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Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

主の御前に出る

創世記42:1-25

2017年4月23日 苫小牧

 

1.神の摂理の確かさ――啓示の実現――(1節から9節)

 

 エジプトの宰相となったヨセフはもう二度と故郷の父や兄弟たちに会うことはあるまいと思っていました。けれども神様の御摂理は不思議です。七年間の豊作の後にやってきた地中海世界全体をおおう大飢饉によって、ヨセフの兄たちはエジプトにやってくるのです。その顛末が42章1節から4節に記されています。

42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」

 42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」

 42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。

 42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。

 

ここにはヤコブがヨセフなきあと、今度はベニヤミンを最愛の妻ラケルの忘れ形見として偏愛していることがわかります。

 さて、こうして兄たちは父ヤコブに命じられて、エジプトに食料を求めてやってきました。一方ヨセフはエジプトにあって飛ぶ鳥を落とす勢いの宰相となっていました。ヨセフは兄たちを見て、すぐにそれとわかりましたが、兄たちはまさか自分たちのエジプトの宰相であることに気づきません。

 そうして、神様はもう二十年以上も前にご自分がヨセフに見せた夢を実現なさいます。すなわち、ヨセフが17歳の時に見たあの麦束の夢です。兄弟たちの束ねている麦の束が、ヨセフが束ねていた麦束を取り囲んでおじぎをしたというあの夢です。神からの啓示でした。神様は、悪魔や人間のいろいろな妨害があっても、その摂理をもって、ご自分が計画されたことを必ず実現させたまうお方です

 あの時、兄たちは生意気な弟ヨセフが自分たちの上に立つことなど、絶対に出来ないようにしてやると思って、ヨセフをなきものにすることを企てました。そして実際、殺すことこそしませんでしたが、弟を奴隷商人に売り飛ばして、闇に葬って、自分たちは金を受け取って、ことはすんだと思っていたのです。けれども、神様はすべての悪者の働きさえもその手綱でもってコントロールして、みこころを実現させたまうのです。たとえ悪魔が神様に反抗して悪事を行なったとしても、神様はすべてのことを働かせて、その計画されたことを実現にいたらせるのです

 神の摂理について、今までハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター小教理問答を紹介しましたが、今度は、これらの信仰問答の源流となったカルヴァンの「ジュネーヴ教会信仰問答」から紹介しましょう。

問い28

 悪魔や悪しき人々も、やはり神の主権に服しますか。

答え

 神は彼らを聖霊をもってはお導きになりませんけれども、神が彼らに許された限度でなければ、彼らは活動することができないように、神はその手綱を握っておられるのです。その上に、たとえ彼らの意図や決意に反してでも、みこころを実行するように彼らを強制されるのであります。

 

問い29

 それを知ることは、あなたに何か益がありますか。

答え 多くの益があります。なぜならば、もし悪魔どもや不義な人々が神の意志に反して何事か行なう力があるとするならば、非常に災いであります。そしてまた、彼らからおびやかされている限りは、われわれは決して心に安らぎを得ることはできないでありましょう。しかし神が彼らの手綱を引き締めて、神の許しに寄らなければ、何事もできないようにしておられることをわれわれが知るとき、そのことによって、われわれは心を休め喜ぶことが出来るのであります。それは神がわれわれの保護者であり、またわれわれを守ってくださることを約束しておられるからであります。

 

 

2.神を恐れる者として(42:18)

 

 さて、今や兄たちの命はヨセフの手中にありました。彼らを煮て食おうと焼いて食おうと自由という状況です。奴隷にして売り飛ばしましょうか。それとも・・・ここでヨセフの兄たちに対する痛快な復讐劇が始まるというのが、世間の小説なのかもしれませんが、現実はそうは展開しなかったのです。しかし、まずはヨセフは兄たちにスパイとしての嫌疑をかけて、激しいことばを投げつけて、弟ベニヤミンを連れてくるように言うのです。13節。彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」

 ヨセフは兄の一人が言った「末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」ということばにカチンときました。「なにが『もうひとりはいなくなった』だ!おまえたちが、実の弟であるこの私を奴隷に売り飛ばしたのではないか!」とヨセフは、兄たちに向かって叫びたい衝動を抑えるのに苦労したでしょう。

 しかし、ヨセフにはすぐに叫んでしまえないわけがありました。ヨセフはベニヤミンのことを心配していたのです。ヨセフは、同じ母ラケルから生まれた弟ベニヤミンもまた、兄たちによってひどい目に合わされたり、奴隷として売られたり、あるいは殺されたりしてしまったのではないかという心配をしていたのです。特に、兄たちが10人でやってきてベニヤミンを連れてきていないのですから、「父といっしょにいます」などということばも本当かどうかわかりません。疑わしいことです。ヨセフとしては、あの弟ベニヤミンをこの危険な兄たちから救い出さねばならないと思いました。

 そこで、15節16節にあるように、彼らを監禁し一人の者だけが帰国してベニヤミンを連れてくるように命じたのです。

42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。

 42:16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」

 

(ここで「パロの命にかけていうが」というのはおもしろいですね。勝手にいのちをかけられたパロもたいへん。勿論、当時の慣用句にすぎません。)

 

 さて三日がたちました。この三日のうちにヨセフの心境に変化が生じました。18-20節。

42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。 42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。 42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。

「次のようにして生きよ。私も神を恐れる者だから。」ということばに、ヨセフが三日間をどうすごしたかが暗示されています。ヨセフは兄たちを久しぶりに見た時、憤りを抑えがたかったのですが、一人神の前に静まって考えてみると、兄たちのうち一人だけ帰国させるというのは理不尽なやり方であることに気づいたのです。父ヤコブの一族が飢えたから、兄たちは食糧を求めてきたのです。もしただ一人しか帰さなければ故郷の父親や一族郎党は飢えて死んでしまうでしょう。弟ベニヤミンの安否を確かめるためだけならば、そうまですることはない。一人だけ人質にして他の者は食料を持たせて帰してやろうと考えたのです。それが「次のようにして生きよ」でした。

 ヨセフがこのように考え直すことができたのは、三日間待ったからでした。三日間、神の御前に静まったからということも出来ましょう。たいせつな決断をしなければならないとき、決して激した感情のなかで決断してはならないということを教えられます。落ち着いて、神様の御前に静かな心になって、そして神のみこころを求めることです。箴言にはこうした知恵にかんすることばがたくさんあります。

 

箴言14:29「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」

箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

箴言19:11「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は背きを赦すことである。」

 

3. 隠されているもので露わにされないものはない。

 

 この三日間は兄たちにとっても自らの神様の御前に清算されていない過去を振り返るときとなりました。21節、22節。

42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

 42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

 

ヨセフのことはずっと彼らの心の中にわだかまっていたのでしょう。けれども、お互い共犯者として口に出すことも出来ないで過ごした二十数年間でした。しかし、ここにいたって彼らは自分たちの犯した罪の大きさに恐れおののいているのです。罪は一時はいかに隠しおおせたと思っていても、神からの報いを受けるべきときがあるのでした。

 

 前回、ヨセフはキリストの型、予型であるという見かたが伝統的に教会において行なわれてきたということを申し上げました。この場面でも、もしヨセフをキリストの型と見るならば、兄たちは最後の審判においてキリストのみ前に引き出される人間の姿をあらわしていると読むことができます。

 兄たちはまさか目の前にいるのが、弟ヨセフであるとは思いも寄りませんが、審判者であるヨセフの側は兄たちのことを知っているのです。彼らが犯したおそるべき罪のこともこの審判者はだれよりもよく知っているのです。

 「人には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と聖書は宣言しています。私たちは、死後、主のみ前に引き出され、自分が生きてきたこの地上の生涯のいっさいについて主の御前に申し開きをしなければなりません。恐ろしいことです。罪とは、主が嫌われることを、思ったこと、主が嫌われることを言ったこと、主が嫌われることをしたことです。その一つ一つについて、私たちはひとりひとり量られるのです。私は自らを振り返れば赦されがたい罪人です。こんな罪人が聖なる神の御前に引き出されるということを考えると、本当に恐ろしいことです。

 ただ、私たちのさばき主としてこられるお方は、主イエスご自身であることはなんという慰めでしょうか。ヨセフが兄たちが自らを省みて過去に犯した罪を悔いているのを聞いてひそかに涙を流したとあります。42章21節

「 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。」

 そのように、主はこの上なく公正な審判者でいらっしゃいますが、同時に、私たちの弱さを知っていて涙をも流して下さるお方です。主は罪は犯されませんでしたが、人となられて私たちと同じ苦しみや試みを経験されたお方であるからです。

 

 主の御前に引き出されるその日を思いつつ、主イエスの十字架の贖いを感謝して日々を過ごしたいと思います。

呪われたいちじく

Mk11:12-20

11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。 11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

  11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、 11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。 11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」 11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。

  11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。 11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 

 

1 イエス様の不思議な言葉

 

今日、改めて説教題を眺めて、怖い説教題だなあと思いました。主イエスの言葉や行動には私たちには理解できないことが時々あります。きょうの箇所はその代表的なところと言えましょう。主イエスが実のなっていないいちじくを呪い、その後、神殿に行かれてそこにいた商売人たちを厳しく非難なさいました。いわゆる宮浄めの出来事です。

 

12-14節

 「翌日」つまりイエス様がエルサレムに入城された日曜日の翌日の月曜日のことです。イエス様たち一行はベタニヤを出ました。ベタニヤはエルサレムの東オリーブ山の麓にあり、マルタ、マリヤ、ラザロの三人兄弟が暮らしていました。ここがエルサレム伝道の拠点です。イエス様は日中はエルサレムの町で伝道をし、日が沈むとオリーブ山のゲツセマネの園で祈り、夜にはベタニヤに泊まられたようです。

 ベタニヤを出るとイエス様はおなかがすきました。朝ごはんを十分食べなかったのでしょうか。すると、青々と葉の茂った立派ないちじくの木が見えました。一見、盛んで美しいいちじくの木です。しかし、近づいてみると、一個の実もついてはいなかったのです。 いやいちじくのなる季節ではなかったというのですから、実を捜してもないのも当たり前でした。しかし、奇妙なことにイエス様はこの木に対して呪いの言葉をおっしゃいました。

「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」

ひどいなと感じてしまいます。いったいどういう意味でイエス様は、このイチジクの木を呪われたのでしょう。何か意味があるはずです。読み進んでまいりましょう。

 

2.宮浄め 15-19節

 

 エルサレムに到着したイエス様はどこに出かけられたでしょうか? 王の宮殿ではなく、市民の広場でもなく、神殿です。神殿とは、神と人とが出会う場であり、エルサレムのハートであり、イスラエルの民のハートです。旧約時代から、神殿礼拝のありかたこそが、王国の民の生活の中心であり、民族の運命を決したのです。旧約時代には、敬虔な王たちは、偶像崇拝を排してこの神殿における礼拝を重んじましたが、悪い王たちはカナンの地の習俗であったバアル、アシュタロテの偶像をこの神殿に持ち込んで、まことの神と並べて礼拝するようなことをあえてしました。その結果、神はバビロン軍にソロモンが築いた神殿を滅ぼさせ、民をバビロンに捕囚させ、国は滅亡したのでした。

 捕囚の地で苦しみの中で悔い改めたイスラエルを神はあわれんでくださいまして、解放の時が来て、エルサレム神殿を再建したのです。その記録は旧約聖書のネヘミヤ記、エズラ記に記されています。バビロン捕囚から帰ってからは、イスラエルの民はさすがに反省して、あからさまな異教の神々の礼拝をエルサレムですることはなくなりました。

 その後、400年間イスラエルは、ペルシャ帝国、次にシリヤ帝国に、そして、ローマ帝国に支配され苦しいところを通らされました。主イエスが来られた当時、イスラエルローマ帝国の支配下にあり、エルサレム神殿は、あの幼いイエス様を取り殺そうとしたヘロデ大王が造ったものです。ヘロデ大王はローマの傀儡政権でした。神を恐れないヘロデ大王が何のために神殿を築いたかといえば、一つには己の権力をユダヤ人に対してPRするためで、巨大で豪壮なものでした。もう一つの狙いは、デラックスな神殿を造ることによってユダヤ人たちの歓心を買うことでした。

 

ところで、エルサレム神殿には、礼拝する場所が一番奥の至聖所に近いとことろから祭司の庭、イスラエル男子の庭、イスラエル女子の庭、そして、異邦人の庭と区別されていました。それぞれの人々は、それぞれの名で呼ばれる庭で礼拝をしたのです。

一番外側にある「異邦人の庭」に来る異邦人というのは、ローマ帝国諸州のさまざまの偶像の神々を捨ててイスラエルに啓示された創造主なるまことの神に改宗した人々のことです。意外なことかもしれませんが、当時、ユダヤ教特にパリサイ人たちは、異邦人伝道に熱心でした。マタイ23:15。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回っ」たのです。その甲斐あって、当時、エルサレムでの神殿礼拝は大変盛んになっておりまして、先日も申し上げたように、三大祭ともなれば通常の人口の3倍にもなってしまうので、多くの巡礼たちをエルサレムの城壁内に収容することができず、城壁の外には巡礼たちがテントをはってキャンプをしたのです。祭司階級のサドカイ人たちの神殿宗教経営は、経済的に大成功を収めていることを誇らしく思っていたにちがいありません。

ユダヤ教の国外宣教によって、石や木で刻まれた偶像の神々は偽りのものにすぎないことに気づき、まことの創造主こそまこと唯一の神であると信じた各地の異邦人たちは、アポロン神殿とかゼウス神殿に礼拝することを勇気をもってやめて、真の神のみを礼拝するようになりました。彼らにとっては、はるか遠いエルサレムの神殿は憧れの聖地となりました。そこで苦労して旅費をためて、過越しの祭りにはるばるエルサレムにまで巡礼をしたのです。聖なる思いを抱いてはるばるやって来たに違いありません。もちろん彼らは「異邦人の庭」までしか入ることは許されませんでした。ところが、この異邦人の庭に入ってみると、「おいおい兄さん、こっちの牛はいいよ。安くしとくよ。」とか、「牛が買えないなら、羊はどうだい。」とか、「貧乏なんだね、しかたない、鳩もあるよ。安くしとくよ。」などと、いけにえ用の牛・羊・鳩を売る商売人たちが声を張り上げていたのです。また、神殿ではローマの貨幣は神への捧げ物にならないといって、神殿用のお金に両替をしても受けている両替商たちもいました。勿論、彼らがこんな商売をすることができたのは、神殿経営をしていたサドカイ派の祭司たちが彼らに金を払わせて許可を与えていたからにちがいありません。

 異邦人改宗者たちはこんなところで聖なる神様に落ち着いて祈ることができるでしょうか。彼らはどう感じたのでしょう。自分がかつて参拝していたゼウスやアポロンやその他の神々が祀られた神社のようすとほとんど変わりがないのです。そうして、「エルサレム神殿といっても、あーあ、やっぱりこんなものか。けっきょく金儲けじゃないか。」と考えて帰っていったでしょう。「改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」とイエス様がおっしゃるのは、そういう意味です。

こうした状況を見ると当時ユダヤ教徒たちは、積極的に宣教はしていましたが、それは神を愛し、異邦人もまた真の神を愛しうやまう礼拝者となるようにと願っていたわけではなかったと言わざるをえません。単なる教勢拡大を図っていただけのことです。神殿礼拝も絢爛豪華に行われていました。しかし、肝心の礼拝の場はガヤガヤと商店街のようなありさまでした。欺瞞の極みでした。

 だから、イエス様はお怒りになったのです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家を呼ばれる」と。平行記事では「それをあなたがたは強盗の家にした」とも記されています。

確かに、当時は、旧約時代の悪い王たちのいた時代のように、神殿にあからさまな偶像が立ち並んでいたわけではありません。しかし、目に見えない偶像が聖なる宮に祭られていました。それは何でしょうか?マモニズム、経済第一主義という偶像崇拝がここでは行われていたのです。祭司階級のサドカイ人たちがこの神殿経営をして、千客万来商売繁盛というありさまで、両替商やいけにえ動物商人から場所代をとっていたのでした。また、異邦人の庭があんなありさまだったのは、祭司たちが心には「どうせ犬に等しい異邦人たち礼拝の場なのだから、少々うるさくっても構うまい。」と思っていたからです。神と並べてマモンをあがめるという罪を彼らは犯していたのです。主イエスは、金儲けのために、点の父をダシにしていることに対してお怒りになったのです。

 

2. いちじくが枯れた

 

 イエス様はこの宮浄めをなさると、城門をくぐってゲツセマネの園で祈り、おそらくベタニヤ村のマルタ、マリヤ、ラザロの家に泊まり、翌日、またエルサレムに向かわれ、また、あのいちじくの木を見ました。主イエスが昨日のろったいちじくの木です。木は根っこまで枯れていました。(20節)ペテロはびっくりしました。「先生。ごらんなさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

実は、いちじくというのは、ぶどうと並んでイスラエル民族を象徴する植物の一つでした。当時のイスラエル民族の神殿礼拝のあり方が葉ばかり茂って、実りがないということを象徴的行動をもって主イエスはおっしゃっているのです。ヘロデが権力と財力にもの言わせて建てた豪壮な神殿があり、国外宣教もさかんで、世界中から巡礼たちがぞろぞろやって来ています。神殿経営は経済的には空前絶後の繁栄ぶりと見えました。

けれども、ほんとうのところでは、祭司たちは神様を恐れていませんでした。神を愛してはいませんでした。異邦人の改宗者のたましいを軽んじていたのです。「心を尽くし思いを尽くし力を尽くして神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ。」という、神のご命令の本筋からはずれて、デラックスな神殿、教勢拡大、荘厳な儀式という宗教的な装飾ばかり茂っている状態だったのでした。葉ばかり青々と茂っていたのです。しかし、そこには、悔い改めの実も、誠実の実も、愛の実も実ってはいませんでした。それを主イエスは憤られました。そして、実のないいちじくが枯らされるように、このイスラエルの神殿はやがて神によって滅ぼされることを、預言なさったのです。その預言は紀元70年、ローマ帝国軍によって成就されることになります。エルサレム神殿は滅び、イスラエルは亡国の民となって世界に散らされてしまうのです。

 

適用 新約の時代の神殿とは

 

 今の時代、つまり、新約の時代、神殿はどこにあるのでしょうか。主イエスがサマリヤの女におっしゃったことばを思い出してください。

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

主イエスが十字架にかかって三日目に復活し、天の父なる神の右の御座に着座されてから、聖霊を私たち神の民、教会に送ってくださいました。主イエスを信じる者に、聖霊を与えてくださいます。新約の時代、キリストを信じる者世界中の礼拝共同体である教会、そして、あなたのからだが聖霊の神殿なのです。

1コリント3:16

 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

1コリント6章19,20節

「 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

ですから、第一に、私たちの教会の歩みにおいて、神を愛し、神をあがめる礼拝が常に中心であることに心してまいりましょう。教会の目的がまことの神を愛することなのだということを肝に銘じましょう。教会は一生懸命伝道し、奉仕をし、ささげものをし、また、愛餐会や遠足など楽しい交わりをします。それらはよいことです。しかし、さまざまな行事も儀式も全ては、誠実に神様を礼拝し、神様への応答として隣人を愛することのためにこそあります。

 

第二に、私たちのからだが聖霊の宮であるということは、私たちの生活の中心に、まことの神がおられ、このお方が崇められるべきであるということを意味しています。生活の隅っこのほうに神様を押しのけていてはいけません。心の王座だけが、主にふさわしいのです。あなたのからだという神殿に主イエスが訪ねてこられるというなら、あなたは喜んで主イエスをその王座にお迎えできるでしょうか。自分のからだの中に、神を恐れない両替人やいけにえの鳩を売っている商売人はいないでしょうか。

個人礼拝、日々聖書を読み祈りの時を大切にしましょう。あなたの生活の中心に、この世の欲、俗悪な趣味などが占めていないでしょうか。そしてイエス様は端っこに押しやられていないでしょうか?もし示されるところがあれば、「イエス様ごめんなさい」と申し上げて、悔い改めて、主に王座に座っていただきましょう。

キリストの影

創世記41章

 

はじめに

 旧約は新約の影であり、新約は旧約の本体である、また、旧約は新約の預言であり新約は旧約の成就であると言われます。私たちが続けて味わっておりますヨセフという人物の生涯が、キリストの生涯の影であり預言であると言われることです。ヨセフは兄弟たちの妬みを受けて、奴隷として売られ、さらに罠にかけられて監獄に囚人としてすごすことになりました。ところが、今日お読みしたところでは神様の御摂理のなかで時いたってヨセフは監獄から出されたばかりか、王の右の座につく宰相の地位にまで上り詰めることになりました。このことが、キリストの生涯の型であるというわけです。

 つまり、主イエス様は救い主として二千年前地上に下られ三十歳の時伝道生涯にはいられたわけですが、ユダヤの指導者たちの妬みを受けてみなに捨てられた十字架に処刑されてよみにおくだりになりました。けれども、父なる神様はイエス様を死者のうちには止めおかないで、復活させ、さらに天に引き上げてご自分の右の座(力の座)に着座させられました。そして、今やイエス様は「天においても地においても一切の権威を」授けられていらっしゃるのです。このキリストの低くされた状態から、高く引き上げられた状態にいたるご生涯が、ヨセフの生涯と二重写しになっているという解釈です。

 私たちを罪と滅びから救い出すために地上に下り、さらに黄泉にまでくだってくださった主に感謝しましょう。また、私たちの罪のための償いを成し遂げられて復活し、今も世界をすべおさめたまう主イエス・キリストを賛美しましょう。

 

1.「それから二年後」

 

 ヨセフが献酌官の夢を解いてやって、その夢のとおりにことが成就して、献酌官がもとの地位に復したという知らせをヨセフも耳にしました、献酌官によって、無実の罪が晴れて、牢獄から出られる日が今日にもくるか明日にもくるかとまちわびていましたが、待てど暮らせど無罪放免の知らせは来ませんでした。そうして待ちわびるうちに二年の歳月がたちました。

 「待つことは忍耐であり、待つことは成長である」。この忙しい時代、私たちは何かをするということが積極的で、ことを進めることになるのであると考えがちです。実際、積極的にことを行なうということは大切なことです。けれども、同時に「待つ」ということもまた実はとてもたいせつなことなのです。「待つことは忍耐であり、待つことは成長である。」

 たとえばジャガイモの収穫を私たちはどのようにして得るのでしょうか。畑を耕し肥料を施して、種芋を半分に切って埋める。そして、ときどき草取りをする。人はたしかにこうした営みはするのですが、一番長い時間を要するのは、待つことです。収穫までのほとんどの時間は待っているのです。ジャガイモを埋めて翌日でかけて、掘り出して「まだだなあ」といって埋めもどし、また翌日でかけて畑を掘り返してじゃがいもを掘り出して「まだまだだなあ」といって埋め戻すようなことをしていたら、ジャガイモはだめになってしまうでしょう。なすべき基本的なことをしたら、あとは待つことが収穫のためにたいせつなことです。

 マルコ4:26-29に主イエスがおっしゃった神の国のたとえに在る通りです。

4:26「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 ヨセフにとって待たされた二年間は、一見無意味に見える二年間です。しかし、その二年間の忍耐が後の大いなる収穫のために必要なのでした。

 

 あなたも今、なにか人生のたいせつなことがらを待たされているかもしれません。「待つことは忍耐であり、待つことが成長である」このことを覚えましょう。

 

2.主は世界の支配者

 

 二年がたったとき、神様はエジプトの王に不思議な夢を見せます。それは七頭の牛を七頭のやせた牛が食べてしまうという夢と、七つのよく実った穂を七つのやせ細った穂が飲み込んでしまうという薄気味悪い夢でした。夢とはいえ、あまりにもリアルで印象深く王の心に残ってしまいました。これは、単なる夢ではなく、なにか意味のある啓示であると王は悟ったのでした。そこで王は国中の知恵者にこの夢の意味を解き明かさせようとしましたが、だれもできません。考えれば考えるほど不吉な夢ですから、王はさらに八方手を尽くしてこの夢の意味を知りたいと願ったのです。

  まず私たちにとって意外なことは、エジプトの王が神からの啓示を受けたということではないでしょうか。ヨセフが夢を見た、ヤコブが夢を見たというならばわかります。彼らは真の神を信じているのですから。しかし、真の神を信じてもいないエジプトの王が夢で神の啓示を受けたというのは不思議なことです。しかし、さらによくよく考えてみればこの世界を創造し支配しておられる神は唯一のお方です。このお方を信じておらず、太陽神の息子を名乗るエジプト王にとっても、創造主が真の神なのです。真の神は、このエジプトの国の歴史をも、支配しておられるのです。

 当時、エジプトにおいて真の神を信じていたのは、ヨセフただ一人でした。他の何十万人というエジプト人はさまざまな偶像の神々に仕えていたのです。しかし、このエジプトの将来を左右するのは、それらの神々ではなく、ヨセフ一人の信じる神でした。

 私たちキリスト者はこの日本という国において少数派です。しかし、この国の将来を支配するのは、八百万の神々ではありません。この国の将来を支配したまうのは聖書にご自身を啓示しておられる万物の創造主、歴史の支配者なる神です。ですから、私たちがこの国のために祭司としてとりなし祈ることはとてもたいせつなことなのです。キリスト者以外に、この国の将来のために祈ることが許されているものはいないのです。私たちにはこの国の為政者のため、世界の上に立つ人々のためにとりなし祈る責任があります。現在、北朝鮮核兵器実験をめぐって米軍韓国軍との一触即発の緊張状態があります。指導者たちが頭を冷やして振り上げたこぶしを下ろし、平和を作るように私たちは祈るべきです。

  さて、エジプトの王は夢のことで悩んでいました。それを見ていたのが、あの献酌官でした。献酌官は王にヨセフのことを申し出ました。二年前、牢獄で出会った男ヨセフが自分の夢を寸分あやまることなく解き明かしたことがありましたというわけです。9節から13節。

 こうしてヨセフは王の召しをうけて監獄から引き出されました。そして、王の夢を詳しく聞き取り、それを説き明かします。たいせつなポイントの一つは15節と16節。 ヨセフは王から君が夢を解き明かすということだが、といわれると即座に「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」と答えます。かつて17歳の時のヨセフとはずいぶん変わりました。かつてヨセフは自分の見た夢をぺらぺらと兄たちまた親に向かって得意げに話しました。ところが、今色々な苦節を経て30歳になっているヨセフは、自分が夢を解けるのは神様が教えてくださるのである、自分はその取次ぎ手にすぎないといいます。13年の歳月のなかで、主に取り扱われたヨセフは自分のすべての働きは神の業であるということを、身にしみて自覚するようになっていたのです。

 私の力が、私の知恵が、私の意見、私の確信、私の考え、私のプライド・・・というところから解放されたのです。人間はアダムの堕落以来、この「私病」にかかっているのです。主のしもべはこの「私病」から解放されなければなりません。そうしなければ、どんなに才能があってもどんなに頑張っても、主の栄光をあらわす奉仕はできません。

 「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とローマ書にあります。忍耐は練られた品性を生み出すのです。

  ヨセフのことばの中でもう一つの大切なことばは32節です。「夢が二度繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。」ここにヨセフの力強く平安な歩みの秘訣となる信仰告白が現れています。「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる。」それは神が世界の、一国の、そして一人の人の歴史の支配者であられて、神が聖なる計画を持ってこれを遂行なさるという信仰、神のご摂理に対する信仰でした。結局、私たちはヨセフの生涯を通じて学ばせられる信仰は、人は摂理の神を信じているならば、どれほど厳しい試練にあったとしても、力強く、平安で、謙遜・着実な歩みをすることが出来るかということにほかなりません。

 逆境においても忍耐強く、順境にあっても思い上がることなく着実・謙遜に歩む秘訣は、摂理の神に対する信仰であります。

 

ハイデルベルク信仰問答 問い28

神の創造と摂理を知ると、どのような利益がわれわれにあるのでしょうか。

答え

 われわれは、あらゆる不遇の中にも忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの寄り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全く御手の中にあるのですから、みこころによらないでは、揺るぐことも動くこともできないからであります。

 3.キリストの影

  しかし、摂理の信仰というのは、いわゆる運命論とは違います。運命論というのは、人間がどうすることもできない冷たい定めに対する諦観、あきらめの態度です。仏教における悟りというのは、そういう運命論です。他方、摂理の神に対する信仰とは、私たちの人生を治めてくださる生きている父なる神に対する人格的な信頼と責任ある服従としての信仰です。

  こうして父なる神の御手にゆだねきった生き方ということを思うとき、私たちはやはりヨセフという聖徒の姿に、主イエス様の影を見ないではいられません。嵐のガリラヤ湖で小舟が転覆しそうな時にも、安心しきって熟睡しておられたイエス様。イエス様にとっては、木の葉のように並にもまれる小舟は父なる神のゆりかごのようでした。また十字架を目前にしたゲツセマネの園で、イエス様は父なる神の胸をたたく子どものような祈りをされました。しかし、十字架にかかって死ぬことこそ父のみこころとはっきりわかった後には、勇敢に十字架に向かってひるむことなく進んで行かれました。

 そして、十字架で私たちの罪のために苦しまれた後に、死に勝利を収めて復活し、父なる神の右に着座されました。今、イエス様は父なる神から一切の権能を委ねられて私たちの人生を摂理していてくださいます。私たちも、主イエスの足跡をたどりつつ、御父に信頼してこの人生を忍耐強く、謙遜に歩んでまいりたいと思います。

 

喜べ!

マタイ福音書28章1-10節

2017年4月9日 復活日礼拝 苫小牧福音

 

1.「あなたがたは、恐れるな。」――屈強の兵士と、か弱き女たち

 

 主イエスが墓に葬られたのが、紀元30年の4月の7日の金曜。この日から大祭司の一派の者たちは、主イエスの墓の回りを厳重に警戒しました。主が、三日目によみがえると予告しておられたことを思い出したからです。

 けれども、神はこうした暗闇の勢力に屈するわけがありません。その日から三日目の朝つまり週の初めの日の未明に、イエス様はよみがえられました。神の御子の復活に、地は喜び揺れ動きました。アダムが堕落して以来虚無に服していた被造物は、神の御子の復活に揺れ動いたのです。そして、天の御使いがくだって、主イエスの墓の穴をふさいでいた封印の石をわきに転がしたのでした。マタイ 28:2 「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。」

 当時のイスラエルの墓は一般的に、石の壁に横穴を掘ったもので、その中に亡骸を葬ると、その前に大きな円盤状の石の板でふたをしました。ゴルドンのカルヴァリーのそばの「園の墓」と呼ばれる墓が主の墓であったとすれば、この墓の石は厚さ60センチ弱、直径4メートルに及ぶ巨大なもので、その重さは13.8トンに及ぶと推計されています。当時の墓としては異様に巨大なもので、アリマタヤのヨセフが金持ちであったと聖書が記してことと合致します。27章65節を見ると、石には封印がされたとあります。この封印石はちょっとやそっとで動かせるものではありません。

 イエス様が人として地上に現れたクリスマスにも天で御使いが賛美しましたが、イエス様が復活なさったときにも天の御使いがそのすばらしい知らせを告げるために、天から遣わされたのでした。その衣は雪のように輝く純白でした。台地が揺れ動き、御使いを見ると、大祭司たちが墓の番のために置いていた屈強な兵士たちは、恐ろしさの余り震え上がり気絶してしまいました。マタイ 28:4

 「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

 以上の出来事は、神様に敵対し、主イエスに敵対する闇の勢力は、神様の圧倒的なご威光に対してはまったく無力なのだということを証明しています。サタンも主イエスの復活に対してはまるで無力だったのです。無から万物を造られた神は、死に代えて復活のいのちを創造なさいました。

 さて、兵士たちは震え上がって一時気絶してしまったのですが、しばらくすると目を覚ましてほうほうの体で逃げ出したようです。しばらくすると、女たちがイエス様のなきがらに香油をぬろうとしてやってきます。マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、およびサロメです(参照マルコ16:1)。彼女たちは、あの大きな石をどうやって動かすことができるかしらと心配しながら来たようですが、やって来ると、すでに石はごろりと横に転がされ、墓の穴がぽっかりとあいているのです。女たちは顔を見合わせました。そして恐る恐る墓にはいりますと、右手に真っ白な長い衣をまとった青年が座っているではありませんか。御使いでした。

 彼女たちは、鳥肌が立ちました。そうでしょう。そもそも墓に来るだけでもちょっとおっかないのに、墓石がどけてあって、入ってみると、光り輝く人がいたのです。すると、御使いは言いました。「恐れてはいけません。」

この個所は、正確に訳すと、あなたがたは、恐れてはいけません。」です。「あなたがたは(humeis) 」がたいへん強調されています。「あなたがたは恐れることはない」というのは、神さまに敵対しているあの兵士たちは恐れて震え上がり気絶してしまったが、神を愛する「あなたがたは恐れるな」と言っているのです。つまり、兵士たちと女たちとが対照的な者として言われているのです。

 兵士たちと彼らを配置した祭司長たちは神に敵対する闇の勢力、サタンの勢力に属しています。彼らが、主イエスの復活に恐れおののくのは当然でしょう。悪魔は死の力を持つものですが、その悪魔の力を打ち破って主イエスが復活したのですから。しかし、この女性たちは主イエスを愛し神を愛してしたがって来た者たちです。光に属する者です。だから、恐れることはなにもないのです。

 神様の皮肉です。屈強な兵士たちが恐れおののき、気絶して死人のようになってしまい、か弱い女たちが「あなたがたは、恐れることはない。」と言われて、主イエスの復活の最初のメッセンジャーとされるとは、なんということでしょうか。考えてみれば、いつも主イエスの救いはそうであり、神様の祝福はそうでした。主イエスは「心の貧しい者は幸いである。天の御国はその人のものだから。悲しんでいる人は幸いです。その人は慰められるから。」とおっしゃったではありませんか。また、主イエスは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とおっしゃったではありませんか。イエス様が来ると「私は見える」といっている人は見えなくなり、「私は見えません。私の目を開いてください。」という人は見るようになるのです。自分は強いと思っている人は打ち倒され、神様の前で私は弱いものですと認めている人は助け起こされるのです。「私は正しい」と言っている人は罪とされ、「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈る人は義と認められるのです。イエス様の救いは、自分の強さを誇る者、自分の正しさを誇る者からは最も遠く、己の弱さ、己の罪深さを認めた遜った者のそばにあるのです。私たちは、弱い者です。私たちは罪深い者です。この私たちとともに、主はいてくださいます。主を賛美しましょう。ハレルヤ!

 

2.ここにはおられない。よみがえられた。

 

 墓にいた御使いは説明します。5-6節「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見て御覧なさい。」

 何が起こったというのでしょうか。「十字架につけられたイエスは、もはや墓の中にはいない」というのです。墓とはなんでしょうか。墓とはイエス様の復活の出来事があるまでは、死の勝利を示すものでした。どんなに権力を持つ人も死には勝てなかった。どんなに健康な人も死には勝てなかった。どんなに知恵を持つ人も死には勝てなかった。墓は、死の勝利を告げていたのです。今でも、日本の墓場に行けば、私たちは死の勝利を見ます。絶望を見ます。墓は薄気味悪い場所です。破れちょうちんに、乱塔婆というおどろおどろしいイメージが墓です。幽霊も火の玉も墓場に現れるのが相場です。そこには、闇、死、絶望の雰囲気がただよっています。

 仏教寺院に仏舎利塔というのがあります。仏舎利というのはシャカの骨のことです。シャカの骨を拝むのです。仏舎利塔に象徴されるように、釈迦においても死こそ最後の勝利者です。 

 しかし、十字架の出来事から三日目の朝、天の御使いは言いました。「ここにはおられません。よみがえられたからです。」主イエスはよみがえられた。主イエスの墓には、からだはありません。骨はありません。からっぽです。主イエスはよみがえられたのです。御使いは「来て、納めてあった場所を見て御覧なさい。」と言います。ある人たちは「イエス様の霊だけが、その肉体から抜け出たのだろう。そして、女や弟子たちに出現したのだろう」と思うようですが、そうではありません。それならば、いわゆる幽霊であり、墓にはイエス様の肉体が残っているはずです。しかし、実際には、墓の中にイエス様のからだはなかった。イエス様は、からだをもってよみがえられたのであります。イエス様の復活は、霊だけの復活という中途半端なものではなく、からだも霊もともに新しくされ、新しいいのちに満ちてよみがえられたのです。

 イエス様の墓はからっぽです。イエス様の墓は死とサタンに対する高らかな勝利の宣言です。イエス様の空っぽの墓は、私たち自身のからだのよみがえりの希望が確かであることのあかしにほかなりません。これは実にすばらしいことです。

  イエス様が私たちの罪のために罪の呪いとしての死を死んでくださいました。そして、死を打ち破って復活してくださり、私たちに罪の赦しと神のこどもとしての特権をくださったのです。天国の切符をくださったのです。キリスト者の死には希望があります。キリスト者にとって死とは、永遠のいのちへの門です。墓は勝利の記念です。

 

3.喜べ

 

 御使いは女たちを、復活の証人として任命します。マタイ 28:6、7

 「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

 

 御使いに言われて、女たちに復活のイエス様が現れました。「おはよう」とイエス様が言うと、女たちは近寄って御足を抱いて礼拝したというのです。

マタイ 28:8、9

 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 すでに御使いが、「ここには主イエスはおられない。ガリラヤに行け。」と告げたのに、なんでイエス様が、ここで出てこられたのでしょう。小説ならば筋がおかしいと思われるところです。ですが、こういうつじつまの合わない、説明つかないところにこそリアリティがあります。イエス様は、墓まで来てくれた女たちの様子を見ると、出てこないではいられなかったのでしょうね。詳細はヨハネ福音書にあります。マグダラのマリヤが誰かが私の主のからだをもっていってしまいましたとめそめそ泣いているのを見るに見かねたのでしょうか。「おはよう」とおっしゃったのです。

 「おはよう」と訳されたことばはギリシャ語で「カイレテ」といいます。そのまま訳せば「喜べ」ということです。「喜べ!」口語訳では「平安あれ」と訳しています。「喜べ」とそのまま訳してほしかったなと思われるところです。

「女たちよ。あなたたちはわたしが死んだと絶望していましたね。死に対しては、すべてがむなしくなってしまう。けれども、喜べ!わたしはよみがえったのだ。死に打ち勝ってよみがえったのだ。喜べ!」と主イエスはおっしゃるのです。

 死は恐怖の大王です。死はすべてを空しくしてしまいます。そこには恐怖、絶望、むなしさしかありません。しかし、キリストは私たちに「喜べ!」とおっしゃるのです。「さあ、見るがいい。わたしは確かに死んだ。あなたの罪を贖うために確かに地獄の呪いの死を死んだのだ。しかし、今、見よ。わたしはこのとおりよみがえった。喜べ。わたしはよみがえった。わたしを信じ、わたしにしたがうあなたにも復活のいのちを与えよう。喜べ!」

 主イエスを信じる者は、後の日に、主イエスと同じような、あたらしい体を与えられて復活することができるのです。

 地上の人生、生きていれば、あのこと、このこと、悩ましいこと、心配なことがあるかもしれません。けれども、私たちは永遠のいのち、復活のいのちをもらっていることを思いましょう。人類最後の敵である死に対してさえ、私たちは勝利を得ているのです。ですから、喜べ!です。

 

牢獄にあっても

創世記40

 

2017.4.9 苫小牧夕礼拝

 

1.あわてない。主がともにおられる。

 

 監獄にだまされて入れられてもヨセフはうろたえず、ふてくされず、もがきませんでした。その置かれた場において、ヨセフは主とともに生きました。彼は環境を超越していました。ヨセフはすべての超越者である主とともに生きたからです。

 海でおぼれたことがあるでしょうか。私は小学生3年くらいの夏に、あの『二十四の瞳』で有名な小豆島で家族5人で海辺にキャンプをしたことがあります。実に楽しかった。瀬戸内のおだやかな海辺の砂浜にテントを立てて、飯盒でご飯を炊いて、泳ぎたければいつでも泳ぐことが出来ます。一泊した翌朝四時過ぎ、父母姉はまだおきていませんでしたが、兄と私は泳ごうといって海にはいりました。しばらく泳いでさて立とうとしたら、足が届かないのです。遠浅でなく「近深」の海で、私は溺れそうになって「ブクブク・・・」となりました。兄は「何をふざけとうんや。」と最初笑っていました。水面から胸の出ている兄から私まで、ほんの3メートルしか離れていなかったからです。が、ほんとうに溺れているとわかってびっくりして、テントに走っていきました。「しゅうちゃんが溺れた!」と叫びながら。

 ・・・その時、私はふと冷静になって、すぐそこまで泳げばいいんだと思いました。そして、からだの力を抜いて仰向けになるとからだはぷっかりと浮き上がりました。そして、ばしゃばしゃ泳いで岸まで行ったのです。助かりました。しばらくすると、眠い目をこすりながら父がテントから出てきました。

 あわてふためいてもがくと溺れます。体の力を抜くと浮き上がります。不思議ですね。 

 身の回りにばたばたといろいろなことが起こって、ポティファルの筆頭家令から監獄に落とされたとき、さすがのヨセフもびっくりしたでしょう。けれども、彼は「主が私とともにいてくださる。」と思い出したのです。そうすると、もがくこともなく、そこで平安になれました。そして、この監獄の中でも平安を持って、その監獄という与えられた場での勤めに忠実に励むことが出来たのでした。やがてヨセフは監獄の長に信頼されて仕事をみな任されるようになるのです。

 

2.チャンスを捕える人とは

 

 やがてチャンスが来ました。パロのもとに仕えていた献酌官と調理官という高官が、パロの怒りに触れてヨセフのいる牢獄に入れられたのです。お読みしたように、ヨセフは彼らの夢を解き明かし、次の章ではこのことをきっかけとして、ヨセフは牢獄から引き出されるばかりか、さらにエジプトの宰相として取り立てられることになります。献酌官と調理官が牢屋に入ってきたこの時点では、それほどのチャンスが訪れたとは、誰も気づいた人はいません。が、神様のご計画の中にはちゃんと刷り込み済みだったわけです。

 献酌官と調理官という地位は、私たちにはピンと来ませんが、パロのそば近く仕える人です。江戸時代でいえば将軍のお庭番といったところでしょうか。彼らはパロの怒りに触れたとはいえ、身分ある人ですから、沮喪があってはならないということで、誰か付き人としてつけようということになったわけです。そのとき監獄の長の頭に浮かんだ適任者は、ヨセフその人以外にありませんでした

 どうして監獄の長にヨセフの顔が浮かんだのでしょうか。囚人ならばほかにでもたくさんいたわけですが。それは、ヨセフが監獄にあっても主とともに誠実に生活をしていたからです。ヨセフに任せておけば大丈夫という確信が監獄の長のうちにあったのです。

 監獄生活というのは荒れるものでしょう。一般に素行の悪い人々が集められて暮らすわけですし、生きる目的もわからないで、毎日毎日強制労働の中にあるのですから、ある意味では荒れて当たり前です。特にヨセフの場合、奴隷の身分でありながら主人である高官の妻を強姦しようとしたと訴えられたのですから、当時の基準でいえば、おそらく死刑に準ずる程度の刑を受けていたのです。いつ出られるかわからない監獄です。無期懲役囚というのは、たいへん無気力で荒れるというのが普通だそうです。

 けれども、その自分に科せられた不当な監獄生活と強制労働さえも、ヨセフの目には主がたまわった大切な勤めとして映ったわけです。ですから、いやいやながらではなく、むしろ、喜んで進んで誠実にその任務を果たしたわけで、だからこそ監獄の長にも信頼されることになったのでした。そして、やがて彼は宰相の仕事までも任されることになります。小事に忠実であったヨセフでしたから、神は大事をも彼に任されたのです。

 こうしてヨセフは神様がくださったチャンスを捕えることができたわけです。確かに神様がチャンスをお与えになったのですが、彼がチャンスを捕えることができたのは、冤罪で監獄に入れられたという状況にあっても、自暴自棄にならず、むしろ進んで忠実に小事に仕えていたからでした。摂理の信仰をヨセフはもっていたのです。

 私たちがヨセフの信仰から学ぶことは、摂理者である神に対する信頼ということです。摂理とは、配慮、配剤とも訳される言葉です。神様が、その愛する民のために、もろもろの出来事を通して、最善をなしてくださることを信じる信仰が、摂理の信仰です。

  神の摂理を信じる信仰は、人は謙虚に、そして力強い歩みをさせてくれます。

 ハイデルベルク信仰問答 問答26,27,28

問26 「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。
答 わたしは次のことを信じているのです。
わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。
 神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。
 その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。
神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。
また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。
 神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、信頼できるお父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。

 

問27 あなたは、神様の摂理とは、何であると思いますか。
答 神様の、全能で、あらゆるところで今働いている力であると思います。
その力によって、神様は、天と地を、そのすべての被造物といっしょに、
神様ご自身のみ手によってなさるかのように、保たれ、また、支配されるのです。
なぜなら、木の葉も草も、雨も日照りも、
実り豊かな年も、実りのない年も、食べることも飲むことも、
健康も病気も、富も貧しさも、
すべてのものが、偶然にではなく、
神様の父親としてのみ手によって、わたしたちに与えられるのです。

問28 神様の創造と摂理とを知ると、わたしたちにとって何の役に立つのですか。
答 わたしたちが、あらゆる不幸の中でも、忍耐深くなり、
幸福の中では、感謝をして、
未来のことに対しては、わたしたちの信頼できる、お父様である神様に、
全面的に信頼するようになることなのです。
なぜなら、なにものも、私たちを神様の愛から切り離すことはできないからです。それは、すべての被造物が、完全に神様のみ手の内にあり、神様のご意志によらないでは、揺れることも、動くこともできないからなのです。

 

3.待たされる

 

 細かい夢の解き明かしについては今日は詳しく見ません。とにかく、2人の高官はそれぞれに夢を見まして、その夢の解き明かしをヨセフに依頼したのでした。ヨセフは主によって(創世記40:8)、彼らの夢を解き明かしました。そして、その解き明かしのとおり、献酌官長は救われ、調理官長は死刑にされてしまいました。

 ヨセフは、この献酌官長が釈放されてパロのもとに行くことを知っていましたから、彼に自分の無実の罪を訴えて監獄から解放されることを願っていました。14,15節。

 ところが、献酌官長はヨセフのことを忘れてしまいます。23節。

 

 ヨセフは、ここで神様からもう一つの訓練を受けることになったのです。それは待たされるという訓練、忍耐の訓練です。主の時を待たされるという訓練です。チャンスが到来し、それをしっかりとつかんだからこそ、待つことはヨセフにとってたいへんつらかったのではないかと推測します。けれども、主はヨセフを待たせたのです。ヨセフが、自分の才覚や努力で出獄のことが進んだと思わせないためかもしれません。それより、なにより、神様のご計画では、単にヨセフを監獄から出すだけでなく、かれをエジプトの宰相とするという壮大なプランがあったからです。

 神様の思いは、しばしば私たちの思いはかりをはるかに超えて高くかつ素晴らしいのです。素晴らしすぎて私たちの想像を越えているのです。

 

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

――主のみつげ――

天が地よりも高いように、

わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)

 

 ですから、私たちは主の時を待つことをわきまえなければなりません。神の時をわきまえず、自分で計画し、自分で走り出すならば、神様の摂理の糸を絡ませることになるでしょう。糸がこんがらがってしまった時、あっちを引っ張りこっちを引っ張りすれば、かえって絡まってほんとうに解けなくなってしまいます。ちょっと手を休めましょう。そして、主の前に静まって、心を落ち着けて待つことです。

 時というのはたいせつなものです。何もしていない無駄とさえ思われる時が実はたいせつな場合があるのです。たとえばお漬物がそうですね。たとえば甘酒もそうですね。

 

結び

 私たちの神は摂理の神です。私たちの知恵をはるかに超えたご配慮をしてくださる神です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」そういう神様です。

 ならば、今の苦難も偶然ではなく、神の御手から出ていることです。そして、神を愛し神を待ち望む者に、神はすべてのことを働かせて益としたまうのです。

十字架のイエス

Lk23:33-43

2017年 苫小牧受難週主日

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 1.十字架上の上で

 

 ローマ総督ピラトの法廷での裁判を終えて、主イエスは石畳のだらだらと上っていく道を一歩一歩踏みしめてついに処刑場ゴルゴタへと向かいました。途中、すでにひどく鞭打たれ憔悴していたので、途中からはひとりの巡礼者に十字架を負ってもらい、その前を主イエスは歩いて行かれました。沿道には泣いている女たち、嘲る人々の怒号がうずまいています。こうして、主イエスはエルサレム城外の処刑場である丘に到着しました。時は午前九時。処刑場は「ゴルゴタ」と呼ばれました。その意味は髑髏です。

 今日、ここがゴルゴタの丘だったと言われる場所は二か所あって、一つは4世紀にコンスタンティヌス大帝が建てた聖墳墓教会のある場所です。もう一つは19世紀半ばにゴルドン将軍が提唱した場所で、ゴルドンのカルヴァリーと呼ばれるものです。ゴルドン将軍は、この丘をある方角からみて、白い石灰岩に洞窟が黒々とあいているありさまが、どくろに見えたからでした。私としてはこちらのほうが信憑性が高いように思っています。

 ゴルゴタに到着すると、ローマ兵はイエス様を十字架の荒木の上に押し倒し、一人の兵士が腕をぐいっと引っ張ります。すると、もう一人の兵士がその腕に、長さ十センチはあろうかという釘を打ち込みました。よく聖画では釘は手のひらに打たれたように描かれていますが、近年、十字架刑になった囚人の遺骨が発掘されて、釘は手のひらではなく、前腕の二本の骨(橈骨と尺骨)の間に打ち込まれたのだということがわかりました。手のひらでは体重によって肉が裂けてしまうからでしょう。そして、もう一本の釘は足のかかとの骨を貫きました。いったいどれほどの激痛を主は、忍ばれたのでしょうか。

 そして、三本の十字架が兵士たちによって立てられました。

 「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」23:33

 このようにして、紀元前8世紀に書かれたイザヤ書53章の「メシヤの墓は悪者どもとともに設けられる」という預言が成就したのでした。

 ところが、十字架上の神の御子はそのとき、天を仰いで次のように祈られたのです。今、まさに自分のことを憎み、あざけり、殴りつけ、つばをはきかけ、挙句の果て、服を剥ぎ取って、釘をもって十字架に打ち付けて苦しめる人々のために祈られたのです。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」23:34

 

 ・・・いったい、人間は、このような祈りをすることができるのでしょうか。主イエスはかつて弟子たちにこのように、教えてくださいました。

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:27-36抜粋)

 主イエスは、このように教えただけでなく、そのご生涯をかけてそのまま実行なさったことを私たちは福音書を読むと知ることができます。最後に、イエスさまは、ご自分を憎み、のろい、十字架にくぎ付けにして苦しめる人々のために祝福を祈られました。ご自分をつばを吐きかけて侮辱する人々のために神の赦しを求めて祈りました。こぶしで殴りつける者には反対のほほを向けました。ローマ兵はイエス様の衣を、そして下着までも剥ぎ取られました。なんという屈辱でしょうか。その上、彼らはふざけてイエスの着物をくじ引きにして引き裂いて分け合いました。しかし、イエス様は、彼らを愛されたのです。イエス様は、激痛のなかで力を振り絞ってこの人々の赦しを願って祈られたのでした。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

 2.主の十字架の下の人々

 

(1)父よ。彼らを・・・

 主イエスの十字架の人々とは、どのような人々だったのでしょう。民衆、指導者、兵士たちの言動が記されています。また、福音書の並行記事を読むと、その中には主イエスの弟子たちも紛れ込んでいました。

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」23:35-38

祭司長・学者といった民の指導者たちは、「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言いました。彼らは、民衆の自分たちに対する尊敬がイエスに移っていくことについて、激しい妬みを抱きました。そして、共謀して、イエスを死刑にすることを画策した人々でした。主はそういう彼らのために「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分でなにをしているのかわからないのです」と祈りました。

また、そこには多くの群衆がいました。群衆の中には、つい数日前には、ロバに乗ってエルサレムに入城する主イエスを「ホサナ!ホサナ!」と歓声を上げて、歓迎した人々も含まれていたことでしょう。彼らは、祭司長や学者たちにあおられれば、今度は無責任にも「イエスを十字架に付けろ」「十字架につけろ」と叫んだのです。群集心理というのでしょうか。恐ろしいことです。そういう、心定まらない無責任で残酷な群衆のためにも、主イエスは祈られたのです。「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのかわらないのです。」

ローマ兵たちがいました。彼らは異邦人です。ユダヤの救い主なんぞに関心もありません。自分には無関係だと思っています。ただ、ユダヤ人の王だと名乗ったイエスが、手もなく逮捕されて、むざむざ十字架に磔にされてしまうのを見て、情けない野郎だと軽蔑していたのです。ローマの兵士たちは、「ユダヤ人の王なら自分を救え」といいました。そして、遊び半分にくじをひいてイエスの下着を分けたとあります。イエスの言葉にも、苦しみにも無関心なローマの兵隊たちのためにも、主イエスは祈られました。「父よ。彼らをおゆるしください。」

そして、群衆の中には3年間主イエスと寝食をともにしてきた弟子たちも紛れ込んでいました。彼らは昨夜は「イエスのためならば、ご一緒にいのちも捨てます」と数時間前に口にしたのですが、いざ敵が迫るとイエスを捨てて逃げてしまったのでした。イエス様に従いたい、従うぞと決心しても、サタンに足をすくわれて、主を裏切ってしまう私たち。私たちのために主は「父よ。彼らをおゆるしください。」と祈られたのです。

イエスを憎む指導者たち、その時その時にフラフラ心定まらない群衆、まるで無関心なローマ兵、そしてイエスに従って生きたいと願いながら従うことのできない弱い弟子たち。主イエスは「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」と祈ってくださいました。

 

(2)自分を救って見ろ

指導者たちも、民衆も、ローマ兵も、十字架の下の人々のことばを見ていますと、それらは「自分を救ってみろ」ということばに集約されます。まるで判を押したように同じようなことばです。彼らの考えでは、「人を救う救い主、王、メシヤという者は、自分を救う力がなければならない」ということでした。さらに、イエス様の隣にいた十字架上の一人の犯罪人までも同じ事を言っています。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。この叫びは、人間が求めがちな「救い」がなんであるかということを示しています。彼らの求めていたのは、要するに「力」です。剣の力、富の力、政治の力。

しかし、剣の力によっても、お金の力によっても、政治の力によっても、知識の力、現代では科学の力でしょうか、そういうものによって、人は神の聖なる怒りから救われることはできません。政治も剣の力も知力も財力も科学の力それぞれ、無意味なものではありません。それぞれに意味あるものです。けれども、これらの「力」によって罪人に対する神の聖なる怒りから救うことはできません。神の怒りから救われなければ、永遠の滅びるのです。

 

3.二人の犯罪人

 

 ここに十字架に付けられた二人の犯罪人がいます。彼らは今その悪業の報いを受けて、処刑されています。神様はしかし、この二人に最後のチャンスを与えてくださいました。一人はそのチャンスを生かしてパラダイスにはいり、もう一人はそのチャンスをむだにして、永遠の滅びのなかに陥りました。十字架にかかられたイエス様に対する態度が、人の永遠の運命を決定するのです。

 最後の最後に救われて天国に入った犯罪人は、何か善いことをしたのでしょうか?彼は十字架で苦しむイエス様に対して水一杯差し上げることすらできませんでした。それどころか、他の福音書の平行記事によれば、彼も十字架にかけられながら、つい先ほどまでは他の人たちといっしょになって、イエスを罵っていたのです。「お前が救い主なら、自分を救い、俺たちを救え」と。けれども、彼の心は隣にいるイエス様の祈りを聞いたときに変えられました。『このお方は罪を犯してはいらっしゃらない。このお方は、尊い神の御子でいらっしゃる。』と。そうして、彼がしたことはたった二つのことでした。そのとき、彼はイエス様によってパラダイスに入れていただけたのです。その二つのこととはなにか。神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰です。

第一に自分の罪を認めて悔い改めたことです。

「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(23:41) 自分は罪を犯した、罪の報いを受けるのはあたりまえです。このように神様の前で自分の罪を認めることが救いのためにまず必要です。なぜなら、神様がイエス様をとおして与えてくださる救いとは、罪の赦しであり、罪からの救いであるからです。自分の罪を認めない人に罪の赦しを受け取ることはできません。

第二に、この犯罪人が救いのためにしたことは、イエス様を神の御子救い主として信じて、それを告白したことです。彼はいいました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(23:42)彼はイエス様が天国の御座におすわりになる神の御子であると信じて思い出してくださいとイエス様に頼って信頼したのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。そのとき、イエス様はおっしゃいました。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)

 ほんとうに、すべりこみセーフでした。

 

結び

 「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」敵のためにこのように祈られたイエス様は、まことの愛の神の御子です。このお方に、自分が犯してきたすべての罪を告白しましょう。そして、イエス様、この罪深い私のことも憶えていてくださいと祈りましょう。主イエスは、必ずあなたの地上の生涯の尽きるとき、あなたをも迎えに来ておっしゃいます。

「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」

主がともにおられたので

創世記39章

ヨセフの生涯2

 

1.主がともにおられてヨセフを成功させた

 

 17歳の少年ヨセフは兄たちに奴隷として売り飛ばされて、縄でつながれてエジプトに連れていかれました。ヨセフはどれほど心細かったでしょうか。どんなに悲しかったでしょうか。年季奉公ではないのです。もう一生涯、言葉も知らず知った人もいないところで、奴隷として暮らしていかねばならないのです。こうして、エジプトに到着するとヨセフはエジプトの王パロの廷臣ポティファルに売られて、その家の奴隷として仕えることになったのです。

 多くの人は、こういう悲惨な状況に置かれると、「神様はどこに行ってしまったのだろうか。主は私を見放されたのだろうか。そうでなければ、こんなにひどいことにはならないはずだ。」などとつぶやきます。ところが、2節にはこうあります。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」誰も知った人がいない、天涯孤独と思ったヨセフでしたが、「主がともにおられた」のです。ヨセフは幼い頃からまことの主なる神様のことは教わってきたでしょう。その教わってきた主なる神様にヨセフは祈らないではいられなくなり、主との交わりが、ほかに誰にも頼ることが出来ない異郷での奴隷という境遇に置かれることによって深まっていったことは容易に想像できますね。朝に昼に夕にヨセフは主と交わり、主にお話し、主とともに歩んだのです。

 

 主はヨセフとともにおられて、ヨセフに主人の家の仕事において、やることなすことみなうまくいくようにしてくださいました。3節。「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

 真の神を知らぬ主人ポティファルが、どうしてヨセフとともに主なる神がいますことを知るようになったのでしょう。普通、部下の仕事がうまく行くのを見れば、上司は「これはよく仕事が出来る、能力のある男だ。」と評価はするでしょうが、「主なる神がこの男といっしょにいる。」などとは思わないでしょう。ポティファルがそのように判断したというのは、あきらかにヨセフがポティファルに対して真の神様のことを証言していたからにちがいありません。「お前はほんとうによくできるなあ。」とポティファルにほめられると、「いいえ、ご主人様。これは私とともにいます主なる神が、私に成功させてくださったのです。私は単なる主なる神の道具にすぎません。」というような答えをしていたに違いありません。(参照41:16)

 そうした結果、ポティファルはヨセフに妻以外の全財産を任せることにしたのです。彼は奴隷という身分ではありましたが、この家の筆頭の管理者となったのです。その結果、さらにポティファルの家は富み栄えたのです。ヨセフにとっても、まずはわが世の春という感じでした。あにたちによって奴隷として売り飛ばされてエジプトにやってきた頃のことを考えると、夢のようです。5節、6節。

 

2.誘惑

 

 こうして数年が経ちました。ヨセフはやることなすことみな成功し、ポティファルも上機嫌でした。ヨセフの評判も上々。

 しかし、サタンの誘惑がここに起こってくるのです。ヨセフが体格もよく美男子であったということが災いの一因となったようです。おそらくポティファルの妻は、年がだいぶ上のポティファルに飽き飽きしていたのでしょう。そこに頭もよく顔もよく体格もいい青年ヨセフが入ってきて、始終家の中にいるので、心引かれたのでしょう。彼女はヨセフを誘惑したのです。7節。

 もし家のマスターキーを委ねられて、ヨセフに少しでも増長したところがあったならば、ポティファルの妻の誘惑にもやすやすと乗ってしまったのではないかと思います。一回目は退けることができたとしても、彼女は何度も何度も執拗にヨセフに迫ってくるのです。10節。けれども、ヨセフは誘惑を撥ね付けることができました。それは、8,9節にあることばからわかります。

「しかし、彼は拒んで主人の妻にいった。ご覧ください。私の主人は、家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥様だからです。どうしてそのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことが出来ましょうか。」

 ヨセフは、主人ポティファルに対して恩義を感じていました。奴隷として売られてきたのに、ここまで自分を信頼して取り上げてくださった主人をどうして裏切ることができましょうということでした。けれども、それだけでヨセフはこの執拗な誘惑に勝利することはできなかったでしょう。ヨセフは、「私は神に罪を犯すことができましょうか。」と言いました。主がともにおられるという意識、臨在の意識がヨセフの断固たる姿勢の根本にあります。それがこのサタンの誘惑に勝つことが出来た理由でした。

 

 神様の信者に対するお取り扱いのプロセスという観点から考えると、ポティファルの妻の誘惑は、ヨセフの信仰の生涯のなかで、前の段階よりも1ステップアップしたなあという感じがします。前の段階では、神様はヨセフとともにおられてヨセフに次々と成功をさせてくださいました。ところが今や、ヨセフは主に対して罪を犯さないために、大きな犠牲をはらうというステップに至っているわけです。主がともにおられることによって、成功するという段階から、ともにおられる主のために犠牲をはらうという段階への前進です。

 信仰の初歩とは、私たちは自分の幸せのために主を信じるという段階です。自分が幸せになりたいから、主を信じて幸せにしていただく。成功したいから、主を信じる。確かに、聖書にもそういう人々がたくさん出てきて、それぞれに神様からの祝福にあずかっているのを見ます。病をかかえて主イエスのもとに来て癒しをいただいた人々がたくさんいます。悲しみのどん底で主イエスを知って、希望をいただいた人々がいます。孤独の中で主イエスを知って、主がともにおられることをしって平安を得た人々もいます。それはそれで、感謝すべきことであってよいことです。私たちは決して強い者ではありませんから、一生涯、信仰において主に求めるという面をもちつづけるでしょう。それはそれでよいことです。おさなごのように単純に主に必要を訴えて、お答えをいただくということは信仰生活のたいせつな一面です。

  しかし、同時に父なる神様は私たちをやがて信仰の次のステップに進ませようとなさいます。それは、主のために失う経験をすることです。私たちは主イエスを信じていることのゆえに、犠牲を払うことを迫られることがあります。ヨセフは誘惑を退けましたが、その結果、必然的にポティファルの妻の恨みを買い、主人の怒りを受けて牢屋に落とされることになりました。彼女は自分の色香に迷わないヨセフに、女性として侮辱されたと感じたのです。まあ身勝手な女ですが、それが彼女にプライドに触れたわけです。

 それでもヨセフは甘んじて獄に下りました。奴隷からせっかくパロの廷臣の家の家令職にまで上ってきたのに、今や奴隷よりももっと卑しい囚人へと転落することになりました。せっかく苦労をして得た社会的地位や名声なのに、ヨセフはそれをすべて失ったのです。それは主のためです。

 他の言い方もできます。主がヨセフとともにおられたので、ヨセフは成功したのです。けれども、肝心なことは「成功した」ことではなくて、「主がともにおられた」ということだったのです。ヨセフは主がくださった「成功」と、主ご自身と、どちらを望むかというテストを受けたのでした。そして、ヨセフは主とともに歩むことを選んだのです。「成功する」か「失敗するか」ということはヨセフにとって小さなことにすぎませんでした。表面的なことにすぎません。主がともにおられるということが大切なことだったのです。

 あなたは、主のために失ったことがありますか。

 

3.監獄で

 

 ヨセフはポティファルの怒りを買って、濡れ衣ながら監獄におとされることになってしまいました。パロの廷臣の屋敷から監獄へとヨセフの置かれた環境は激変しました。光から暗闇へという感じです。けれども、なにも変わらなかったことがあります。21節から23節。「主が彼とともにおられた」という事実です。

 「彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」

 ポティファルの妻のような悪女が堂々とのさばっており、正義の人であるヨセフが牢獄につながれるという状況を見て、「人は神はおられるのか?神がいらっしゃるとすれば、どうして何もなされないのか?」と多くの人はいうかもしれません。けれども、主はそこにおられた、ヨセフとともにおられたのです。

 

 またヨセフには、もう一つの危機がありました。それは恨みの獄舎につながれてしまう危険がありました。あのモンテクリス伯爵ことエドモン・ダンテスのように。自分を陥れたポティファル妻を恨み、また、もっとさかのぼれば自分を奴隷に売り飛ばした兄たちを恨み、復讐を誓うというのがただの人間の心理でしょう。多くの人は、こうした恨みの獄舎にとらわれて暮らしているものです。恨みの獄舎長はサタンです。サタンは、怒りを恨みに、恨みを殺意に変えます。

 けれども、ヨセフはそうしたサタンの罠に陥りませんでした。主がヨセフとともにおられたからです。ヨセフにとっては、自分が奴隷であろうと、家令職にあろうと、はたまた囚人であろうと、社会的な立場の違いはさほど大きな問題ではなかったように見えます。ヨセフにとって最大のことは、主がともにいてくださるかどうかということだったのです。そして、主がともにいてくださるのだから、どんな立場にあっても、彼のうちには変わることのない平安と喜びがあったのでした。

 

 むすび

 私たちもいろいろな状況に置かれることがあるでしょう。特に、人の悪意によって富や名声や地位を失って苦境に陥れられたというようなことでもあれば、その悔しさや怒りや悲しみを除くことは、容易なことではないのでしょう。しかし、注意しなければなりません。恨みを抱きつづけるならば、サタンの思う壺です。うらみつづける人はサタンの奴隷とされてしまいます。

 私たちの人生にはクリスチャンになったとはいえ、穏やかな春の野を行くような日々もありましょうが、吹雪や闇夜もあるでしょう。しかし、クリスチャンの人生はどんなときにも主がともに歩んでくださる人生です。一足、一足、御国に向かって進んで行きましょう。聖歌588

「主とともに歩むその楽しさよ 主のふみたまいし御跡をたどる 一足一足主にすがりてたえず絶えずわれは進まん

花咲く野原も血にそむ谷も導かるるまま 

主とともに行かん」