Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

詩篇10篇   悪者が栄えて

詩篇10編

悪者が栄えて

 

 

1 悪者のふるまい

 

人に対し

 10:1 【主】よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。

  苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。

 詩人はいきなり、主に対して叫びます。彼は悪者がやりたい放題にふるまっている現状を前に、神に叫ぶのです。正義の神はなぜこういうとき、遠くにおられるのですか?身を隠されるのですか?と。正しい者が悪者に追い詰められ、悪者はやりたい放題にやっているのを見て、彼は神はなぜ遠くで傍観していらっしゃるのですか?と問うのです。

 10:2 悪者は高ぶって、悩む人に追い迫ります。

  彼らが、おのれの設けたたくらみに みずから捕らえられますように。

 この世にあっては、しばしば悪者が栄え、義人が苦難にあうのはなぜか?という問いは、古来、正義にして全能の神を信じる者たちの頭を悩ませてきました。ヨブ記詩篇73篇などはその代表的なものです。

 

神に対し

 詩人の悪者の描写が続きます。悪者たちは正しい人間に対してひどいことをするばかりか、彼らはあろうことか神を呪い、また、あなどるのです。そして、「神などいるものか」と思っているのです。実に高慢です。

 10:3 悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、【主】をのろい、また、侮る。

 10:4 悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。

  その思いは「神はいない」の一言に尽きる。

 

 日々、いな時々刻々、太陽も大地も食物も空気も供給していただきながら、「神はいない」というのです。愚かしいほどに高慢です。

 

悪者の生態

 ところが、そんな悪者がいつも栄えているように見えます。その有様が5-11節です。

 10:5 彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、入らない。

  敵という敵を、彼は吹き飛ばす。

 10:6 彼は心の中で言う。

  「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」

 また悪者のことばの毒について述べます。

 10:7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。

  そして悪者は悩む人、悪意をもって不幸な人を罠に陥れてさらに不幸にするのです。

 10:8 彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、隠れた所で、罪のない人を殺す。

  彼の目は不幸な人をねらっている。

 10:9 彼は茂みの中の獅子のように  隠れ場で待ち伏せている。

  彼は悩む人を捕らえようと待ち伏せる。

  悩む人を、その網にかけて捕らえてしまう。

 10:10 不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。

 そうして、悪者は神は見ていないとつぶやくのです。

 10:11 彼は心の中で言う。

 

  「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」

 そのことばをもって人を罠に陥れて不幸にし、そんな悪事をなしながら、「神はいない。いや、もしかしたら、いるかもしれないが、俺の悪事は見逃してくれるだろう。」・・・これが悪者の生態です。

 

.神への叫びと応答

 

 こうした現状を見るに見かねて、詩人は神に向かって声を上げます。立ち上がってください。貧しい者たちのために。

 10:12 【主】よ。立ち上がってください。  神よ。御手を上げてください。

  どうか、貧しい者を、忘れないでください。

 

 悪者があれほどやりたい放題に悪事を行ない、貧しい者を苦しめているのですよ。彼らは、神よあなたを侮っているのです。神はいない。もしかして神が存在したとしても、俺のことは追いかけてはこないさ、神は死んだ神だからね、という風に考える。

 10:13 なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。

  彼は心の中で、あなたは追い求めない と言っています。

 

  しかし、まことの神はさばき主としてすべてをご覧になっているのです。正義の審判を神よ行ってくださいと詩人は言います。貧しい者、みなしご、悩むものを助けて悪者をくじいてくださいと。

 10:14 あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。

  彼らを御手の中に収めるために  じっと見つめておられました。

  不幸な人は、あなたに身をゆだねます。  あなたはみなしごを助ける方でした。

 10:15 悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて

  一つも残らぬようにしてください。

 

 

3 審判への希望

 

 詩人は、悪者が栄え、正しい者、悩む者が苦しめられている現状を見て、いてもたってもいられず、神に向かって叫びました。正義の神よ立ち上がってください、と。そうして祈り叫ぶ中で、神がこの歴史全体の審判者であられることに思い至り、最後の審判においては、地のすべての権力者たちの国々は滅び失せるのだと確認するのです。

 10:16 【主】は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。

 10:17 【主】よ。あなたは貧しい者の願いを 聞いてくださいました。

  あなたは彼らの心を強くしてくださいます。

  耳を傾けて、 

10:18 みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。

  地から生まれた人間が もはや、脅かすことができないように。

 

 詩人は最後の審判に究極の望みをかけるのです。今の世には不合理、不条理に見えることがしばしばあるでしょう。しかし、最後にはキリストが再び来られて、公正この上ない審判をなさって、帳尻を合わせてくださるのだという信仰です。終末に対する希望です。

 そのとき、「神はいない」「神がいても、見てはいない、見逃してくれる」などと勝手なことを言っていた悪者は、神から厳しい裁きをうけることになります。神を畏れ、それゆえにあえて貧しくなり困難な道を歩むものには、神は天来の報いを与えてくださいます。

 ですから、私たちは、目先の損得に左右されず、地にあって揺るぐことなく善をおこないたいものです。

 

 

キリストとともに葬られる

マルコ15:39-47

 

15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 15:40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。

 15:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

  15:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、

 15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。

 15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。

 15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。

 15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

 

 

 ゴルゴタの丘で主イエスの死のありさまを見て、イエスは神の御子であると信仰告白をしたのは、選民イスラエルの宗教の専門家たちでなく、異邦人であるローマ人の百人隊長でした。キリストの十字架の福音が、民族国語のわくを越えて世界へとひろがっていくことが予告されているようです。 また、キリストの死と葬りをしっかりと見ていたのは、女たちであったということが40節、41節、47節に強調されています。異邦人といい、女性と言い、当時のユダヤ社会の中では軽んじられていた人々ですが、神は彼らを証人として用いられたのでした。

 本日は主イエスの葬りの場面です。

 

1.葬り

 

 使徒信条において、私たちは「われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ」と告白します。ただ「死んだ」というだけでなく、「葬られた」と告白するわけです。コリント人への手紙第一の15章でも、パウロは福音を説明するにあたって、「15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」であると、わざわざ葬られたことを告げています。「主イエスは十字架で死んで、よみがえられた」と告白するのでなく、「十字架に死んで、葬られて、よみがえられた」のです。主イエスが葬られたことは大事なこととして福音書で扱われています。 ハイデルベルク信仰問答41は次のように述べます。

 なぜ、このお方は葬られたのですか。
答 このお方が本当に死んでしまったということを証言するためです。

 葬りは、本当に死んだという事実を明らかにするのです。死は私的な出来事ではなく、公的な出来事です。たとえば、誰かが死んだとしても、葬式をしなければ、世間的には失踪したのか、死亡したのかわからない状態です。葬式をして初めて死が事実ですと公にされます。 主イエスは「死んで葬られた」。それは、主イエスは死は公になった事実だということを意味します。それゆえに、キリストの復活もまた公の事実なのです。

 

2.アリマタヤのヨセフ

 

 さて、主イエスが十字架で最期に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と叫んで十字架に果て、首を垂れると、百人隊長は総督ピラトに報告に行きます。ピラトは驚きました。十字架に6時間かけられているだけで死に至ることは通常ないからです。そこで、兵士

エスの脇腹をめがけて槍を突き立てて、さらに死を確かなものとします。そうすると、主イエスの脇腹から血と水とが出てきたと記録されています。医学的な説明によれば、それは苦しみのあまり心臓が破裂し、胸腔内にたまっていた血液が赤血球と透明な血漿に分離していたからです。主イエスはまぎれもなく死んでしまったのです。

そこにアリマタヤのヨセフという人物が総督に、イエスのからだを引き取りたいと願い出ました。そして、イエス様のおからだを取り下ろし始めたのです。

「 15:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、

 15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。

 15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。

 15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」

 

(1)イザヤ53章の預言の成就

 この出来事は、旧約時代、紀元前8世紀の預言者イザヤが告げた預言に書かれていたことの成就でした。イザヤ書53章9節に次のようにあります。

「53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、

   彼は富む者とともに葬られた。」

 不思議な預言です。悪人とともに処刑される者が、富む者とともに葬られるなどということは、普通にはありえないことでしょう。しかし、このイザヤの預言は、主イエスが犯罪人たちとともにゴルゴタの丘で十字架につけられ、そして、死後、アリマタヤのヨセフというユダヤ最高議会の議員に引き取られて、彼の用意していた新しい墓に葬られたときに成就したのです。 

 預言が成就したということは、主イエスの十字架の死も葬りは、神の人類救済のご計画の中心であることを意味しています。

 

(2)アリマタヤのヨセフという人物

 ところで、アリマタヤのヨセフとはどういう人なのでしょう?ヨセフについては四つの福音書いずれにも取り上げられています。4福音書の並行記事を読んでみます。

 

マタイ27:57「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。」

 

マルコ15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 

ルカ23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。

 23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

 

ヨハネ19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

 

 

 総合してみると、ヨセフは①アリマタヤという町の出身で、②金持ちであり、③ユダヤ最高議会の有力な議員という社会的な地位と名誉も兼ね備えた人でした。さらに、④ルカ伝はヨセフは「りっぱな、正しい人」だったと記していますから、お金と地位と名誉があるだけでなく、その人柄も立派で尊敬もされていたのです。

 では、ヨセフは主イエスに対して、これまでどういう立場をとっていたかといえば、マタイは「弟子になっていた」と表現し、マルコとルカは「神の国を待ち望んでいた」と表現しています。つまり、ヨセフは心の中でイエスは神の御子キリストであると信じていたのでした。けれども、それを大っぴらにはしていない、いわば隠れキリシタンでした。

 では、ヨセフはユダヤ最高議会がイエスを逮捕し処刑しようとしたことに対してどういう態度をとったのでしょうか。ルカ福音書は「議員たちの行動に同意していなかった」と表現しています。一方、ヨハネ福音書は、ヨセフは「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と厳しい調子で記しています。ヨセフは、たしかに心のなかで議員たちの行動に賛成していませんでしたが、さりとて明瞭に反対したわけでもなく。中途半端な態度を取り続けていました。ヨセフが「私はあのお方が正しいと思う。あのお方が解いていることは真理であるし、私たちが偽善的な間違いを犯していることは事実ではないか。私はあの方の弟子なのだ。」と公言すれば、ユダヤ最高議会の議員の資格を剥奪され、会堂からも追放されてしまうことは火を見るよりも明らかだったからです。

彼はイエス様を信じるようになってから、恐らく「私は心の中でイエス様をひそかに信じていて、かげながら応援していればいいじゃないか。事を荒立てる必要はない。」というふうに考えていたのでしょう。しかし、サタンは、そのように態度を曖昧にしている者を自分の仲間に取り込んでいくものなのです。主イエスエルサレムに入城なさってから、事態は急展開していきます。ユダヤ最高議会は、ゲツセマネの園でイエスを逮捕し、議員たちをカヤパの官邸に召集して、裁判にかけてしまいまったのです。改めて、その箇所を開いておきましょう。マルコ14:61-64

 

「14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

 14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。」

 

 

 あの裁判の最後、主イエスはイエス様がご自分が神の御子キリストであり、やがて世の終わりには再び戻ってこられて世界をさばかれるのだと証言なさいました。大祭司カヤパと議員たちは「全員で」イエスを死刑に定めたとあります。この時ヨセフは何をしていたのでしょうか?周囲を見回して、心ならずもイエスを死刑にすることに賛成したのです。ヨセフは立派な正しい人だったとルカは記していますが、立派な正しい人であることの限界で、挫折したのでした。彼は保身のために御子イエスを裏切った臆病者でした。

 

さて、イエス様はピラトの法廷に送られ、そこでも死刑判決を受け、十字架を背負ってゴルゴタへと歩んでゆかれ、午前9時に十字架につけられ、午後3時にいのちを終えられたのでした。その一部始終をアリマタヤのヨセフは見てきました。そして、今、決断したのです。

「マルコ15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。」

 ヨセフは主イエスに従う決断をしました。このとき、ヨセフは主イエスを葬ったばかりでなく、自分自身をもこの世に対して葬ったのでした。ヨセフは、サンヒドリン議員としての地位と名誉を放棄したのです。会堂を追放されることも覚悟しました。しかし、彼が失った地位と名誉は、彼が手に入れたキリストに比べれば、実に、ちりあくたにすぎませんでした。地上のわずかな命に代えて、ヨセフはキリストにある永遠の命を得ました。人間からの栄誉に代えて、彼は神から栄誉を受けました。地上のわずかな富に代えて、御国のあふれるばかりの祝福を得たのです。

 主イエスのなきがらを抱き下ろして、ヨセフは悲しみを感じつつも、同時に、主イエスに従うことができたという深い喜びと、サタンが支配する罪と欲望の世界からの解放感満たされていたにちがいありません。彼は、キリストに結ばれて、この世の束縛から解放されて、神の支配のもとにあって自由を得たのです。

 

結び

 私たちも主イエスに従おうとするとき、そこにはこの世との衝突が生じることがあります。まことの神を知らない家族や親族、世間からの反対や非難であるとか、ときには、キリストの名のゆえに、社会的な地位や、過去の歴史においては命を失うことを意味することもあります。古代ユダヤの時代やローマ帝国の時代だけでなく、この国においても、そういう時代がありました。これから、そういう時代が来るかもしれません。いや、今の日本であっても、私が昨年まで仕えていた教会があった因習の強い農村部などでキリストを信じるということは、そのような決断を意味します。

 しかし、もしキリストの名のゆえに失うことがあったとすれば、それは神の前に誉れあることです。多くの聖徒たちは、キリストの名のゆえにこうむる非難を喜びとしました。主イエスは、おっしゃいました。

「5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」

                           マタイ5:10-12

 

 私たちは、この世にあって、置かれた持ち場、立場があります。それは神が遣わしてくださった場ですから、まずは、その場でキリストの証人として生きることが原則です。使徒パウロは「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」(1コリント7:17)と教えました。しかし、もし主イエスに従うためには、どうしてもこの世における名誉や富や立場を失わねばならない局面に置かれたなら、断然、名誉も富も放棄してキリストに従うことです。私たちの誇りは、ただキリストの十字架にあります。そして、キリストとともに死ぬものはキリストとともによみがえるのです。

 「6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」ガラテヤ6:14

 

小さくかつ偉大な者  

詩篇8篇                     

 

2017年12月3日

8:1 私たちの主、【主】よ。

  あなたの御名は全地にわたり、

  なんと力強いことでしょう。

  あなたのご威光は天でたたえられています。

 8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、

  力を打ち建てられました。

  それは、あなたに敵対する者のため、

  敵と復讐する者とをしずめるためでした。

 8:3 あなたの指のわざである天を見、

  あなたが整えられた月や星を見ますのに、

8:4 人とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを心に留められるとは。

  人の子とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを顧みられるとは。

 8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

  万物を彼の足の下に置かれました。

 8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 8:9 私たちの主、【主】よ。

  あなたの御名は全地にわたり、

  なんと力強いことでしょう。

 

 

 詩篇第8篇は、最初と最後の節に「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いのでしょう。」と賛歌が繰り返されます。神のご栄光はどのようにあらわされるのか、どのような者を用いて神の栄光は現わされるのでしょうか。

 

1.神を知ると自分の小ささがわかる

 

 主の御名の全能、そのご威光がいかなるものを通して現わされるかということが、語られていくのが2節以降です。

 

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 

 神の御名の力が全地に現わされる方法、そのために用いられる人はどんな人でしょうか。人間の知恵で考えれば、強力な大統領や官僚、大金持ち、ノーベル賞学者、そういうものを考えがちでしょう。権力があれば法律を作って社会を動かせるとか、お金があればそういう政治家も動かせるとか、科学的発明で大きな社会変革ができる、とか。けれども、神はそれらの知恵を愚かなものとし、神はそれらの力を無力なものとされたのです。神は、御自身の御名を「幼子と乳飲み子たちの賛美」によって現わされ、これによって神に敵対する力ある者たちを滅ぼしたまうのです。

 エルサレム入城と「宮清め」の事件の後、律法学者・長老たちはイエス様に抗議の申し立てをしました。「子どもたちがホサナといって、あなたのことをあたかもメシヤ、あたかも神のごとくに賛美しているではないか、とんでもないことだ」と。すると、主イエスはこの詩篇を引用なさいました。律法のエキスパートであると自任する者たちに対してこのことばを引用されたのです。

マタイ21:16

「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 

 また、あるとき主は祈られました。

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」(Mt11:25,26)

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 神の御力を打ち立てるのは、高ぶった人間ではなく、幼子と乳飲み子のような存在です。神の御前に己の卑しさ、貧しさを認めた人間、へりくだった魂なのです。

 

 次に詩人は、夜空を見上げます。真っ黒のビロードにダイヤモンドを散らしたように、夜空にまたたく幾千万の星。寸秒違うことなく軌道上を運行する月や星星。これらを見上げるとき、詩人は自分という存在がなんとちっぽけなものかと、思わずため息が出るのです。宇宙の広大さの中で、己は塵に過ぎぬことを悟ります。昔、散歩するとよく父が、「この星空を見ていると、自分がもっている悩みとか怒りとかいうことはなんとちっぽけでくだらないことかと思うよ。」といっていました。この地球も広大無辺の宇宙のなかでは片隅の砂粒のような者でしょう。その上に現れた私という人間は、宇宙全体からみれば、一つのウィルスみたいなものでしょう。

 けれども、詩人の神に対する驚きは、宇宙に対するよりもはるかに大きいのです。詩人の肉眼が見るのは星空ですが、霊の眼は、星空をつきぬけてその星空を造った主なる神を見るのです。しかも、神にとって、星空を創造されることなど造作ない事、「指のわざ」にすぎないではないかと歌います。その偉大な創造主がどうして私ごときに目をとめて下さるのだろうか。不思議です。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 まことの神の前に立つ時、私たち人間は、まず自分の存在の小ささを思い知らされるのです。これが人間の第一の智恵です。

 

 ところが神に背を向けた近代科学文明は、人間をたいそう傲慢にし、おろかにしてしまいました。科学の力によって人間はなんでもやることができると人間は思い上がってきました。偉大な物理学者とされている英国のスティーブン・ホーキング Hawking 博士が、Grand Design の中で「宇宙の誕生に創造者の手は必要ではない、それは物理法則にしたがって、自然発生した」。重力の法則をはじめとする物理法則によれば、無から有が生じるのは不思議ではない。むしろ存在しないことより、存在することのほうが自然なのだ、これがホーキング発言の要旨なのだそうです。 ちょっと頭の良い小学生なら言うでしょう。「博士。じゃあ、重力の法則を初めとする物理法則は創造されたんですね。」神様を畏れない傲慢な知性と文明は、バベルの塔に象徴されるように、実に愚かなのです。

 

 私たちは文明を築くことはよいことです。そのために、神様が私たちにくださったのですから。しかし、文明や科学に酔っ払ってはなりません。人間の知識と文明を神のごとくに思いこんでこれを偶像として拝んではならないのです。あらゆる偶像崇拝と同じように、文明崇拝・科学崇拝は、目先の得は約束しても最終的に人間に不幸をもたらすのです。実際、今、物理学の最先端の知識が核兵器を造りだしてしまったので、私たちは「東京に核ミサイルが落とされれば一瞬にして400万人のいのちが失われる」と聞かされて恐怖を感じなければなりません。愚かなことです。

 人間が造りあげた文明など、実は、神の御目から見るならばごくお粗末なものです。あのバベルの塔にしても、ホーキングの宇宙論にしても、この大宇宙を指先でちょいちょいと創造し治めていらっしゃる神の御目から見るならば、浅はかなものです。人間は、神様の御前に出て、自分の愚かさ、小ささをよくわきまえることこそが人間の第一の知恵です。

「主を恐れることが知識の初めである。」(箴言1章7節)

 

2.神を知ると人間の偉大さがわかる

 

 しかし、こんなにちっぽけな私という人間を、全宇宙を治めていらっしゃる神様は心に留めて下さる不思議。そればかりか、二千年前には、みずから人となってこの世界に来てくださり、十字架の死をもって罪までもあがなってくださったことはもっと不思議です。なぜ、こんなにも神様は人間に心をとめてくださるのでしょうか。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは、人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 

 そういう思いの中に啓示されてきたのは、5-8節です。

 

8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

  万物を彼の足の下に置かれました。

 8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 

 背景にあるのは、もちろん創世記1章に記される人間の創造における神の御言葉です。

「我々は我々に似るように人を造ろう。そして、彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」

 こんなに小さく卑しい私たちであるが、神は私たちをご自分の似姿、御子のかたちに似せて造って下さったのです。物理的、空間的にはいかにも小さな自分ですが、神の似姿というかぎりにおいて私たち人間は偉大なものです。地を治めるべく立てられているのです。そのように詩人は思い直すのです。私がいかに小さな者であっても、能力にも限界があっても、造り主である神の似姿に似た者であるかぎり、私には尊厳があり責任があるのだと分かったのです。

 私たちは人間として、自分の偉大さと自分の小ささとを同時に知らねばなりません。いずれの知識が欠けてもいけないのです。パスカルは言いました。

「人間に自分の悲惨さを知らせないで偉大さだけを教えることは危険なことである。また人間に自分の偉大さを知らせないで自分の悲惨さだけを教えることはさらに危険なことである。しかし、人間に自分の偉大さと同時に悲惨さを知らせることはたいへん有益なことなのである」と。

 実は、パスカルを初めとして17世紀に近代自然科学の原理を築いた人々は、実は、ことごとく神を畏れる人々でした。地動説を初めて唱えたコペルニクスは司祭でしたし、ケプラーは司祭の子どもでしたし、ガリレオ・ガリレイも敬虔なキリスト者でした。彼らは万物の創造主なる神を畏れていたからこそ、近代自然科学の土台を築くことができました。ガリレオ・ガリレイスウェーデン王妃クリスティナあての手紙に次のようなことばを残しています。

「聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものです。(中略)神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」

 「自然は、創造主なる神がロゴス(ことば・理性)をもって造った作品である。だからこそ、神の似姿にしたがって理性を与えられた人間は、これを読みとることができる」とケプラーガリレオパスカルたち近代自然科学の根本原理です。創造主が造られた世界なのだから、太陽系を成り立たせている原理も、ピサの斜塔から物が落ちる原理も共通であると考えられたので、近代物理学は成立したのです。

 しかし、現代人は、神などいないと傲慢になりながら、実に、自分で自分を惨めな者にしてしまっています。進化論や唯物論の影響の下で、ほとんどの日本人はチンパンジーよりも少しばかり智恵のあるサルにすぎないと思いこんでいます。ですから、人間としての道徳的責任というものがわからず、男と女は単なるオスとメスのようにふるまっています。サルが人生の目的を考えないように、多くの人はなんのために自分が生きているのかを考えようとしません。

 あるいは人間を精巧なコンピュータを備えたロボットにすぎないと教える学者たちもいます。故障したロボットは廃棄処分にされるように、役に立たない人間は殺してしまって良いと子どもたちは思うのです。中学生たちがホームレスのおじさんを殺してしまったという事件がありました。彼らに罪があります。しかし、彼らだけを責められないのは、彼ら自身家でも学校でも、より多くの偏差値を取るなら価値があり、偏差値の低い人間は価値がないと教えられてきたということが背景にあるのでしょう。今、多くの中学生・高校生たちは人間として扱われず、人間としての尊厳を無視されて偏差値ロボットとして扱われているのです。

 

 人間はちっぽけな存在です。しかし、同時に、偉大な存在です。それは人間が神の似姿として造られたからです。この原点に帰らねばなりません。神の似姿として造られたところに、人間の価値と尊厳の根拠があるのです。人間は、ロボットではない。サルでもない。人間は神の似姿です。

 

結び

 

 私たちは創造主である神の似姿です。神を見上げ、神を恐れ、神を愛しているかぎりにおいて、私たちは神の似姿として十分に生きることができます。神を離れてしまうならば、私たちはサルかロボットに成り下がってしまいます。

 神の御前に卑しい己、神の御前にいかにも小さな己を自覚する者こそ、全地を治めるのにふさわしいものです。ただ神の御前で己がいかに小さくはかない者であるかを認めるとき、私たちは同時に自分は神の似姿として尊厳ある者だと知ります。そのとき、神はその人を通して力を打ち立て給うのです。

 あなたの子どもに、お孫さんに、「君は、偶然生じてきた宇宙のゴミではない。ロボットでも、サルでもない。君は、神様の似姿として造られた尊い存在なんだよ。」と教えてください。

大胆に神のもとへ

マルコ15:34-38、詩篇22篇

 

15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。

15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 

1.旧約聖書詩篇22篇の成就

 

 十字架上の主イエスは、呪いの暗闇を切り裂くように、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びました。この主イエスの十字架のご受難は、旧約聖書詩篇22篇の成就でした。開いてみましょう。

22:1 わが神、わが神。

  どうして、私をお見捨てになったのですか。

  遠く離れて私をお救いにならないのですか。

  私のうめきのことばにも。

 主イエスはご自分の今の苦しみが、詩篇22篇の成就であるということを自覚なさっているのです。続きを読んでみましょう。

 22:2 わが神。昼、私は呼びます。

  しかし、あなたはお答えになりません。

  夜も、私は黙っていられません。

 22:3 けれども、あなたは聖であられ、

  イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

 22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。

  彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

 22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

  彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

 22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。

  人のそしり、民のさげすみです。

 22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。

  彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

 22:8 「【主】に身を任せよ。

  彼が助け出したらよい。

  彼に救い出させよ。

  彼のお気に入りなのだから。」

 

 この詩篇22篇7,8節のように、十字架の下の祭司長、律法学者、長老たちはイエスを嘲りました。

マタイ27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

 

 主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだとき、十字架の下の人々は「エリ」つまり「わが神」ということばを聞いて、預言者エリヤを呼んでいるのだと聞き違えたようです。

 15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。 15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

 十字架の下には死刑囚ののどの渇きをいやすために酸いぶどう酒がバケツに入れて置かれていて、これに棒の先につけたスポンジを浸して囚人の口に差し出したそうです。十字架の下の人々は、主イエスが叫ぶのを聞いて、渇き苦しんでいると見たのです。

 主イエスの渇きも詩篇22篇15節の成就でした。

 22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。

 22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。

  母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

 22:11 どうか、遠く離れないでください。

  苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

 22:12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。

 22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。

 22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。

  私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

 22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、

  私の舌は、上あごにくっついています。

  あなたは私を死のちりの上に置かれます。

 

 15節に主イエス渇きが預言されています。ヨハネ福音書の並行記事には、「わたしは渇く」というイエスのことばが記録されています。そこで十字架の下の人々は、イエスに酸いぶどう酒を差し出したのでした。十字架の上で主イエスは憔悴しきって、渇かれたのです。「わたしを信じる者は決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)と言われたお方が渇いたのです。ご自分が渇くことによって、私たちを潤すためでした。ご自分のいのちを注ぎだして、私たちの渇きをいやされたのです。続きを読みましょう。

 22:16 犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、

  私の手足を引き裂きました。

 22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。

  彼らは私をながめ、私を見ています。

 22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。 

 

 十字架上の主イエスのお姿は骨と皮だけになってしまい、十字架の下の人々はその骨を数えることができるほどでした。十字架上で起きたさばきは、単に地上のローマ帝国の官憲によるさばきではなく、永遠の法廷におけるさばきでした。

 しかし、神の御子が自分の罪のためにも苦しんでおられるということを知りもせず、ローマの兵士たちはふざけて、くじを引いてイエスの着物を分け合ったとマタイの並行記事には記されています(マタイ27:35)。これも詩篇22篇18節の成就でした。

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

 このとき叫ばれたことばは、ルカ福音書ヨハネ福音書に記録されています。「完了した」(ヨハネ19:30)「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 

2.苦難から栄光へ

 

 主イエスは、明らかにご自分の十字架での苦しみが、詩篇22篇の成就であることを意識しておられました。主イエスは、この出来事の後、墓に納められて三日目に蘇られますが、その日、エマオに向かって行く二人の弟子のそばを歩きながら、 言われました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25,26)

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだとき、主イエス詩篇22篇全体を憶えておられたわけです。詩篇22篇は、前半はさきほどお読みしたようにメシヤの苦しみにかんする預言ですが、後半21節以降は栄光と勝利の賛美へと展開しています。

 あなたは私に答えてくださいます。

 22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

  22:23 【主】を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。

  イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。

 22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、

  御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

  22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。

  私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。

 22:26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、【主】を賛美しましょう。

  あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

 22:27 地の果て果てもみな、思い起こし、【主】に帰って来るでしょう。

  また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。

  22:28 まことに、王権は【主】のもの。主は、国々を統べ治めておられる。

 22:29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。

 22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。

 22:31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

 

 

 まさに、「キリストは、必ずそのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」ということが詩篇22篇では予告されていたのです。主イエス・キリストは私たち人間の身代わりとして、十字架でご自分を神の聖なる怒りをなだめる供えものとして差し出し、私たちの罪の呪いを引き受け、苦しみの極致を味わわれました。しかし、この時、主イエスはその向こうに栄光と勝利が待っていることをはっきりと認識しておられたのです。ご自分の死が、多くの人々イスラエル人だけでなく、世界中の国々の民の救いとなること、その世代だけでなく生まれてくる子子孫孫の救いとなるということをしっかり意識しておられたのです。その目の前に置かれた喜びのゆえに、大胆に、自らゴルゴタの丘へと歩んで行かれたのでした。

 

3.神殿の幕は廃棄された!

 

 主イエスの十字架の死は悲惨のきわみですが、その死が引き起こした、救いの歴史における、決定的にすばらしい出来事が次に記されています。

 15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 

 神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けたというのが、なぜそんなに素晴らしい出来事なのか、説明しましょう。

 神殿とは何でしょうか?神殿とは、神と人とが会見し人格的交わりをする場です。聖なる神は、神殿で、人と会ってくださるのです。エルサレムにあった神殿は外側から異邦人の庭、イスラエルの女の庭、イスラエルの男子の庭、そして奥には祭司の庭がありました。祭司の庭の中に聖所と呼ばれる場所がありました。この聖所には24時間灯がともされ、祭司たちがこれを管理していました。その聖所の奥が至聖所と呼ばれる場所で、英語でThe HOLY OF HOLYと呼ばれますが、その前には分厚い幕がつるされていて入ることができないようにされていました。この至聖所にこそ、神の聖なる臨在が現れた場所です。

 ところが、普通の祭司たちですら至聖所には入ることができませんでした。入ると、神の聖なるご威光に撃たれて死にました。ただ一人大祭司として選ばれた者だけが、一年に一度、大贖罪の日にかぎって入ることができました。しかも、大祭司であっても、この日、至聖所に入る前には自分のあらゆる罪という罪を告白し、まずきよめの儀式を行い、自分の罪のために大きないけにえをささげてからでなければ、幕を開けて入ることができませんでした。万が一不用意に幕を開けたならば、その大祭司はそこで神の威光に撃たれて死なねばなりませんでした。

 神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕は、聖なる神と罪ある人間とをわけるためのものだったのです。この幕について、出エジプト記に次のように記されています。

出エジプト 26:31-33 

26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。

 26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。

 26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

 

 垂れ幕に織り出されたケルビムというのは、天使の名前です。ケルブが単数形でケルビムは複数形です。このケルビムは、聖なる神に近く仕えている天使であり、聖なる神の臨在に近づこうとするものを退けるいわば門番の役割をする天使なのです。このケルビムという天使の名が聖書の中で最初に出てくるの箇所がわかるでしょうか?創世記3章24節です。最初の人アダムが堕落して、楽園を追放されるときのことです。

創世記

  3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 

 はじめ人類の先祖であるアダムとエバは、エデンの園において生ける神との人格的な交わりのうちに生きていました。園には二本の木があって、ひとつは善悪の知識の木といい、もうひとつはいのちの木でした。けれども、彼らが「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という神様の戒めに背いて罪を犯したとき、彼らは聖なる神の臨在から遠ざけられることになり、エデンの園から追放されることになりました。そして、いのちの木の実に近づけないように、ケルビムが見張りをしたのでした。

 つまり、神殿の構造が表現しているのは、このことなのです。神の臨在が現れる至聖所は神とともに生きるエデンの園を意味しており、神殿の幕に織り出されたケルビムはいのちの木への道の番人である天使を意味しているのです。エデンの園は神と共に生きる至福の場なのですが、罪を抱えたままでは入ることができません。罪を抱えたままエデンの園に入ることは死ぬことでした。神と共に生きることこそ至福であるにもかかわらず、エデンの園にもどることができないのが罪あるアダムの子孫たち人間なのです。アダムとその妻は、神の戒めに背いたとき、それまで慕わしかった神の御顔を恐ろしく感じて、御顔を避けて園の木の陰に身を隠しました。あの時以来、人間は神の御顔を恐怖の対象とするようになり、旧約時代、神の御顔を見ると人は死ななければならないといわれるようになりました。

 人は死んだら天国に行きたいと思います。しかし、己の罪の問題がゆるされ、かつ、きよめられていないならば、聖なる神のいます天国に入ることは恐怖でしかありません。

 ところが、主イエスが十字架で罪の呪いを受けて、「完了した」と宣言して、「わが霊を御手にゆだねます」とおっしゃって死なれたとき何が起こりましたか?あの神と人とを隔てている神殿の垂れ幕が上から下に真っ二つに引き裂かれたのでした。神が、「こんな幕はもう要らない」とおっしゃって廃棄してしまわれたのです。イエス様が私たちの罪の呪いを身代わりに引き受けてくださったので、私たちは神の御子イエス様を通して、大胆に神様に近づくことができるようになったのです。

 旧約時代においても、アブラハムモーセたちは神の前にお仕えすることができました。しかし、あの時代はさまざまな動物犠牲をささげることによって、人間の罪の償いとみなすとされた時代です。それらは、キリストの十字架のいけにえの予告編でした。ですから、旧約時代の聖徒たちは、いけにえを何度ささげても罪をゆるされきよめられたという確信と平安をもつことができませんでした。雄牛とやぎの血は罪をきよめることはできません。しかし、本体が出現しました。神の御子が人となってこの世に来られ、人間の代表として身代わりとして、あの十字架で罪の償いを完成してくださったのです。ですから、旧約時代の信仰者に対する、新約時代に生きる聖徒の特徴は、その大胆さです。神の御子が私たちの大祭司として、自らをいけにえとしてささげて、神の赦しを勝ち取ってくださったからです。そればかりか、神はキリストにあって私たちをわが子として愛してくださることを知っているからです。なんという素晴らしい救いでしょう。

 

「4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14-16)

 

訴える祈り―正義のさばき主―

詩編

 

ベニヤミンびとクシのことについてダビデが主にむかってうたったシガヨンの歌

7:1わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。
どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、
わたしをお助けください。
7:2さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、
助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。
7:3わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、
もしわたしの手によこしまな事があるならば、
7:4もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、
ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、
7:5敵にわたしを追い捕えさせ、
わたしの命を地に踏みにじらせ、
わたしの魂をちりにゆだねさせてください。〔セラ
7:6主よ、怒りをもって立ち、
わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、
わたしのために目をさましてください。
あなたはさばきを命じられました。
7:7もろもろの民をあなたのまわりにつどわせ、
その上なる高みくらにおすわりください。
7:8主はもろもろの民をさばかれます。
主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、
わたしをさばいてください。
7:9どうか悪しき者の悪を断ち、
正しき者を堅く立たせてください。
義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。
7:10わたしを守る盾は神である。
神は心の直き者を救われる。
7:11神は義なるさばきびと、
日ごとに憤りを起される神である。
7:12もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、
その弓を張って構え、
7:13また死に至らせる武器を備え、
その矢を火矢とされる。
7:14見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、
害毒をやどし、偽りを生む。
7:15彼は穴を掘って、それを深くし、
みずから作った穴に陥る。
7:16その害毒は自分のかしらに帰り、
その強暴は自分のこうべに下る。
7:17わたしは主にむかって、
その義にふさわしい感謝をささげ、
いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。

 

 

 

 

表題にある「ベニヤミン人、クシュ」という人物について聖書ではこの箇所にあるのみで、ほかにはありません。

 

1 アウトラインは次の通り

 

2節。ダビデはまず敵が追いつめてくる時、主に身を避けて、私を救い出して下さいと率直に祈ります。4、5節。まず、神の正しい裁きの前に自分をさらします。もし自分の非があるならば私を懲らしめてください、と。

6~16節。そのうえでダビデは、神の正しい裁きを求めるのです。その時、ダビデは自分の表面的に現れた行動ではなく、心と思いを調べなさる神を意識しています(9、10)。人はうわべを見るが、主は心を御覧になるからです。    

17節 そして最後は、義なる神をたたえる賛美に突き抜けています。祈り抜いて、ついに神の正しい審判がくだり自分は救われると確信にいたったからです。  

 

 率直に祈り、そして、最後には主を賛美するにいたるというこのダビデの賛美と祈りに、私たちはその率直さ、正直な祈りを態度をまず学びたいと思います。詩篇6篇もそうでしたが、率直さは詩篇の最大の特徴だと思います。こんなこと祈っていいのかなと、私たちには思えてしまうほど正直な祈りです。

 もう一つは、しかし、その率直な祈りは変えられていきます。祈りは中途半端で不満なままで、不安なままで終わってしまうのでなく、主への賛美へと突き抜けるまで祈りたい。主を賛美するために、私たちは造られたのです。

ダビデの祈りの秘訣を見てゆきましょう。

 

2 神の正義に訴える

                                           

 注目すべきは、ダビデはここで正義の審判者である神を見ているということです。6、8、9、11。17。

7:6 【主】よ。御怒りをもって立ち上がってください。

  私の敵の激しい怒りに向かって立ち、 私のために目をさましてください。

  あなたはさばきを定められました。

 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。

  正しい神は、心と思いを調べられます。

7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

 7:17 その義にふさわしく、【主】を、私はほめたたえよう。

  いと高き方、【主】の御名をほめ歌おう。

 神は正しいお方、神は正しい裁きをなさる審判者である。この詩篇におけるダビデの祈りの力強さの根源の第一はここにあります。

 私たちはこのところ、詩篇に祈りを学んでいます。その中で、あの願い、この願い以上に大事なことは、神御自身に目を留めることだと学びました。神御自身の聖なるご性質に訴える祈りは力強い祈りとなります。神は真実で正しいお方ですから、神は御自身を否むことができないからです。「神よ、あなたは正義の神、あなたは正しい審判者です。」と訴える声に、神は「確かに、その通りである」とお答になります。アブラハムも、ソドムの町のために取り成すときに、このようにとりなしました。また、カナンの女も主イエスに「こどもにパンをやるものだ。子犬にやるパンはない。」と言われた時、答えた「その通りです。ですが、子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

 神御自身の義に訴え、神のお約束に訴える。6篇では神の恵み深さに訴えました。

 

(賛美)神が義なる審判者でいらっしゃることを知り、神の義をたたえましょう。

私たちは、あなたが義であられますから、正しい裁きをしてくださいますから、安心します。この世にはいろいろな不正が行われています。不平等がまかりとおっています。けれど、やがて神よ、あなたは人の心の底まで探り極めて、正しい裁きをなさいます。ですから、私はあなたの名をたたえます。悪が一時は栄えているように思えても、神は後の日にかならず正義の裁きをされますから。正義の神を賛美します。

 

(実践)それゆえ、私たちは安んじて正しい道を歩みます。それがたとえ、細い困難な道であり、また、それが「損」をする道であっても、義なる道を選ぶのです。その時、私たちは大胆に正義の神の裁きを求める祈りができます。

 

 量るように量られることをわきまえる

 

 しかし、このような訴えをする祈りの場合、詩人は大事なことをわきまえていました。それは、「人は量るように量られる」という原則です。私たちが他者を量る、その物差しで自分も神様から量られるのです。

7:3 私の神、【主】よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、

 7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、

  また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、

 7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。

  私のたましいをちりの中に  とどまらせてください。 セラ

 でも私の敵には辛くはかってください。でも私には甘く図ってください。という祈りは聞き入れられません。神は正義の審判者、公正なお方ですから。

 詩人は今、「親しい友」と思った人に裏切られ、悪い仕打ちを受けているのです。友が敵となって、彼のいのちを奪われそうになっているのです。このような経験をダビデはその人生の修羅場でなめたことでした。かつて彼の腹心と思った人々が、叛逆した息子アブシャロムについて、ダビデ王を追い落とし、今はダビデのいのちを狙っているのです。親友だと思っていた人に裏切られ、敵に回られることほどつらいことはないでしょう。

 

 そんな中で彼は神に正義のさばきを求めて祈り叫んでいるのです。そのとき、ダビデは自分の胸に手を当てて、自分はあの友に対して、そんな悪い仕打ちをしたのでしょうか?と反省しているのです。そして、公正なさばきを求めるのです。ただ私の味方になってくださいというのでなく、正しくさばいてくださいと言っています。

 

4 世界の審判を求める

 

 自らを振り返ったうえで、詩人は激しく主に訴えます。6節から16節。

 

7:6 【主】よ。御怒りをもって立ち上がってください。

  私の敵の激しい怒りに向かって立ち、 私のために目をさましてください。

  あなたはさばきを定められました。

 7:7 国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。

 7:8 【主】は諸国の民をさばかれる。

  【主】よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。

 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。

  正しい神は、心と思いを調べられます。

 7:10 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。

 7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

 7:12 悔い改めない者には  剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

 7:13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 7:14 見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。

 7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。

 7:16 その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は、おのれの脳天に下る。

 

(1)怒る神

神は愛の神ですということは、私たちはよく言いますが、同時にまた神は聖なる怒りの神です。ヤコブ書1章20節に「人の怒りは神の義を実現するものではありません」とあるように、人間は自己中心ですから、その怒りは神の正義を実現するような立派なものではありません。私たちは、自分が傷つけられたとき、自分が損害を受けた時、自分の気分が害されたときには、怒りやすいものです。けれども、他の人が傷つけられたり、損害を受けたりということについては、結構、寛容であるものです。実に不公正です。ですから、私たちは自分の怒りを、安易に聖なる怒りであるなどと思いあがるべきではありません。

神は「怒る神」と11節で呼ばれています。神の怒りは、人間の利己的で気まぐれであったりする怒りとはちがって罪に対する怒りです。神は世界をすべ治めるにあたって、善と悪とを定め、悪に対しては御怒りを感じられるのです。

 また、神の御目はうわべでなく、私たちの心の動機、思いまでご覧になるのです(10節)。世界中のすべての人々の心の思いと行いをご覧になっている神様ですから、地上で不正が行われていることに7章11節にあるように「日々怒る神」なのです。

 私たちはこの神を畏れなければなりません。

 

(2)世界の審判者

 さらに注目したいのは、7節、8節、「主は諸国の民をさばかれる」ということばです。旧約聖書イスラエル民族、イスラエル国家の宗教を語っているというのは一つの事実ですが、旧約時代すでにその民族の枠を超えたものがあるのです。この詩では、世界中の国々の民に神の目は及んでおり、悪者はやがて罰せられる時が来るのだと

8節【主】は諸国の民をさばかれる。

11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

12  悔い改めない者には  剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 

神の裁きは歴史の中で行われてきました。どんなに栄えている軍事大国も、神の歴史の審判の中で崩壊してゆきました。北イスラエル民族が堕落したときには、西方からアッシリヤ帝国の剣をもって北イスラエル王国を崩壊させました。そのアッシリヤ帝国も傲慢で傍若無人でしたから、今度は神さまはこれをバビロンを起こすことによって滅ぼしました。そのバビロンもまた傲慢になり、パレスチナに来てついにエルサレム神殿は崩壊させました。、しかし、最強をほことったバビロンは、一夜にして崩壊して、メドペルシャ帝国に後退させられてしまいました。神は、このように歴史を支配されるのです。

 それでも世界に正義が完全に行われたことはありません。正義の神の世界に対するさばきは、主イエスが再び来られた時の最期の審判によって行われます。私たちの最終的な希望は、主イエスの再臨による最後の審判です。

 

結び

 私たちは、詩篇7篇を味わい、世界のさばき主であられ、世の不正に対しては日々怒る神であられることを学びました。私たち現代人の間では、なんでも許してくれる甘い神観が流行しているかもしれません。旧約時代、神は厳しく、新約時代は神は優しいのだということをまことしやかに言う人々もいます。しかし、もしそうであれば、神の御子が十字架にまでかかることはなかったでしょう。神の義は、御子の犠牲を必要とするほどに厳しいものなのです。新約時代においては、神は極めて公正なお方であり、かつ極めて愛に満ちたお方であることが、旧約時代よりもさらに明らかにされたというのが正しい聖書理解です。

 この正義の審判者である神の前に、時に、ダビデのように正しい裁きを求めて祈りたいときがあるでしょう。正しいものが不当な扱いを受け、悪しき者がさかえているようなことが往々にしてありますから。しかし、そのとき、私たちは他人を量る、その物差で自分も量られることを覚えておきましょう。神は公正なお方です。

           

字のない本

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ヨハネ3章16節伝道説教

 

 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信ずる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

 

「字のない本」は、色で聖書の福音をメッセージにした本です。金色、黒色、赤色、白色、緑色の5色からなります。今日は、この字のない本を用いて、聖書の要、聖書の要約と呼ばれるヨハネ福音書3章16節を解き明かしたいと思います。

 

1 金・・・神の国

 

 金は神の国、天国を意味しています。

 

(1)神の国とは

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい。」といってイエス様は宣教を始められました(マルコ1:15)。イエス様が宣べ伝えた神の国とは何なのでしょうか。

 神の国ということばの「国」というのは「王国」とか「支配」という意味のことばです。国という感じのまんなかには王さまがいるように、神が王であり、そこを支配なさっている領域があれば、そこは神の国であるということです。神様の王としてのみこころが実現しているところ、そこが神の国なのです。

 では、神様のみこころとは何かといえば、人間が「心を尽くし知性を尽くし力を尽くして神を愛し」また、「が隣人を自分自身のように互いに愛しあう」ということです。そういうことが実現した世界が「神の国」です。

 こうした神のご支配はいつ到来するのでしょうか。この点について二つの面を語られました。一つは、「神の国はすでに来ている」ということであり、もう一つは「神の国はいまだ来ていない」ということです。

 

(2)神の国・・・未来のこと

 聖書がいう神の国の一面は、未来のことです。ですから、主の祈りにおいて「御国が来ますように」と私たちは今日もお祈りしました。聖書にはイエス様が再び来られて最後の審判が行われた後、神の国が完全なかたちで到来する時がくると約束が記されています。

  「21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙示録21:1-4

 死も悲しみ叫び苦しみもない国。それは、神がともに住んでくださる国です。これが聖書の言うところの天国です。愛と正義の神様のご支配が完璧に及んでいますから、人の心も動物たちの心も、細菌やウィルスにいたるまで清くされて、そこには死も悲しみ叫び苦しみもないのです。

 

(3)神の国・・・すでに ルカ17:20-21

 ですが、今日ニュースなどを見て、戦争や家庭不和や社会問題の満ちているこの世界には、そんな素晴らしい「神の国」はないなあとがっかりしてしまいそうです。けれども、イエス様は、神の国についてもう一つのことをおっしゃいました。

「17:20 さて、神の国はいつ来るのか、と・・・尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)

 「あなたがたが神とともに生きる人生を生きているならば、すでにそこに、神の国はあるんだよ。」ということです。「心を尽くし知性を尽くし力を尽くして神を愛し」「隣人を自分自身のように愛する」ことを人生の根本原理として、日々努めている人々の交わりのただなかには、すでに来るべき神の国は来ているのです。今の世を生きていれば、確かにいろんな問題があります。自分自身が問題でもあります。しかし、イエス様を信じて従う者たちはこの世にあっても、すでに神の国の前味を経験して生きることができます。

 私たちは確かに不完全ですし、欠点も弱さもあるものです。けれども、それでもイエス様の愛と正義のみこころを行いたいと願い、お互いを思いやって、祈りあい、支えあっていきるとき、そこに「神の国」はすでに来ているのです。

 

「悲しみ尽きざる浮世にありても 日々主と歩めば御国の心地す

 ハレルヤ 罪とが 消されし わが身は いずくにありても

 御国の心地す」

 

 そして、イエス様を信じて、そのみこころを行うために生きている私たちが、それぞれに与えられたこの世の生涯を終わるときには、イエス様が迎えに来てくださいます。その時には、イエス様のみもとに行って、すべての悲しみや苦しみは罪から解放されて、喜び踊ることになります。

 

2 黒・・・闇・・地獄

 

 しかし、この神とともに生きる神の国のすばらしさを見えなくして、味わえなくしてしまうものがあります。次に、黒について説明します。

 

(1)霊的な暗闇・・・神が見えない

 多くの人は、神が生きておられ、自分のことを愛していてくださるということが見えなくなって闇の中をさまよっています。私自身も高校生のときには「神など存在しないのではないか」と思っていました。そして、自分は何のために生きているのかがわからず、人生むなしいなあと感じていました。

 しかし、聖書は「神の目に見えない本性、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界が造られたときからこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない」と述べています。創造主である神のことは、その作品である被造物世界を見ればはっきりとわかるというのです。たとえば、モナ・リザという作品を見るならば、レオナルド・ダビンチという画家の卓越した画家としての能力とか精神性といったものがうかがい知られるでしょう。モナ・リザという作品を見て、絵の具がたまたまぶちまけられたらあんなふうに神秘的な女性の絵になっただけだなどという人はいないでしょう。モナリザを見て、「これは偶然できた模様だと思っていた。作者がいるとは思わなかった。」などという弁解がナンセンスであるように、モナ・リザという一枚の絵よりも何億倍も複雑で精密にできて組み合わされて運航しているこの全宇宙と地球の動植物は、偶然できたのだと思い込んでいました」などという弁解はナンセンスです。人も動物も植物もみな創造主の作品です。礼拝すべきなのは、世界を造り、これを支配していてくださる創造主です。

 

(2)罪

 黒があらわすことは、第二に罪です。罪とはなんでしょう?それは創造主の戒めに背くことです。十戒という神の戒めを説明してみます。

第一、まことの神以外の神々を礼拝してはならない。

第二、偶像を造ってはならない、世話をしてはならない、拝んではならない。

第三、まことの神の名をみだりに唱えてはならない。

第四、安息日を憶えてこれを聖なる日とせよ

第五、あなたの父母を敬え

第六、殺してはならない

第七、姦淫してはならない

第八、盗んではならない

第九、嘘をついてはならない

第十、隣人のもの、隣人の妻を欲しがってはならない(人の幸福をねたむな)

 

これらの戒めに、心の中で、言葉で、行動で背いたことが一度でもあるでしょうか。あれば、あなたは神の前に罪人です。そして聖書は「義人はいない一人もいない。善を行う人はいない。一人もいない。」と断言しています。

 

(3)黒が意味することの第三は、地獄です

 聖なる愛に満ちた神とともに生きることは素晴らしいことです。それが神の国ということです。神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるとき、人は本当に生きがいと喜びを感じることができます。それが完全な意味で実現するのは、やがて来る神の国いわゆる天国ですが、先にお話ししたとおり、この世にあっても、これまでの神なき人生から方向転換をして、イエス様を信じるなら、神を愛し隣人を愛して生きる喜びと平安を経験することができる。「神の国はあなたがたのただなかにあるのです」と主イエスは言われました。

 けれども、神の国にふさわしくないものがあります。それは罪です。罪あるままでは、私たちは決して神とともに親しく生きることはできません。死後も天国に入ることはできません。真の神をないがしろにしたり、人を憎んだり、欺いたりした罪をゆるされて清められないならば、この世で神の国の前味をあじわうことはできないし、次の世に行っても神の国には入れません。燃えるゲヘナに落とされてしまいます。

「21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録21:8

 実際、今の世にあってもこれらの罪を犯せば、私たちは暗い気持ちになるでしょう。人に憎しみや殺意を抱いたり、偽りを言ったり、不品行なことをしていれば、心は真っ黒になってしまいます。憎しみや怒りや殺意や不道徳からは地獄のにおいが実際にするではありませんか。

 以上のようなわけで、黒が表すのは罪の暗闇と、恐ろしい地獄です。

 

3 赤・・・イエスの十字架の血

 

 では、どうすればいいのでしょう。私たち自身は自分で自分の心をきよくすることができますか。体の表面は石鹸で洗えても、心を清めることができるのは神様だけです。神様は父子聖霊の愛の神です。あなたが、神に背を向けた暗闇の中に独りぼっちでいるのを見て、罪の中に滅びることをお望みになりませんでした。なんとかして助けてやりたいと思ってくださいました。そこで、父は御子イエスをおよそ二千年前にこの世に人間として遣わし、罪をあの十字架の死をもって償ってくださいました。神さまは正義の審判者として、罪に対しては罰を与えねばなりません。その罰を、御子イエスが、あの十字架上で、あなたの身代わりとなって受けてくださったのです。赤は、キリストが十字架で流された血潮を意味しています。

 私は高校3年生の夏にある機会があって、『塩狩峠』という映画を見ました。その映画の中で、雪の降りしきる中、一人の牧師が旭川の街頭に立って、叫んでいました。紹介します。

 

イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。生まれつきの盲をなおし、生まれつきの足なえをなおし、そして人々に。ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさんおわかりですか。

 みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは自分の命をわれわれにくださったのであります。彼は決して罪を犯さなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずです。しかし彼はそれをしなかった。

 悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにはっきりと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかもみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。いいですかみなさん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。

『父よ、彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればなり。」

 聞きましたか、みなさん。今自分を刺し殺す者のために、ゆるしたまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります。」

 

 あの十字架で流された血潮は、あなたの罪を償い、きよめるために流された神の御子キリストの愛の証なのです。

 

4 白・・・罪のゆるし、罪のきよめ

 

 続いて、白です。イエス様は十字架にかかられた金曜日から三日目の朝、空が白んだとき復活なさいました。そして、私たちの罪がゆるされきよめられたことを確証してくださいました。その後、イエス様は弟子たちに現れて、40日目に天の父のもとに復活した姿のまま戻って行かれました。

 白はイエス・キリストを信じた者が、神の前に真っ黒な罪を赦され、そして、生涯をかけてその罪の性質を日に日に清められていくことを意味しています。

 神様は、イエス様を信じた者については、その罪を赦したと宣言してくださいます。これを義認といいます。そうして、人は洗礼を受けてクリスチャンになると、そこからイエス様から聖霊の力によって、自分ではどうしても拭い去ることができなかった罪の性質から解放されていくのです。これを聖化といいます。こうして、罪から解放されて、心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神を愛し、兄弟姉妹と隣人を自分自身のように愛するそういう人生に変えられてゆくのです。

 

5. 緑・・・教会生活。キリストに結ばれて、神のみこころを地で行う

 

 そのクリスチャンとして共に成長していく教会生活をあらわすのが、緑色です。春になると木々が芽吹き、畑にも緑が見えて成長してゆきます。そのように、主にある兄弟姉妹たちとともに礼拝の生活をし、神を愛して生きるとき、あなたの人生はたしかに変えられます。それは、神の国を待望しつつ、今、ここにある神の国に生きる人生です。

 この世は憂き世というように、辛いことのある世の中です。けれども、主イエスを信じるならば、地上にいながらにして、御国の心地がするのです。そして、あなたが遣わされた職場でも学び舎でも地域でも、神のご栄光があらわされるために生きることが、クリスチャンに神様がくださった崇高な任務です。なんのために働いているのか、なんのために生きているのかがわからずむなしかった人生が、生きる甲斐があり、働く甲斐がある人生になります。

 神の正義と愛のみこころが、地上にも成るために、あなたも、主イエスを信じて、ともに神の国に生きようではありませんか。

 

 

悲しみ尽きざる 憂き世にありても

日々主とあゆめば 御国の心地す

*ハレルヤ 罪とが消されし わが身は

いずくにありても 御国の心地す

 

かなたの御国は 御顔のほほえみ 

拝する心のうちにも 建てらる

 

山にも谷にも小屋にも宮にも

日々主と住まえば御国のここちす

 

 闘いの祈り   

詩篇第6篇                                                    

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌

6:1主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。
6:2主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:4主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。
6:6わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
6:7わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:8すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。
6:10わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

 

 この詩篇は私にとってたいへん印象深く思い出深い一篇です。私が神学校1年生のとき、父がガンで余命半年を宣言され神戸で最期の床に臥せっていたときに、東京の神学校におりました私はこれにシューマンの曲を付けたものをいくどとなく歌ったものでした。歌ったというよりも祈ったものでした。

 また、その1年後、朝岡牧師がガンとの壮絶な戦いを経て天に凱旋された後、神学校で開いた詩篇を歌う会で白石君が詩篇第六編を歌ったことを覚えています。日頃、クールな白石君が、絶句して歌えなくなり私が後半を歌いました。詩篇第六編は、魂から絞りだされる叫びであり、嘆きであり、そして勝利の祈りなのです。

 

1.苦難に主の怒りを見る(1-3節)

 

 「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私をこらしめないでください。」と詩人ダビデは叫びます。いったいどういう状況の中に彼は置かれたのでしょうか。

8節にあるように彼は「不法を行なう者ども」に取り囲まれ、10節にいう「敵」から攻撃を受けていたのです。そして、彼は肉体的にも弱り果て、骨は震えるほどであり、魂もおののいていたのです。(2、3節)

6:2 【主】よ。私をあわれんでください。

  私は衰えております。

  【主】よ。私をいやしてください。

  私の骨は恐れおののいています。

 6:3 私のたましいはただ、恐れおののいています。

  【主】よ。いつまでですか。あなたは。

 

 しかも、その状況をダビデは、主の御怒りの現れとして認識しているのです。主が私に怒りを燃やしていらっしゃる。主が私を憤っていらっしゃるのだと彼は認識したのです。

「主よ。御怒りをもって私を責めないで下さい。」

 

 あらゆる状況のなかに主の御手を見いだすこと。これはダビデの信仰でありました。ダビデの生涯をたどるとき、彼がこの詩篇のような状況に置かれたと考えられるのは、アブシャロムの反乱のときエルサレムから逃れて行くときのことでしょう。実の息子に背かれ、エルサレムを出て裸足でオリーブ山を登って悔い改めたダビデです。ダビデ一行がバフリムまで来た時、サウルの家系の者のシムイがダビデを呪ったのでありました。2サム16:5-14

 ダビデは、この事件では神の怒りの御手が自分の上にくだっていることを実感しないではいられませんでした。シムイのいうことは不当なことであり、誤解でもありました。けれども、ダビデはあえて反論しようとしませんでした。言い返そうとしませんでした。彼がシムイその人を見ていたならば、言い返したでしょう。仕返しをしたでしょう。けれども、彼はシムイを見ていたのではなく、主の御手を見ていたのです。2サム16:10-12節。

ですから、ダビデは「主よ。御怒りで私を責めないで下さい。」と祈るのです。

 

 あらゆる状況において主の摂理の御手を見るということ、これがまず今日の詩篇に学ぶことです。私たちの身の回りに起こること、格別苦難ということについて、何一つ無意味に起こることではありません。たとえ、そこに悪しき人々の悪だくみや悪魔の働きがからんでいたとしても、究極的に神様のご支配があるのです。試練については特にこう言われています。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5)

 「主の懲らしめを軽んじる」とは苦難を単なる偶然の出来事、災難としてしか見ることをせず、このことを通して主に向かい合おうとしないことです。ある人が、「病気は生き方を考えさせる神の促し」と言いました。病気だけではありません。私たちは順境にあっては主に感謝し、逆境にあっては反省して主と向かい合うべきです。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後のことを人にわからせないためである。」(伝道者7:14)

 

2.嘆願の激しさ・執拗さ

 

 次に私たちがこのダビデの祈りに驚くのは、その嘆願の激しさと執拗さではないでしょうか。4節から7節。

 6:4 帰って来てください。【主】よ。

  私のたましいを助け出してください。

  あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。

 6:5 死にあっては、

  あなたを覚えることはありません。

  よみにあっては、

  だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

 6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、

  私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、

  私のふしどを押し流します。

 6:7 私の目は、いらだちで衰え、

  私のすべての敵のために弱まりました。

 

 

 祈りは禅坊主のような悟り澄ましたものではありません。禅坊主は「無」を前にして沈黙し、なにごとかを悟るのだそうです。人格的な神を知らぬ彼らとしては、それ以外ないからでしょう。しかし、聖書的祈りとは今生きて働かれる人格の神をかきくどくことであり、生ける神との激しい格闘なのです。

アブラハムはソドムのとりなしにおいていくどもいくども、主なる神がついにはへきえきするまで粘り強くその助命を嘆願しました。ヤコブは主と相撲を取り、主に勝利者と呼ばれました。モーセイスラエルの民に対して怒りを燃やされる主の前に立ちはだかって、イスラエルを滅ぼすなら私をまず殺してからにしてくださいとまで言いました。

 そして、私たちの主イエスのゲツセマネのあの三時間にわたる祈りについてヘブル書はこう記しています。「キリストは、人としてこの世におあられたとき自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

  私たちの祈りはどうでしょうか。安易に「みこころのままに」と言うことによって悟り澄ましたような、実はいんちきの、怠慢な、口先だけの祈りに堕してはいないでしょうか。

 

3.恵みのゆえに

 

 とはいえ、ダビデの祈りはただ激しいだけのものではありませんでした。ただ単に頑固で自己主張が強いというものではありませんでした。彼の祈りがここまで粘り強くありえたのは、彼の自我の強さのゆえではありません。彼は主というお方をよく知っていました。ダビデは悔い改めつつ祈っているのです。

 ダビデはこう祈りました。4節。「帰って来てください。主よ。私のたましいを助けだして下さい。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」「あなたの恵みのゆえに」とダビデはいいました。「恵み」とはなんでしょうか。恵みとは「祝福を受ける資格のない者に注がれる、神からの一方的な祝福」のことです。

 ダビデは、自分が神から祝福を受けて当然であるなどとは思っていませんでした。彼は自分は今、神から懲らしめを受けるべき人間なのだとわかっていました。今、彼の上に主の御手がくだっていると認めていました。そして、彼は自分の義に訴えて、神様に救いを求めているのではないのです。彼は自分は「私はこれこれこれだけ立派なことをしてきましたから、神様あなたは私を救うべきです。」などと愚かなことは言わないのです。神の御前に立つ時、仮に自分が良いことをなしえたことがあったとしても、すべての良きことは神様の恵みによってさせていただいたのですし、すべての悪いことは私たちが自らなしたことなのですから。

 しかし、ダビデは救いを求めえたのです。どうしてですか。「あなたの恵みのゆえに」です。「主よあなたは恵みとまことに満ちたお方です。滅ぼされて当然の、この私をも哀れむとお約束くださったお方です。私によきところはありませんが、あなたはよいお方です。ご自身の結ばれた契約に対して真実なお方です。あなたは恵みに満ちたお方です。ですから、私はあなたの恵みゆえに救っていただけると望みを抱いているのです。」というのです。

  私たちの祈りが弱々しいときは、自分の義によりたのもうとするからです。私たちの祈りが力強いときは、主の恵みとまことによりすがるときです。

 

4.勝利の確信を得る(8-10節)

 

 嘆きと叫びと涙にはじまった祈りは、ついに勝利をもって終わります。

 

 6:8 不法を行う者ども。みな私から離れて行け。

  【主】は私の泣く声を聞かれたのだ。

 6:9 【主】は私の切なる願いを聞かれた。

  【主】は私の祈りを受け入れられる。

 6:10 私の敵は、みな恥を見、

  ただ、恐れおののきますように。

  彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。

 

 

 祈りの戦いを戦い抜いたとき、勝利の確信を得たのです。そのとき、まだ肉眼では状況は変わってはいないのです。ダビデを取り囲む敵は減っていません。けれども、祈り抜いたとき、ダビデは「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」と確信したのです。

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)と主イエスがおっしゃった通りです。この確信と平安とに至るまで祈り抜くことがたいせつなのです。聖歌256番の四節にも、「祈れみわざは必ず成ると信じて感謝をなしうるまでは。」とあります。ヤコブモーセも主イエスも祈りの戦いの後に、確信にいたって新しい歩みをしています。ヤコブは、あなたはイスラエルという祝福ある名をいただきました。モーセは、主御自身がいっしょに行くと約束をいただきました。主イエスは、十字架に苦しみを受けた後に、死者のなかからよみがえらせていただけるという勝利の確信をいただきました。そうして、確信をもって新たな歩みをそれぞれにしたのです。

 私たちの祈りにおいてたいせつなことは、この主への賛美と感謝と平安にまでつき抜けることです。「すでに得たり」と信じうるまでに御心を求め、御心を確信することです。嘆きは賛美に変えられ、願いは感謝に変えられ、不安は平安に変えられるのです。

 

結び

 ダビデは祈りの発端において苦難に主の怒りを見ました。しかし、ダビデは自分の義ではなく神の恵みによりすがって執拗な祈りの戦いを展開しました。そして戦いの到達点において、恩寵が苦難を乗り越えるのを見たのです。そして、確信を得、賛美にいたったのです。