを手引きして来たのです。

 14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

 満月とはいっても夜は夜、イエスをほかの弟子と取り違えて逃がしてはならないということで、ユダは祭司長の手の者たちと打合せをして合図を決めていました。その合図は接吻でした。これは、当時のユダヤ社会で、弟子が師に対する格別な親愛を示す表現でした。

 14:44 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」

 14:45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。 14:46 すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。

 

 まだしも、「こいつがイエスだ。捕まえろ」と指さし叫ぶならば、わかりやすいのですが、ユダは、「先生お元気で」とにっこりして接吻をして、イエスを敵に渡したのでした。師に対する尊敬、親愛を表現する口づけを、あえて裏切りの合図に選んだユダに、イエスに対する深い悪意と憎しみを感じます。悪魔の影がのぞいています。不気味です。

 

 イスカリオテ・ユダの心の闇の深さに私たちは戦慄を覚えます。ユダがなぜイエスを裏切ったのかという謎については、昔から皆がいろいろな推測をしています。近代になってからは特に人間主義の影響で、ユダに同情的な解釈がされる傾向があり、キリスト伝の小説や映画などでされるのが流行のようになっています。ユダはイエスダビデのような英雄として立つべきなのに、もたもたしているから、決起を促すためにこうしたのだという説。ユダは、イエスを愛の教師と思っていたが、自分に対するマリヤのむだな香油注ぎについては受け入れた自己愛の矛盾に腹を立てたのだという説などいろいろと、あります。

 しかし、聖書自体はユダの裏切りについて同情的なことを述べてはいません。ユダは弟子団のお金を着服していた。マリヤの主へのささげものについて「ああもったいない」と非難したとか、主イエスを銀貨30枚で売ったとか、イエスを裏切るときには口付けをもってしたとか、最後には悔い改めることもせずに首をくくって死んだとか、その死体は落ちてはらわたが飛び出てしまったいう具合です。 私たちとしては、人間に取り入るような流行の解釈に耳を傾けるよりも、聖書が語ることに耳傾けるのが賢明です。ユダの裏切りいんは、なにか高尚な理由があったとは教えていません。ユダには金銭のむさぼりの問題があり、それを見透かされた腹いせなのか、敵に主イエスを銀貨30枚で売ったというだけです。

 並行記事には、そんなユダに、主イエスは「友よ。何をしに来たのか。」と声をおかけになったと記されています。最後の悔い改めの機会を、主イエスはユダに与えたのです。しかし、ユダが固く心閉ざしたままでした。そのあと、後悔はしながらも悔い改めることなく、こころ閉ざしたまま首をくくって自殺してしまいました。悲惨です。

 

 私たちは妙にユダに同情するのでなく、神の前に恐れおののきつつ、「どうぞ私が生涯イエス様を憎んだり、裏切ったりすることがないように、私の心を悪魔から守ってください」と祈るのが賢明です。

 

2 聖書のことばが実現するために

 

 さて、ユダの合図にしたがって、大祭司のしもべがイエスに手をかけるや否や、イエスのそばに立っていた弟子のひとりが、剣(マカイラ)を抜いてしもべの脳天に振り下ろしました。しかし、しもべがさっとよけたので、ズバッと耳が切り落とされてしまいます。

 14:47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

 なぜ弟子は剣など持っていたのでしょう。ここで剣と訳されているマカイラというものは野宿などで用いるナイフ・小刀のことです。戦争に用いられる長い剣はロムファイアと呼ばれる別ものです。弟子団は折々は野宿もしなければならなかったので、マカイラを持ち合わせていました。「ナイフならここに二丁ありますよ」と報告した記事があります。

 ヨハネによる並行記事によれば、斬りかかったのはペテロ、耳を切り落とされたのは大祭司のしもべマルコスでした。いかにも血気にはやるペテロらしい。大祭司のしもべにすぎないマルコスの名が特筆されているのは、おそらく後日、彼が初代教会のメンバーになったからでしょう。「あの夜中、俺は祭司長のしもべでイエス様をとっつかまえに行ったんだけれど、あんときはペテロさんに耳を切り落とされちまった。そりゃあ痛いのなんのって。でも、すぐにイエス様は俺の耳をさわって、新しく耳をつくってくださっただよ。」と証言したのでしょう。ペテロは「やあ、おれは気が短くってねえ。」と頭をかいたでしょう。

 ペテロは、ここで主イエスといっしょに討ち死にすればよいと脳天に血が上りました。ペテロだけではありません。ほかの弟子たちにだって、こういう勇ましいかたちでならば、主イエスのために命を捨てる覚悟はできていたでしょう。けれども、主イエスは慌てず騒がずにおっしゃったのです。

 14:48 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。 14:49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

 大事なことばは最後の一節「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

です。主イエスは、自分が、暗黒裁判にかけられ、鞭うたれ、裸にされて十字架にくぎ付けにされ、辱めと怒号のうちに処刑されるために、今、こうして祭司長の手の者に捕縛されるのは、旧約聖書に預言されていることなのだ。父なる神のご計画が、今ここに成就しようとしているのだというのです。

 三時間ほど前には「できることなら、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いでなく、あなたのおこころの通りをなさってください」と祈られた主イエスでした。そして、ご自分が受難の道、十字架への道を歩むことは、罪ある人間たちの救いのためであり、それが父のみこころであるということがはっきりとわかって、主イエスは祈りの場から立ち上がったのです。だから、慌てることはない。「みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ」だ、ということです。父の心が地に成ることこそ、御子イエスの望みです。父の意志と、ご自分の意志とがピタリと一つになっているので、イエスはもはや揺るぐことがありません。御心を悟り、御心に生きる者のみが知るたましいの平安です。

 

 神のみこころをよそにおいて、自分の願いに固執しているかぎり、私たちは決してたましいの平安を得ることができません。自分のたましいを注ぎだして祈り、そして、自分の握りしめている手を神の前に開いておゆだねするときに、私たちは主が経験されたのと同じ平安を得ます。

 

  • 裸の青年

 

 イエスが剣を振り上げて戦うおつもりはないことを知った弟子たちは、イエスを見捨てて逃げてしまいます。

 14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

 ペテロ、ヤコブヨハネは、勇ましく名誉の討ち死にをする程度の熱情はあったと思います。しかし、おめおめと逮捕されて、犯罪人として辱めの十字架にかけられてしまうような死に方はできなかったのでしょう。こうして、ほんの3,4時間まえ、彼らは自分が主イエスを裏切ることなどありえないと断言しましたが、主イエスが「羊は散り散りになる」とおっしゃったとおりになってしまったのでした。

 そして、マルコ伝には彼らと同じように主イエスを見捨てて裸で逃げてしまった一人の青年にかんする特ダネ記事が収められています。これは聖書記者マルコ自身のことであると考えられます。こんな出来事が実はゲツセマネの夜にあったことを知っているのは、この青年自身しかいませんから。

  14:51 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

 過ぎ越しの祭りのとき、主イエスが弟子たちとともに食事をするために選んだのが、大きな二階部屋のある屋敷でした。この二階部屋はペンテコステの時に120名の人々が集まって祈っていた場所でもあるようです。この屋敷のボンボンが青年マルコでした。イエス様はこの屋敷の主人、マルコの父親と交流があったので、この二階部屋を借りたのでした。青年マルコは、主イエスと十二弟子たちが過ぎ越しの食事をしているのを知っていました。やがて、主イエスたちは詩篇のエジプトのハレルを歌い終わると、屋敷を出ていきました。マルコは「きっといつものように、オリーブ山のゲツセマネの園に行かれたのだろう」と思っていたでしょう。

 そのあと、マルコは水浴びでもしていたのでしょうか、それとも裸で寝る習慣だったのかもしれません、とにかく裸でおりますと、玄関の方にどやどやと人々が押し掛けてきました。しもべたち、そして父か玄関で応対しています。客は「イエスはどこにいる。ここで過ぎ越しの食事をとったことはわかっているのだ。」と怒鳴っています。やがて、ここにいないことがわかると、「きっとゲツセマネにいるはずです。イエスは毎晩、そこで祈るので」という声がします。ユダの声です。すると、人々は「ゲツセマネに行くぞ」と言って去っていきました。

 青年マルコは、着物を身に着けるいとまもなく、そこにあった亜麻布を身にまとって、ゲツセマネの園へと走ります。できれば、先についてイエス様に逃げるようにと告げるつもりだったのでしょう。しかし、到着してみると、時すでに遅く、人々はイエス様を取り囲んでいます。弟子たちは逃げてしまいました。やがてイエス様の手には縄がかけられて、連れてゆかれます。そこで、マルコは一人恐る恐るイエス様をとらえた人々の後を、暗がりに身を隠しながらついて行きました。しかし、振り返った連中に「お前はイエスの仲間だろう!」と見つけられ、亜麻布をつかまれてしまったので、それを捨ててすっ裸で逃げ出したのでした。

 

 こんな恥ずかしいことを、マルコは、あえて自分が記す福音書の中に書きとどめたのです。なぜでしょうか?

 主イエスに従おうと願っても従えず、主のためにいのちをささげますと申し上げながら、いざとなったら逃げ出してしまったような、情けない自分だけれど、主イエスは、この罪ある者をも赦してくださいました。主イエスは罪人の友です、ということを証言したかったからにほかならないでしょう。

 

結び

 「あなたとご一緒なら命も捨てます」と行った弟子たちもみな主イエスを置いて逃げてしまいました。弟子たちは、このあと、官憲が自分たちをも逮捕するのではないかと家で戸を閉め切って震えていたのです。この青年マルコも逃げ出してしまいました。

 彼らを評論家のように評論し、批難するのは簡単です。情けない人たちだ、と。けれども、自分自身が彼ら弟子たちの立場、あるいは、青年マルコの立場に置き換えてみると、「では、あなたは大丈夫なのか?」と問われていると思わざるを得ません。

 何としてもイエス様にしたがって行きたい、そう思います。そう思いますが、自信はありません。自分はペテロよりも勇敢だろうか?自分はあの青年よりも勇敢だろうか?と人間的な問いを自分に向けると、自信はありません。

 しかし、このように弱かった弟子たちも、後の日には復活の主イエスに出会って、変えられ、強くされ、それぞれ主のために命をささげて行きました。それは人間的な力ではなく、復活の主の力によったからです。自分の弱さ、臆病さ、情けなさの現実を神様の前に知ったなら、ユダのように心かたくなにしてはなりません。むしろ、「こんな弱い私ですが、それでもあなたに従って行きたいのです。どうぞ私が生涯、イエス様から離れてしまうことがないように助けてください」と祈りましょう。

 

 

 

 

最後の晩餐

マルコ14:12-25

 

 14:12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」

 14:13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。

 14:14 そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。

 14:15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」

 14:16 弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。

  14:17 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。

 14:18 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 14:19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。

 14:20 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。

 14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

  14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

 

1.過ぎ越しの食事の備え

  

 主イエスは、ご自分が十字架にかかられる日を、過ぎ越しの祭りの中に選ばれました。その目的は、ご自分の十字架の死が、私たち罪人の救いのための犠牲であることを示すためでした。当時は、毎年、過越しの祭りには罪のきよめのために小羊がいけにえとしてほふられました。過越しの小羊の犠牲は、私たち罪人のためのまことの犠牲という本体を指差す影でした。その唯一のまことの犠牲とは、十字架のイエスにほかなりません。バプテスマのヨハネは主イエスを指差して、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」と叫んだでしょう。

 さて、当時、過ぎ越しの祭りには、イスラエルの人々はそれぞれの家で過ぎ越しの食事をとる習慣がありました。食事をとりながら、人々は当時から千数百年前に神が過ぎ越しのいけにえによって自分たちの罪をゆるし清めてくださり、また、エジプトの奴隷の縄目から解放してくださったことを思い起こすのでした。エジプト脱出はイスラエル民族の原点でした。

 主が弟子たちと過ぎ越しの食事をともにするためにお選びになった家は、おそらくマルコの家の二階の広間(the upper room)であったようです。マルコというのは、この福音書の記者で、ペテロと交流のあり、後に、パウロバルナバともに宣教活動をした若者でした。

 

2.裏切りの予告

 

 さて時がきて、イエスは弟子たちとともに食卓に着きます。その時、主イエスは厳しくまた悲しげな声でおっしゃいました。

 14:18 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 弟子たちは動揺します。ダビンチの最後の晩餐の場面は、この瞬間を捉えたものです。弟子たちの恐怖と動揺がまるで波紋のように両側に瞬時に広がったことが表現されています。主のことばを聴いて弟子たちは口々に言うのです。

 14:19

「主よ。まさか私のことではないでしょう」

「主よ。まさか俺のことではないですよね。」

「主よ。わたしじゃないですよね。その裏切り者は。」

 弟子たちが口々にこのように言ったのはなぜでしょう。それは、彼らも「もしかしたら、自分が愛する主を裏切ってしまうのではないだろうか」と不安になったからです。今から20年ほど前、ダビンチの絵のNHK復元版が完成したとき、これを復元した人が鑑賞者たちに「この絵の中で、主イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダはどれだ?」という質問を投げかけました。すると鑑賞者たちは、「あれがユダではないか」「いや、こちらがユダではないのか」と言って、次々にユダだという人物を指差して行きました。そして、十二人すべての弟子がユダ候補となってしまったのでした。

実際、どの弟子の顔も、みなとっても人相が悪く描かれています。それがダビンチの意図したことだったのかもしれません。罪人はイスカリオテ・ユダだけではない。すべての弟子たちが主イエスを裏切る可能性のある罪人なのだ、この絵を見ているあなた自身も、というメッセージなのでしょう。

 主イエスは、おじまどう弟子たちに言われました。

 14:20 「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。」

 鉢に手を浸す者というのは、ユダだけを指した言葉ではなく、日本風に言えば「同じ釜の飯を食っているもの」ということでしょう。もし、そうでなければユダに対してほかの弟子たちが詰問したはずですから。当時ユダヤ人たちはパンを酢につけて食べる習慣がありましたが、特に過ぎ越しの食事では苦菜を入れた酢が鉢のなかに用意されていたのだと思われます。そして、主は深い悲しみと憤りをもって嘆きかれます。

 14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

 主のことばは、人間の理性にとっては深い謎です。主イエスが敵に引き渡されて死ななければならないのは、聖書に予告されているとおりです。それは神のお定めになった計画です。詩篇イザヤ書の預言にはメシヤが敵に引き渡され苦難にあい、死ななければならないと記されています。神のご計画が遂行されるなかで、イスカリオテ・ユダがイエス様を裏切りました。それは彼がサタンにそそのかされて選んだ行為でした。人間の理屈は、神のご計画のなかにユダが主イエスを売ると決まっていたとすれば、ユダにはどうしようもなかったではないか。けれども、確かにユダは自分の意志をもって主イエスを裏切りました。神の永遠のご計画と、人間の自由意志と責任という二つは、永久に平行しています。しかし、それがこの世界における現実です。

 

3.新しい契約

 

(1)吟味・・・ユダが出される

 さて、マタイ福音書とマルコ福音書では、ユダは罪を指摘されてどうしたかということは記録されていませんが、ヨハネ福音書によれば、ユダはその席を立って、外に出ました。「時は夜であった」(ヨハネ13:30)とあります。ユダの心の闇、悪魔の気配を感じさせる表現です。主イエスはユダを新しい契約である聖餐式から外されたのです。

 

聖餐式においては、パンとぶどう酒に与るに先立って、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになる」ということばが朗読されて、自己吟味を求められます。その心が、主に対する憎しみ、また、兄弟姉妹に対する憎しみに汚されていないかを確認することが必要です。主イエスはユダの心がご自身に対する憎しみに汚れており、ふさわしくないとご存知でしたから、彼を聖餐の席から外されたのです。

 

(2)新しい契約

さて、ユダが去ったあと、主イエスは弟子たちに、新しい契約のしるしをお与えになりました。

14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

弟子たちは、新約の教会で最初にこの主の晩餐に与ることになります。まず「契約」ということばに注目しましょう。

26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

 ルカの並行記事では「新しい契約です」ということばが用いられています。それは、主イエスが新約の時代の教会と結んでくださった契約は、モーセが神からいただいたシナイ契約に対して新しいものです。シナイ契約に対して、主イエスがくださった新しい契約はどのような点で連続しており、また、どのような点で新しいのでしょうか。いくつかポイントを列挙しておきます。

 まず、古い契約と新しい契約の連続性は、いずれも人が神様の前に義と認められるのは、イエス・キリストによる罪のあがないを根拠としているという点です。旧約時代も新約時代も恵みによらなければ、だれひとり人間は救われようはありません。

ただ新約の時代の恵みは、次の3つの点で旧約時代の恵みにはるかに勝っています。

①第一点は、旧約は約束であり新約は成就、旧約は影であり新約は本体であるという違いです。旧約時代には贖罪のわざの影としての牛や羊のいけにえをささげましたが、それは将来あらわれる本体の影でしたから、人々はそれで自分が神の前に罪ゆるされ清められたと確信し良心の不安を解消することはできませんでした。ですから、毎年いけにえがささげられることが繰り返されました。しかし、新約の時代は、尊い神のひとり子が人となって来られて、私たちの代理として罪を背負って十字架に死んでくださいましたから、私たちは自分の罪もまた償ってくださったのだと確信を得ることができ、心に平安をいただくことができます。

②二つ目の新しい点は、古い契約では神の戒め(律法)は石の板にまた羊皮紙に記されたものとして、人の心の外側にあったので、外側から人を縛るものでした。だから、それは人は不自由を感じました。これに対して新しい契約では、主の戒めは紙に記されると同時に、聖霊様によって主イエスを信じる私たちの心に刻まれます。だからイエス様にあって新しく生まれた人は、内側からこれは真理でありこれに従いたいという性質が与えられたのです。「文字は殺し、御霊は生かす」とは、そういう意味です。

③三つ目の新しい点は、古い契約はイスラエル民族に与えられましたが、新しい契約は世界中の民族国語を超えて与えられたということです。だから、復活の後、主イエスは「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という世界宣教を命じました。

 

  • 主の晩餐に与る

 14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 

①食べなさい、飲みなさい

 主イエスは「取って食べなさい」「みな、この杯から飲みなさい」とおっしゃいました。食べること、飲むこと、というのがこの契約のしるしの特徴の一つです。このことは何を意味しているのでしょうか。私たちは食べたり飲んだりしなければ生きて行けません。食べること飲むことをもって、私たちは生命を維持しています。そのように、私たちはイエス様によって神様の前に永遠のいのちに与っているのだということを実感するために、イエス様は「食べなさい」「飲みなさい」とおっしゃるのです。イエス様なしでは生きてゆけないものであることを悟るためです。

②死

 この契約は主イエスにあって、神とのいのちの交わりにはいるための契約です。しかし、いのちに与るということのためには、そこに死があるのだということを認識しなければなりません。食べるということはそういうことです。おいしいおいしいといって、焼肉を食べるとき、そこには牛の死があったのです。主イエスにあって、わたしたちは神様との愛の交わりに入れていただいていることを喜ぶのですが、それは主イエスの十字架の苦しみと十字架の死という犠牲によって成立したいのちの喜びです。

③感謝と献身

 イエス様はこの契約のことばの最後にふしぎなことを付け加えました。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 再臨の後、新しい天と新しい地において、御国が完成したときまでイエス様はぶどうの実で作ったものを飲むことはなさらないと決意を示されました。旧約時代、ナジル人の誓願というものがありまして、信徒が神様に自分をささげつくして生活をしますという誓願をすることを自発的に望むとき、に彼らはぶどうで作ったものを口にしないという誓願をしました。日本にも、たとえばお母さんが自分の息子の病気が治りますようにという強い願いをもつときに、自分の好物を断つということをしたりするということがあります。卵断ち、お茶断ちとか。断つおかあさんが、そのことをもって自分の強い願いを意識するのです。主イエスが、ぶどうの実で造ったものを口にしないと決意を表されたのは、御国の到来は必ず成就させるのだ、世界のあらゆる人々に福音を宣教するという強い献身の表明です。

 

結び

 罪のしみひとつない尊い神の御子が、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださり、ご自分を人類の救いために挺身してくださいました。主イエスは、あなたの罪のすべてを引き受け、ご自分のいのちをあなたに与えてくださいました。

 ですから、主のおからだ、主の血潮にあずかる私たちもまた、主の前に、感謝して自分をささげますという献身を表明するのは、当然のことです。

ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 主の晩餐に与るとき、私たちは、主の前に自分の生活、自分のとき、自分のすべてをおささげしますと表明するのです。

ナルドの香油

Mk14:1-11

 

 

14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

 14:2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。

  14:3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。

 14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

 14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

 14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。

 14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。

 14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

 14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

  14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。

 14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

 

 

 「ナルドの壺ならねど、ささげまつるわが愛」という讃美歌があります。十字架を目前にした主イエスに、ベタニヤのマリヤが惜しみなく注いだナルドの香油の出来事を歌った歌です。主イエスが、14:9 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とおっしゃったとおりに、確かにマリヤの記念とされて来たのです。主のみことばは成就しました。

 ところで、本日読んだ、この本文は少し珍しい構造をしています。つまり、1、2節の内容は10、11節へとつながり、3節から9節がはさみ込まれているということです。祭司長・律法学者たちがイエスを無きものにしようとして相談をしている場面がまず描き出され、次にナルドの香油の事件が記され、最後にもう一度祭司長・律法学者たちがイエス暗殺の相談をしているところへ、ユダが走ったことがしるされるわけです。

 これを挟み込み構造といいます・・・と勝手に私が命名しただけなんですが、マルコはときどきこういう書き方をします。マルコ3:20-25、14:53-72

 これは何を意味しているのでしょうか。挟み込み構造は二つの場面が同時進行していることを表す場合がありますが、ここでは、むしろこのナルドの香油の事件が、ユダが敵にイエスを売り渡したことの決定的な引き金になったということを意味しているようです。

 

1.マリヤの捧げもの

 

 ベタニヤはエルサレム郊外の小さな村でした。ここにらい病人(ツァラトに冒された人)シモンの家があります。その家族はマルタ、マリヤそしてラザロです。母親は早くなくなったのでしょう。らい病人シモンというのは、彼らの父親でしょう。らい病は当時イスラエルでは大変恐れられ、また宗教的に呪わしい病気とされ、隔離されましたから、父はもう同居していないと思われます。でも、三人の住む家は「らい病人シモンの家」と呼ばれましたから、「あの家は恐ろしいライ病人を出した家だよ」ということで、誰一人訪問などしてくれはしなかったのです。格別、律法学者や祭司といった立場の人々は、らい病人を差別する筆頭に立っていたのです。

 ところが、主イエスはこのらい病人シモンの家族を愛され、しばしばこの家族を訪れています。そしてヨハネ福音書の平行記事によれば、今回の事件の直前に、ラザロのよみがえりという奇跡を主イエスはなしてくださったのです。自分たちのような世間から見捨てられてしまったと家族、また神にも呪われていると思っていた家族のところに主イエスが訪れて、神の祝福は心貧しい者、悲しむ者とともにあるのだよと教えてくださったということは、彼らにとってこの上もないよろこびでした。

 さらに弟のラザロにいたっては、墓に埋葬されてすでに三日もたって臭くなっていたのがよみがえらされたのです。その姉たちとしては、主に感謝しないではいられないではありませんか。

 「主に感謝を表すのにどんなものがふさわしいかしら?」とマリヤは考えました。お姉さんのマルタはやり手でお料理が上手で人をもてなすのも得意ですが、マリヤはそういうことが苦手でぼんやり夢見がちな女性でした。そんなマリヤは、「私にとって一番たいせつなものとは何だろうか。私の宝物とはなにか」と祈って考えてみたのです。最高最善のもは何かと考えたのです。そして、彼女は「そうだあれだわ」と捧げる決心をしたのがナルドの香油でした。これはたいへんに高価なものでした。あとで弟子たちが値積もりしていますが、壷一本で二百万ないし三百万円というところでしょう。

 彼女がなんでこんなものを持っていたのかというと、ユダヤの習慣として花嫁道具の一つだったのであろうと言われます。母親が「マリヤ、お前も結婚の日が来たなら、このナルド油をもってお嫁に行くのですよ。」とでも遺言したのではないでしょうか。マリヤは、主イエスへの感謝と愛とをあらわすには、そのほかのどんなものよりもたいせつなナルド油こそふさわしいと思ったのです。

 主イエスに捧げるにふさわしいもの、それは感謝と愛にあふれた最高最善のものです。それ以外はふさわしくありません。私たちは、マリヤにこのことを学びます。

 

2.ユダによる捧げものの評価

 

 ナルド油が惜し気もなく注がれて部屋中がそおかぐわしい香りでいっぱいになったとき、弟子たちはうっとりしていました。ところが、弟子たちが、「ああなんという無駄づかいをするんだ。それを売れば300デナリほどにもなって貧しい人々にほどこしができるのに」と、文句をつけました。

マルコ14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

ここには「何人かの者が」とありますが、実はヨハネ福音書の平行記事を見ると(ヨハネ12:4、5)、最初にこのように言い出したのはユダであったことがわかります。

 12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

4、5節の理屈はなるほどと思えたので、ほかの弟子たちもユダに遅れをとるまいと「そうだ、そうだ無駄づかいだ」と同調したのです。けれども、イスカリオテのユダの考えは間違っています。

 第一の間違いは、ユダはすぐにマリヤのささげたものを「300デナリ」とお金に換算したことです。彼は会計係をしていたというので、お金の計算にはたけていたのでしょう。しかし、物事はなんでもかんでもお金に換算できるわけではないのです。ベタニヤのマリヤの主イエスに対する涙の出るような感謝と愛とを、どうして300デナリなどと換算できるでしょうか。なんでもかんでもお金に換算して価値がわかったような気持ちになるというのは、貨幣経済社会に住む者たちの陥りがちなわなです。金額のはるものには価値があり、金額のはらないものには価値がないということになってしまいます。

 ヨハネ伝によれば、ユダは盗みをしていたとあります。金のとりこになってしまっていたから、すぐに金に換算するくせがついていたのでしょう。なんでもお金に換算する人は、ものごとの本当の価値がわからなくなってしまいます。これは警戒すべきことです。

 

 ユダの第二の過ちは、主イエスにお捧げするのにもったいないなどと思ったことです。主イエスへの捧げものとして、どんなものがもったいないといえるでしょうか?神の御子である主イエスは私たちのために天国の王座をさえ惜しまないで、人となってくださったのです。そして、主イエスは私たちのために、その尊いいのちまでも惜しまずに投げだして下さったのです。これこそもったいないことではありませんか。主イエスにお捧げするのにもったいないものなど何がありましょうか。

 主がこんなにも私たちを愛して下さったのに、私たちが捧げ物について物や金や時を惜しんでいるとすれば、これこそ異様なこと、恥ずべき事ではないでしょうか。そのような人は、主イエスが神の御子であることも、主イエスの十字架の尊い犠牲の意味もまるでわかっていないのです。

 

 そしてユダの罪の第三は偽善です。彼は「貧しい人々に施しができたのに」などと心にもないことを言いましたが、それはほんとうに貧しい人々を心にかけていたのではないとヨハネは注釈を加えています。彼は自分のもっともらしい理屈を擁護するために、心にも無いことを口走ったのです。自分の心の貪欲を、慈善の包装紙で覆い隠そうとしたのです。彼は慈善家ではなくただの偽善家にすぎませんでした。恥ずべきことです。

 

 ユダはナルドの香油という捧げものについて、「もったいない」などと評価することによって、自分自身がどれほど心汚れたものであるかということを暴露してしまったのでした。主イエスのことを何もわかっていないことを暴露してしまったのです。

 

3.主イエスによるナルドの香油の評価(6-9節)

 

 主イエスは、弟子たちから寄ってたかって責められて小さくなっているマリヤを弁護なさいます。「わたしのためにりっぱなことをしてくれた。」と評価なさるのです。そして続けます。7節。

 

貧しい人々への奉仕をユダが偽善的にも言い立てたので、この件について触れられます。「彼らはいつもあなたがたとともにいるのだから、いつでも親切にしてやればよい。しかし、わたしはいつまでもあなたがたとともにはいない。」と。つまり、主は御自分の死が間近であることにふれられるのです。主はすでにこれまでに三度、御自分が十字架にかからなければならないことを弟子たちに予告なさっているのです。けれども、弟子たちはこれを理解せず心にも留めていませんでした。ただ、弟子たちにくらべればずっと知識も少ないマリヤだけが、主イエスの迫り来る死と心中の悲しみを察したのでした。

 14:8 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」

 どうしてこのマリヤだけが主イエスの思いを理解したのでしょう。ほかの弟子たちはどうしていたのでしょう。弟子たちは主がこれからなそうしてしておられる事がら、計画についてはたいへん関心がありました。しかし、あえていえば弟子たちは、主御自身に対する愛も関心も薄かったのではないでしょうか。だから主のみこころがわかりませんでした。他方、マリヤはどうして主イエスの思いを悟ったのでしょうか。一言で言えば、このマリヤが主イエスを愛していたからです。弟子たちは「ユダヤ教の総本山エルサレムに行ってあれをしよう、これをしよう」と、これからの事業計画にのみ熱心ではありましたが、主イエスの御心については鈍感でした。主のおっしゃるエルサレムでの死についてなど、聞きたくもなかったのです。しかし、マリヤは主そのお方をよく知っていました。マリヤは主を愛していたのです。だから自分にとって最高のものをお捧げしないではいられなかったのです。

 

 私たちは、主に助けていただきたいと思う。主に愛していただきたいと思う。それはよい。けれども、主はあなたに尋ねられるのです。「あなたは、わたしを愛しますか。私のために犠牲を進んで払ってくれますか。」

 あなたはどれほど主を愛しているでしょうか。主イエスの弟子は、主イエスを信じて得をしたといっているだけではいけないのです。主イエスのために損をすべきです。主のために捨てたものがあるべきです。キリスト信仰とはつまるところ、キリストを愛することなのでした。主がどれほど自分を愛して下さったということを知るならば、私たちもまた主を愛さないではいられない。主のために犠牲を喜んではらわないではいられないのです。

 

「主を愛さないものは呪われよ。主よ。来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」1コリント16:22、23                              

 

 

いちじくの木  に学べ

マルコ13:28-37、ルカ21:24、ローマ11:25

                               

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

  13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。

 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。

 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。

 13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。

 13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

 

 

 1.いちじくの木から(28-31節)

 

 日本のシンボルとしての植物といえば、桜でしょうか。古文で花といえば、桜を意味したほどです。では、イスラエルを象徴する植物といえば、オリーブとイチジクとブドウです。ローマ書9章から11章ではイスラエルオリーブの木に譬えられています。他方、いちじくはイスラエルでもっともよく見られる木です。たとえば主イエス自身も先に学んだマルコ11:13で、葉ばかり茂って実がならないいちじくの木を枯らしてしまわれたことがありましたが、それは当時の神殿の建て物や儀式ばかりデラックスでも、悔い改めと信仰のないイスラエルの国の滅亡を意味していました。

 いちじくの木は、枝が柔らかくなり、葉が出てくると、夏の近いことがわかるそうです。枝が柔らかくなり、葉が出てくることが夏の前兆であるように、主イエスがお話しになったもろもろの前兆が起こってきたならば、主イエスの再臨が戸口まで来ていると知るべきです。再臨の前兆について前回学びましたが、復習しておきましょう。「生みの苦しみの初め」と呼ばれる一般的な前兆は、6-8節。

a.自称キリストが現れる。

b.戦争・民族紛争の頻発。

c.方々に地震飢饉が起こる。

 このようなしるしは、陣痛のように寄せては返す波のように現れてきました。そのたびに敬虔なキリスト者たちは、主の再臨が近いと意識したものです。現代でもそうで、状況は甚だしくなりつつあります。格別、人口爆発飢饉はまさに人類が直面している危機です。国連の統計では2025年には世界人口は83億に達すると言われ、その半数以上が飢饉に苦しむことになると予測されています。

 次に、教会と福音宣教に関する前兆は、9-13節。

d.教会は権力から迫害を受ける。そのために、多くの人が主に背いてしまう。

e.福音はすべての民族に宣べ伝えられる。

 

 そして、ここからが今日話題になっている「イチジクの枝が柔らかくなったら」ということに関してです。イチジクの枝が柔らかくなり葉っぱが出て茂り始めるということは、滅んだかと思われたイスラエルの国が復興するということであり、また、彼らがナザレのイエス・キリストに立ち返るということです。これについては聖書の二か所、ルカ21:24とローマ11:25,26を記憶してください。

 「異邦の時」が終わるまで、つまり異邦人伝道が完成するまでエルサレムは異邦人に踏み荒らされます(ルカ21:24)、

「21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」

最後にイスラエルの回復が起こると告げられています(ロ-マ11:25、26)。

11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」

 

 

 というわけで、世界のあらゆる民族に福音が宣伝えられて「異邦人の時」が終わるならば、イスラエルがキリストのもとに立ち返ることになります。今、事実、そのようなしるしが現れつつあるところです。

 1948年イスラエルはまず政治的に国家として回復しました。エルサレムが実質的にイスラエルのものとなったのは、1967年のことです。そしてこの67年以降、ユダヤ人のうちに聖霊イエス・キリストが彼らの待ち望んできたメシアであることを表し始めています。今や、世界に散っているユダヤ人のうち10万人、イスラエル国内に約1万人がナザレのイエスを、彼らが先祖アブラハム以来待ち望んだメシヤと信じるようになっているそうです。そのためイスラエル政府は、「反宣教法」によってこれを取り締まっているのです。

 枯れて死んでしまったかと見えていたイスラエルは枝が柔らかくなってきています。夏が近づいています。

 

 というわけで、このあとに残されている再臨の前兆は、先週お話しましたが、「荒らす憎むべき者」あるいは「滅びの子」「不法の人」と聖書が呼ぶ反キリスト的権力者が出現し、他の一切の宗教を禁じ、自らを神と名乗り、神殿の聖所に自分の座を設けて、自分こそ神であると宣言するということです。

 しかし、「滅びの子」が得意の絶頂にあるとき、主イエスはついに再臨されて、彼を滅ぼしてしまいます。 そして、主イエスは世界の神の民を、ご自分のみもとに集めてくださるのです。そして、最後の審判を行い、新しい天と新しい地に神の民を住まわせてくださるのです。黙示録22章。

 

 どうでしょうか。いちじくの枝はやわらかくなり、葉が出てきているでしょうか。たしかに枝が柔らかくなっていますか。夏は近いでしょうか。戦争と戦争の噂が聞こえます。飢饉地震もあります。世界各地で教会の弾圧もあります。そんな中で、あらゆる民族国語に福音が伝えられています。イスラエル国家は復興し、ユダヤ人の中にキリストに立ち返る人々が起こっています。たしかに、枝はやわらかくなり、今や葉までも見え始めています。主イエスは戸口まで近づいているのです。私たちが生きている時代は、歴史の中でも大変ユニークな時代なのです。

 

 さまざまに不安な要素のある時代の中で、私たちはどのように平安をもって揺るがないあゆみができるでしょうか。揺るぐものを土台とせず、揺るがないものを土台とする生き方をすることです。

31節「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

 どんな偉大な文明も、永久に続くと思われる政権も滅びてきました。永遠のローマと呼ばれたローマも滅びました。その繁栄は過ぎ去ることがないといわれた唐の国の長安の都も滅びました。今は絶対と思われているアメリカもロシアも日本という国も、いずれは滅び去ります。すべてが滅びても、滅びることのないのは、神である主イエス・キリストの御言葉以外にはありません。移りゆく世にあって、揺るぐことのない主の御言葉にしっかりと人生の土台を据えている者は幸いです。あなたの人生の土台は揺るがない主の御言葉に据えられているでしょうか。それとも、この世の移りゆくものに土台を据えているのだろうか。ならば悔い改めて主の御言葉を土台とすることである。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 

 

2.いつ主は来られるのか

 

 「いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」と弟子たちが尋ねたことに対して、主はまず「前兆」について話されました。そして、次に「いつ」についてです。32節から37節

 

 32節が答である。

「13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

主イエスの再臨が何年何月何日であるということは、ただ父なる神だけが知っていらっしゃるのです。だから、消極的には「世界の終わりは何年だ何月だ何日だ」などと教える人々にあおられたり、彼らについて行ったりしてはならない。彼らは偽預言者たちです。「にせキリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(マルコ13:22)とあるとおりです。

 

 では、主の再臨が何年何月何日とわからない私たちは積極的にはどうすればよいのでしょうか。33節。「気をつけなさい。目を覚まし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」いつ主が戻られてもよい生活をすることです。それは、34節に記されています。

 「旅立つ人」とは主イエスのこと。「しもべ」とはあなたのことです。主は私たちにそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせて、天に行かれました。あなたは、今、自分が主から割り当てられた仕事を自覚し、これに忠実に励んでいるかということが主に問われているのです。主人から1タラント与かったしもべ、2タラントあずかったしもべ、5タラントあずかったしもべ、みなさんそれぞれでしょう。いずれにせよ、主を愛し、それをただしく活用することが大事です。

 教会とすべてのクリスチャンには二つの使命があります。

一つは福音宣教の使命であり、

もう一つは社会的責任という使命です。

みなさんが、置かれた持ち場、立場は違っており、働きも違っているでしょうが、それぞれの持ち場と立場において、私たちは福音をあかしする使命と社会的な責任を果たすことです。ご自分の口で福音が伝えられないならば、文書で伝えることもできます。今月も「苫小牧通信」を出しました。そうしていれば、いつ主がお戻りになっても、よくお出で下さいましたとお迎えできるでしょう。ほかの人と比べる必要はありません。自分の持ち場、立場において主にいただいた使命を果たすべきです。

しかし、もし、福音を伝えることもせずにいたら、1タラントのしもべのように土の中にうずめてあるのと同じです。主のお叱りを受けることになってしまいます。ちゃんと伝えましょう。

 

 またあなたの持ち場において、与えられた社会的職務はなんでしょうか。主婦であればその務めを、学生であればその務めを、農業者であればその務めを、会社員であればその務めを主からいただいた職務として自覚し、主に喜んでいただけるように励むことです。「主にお仕えするように」職業をもってしても、これに励むことです。お料理を作るなら、イエス様に食べていただくつもりで作り、自動車を作るならイエス様に乗っていただくつもりで安全にしっかりと作り、おもてなしするなら主イエスをもてなすつもりで、仕事をするのです。病床にあっても、教会のため家族の祝福のために、とりなし祈ることはできます。

もし、そのように励んでいたら、主が来られたときに御前に進んで出ることができるでしょう。あるいは家庭人としては夫として妻として子どもとしてそれぞれの立場において、クリスチャンとしてふさわしく励んでいるならば、主を喜んでお迎えできるのです。

 

 今や、いちじくの枝は柔らかくなり、葉も出始めています。主が再びもどられる日を待ち望みつつ、「勤勉で怠らず、霊に燃え主にお仕えしよう。」                          

神の子どもとして生きる

ヨハネ3:1-12

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

 3:4 罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

 3:5 キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

 3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 3:7 こどもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

 3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

 3:9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

 3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

 3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

 3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。

 

 

 あなたはどんな希望をもって生きていらっしゃいますか。どんな希望を持っているかということが、その人がどのような人格になるかということと関係しています。ある哲学者は、人間以外のものは過去に規定されているが、人間は未来により多く規定されているのだと言いました。金持ちになるということそのものが希望であるならば、その人はそういう人になります。日本を支配する権力者になることが、その人の希望であれば、そういう人格の人になるでしょう。

 クリスチャンとして私たちはどんな希望を持つ者なのでしょうか。

 

1.今すでに神の子ども

 

 まず、使徒は私たちがどんな希望を持つかという以前に、すでに神様がくださっている恵みについて語ります。「私たちが神の子供と呼ばれるために、事実今私たちは神の子供です。」と。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子供です。」と。

 私たちが、希望をもって前に突き進むことはたいせつなことです。目標を目指す生き方はすばらしい。しかし、それだけであれば、私たちは焦燥感に取りつかれたような生き方をすることになります。到達していない目標だけを見て走っているならば、私たちはあるとき疲れ果ててしまいます。どうせ私はだめなんだ、というふうに。

 しかし、使徒ヨハネは言うのです。「今すでに私たちは神の子どもです。」と。私たちが立派になったら神の子どもとしての資格を与えてやろうと神様はおっしゃらない。どうしようもない私たちですけれど、そのありのままの姿を、イエス様の十字架においてまるごと受け止めてくださったのです。内容のともなわない、汚れたふつつかな者ですけれど、そのありのまんまの姿で神様は私たちを子どもとして受け入れてくださったのです。これが、信仰の原点です。

 放蕩息子が帰ってきたとき、父親はどうしましたか。「しばらく反省して、雇い人としてうちで働きなさい。その働きしだいで出世もさせてやろう。また、子どもとして回復もしてやろう。」そう言ったでしょうか。いいえ。あの父親は、豚の糞尿にまみれて垢にまみれた息子をまずありのままの姿で抱き締めてくれたではありませんか。そして、相続人のあかしである指輪をすぐにあの息子にはめてやったではありませんか。

 みなさん。私たちは、どんなに箸にも棒にもかからない者であっても、イエス様を信じ受け入れたその時からすでに神様の子どもにしていただいたのです。これが信仰の原点、土台です。

 

2.キリストに会う希望をもって(2b-7節)

 

 では、つぎに何を希望として私たちは前を向いて生きるのでしょうか。「しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」主イエスにお会いするという希望です。主が再びおいでになる、その主に顔と顔とをあわせてお目にかかるという希望です。そのとき、私たちはキリストに似た者となるという希望です。

 あなたは、この希望をありありと心に思い描いたことがあるでしょうか。

 希望はまだ到達していないからこそ希望です。すでに得てしまったのであれば、それは希望ではありません。私たちは、主イエスにお会いする、主イエスに似た者としていただくことを前に見て走るのです。

 イエス様に顔と顔とを会わせてお会いするという希望をありありと胸に抱く人は、イエス様のように清くなりたいと願うものです。3節。主がこられたとき、恥ずかしいことをしてはいられません。罪のなかに浸り切っているわけには生きません。正義のために生きようとし始める者です。4-7節。

 

3:4 罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

 3:5 キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

 3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 3:7 こどもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

 

 

 これを聖化といいます。クリスチャンが地上であずかる恵みはたくさんありますが、それを義とされること、子とされること、聖とされることとまとめて言います。義とされ子とされることは、悔い改めてイエス様を救い主として信じ受け入れた瞬間にいただいたものです。一回的な恵みです。

 一方、聖とされることは主イエスの再臨のその時まで、生涯、継続的になされていくことであります。それは波があるかもしれません、三歩進んで二歩後退ということもあるかもしれません。けれども、クリスチャンのうちにあって聖化は継続的に進められていくのです。

 今ひとつ義認ということと、子とされるということと、聖化の恵みの違いがあります。それは、義と認めること、子とすることというのは、神様がただ一方的になさることです。私たちが、義であるから義と認められるのではなく、ただ一方的なのです。私たちが子としてふさわしい品性を身につけたから子とされたのではなく、ただ子として迎えられたのです。しかし、聖とされることは、クリスチャンの自覚がともなって進められるのです。イエス様にお会いする日のことを、心に自覚的に希望して生きるというクリスチャンの自覚的な生き方。聖書を読み、お祈りをし、礼拝を捧げ、御言葉に日々したがおうと努めるという自覚的なことを通して聖化は進められるのです。

 

3.神の子どもの印(8-12節)

 そして、ここに神の子どもと悪魔の子どもとの識別問題が出てきます。ヨハネがここで言う神の子どもの印とは二つです。ひとつは正義を行うことであり、もうひとつは主にある兄弟姉妹を愛することです。

 

(1)正義を行う

 この手紙の背景として、反キリスト問題があったのです。背景にあるグノーシス主義キリスト教異端には、罪を犯しても問題なしとする人々がいたそうです。グノーシス主義というのは善悪二元論の宗教でした。物質(肉体)は悪、精神は善という二元論でした。そして、物質と精神は、まったく別々のものであるから、いかに肉体をけがしても精神はけがれないというのです。だから、不品行・姦淫など肉体的にいかにけがらわしいことをしていても、平気であるというのでした。

 ヨハネは率直にいうのです。「罪のうちを歩む者は悪魔から出たものです。」罪のうちを歩むというのは、罪のなかを右に行き、左に行き、何をするにしても罪ばかり犯しているということです。罪を犯すことをなんとも思っていない。当然のことと思っているのです。

 しかし、9節「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むおとができないのです。そのことにおって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。」

 義のうちを歩むとは、常習的に義を行うということです。もちろん、先にヨハネはクリスチャンであっても罪を犯してしまうと言いました。「もし罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」と言いました。けれども、しかしイエス様を信じたならば、生活のベースが変わるのです。義をベースとして生きているか、罪をベースとして生きているかという違いがあるのです。

 イエス様を信じるとは、豚が猫になるようなものです。豚はきれいにしてやってもすぐに泥の中を転がり回ります。しかし猫はかりに泥を浴びてもすぐに、飛び出してきれいにしようとするものです。神の子どもになったときから、人は罪のうちに常習的にいることができなくなってしまうのです。それまでは楽しいと思っていた罪のたのしみが、つまらなく、あるいは苦痛になってきます。そして、それまで価値がないと思っていた神様についてのことにたいへん関心深くなってくるのです。その人のうちに神様の種である聖霊が住まわれるからです。肉と御霊のたたかいを経験するようになりますが、かりに肉の力に矢ぶれて罪を犯すと当面は楽しくてもやがて心ふさぎますし、御霊に従って義をなしえたときは当面はたいへんでも心は晴れやかになります。

 これが神の子どもとされた人のしるしです。義をベースとして生きるようになるということです。

 

(2)兄弟姉妹を愛する

 10節b-12節

 神の子どものしるしの第二は、主にある兄弟姉妹を愛するということです。

3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

 3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

 3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。

 

 

ときどき観念的な信者に、「信仰は神様と自分とのことであって人のことは関係ない」という人がいます。部分的には真理を含んでいます。クリスチャンの友と自分を比べて優越感や劣等感におちいるのは意味のないことです。けれども、主イエス様は真の信仰の実は、神様への愛とともに隣人への愛に現れるとおっしゃるのです。格別、神の子どもの印としての隣人愛というときヨハネの手紙が焦点にしているのは、ともにイエス様を信じている仲間、つまり主にある兄弟姉妹への愛です。

 肉親の兄弟というものは同じ親から生まれたものとして、不思議な慕わしさ親密さというものを持っているものです。もちろんそれが育てられ方や本人の責任など歪んでしまっている場合もあります。しかし、それにしても他人のようにはしていられない。気になる。それは同じ親から生まれた者だからでしょう。

 イエス様を信じて救われた私たちお互いは、神様から霊的に生まれた子供です。ですから、兄弟姉妹です。ですから、そこには他の人たちとの関係にはない慕わしさ、愛というものが生じてくるのです。主にある兄弟姉妹を愛するということは、いたって自然なことなのです。同じ父から生まれた子供であるからです。

 兄弟愛、これが神の子どもとしての印の二つ目です。                                      

結び 私たちは主イエスを信じてすでに神の子どもとされました。そして、主イエスにお会いする希望をもって義を行い、たがいに愛し合って歩んで参りましょう。            

前兆

Mk13:3-27

                              

序 

 弟子たちがヘロデ大王の立てた神殿の巨石に目を奪われているのに対して、主イエスは「この大きな建物を見ているのですが。石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してないよ。」と、おっしゃいました。弟子たちはギョッとします。巨大な建造物の威容を見ると、私たちは圧倒されてしまうものですが、ニューヨークの世界貿易センタービル原子力発電所が崩壊して、これらのものも永遠ではないことを私たちも知りました。

 主イエスは、エルサレムを出てその東にあるオリーブ山にすわって、エルサレム神殿に向かっていらしたのです。その神殿の行く末とさばきの日のことを思っていらしたのでしょう。弟子たちは、先程聞いた主イエスのおそるべき預言、ヘロデ神殿が崩されてしまうときについてもっと詳しく聞かせて下さいとお願いします。4節。

13:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」

 そこで、主イエスは、ヘロデ神殿崩壊について前兆をお話になるのです。その予告は、当面はローマ軍による紀元70年の神殿破壊を意味しています。しかし、預言の最終的な到達点が主イエスの再臨にあることを見ると、70年のエルサレム崩壊だけでなく、究極的にはこの世界の終わりの時における主イエスによる審判のことを意味していることがわかります。24-27節。

13:24 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、

 13:25 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

 13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 

 再臨の前兆は三つの段階にわけて記されています。第一段階は5節から8節の「産みの苦しみの始め」、第二段階は9節から13節で「教会と福音についての前兆」、そして第三段階は14節から23節で「荒らす憎むべき者」の登場。そして24-27節で主イエスの再臨です。

 

1.産みの苦しみ

 

 主イエスは、主イエスの再臨・最後の審判・新天新地にいたるまでの出来事を「産みの苦しみ」と表現なさいました。なぜでしょうか?二つ理由があります。

 第一は、産みの苦しみのゴールが子供が生まれたという、この上ない喜びであるように、再臨の前兆における教会とキリスト者が経験しなければならない苦しみのゴールは、主イエスの再臨と新天新地というこの上ない喜びなのです。「終末論」ということばは、どういうわけか暗くておどろおどろしいイメージが強いのかもしれませんが、本来終末とは神の国の完成なのですから、これは輝かしい日なのです。 

 主イエスが再臨の前兆を産みの苦しみと表現なさった第二の理由は、陣痛が寄せては返す波のように何度も何度も訪れた後に、ようやく赤ちゃんがオギャアと生まれるように、いよいよ再臨なのか?と思わせる前兆は、歴史の中で何度も現れて、それからついに主のご再臨があるということを意味しています。マルコ13章において主イエスがお話になった前兆のようなことは、初代教会の時代において起こりましたが、主の再臨はまだでした。また、歴史の中でも幾度か起こってきました。そのたびごとに、キリスト者たちはいよいよ再臨かと思いましたが、まだでした。そして、現代もここに見るような再臨の前兆と思われることは起きています。

 神は歴史の中で、このように前兆を繰り返し見せることによって、キリスト者たちに、自分の生きている間に主が来られると意識させることを意図していらっしゃるのかもしれません。使徒パウロも自分の目が黒いうちに、主が再臨なさると信じて宣教に励みました。

 1テサロニケ4:15 「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」

 パウロが間違ったということではありません。逆に、私たちはパウロの再臨信仰に学ぶべきだということです。

 

2.世界的な前兆(生みの苦しみの始め)

 

 5節から8節は世界的なひろがりにおける生みの苦しみの始めとしての前兆です。三つあります。 第一は偽預言者、偽キリストの出現です。5、6節。

13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

 13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

彼らについては21、22節でも語られています。

13:21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。

 13:22 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。

 

「私こそまことの預言者である」と名のる人々が出現するのです。初代教会時代、 偽預言者たちが現れたことが黙示録7章の七つの教会に記されています。エペソ教会にはニコライ派、ペルガモ教会にはバラムの教え、テアテラ教会にはイゼベルという偽教師が現れたと書かれています。

古代教会は2世紀前半「私こそメシヤである」と名乗る偽キリストも経験しました。彼はローマ帝国に反旗を翻して第二次ユダヤ戦争を指導し自らシメオン・バル・コクバ「星の子」と称し、自らをユダヤ民族のメシヤとしました。ほんの一時期バル・コクバはイスラエルの主権を回復しましたが、ほどなくローマ帝国軍によってエルサレムは陥落させられ、イスラエルは徹底的に敗北し再起不能となりました。

その後の神の民の歴史の中でも、偽キリストと見なされる人々が出てきました。16世紀、宗教改革の指導者たちはローマ教皇権こそ反キリスト、不法の人、滅びの子であると認定していましたし、17世紀のウェストミンスター信仰告白にもそのように告白されています。事実、当時のローマ教皇庁の権力主義と腐敗は目に余るものがありました。また、18,19世紀のヨーロッパの著述家たちはヨーロッパを席巻したナポレオン・ボナパルトが反キリストであると記しています。また、現代史の中で反キリスト的人物の代表格といえば、アドルフ・ヒトラースターリンが挙げられるでしょう。

 今日、自分をキリストであると名乗る人々が世界中に現れています。先年死んだ統一協会の教祖文鮮明もその一人でした。インドにもアフリカにも朝鮮にもアメリカにもそして日本にも。

 

 第二の「生みの苦しみの始め」は7節、8節。戦争、民族紛争が世界中で頻発することです。

13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。

 ローマ帝国が弱体化してくると、帝国のあちこちで独立戦争が起こってきました。こうしたことは歴史のなかで何度か起こりましたが、二十世紀の終わりになって、そして東西冷戦が終わりを告げてから、世界各地で民族紛争が頻発していることはご承知のとおりです。

 

 第三の「生みの苦しみの始め」は8節後半にあるように、方々に地震があり、ききんも起こるということです。ルカの平行記事では、疫病の蔓延も加えられています。これもローマ帝国末期にも頻発したことでした。戦争、天変地異と飢饉と政情不安はセットです。

現代に生きる私たちも、世界各地の地震のニュースを聞く時、私たちは主が再び来られる日が近いことを意識します。また、世界の人口は、国連の統計によれば、 1800年には9億。1950年には24億。1995年には57億。現在、世界人口の5億余りが食べ過ぎ状態。20~30億がおおよそ食べ物が足りている状態。そして、10億人~15億人の人々が栄養不良ないし飢餓状態にあります。それが2025年に83億に達すれば36億~41億が栄養不良ないし飢餓に陥ることになります。世界各地の民族紛争は食料の争奪戦なのかもしれません。

 私たちの生きているこの時代にも、世の終わり、主の再臨の前兆はたしかに表れています。

 

2.教会にかかわる前兆

 

 続いて、主イエスは特に教会にかかわる前兆を3つ語られます。

 第一はキリスト教会が迫害されることです。9節。

 13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。

 第二は福音があらゆる民族に宣べ伝えられることです。10節-11節。

 13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。

 13:11 彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

 

 第三は激しい迫害の結果、大規模な背教が起こることです。12節。

 13:12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。

 教会は初代教会からコンスタンティヌス大帝の回心までの間、激しい迫害の下に置かれていました。世界中に福音が伝えられていけば、サタンもまた死力を尽くして伝道者たち、キリスト者たちを迫害しました。

 日本でも江戸時代から明治の最初の時期、キリスト教会は世界に類例がないほどに厳しく弾圧されました。 近現代でいえば、共産圏ソ連、東ヨーロッパ諸国でのキリスト教会の弾圧は非常に厳しく多くの人が犠牲になりました。中国が共産化したとき、宣教師たちはことごとく国外追放にされ、その宣教師たちが日本に一時退去というつもりで日本で伝道しました。苫小牧福音教会も私の神戸の教会もそうです。しかし、多くの中国人の伝道者たちは処刑されたり、強制学習収容所に入れられてしまいました。今でも、中国では厳しくなったり緩くなったり波はありますが、弾圧は続いています。

 JEAはクリスチャン新聞に「今世紀は教会への迫害の世紀である」と発表しました。世界各地の民族意識民族宗教の高まりとともに、キリスト教会に対する迫害が頻発するようになっています。中国、北朝鮮などの共産圏、インドネシアイラク、イランなどのイスラム圏、タイ、ネパールなどの仏教圏。ISの人々がエジプトでクリスチャンたちを捕まえて処刑するといったことも起こっています。

 そして最近ではイスラエルイスラエル国内にユダヤ人からの改宗者がここ十年で激増して1万人に達していますが、これに対してネタニヤフ政権以来の「反宣教法」によれば、新約聖書をただ所持しているだけで懲役1年の処罰が課せられるのです。

 福音が世界の民族に宣べ伝えられるということは、ほぼ達成されました。そして異邦人への宣教が完成したとき、最後にイスラエルの約束の地への回復(ルカ21:24)と霊的回復が起こると聖書が予告したとおりになってきているのです。約束の地への政治的回復は1948年に実現しました。そして霊的な回復が今起こりつつあるところです。ローマ11:25、26「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなるときまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるということです。」

 以上のように、すでに教会と福音に関するしるしも今私たちが生きているこの時代に、現れています。

 

3.荒らす憎むべき者の出現とさばき(14節-23節)

 

 13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。 13:15 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。 13:16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。 13:17 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。 13:18 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。

 13:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。 13:20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。 13:21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。 13:22 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。 13:23 だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。

 

 前兆として最終段階にあたるのは、「荒らす憎むべき者が自分の立ってはならない所に立つ」ということです。「荒らす憎むべき者」とは何か?これは2テサロニケの手紙では「不法の人」「滅びの子」とも呼ばれ(2テサロニケ2:3-10)、黙示録13章では「獣」と呼ばれています。

 この「荒らす憎むべき者」は「すべて神と呼ばれる者、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く挙げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(2テサ:4)とあります。おそらく彼は、悪魔のような天才的な政治手腕で世界を食糧危機・民族紛争の頻発などの危機的状況から救い、世界中の人々の崇拝を受けるようになるのでしょう。そうすると、彼はあらわし神殿の中に自分の座を設けて、「我こそは神なり」と主張して、その他のあらゆる宗教を禁止するというわけです。

 もちろん、「荒らす憎むべき者」に対する反対者は迫害を受けることになります。その迫害はたいそうひどいもののようで、「その日は、神が天地を創造された始めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、御自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。」とあります。

 その時には、世界的なキャンペーンがなされて「ついにキリストが来られた」といって「荒らす憎むべき者」を持ち上げる大集会が世界中で開催されることでしょう。21節。衛星放送で彼が神と宣言する式典がテレビ中継がなされるでしょう。テレビでも映画でもインターネットでも「荒らす憎むべき者」は輝かしいスター、世界の救世主として喧伝されるでしょう。ちょうど、ナチスの時代のヒトラーを国民が挙げて崇拝したように、かつて中国で毛沢東が崇拝され、北朝鮮でかつて金日成が崇拝されたように。要するに、この荒らす憎むべき者というのは、終わりの時代に出現した多くの偽キリストたちの最終決定版というわけです。彼は政治権力・宗教的権力の療法を兼ね備えた天才で、サタンの働きによって登場したものです。

 彼は世界中があっと驚くような「しるしと不思議」を行います。(マルコ13:22、2テサ2:9、黙示録13:13-15)また、その時代にはこの「荒らす憎むべき者」(不法の人、滅びの子、獣)を拝んで、その数字である666の登録をしない者は経済機構から締め出されることになります(黙示録13:16-18)。

 

4.キリストの再臨

 

 しかし、この「荒らす憎むべき者」が自らを神として得意と傲慢の絶頂に達したとき、主イエスが栄光の雲の輝きのうちに再臨なさります。その前兆として天体に異象が現れます24、25節。

 13:24 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、

 13:25 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 

 そして、主イエスは栄光を帯びて再臨なさるのです。そして、荒らす憎むべき者は主の御口の息と栄光の輝きで滅ぼされてしまいます(2テサ2:8)。そして、世界中から神の民を集められるのです。主の再臨の前に死んだ人は復活し、その時まで生きている私たちは、主イエスの御座の前に引き揚げられることになります。

 こうして最後の審判が行われることになります。主イエスの御名を信じ従う者は永遠の御国を相続し、御名を信じない者には永遠のゲヘナの炎が用意されています。

 

結び

 偽預言者たちが出現し、民族紛争の頻発を見、地震が頻発しつつあり、世界的飢饉が到来しよううとしている現代。また、教会への迫害と、世界の民族への福音が完成し、イスラエル民族の改宗が起こりつつある今という時代は、すでに「生みの苦しみ」の時代から「教会と福音の印」の時代へと移ってきていることがわかります。世界的危機のなかで「荒らす憎むべき者」がいずれ登場するでしょう。そして、主イエスが再臨されます。目をさまして、神様を第一とする主の弟子としての歩みをし、主の再臨を喜びお迎えできるようにしたいと願います。あなたは主をお迎えできる生活をしていますか。そうでなければ、悔い改めて主を見あげましょう。「主よ。来て下さい。マラナ・タ!」