水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

わがたましいよ 主をほめたたえよ

 

序 

1**,わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。**

 河兄の祈りにありましたように、私たちは日常の祈りの中で、自分の願い事を並べ立ててばかりいることが多いものではないでしょうか。「誰それさんの病気を治してください。」「何々が必要です。」「良い就職口を与えてください。」・・・

 神さまに願い事をすることは良いことです。神様になんの願い事もしないのは、神様が死んだ神だと思っているか、自分の力で生きていると思い上がっているかだからですから。もし子どもが親から「何かほしいものはないの?」と聞かれて「ぼくは、お父さんにはなにも期待していません。」と答えたら、親はどれほど悲しいでしょう。親が子供が何もおねだりをしないでいると物足りないように、神様も私たちが何もお願いしないでいると、物足りないのです。

 けれども、「願い事しかしない」というのは問題です。神様を自動販売機のように思っているみたいです。実家に手紙をよこすときは、「金頼む」の一言しかない学生みたいなものです。詩篇103篇は、感謝と賛美の詩篇です。

 

1 主の良くしてくださったことのゆえに・・・あれこれ感謝から始める

 

 詩人はまず、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と具体的に主がしてくださったことを思い出し、数え上げることから始めよ、と自分の魂に命じます。私は何度もみなさんにお勧めしますが、夜床に着いたら、両手を出して、十個、今日、神様がくださった恵みを数え上げましょう。

 詩人は、こんなふうに思い出しました。

2**,わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。**

3**,主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし**

4**,あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ**

5**,あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。

 

 まず、健康が守られた、とか、仕事が順調だったとかいうことではなく、いの一番に「咎をゆるし」が一番目に来るところ、さすが神を恐れる詩人です。神様の前に罪咎をゆるされたということこそ、罪ある人間にとって一番ありがたいことです。罪がゆるされなくては、神様との交わりは回復せず、胸の内はうずき続けて不安であり続けなければなりません。イエス様の十字架の血潮のゆえに、復活のゆえに、私の罪は赦された!という根本的な事実が、私たちにとってなによりもありがたいことです。究極的には、神の前に罪をゆるされているならば、いつ、お迎えがきても安心ですからね。

 すべての咎のゆるしに続くのは、病をいやすこと、いのちを墓穴から贖うこと、若々しくすることです。おしゃかさんが言った老病死という人間がだれしも経験する苦しみのリストでもあります。おしゃかさんは老病死は、生まれてきた以上必然だから諦めなさいと教えましたが、神様はそうではないのです。もちろん私たちも老病死を経験しますが、あきらめるのでなく、主に癒しと、若々しさと、死からの救いを積極的に願えばいいのです。恵みとあわれみで私たちを扱ってくださいます。・・・それでも年取って病気になってやがて死にますが、それはイエス様のみもとというもっと素晴らしい家に引っ越すことであり、かつ、究極的には三位一体の神が住まわれる新しい天と地への復活の約束が与えられているのがクリスチャンの素晴らしい人生です。

 

2 主の正義とあわれみのゆえに・・・主のあわれみ深い摂理を振り返って

 

 詩人ダビデは、続いて、イスラエルの歴史における神様の摂理、導きを振り返ります

 6**,主は義とさばきをすべての虐げられている人々のために行われる。**

7**,主はご自分の道をモーセにそのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。

 

 詩人はイスラエルの歴史の原点ともいうべきエジプト脱出の出来事を思い起こすのです。ふえすぎたイスラエルの民の力を削ぐために、生まれてきた男子を皆殺し、ジェノサイドを企てるエジプト王。この王の奴隷として虐げられていたイスラエルの民を、主は先祖アブラハムと結ばれた契約に対する御自身の真実にかけて解放してくださいました。紀元前14世紀のことです。主はその正義とさばきの御手を動かして、世界最強の権力者ファラオの魔手から彼らを解放してくださったのです。

 しかし、エジプト脱出後、荒野でのイスラエルの歩みは神様に対する不平と不信に満ちていました。水がないと言っては、モーセと主を非難して、岩から水を出してもらいました。腹が減ると「エジプトですき焼き食べていたほうがよかった」とわめきちらすと、神は完全栄養食品マナを降らせてくださいました。しかし、しばらくすると、もうマナは飽き飽きだと不平を鳴らしました。そして、モーセがホレブ山に律法を受け取りにいったまましばらく戻らないと、なんと彼らは金の子牛の偶像を拝むことさえしたのです。

 なんという忘恩の民。主はついに怒りを燃やされて、ひとたびはこの頑ななイスラエルの民を荒野で滅ぼしてしまうとさえおっしゃいました。しかし、モーセのとりなしの言葉を受けて、主は彼らを赦してくださいました。主は、正義とさばきの神ですが、憐れみと情けに満ちたお方でもあります。詩人の思いは過去のイスラエルのことから、「私たち」への主のお取り扱いに移って次のように歌います。

8**,主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。**

9**,主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。**

10**,私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。**

 

 主は実に憐れみ深く、情け深く、怒るのにおそく、恵み豊かなお方でした。忘恩のイスラエルを忍耐に忍耐を重ねて約束の地まで導いてくださいました。

 

3 主の恵みのもとに生きる

 

 私たち自身もまた日々、こころの思いと、ことばと、行いにおいて罪ある者です。もし私たちの罪にしたがって私たちを扱われるならば、私たちもまた、とおの昔に滅ぼされてしまったでしょう。しかし、正義の神は同時にあわれみ深いお方なのでした。そうして、主を恐れる者を哀れんでくださいます。私たちの罪を、キリストの贖いのゆえに忘れてくださるのです。

 11**,天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。**

12**,東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。**

13**,父がその子をあわれむように主はご自分を恐れる者をあわれまれる。**

 

主なる神様は、私たちがどれほどもろく壊れやすい者かということをよくご存知です。また、正しく生きようと願っていても、どれほどサタンの誘惑に対して弱いものであるあかをご存知です。所詮、人は土から造られたちりです。

 14**,主は私たちの成り立ちを知り私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。**

15**,人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。**

16**,風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない。

  人をヘブライ語でアダムといいます。アダムとは土アーダマーからできた名です。私たちはまことに塵にすぎません。水分60%、たんぱく質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%です。死んで焼かれてしまえば、文字どおり火葬場ではほとんどは二酸化炭素と窒素の煙になり、残りは塵取りにかき集められる存在です。

 しかし、三位一体の神は、物質的にいえば塵にすぎない私たちを第二位格、御子イエスに似た者として造ってくださいました。それゆえに、人は尊い存在です。キリストは人としてこの世にお生まれになり、貧しさも、痛みも、悲しみも、空腹も、経験してくださいました。そして、私たちの罪を一身に背負って、十字架にかかってくださいました。三日目にはよみがえって天の御座についている王なるイエス・キリストに信頼し、イエスキリストの契約のうちに生きる者に、恵みをとこしえからとこしえまで、注いでくださるのです。

17**,しかし主の恵みはとこしえからとこしえまで主を恐れる者の上にあり主の義はその子らの子たちに及ぶ。**

18**,主の契約を守る者主の戒めに心を留めて行う者に。

19**,主は天にご自分の王座を堅く立てその王国はすべてを統べ治める。

  

4 主をほめたたえよ・・・・感謝を超えて主をほめたたえる

 

 主は、キリストにある契約のゆえに私たちの咎を赦してくださいました。また、主は私たちの病を癒し、私たちを永遠の滅びから救ってくださいました。 主は正義と公正をおこなわれる神です。そして、わたしたち主を恐れて、その契約のうちに生きる者には、格別のあわれみを注いで、その人生に恵みを注いでくださるお方です。

これらの恵みを数え上げて感謝しました。感謝というのは、自分にとって益があったから主に申し上げることですが、それでは不十分です。ただ主が主であるがゆえに、主をたたえてこそ賛美です。願いから始まり、感謝をとおり抜けて、ついに賛美にまで到達したいものです。詩人は、地上からの讃美だけでは十分ではないとばかり、天使にもさあ、いっしょに主を褒め称えようと呼びかけるのです。

20**,主をほめたたえよ主の御使いたちよ。みことばの声に聞き従いみことばを行う力ある勇士たちよ。**

21**,主をほめたたえよ主のすべての軍勢よ。主のみこころを行い主に仕える者たちよ。

 

そして、あらゆる被造物に詩人は呼びかけます。神の作品として、人間や天使ばかりでなく、牛も馬も羊も犬も、象もライオンも、巨木も海の魚たちも、ミミズもオケラも、みな主をほめたたえよ、と呼びかけるのです。主は全被造物の贖いを約束していてくださいます。

 22**,主をほめたたえよすべて造られたものたちよ。主が治められるすべてのところで。

 

そして、結論として、もう一度詩人は叫びます。

「わがたましいよ主をほめたたえよ。」

 

  今日は詩篇歌103篇をもって主に感謝し、主を賛美しましょう。

泉湧く人生

詩篇84篇
         

指揮者のために。ギテトの調べにのせて。コラ人による。賛歌。**

1**,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。**
2**,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3**,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。

4**,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ
5**,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
6**,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7**,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。

8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

10**,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。**
11**,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。**
12**,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。

 

 詩篇84篇の詩人は、王という立場の人であったようです。それは8,9節を見るとわかります。「油注がれた者」とは第一義的に王を意味していました。
8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
 しかも、万軍の主よ、と呼びかけ、「われらの盾をご覧ください」とあるところを見ると、どうやら王はいくさに赴こうとして、その前に主の家、立ち寄って祈っているようです。やはり、竪琴の名手であり詩人であったダビデその人かなあと想像されます。

 

1 詩篇84篇に一貫する主題のことばは、「主の家」です。主の家とは、新約においては、キリストのからだである教会です。

1節「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。」でいう「あなたの住まい」は神殿を意味します。
2節「私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」の「主の大庭」というのは神殿の中庭を意味しています。そこで民は礼拝をささげるのです。
4節「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。」というのは神殿に仕える祭司たちを意味しています。
5節「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。」のシオンは神殿を中心とするエルサレムの山を指しています。
そして、10節にも「あなたの大庭」「神の家」はやはり神殿とその礼拝の中庭を意味しています。

 神さまの神の民に対する契約の中心は、神が神の民とともに住んでくださるということです。そして、旧約時代、神殿はその恵みの事実を象徴する施設でした。旧約時代の神殿は影であり、新約時代はその実現した本体が出現します。新約時代において現れた神殿の本体とは、主イエスのからだである教会、神の家です。
 キリストは御自分のからだが神殿であるとおっしゃいました。そして、キリストのからだとは教会です。建物のことではありません。キリストのからだである教会とは、キリスト者の礼拝共同体です。主イエスがおっしゃったでしょう。「二人でも三人でも、わたしの名によって集うところに、わたしはいる」と。このイエス様の御名によって集ったこの集いがキリストのからだであり、今この礼拝の場に、主は臨在しておられるのです[ エペソ2:22「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
1コリント3:16,17「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」
1ペテロ2:4,5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ」なさい。
]。ですから、主にお目にかかりたいならば、主の名によって集う集いに来るべきです。
 ですから、これから詩篇84篇を読み進めるにあたって「主の家」とは教会のことであることを意識しましょう。

 

2 1ー3節は詩人がどれほど熱心に主の宮を慕っているかということが情熱的、詩的に表現されています。

1**,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。**
2**,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3**,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。
 「万軍の主よ」と詩人は呼びかけます。肉眼と肉の耳で得た情報によれば、多勢に無勢であるけれども、万軍の主がともにいてくださるという事実のありがたさです。
 主の宮というのは、ソロモン以降の時代でいえば、石造りのエルサレムの神殿を意味しますが、ダビデの時代であるとすると、移動式神殿である幕屋でした。主の宮は、祭司が住まい、そこに臨在なさる神の御声を聞いたのでした。詩人は、雀がつばめたちが、この主の宮に祭壇のそばに巣作りをするのを見て、「ああ、あのスズメや燕たちように主の臨在の近く、主の宮に住むことができたらどれほど幸いなことだろう」とうらやましくて、絶え入るばかりだと言っているのです。ダビデはいろいろ失敗もするし欠点もありましたが、彼の書いた詩篇や彼の事績を読むと、彼は実に主なる神を愛する人でした。
 私たちはどうでしょうか?身辺に何かがあると、「すぐに教会に出かけて祈ろう」と思いますか?それとも、「今は色々大変だから、落ち着いたら教会にも行きましょう」と思うのでしょうか。どちらが本当の神を愛する人でしょうか。まず主の宮を慕う者となりましょう。
「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」
 「二人三人わたしの名によって集うところに、わたしもいる」とイエス様がおっしゃいました。キリスト教会の交わりの内には、主イエス様がご臨在していてくださるのです。今、キリストの名によって礼拝をささげているここは主の住まいなのです。この教会の交わりを慕い愛する人は主を愛する人です。その人は祝福を受けます。

 

3 なんと幸いな人ことでしょう

 次いで4節から7節で、詩人は二度にわたって「なんと幸いなことでしょう」と歌っています。
4**,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ
5**,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
 詩人である王が「なんと幸いなことだろうか!」とうらやましそうに言っているのは、「主の家に住む人たち」つまり、祭司たちのことです。王は、安息日ごとには主の家に礼拝に出かけて行くのですが、祭司たちはいつも幕屋で、主なる神に仕え、主を賛美しているのです。なんと幸いなことだろうと、うらやましくてならないのです。王は、ユダ族でしたから、レビ人のように祭司になることはできませんでしたが、主の宮で主の御顔をあおぎ思いめぐらすことを、一つの願いとしました。詩篇27:4「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」

 詩人は「なんと幸いなことでしょう!」と繰り返します。「その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人」です。祭司ではない自分は神殿に住むことはできないけれども、その力が主にあり、心の中にはシオンへの大路があるならば、その人は幸いです。シオンというのはエルサレム神殿のある山ですから、やはり神殿を指しています。常に主に心向けている人という意味です。
 我力でがんばって生きているのでなく、主を自分の力として生きている人。心はいつも主の家に向かっている人は幸いだというのです。何かを成し遂げても、それは主の力によるのだとわきまえて、栄光を主にお返しする人は幸いです。

 

4 泉湧く人生

 主を力とし、主の宮、教会へと心が常に向いている人は、たとい試練をくぐることがあっても、その人生で素晴らしいことがあります。6節、7節
6**,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7**,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。
 戦に苦戦があるかもしれませんが、きっと勝利に導かれるということです。人生の中では、ときには「涙の谷」をすぎなければならないことはあります。けれども、クリスチャンはその「涙の谷」を泉が湧く所とするのです。「泉は湧き出づるかぎり泉である」このことばは、私の小学校6年生の担任であった山本敏夫先生が、卒業記念のアルバムの扉に書いてくださったことばです。折々、私はこのことばを思い出します。池というのは、外から入ってくる水をためているくぼ地にすぎません。しかし、泉というのはその底からこんこんと水を湧き出させているものです。つまり、池は受けるばかりの人生ですが、泉はあふれる人生であり、自分を潤すだけでなく他者をうるおす人生ということなのでしょう。私たちの人生には、涙の谷間を通る時があります。しかし、その涙の谷間が、あふれるいのちの泉となるというのです。
 ・・・どういうことだろうかと思いめぐらすうち、2コリント1章のパウロのことばを示されました。
4,神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
 イエス様を信じるあなたはきっと経験したことがおありでしょう。本当に堪えがたい苦しみの中にあるとき、イエス様の十字架を見上げるならば、「ああ、イエス様も苦しまれたのだ」と、不思議にその苦しみと悲しみが慰められたということがあるはずです。そして、苦しみを知り、苦しみの中で十字架の主イエスに出会った人は、他の苦しみの中にある人を慰めることができます。「涙の谷」は泉わきでるところと変えられます。だから「主の住まわれる家」、礼拝共同体である教会の集いを恋したうしクリスチャンは幸いです。

 

5 そして、今、神殿で、王である詩人は、万軍の主に向かって祈り、耳を傾けてくださいと乞い求めます
8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
 詩人は王です。今、外敵との戦いのために戦地に赴こうとしているのでしょう。しかし、彼は戦に自分の力、武器、作戦によって勝てるとは思ってはいませんでした。しかし、万軍の主が共にいてくださってこそ、この戦に勝利できることを彼は確信していました。ですから、神殿で、主なる神に向かって祈るのです。
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
 主がともにいてください。主が油を注いて王として立てた、この王である小さな私の盾に目に留めてくださいと、せつに祈るのです。
 そして、この賛美の最後に歌い上げます。
10**,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。
私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。**
 どんな贅沢な調度品に囲まれた王の宮殿でご馳走を食べ、多くの家臣団にかしずかれて過ごす千日よりも、この主の家、神殿で神のお顔を仰ぎ見て、賛美をささげて、祈りをささげるこの一日の方がはるかに勝っている。自分は悪人たちの天幕の奥の豪華な座に座るよりも、たとえ門番でもよいから、神の家にいたいというのです。

●頌栄
主の宮をこよなく大切に思い、慕い求める王である詩人は、いのちを的にする戦地に赴くまえに、主の宮を訪ねて祈り、主がわたしの太陽であり、主がわたしの盾であるという確信にいたって、平安を得て、勇気を与えられて出陣します。そうして、最後にもう一度「なんと幸いなことでしょう」と謳い上げて結びます。


11**,まことに神である主は太陽また盾。
主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。**
12**,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。
 
結び 詩篇歌84篇を歌詞をよく味わいつつ歌いましょう。

  

王である祭司、聖なる国民

Ex19章1-6節

1.序

 エジプトを出たのが第一の月のついたち。それから二ヶ月がたち、第三の月のついたちにモーセイスラエル人はシナイの荒野にはいりました。そして、先に神様がモーセに啓示をお与えになってモーセを召し出された山、シナイ山(別名ホレブ)のふもとに到着し宿営をはりました。モーセは、先には羊を飼ってこのシナイ山にやってきて、燃えて燃え尽きない芝の木の前でひれふして、主を礼拝したのでした。モーセとしてはようやくこの地まで民を連れてくることができたので、ほっと一息というところだったでしょう。

出エジプト記 19:1-2
 「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。」
シナイ半島の山々はまったくごつごつした岩のかたまりにすぎません。シナイ山は木も草も生えておらず、ただただ岩だけの山です。モーセは一歩一歩岩地を踏みしめて、主の山に登って行きました。
そこで主はモーセに対しておことばを与えます。
出エジプト記 19:3
 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
出エジプト記 19:4
 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
出エジプト記 19:5
 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
出エジプト記 19:6
 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

2.救いの順序

 この主のことばから学ぶべき大事な点は、救いの順序です。
まず「イスラエル救出」(4節)「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」
次に、「イスラエルの使命」(5,6節)「 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」という順序です。

まず、主がイスラエルの民をご自分の翼に載せるようにしてエジプトから救い出されました。この救いが第一です。
 その次に主はイスラエルに対して、「わたしの声に従い、わたしの契約を守りなさいと命令なさいます。そうすれば、イスラエルは神の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」とおっしゃいます。
 言い換えると、イスラエルの民がエジプトで神を恐れ神にしたがって「さすがに聖なる国民、祭司の王国だ」と称賛されるような生き方をしていたから、その報いとして神様が彼らを救われたという順序ではありません。そうではなく、イスラエルの民はエジプトの地では、エジプト人と似たり寄ったりの偶像に汚された罪深い生活をしていました。彼らが偶像と汚れに染まった生活をしていたことは、後に与えられるもろもろの律法を読むとよくわかります。そこには、いろいろな偶像を拝んではいけないこと、占いや霊媒を用いてはいけないこと、口にするのも忌まわしいような不道徳な行いをしてはいけないことなどが書かれています。ということは、イスラエルの民のうちにはこういう罪が入り込んでいたということです。そういう生活の報いとしては、罰しかないでしょう。ところが、それにもかかわらず、神様はイスラエルの民を救われたのです。
みことばは教えているのです。まず神様が彼らイスラエルの民を選び、救出されたのだから、その神の民としてふさわしく生きよとおっしゃるのです。この順序は、真の神がわたしたちを救ってくださる順序なのです。これは旧約時代も新約時代も代わらない順序なのです。<まず恵みによる救い、次に、救われた者としてきよい神にふさわしく生きる>という順序です。
 ローマ書、ガラテヤ書、エペソ書などパウロの書簡の構成を見ても、たしかにそういう順序になっています。まず、神様による救いがあり、救われた者として神の民として、神の栄光を表すためにいかに生きるかということが書かれています。
ルカ福音書15章の、あの放蕩息子が父のもとに帰ってきたとき、父親は息子に「まず証拠を見せよ、きよい生活の実績ができたら、息子としての籍を回復してやろう」とは言いませんでした。傲慢に父に背き、飢えかつえ、豚の糞尿にまみれたぼろぼろの姿で帰ってきたら、父親が遠くからそれを認めて息子にかけより、接吻して、彼に相続人の指輪をはめてやりました。それから息子は、だんだんと清い生活をしていくようになるのです。
 <まず、恵みによる救い、次に、神のくださったきよい使命に生きる生活>です。

3.祭司の王国、聖なる国民。

(1)祭司の王国、聖なる国民
ポイントの第二は、神が民にたまわった使命が「祭司の王国、聖なる国民」となるという点です。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

「聖なる」というのは、「取り分けられて神様専用のものとされた」という意味です。聖とするというのは、「分ける、区別する」という意味で、特に、神様のものとして他と区別するのです。世界中はもちろん創造主である神のものなのですが、そのなかでも特に神様専用にすることを聖とするといいます。
クリスチャンにとって一週間すべてが神様のものであり、食べるにも飲むにも働くにもテレビを見るにも神の栄光をあらわすようにするのですが、特に一週間のうち主の日は、神様専用の日とするというので、主の日を聖日と呼びます。あるいは、私たちにある収入があったならば、それは全額神様から託されたものですから、それをどのように用いるにせよ神様の栄光を表すようにもちいるのがクリスチャン生活ですが、その中でも特にいわゆる献金にする分は聖別されたものというのと同じです。「あなたがたは聖なる国民だ」というのは、神様のために特別に取り分けられた民だということ、神の特選の民だということです。

「祭司の王国」とはなんでしょう。祭司の務めというのはなんだったでしょうか?それは、自分が特権階級だとおごって、他の人々を見下すことではなく、むしろ、民の代表として民に同情して、民の立場になって神様にとりなし祈ることです。ですから、本来は、イスラエルの民は世界の民のために執り成し祈るという重要な務めが与えられるはずだったのです。異邦人もまた真の神を知ることができるようにと祈る務めがあったのです。
 残念ながら、後になるとイスラエルは、自らか神の選びの民であることを誇り、異邦人を犬と呼び、祭司の務めを果たすどころではなくなってしまったようです。そして、イエス様が人として来られたころには、『私たちはアブラハムの子孫なのだ』とおごっていたようです。
 本来は、異邦人のために、その救いのためにもとりなし祈り、神様の御心を伝えていくのが祭司の王国としての役目だったのです。


3.新約時代の神の民

では、祭司の王国、聖なる国民とはイスラエル民族だけのことでしょうか。たしかに旧約時代はそうでした。しかし、「祭司の王国、聖なる国民」という言い方は、新約の時代になるとキリスト教会の呼び名として用いられるようになります。
第一ペテロ 2:9-10
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
 「あなたがたは、以前は神の民でなかった」というのは、あなたがたはイエス様が来られる前の旧約時代には異邦人でしたという意味です。ところが、神の子イエスが十字架にかかって復活して、ユダヤ人、異邦人の垣根を取り払ってくださいました。
私たち、新約の時代の神の民、教会は、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。
 そこで、イスラエル民族と同じ轍を踏まないように、私たちが注意しなければならないのは、まず誤った選民意識でしょう。「神の国が近づいた。悔い改めよ。『私たちはアブラハムの子孫である』と言って誇っていてはいけない、神はこの石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのだ」と、かつてヨルダン川のほとりでバプテスマのヨハネが叫びました。
 私たちが選ばれたのは、私たちが何かすばらしいとりえがあるからではないのです。私たちが他の人に比べて特別きよく正しい親切な生活をしていて、顔が良くて、金持ちで、頭が良くて・・・だから選ばれたのではないのです。ただ、神様が私たちをあわれんでくださったから、私たちは選ばれたのです。みことばに次のようにあります。第一コリント 1:26-30「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
 このように神様のあわれみによって選ばれ、聖なるものとされたのですから、私たちは決して傲慢になってはいけないのです。

 それと同時に、私たちは「祭司の王国」としての任務をいただいていることを肝に銘じましょう。祭司の務めとは、同情心をもって民の立場にたって、神様の前にそのとりなしの祈りをささげることです。あなたは、教会の兄弟姉妹のため、家族の祝福と救いため、この国と世界のためにとりなし祈るという祭司としての任務を神様から受けているのです。もちろん、自分のために祈ることは大事ですが、他の人々のために祈ることもまた大切な務めです。そのために、一日のなかのよいときを聖別することが必要です。
第一テモテ 2:1-3
 「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

結び
 今、私たちの国は嘘とごまかしと傲慢に満ちた指導者の下にあって、たいへん危険な状況に陥っています。私たちはただ怒っているのでなく、祭司として、彼らのためにとりなし祈る務めがあります。
・祈りの課題
 ・この国の指導者が目先ごまかさず、現実をきちんと直視するように。
 ・この国の指導者が、嘘を言わず真実を語る人となるように。
 ・この国の指導者が、一部の富裕層大企業のご機嫌を取るのでなく、庶民を顧みる心を持つように。
 ・この国の指導者が、平和を愛し、謙遜な心をもつように。

神様は私たちを、祭司の王国として世に派遣していらっしゃるのです。私たちは祭司として、目をさまして、隣人の救いのために、この国と世界のために祈る務めがあります。そして、祈ることが最も効果的です。

神はあなたを愛している

ヨハネ3章16節

2019年6月16日 苫小牧伝道礼拝

  

 聖書は永遠のベストセラーと言われますし、偉人たちは聖書についてさまざまなことを言い残しています。ナポレオンは「聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。」と言い、アブラハム・リンカンは「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある。」と言っています。

 そんな聖書ですが、実際に手に取ると、六法全書みたいに分厚くて、読み通すことは不可能と思ってしまいそうです。「こんな分厚い本だけれど、要するに何が書いてあるのか?」それを知りたいならば、ヨハネ3章16節を理解して憶えていただけばいいのです。これは奥義のかなめ、聖書の中の聖書です。今日は、それを順々にお話ししましょう。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3章16節

 

1 神は・・・世を愛された

 

(1)神とは天地万物の創造主。

 日本は八百万の神々がいると言われます。そういう神々と、聖書の神とはどこがどうちがうのでしょう。一言でいえば、八百万の神々は、たとえば人間が大きな岩にしめ縄をまいて神にしておこうとか、野球がうまいから彼を野球の神に祀り上げようとか、東郷さんは戦争に強かったから軍神にしておこうといって祭り上げたものです。つまり、この種の神々はみな人間が造ったものです。

 これに対して、聖書の神はこの宇宙全体を造り、私たち人間を造った唯一の神です。「初めに、神が天と地を創造した。」とある通りです。ここが違います。

 

(2)父と子と聖霊の愛の交わりの神

 この創造主である神様は、人間をお造りになったとき、神はおっしゃいました。「さあ、われわれのかたちに人を造ろう。」・・・「われわれ」と神がおっしゃったことに注意してください。先ほど、人間は八百万の神々を造ったけれど、真の神は唯一のお方であると申し上げました。ところがこの唯一の神は、ご自分を指してときどき「われわれ」とおっしゃいます。

 それは、唯一の神のうちに、父と御子の愛の交わりがあるからです。最初に読んだように、父なる神は、ひとり子イエス様と、聖霊による愛の交わりのうちにいきていらっしゃるのです。ヨハネ福音書第一章に「はじめにことばがあった、ことばは神とともにあった。ことばは神とともにあった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とあるとおりです。

 創造主である神は、愛の交わりの神です。

 

(3)神が人を造った目的

父と子と聖霊の愛の交わりの神様は、私たちを御子に似た存在として造りました。それは、私たちが、全身全霊をもって神を愛し、また、私たちがお互いに愛し合い、また、この世界を愛をもって治めるためでした。神は愛のお方ですから、その神様の愛が、この世界にも満ちるために私たち人間を作られたのです。

人間の主な目的は、神を愛し礼拝をもってそれを表すことです。また、神がくださった隣人を自分自身のように愛することです。また、世界を神のみこころにしたがって愛をもって治めることです。

 

2 滅び

 

(1)滅び

 けれども、ヨハネ福音書3章16節には、「滅び」ということばが出てきます。聖書がいう「滅び」とはなんでしょうか。滅びとは、天地万物の創造主との断絶状態を意味しています。神を親、私たちを子どもとすれば、人が滅びているとは家出した子どもの状態だということです。親はいるけれど、相談できないのです。滅びた人生にはいくつかのしるしがあります。

 

(2)人生のむなしさ

滅びの人生の第一の印はむなしさです。高校生のとき、私は身近な人の急な死という出来事があって、「人間はなんのために生きているんだろう?人生の目的とはなんだろう?」と考えるようになりました。当時わたしは国文学者になりたいなということで、それをとりあえずの目標として勉強していました。でも、目的はなにかというと、何もわかりませんでした。もし人生を電車に譬えるとすると、わかっている終着点はただ死ぬということだけでした。人が生きているのが、結局は死ぬためでしかないとしたら、なんとむなしいことでしょうか。

創造主である神が人を造られましたから、人の主な目的は、神の栄光をあらわし、神の栄光をあらわすことです。しかし、神に背を向けてしまったとたん、人はその人生の目的がわからなくなって、人生はむなしく無意味なものとなってしまいました。むなしさが滅びの人生の第一の印です。

 

(3)罪の奴隷

 神に背を向け、滅びた人生の第二のしるしは、罪の奴隷状態であるということです。奴隷状態というのはしたくないことをさせられるということです。

 たとい神様に背を向けていても、神様は人を御子に似たものとして造られたので、良心というものが備えられています。ですから、人はウソをつくとか、盗みをするとか、人を傷つけるとか、浮気をするとかするときに、良心の呵責をおぼえます。それで良心の呵責をおぼえて、もう二度とこの罪は犯すまいと決心を自分の内側でしたとしても、また、おなじ罪を犯してしまいます。自分でしたくもない罪を犯してしまうのです。まるで自分の中に、もう一人の悪い奴が住んでいるような状態です。人は罪の奴隷、サタンの奴隷となっているのです。

 これは、神に背を向けてしまって以来、人間がずっと悩んできたことなのです。心理学者も、教育者も医者も解決することはできません。

 

(4)死の向こうへの恐怖

 そして、滅びている状態の人のもう一つのしるしは、死の向こうへの恐怖です。哲学者は虚勢を張って、「死は怖くない。なぜなら、死んだとき私はそこにいないから。」などと屁理屈をこねました。でも、そんな理屈をこねなければならないほど、人間は死が怖いのです。それは、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていることを、人は心のもっとも深いところで知っているからです。そして、他の人の目の前では善い人としてふるまっているけれども、実際には、人目に隠れて、あるいは、心の中で邪悪なことをしてしまう自分自身を知っているからです。

 実際、もしあなたが今日、キリストを無視して死ぬならば、あなたは神の前に有罪判決を受けて永遠の滅びに陥らねばなりません。

 生きる目的のわからないむなしさ、罪の奴隷状態、死の向こうへの恐怖。あなたは、滅びのしるしをもっていないでしょうか。それは、神様が、あなたを神の栄光をあらわす器として造られたのに、あなたが神に背を向けていることによっているのです。

 

3 しかし、神は世を愛し、御子をくださった

 

 けれども、最初に申し上げたとおり、「神は世を愛された」のです。神はあなたを愛されたのです。神は、ご自分に敵対し、感謝もせず、心と唇と手で日々罪を犯しながら、永遠の滅びへと突進している私たち人間を愛してくださったのです。なぜなら、神は愛であるからです。そこで御子をくださいました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあるとおりです。

 御父は御子に言われたのでしょう。「人間たちは、私たちに背を向け、神などいるものかと言いながら、そして滅びへ滅びへとむなしい人生をたどっている。互いに傷つけあって苦しんでいる。あのままでは永遠の滅びに陥ってしまう。しかし、わたしは彼らを助けたいのだ。御子よ、お前が人となって彼らのもとへ行き、彼らの罪を背負って、救ってやってほしい。」そこで、二千年前、御子は人となってこの世に生まれてくださいました。

 父なる神と瓜二つの御子が人となってこの世界に来てくださったことによって、私たちは真の神がどのようなお方であるかということを知ることができました。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところのひとり子の神が神を説き明かされたのである。」主イエスがどのようなお方であるかを知りたければ、福音書を読まれるといいのです。イエス様のご生涯を歌った賛美歌「この人を見よ」で紹介しましょう。

「まぶねの中にうぶごえ上げ 匠の家に人となりて

貧しき憂え 生くる悩み つぶさになめしこの人を見よ」

 イエス様は人間の世に生まれるにあたって、王侯貴族や大富豪の家を選ばず、庶民である大工さんの家に生まれました。そうして、貧しさ、生活の苦しさということを経験してくださったのです。それは、私たちを理解する友となるためでした。

「食するひまも打ち忘れて 虐げられし人を訪ね

 友なき者の友となりて 心砕きしこの人を見よ」

 イエス様は食べる時間も惜しんで しいたげられた人、貧しい人、ツァラアトという忌み嫌われ差別される病気の人を訪ねました。またお金はあったけれども、町の嫌われ者であった取税人を訪ねて、その友達となりました。自分のようなものはイエス様に出会った人々は神の愛を体験したのです。

「すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで

 十字架の上にあげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」

 こうしてイエス様はすべての愛を注ぎつくし与えましたが、その生き方は当時のユダヤ社会の指導者であった人々の妬みや怒りを買うことになりました。民衆の人気は、イエス様に集まっていったからです。そうして、ついにイエス様は紀元後30年4月、ユダヤの裁判にかけられ、ついでローマ総督による裁判にかけられ、結局、死刑にされることになりました。主イエスは十字架に釘付けにされてしまいます。どれほどの悲しみと痛みと苦しみであったことでしょう。しかし、主イエスは十字架の上で祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」

「この人を見よ。この人にぞ、こよなき愛は現れたる。

この人を見よ。この人こそ、人となりたる生ける神なれ」

 神は愛です。そして、イエス様は、まさしく人となった生ける神でありました。

 

 たしかに主イエスはねたむ人々に捕まえられて十字架で処刑されたのです。けれども、主イエスはあらかじめこうおっしゃっていました。「だれもわたしからいのちを奪う者はいません。わたしが自分からいのちを捨て、また、いのちを取り戻すのです。」神様の御子が人となってこの世界に来られたのは、私たちを罪の呪いから救い出すためでした。罪の呪いを受けたままならば、私たちは神と断然し敵対しついにはゲヘナに落ちなければなりません。そこで、イエス様は私たちの罪の呪い、ゲヘナで受けるべき刑罰を、自発的にその身に引き受けてくださったのちに、三日目にイエス様はまことのからだをもって復活しました。その後弟子たちに40日間ご自分を表し、教えを与え、40日たつと天に上げられ、父なる神の右に着座されました。

 

結び 御子を信じる

 

 罪ゆえに私たちは生まれながら、神と断絶して、滅びていたものです。そして、むなしい人生、知らずに悪魔の奴隷とされている人生、死の恐怖に縛られた人生をとぼとぼと歩んでいます。その行き着く先は、地獄です。

けれども、人となられた神の御子イエス様は、あの十字架の上で、私たちの罪の呪いを引き受けてくださいました。イエス様は人間なので人間の代表また身代わりとなることがお出来になり、また、イエス様は全能の神なので、すべての人の罪を背負い、悪魔から私たちを救い出すことがお出来になります。

 では、イエス様が成し遂げてくださった救いの準備を私たちはどのようにして受け取ればよいのでしょうか。ヨハネ福音書3章16節に戻りましょう。「御子を信じる者が亡びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。あなたが罪と死と永遠の滅びを免れるためにすべきことは、ただ一つ、御子イエス様を信じることです。

 御子イエス様を信じるとは、神様の前で、私はたしかに罪がありますと認めることです。そして、イエス様が私の罪のために十字架にかかってよみがえってくださった、神の御子ですと口で告白することです。

   永遠の信頼

詩編16編                     

 

  ダビデのミクタム

1,神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

3,地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

4,ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。

 

5,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

7,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 

10,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

 

 

 「神を礼拝する者は、聖霊と真理によって礼拝しなければなりません。」 4月から礼拝について学んでまいりまして、その中で、賛美歌は音楽をともなう祈りであることを学びました。ですから、祈りにおいて意味のないことばを繰り返してはいけないように、賛美においても歌詞をよく理解して歌うことが大事であることを確認しました。それで、私たちの教会では詩篇歌をもちいていますから、詩篇歌の歌詞を学ぶために、前回から詩篇歌を味わい始めました。本日は詩篇16です。歌の方では、7節以降に曲がつけられています。「われ常に主をほめまつらん。なれは諭しを授けたもう。・・・・」です。

あとで歌います。

 

1、主への信頼(1-4節)                                                                              

0 表題

 表題に「ダビデのミクタム」とあります。ミクタムということばは意味不明なことばですが、刻まれた歌、黄金の歌、贖いの詩と言った解釈があります。作者はダビデです。

 

(1)戦いの人生で、神、主に信頼する 1、2節。                                  

1**,よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。**

2**,私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」**

 

ダビデは、神に守りを求めます。1節。そして、信頼を表明します。2節。その呼びかけが1節では「神エル」であり、2節では太字の主YHWHです。エルは神の力強さ、YHWHは神の親しさを表現します。力強い神に「お守りください、身を避けます」といい、そのお方は親しくやさしい「主」です。このお方のもとに身を避けるものは幸いです。 力強く、かつ、やさしいお方を、わが神とすることの幸いです。

ダビデの生涯は、戦いにつぐ戦いの生涯でした。羊飼いをしていたときには、羊たちを守るために、ライオンや狼と戦っていました。 ペリシテ人ゴリヤテとの戦い以降、サウル王の部下となってからは、外国の軍隊との戦いでした。それで華々しい戦果を挙げたので、国民はあげてサウルは千人を打ち、ダビデは万人を打ったとほめそやしました。

そのために、サウル王の妬みを受けて、今度はサウル王の軍隊につけねらわれることになり、安心して枕するところもなくなってしまいました。王というのは、統治者であり裁判官であり警察なのです。本来、神は、国民が安心して生活をすることができるために、王を立てたのです。王は剣をもって敵方民を守り、社会秩序を維持し、また、徴税をして富の再分配をして、国民生活の安定をもたらすのです。ところが、サウル王がおかしくなると、ダビデは王の軍隊ににいのちをつけ狙われる立場になったのです。裁判官も警察も悪党になってしまいました。ダビデはもはや安心して眠ることもできない立場です。そういう経験をしたことがあるでしょうか。

地上に守ってくれる存在がいなくなって、ダビデは神を避難所とし、主にのみわが幸いはあります、と信仰の告白をしています。

1,よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

 

 

(2)聖徒の交わりの幸い  3~4節   

                                                      

 次に詩人は、主なる神を見上げた向けた視線を地に移します。

3**,地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 その目に映るのは、地にある聖徒たちです。ともに真の神をあおぐ兄弟たちです。サウル王に追いかけまわされているときの状況でいうならば、ダビデに従ってきた部下たちを意味するのでしょう。ほとんどの人々は、サウル王に憎まれるダビデを見捨てました。先日まで、飛ぶ鳥を落とす勢いだったダビデ王にくっついていた多くの人たちは、今は、ダビデを見捨てました。しかし、たとえ損であっても、神を畏れるダビデに忠誠を尽くすべきだと考えた部下たちは、わが身の危険を顧みず、ダビデについてきました。彼らは、主が立てたものとしてダビデを信頼して、ついてきたのです。「地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります」とダビデが言うのはもっともです。ダビデの周りにいるのは、目先圧倒的に不利な状況の中にあるダビデに、なおもついてきた勇者たちです。威厳ある者たちです。世の富や出世や保身のためでなく、神の義に生きようとする威厳ある聖徒です。ダビデは、よくぞついてきてくれたと喜びがあふれます。

キリスト者となったとき、見回せば、尊敬すべき主にある兄弟姉妹たちとともに生きることができる幸いは、なんと素晴らしいことでしょうか。教会生活に慣れてくると、これが当たり前のように思われるかもしれませんが、神の民、教会の中にあって生きられることは実は素晴らしいことです。

クリスチャンになる前、中学生そして高校生になって生意気盛りになっていたころ、学校の教師たちのうちに尊敬できる人を見いだせず、親を見てもがっかりし・・・といった状態でした。自分をわきまえない高慢だったのです。19歳の夏、増永俊雄牧師に出会いました。神の前に自らの罪を認め、そのうえで「私は神の栄光のために生きています」と先生はおっしゃいました。こんな大人がいるんだと驚きました。

 数か月のち、教会に通うようになり、クリスチャンの人たちを見ました。教会には、誠実に生きようと励み、他者には極力寛容でやさしく、かつ自分には厳しく生きようとしている人たちがいました。社会的には相当の地位にありながら、教会ではしもべのように仕えている兄弟たちもいました。神の前では、どこまでも自らの罪を認めているへりくだった人たちでした。・・・この世は虚飾と虚栄に満ちています。教会のような世界は、それまで見たことがありませんでした。・・・「地にある聖徒たちには威厳があり」というのはそういうことです。自分のようなものが神の民の中に加えられているのは、なんと光栄なことでしょう。

また、30歳過ぎたころ、宣教師のかたたちとの交わりの機会が結構多かったのですが、ぼんやりと「外国人はいい人ばかりだなあ」とぼんやりと思っていたのです。ところが、あるとき気づいたのです。私の知り合いのアメリカ人、カナダ人、韓国人、スウェーデン人たちが、特別の人たちなのだ、ということに。私の知り合いの外国人というのは、みなクリスチャンで宣教師たちでした。大戦後、神様の召しを受けて、故国を後にして、日本人たちの救いのために人生をささげた人たちだったのです。 30歳のころ、私は朴ヨンギ先生の引率で韓国にツアーで出かけました。これが初めての朴先生との出会いでした。朴先生が日本宣教にきた当時は、韓国人でありながら、日本に宣教に来るということは到底、理解されない時代でした。先の戦争で、国を奪い、民族の誇りを奪い、教会を激しく弾圧したのが大日本帝国でしたから、かの国では親日派イコール売国奴とされた時代です。その困難を乗り越えて、日本の救いのために朴先生は召しを受けて来られたのでした。

私の知る外国人というのは、そういう特別な人たちだったのです。この世の栄誉を捨てるどころか、この世の人々から軽蔑されても、なお神の福音宣教の使命、神の愛に生きようと決断した「威厳ある聖徒たち」でした。地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 

 力強く、やさしい主なる神を見上げ、その幸いを思い、威厳をもって神の前に共に生きる兄弟姉妹とともに生きる喜びを味わえば味わうほど、これを捨てて去った人々の悲惨を思わないではいられません。

4**,ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。

私は彼らが献げる血の酒を注がず その名を口にいたしません。

 

 「血の酒」を注ぐというのは、カナンの地に昔から蔓延していた人身御供をともなうモレクという偶像神への礼拝を意味しています。まことの神を捨て、偶像の神々に走るものは結局滅びてしまいます。カナンの地の習俗にそまって滅びた人々をダビデは思い起こしているのでしょう。日本における最大の偶像はマモンです。警戒しましょう。

 

 主が相続地である

 

(1)地上の祝福・・・主はわがゆずりであ 5~8節

 そして、詩人ダビデは、まことの神に信頼する民があずかる祝福を語ります。まず5-9節ではこの世での祝福です。

5**,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6**,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

 

イスラエルの11の部族は、約束の地カナンで、それぞれの相続地を得ました。けれども、12部族の中でレビ族だけには相続地がありませんでした。なぜか?それは彼らにとって主ご自身が、ゆずりの地であったからです。彼らは神殿礼拝の奉仕者となるために、相続地をもたなかったのです。いや、実はすべての聖徒にとって、まことの相続地は主ご自身なのであり、地上の相続はそのシンボルにすぎないことをレビ族は示したのです。その理解が、このダビデのミクタムには表れています。主は私への割り当て分また杯。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するから。」と主イエスがおっしゃいました。

主を相続としていただいているということは、主が昼でも夜でも、どんな所にいたとしても、ともにいてくださるという事実です。そして、聖書のことばをもって私たちに助言を与えてくださいます。主の日ごとの説教によって、あるいは日々の聖書通読の中で御霊が語ってくださいます。

7**,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8**,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9**,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 

  私たちがつらい春の野を行くようなときも、嵐の海を渡るようなときも、元気なときも、病気のときも、死ぬ時であっても、主がともにいてくださるのです。天地の主であるお方が、私たちの味方であるなら、何を恐れる必要があるでしょうか。だから、心は喜び、たましいは楽しみ、体も安らかです。

 

(2)永遠の祝福 10~11節

 9節まではこの世における主の祝福が語られましたが、結びである10節、11節で、主の祝福はこの世では終わらない、永遠のものであることが語られます。

10**,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11**,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

  使徒の2章31節には、このみことばがイエス・キリストの復活において成就したと語られています

29**,兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。**

30**,彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。

31**,それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。**

32**,このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

 

 

 復活、それはキリストに連なる聖徒たちにおいても同じようになります。キリストは初穂であり、私たちはそれに続く者たちですから。キリストは長子であり、私たちはその兄弟姉妹ですから。「我は、聖霊を信じる。聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、からだのよみがえりを信じる」です。

 

結び

 この地上の生涯を、威厳ある聖徒たちの中で、主なる神を見上げて生き抜くならば、この地上の生涯を終えて死を迎えることもまた幸いなことです。主に望みを抱く私たちにとって、死は永遠のいのちへの門であるからです。

 その時、神は私たちを御子イエスとともにその右に着座させてくださいます。地上の祝福ばかりか、永遠の祝福までも用意されたるキリスト者の人生の幸いよ!    

 

    

小さくかつ大きな者  

Ps8                    

 苫小牧福音教会では今年度の主題は礼拝です。礼拝賛美に「詩篇歌」を用いていますので、用いている詩篇歌の歌詞を数回にわたって味わう予定です。

**指揮者のために。ギテトの調べにのせて。ダビデの賛歌。

 

1主よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。

2幼子たち乳飲み子たちの口を通してあなたは御力を打ち立てられました。

あなたに敵対する者に応えるため復讐する敵を鎮めるために。

3あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに

4人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。

人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

5あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし

これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。

6あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。

7羊も牛もすべてまた野の獣も

8空の鳥海の魚海路を通うものも。

9主よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。

 

 「小さくて大きな者」とはなにか。詩篇第8篇は、最初と最後の節に「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力に満ちていることでしょう。」と頌栄が繰り返されます。神のご栄光はどのようにあらわされるのか、どのような者を用いて神の栄光は現わされるのでしょうか。

 

1.幼子と乳飲み子たちの口

 

 神様の偉大さ、その素晴らしさ、神様の御威光を現わすために用いられる人とはどういう人でしょう。巨大企業を営む実業家でしょうか。賢い政治的手腕のある総理大臣になったなら、神様の御威光があらわされるのではないか。あるいは、自然科学者が偉大な発見をしてノーベル賞を取ったら神の御威光があらわされそうです。あるいは、素晴らしいミュージシャン、天才鼻笛奏者が神の御威光を現わすのではないか・・・というふうに、私たちは単純に考えてしまいそうです。けれども、不思議なことに、主の御名の全能、そのご威光は小さな者を通して現わされるというのです。2節。

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口を通して、御力を打ち立てられました。・・・」

 大政治家でもなく、大発明家でもなく、大哲学者、大神学者、天才自然科学者でもなく、天才ミュージシャンでもないのです。幼子と赤ちゃんです。これによって神に敵対する力ある者たちを滅ぼしたまうのです。これはどういう意味でしょう?

 イエスさまが詩篇第8編を引用したことがあります。

エルサレム入城と「宮清め」の事件の後、律法学者・長老たちはイエス様に抗議しました。「無知な子どもたちがホサナといって、あなたのことをあたかもメシヤ、あたかも神のごとくに賛美して迎えているではないか、とんでもないことだ」と。すると、主イエスはこの詩篇を引用なさいました。旧約聖書、律法の専門家たちに対して、イエスさまはこのことばを引用して論破したのです。

マタイ21:16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

 律法学者たちが、無知な子どもたちと軽蔑しているけれど、神はあなたがたがいう無知な幼子たちの素直な信仰を祝福なさるのだ。誰も、子どものようにならなければ、わたしを神が遣わしたメシヤ、神の御子、キリストだとわからないし、神の国に入ることもできないのだ、とおっしゃるのです。

 また、あるとき主は祈られました。

「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」(Mt11:25,26)

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 神の御力を打ち立てるのは、権力や学識や富によって高ぶった人間ではなく、幼子と乳飲み子のような存在です。その意味するところは、神の御前に己の卑しさ、貧しさを認めた人間、へりくだった魂なのです。

 

2 見上げてごらん夜の星を

 

 次に詩人は、夜空を見上げます。・・・先週水曜日、老人ホーム陽だまりの樹で鼻笛で「見上げてごらん夜の星を」を吹いてきました。・・・濃紺のビロードにダイヤモンドを散らしたように、夜空にまたたく幾千万の星。寸秒違うことなく軌道上を運行する月や星星。これらを見上げるとき、詩人は自分という存在がなんとちっぽけなものかと、思わずため息が出ました。宇宙の広大さの中で、自分は塵に過ぎぬことを悟ります。昔、散歩するとよく父が、「この星空を見ていると、自分がもっている悩みとか怒りとかいうことはなんとちっぽけでくだらないことかと思うよ。」といっていました。この地球も広大無辺の宇宙のなかでは片隅の砂粒のような者でしょう。その上に現れた私という人間は、宇宙全体からみれば、一つの砂粒の上のミクロの点です。

 けれども、詩人の神に対する驚きは、宇宙に対するよりもはるかに大きいのです。詩人の肉眼が見るのは星空ですが、霊の眼は、星空をつきぬけてその星空を造った主なる神を見るのです。しかも、神にとって、星空を創造されることなど造作ない事、チョチョイのチョイといって出来上がった「指のわざ」にすぎないではないかと歌います。その偉大な創造主がどうして私ごときに目をとめて下さるのだろうか。不思議です。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 まことの神の前に立つ時、私たち人間は、まず自分の存在の小ささを思い知らされるのです。これが人間の第一の智恵です。

 

 ところが神に背を向けた近代科学文明は、人間をたいそう傲慢に、そして、愚かなものにしてしまいました。科学の力によって人間はなんでもやることができると人間は思い上がってきました。偉大な物理学者とされている英国のスティーブン・ホーキング Hawking 博士が、Grand Design の中で「宇宙の誕生に創造者の手は必要ではない、それは物理法則にしたがって、自然発生した」。重力の法則をはじめとする物理法則によれば、無から有が生じるのは不思議ではない。むしろ存在しないことより、存在することのほうが自然なのだ、これがホーキング発言の要旨なのだそうです。

 神様を知っている小学生なら、大天才と言われるホーキングに質問するでしょう。

ホーキング博士。じゃあ、重力の法則を初めとする物理法則は誰が造ったの?」と。

神様を畏れない傲慢な知性と文明は、バベルの塔に象徴されるように、実に愚かなのです。

 

 私たちは知恵を活用して文明を築くことはよいことです。そのために、神様が私たちを神のかたちとして知恵をくださり、「地を従えよ」「地を耕し、守れ」とお命じになったのですから。しかし、文明や科学に酔っ払ってはなりません。人間の知識と文明を神のごとくに思いこんでこれを偶像として拝んではならないのです。あらゆる偶像崇拝と同じように、文明崇拝・科学崇拝は、目先の得は約束しても最終的に人間に不幸をもたらすのです。実際、今、物理学の最先端の知識が核兵器を造りだして、地球上の生き物を存続の危機に陥れています。

 人間が造りあげた文明など、実は、神の御目から見るならばお粗末なものです。あのバベルの塔にしても、ホーキングの宇宙論にしても、この大宇宙を指先でちょいちょいと創造し治めていらっしゃる神の御目から見るならば、浅はかなものです。人間は、神様の御前に出て、自分の愚かさ、小ささをよくわきまえることこそが人間の第一の知恵です。

「主を恐れることが知識の初めである。」(箴言1章7節)

 

.神を知ると人間の偉大さがわかる

 

 しかし、こんなにちっぽけな塵にすぎない私という人間を、全宇宙を治めていらっしゃる神様は心に留めて下さるのですから不思議ですと詩人は歌います。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」そればかりか、二千年前には、みずから人となってこの世界に来てくださり、十字架の死をもって罪までもあがなってくださったことはもっと不思議です。なぜ、こんなにも神様は人間に心をとめてくださるのでしょうか。

 そういう詩人の神様への問いかけに対して啓示されてきたのは、5-8節です。

5**,あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし

これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。**

6**,あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。**

7**,羊も牛もすべてまた野の獣も**

8**,空の鳥海の魚海路を通うものも。**

 背景にあるのは、もちろん創世記1章に記される人間の創造における神の御言葉です。

「我々は我々に似るように人を造ろう。そして、彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」

 新改訳2017では5節を「み使いより」と訳していますが、第三版までは「神より」と訳していました。創世記1章と照らし合わせて「神より」と訳したほうがよいように思います。

 物理的次元でいうならば、こんなに小さく卑しい、土から作られた私たちですが、神は私たちをご自分の似姿、御子のかたちに似せて造って下さったのです。物理的、空間的にはいかにも小さな自分ですが、神の似姿というかぎりにおいて私たち人間は偉大なものです。地を治めるために立てられているのです。そのように詩人は思い直すのです。私がいかに小さな者であっても、造り主である神の似姿に似た者であるかぎり、私には尊厳があり責任があるのだと分かったのです。

 私たちは人間として、自分の偉大さと自分の小ささとを同時に知らねばなりません。いずれの知識が欠けてもいけないのです。ブレーズ・パスカルは言いました。

「人間に自分の悲惨さを知らせないで偉大さだけを教えることは危険なことである。また人間に自分の偉大さを知らせないで自分の悲惨さだけを教えることはさらに危険なことである。しかし、人間に自分の偉大さと同時に悲惨さを知らせることはたいへん有益なことなのである」と。

 実は、パスカルを初めとして17世紀に近代自然科学の原理を築いた人々は、実は、ことごとく神を畏れる人々でした。地動説を初めて唱えたコペルニクスは司祭でしたし、ケプラーは司祭の子どもでしたし、ガリレオ・ガリレイも敬虔なキリスト者でした。彼らは万物の創造主なる神を畏れていたからこそ、近代自然科学の土台を築くことができました。ガリレオ・ガリレイスウェーデン王妃クリスティナあての手紙に次のようなことばを残しています。

「聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものです。(中略)神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」

 「自然は、創造主なる神がロゴス(ことば・理性)をもって造った作品である。だからこそ、神の似姿にしたがって理性を与えられた人間は、これを読みとることができる」とケプラーガリレオパスカルたち近代自然科学の根本原理です。創造主が造られた世界なのだから、太陽系を成り立たせている原理も、ピサの斜塔から物が落ちる原理も共通であると考えられたので、近代物理学は成立したのです。

 しかし、17世紀の科学者たちは神を畏れる人々でしたが、18世紀、19世紀、20世紀過ぎていくうちに、科学を神格化し、ついには、神などいないという人々が増えてきました。そして、傲慢になりながら、実に、自分で自分を惨めな者にしてしまっています。進化論や唯物論の影響の下で、ほとんどの日本人はチンパンジーよりも少しばかり智恵のあるサルにすぎないと思いこんでいます。ですから、人間としての道徳的責任というものがわからず、現代人は単なるオスとメスのようにふるまっています。あるいは人間を精巧なコンピュータを備えたロボットにすぎないと教える学者たちもいます。故障したロボットは廃棄処分にされるように、役に立たない人間は生きている意味がないというのが科学を偶像化した結論です。

 人間は土から作られたちっぽけな存在です。しかし、同時に、偉大な存在です。それは人間が神の似姿として造られたからです。この原点に帰らねばなりません。神の似姿として造られたところに、人間の価値と尊厳の根拠があるのです。人間は、ロボットでもなければサルでもありません。人間は神の似姿です。

 

結び

  私たちは創造主である神の似姿です。神を見上げ、神を恐れ、神を愛しているかぎりにおいて、私たちは神の似姿として十分に生きることができます。神を離れてしまうならば、私たちはサルかロボットに成り下がってしまいます。

 神の御前に卑しい己、神の御前にいかにも小さな己を自覚する者こそ、全地を治めるのにふさわしいものです。ただ神の御前で己がいかに小さくはかない者であるかを認めるとき、私たちは同時に自分は神の似姿として尊厳ある者だと知ります。そのとき、神はその人を通して力を打ち立て給うのです。 あなたの子どもに、お孫さんに、「君は、偶然生じてきた宇宙のゴミではない。ロボットでも、サルでもない。君は、神様の似姿として造られた尊い存在なんだよ。」と教えてください。

聖餐―主の死といのちに与る―

1コリント11:23-29

2019年5月19日 苫小牧主日

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエス渡される夜、パンを取り、

感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」**

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。**

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。**

だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

  説教で語られる神のことばは見えません。しかし、聖餐は見えて、食べることができ、飲むことができる神のことばです。つまり、頭だけでなくからだで私たちが福音を味わえるようにと定められたのが聖餐です。聖餐のうちには、イエス様がくださった私たちの救いの中心点が表現されています。

 

1 新しい契約

 

  主イエスは、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」とおっしゃいました。神様が、ご自分の民と結んでくださった契約です。多くの日本人にとって契約というのは、不動産の売買をしたり、保険に入ったりするときに渡された、細かくて読むことができない不親切な説明書というイメージがあるかもしれません。でも、聖書では、契約というのは人格と人格の間に結ばれるたいせつな約束です。契約は、創造主である神が、人間が被造物であるにもかかわらず人格的な存在として認めて重んじていてくださるあらわれです。

神は人に対して、創造の契約、ノアの契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約と契約を結んでくださり、それらが、イエス様の新しい契約において、成就するのです。

 これらの契約の主題は、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」です。つまりインマヌエル、言い換えると、「神の家族の一員となり、神とともに生きる人生」です。私たちは生まれながらには、自分が何のために生まれて来たのかわかりません。自分の存在意義がわかりません。昔、藤村操という人は「ああ人生不可解」と言って自殺したそうです。けれども、あなたを造ってくださった神様が、「あなたは独りぼっちではない。わたしがあなたの神だ。私につながって生きていくのだ。」とおっしゃるのです。それが契約です。洗礼を受けて神の家族となり、神を礼拝し、神の愛を喜びながら、この世界に神のみこころが成るようにと働いていくのです。これは、今の世だけでなく、次の永遠の御国でのことです。御国に迎えていただいて、神を賛美し、柔和な心で神のみこころにしたがって御国を治めていくのです。

 この契約の与えている約束にあずかるための条件は、おのれの罪をみとめて、神の御子イエスの十字架と復活を信じることです。

 神さまの契約には「しるし」が伴います。創造の契約には善悪の知識の木、ノアの契約には虹、アブラハム契約には割礼でした。主イエスが定められた新しい契約のしるしは、パンとぶどう酒です。このしるしを見て、味わって、主のくださった契約をしっかりと思い起こすのです。

 

2 主イエス渡される夜」・・・死

 

 主イエス・キリストが聖餐式を定めた時は、「渡される夜」でした。紀元30年4月の「過ぎ越しの祭り」の夜のことでした。過ぎ越しの祭りとは、およそ紀元前1400年に起こった一つの歴史的出来事を記念する祭りであり、ずっとユダヤ人たちはこれを守り続けてきたのでした。

 紀元前1400年ころ、ユダヤ人の先祖はエジプトにおいて、奴隷にされ、男の子は皆殺しにされるというひどい迫害にあい、また激しい強制労働の憂き目にあっていました。そのときに神様はモーセを指導者として立ててユダヤ人を解放しようとされました。モーセはその交渉にエジプトの王のもとに出かけました。真の神である主がイスラエルの民を解放し、礼拝をさせよと命じていらっしゃる、とモーセは王に告げました。しかしエジプトの王はどこまでも頑固にこれを拒みましたので、神はエジプトを十の災害をもって打ちました。その第十番目の災害というのは、これから神様からエジプト全土に死の使いが遣わされる。その死の使いが各家を訪れると、その家の長子はみな死ぬというのです。しかし、救われる方法が一つだけ神様から告げられました。それは子羊を殺し、その血を玄関の両の柱とかもいに塗るならば、死の使いはその家の前を過ぎ越していくということでした。それは、イスラエルの男子を皆殺しにしようとしたエジプトに対する神の怒りでした。

 いよいよその夜が訪れ、エジプト全土は長子に死なれた悲しみにおおわれました。しかし、玄関の柱と鴨居には子羊の血が塗られていたユダヤ人たちの家々は守られました。

 この出来事の後、ユダヤ人たちはエジプトを脱出します。神様はユダヤ人たちにシナイ山で契約をお与えになります。それは神様の民として十戒を代表とするもろもろの戒めを守って生きるべきこと、それに従えなかったときにはいろいろないけにえをささげなさいということでした。そのかずかずの犠牲は、やがてキリストが来られてなしとげられるいけにえの目に見える預言だったのです。これが古い契約つまり旧約です。

 

 イエス様御在世当時のユダヤでは、この1400年前の故事にちなんで過ぎ越しの祭りが行われていました。この祭りの時には、人々は過ぎ越しの食事として子羊をいけにえとしてほふり、食事をしたのです。イエス様とお弟子たちもまた、エルサレムのある家の二階の広間で過ぎ越しの食事をしました。その席上でイエス様は、この聖餐式という新しい契約の時代の教会における一つのたいせつな儀式をお定めになったのです。

 なぜ、イエス様は「渡される夜」つまり「過ぎ越し祭りの夜」にわざわざこの聖餐式をお定めになったのでしょうか。それは、今まさにちょうどあの過ぎ越しの子羊のように、人々の罪の贖いのためのいけにえとして、ご自分が数時間後には逮捕され十字架にかけられ殺されようとしていると自覚しておられたからにほかなりません。

神さまは「あなたは私の民また子どもとなり、わたしはあなたの神また父となる」とおっしゃいますが、その障害物となるものがあります。私たちが、聖なる神様の民となるための障害物とは、私たちの罪です。私たち人間にはみな神様の前では罪があります。そして、罪から来る報酬は死です。つまり、罪の問題が処理されないままでは、人は肉体の死の後に神様の御前に引き出されて、罪の呪いとして地獄の永遠の炎に焼かれなければなりません。神の御子であるイエスさまは、私たちの受けるべき罰を身代わりに引き受けて十字架で苦しんで死んでくださるために、地上に人となって来てくださいました。

旧い契約の時代における過ぎ越しの羊のいけにえは、来るべきキリストの十字架の身代わりの死を目指さしていました。そして、新約時代(新しい契約の時代)における聖餐式は、すでに地上に来られたキリストの十字架の死を振り返りつつ、守るのです。旧約時代、新約時代という、この救いの歴史の真中に、主イエスキリストが私たちの罪のためにいのちをお捨てになった十字架が立っているのです。聖餐式で、私たちは、主の十字架の死を覚えるのです。「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせる」とあるとおりです。

 

3 パンとぶどう液――命

 

 しかし、もう一方で、聖餐式は、主イエスの復活のいのちを覚える時でもあります西方教会の伝統では聖餐式はおもに主の死を覚えるときですが、東方教会ギリシャ正教ロシア正教など)では聖餐式は主の復活を覚えることが中心です。

 イエス様は聖餐式にパンとぶどう液をお用いになりました。当時のユダヤ人にとって、もっとも身近な食べ物です。日本でいえば、ごはんとお茶にあたるもので、特別なものではありません。食べるという行為、飲むという行為をもって、イエス様の十字架の出来事は表され、味わわれるのです。なぜでしょうか。

 けさ、みなさんは食事をしてこられたでしょう。昨日も食事をされたと思います。生まれてから死ぬまで、私たちはずっと食べたり飲んだりして生きていきます。なぜか。食べないと死んでしまうから、飲まないと渇いてしまうからですね。食べることは、生きることと直結しています

 イエス様がくださった救いを私たちが身をもって味わうために定められた聖餐の儀式が、食事の儀式であるのは、エス様の救いが私たちの生命にかかわるものであるからです。私たちがご飯を食べたり水を飲んだりしなければ死んでしまうように、私たちはイエス様を信じてイエス様につながっていなければ死んでしまうのです。そのことをよく表現するために、聖餐式で食べたり飲んだりするのです。

 イエス様は五千人給食の出来事の後おっしゃいました。

「53**,イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。**

54**,わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。**

55**,わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。**

56**,わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。**

57**,生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」

(ヨハネ6:53-57)

 イエス様はまさにいのちなのです。イエス様のうちにこそ、いのちがあります。それは神と共に生きるということです。私たちはイエス様を通してのみ、真の神とのいのちの交わりに入ることができます。またイエス様は、この最後の夜にぶどうの木の話をされました。ヨハネ福音書15章に記録されています。「5,わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。**

6**,わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。**

7**,あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。**

8**,あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(5-8節)

 ぶどうの枝はぶどうの幹につながっていれば実を実らせることができます。しかし、枝がぶどうの幹から離れていれば、当座、花芽はつけていても、あるいは花は咲いても実は実りません。あだ花になってしまいます。イエス様につながっていない人生でも、当座、花は咲いているように見えるかもしれません。派手な生活をしたり、地位や名誉も得られるかもしれません。けれども、実は決して残らないのです。また、イエス様につながっていなくても、たとえば酒でも飲んで騒げば、目先、楽しい快楽にふけることができるかもしれません。けれども、その騒ぎのあとのやりきれない空しさは覆いようがないのです。その喜びが本物でないからです。そこには、いのちがないからです。

 

 では、イエス様のいのちにつながった人生とはどういうことか。イエス様が十字架にかかって私の罪の身代わりとなってくださったゆえに、私は地獄の裁きを免れたということ。もう一つは、イエス様が十字架に死なれて三日目によみがえられたゆえに、私もまたイエスさまの復活のいのちにあずかっているということです。イエス様は、私たちの罪のために死んでくださっただけではありません。クリスチャン生活は、罪を赦していただいたばかりでなく、日々、神さまを交わる生活です。神の栄光をあらわすというすばらしい目的のある人生です。隣人を愛し仕えるという人生です。日々、みことばを読み人生の導きをいただくことのできる人生です。死の向こうの地獄のさばきから解放されましたから、死の恐怖から解放された人生です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実りを主が与えてくださる人生です。天国の待っている人生です。

 

 聖餐式でパンを食べ、ぶどう液を飲むとき、私たちは主イエスの死といのちに与るのです。まず私たちはイエス様の死と罪の赦しを感謝します。赦され難いものが赦していただけたからです。 そして、イエス様の復活のいのちを味わうのです。私たちは復活したイエス様と、つながった者として、永遠のいのちに生きるのです。

 

4 ふさわしいということ――自己吟味

 

 最後に27節から30節にかけて気になることを使徒パウロは言っています。それは聖餐にあずかる「ふさわしさ」ということです。ふさわしくないままで聖餐にあずかるならば、その人にとって聖餐は祝福にならないで逆に呪いとなってしまいます。だから、自己吟味をちゃんとして、悔い改めて聖餐式に与りなさいという勧めです。

 宗教改革カルヴァンは問答書で次のようにいいます。

 

問い358 何を自らかえりみるべきですか。

答え 自分が、イエス・キリストの真の肢体であるかどうかについてであります。

 

問い359 どんな印によって、それを知ることができますか。

答え 真実な信仰と悔い改めをもっているかどうか、また真実な愛をもって隣人たちを愛しているかどうか、そして憎しみにも、恨みにも、不和にも決して汚されていないかどうかということであります。

 

 神様に対しては真実の信仰と悔い改め、隣人に対しては愛があるかという吟味です。あってはならないものは、憎しみ、恨み、不和ということです。それを残したままでは、聖餐はあなたの身に呪いを招きます。では、今、自分のなかに信仰と愛とが十分あるだろうかどうだろうか、自分は憎しみを抱いているという現実があればどうすればよいのでしょうか。問答書は続きます。

 

問い360 しかし完全な信仰と愛が求められるのですか。

答え どちらも見せ掛けでない、まったきものであることが極めて必要であります。しかし非難の余地のないような、それほどの完全さを持つことは、人間の間ではありえないでありましょう。したがって、まったく完全でなければ何人もこれを受け得ないとすれば、聖晩餐が制定されても空しいことになるでありましょう。

 

 完全な信仰と完全な愛があればそれはすばらしいことですが、そんなものを持っている人間はいない。だとしたら、聖餐式にあずかることのできる信者は一人もいないことになってしまうというのです。

 ですから、今、自己吟味をして、自分のなかに神様に対する不信仰があったり、罪が示されたならば、それを認めて、告白することです。この私の罪がイエス様を十字架にかけてしまったということを認めて、悔い改めることです。そうして、イエス様から生きる力をいただいて新しい歩みを始めることです。

 聖餐にあずかる人のふさわしさとは完全無欠な信仰と完全無欠な愛の完全さではありません。聖餐にあずかるふさわしさとは、神様と隣人に対する己の罪を謙虚に認め、主の前に赦しを乞い、またイエスさまの十字架と復活を信じる信仰です。