水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

「ヨブが待ち望んだ方」            

ヨブ記9章32、33節。16章19-17章3節。19章25-27節

                                        

 「悪者が世にはばかり、正しい者がどうして苦難に遭わねばならないのか。神が正義ならばどうしてこんなことが起こるのか。」これは多くの人が胸に抱く人生の謎です。ヨブ記はまさにそのテーマに貫かれています。ヨブは、その答えを神に執拗に問い求めます。それが、ヨブのメシヤ待望となって行きます。

 一章と二章でヨブの人について、神様は「彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている。」と三度もことばを重ねていらっしゃいます。そんなヨブがサタンの試みによって一時に全財産を失い、十人の愛する子どもたちを失い、さらに、自分のからだも足の裏から頭のてっぺんまで悪性の皮膚病で打たれるという苦難を経験することになりました。

 さらにヨブは妻に「神をのろって死になさい」と言われて孤独に陥りました。けれども、彼には敬虔な友人たちがおりました。彼らはヨブの受けた苦しみを聞いて、はるばるやって来たのです。仕事もしばし打捨てて来てくれました。彼らはヨブの悲惨を七日七夜悲しみました。しかし、これほどの最良の友人たちでさえ、ヨブにとっては真の理解者ではありませんでした。

 

1.友人たちのヨブについての見方

 

 ヨブは自分の生れた日を呪います。余りの苦しみのなかで、「こんなに苦しまねばならないのであれば、いっそのこと自分は生れてこなければ良かった」というのです。三章一から三節。3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。

 

 3:2 ヨブは声を出して言った。

 3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。

   「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。

 3:4 その日はやみになれ。

   神もその日を顧みるな。

   光もその上を照らすな。

 

 ヨブのことばに、友人エリファズは黙っておられなくなって、ヨブに反論します。

 

4:7 さあ思い出せ。

   だれか罪がないのに滅びた者があるか。

   どこに正しい人で絶たれた者があるか。

 4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、

   害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。

 4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、

   その怒りの息によって消えうせる。

 

エリファズの趣旨は、「何かヨブよ、心に思い当る悪事はないのか。これほどの災難にあっているのは、お前がなにか悪事を行なったからではないのか」ということです。。

 詰まる所、エリファズのヨブへの反論は、「ヨブが悪事をなしたから、神がヨブを懲らしめておらるのだ」ということです。

 

 次に、シュアハ人ビルダデがヨブに反論するのですが、これもエリファズと趣旨は同じです。

 

8:2 いつまであなたはこのようなことを語るのか。

   あなたが口にすることばは激しい風のようだ。

 8:3 神は公義を曲げるだろうか。

   全能者は義を曲げるだろうか。

 8:4 もし、あなたの子らが神に罪を犯し、

   神が彼らを

   そのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、

 8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、

  全能者にあわれみを請うなら、

 8:6 もし、あなたが純粋で正しいなら、

   まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、

   あなたの義の住まいを回復される。

 8:7 あなたの始めは小さくても、

   その終わりは、はなはだ大きくなる。

ビルダデのことばはやはり、それ自体としては誤っていません。

 

 ツォファルもヨブに悔い改めを勧めます。「神は不真実な者を知っておられる。神はその悪意を見て、これに気付かないであろうか。・・・あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、あなたは必ずあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。」(十一章十一、十三、十四、十五)

 エリファズ、ビルダデ、ツオファルのヨブへの戒めは、同じ主旨でそれぞれ二回なされます。けれども、あくまでもヨブは自分の正義を言い立ててやまなかったのです。たとえば・・・

 

6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。

   私がどんなあやまちを犯したか、

   私に悟らせよ。

 6:25 まっすぐなことばはなんと痛いことか。

   あなたがたは何を責めたてているのか。

 6:26 あなたがたはことばで私を責めるつもりか。

   絶望した者のことばは風のようだ。

 6:27 あなたがたはみなしごをくじ引きにし、

   自分の友さえ売りに出す。

 6:28 今、思い切って私のほうを向いてくれ。

   あなたがたの顔に向かって、

   私は決してまやかしを言わない。

 6:29 どうか、思い直してくれ。

   不正があってはならない。

   もう一度、思い返してくれ。

 

そこで、かれら三人はヨブを説得することばを失い、沈黙してしまいます。

 そして、最後に若者エリフが登場して、戒めるということになります(三十二章以下)。けれど、三人の友人たちも、若者エリフも、色々と言葉を変えて論じ立てますが、その言わんとするところは同一です。ヨブは自分を正しいとしている。しかし、実はヨブには罪がある。だから神は正義のみ手をもって、ヨブを打たれたのだ。要するに、「ヨブよ、あなたにはバチがあたったのだ。謙遜になれ」ということです

 三人の友と第四の若者エリフの論じることは、つまり教え・理屈としては標準的で正しいものです。「神は正しいお方であり、私たちの人生を摂理しておられる。そうして、私たちが高ぶったり罪を犯したりするときに、神は私たちを懲らしめられる。それは、私たちが再びへりくだって神のもとに立ち帰るためである。」

しかし、教えとして正しいということと、それを誰に適用するかということは別のことです。もしこの友人たちが、普通の人を責めたならば、彼らの主張は正しかったでしょう。けれども、三人の友人とエリフの間違いは、これをヨブに当てはめたことでした。ヨブは神御自身が「潔白で、神を恐れ、悪から遠ざかっている」と認めた人物でした。ヨブには彼らが邪推するような隠れた不正はなかったのです。ですから、ヨブ記の末尾で、神様は友人たちを責めています。ヨブ42:7

 

さて、【主】がこれらのことばをヨブに語られて後、【主】はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

 

 

2.ヨブが求めたもの---苦難の意味

 

 では、ヨブは苦悩のなかで一体何を求めていたのでしょうか。ヨブは病の癒しを求めているのでしょうか。あるいはヨブは、「失った子供を、財産を返してくれ!」と言っているのでしょうか。いいえ違います。6:8-10

 

 「ああ、私の願いが叶えられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。私を砕 き、み手をのばして私を絶つことが、神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに 慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりしてよろこぼう。私は聖なる方のことばを 拒んだことがないからだ。」

 

  ヨブが求めていることは、この苦難の意味、その理由でした。彼は納得したかったのです。もし自分が罪を犯し、神がそれを懲らしめておられるならば、ヨブは納得できました。もし自分が罪を犯したならば罰にも甘んじますというのです。しかし、ヨブにはどう考えても、思い当る節がありませんでした。ヨブは知りたかったのです。苦しみの理由を知りたかったのです。潔白で、神を恐れる人も、苦難にあわねばならないことがある。悪をなす者たちが栄えて、神を恐れる者が苦難のなかにあえぐこともあるのはなぜか?これがヨブの問うところです。

 

 

3.ヨブが見いだしたこと--神と人との無限の隔り

 

 ヨブは友人たちと議論を繰り返しているなかで、人にいかに訴えても空しいことに気づきます。地上の人はどんなに素晴らしい友人であっても、だれ一人として自分を理解してくれないとわかってきたのです。そこで、ヨブはもはや友人に向かってではなく、神に向かって叫び始めます。

 

7:17 人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、

   これに御心を留められるとは。

 7:18 また、朝ごとにこれを訪れ、

   そのつどこれをためされるとは。

 7:19 いつまで、

   あなたは私から目をそらされないのですか。

   つばをのみこむ間も、

   私を捨てておかれないのですか。

 7:20 私が罪を犯したといっても、

   人を見張るあなたに、

   私は何ができましょう。

 

しかし、神は沈黙されたままでした。神の沈黙を前にヨブは悟ります。神と自分とがどんなに遠く隔たった存在であるかということを。神は造り主であって、自分は土から作られた器にすぎないということを。神と人との質的な違いを。神と自分との間には、だれも飛び越えることのできない深淵があることを知るのです。全宇宙を創造し支配される神は無限の全能者であり、人はちりにすぎないことを悟るのです。10:1-9。

 

 10:1 私は自分のいのちをいとう。

   私は自分の不平をぶちまけ、

   私のたましいの苦しみを語ろう。

 10:2 私は神に言おう。

   「私を罪ある者となさらないように。

   なぜ私と争われるかを、知らせてください。

 10:3 あなたが人をしいたげ、御手のわざをさげすみ、

   悪者のはかりごとに光を添えることは

   良いことでしょうか。

 10:4 あなたは肉の目を持っておられるのですか。

   あるいは、人間が見るように、

   あなたも見られるのですか。

 10:5 あなたの日々は人間の日々と同じですか。

   あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。

 10:6 それで、あなたは私の咎を捜し、

   私の罪を探られるのですか。

 10:7 あなたは、私に罪のないことを知っておられ、

   だれもあなたの手から

   救い出せる者はいないのに。

 10:8 あなたの御手は私を形造り、造られました。

   それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。

 10:9 思い出してください。

   あなたは私を粘土で造られました。

   あなたは、私をちりに帰そうとされるのですか。

 

神と人とは絶対的にへだたっています。神は全知全能の支配者です。 しかし、人は神の御前にあっては無知無能のちりにすぎません神は永遠から永遠にいますお方です。しかし、人は朝のあいだしばらくあっても日が上ると消えていく露にすぎません神は創造者です人は被造物にすぎません神は無限です。人は有限です

 絶対者と自分との間に横たわる深淵を前に、ヨブは恐れおののいているのです。ある古代の神学者が言いました。「我々が神を理解しようとすることは、かぶと虫が我々人間を理解しようとすることのようだ。」と。

 

4.ヨブが見いだした希望--神と人との仲保者

 

 しかし、ヨブはこの絶望の暗黒のなかで、かすかな希望の光をチラリと見始めます。初めは失望の嵐に閉ざされるのですが、その光が段々と輝きを増してくるのです。最初に、九章三十二節、三十三節

 

9:32 神は私のように人間ではないから、

   私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」

   と申し入れることはできない。

 9:33 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が

   私たちの間にはいない。

 

これは、「神と人との間を取り持つ仲裁者」がいないものかという、失望と希望とがないまぜになった言葉です。いや、ここではまだ「そんな仲裁者はいない」という失望のほうが勝っています。

 しかし、なおも神に叫び続け、友人に責め立てられるうちにヨブはさらに強い光を注がれます。あの最も親しい友人たちまでが、ヨブには隠された悪事があるのだろう。それを改めねば、君は神に振り向いてもらえないと言い立てます。かつて三人とも地上ではどんなときでもヨブの保証人となり、ヨブの側に立って弁護してくれたこの三人の友人たちが、今やヨブを責めたてる検察官です。

地上に誰一人自分を弁護してくれるもののいないことに気付いたヨブは、天に目を注ぐのです。十六章十九節から二十一節。十七章三節

 

16:19 今でも天には、私の証人がおられます。

   私を保証してくださる方は高い所におられます。

 16:20 私の友は私をあざけります。

   しかし、私の目は神に向かって涙を流します。

 16:21 その方が、人のために

   神にとりなしをしてくださいますように。

   人の子がその友のために。

17:3 どうか、私を保証する者を

   あなたのそばに置いてください。

   ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。

 

先に、仲裁者はいないと失望していたヨブは、ここにひとつの確信を表明するのです。いや、「必ず『天には私の証人』がおられるのだ。」

 神はこのヨブの苦悶の内の叫びのうちに天のキリストを啓示し始めたのです。

 ヨブは切望します「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、そのみ座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べ立て、ことばの限り討論したい。」(二十三章三、四節)しかし、いかにそれを切望しても、ちりにすぎぬ人が、どうして神のもとに上れるでしょう。たとえ天に証人がいるとしても天はあまりにも遠い。地上にうごめく虫に過ぎぬ人間が、どうしてはるかな天の御国の法廷に、自分の訴えを述べられるでしょうか。

 しかし、さらに、強い光にヨブは照らされます。十九章二十五節から二十七節

 

19:25 私は知っている。

   私を贖う方は生きておられ、

   後の日に、ちりの上に立たれることを。

 19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、

   私は、私の肉から神を見る。

 19:27 この方を私は自分自身で見る。

   私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。

   私の内なる思いは私のうちで

   絶え入るばかりだ。

 

 私を贖う方は、はるか遠くに留まりたまわない。私を贖う方、私の天の保証人、私と神との仲裁者は、天のみ座を捨ててついに地に立たれる。そうして、やがて復活の日、私はこの目で、このお方を見るというのです。

 

結び

 四千年前、苦難の義人ヨブの待ち望んだ神と人間との間を取り持つ保証人は、その二千年後、地上に来てくださいました。神と人間との仲介者となる資格のある方とはどんな方でしょうか。それは、神であられながら人となられた私たちの救い主イエス・キリスト以外にはありえません。

 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト、イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」第一テモテ二章五節

 正しい者がなぜ苦しまなければならないのか。ヨブはその答えを地上にあったときには、知らされることはありませんでした。しかし、今、私たちには義人ヨブの苦しみは、彼が待望したお方、罪なき神の御子の十字架を指差すためであったと示されているのではないでしょうか。とすれば、ヨブは御許に引上げあられた日に、自分の苦難の意義を悟らされて、その光栄を覚えてひれふして御名を崇めたことでしょう。

人生を溢れる泉に

ヨハネ4章3節から28節

2019年8月18日 苫小牧主日伝道礼拝

 

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キリスト時代のパレスチナ

1.サマリヤを通って行かねばならなかった

 

(1)ユダヤ人とサマリヤ人

 おはようございます。台風一過です。今朝は、とくに入門者の方にわかりやすいお話をということで、イエス様がサマリヤの女に会いに行かれた箇所からお話をします。その冒頭に次のようにあります。

3**,ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

4**,しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 

 当時、パレスチナヨルダン川の西側は大まかに言って三つの地方に分けられます。北にガリラヤ地方、真ん中がサマリア地方、南がユダヤ地方です。そして、ヨルダン川の東側に長細くペレア地方があります。イエス様はもともとガリラヤの人ですがユダヤ地方に伝道に来られていて、その仕事が終わったので、ガリラヤ地方へと行こうとしていました。普通に考えれば、ユダヤからガリラヤに行くなら、サマリヤ地方を通って行くわけですが、当時のユダヤ人たちはあえてサマリヤ地方を通るのを避けて、ヨルダン川を東に渡ってペレヤ地方を通って行くのが普通でした。ユダヤ人たちは、サマリヤ人とはもともとはともにアブラハム・イサク・ヤコブを先祖とする親戚同士の民族でしたが、ある歴史的・宗教的な理由で、彼らを差別し、交際しないようにしていたからです。ユダヤ人たちは、自分たちは神の選民としてふさわしい純血種であるが、サマリヤ人たちは歴史的経緯から異邦人の血が混ざっていると軽蔑したのです。 後ろの方に、この女が「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と言っているでしょう。礼拝する場所も違っていたわけです。

 イエス様はユダヤ人でしたが、このとき、あえて、「サマリヤを通って行かなければならなかった」というのです。ここに「通っていった」でなく、「通って行かなければならなかった」という、とても強い表現がもちいられています。これは神のご計画であったという意味の表現です。それはいうまでもなく、この一人の女性に会うためでした。

 

(2)サマリヤの女

 イエスさまがサマリヤの女に会わねばならなかったのには二つの理由があります。第一は、真理・永遠のいのちは民族や国の垣根をこえて与えられることを示すためでした。彼女は差別を受けていたサマリヤ人でした。ユダヤ人は、サマリア人を神の祝福から遠い民であると考えていたのです。けれども、エス様は、神からの真理、永遠のいのちの祝福は、そういう民族の垣根を越えた普遍的なものであるということを、この行動をもって明らかにされたのです。

 ときどき、「日本人なのだから仏教です。欧米の宗教は要りません。」という人がいます。それなのに、その人が洋服を着ているので、「ではなぜ、あなたは日本人なのに着物を着ないのですか。靴など履いているのですか。」と訊いたら、「いや、洋服と靴のほうが便利だし、着物と草履や下駄では車の運転もできないので。」と言います。ユダヤ人であろうと、サマリヤ人だろうと、アメリカ人だろうと日本人だろうと、韓国人だろうと、良い物はよいのです。そのように、真理というものは、民族も国語も超えて普遍的だから、真理なのです。

 なぜ日本人にキリストの福音を伝えなければならないのか。きわめて単純に言えば、仏教では死後、決して天国や極楽に行けないからです。なぜならお釈迦さん自身、死後のことに無関心だったからです。原始仏典『阿含経』に、お釈迦さんをマールンクヤプッタという哲学青年が訪ねて来た記事があります。マールンクヤプッタは、おシャカさんに死後のいのちのあるやなしやについて質問しました。すると、おシャカさんは何も答えませんでした。お釈迦さんは人間には死後のことはわからないとしたのです。おシャカさんはこの世において、いろいろ苦しいことの中で平穏な心持で過ごすか心の持ちようを教えたのです。(死後の救いを教える仏教はシャカ没後600年ほど後の発明です)しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。誰もわたしを通して出なければ父の御許(天国)に来ることはありません。」とおっしゃいました。それは、イエス様だけが、父なる神のひとり子だからです。

 

 イエス様がサマリアの女にわざわざ会いに行かねばならなかった第二の理由は、神様は罪深い人も救ってくださることをあきらかにするためでした。イエス様がサマリアの「ヤコブの井戸」の傍らに座っておられたのが第六時だった、とあります。井戸は町内に一つの共同井戸です。

6**,そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

「第六時」というのは、今でいう正午、じりじりと太陽が照り付ける真昼間のことです。この真昼間にこの女性は水を汲みにきたのです。だれもが朝早くまだ涼しい時間に水を汲みに来るのですが、彼女は誰も外出していない真昼間に来たのです。人目を避けるためです。彼女はあの男、この男、また別の男・・・というように、五人の男を渡り歩いて、今は六人目の男と同棲しているというふしだらな女でした。「この人ならあたしを幸せにしてくれる」と思って結婚したけれど、満足行かなくて離れてしまい、しばらくは一人でいましたが、別の男を見つけると「この人こそ、あたしを愛してくれるわ」とくっついたのですが、結局、破綻してしまい、「もう結婚はこりごりだわ」と思うのですが、またしばらくすると所在なく、また別の男に・・・ということを繰り返してきたのです。そんな自分はどんなふうに町の人たちから見られているのだろうと思うと、彼女は人目を避けて生活するようになっていたのです。

 けれども、そういうサマリヤの女にイエス様はいのちの水について語り掛けたのです。イエス様は、ある時おっしゃいました。「健康な人に医者は要らない。病人には医者が必要です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです」と。

 

2.人間が与える水、その限界

 

 イエス様とサマリヤの女の問答が始まります。まず、弟子たちは町に食べ物を手に入れるためにいなくて、イエス様だけです。イエス様は話のきっかけを作るために水を求めました。

7**,一人のサマリアの女が、水を汲み来た。エスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 すると、女はちょっと反発するように言いました。

9**,そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。

 

 いつもユダヤ人は私たちを差別しているくせに、水が欲しいのかい、というのです。

 すると、イエス様は、物質としての水の話から、生ける霊的な水に話題を転じて、「自分はあなたにいのちのを与えるために来たんだよ」とおっしゃいます。

10**,イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 「生ける水」というのは、エス様を信じる者に神様が与えてくださる聖霊を意味しています。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」とあるように、聖霊を受けると、人は神様に愛されていることを知り、自分の罪を認め、神さまの子どもとして力強く喜びに満たされて生きていくことができるのです。そして、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という品性がだんだんと身についてくるのです。イエス様は、物質としての水ではなくて、そういう素晴らしい天国にまで持って行ける宝物をくださるのです。お金も家も天国には持っていけませんが、愛、喜び、平安・・・これらのものは永遠に価値のあるもので天国に持って行けるのです。

 

 でも彼女は、イエス様がおっしゃっている水のことがよくわかりません。奇妙なことをおっしゃるなあと思っています。

11**,その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。12**,あなたは、私たちのヤコブより偉いのでしょうかヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」

 女は1800年ほど前に生きていたご先祖様のヤコブが、この井戸を与えてくれたのだと言います。確かにご先祖様はありがたい存在です。ご先祖様がいなければ、今の私たちは存在しないのですからね。新約聖書も、その冒頭には紀元前2000年からのイエス・キリスト系図をかかげて、先祖を記念しています。先祖を記念することは意味のあることでしょう。けれども、先祖ヤコブもまた限界のある人間であって、神ではありませんから、尊敬はしても礼拝する対象ではありません。そして人間が与えることができるものは、限界のあるものです。限界のある満足です。

13**,イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。」

 主イエスのことばは、サマリアの女がたどってきた、これまでの人生を指したことばでしょう。彼女は、若い日、ある男性に愛を求めて結婚したけれども、満足できずに別れてしまいました。そして、また別の男性に、愛を求めて結婚したけれど、結局、やはり渇きを覚えて、別れてしまいました。しばらく男はもうこりごりだと思っていましたが、また愛してほしいと願って第三の男に出会って、結婚しましたけれど、しばらくするとまた満足できず嫌いになってしまい、別れました。第四、第五の男もだめで、今は、第六番目の男とは結婚もせずに同棲しているのでした。「この水を飲む人はみな、また渇きます」と主イエスがおっしゃるとおりです。

 みなさん。夫であれ、妻であれ、子どもであれ、恋人であれ、人に依存して「愛してほしい」と願う人は、必ず失望するのです。人間には限界があるから、あなたがそれほど愛を求めると、相手はくたびれてしまうからです。

 

3.イエス様がくださる永遠のいのちの水

 

 人間が与える水と、イエス様がくださるいのちの水、聖霊には違う点が二つあります。

 

(1)14**,しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。

 第一に、人間の与えるものを飲んだら、一時的に渇きをいやしますが、また渇きますが、イエス様がくださるいのちの水である聖霊を受けると、人は永遠に渇くことないということです。ほんものの永遠の満足ということを経験することができます。男に満足を求めて求めて求め続けて、サマリヤの女は渇きました。異性に限らず、人は仕事に満足を求め、出世して社会的地位や名誉を求めます。あるいは、趣味に満足を求め、ギャンブルに走り、あるいはお金に満足を求めます。お金、名誉、権力と、この三つが多くの人が欲しがり、空虚な心を満たそうとします。けれども、求めても求めても決して、これで満足ということはありません。

 そして、かりに、この世でカネと名誉と権力を得たとしても、死んでしまえば、それらはみなこの世に捨てていくほかありません。そして、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていますが、聖なる審判においては、「あなたはいくら資産を蓄えましたか?」とか「あなたはどういう勲章をもらいましたか?」とか「あなたはどういう権力をもっていましたか?大会社の社長でしたか?知事でしたか?大臣でしたか?」などとはまったく聞かれないのです。こういうものは、キリストの前では無意味なものです。

 キリストの前における死後のさばきにおいて調べられることは、「あなたはどのように心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する生活をしましたか?」ということです。愛のよきわざだけが、永遠に残ります。愛がなければ、何の役にも立たないのです。

そのよきわざは、聖霊様がなさせてくださることです。

 

(2)わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

 第二に、イエス様がくださるいのちの水は、溢れるということです。人間が与える満足は、あなたを満足させるにとどまります。そして、また渇きます。ところが、イエス様を信じていのちの水である聖霊に満たされると、人は他人に愛を求めるのでなく、むしろ逆に、溢れて周囲を潤すようになります。

 一昨日、恩師宮村武夫先生が天に召されました。80歳でした。宮村先生は開成高校の学生だったときにイエス様を信じて、神さまにその人生をささげました。開成高校といえば、今日でももっとも多くの学生を東京大学に送り出している優秀な学校ですが、先生は卒業後、JCCジャパン・クリスチャン・カレッジという神学校に進みました。そこで4年間学んだ後、米国のゴードン聖書学院、ハーバード大学に4年間学んで帰国され、埼玉県の寄居という小さな町の開拓教会の牧師になられました。その後、東京の東のはずれ多摩地区にある青梅キリスト教会というところで長く牧会しながら、母校と他の神学校で教鞭を取られました。

 私が大学卒業後、神学校に進んだ最初の年、毎主日かよったのは、青梅キリスト教会でした。先生との交わりから、私は決定的な影響を受けました。それは、神が私の存在を喜んでいてくださることを知り、また、自分も出会う人々の存在を喜ぶことを教えていただいたということです。青梅キリスト教会ではもみの木幼児園で子どもたちを育てていたのですが、その記録文集が『存在の喜び』と言う本でした。こういう一節があります。

 

「子どもについてさまざまな不安や焦りを抱く保護者と接する度毎に私の心に響く思いは、いつもこの一事です。大部分のことは、過度に心配する必要はない。問題があるとすれば、本来それ程まで心配しなくてもよいことをあまりに過度に心配し、問題でないことを不安な一定しない思いからの取り扱い故に問題としてしまう危険です。心配しなくともよいことを過度に心配するあまり、本当に心配しなければならない数少ないことを軽視したり、無視してしまう、誠に残念です。
 では、数少ない心配すべき事柄とはどんなことでしょうか。
 園児にとって、何が無くとも、これだけは是非必要なこと、それは自らの存在が喜ばれている確認です。両親が自分の存在を喜んでいてくれる。園でも、教師や友人たちが自分の存在を喜び受け入れていてくれる。自分の存在が少なくとも或る人々に心から喜ばれているとの自覚は、必要不可欠なものだ。これこそ、この十年深まり続けてきた確信です。何が出来るか、何の役に立つかと機能の面からのみ判断されるのでなく、ただそこに存在していること自体が喜ばれ重んぜられる。この経験なくして幼児は、いや人間は真に人間として生きることは出来ないのではないでしょうか。」(四八、四九頁)


 もし、「存在の喜び」を教えていただかなかったら、私は今日まで牧師として働くことも、家庭人として生きることもできなかったでしょう。

 卒業後しばらくして、先生は沖縄の首里教会へと赴任なさいました。そして、沖縄の人々のうめきを聞きながら、その地で伝道と神学教育に携わられました。その後、東京の下町に戻って来られてからは、私が先生のお住まいに泊めていただいたり、また、先生にも信州を訪ねていたいたりして、いっしょに旅することもありました。でも、私一人が先生と親しかったというわけではなく、驚くほど多くの人たちが、宮村武夫先生との交わりを通して、神様の燃えるような愛を体験したのです。私の家内もその一人です。

 世間的にいえば、宮村先生は、開成高校を卒業し、東京大学に進み、学問を続ければ名のある大学の教授という道が備えられていたのかもしれません。けれども、キリストの愛に捕らえられたとき、先生は感激してキリストにすべてをささげて、聖書にひたすらに聞き、聖書のみことばに生き、聖書のことばを伝え続けられ、その生涯をまっとうされたのでした。その人生は、あふれる泉でした。私を含め、多くのたましいに渇きを覚える人たちが、その泉から飲んで、生きる力をいただいたのです。

わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

 そして、今や、先生はイエス様の御許に帰っていらっしゃいます。あなたは、わたしが与える水を飲んで、周りの人たちを豊かに潤す人生をたどったね。よくやった。わがしもべ、わが子よ、とイエス様に肩を抱いていただいていらっしゃることでしょう。

 

むすび

  サマリヤの女だけではありません。誰であっても、自分のみじめな罪の現実を認めて、イエス様をわが主、わが神と信じるならば、イエス様は私たちの罪をゆるし、いのちの水である聖霊を与えてくださいます。そして、イエス様にいのちがけで従って行くならば、その人生は泉のようにあふれる人生と変えられるのです。サマリヤの女は言いました。

15**,彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。

 あなたもイエス・キリストを信じてください。

 

<追記>

*宮村武夫先生の思想に触れたい方は、こちらをご一読ください。

https://docs.wixstatic.com/ugd/2a2fcb_1cd9da521bc7490ca338f5ada0632092.pdf

 

真の王を迎える時

マタイ2:1-12

 

1 ヘロデ大王の恐怖

 

 砂漠を越え、大川を越えて東からやってきた博士たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方をさがしてエルサレムにやってきました。彼らが、やってきたのは当然、王宮でした。ところが、この宮殿にメシヤはいませんでした。

 当時、王座を占めていたのはヘロデ大王です。紀元前37年から紀元前4年、イスラエルの王でした。当時イスラエルローマ帝国支配下の属州の一部とされていて、ヘロデ大王は帝国が建てた政権で、ローマ総督と共同で統治したのです。 ヘロデ大王は、イスラエル人でなく、イドマヤ人です。イドマヤ人とはヤコブの兄エサウの子孫たちです。ヤコブからイスラエル民族が出て、エサウからイドマヤ人が出たというわけで、この二つの民族は遠い親戚ですが、近親憎悪といった関係でした。ローマ帝国はそういうイドマヤ家のヘロデを利用して、イスラエルを支配させました。ローマ総督だけで直接統治すれば、ユダヤ人のローマに対する反感が強くなることは目に見えています。イドマヤ人の王であれば、イスラエルの民と一致して独立を企てることもないであろうと見たわけです。ローマ帝国の属州支配は、このように狡猾・巧妙で、近代の大英帝国の植民地支配などのモデルとなりました。

 ヘロデ大王は、自分がユダヤ人たちに憎まれていることをよく知っていましたから、一方では巨大な神殿というを造ってやって彼らのご機嫌をとりつつ自分の力を誇示しました。そして、強権的な権力者にありがちなことですが、ヘロデ大王はいつ王座を奪われるかということをいつも恐れていました。ヘロデは権力の亡者でした。ヘロデには政略結婚を繰り返して得た10人の妻と15人の子どもがいましたが、そうした妻の中に唯一、本当に愛したのはマリアンメのみでした。ところが、ある日ヘロデはマリアンメに関する中傷を聞くのです。そして、ヘロデはマリアンメを処刑してしまいます。後に、その中傷が嘘であったことを知ったヘロデ大王はたいへん後悔して、マリアンメの二人の遺児を溺愛します。しかし、この二人の王子についても、ある日ヘロデは讒言を聞きます。「二人の王子は王様のいのちと玉座をねらっていらっしゃいます」と。ヘロデは、この二人の実の息子も処刑してしまうのです。そして、その処刑後5日目、ヘロデは国民からも近親からも恐怖の的となり、猜疑心と病の激痛のなかで惨めに死ぬのです。78歳でした。紀元前4年のことです。

 イエス様はこのヘロデ大王の最晩年にベツレヘムにお生まれになりました。ずいぶん危険なとき、危険な場所にイエス様はお生まれになったわけです。

 

2.エルサレムの人々、祭司長・学者たちの恐怖

 

 エルサレムの人々は、東の博士たちがやって来て、イスラエルの王となるべきお方、メシヤがユダヤのどこかで生まれたという知らせを聞いて恐れました。ローマ帝国の圧制にあえぐ民衆にとって、メシヤの到来は本来喜ばしいことですが。それは、ヘロデ大王が血の雨を降らせることになると察したからです。実際、このあとこの地域の2歳以下のいたいけな子どもたちが、剣の犠牲となりました。

 ヘロデ大王は、博士たちからメシヤ到来の知らせを聞いて、そのメシヤはどこに生まれたのかと考え、旧約聖書に精通している専門家、祭司長・学者たちに問い合わせました。神政政治が行われたイスラエルでは、祭司長・学者というのは単なる宗教家ではなく、ユダヤの最高議会サンヒドリンの議員でもありました。当時のイスラエルには三つ政府があって、一つはローマ総督府、一つはヘロデ大王宮廷、もう一つはイスラエルの最高議会でした。

 大王の質問に、彼らはたちどころに答えます。

2:5「ユダヤベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

 2:6 『ユダの地、ベツレヘム

   あなたはユダを治める者たちの中で、

   決して一番小さくはない。

   わたしの民イスラエルを治める支配者が、

   あなたから出るのだから。』」

 見事な答えです。けれども、この祭司長・学者たちはなぜ、こんなに重大なことをペラペラと答えてしまうのでしょうか? 不思議ではありませんか? 無論、彼らは、ヘロデ大王がが生まれたばかりのメシヤを殺してしまおうと考えていたことを知っていました。それなのに、預言者ミカの預言を引用して、「それはユダヤベツレヘムです」と答えてしまいました。 メシヤを待望している人であれば、そのメシヤをとり殺そうとしているヘロデ大王に、むざむざメシヤ誕生の地を告げるでしょうか? 祭司長・学者たちは旧約聖書によって、神がメシヤを遣わしてくださることを知っており、また、民に教えてもいた教師たちです。それなのになぜでしょう?

 リチャード・ボウカムというすぐれた聖書学者が書いた『イエス入門』という本に、次のようにあります。「帝国はなによりもローマ人と彼らを支える属州のエリートたちの繁栄のために存在していた。ローマはたいてい地方のエリート支配者たちと共同で属州を統治した。したがって、ローマがユダヤ地方で大祭司とその議会の協力を求めたのは自然ななりゆきだった。」(p39) ヘロデ大王と祭司長・学者たちはボウカムのいう「地方のエリート支配者階級」でした。ローマ帝国政府は、彼らを利用し共同でイスラエルを統治したのです。だから、彼らはイスラエル国民でなく、むしろローマ帝国政府の顔色をうかがいながら、イスラエルを治めたのです。

 (戦後の日本でいえば、GHQ~ワシントンが総督府にあたり、ヘロデ大王と最高議会は天皇自民党政府・官僚にあたります。戦後、岸信介は米国から莫大な資金を得て、自民党を立ち上げたという事実があります。沖縄県民は辺野古基地建設に反対の意志を示していますが、自民党政府官僚は米軍の意向を優先しているのは、そういう構造です。)

 イスラエルの庶民はローマ帝国の重税に苦しんでいて、熱烈にメシヤを待望していました。けれども、けれどもエリートである祭司長や学者たちは、メシヤに来てもらっては困るのです。メシヤが来て、体制がひっくり返ったら、自分たちの特権が失われるからです。彼らは宗教的政治的な権威をもつ者として律法を民に教え、メシヤの約束も教えていましたが、実際にメシヤが来ると、保身のためにメシヤを抹殺してしまおうとしたのです。彼らもヘロデ大王と同じです。要するに、保身のために、彼らはキリスト、メシヤの到来を喜ばなかったのです。

 

3 東方の博士たちの喜び

 

☆キリストを見出した喜び

 さて、一方、東方の博士たちです。「東方」というのは、イラクペルシャ、インド、そしてもしかしたら中国といった文明圏を意味しているのでしょう。いずれにせよ異邦人たちです。皮肉なことですが、神の民を自負する祭司長・律法学者はメシヤを礼拝には行かず、かえって大王に殺させようとし、神の民でない異邦人がメシヤを礼拝に行ったのでした。イエス様は世界のあらゆる民族の救い主として来られたのです。

なぜ東方の博士たちはメシヤ、ユダヤ人の王の誕生を知ったのでしょうか。おそらくは、当時、ヘレニズム世界はインドの北にまで広がっていて、ユダヤ人たちは捕囚の目に遭ってあちこちに散らされ旧約聖書が広がっていましたから、聖書の預言と星の出現からメシヤの誕生を知ったのではないかと思います。

 2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 彼らは旧約の預言を研究していたのでしょうし、不思議な星にも導かれたのですが、エルサレムの学者たちほどの聖書の専門家ではありません。そこで、メシヤの生まれた場所を特定するまでの知識がありませんでしたから質問をしたのです。そうしたら、ベツレヘムであるという答えを得ました。エルサレムの南に10キロメートルほどのところにある町です。

 博士たちにはヘロデ大王の意図はわからなかったので、星の出現の時間を聞きだされてしまいます。その答えを聞いてヘロデは、メシヤは二歳ほどになっている可能性もあると考えたようです。そして心にもないことを言いました。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

 博士たちはベツレヘムを目指して出かけました。東方で見たあの超自然的な星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、なんの変哲もない小さな家の上にとどまったのでした。

 2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

 博士たちの喜びは、メシヤ到来を恐れていたヘロデ大王や祭司長・学者たちと対照的です。彼らは保身も損得もなく、ひたすら真の王にお目にかかりたかったのです。当時の旅は命がけです。家族にも別れを告げ、博士たちはキリストをさがし求めて砂漠を越える旅をしてきて、ついにメシヤがいるベツレヘムのひとつの家の前に来ました。博士たちはこの上もない喜びに満たされたのでした。キリストに会えるという喜びと感謝に、彼らは喜び踊ったのです。

 

  • キリストにひれ伏す喜び

博士たちは、扉をたたき家に入れてもらい、母マリヤとともにいる幼子を見て、そこにひれ伏し礼拝をささげました。さまざまな危険を乗り越えて、ようやく出会うことのできたイエス・キリスト様でしたから、感激はひとしおでした。ひれ伏した彼らの目からポタポタと涙が落ちて床をぬらしました。そうして、それぞれに用意して来た宝物をイエス様のまえにささげひれ伏したのです。

 2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

  黄金は貴金属の王なので、王なるキリストにふさわしいささげもの、乳香は大祭司が用いた者、そして没薬は癒し主にふさわしいものと言われます。いずれも高価なものでした。ささげる喜びをここで知ることになったのでした

 今日もみことばのうちにご臨在くださるイエス・キリスト様との出会いを経験するとき、私たちは東の博士たちのように、喜びと感謝から自らをささげないではいられないのですね。キリストと出会って新しいいのちを得たならば、私たちは内側から感謝と喜びがあふれて、自分を主にささげないではいられないものとなるのです。

 

結び

エス様は王として私たちの人生を訪れます。ここで人は二つに分かれます。片方はヘロデ大王や祭司長学者のように、保身のために、恐れて拒否するのか、欲も得もなくただ真の王を真剣に探し求めて礼拝して、この上ない喜びを経験するかです。

 

エス様をお迎えするにはあなたの人生の王座をイエス様に明け渡さなければなりませんヘロデ大王はそれを恐れました。祭司長学者たちもそれを恐れました。そして、イエスを抹殺しようとしました。あなたが、イエスを迎えるならあなたはもはやあなたの人生の王であり続けることはできません。あなたの人生は、あなたのためのものではなく、王なるキリストのご栄光をあらわすためのものです。あなたの仕事も家庭も趣味も、王なるキリストにお委ねするのです。栄光の舞台とするのです。

 

また、イエスをあなたの王として迎えようとすれば、とりあえずの平和、偽りの安定を放棄する必要があることもあります。イエス様は、ある時、ご自分に従って来ようとする人々に向かって、「わたしが平和をもたらすために来たと思ってはいけない。わたしは火のなかに剣を投げ込むために来たのです」と仰いました。キリストにある本物の平安を得るために、ひとたびは家族や親族との軋轢も覚悟しなければならないということもあるのです。

 

 東の博士たちは、欲も得もなく、ひたすらにまことの王なるキリストの誕生を祝うために長い旅をしました。そして、出会うと王なるイエス様にひれ伏して、この上もない喜びを経験したのです。

この喜びは、イエス様を、心の王座、人生の王座に迎える人にだけ、与えられるものです。

 

父母を敬え

出エジプト20:12

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」出エジプト20:12

 

 1  二つの愛の戒めの関係

(1)二つの愛の戒め

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」ある日、イエス様にこのように質問する律法学者がいました。イエスは答えられました。

「「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』31,第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-30)

私どもは十戒を続けて学んでいますが、十の戒めは、神様への愛と隣人への愛とを教えているのです。主イエスがこの二つの愛の戒めを必ずセットでおっしゃったこと、また、まず神様に対すること、次に隣人に関することというこの順序でおっしゃったことは何を意味しているのでしょうか。

 

(2)神を愛することと、隣人愛とは不可分

一つは、イエス様が二つの愛の命令をワンセットで話されたのは、神さまへの愛と隣人愛とはきっても切れない関係にあるからです。神を愛しているといいながら、隣人を憎んでいるとしたら、その愛は偽りです。イエス様が来られたとき、パリサイ人たちは、自分たちこそ最も神を愛しているものであるという自負を持っていました。神を愛しているからこそ律法を厳密に規定して守っているのだと考えていたのです。けれども、イエス様の目から見ると、彼らのうちには神への愛はありませんでした。イエス様が長年病んで苦しんでいる人を癒したら、パリサイ人たちはイエス安息日の規則を破ったと非難しました。非難しただけでなく、その聖なる安息日にイエスを罠にかけて殺害する相談をし始めたのです。聖なる安息日に殺人の相談とは、なんという矛盾でしょうか。神を愛しているというならば、神様がご自分のかたちとして創造なさった隣人をも愛すべきです。神への愛と隣人愛とはきっても切れないのです。

また、「私は隣人を愛しているけれども、神様のことは嫌っている」と言う人がいるかもしれません。けれども、聖書的な観点から言えば、神様を無視して隣人を愛することは出来ない相談です。私たちは人を愛するといいながら、神様を抜きにしているときには、えてして単に人を自分のために利用している場合が多いのです。自分にとって利用価値がある者はかわいがるけれども、自分にとって利用価値がないということになると、冷淡に扱ってしまう。ある男性がこんなことをおっしゃいまいた。大企業の部長をしている夫がたくさん給料をもらってきているうちは、出かけるときに妻は「行ってらっしゃい」と言ってたんですが、定年になってそういう立場でなくなったら「いってらっしゃい」と言ってくれなくなったというのです。あるいは、奥さんが若くて美貌のときには、夫がちやほやとしていたけれど、年を経て来たら見向きもしなくなったというようなこと。そういうのが人間的な愛の限界です。人間的な愛というのは、同じ「愛」と名前はついているけれども、神様の愛とはまったく別で、中身は単なる欲望が愛という衣を着けているだけのことです。

神様から愛をいただいてこそ、私たちは本当の意味で隣人を愛することができます。なぜなら、愛の源泉は神だからですまた、隣人を愛しているかどうかによって、神への愛が真実なものかがはかられるのです。このように、神さまを愛することと、隣人を愛することとはきっても切れない関係にあります。

 

(3)隣人愛に神への愛が優先する

二つ目は、確かに神への愛と隣人愛とは密接不可分なのですが、究極の選択が迫られた場合には神さまへの愛の命令が優先するということです

エス様は、あるときに、「わたしのため、また福音のために父母兄弟畑を捨てた者は、この世でその百倍を受ける・・・」とおっしゃいました。もし、あなたが伝道者・牧師としての召しを神さまがくださったとすれば、親が反対するからやめますというわけには行かないのです。親を捨ててでも、主の召しに従わねばなりません。イエス様ご自身も、公の生涯に入られたとき、母マリヤや兄弟からは理解されず反対されていたということが、福音書には記されています。しかし、やがて理解されるときがきて、母マリヤもイエス様を信じ、主の兄弟ヤコブも初代教会の指導者の一人になっていきました。

エペソ書に、「子どもたちよ。主にあって、両親に従いなさい。」とあります。「主にあって」ということばが意味していることは、このことです。「両親にしたがいなさい」とあるからといって、両親があなたに偶像を崇拝しなさいとか、泥棒をしなさいと命じるからと言って、偶像を拝んだり泥棒をしてはなりません。また、どんな親であろうと子どもに真の神様にお祈りしたり、聖書を読んだり、礼拝をささげたりすることを禁じる権利はありません。子どもたちは、そういう意味で「主にあって」両親にしたがうべきなのです。主に反逆してまで両親にしたがってはなりません。父母は神様がお立てになった神様の代理ですから、神様にそむいて子どもに命令してはいけないのです。そして、神様にそむいて子どもに命じたことは無効なのです。

両親にしたがいなさいということは、「子どもたちよ、主がご自分の代理として、あなたにその両親を立ててくださったのだから、敬意を忘れてはいけない。」ということです。親は神様が、子どもに対してご自分の代理として立てた、代表権威なのです。

 

2  神は両親を敬う人に祝福ある人生をくださる

(1)神は両親を敬う人に、地上の祝福をくださる

「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。」「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」と私たちは4つの戒めを学んでまいりましたが、これらは神様への愛の表現の方法を教えていたのです。では、きょう学ぼうとする「あなたの父母を敬え」という戒めは、神様への愛を教えているのか、それとも、隣人への愛を教えているのかどちらでしょうか。二つの解釈があります。一つは後半の隣人愛に属するとする考え、もう一つは、前半の神への愛に属するという理解です。第二の説のばあい、「子どもは父母を敬うことを通して神への愛を表現しなさい」という意味になります。神は、子どもたちに対して父母をご自分の代理として立てていらっしゃるから、子どもは父母を敬うことを通して、神様への愛を表現しなさいということに他なりません。

「あなたの両親にしたがいなさい」という命令には、地上的な祝福の約束がともなっています。「あなたの父母を敬え」という命令に従えば、「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」というのです。

これは、どういう理由でしょうか。父母を敬うことは、神を尊ぶことですから、神はその人を地上の人生においても祝福してくださるのです。たとえば、アメリカ大統領が派遣した全権大使を日本人が侮辱したら、米国大統領は自分が侮辱されたと理解してかんかんになるでしょう。戦争になるかもしれません。逆に、全権大使を丁重にお迎えするならば、大統領は自分が丁重に扱われたように感じるでしょう。両親は神様からの大使ですから、子どもたちが父母を敬うなら、神様を敬うことになるのです。

父母を敬うことは、隣人愛の基本であるから、その基本をマスターした人は、社会生活においても祝福されるのです。幼い日から父母を敬うことを学ばないでは、豊かな家庭を築くことも、社会生活をすることもむずかしくなります。逆に、子どもが両親を敬い、両親にしたがうことを身に付けることができたならば、自分が社会生活をし家庭を築く上で土台を身に付けたことになります。

 

(2)両親を敬うことは、将来の社会生活・家庭生活の基礎である理由

 では、両親を敬い、両親に従うことを学ぶと、どのようにして自分の家庭建設や社会生活がうまく行くのでしょうか。また、逆に両親を敬い従うことが身についていないと、どうして自分の家庭建設や社会生活を豊かにすることがむずかしいのでしょうか。

まず、社会生活について説明しましょう。社会にはヨコの関係とタテの関係があります。ヨコの関係とは、同僚や同級生との関係を意味しており、タテの関係とは学校の先生や会社の上司との関係を意味しているわけです。家庭に於いて、子どもはこのヨコ関係、タテ関係を学ぶことが必要です。兄弟姉妹との関係が一応おもにヨコ関係だとすると、そして、子どもにとって父母との関係はタテの関係です。

家庭で親との関係において、子どもとして適切な態度、心構えを学んでおくならば、その子は学校に行こうと、あるいは職場に入ろうと、あるいは新しく家庭を築いていこうと、適切な人間関係を作っていくことにそれほど困難はないでしょう。けれども、家庭において親との関係について基本的にたいせつなことを学んで、経験しておりませんと、その子どもは学校でも、あるいは大人になって勤め先でも、あるいは結婚して家庭でも、さまざまな人間関係のトラブルを引き起こすことになりがちなのです。

ですから、家庭においてまず「あなたの父と母を敬え。」という命令に続いて、「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」という地上において祝福が約束されているわけです。このことは、新約聖書において使徒パウロも強調していることです。エペソ6:1-3

 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

 

3.子どもとして、親として

 

(1)子どもとして

 子どもは、この戒めを子どもという立場を弁えて聞きしたがうことがたいせつです。神様は子どもたちに命じていらっしゃいます。エペソ6:1

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」

 同時に、親としては子どもに対して「あなたの父母を敬いなさい」と教える責任があります。「尊敬されるほどの人間でもないし」と、自分では思うわけですが、親を敬うことを教えるのは、自分のためではなくて子どものためなのです。親を敬うことを学ばないでいたら、その子は不幸になってしまいます。親を敬うことを学べば、その子は長じて幸福を得ることができるのです。親が何かすばらしい人物だから尊敬するというのではなく、神さまが親を子どもの監督係り養育係りとしてお立てになったのだから、親を敬う必要があるのです。親を軽んじることは神さまを軽んじることになるからです。

 

むすび

「嗚呼、たれかこの任に堪ええんや」と、親としては告白しないではいられません。けれども、神様が親を子どもたちへの代官として立ててくださいましたから、立ててくださった神様におすがりするならば、神様が親としての私たちを支えてくださいます。

また、子どもたちは親を敬うこと、親に従うことを実行することです。それが祝福あるこの地上における人生の秘訣なのです。

キリストの名前

マタイ1:18-25

18**,イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。**

19**,夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。**

20**,彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。**

21**,マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」**

22**,このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

23**,「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。**

24**,ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、

25**,子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

 

 

序 女のすえとして

 キリストにはいくつか呼び名があります。イエス、ことば、インマヌエル、女の子孫、人の子など。それぞれの名には意味がありますが、今日は「女の子孫」、「イエス」「インマヌエル」という名について、みことばから学びましょう。

「1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」

 ヨセフとマリヤは婚約していましたが、まだいっしょにならないうちに、聖霊によって神の御子イエスをみごもりました。これは、神様の遠い昔になさった約束の成就でした。人類の始祖アダムとエバがへび(サタン)の誘惑に敗れて、罪に堕ちた時、神様はへび(サタン)に対して次のようにおっしゃいました。

「3:15 わたしは、おまえと女との間に、

   また、おまえの子孫と女の子孫との間に、

   敵意を置く。

   彼は、おまえの頭を踏み砕き、

   おまえは、彼のかかとにかみつく。」(新改訳第三版)

 つまり、女の子孫と呼ばれる方が、サタンを踏み砕いて勝利を得ることになるという約束でした。しかも、そのサタンに対する勝利者メシヤは「女の子孫」という不思議な名で呼ばれています。普通、人間は、男と女から生まれてくるわけですが、イエスさまは「女の子孫」であると言われているのです。ですが、イエス様の誕生の不思議な出来事を見てゆくとき、なるほど、イエス様は女の子孫としてお生まれになったのだとようやく納得できます。 イエス様は、アブラハムダビデの家系のヨセフの家に生まれるものの、ヨセフから子種を得ているわけではありません。神の御子イエス様は、おとめマリヤから奇跡の誕生をなさったのでした。イエス様は、女の子孫であるわけです。

 

1 ヨセフは正しい人であって・・・

 

「 1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

 さて、救い主、神の御子の養い親という、とてつもなく大きな責任を負うことになったのがヨセフです。ヨセフとはどんな人物だったのでしょう。聖書の中で、ヨセフのセリフがひとことも記録されていません。ただ、この19節はヨセフの人となりが短いことばでよく表現されています。

 神様は「ヨセフは正しい人であった」と評価なさっています。その正しさというのはどういうものだったのでしょうか。旧約の律法の基準からいえば、婚約者がいるにもかかわらず、他の男と関係を持った女は姦通罪を犯したとして処刑される可能性がありました。申命記22:20、21「しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」もちろん強姦されたのであれば、彼女の罪とはされませんが、そうでなければ石打の刑です。しかし、強姦されたにしてもきわめて恥ずべきことでした。

ヨセフとしてはマリヤを裁きの場に突き出す権利がありました。それは一つの正義のありかたでしょう。けれども、ヨセフはそうしませんでした。彼はひとたび自分の妻にと約束をしたマリヤをさらし者にするに忍びなかったのです。ヨセフはマリヤを信頼していて、マリヤは誰かに暴力的に犯されたのだと考えたからです。

それにしても、このまま娶るというのも神の前に正しいことであるとは思われませんから、ヨセフはマリヤを内密に去らせようと決めました。

「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」申命記24:1

 

こうしたケースでは、善悪を教条的にすっぱりと割り切れるものでもなかったわけです。ヨセフの判断は、マリヤを愛するということと、神様を愛するということから出て来た判断でした。とてもむずかしい判断です。

私たちは「何が善であり、何が悪であるか」ということを、何か律法の表に照らして、白黒すっきりと判断できれば、簡単だと思います。確かに誰が見ても明白な罪というのはあります。しかし、私たちの生活に起ってくることは、しばしば複雑です。ひとつひとつの場合によって、私たちは神を愛することと、隣人を自分のように愛することを両立させる道はなにかと悩み祈り求めてことを判断しなければならないことが往々にしてあります。そういう、神を愛し、隣人を自分のように愛することを願って、祈り判断した誠実さを神は、「ヨセフは正しい人であった」と評価しているのです。

 

もう一つ、ヨセフが神を畏れる正しい人であったことがよく現れているのは、24,25節。

「24**,ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、

25**,子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

新婚の夫が新妻に指一本ふれないというのは、つらいことだったでしょう。しかし、わが妻とはいえ、神が聖別し、メシヤが宿った女性です。彼はマリヤに触れることをしませんでした。それは、み使いに命じられ、制限されたことではありませんでしたが、神を畏れるヨセフが自ら慎むべきであると考えて慎んだのです。

「神の前に正しい」というのは、律法の細かな字句を余さずに知っていて、そのつじつまを合わせて、最小限律法違反とならないように行動するということではないのです。心から神を愛し、神が賜った隣人を愛して、誠実に道を選んで生きるという根本的な姿勢が大事なのです。ヨセフにかんする聖書の記述はとても少ないのですが、彼の行動を見るとき、神様を畏れ、隣人を愛して、正しく生きるということはどういうことか、深く教えられます。

 

2 エス:罪からの救い主・・・・・救いの消極的側面

(1)罪からの救い主

 ヨセフは「正しい人」として悩みました。そんな彼に、神様は主の使いを遣わしてヨセフに、マリアに宿るのは待ち望まれたキリスト、救い主の誕生なのだと告げます。ここにはキリストの二つの名が告げられていて、救いの二つの側面を表わしています。一つは「イエス」という名です。

「 1: 20**,彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21**,マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 名は体を表わすといいますが、イスラエルでは特にそうでした。イスラエルでは、子の名前を付けるにあたって、意味深い名を与えました。約束のメシヤの名をイエスと決めたのは父なる神ご自身です。これはギリシャ的発音で、ヘブル語でいえば、ヨシュアという名前です。旧約聖書の英雄の名ですから、ユダヤ人の間ではポピュラーな名前です。イェホシュアハというのは、「主は救い」という意味です。だから、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と説明がついています。

 私たちは救い主がどのようなお方であるかを正しく知っておく必要があります。まず、イエス・キリストが救い主であるというのは、第一に「罪からの救い主」だということです。「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」とあるとおりです。 世には、いろんな救いを告げる宗教があります。「貧乏から救ってあげよう」「病気から救ってあげよう」「たたりから救ってあげましょう」などと多くの「救い」の宣伝があります。でも、自ら十字架にかかって私たちを罪の呪いから解き放ってくださるのは、主イエス・キリスト様ただ一人です。イエス様に救われた結果として、貧乏からの救い、病気からの救いは付録としてくっついてくる場合もありますが、付録ですからついてこないこともあります。とにかく、キリストにある救いの中心は罪からの救いです。

 しかし、世間には「わたしを罪から救ってほしい」と思っている人はまれです。けれども、聖書によれば罪からの救いこそ、人間にとって肝心なものであって、この肝心な問題を解決しなければ、他の問題を解決しても根本的に不幸だとします。なぜか?それは病気も貧乏も人を聖なる神から引き離しませんが、罪は人を聖なる神様から引き離し、ついには永遠の滅びにまで引きずり込んでしまうからです。私たちは、まずは罪から救われなければなりません。

 私たちは生まれながら、罪ある者です。罪あるままでは、神と交わりはなく、神と交わりがなければ、生きる目的はわからず、さまざまの罪の誘惑に対して破れてしまい、この世の人生を終えたなら、永遠の地獄に陥らねばなりません。私たちには罪からの救いが必須なのです。

 イエス様は、私たちを罪から救うために、私たちの罪を背負って十字架に死んでよみがえってくださった救い主です。

 

3.インマヌエル・・・・・救いの積極的側面

 

 ついでキリストのもう一つの名が、旧約聖書イザヤ書を引いて述べられています。それはインマヌエルです。

「22**,このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

23**,「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

 インマヌエルとは、旧約聖書イザヤに神が教えられたメシヤのもう一つの名前です。「神われらとともにいます」という意味です。イエス様が、罪から私たちを救ってくださると言うことが、救いの消極的側面だとすれば、罪からった私たちを神様とともに生きる人生へと招き入れてくださるということ、これが救いの積極的側面です。

 もともとエデンの園は神と人とがともに交流することのできる幸いな楽園でした。神の戒めに背いて以来、その子孫たちは、神なき人生をさまようことになってしまいました。

 神なき人生は、むなしい人生です。生きる目的がわかりませんから。

 神なき人生は、ほんとうの喜びのない人生です。一時の楽しみはあっても、むなしくなってしまうからです。

 神なき人生は、感謝のない人生です。自力で何でもやっていると思いあがっているからです。

 神なき人生は、平安のない人生です。罪を犯して良心の呵責が、いつも自分を責めているからです。

 神なき人生の最後は地獄ゲヘナです。この世で積み上げた富も、獲得した名誉も、みなこの世に置いてゆき、この世にあって思ったこと、口にした言葉、行動のすべてをお見通しの神のさばきを受けて、有罪判決がくだるからです。

 

 そこで、イエスさまが来てくださいました。イエスさまは、神であられながら、私たちのために人としての性質を帯びてくださったのです。イエスさまは、罪は犯しませんでしたが、私たちの弱さをもご存知で同情することがおできになる方なのです。私たちはイエスさまにあって、神様がこんなにも身近にいてくださるお方であることを知り、日々経験することができるようになりました。

 さらに、私たちが死の陰の谷をさまようようなときにも、イエスさまはともにいてくださいます。イエスさまご自身がゲツセマネとあの十字架において、押し迫る死の恐怖と苦しみとを経験してくださいましたから。

さらにイエスさまにある者は、この世を去るときに、罪に対する神のさばきを畏れる必要はありません。イエス様がすべて背負ってくださったからです。私たちは、霊としてイエス・キリストとともにいることになります。使徒パウロは、そのことを渇望していました。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。22**,しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。23**,私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1:21-23)

さらに、イエス・キリストを信じる者は、世の終わりに新しい天と新しい地が完成するとき、キリストとともにその都あたらしいエルサレムに住まうことになります。そこは至福の至福です。ほんとうに自分の罪のしみが抜き去られ、この世のすべての悪が滅ぼされ、なんの妨げるものもなく、思う存分主イエス・キリストとともある、インマヌエルの喜びを味わい、ご奉仕することができる、それが新しい天と新しい地なのです。

 

結び 

 神なき人生から、神とともなる人生へ。永遠の死の人生から、永遠のいのちへ。悪魔の支配から、キリストの支配へ。

十字架の贖いによって罪から救ってくださり、神とともに生きる人生を与えてくださる。私たちの救い主は、まさに、インマヌエル、イエス・キリストなのです!

 

安息日の目的

出エジプト記20:8‐11

 

8**,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。**

9**,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。**

10**,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。**

11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 

序  十戒の第4番目が「安息日」の定めであり、十戒を前半を神への愛、後半を隣人への愛と区別するならば、前半の最後の戒めとなります。

 「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」という「聖なるものとする」というのは、神の所有されるものとして分ける、区別するという意味です。広い意味では、神様が万物を造られ、7日間すべてを造られたのですから、7日間すべては神様のものなのです。しかし、その7日間の中で一日は特別の意味で神様のものなのだということです。だから、他の日から区別して格別大事にしなさいということです。

 では、どのように区別するのか。

 

 

1 六日間働いて

 

 週一日を働かないで聖別するためには、あとの6日間働く必要があります。日本は労働を尊ぶ文化ですが、世界の多くの国々では労働をいやしいもの、できればしないで済ませたいものとするものがあります。地中海文明では、労働は奴隷のすることであり、自由人は哲学・芸術・戦争をするものだとされていました。、ギリシャ語ではポロス、ラテン語ではラボール、フランス語ではトラバーユ、英語ではレイバーというのは、みな労働という意味とともに苦役という意味があります。

 労働は苦役だと考える人たちは、エデンの園について誤解をしています。エデンの園でアダムとイブはゴロゴロしていても食べていけたけれども、園から追い出されて働かなければならなくなったという誤解です。実際には、創世記1章と2章の人間の堕落前に、神様は人間に労働を命じていらしゃいます。

2:15 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。

 神が6日間働いて万物を創造なさったように、本来、神の似姿として造られた人間が、神に倣って6日間働いて世界を管理するという素晴らしく光栄な務めなのです。仕事はあらずもがなの苦役ではありません。

11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 

 

 ただし、聖書は労働のもう一面をも述べています。創世記3章です。アダムが神に背いた時から、本来祝福であった労働に苦しみが加えられました。

3:18**,大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。**

19**,あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。

 

 仕事をすることによって、私たちは気持ちよく生きがいを感じることができますが、反面、仕事によってストレスを抱えて体を壊してしまうということもあります。本来、祝福であった労働に、呪いが加わったのです。

 

2 安息日の目的

 

(1)神に生かされて生きていることを思い出す

 こうした苦役となった労働から解放され、神のかたちに造られた者として本当の意味での労働をするためには、安息日が有効です。私たちは働きづめに働いていると、いつの間にか、自分の力で自分は生きているのだというふうに傲慢になります。また、くたびれてしまいます。

 しかし、七日間に一度、神の前に休み、神に感謝をささげて神を賛美するとき、神様に生かされて私は生きているんだということを実感して、神様に感謝することができます。神様に栄光をお返しすることができます。何のために生きているのか、何のために働いているのかということを思い起こして、正気に返ります。

 人間は、すぐに神でないものを神として祭り上げる恐れがあります。仕事中毒は、仕事を偶像化しているのです。仕事は神の賜物であり祝福ですけれども、どんなによい賜物も、それ自体を絶対化してしまえば、それは偶像崇拝です。偶像崇拝者は、結局は悲惨なことになってしまいます。たとえば仕事に打ち込みすぎて、からだを壊したり、夫婦関係をなおざりにして家庭を壊したり、果ては過労死したりするのです。仕事を偶像化してはなりません。

 安息日を聖なるものとすることによって、仕事崇拝・仕事中毒という悪魔の罠を逃れて、仕事の主人として自由になることができます。

 

(2)神を愛する

 では安息日に何をするのでしょうか。どのように安息日を過ごすべきでしょうか。二つのことが書かれています。一つは、神を愛すること、一つは隣人を愛することです。

 安息日は、神が所有する特別な日、聖なる神の所有なさる日であることをわきまえて、神様に悔い改め、礼拝、賛美しましょう。教会に集い、聖書を開き、賛美をささげ、感謝のささげものをするのです。

 (3)隣人を愛する

 安息日の定めには、10節に「あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も 」と書かれています。安息日は、あなた自身や家族だけでなく、当時は家畜のように好き勝手に働かせるのが当たり前とされていた人々にも、休みが与えられる日なのです。それは、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」にかなったことです。

 そういう神への愛と隣人愛の日ですから、安息日は、日ごろ、仕事にかまけてお見舞いに行くことのできない病人を見舞いに行ったり、友人や親に手紙を書いたり、その人のために祈ったりして過ごすことがふさわしいのです。

 (4)人間=神の似姿の回復

  仕事ばかりして、仕事が偶像になると、人は神を忘れ、隣人を忘れてしまいます。そして、非人間化してまいます。神のかたちに造られた存在である人間ですから、神のかたちにふさわしく生きるものでありたいものです。

 安息日は人間回復の日です。神の似姿として造られた人間が神の似姿を回復するのです。けれどもイエス様の時代、その安息日を偶像化するようになってしまった人々がいました。安息日に「してはいけない仕事」とは何だろうということで、安息日にしてはいけない仕事の定義を山ほど上げました。安息日は、それで窒息日のようになって、本来の意義を失ってしまいました。

 私たちは安息日を消極的に「しない日」でなく「神を愛し隣人を愛する日」として受けとめることが大切です。

 

3 週の第一日に移された

 

 ユダヤ人たちは安息日安息日は旧約時代には、週の終わりの日でしたが、新約時代には週の初めの日に移されました。それは、イエス様の復活を記念のためです。

ヨハネ20章

 1**,さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

 19**,その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 

 旧約時代、聖なる出来事は週の終わりの日に起こると相場が決まっていましたから、主イエスが週の初めの日をお選びになって復活し、週の初めの日を選んで、弟子たちに現れたことは意外なことだったので、特筆されています。そうして、キリスト教会では週の初めの日に、神の前に集うようになっていきました。

 

結び

 私たちは神に似せて造られた者です。

 神が6日間、しっかり働いて万物を造られたように私たちも神に倣って6日間誠実に働きましょう。

 神が週の一日は安息日とされたように、そして、主の日に復活されたように、私たちも週に一日、主の日に神の前で休みましょう。神を愛し、隣人を愛する聖別された日として、この安息日を過ごすのです。

 こうして、神の似姿、神の御子の似姿が私たちのうちにも回復されてゆきます。

正しい礼拝

出エジプト20:4-7

 

2019年7月21日 苫小牧主日夕礼拝

    

4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

5**,それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

6**,わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

7**,あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

 

本日は、第二戒と第三戒を学びます。

 

1 第二戒

  

 神を見えるかたちに表してはいけない

 十戒の第一番目は、「あなたには、わたし以外に他の神があってはならない」というものでした。第二番目「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」です。第一番目と第二番目はどうちがうのでしょうか。第一番目は、創造主以外の異教の神々を礼拝してはいけないというものですが、第二番目は、創造主である真の神を礼拝するにあたっては、偶像を用いてはならないというものです。つまり第二戒は、まことの神さまを礼拝するにあたって、「なにも見えるものがないと、ピンと来ないから、まことの神さまを見えるかたちで表現した像を造ろう」と考えてはいけないと命じているのです。

申命記4章15‐20節には次のようにあります。

「15**,あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。**

16**,堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。

17**,地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。

18**,地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。

19**,また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。

20**,主はあなたがたを取って、鉄の炉から、すなわちエジプトから導き出し、今日のようにゆずりの民とされたのである。」

 「別に偶像そのものが神だと思っているわけではなくて、それが象徴するまことの神さまを実感をもって礼拝するための道具です」と理屈をつけても、神さまはそんなことをお喜びにならないのです。いや喜ばないどころか、お怒りになるのです。だから、神やキリストの絵であれ、彫像であれ、それに手を合わせたり、跪いたりすることは絶対にしてはいけません。

 

2 礼拝の規制原理

 礼拝の仕方については、神様がお定めになっているので、人間が勝手に工夫をしてはいけないのです。これを礼拝の規制原理といいます。「まことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみこころによって制限されている」(ウ告白21:1)

 礼拝以外の私たちの日常の行動について、神様はそんなに事細かく定めてはいらっしゃいません。右手で箸を持とうが、左手で持とうが、フォークを使おうが、素手で食べようが、自由です。自分の家の建て方、間取りの方角など、どのように建てようと、自由です。朝起きたら顔を洗うか、洗わないか、いつお風呂にはいるか、どんな歌を歌うかなどなど神様は、私たちの自由裁量にまかせていてくださいます。けれども、こと礼拝をどのようにささげるかについては、神様は「わたしが定めたことにしたがってささげなさい」とおっしゃったのです。

 イスラエルの民が生きていたオリエント世界ではさまざまな偽りの神々が礼拝されており、それぞれの異教的な礼拝の風習がありましたから、そういうものに染まってはいけないとおっしゃったのです。申命記12章には当時のカナンの地の異教のいまわしい習俗を、「こうしたらグッとくるから」などと言って取り入れてはいけないと述べてから、結びに次のようにあります。

 申命記12章32節「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを守り行わなければならない。これにつけ加えたり減らしたりしてはならない。」

 残念ながらキリスト教の長い歴史の中で、この原則から外れてしまうということが起きてきました。ローマ教会の礼拝堂にはマリア像が置かれていて、それを拝むという習慣があります。あれはもともと地中海世界にあった女神崇拝を取り入れたことから始まったのだそうですが、神様の忌み嫌われることです。

 

3.礼拝はささげる

 

 また、礼拝は人間的工夫によらず、神様の定めによらねばならないということから、私たちは神様がお喜びになる礼拝はなんだろうか?という基本的な考え方で礼拝をささげるのが肝心なことです。自分がぐっと来た、自分が恵まれた、自分が感動したということは二の次のことで、礼拝にかんして第一に大切なことは、神様が喜んでくださるかなのです。なぜなら、礼拝は神様にささげるものであるからです

 「礼拝を守る」とか「礼拝にあずかる」とか、下手をすると「礼拝を受ける」などという人がいますが、礼拝は神にささげるものです。礼拝を受けるのは神様です。自分が何かをもらうのでなく、神様に自分自身をささげるのが礼拝です。

 だから礼拝式が終わったら、神さまの前で反省すべきことは、「きれいな讃美歌だったなあ。」とか「いい説教だったなあ」とか「あまりよくない説教だったなあ」ということではありません。礼拝後、神様の前で私たちが反省すべきことは、「今日、自分は心からの礼拝を神さまにおささげできたでしょうか?」ということなのです。私たちキリスト者は、神様の前に祭司なのですから、自分が祭司として神様の前にただしく礼拝の務めを果たせただろうかと反省すべきなのです。

 もし心から礼拝を捧げられたなら、主に感謝することです。もし、心がどこかに行ってしまっていたら、悔い改めることです。

 

4 第三戒

 

7**,あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

 

 名は体を表すといいます。名前と言うのは、その人を代表するものです。自分にとって大切な人の名前は、その名を思い出して、口に出すだけで、うれしいような温かいような気持ちになるでしょう。若い人が恋人の名をノートに書き記してドキドキするようなこともあるでしょう。堺正章さんの歌に「息で曇る窓に書いた君の名前指でたどり・・・」とかいう歌詞もありました。

 逆に、人を侮辱するとしたら、その名をけがすことです。たとえば、あなたの家の表札に泥が塗り付けられていたら、自分の顔に泥を塗りつけられたかのように感じることでしょう。名はその人の人格の代表であるからです。名はその人の人格を代表するものです。ですから、人の名前を軽々しく冗談のように口にすることは侮辱にあたります。

 

 土から造られた人間の名前においてすらそうなのですから、まして、天地万物の創造主であるまことの神さまの名前は愛と畏れをもって語るべきです。礼拝という文脈でいうならば、祈りと賛美において、私たちは主なる神様の名を呼びます。「天のお父様」と呼ぶとき、「主イエス様」と呼ぶとき、「聖霊なさま」と呼ぶとき、心を込めて、畏れを愛をもって口にすることが大事です。

 英語では神様の名をけがすような表現がありますが、クリスチャンは決して口にすべきではありません。「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」のです。

ハレルヤのヤーは主のお名前です。ハレルーはほめたたえましょうという意味です。ですから、この世の人々のように意味もなくハレルヤというのはやめましょう。「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」

 

 ただし、警戒しすぎて主の名を忘れてしまってはなりません。実際ユダヤ人は呼び名がわからなくなってしました。もともと主なる神がモーセYHWHという四つの子音からなるご自分の名を啓示なさって、その名でよばれていました。ヘブライ語ではもともと子音だけを記すことになっていましたが、正しい母音が最初はわかっていたので呼ぶことができたのです。ところが、ユダヤ人たちは主の御名を呼ぶことを畏れ多く感じすぎたので、「主」を意味するアドナイという名に読み替えて読んでいるうちに、どういう読みかたをするのかついに誰も分らなくなってしまいました。一応学者たちは、YHWHをヤーウェと呼んだのだろうと推測していますが、確たる証拠があるわけではありません。

 新約の時代になって、「その名をイエスとつけなさい」と御使いが啓示して、私たちには「イエス」という名が明らかにされましたから、私たちは、祈りにおいてであれ、賛美においてであれ、心からの畏れを愛をもって、神のお名前を呼ぶことにしましょう。

 

 教会福音讃美歌34