Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

私たちの弁護者

ヨハネ2:1-11

                        

 「私の子どもたちよ。」使徒ヨハネは深い親愛の情をこめて語ります。「子どもたち」という意味は、ヨハネが伝えた主イエスの福音によって救われた人々に向かっていっているのです。伝道者にとって、人々に福音を伝え救いに導くということは、母親にとっての出産にあたいする務めです。母親が子を生むために生命の危険をもあえて犯すように、伝道者は人を救いに導くためには生命の危険を冒すこともあります。また、母親が子どもが生まれ産声を聞いたとたんに、あの苦しみが喜びにかわるように、伝道者にとって一人の人が主イエスを信じ主の御名によって洗礼にあずかった喜びは何物にもかえることができません。牧師として召していただいてよかったなと思うときです。

                                                                               

  1.弁護士キリストのもとで罪赦されて罪なきをめざしていきる(2:1-3)

 

 「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」「これらのこと」というのは、前の1:8-10の内容です。イエス様を信じたとしても私たちのうちには罪の性質が残り、罪を犯してしまうことがあります。しかし、そうしたばあいには自分の罪の一つ一つを具体的に神様の御前に告白すれば、神様は罪を赦しきよめてくださるということです。・・・このことばをあまりにも安易に受け止める人は、「だったらクリスチャンになっても罪を犯し続けてもよいのだ。どうせ告白すれば赦されるのだから・・・」というふうに捉えるかもしれません。そこで使徒は、「そんなことはない。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪のなかに安住するためではなくて、罪を犯さなくなるためなのだ。」と言うのです。あなたがたが罪を犯さなくなるためにこそ、神は罪の赦しときよめをくださったのだ、と。

 クリスチャンは罪を犯さないことを目指して生きるべきです。そのスタート、土台は神様が私の罪を赦して下さったという事実です。

 しかし、それでももし罪を犯してしまったときには、イエス様が私たちを弁護してくださるのです。ヨハネは神の法廷を目に思い浮かべなさいと奨めます。正面には厳正な審判をなさる御父。私たちはその前に立つ被告です。神様は私たちのたましいと霊の分かれ目まで見通される御目をもって、私たちの罪を見通されます。だれがこの聖なる裁きに立ちおおせるでしょう。恐ろしくて立っていられないほどです。

 しかし、わたしたちには神の法廷にあって強力で親身になってくれる弁護士がいらっしゃる。パラクレートスです。パラクレートスとは、弁護人のほかに慰め主とも訳されます。直訳すると「側にいて呼びかける者」という意味のことばです。

 第一に弁護士は罪を犯した者のそばに立つ者です。罪人の立場に立って、その弱さに十分同情できなければ弁護士はつとまりません。高い所から被告人を見下ろして軽蔑し、こんな罪を犯すやつはどうしようもない。弁護の余地などないと思ったら弁護はできないでしょう。イエス様は罪を犯されませんでしたが、私たち人間と同じように弱さをになってくださいました。イエス様は罪は犯されませんでしたが、私たちの会う誘惑をすべてお受けになるために弱さをになってくださったのです。

「イエス様はまぶねの中に産声上げ、大工の家で成長されました。早く父ヨセフはこの世を去り、母と多くの兄弟たちの世話をしました。貧乏ということの苦しみも、生きることの悩みもなめつくされたのでした。空腹がどんなにつらいか、お金がないということがどんなにたいへんか。

 主イエスは長じて伝道生活にはいると、食事をする暇も忘れて、常にしいたげられた人たちの立場に立ちました。病人、みなしご、やもめ、やむなき家庭事情のなかで身売りをした女郎たち、取税人たちこういう人たちのそばにいつもイエス様はたたれました。

 そして、すべてのものをお与えになった末に、十字架に最後の苦しみを受けられました。私たちと同じ肉体を担われた主イエスです。くぎ打たれたとき骨は砕け苦痛にうめかれました。十字架が立てられると、肺と心臓は圧迫されて息することも苦しくなりました。主は私たちの肉体的な弱さをもよく知ってくださいます。そして、主は祈られました「父よ彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」」

 神の法廷における私たちの弁護人とは、このようなお方です。

 

 第二に弁護士は、単なる同情的な人というのではなく、正義の律法に基づいて主張をする者です。神様の立てられた律法では、罪なしと認められた者が血を流すことなくして罪が償われることはないのです。そこで、主イエスはきよい神の御子であられながら、まったき人として地においでになり、私たちの罪をその一点の罪のしみもない御自身の身に背負ってくださったのです。父なる神の御怒りをなだめるなだめの供えものとして、ご自分を差し出してくださいました。主イエスは「私は、彼のために十字架において罪の刑罰をすでに受けたのです。彼の刑罰はすでに完了いたしました。よって、これ以上彼を罰することはできません。」と正義の主張をしてくださるのです。

 

 私たちは、神様のこれほどの深い愛と大きな犠牲によって、罪を赦されたのです。そのことを本当に信じているなら、「もはや私は罪のうちにとどまりつづけたくない」と思わなければ嘘です。

 

2.神の命令にしたがっているなら神を知っているといえる(2:3-6)

 

2:3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

 2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

 2:5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

 2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 

 

 救いの確信の問題です。私たちは、どのようにして自分が神様を知っていると言えるでしょうか。ここでいう「知る」というのは単なる知識として知るということではなく、救われている、神との人格的ないのちある交わりがあるという意味です。

 3節から6節で、言わんとするのは、私たちが神をほんとうに知っており、神のうちにあって神様のいのちに生かされているということは、私たちの生活によってわかるということです。神の命令にしたがい、神のみことばを守り、キリストが歩まれたように歩んでいるならば、その人は確かに神を知っていると言える、と。その人は私は救われているという確信をもってよい。知行合一です。

 たしかに使徒ヨハネは、クリスチャンもまた罪を犯してしまうことがあると言います。しかも、先の主日夕拝に学んだように、クリスチャンになったからこそ、罪意識がはっきりしてくることも事実です。暗闇のなかでは見えなかった自分の汚れが、太陽の光の下ではあからさまになってくるのです。しかし、そうした現実をわきまえながら、なお使徒ヨハネは、クリスチャンであるしるしは、神のことばにイエス様のようにしたがって生きているということである、と。

 主イエスのことばで言えば、「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」

 つまり木はその実によって判断されるということです。木の幹を見ても、その葉っぱを見てもまるで同じに見える二本の柿の木があります。一方は渋柿をならせ、一方は甘柿をならせる。実をもってその木がよい木か悪い木かが判断されるのです。

 

3.神の命令とは何か(2:7-11)

 

 しかし、注意してください。ここでいう実とは、この効率主義の現代においていわれるいわゆる「成果」とはちがいます。効率主義の世の価値観でいう成果とは、何か大きな事、人目を驚かせるようなこと、大金持ちになることそういうことを実だと思われがちです。しかし、主イエスがおっしゃいました。22節。終わりの日に偽預言者たちは、私は預言をした、私は悪霊を追い出した、私は奇跡をたくさん行ったという人目を驚かせるようなスゴイ成果は、神様の御前ではなんら「良い実」に数えられないのです。

 では、イエス様がいわんとする良い実つまり、ヨハネの言う「神の命令を守ること」とはなんなのでしょうか。7-11節。

2:7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

 2:8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

 2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

 2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

 2:11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

 

 読めばわかるように、それは古い命令であり、キリストにあって新しくされた命令、「兄弟を愛しなさい」という命令です。兄弟と言われているのは、クリスチャンの仲間のことです。もちろんクリスチャンはクリスチャンでない人々をも愛さねばなりません。主は「あなたの敵を愛しなさい」とさえ言われました。しかし、まずは身近な主にある兄弟姉妹を愛しなさいとおっしゃるのです。

 兄弟姉妹への愛が古い命令と言われるのは、旧約聖書のなかにすでに紀元前千五百年も前から「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあるからです。しかし、キリストにあってこの命令は新たに私たちに与えられました。ヨハネ福音書13:34

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もあいあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 どういう点で新しくなったでしょう。昔は兄弟を愛するための見本が「自分自身を愛する自分」の姿であったのが、今は兄弟を愛する見本はイエス様がこの私を愛して下さったそのお姿になったという点です。完全な愛のお手本が出現したのです。ですから、私たちはあの兄弟姉妹にどんなふうにして上げるのがよいのだろうかと考えるときに、「イエス様は私にどうしてくださったかな?」と思い描けばよいのです。イエス様は、どんな愛を私に対して注いでくださったでしょうか。イエス様は弁護士として、私たちのそばに立ってくださいました。私たちの弱さを見下げるどころか、私たちの弱さに深く同情してくださいました。そして、ご自分を犠牲にして神と私たちの交わりを「義」なる状態つまり正常にしてくださいました。そのように私たちも、十字架の愛をもって主にある兄弟姉妹を愛するべきです。

 神の命令を守るというのは、主にある兄弟姉妹を愛するということです。ですから、もし私たちが主にある兄弟姉妹を愛していないなら、憎んでいるならば、救いの確信が失われ、神様のいのちにつながっていないと感じるのはしぜんなことです。しかし、もし私たちが主にある兄弟姉妹への愛を実践しているならば、私たちは心に確信と平安をもってよいのです。私は神様を知っている。いなむしろ、神様は私を知ってくださって、こんな愛にかけた罪人のうちにも兄弟姉妹を愛する愛をくださったのだ、なんとありがたいことだろう!と。

 

 

上からの救い

ヨハネ3:1-16

 

 

1. 上から生まれる

                                                             

 夜、主イエスのところに独りの人物が訪ねてきました。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」とあります。ニコデモはすでに相当の年寄りでした(4節参照)。今日にいたるまで、パリサイ人の教師として、まじめに旧約聖書の律法をユダヤ人たちに説いてきた人でした。パリサイ人というのは、旧約聖書にある律法に基づいて当時のユダヤ人たちを導いていた人々です。パリサイ人たちの教えは、神がくださった律法をことごとく守ることによって、人は神の国にあずかることができるということでした。

 「神の国」とは、この世にあっても次の世にあっても、神様のご支配のもとに生きるすばらしい人生です。神の国とは、死後のいわゆる天国のことだけを意味するのではなく、地上に生きている間も、正義の愛の支配の下にある状態です。神の国とは言い換えると「永遠のいのち」ということでもあります。イエス様のもとには「神の国にはいるにはどうしたらよいのか」、とか、「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいのかと訪ねて来る求道者がいました。

 ニコデモはパリサイ派で、しかも民の指導者と呼ばれています。パリサイ派というと、偽善者ばかりのイメージがあるかもしれませんが、実際には、パリサイ人にもピンからキリまでいました。形式的にだけ律法を守ったことにするというようないかにも偽善者的なパリサイ人たちもいて、イエス様から「白く塗られた墓」などと厳しく非難もされています。しかし、パリサイ人の中にはニコデモとかサウロのように、日々、生真面目に律法を守り行って神の前に正しく歩もうと努力していた誠実な人たちもいたのです。

 ニコデモは、子どもの頃から一途に律法を行うように務めてもきたし、長じてからは人にもそのように教えてきたのです。老ニコデモはそういうパリサイ派のなかでも「民の指導者」の一人とされ、ユダヤの最高法院サンヒドリンの議員のひとりでもありました。(7:50)ニコデモは品行方正で親切で、社会的な名誉も持っていた人です。

 

 けれども、そんな誠実な人ニコデモがイエス様のもとに教えを乞いにやってきたのです。なぜでしょうか?長年律法を守ってきたつもりだけれど、自分の教えてきたことに彼は、本当のところ自信がなかったからです。自分は「ああすべきだ。こうすべきだ。」と、律法についていろいろ教えてきたけれども、中身がなくてスカスカの自分を感じていたからです。

 2節に彼は夜やってきたとあります。こっそりやってきたのです。それは、彼がイエスに教えを乞うているところを人に見られることを恐れたからに違いありません。ニコデモのパリサイ派の代表的教師であり、ユダヤ最高法院の議員であるという社会的地位や名誉からいうならば、ガリラヤのナザレに最近現れたひとりの若者のもとに教えを乞うということはスキャンダルでありました。けれども、ニコデモはイエス様のもとに来ないではいられなかったのです。それは、彼が生涯を賭けて説いてきた「律法を行うことによって、人は神の国を見ることができる」という道に疑念を感じていたからです。それで彼は夜だけれど勇気を出してやってきました。彼は正直な人だったと言えるでしょう。

 老ニコデモは、2節に見るように、たいへん礼儀正しく、若いイエス様にことばをかけました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなかれば、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

ニコデモのことばを見る時、彼から見た主イエスと自分との一番大きなちがいは「神がともにおられる」という点だったのだということだとわかります。ニコデモは、律法を隅から隅まで覚えていて、自由に引用することも解釈することもできました。ニコデモは努力に努力を重ねて律法とともに歩んできました。しかし、神が彼とともにいるとは確信できませんでした。

 そこで、いきなりイエス様はおっしゃいます。3節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエス様の答は一見すると唐突です。しかし、このお言葉は、ニコデモが問題を感じていることにズバリと解答を突きつけたことなのでした。ここでたいせつなことばは「新しく」と訳されていることばアノーテンです。このことばはおもしろいことに、「新しく」という意味と「上から」という意味の二つを合わせ持っているのです。たとえば、同じヨハネ福音書3:31に「上から来る方は」とありますが、この「上から」はアノーテンということばです。イエス様が上から来る方と呼ばれているのです。つまり、ここにいう「上から」というのは、「天から」「神から」という意味にほかなりません。

 イエス様は「まことに、まことにあなたに告げます。人は、神から新しく上から生まれるのでなければ、神の国を見ることはできません。」とおっしゃったのです。

 

 考えてみれば、老ニコデモが若い日から今日まで学び行ってきた、そして、人にも熱心に教えてきたことは、いわば「下から」の道でした。ユダヤでは、自分の名前を言うまえにトーラーのことばを唱えるようになるというほど、律法の教育が徹底して行われます。日々、律法を暗唱し、律法を行い、敬虔な宗教生活の功徳を「下から」積み上げ、積み上げ、積み上げ、積み上げて、段々と「地から」天に向かって神様の基準にかなう自分の義を建てあげていくというのが、パリサイ派のニコデモが教えてきたことでした。そうして神をあがめ神に従う神の国を見ることができると教えてきたのです。

 ところが、主イエスは「下からではだめだ。人は上から、つまり天から、神によって生まれなければ、だれも神の国を見ることはできない。」と断定なさったのです。

 

 ニコデモは戸惑いました。ニコデモには主イエスのおっしゃる意味がわかりませんでした。彼は「新しく生まれる」という意味にだけ、主イエスのことばを取ったようです。そして、ちょっとあざける調子で、そんな「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言ったのです。ニコデモの言葉にはた しかに彼がつき当たっていた根本的な問題が暗示されています。人がどんなにまじめに律法を暗唱し、善行を下から上へと積もうとしても、どうしても乗り越えられない問題があると感じていたのです。限界があると感じていたのでしょう。もういっぺん生まれ直して、根本から洗い直してやり直すしかないか、などという感情です。

 

 すると、イエスは「上から、神から」生まれるということはどういうことを意味しているかをさらに説明なさいました。5節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は、肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

 水とは洗礼のことです。聖霊をともなう洗礼を受けなければだれも、神の国に入ることはできないとおっしゃったのです。主イエスヨハネが授けた水だけの洗礼ではなく、同時に御霊をも注いでくださるお方であるということです。さて、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とはどういうことか。肉とは肉体のことではありません。ヨハネ福音書で「肉」というのは、「自分の力、人間の力」です。御霊とは神様が注いでくださる聖霊です。ですから、主は、「人が自分の力で功徳をどんなに積み上げても、人は決して神の国にはいることはできない。」とおっしゃるのです。人がどんなにまじめに暗唱聖句をし、偶像を礼拝せず、安息日を守り、両親を敬い、殺すまいとし、姦淫をおかすまいと努力し、盗むまいと努力し、嘘はいうまいと努力し、となり人のものを欲しがったり、人の幸せを妬むまいと努力したとしても、人は決して神の国にはいることはできないのです。どんなにまじめに律法に取り組んでも、罪の力から解放されて生きることはできない、神の国に入ることはできないとおっしゃるのです。

 ニコデモは、いろいろな神の律法を守り、いろいろな教えを学び実践することによって、人は神の国を見ることができると教えてきました。しかし、どんなに律法をきまじめに行おうと努力しても、罪の力からの解放は経験できなかったのです。

 

 ニコデモと同じパリサイ派であったサウロは、自分の律法にまつわる経験について述べています。ロマ7章7-13節。サウロはまじめに律法を守り行おうとしました。まじめな彼としては十戒のうち九つまでは自分で満足できるように、行うことができたようです。ところが、第十番目の戒めに彼は縛りつけられてしまったのです。「汝その隣人の家をむさぼるなかれまた汝の隣人の妻およびそのしもべ、しもめ、牛、ろばならびにすべて汝の隣人のもちものをむさぼるなかれ。」サウロは、自分の心が隣人の家、妻、その所有物を欲しがる欲求を抑えることがどうしてもできないことに気づいたのです。そして、朝に昼に夕に、サウロは自分のうちに沸き起こってくるこの「むさぼり」に苦しみました。

 ニコデモも律法による道の限界を感じていたのです。そしておそらくこの度もイエス様のところに来れば、自分にもう一つ欠けていた教えというか奥義を教わることができるかと思ったのです。けれども、イエス様はそれを根本から否定なさったのです。「肉によって生まれた者は肉です。」と。

 

 今日でも世にはいろいろな道徳、自己救済、自力救済の道が説かれています。早起き会とかいって毎日朝早く起きて一日を始めれば良いことがある。一日一善。前向きの意識で成功する。積極志向でいきましょう。自己啓発セミナーなどなど。それらがある程度の効果を人間生活にあらわすのは事実でしょう。だからその手の本が売れ、セミナーがはやったりするのでしょう。これらはいずれも「下から」のものです。「肉」によるものです。「肉」を強化することによって、問題の解決を得ようとするものです。けれど、結局は、「肉から生まれたものは肉」にすぎないのです。 「御霊によって生まれた者は霊です。」と主イエスは、ご自分がもたらす救いについて話されるのです。7節、8節。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

霊と訳されることはプネウマは、おもしろいことばで、「風」という意味もあります。風は自由に吹きます。御霊も自由に働かれるのです。人がコントロールできるわけではありません。また、御霊によって生まれると、その人は自由なのです。御霊にある自由、ここがニコデモやサウロがはげんできた堅苦しい律法主義・自力主義との大きな違いです。

ここに一つの証しがあります。長野福音教会のメンバーの召田さんという方です。

 「クリスチャンの歩みって何だろうと考えてみました。クリスチャンになる前は、道徳的に正しい人になる、悪いことをしない、この世的な楽しみは控えた方が・・・。そんなイメージで見ていました。ですから、ちょっと堅苦しいという思いがあって、学生時代の友人のクリスチャンから強くすすめられながら、なかなか受け入れられなかったことを覚えています。

 しかし、いざクリスチャンとして歩み始めると、逆に堅苦しい枠から解放されました。瀧に打たれたりして難行苦行を積む必要もありません。イエス様の十字架のあがないによって、一方的に赦され、罪から解放されていることが分かったからです。何を着ようか、何を食べようかと心配することは、それほど意味を持たないこともわかりました。クリスチャンはいつも自由です。

 ただ神の国とその義をまず第一に求めなければならないことを教えられます。神様の支配に従い、神様との正しい関係を第一とする生活です。そうすればそれに加えて、これらのものは全てが与えられますとこの世の必要は神様が保証してくださると約束してくださっています。・・・・」

 クリスチャン生活の実感がよく現れていますね。クリスチャン生活は、御霊による誕生によって始まり、御霊のご支配のもとにある自由のなかで営まれていくのです。祈ることも聖書を読むことも、主の日を守ることも、愛の業を行うことも、みな御霊がなさせてくださいます。御霊がさせてくださるとき、私たちは自由に愛をもって律法の要求を十二分におこなうのです。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(1コリント3:17、18)

 

2.十字架のキリストを見上げる

 

 しかし、ニコデモには主イエスがおっしゃる御霊によって生まれたクリスチャンの人生というものは理解できません。彼はまだ上から生まれていないからです。彼は答えます。9節「どのようにして、そのようなことがありうるのでしょう。」そこで、イエス様は御霊について話すことに困難を覚えます。11、12節。

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 そして、ニコデモが幼い頃から親しんできた旧約聖書の故事に基づいて、イエス様のもたらされる救いを、別の観点からお話になるのです。13-15節。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

3:16 神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

民数記21:4-9節。イスラエルの民の神に対する忘恩と不信の罪に対して燃える蛇の罰がくだりました。ところが、神様はモーセの祈りに答えて救いの道を与えてくださいました。それは、ただ旗ざおに付けられた青銅の蛇をあおぎ見るということでした。旗ざおはちょうど十字架のかたちをしています。8節。「それをあおぎ見れば、生きる。」蛇は呪われた罪の象徴でした。

 ここには律法の「行い」による救いとは違う、信仰による救いの道が象徴されています。イスラエルの民は、蛇にかまれもはや自分で自分をどうすることもできなかったのです。どんな罪のつぐないとしての善行をすることも、徳を積むこともできませんでした。ただ、神の約束を信じて「あおぎ見たら、生きた。」のです。神の約束を信じないで、自分の努力で蛇の毒のまわりを抑えようとしたりしている者は死にました。

 主イエスは、この故事をもって、御霊によって生まれるという救いがどういうことかということを、ニコデモに説明なさったのです。御霊によって生まれるという救い、それは御約束を信じて十字架のキリストをあおぎ見ることによる救いなのです。

 青銅の蛇を付けられた十字架のかたちをした旗ざお。それは、私たちの罪の呪いを受けられたイエス・キリストの十字架を示しています。神の御子イエス・キリストが罪の呪いを受けるために、十字架に上げられてくださったのです。どうしたら人は救われるのか。私の罪のために十字架に付けられた御子イエス・キリストふりあおぐことです。その時、新しい人生が始まるのです。罪赦され、罪の力と律法の呪いからも解放され、御霊によって神の国を見る人生が始まります。

 ニコデモはこのイエス様の話にどういう反応を示したかは、ここには記録されてはいません。彼は三年ほど、ユダヤ当局につくでもなく、キリストの弟子となるでもなく、どっちつかずの生き方をしていました。しかし、これから3年後イエス様が十字架に上げられるにおよんで、ついに彼は回心しました。新しい人として生まれたのです。ニコデモは、自分がイエス様を信じることを公にします。すなわち、主イエスが十字架から降ろされ、墓に葬られようとするとき、彼はたくさんの高価な没薬をもって墓にやってきたのです。かつてパリサイ人としての誇り、サンヒドリン議員という社会的な地位と名誉、こうしたものに縛られていたニコデモは、ついにこれらから解放されました。そして、キリストの弟子となり、神の国を見る生き方を始めたのです。

 

結び 「人は上から神によって新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」 

 神の前に自分の限界と罪を認め、主イエスが私の罪のために十字架にかかって甦られたことを感謝して受け入れましょう。そのとき、あなたも神の国を見ることができます。主は言われます

「 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。

  わたしが神である。ほかにはいない。」イザヤ45章22節

  神の光に歩む  

ヨハネ1:5-10

                                                                

 

1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

 

 1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 

 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

 

1.神を知り、神を味わい、そして、生きる

  

 5節でまず「神は光である」とあります。そして6節から10節は神が光であることに基づいて、私たちの交わりがいかなるものか、私たちがいかに生きるかということへと展開していくのです。この順序が実はとてもたいせつです。クリスチャンの信仰の本質は律法を守るところにはありません。いろいろな規律・ルールはたしかにたいせつなものです。十戒は神のことばです。しかし、規律を守ること自体に意味があるのではありません。クリスチャン生活の本質は、神との人格的交わりのうちにあるのです。

 交わりとはなんでしょうか。それは互いに深く知りあうということです。相手の人格に深い関心をもって耳を傾け、また自分も心開いて語るというところに交わりが生まれてきてまた交わりが育つのです。また交わりとは、喜びや悲しみを分かち合うということです。

 「朱に交われば赤くなる」ということばがあります。友達が悪いと、私たちは知らず知らずのうちに、その悪友に感化されて悪くなるという意味です。しかし、逆のことも言えます。良い友を得て、愛と尊敬をもって交わるならば、私たちの生き方・価値観も表情も変わってくるのです。ですから、字が違いますが、「主イエスに交われば、きよくなる」のです。光である神に交われば、私たちも光るのです。

 どんなふうにお祈りするのか。どんなふうにクリスチャンとしての家庭生活を営むのか。どんなふうに伝道すればよいのか。どんなふうに献げものをするのか。これら具体的なことも大切なことです。具体的な生き方に私たちの内にある信仰は現れるものだからです。けれども、このようなハウツーを求める以前にたいせつなことは神様がどのようなお方であるかを知り、このお方を見上げ続けることです。「朝晩、み顔を仰いでいれば、主イエス様に近づけるでしょうか。」という歌があります。

 J.I.パッカー牧師が勧めていることですが、みことばを開いたら、まず「神様(あるいはイエス様)あるいは聖霊はどのようなお方ですか?」という問いを意識するといいです。次に神がどのようなお方であるかをよく味わうのです。その上で、生活への適用します。私たちの生活は主との交わりの生活です。ですから、主がどのようなお方であるかということを知ること、そして私を主に知って頂くことが、私たちの生活の出発なのです。それがなくて、聖書を開いてただすべきことだけを求めていると、あなたはきっとくたびれてしまいます。あなたの内にいのちがないからです。もしあなたが主を振り仰ぎ、主と交わった上で、行くべき道を見出せば、前に進んでいくことができます。

 

 では、今日のみことばでは、神様について私たちは何を知らされるでしょうか。

 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」ここで、「神は光であって・・・」はたいそう強調されています。ヨハネが「神は~である」というのは、三つです。ひとつは「神は霊である」、ひとつは「神は愛である」、そしてもうひとつが「神は光である」です。

 光は、聖書のなかでは「悲しみに対する喜び、敵意に対する祝福、死に対するいのちにかかわることばとして使われている」「神のきよさ」(新聖書辞典)を意味しています。振り返ってあの三年間、弟子ヨハネは、神は光であるという経験を主イエスとともに歩む生活のなかでしたのでした。御子イエスは、光そのものでした。主イエスには偽り、偽善、罪がたしかになかった。いつも喜びと祝福といのちがあふれた聖さに満ちておられました。主イエスはそういうお方でした。

 変貌の山では、主イエスの光り輝く姿を実際に目撃した一人がヨハネでした。

 

2.光の中を歩む  

                                                              

 神が光でいらっしゃる。その神と絶えず親しく交わっているなら、私たち自身も光となります。主イエスは私たちに向かって「あなたがたは世界の光です」とおっしゃいます。またエペソ書には「光の子どもらしく歩みなさい。」とあります。私たちが光の子として生きるとはどういうことでしょう。

 

(1)闇の中に住む

  「もし私たちが神と交わりがあるといっていがら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っており・・・」。

 「闇のなかを歩む」「光の中を歩む」というふうにパウロは言います。「歩む」と訳されることばは「あるきまわる」「うろつく」という意味のペリパテオーという言葉です。「闇の中で生活する」「光の中で生活する」と思いきって訳す人もいます。つまり、「~のうちに歩む」というのは常習的にそこに住み着いてうろうろしているという状態なのです。ですから6節に言わんとすることは、「もし神と交わりがあるクリスチャンですと名乗っていながら、しかも常習的に闇のなかに住み着いているとすれば、『私は神と交わりがあるクリスチャンです』というのは嘘である」ということです。

 「闇のうちに生活する」とは具体的にはどういうことか。ヨハネの手紙では二つの面で言われます。1ヨハネ2:9「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお闇の中にいるのです。」

 「兄弟」とはクリスチャンの兄弟姉妹のことです。主にある兄弟どうしでも、時には喧嘩をしてしまうこともあるかもしれない。そういうことがあったとしても、またイエス様の御前で赦しあうことです。その人は、闇のうちに住んではいない。闇のなかに落ちたけれども、すぐに出てきたからです。けれども、もし「自分が相手を憎むことは当然だ。あいつが悪いのだから。」と自己を正当化し、その憎しみを燃やし続け、復讐を誓い続ける人があったとすれば、それこそ「闇の中に歩む、闇の中で生活する」ということです。そういう人は、いくら口で「私はクリスチャンです。神様と交わりがあります。」と言っていても、そのことばは偽りです。

 もう一つヨハネの手紙で闇とは悪魔と罪のことです。3:8-9

3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

 3:9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

 

 クリスチャンになっても、残念ながら、なお罪を犯してしまうことがあります。しかし、クリスチャンは罪のなかに住み着いていることはできません。 私たちも、時に、悪魔の誘惑に載せられて、こうした罪に陥ることがあるかもしれない。しかし、罪を犯すことに慣れてしまってはならない。罪の生活を楽しんではならないし、罪のなかに住み着いてはならないのです。罪のなかに住み着いているならば、その人がいくら「私は神様と交わりがあります」と言っていたとしても、それは嘘です。

 

(2)光のうちを歩むなら(7節)

  「光のうちに歩む」というのは、「神様の光のうちに生活する」「神様の光の中に住みつく」ということです。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

それは主にある兄弟を愛することです。また、律法にかなう正義を行うことです。それは、神が光であり光のうちにいらっしゃるので、光なる神と交わるときに、内側から実践しないではいられなくなるものです。

 けれども、実は、光のうちに歩んで、光である神様と交わりながら生活しているときには、自分は律法を守っているとか、よいことをしているということはあまり意識していないものです。終わりの審判のとき、イエス様から「あなたは私が牢にいるときに見舞い、私が飢えているときに食べさせ、私が裸のときには着る物をくれましたね。」と言われるクリスチャンたちは、「そんなこと、いつしましたっけ」と思うものです。

 なんで自分がよいことをしていることについて、クリスチャンは鈍感になるのか。・・・それは太陽の光の中で懐中電灯や車のヘッドライトが目立たないのと同じことです。神様の光の中で生きているときには、私たちの光は目立たない。神様のあまりにも豊かで偉大な愛の下で生きているときには、私たちは自分のした愛の行いなどちっぽけなことにすぎないと感じるし、この位のことはあたりまえだと感じないではいられないからです。

 だから、光である神様と交わることがとてもたいせつなのです。そうしないで、律法を見つめ、「親切にしなければ」「~こうしなければ」云々ということで、一生懸命兄弟を愛したり、律法を行ったりしようとすると、くたびれます。それに「私がこんなに親切にしてあげたのに、『ありがとう』のひとこともない。」とかいう不満が出てくるのです。そのときには、神様の光の中ではなく、律法の文字にしばられて生きているのです。

 神様の光の下で生きるなら、自由と喜びがあります。

 

(3)罪の告白について

  逆に暗闇のなかでは目立たないけれど、明るい光の下に持ち出すと目立つものとはなんでしょうか。それは、汚れです。クリスチャン生活にはいって、私たちの心を責めさいなむ物はこの罪意識です。クリスチャンになってからも犯してしまう罪の問題について8節から10節に語られます。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

 まず、8節でズバリいわれることは、クリスチャンの心の中にも罪があるということです。ここで言う罪は単数です。9節の告白すべき罪というのは、複数となっています。これは具体的な、数え上げられる罪です。さて、8節。もし、あなたが「私の心はまったくきれいになっていて、罪ある思いを持つこともありません。」というならば、それは単なる思いこみか嘘ですよということです。主が再臨なさって御前に挙げられるときまで、私たちは罪から完全に解放されることはないのです。10節でも言われます。「もし、罪を犯してはいないというなら、私たちは神を偽り者とするのです。」

 では、罪を犯してしまったとき、どうすればよいのか。9節。「自分の罪を言い表す」という罪とは具体的な罪の数々です。複数形です。ですから、よろしいですか。クリスチャン生活のなかで、罪を犯したときには、これを具体的に告白することが必要なのです。抽象的に漠然とごまかして「罪を犯しました」とか「私は罪深いのです」というのではなく、たとえばお祈りのなかで「私はきょうコレコレコウイウの罪を犯しました。」と言い表すことです。

 そうするならば、神様はお約束を違えるようなお方ではありません。真実で正しいお方ですから、お約束の通りに、あなたの罪をゆるしきよめてくださいます。

 

結び

 クリスチャン生活は、神と基督と聖霊によって交わって生きるところにあります。

 神を意識してその光の内に歩むなら、私たちも父や御子と似た者とされていきます。

 しかし、光の下に出てくると、自分の罪があらわにされてくるものです。その心が主にある兄弟姉妹に対する憎しみによって汚されていたり、明らかに律法に背いていることが、神のもとに来るとわかるものです。もし、罪が示されたならば、罪を告白して、神様にゆるしていただいて、心を洗っていただくことです。

 このようにして、神は光であり、神には暗い所がひとつもない。この光なる神様を見あげて、光の子どもらしく歩みましょう。                                                            

 

  

 聖書と神の力と

Mk12:18-27

                               

2017年7月1日 苫小牧主日礼拝

 

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

 12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

 12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

  主イエスの御在世当時、ユダヤの宗教的指導者にはパリサイ派サドカイ派そしてエッセネ派というのがありました。聖書にはエッセネ派という名は見えませんが、バプテスマのヨハネがこれに属していただろうと言われています。彼等は隠遁的な宗教生活をしていました。社会に表立って出てくる指導者たちとしてはパリサイ派サドカイ派です。

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 さて、きょう登場するサドカイ派というのは、ギリシャ思想の影響を受けた人々であり、身分的には祭司階級を占めていた人々です。サドカイ派の宗教というのはいわゆるインテリ的な宗教でした。それは頭で納得いく合理主義的な宗教でした。合理主義的な考え方というのは、人間の理性をすべての基準とする考え方ということです。人間の経験にかなうことしか信じようとしない人々です。21世紀にもそういう人々はたくさんいますが、2000年まえにもそういう人々はいたのです。

 サドカイ派は、創造主である神が存在することは信じてはいましたが、天使が実在するということと、死者が終わりの日に復活するという聖書の約束は否定していました。神の住まう天界と人の住むこの世を峻別し、神はこの世に介入することができないとしました。だから、ギリシャ哲学の理性の枠組みのなかでは、死者が復活するとか、天使が実在するというのは比喩か迷信ということになったわけです。つまり、サドカイ人は神を信じているとは信じていましたが、それは私たちが住んでいるこの世界において生きて働かれる神ではなく、哲学的な観念としての神にすぎなかったのです。

 サドカイ派が影響を受けたギリシャの哲学者たちも神を信じていました。たとえばアリストテレスは、第一原因としての神ということを主張しました。ものごとには必ず原因がある。たとえば、ここに本があるとすれば、その本をここに置いた人がいる。その人がそこに存在するのは、その人を生んだ人がいるからである。こういうふうに今ある結果には何か原因があるから、原因と結果の鎖をさかのぼっていけば、ついには最初のこれ以上さかのぼれない原因に至ることになる。つまり、それが第一原因すなわち神であるというのです。哲学における上というのは人間の理屈によって証明できる神ということです。人間の理屈の枠のなかに納まる神なのです。

 

 サドカイ派の人々は、日頃から考えていた復活に関する聖書の矛盾点を指摘して、イエス様をギャフンと言わせてやろうとして来たのです。それは、結婚に関する問答です。19-23節。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

  

 彼らは、ほんとうにこの問題の答を聞きたいわけではありません。ただ死人の復活という約束を否定したかっただけです。いや、それよりも、イエスを黙らせたかっただけのことです。

 サドカイ人たちが持ちかけた議論の背景には、旧約の律法にあるレビラート婚という慣習があります。古代イスラエル人にとっては、子孫を残していくということはきわめて重要なこととされていました。それで、AさんがBさんと結婚をしたけれども、もしAさんが子孫を残すことができないまま死んでしまった場合、Aさんの弟は、Aさんの妻Bさんをめとって子どもを生ませなければならないとされました。

 このレビラート婚の定めにしたがった場合、世界の歴史の終わりの時に死者のよみがえりがあるとすれば、非常に不合理なことが起こることになります。つまり、復活した7人の誰がその女性を妻とするかが問題になってしまうではないか、というわけです。神は秩序の神であり、理にかなったことをなさるお方である。したがって、パリサイ派がいうように、終わりの時に復活があるという教えが間違っているのだというのがサドカイ人たちの主張です。 夫に次々と死なれた女性がいたとして、このような状況において、死者が復活したならば、神のおっしゃる結婚の戒めを破ってしまうことになるではないかという訳です。ということは、矛盾であるから、死者の復活というのは将来、この時間と空間のなかで現実になる約束ではなく、文学的比喩にすぎないと言いたかったのです。

 

 イエス様は、彼らの質問の本質を見抜いてズバリとサドカイ派の人々の信仰のありかたの根本的問題をずばりと指摘なさいます。24節。

 「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

 言いもいったりです。なにしろ相手は祭司階級の人々、つまり、聖書と神様の専門家たちです。しかし、主イエスは「あなたたちは、たくさんの微に入り細を穿って聖書知識を持っているけれども、あなたがたの聖書知識は死んだ知識だし、あなたがたの「神」は生ける神でなく、単なる哲学者の観念的ないわば括弧付きの「神」にすぎないとおっしゃるのです。あなたがたサドカイ派の神は、聖書にご自身を啓示していらっしゃる、今も生きて働かれるお方、死者をもよみがえらせることもできる神ではないのだ、とおっしゃるのです。

 

 そして、旧約聖書の一節を引用なさって、復活の証言となさるのです。26-27節。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。

 

 これがどうして復活があるのだという証拠聖句となるのでしょうか。旧約時代にアブラハム、イサク、ヤコブという族長と呼ばれる人々がいました。彼らの子孫となるイスラエル民族に神様は約束の地をお与えになると約束なさいました。紀元前二千年ころのことです。それから五百年ほどたってモーセに対して神様が現れたのです。それが、26節にいう燃える柴の箇所に書かれているのです。当然ながら、この時点ではすでにアブラハム、イサク、ヤコブはこの世を去っているのです。

 ところが、主なる神様は燃える柴のところでモーセに出現なさったとき、自己紹介をなさっておっしゃいました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。つまり、モーセからいえば四五百年ほども前にこの世を去ったアブラハム、イサク、ヤコブは過去の人ではなく、今も生きているのだということです。神の御許にあって今も生きているのです。 だから「神は死んだものの神ではありません。生きている者の神です。」ということになります。「あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」と主イエスはお嘆きになりました。神様の御前に祈り、聖書を人々に教えるべき祭司階級を占めている、あなたがたともあろう者が、なんという思い違いをしているのですか!というのがイエス様のお気持ちでしょう。

 

 彼らの問題は「聖書も神の力も知らない」ということでした。もちろん彼らは聖書を知っていたでしょう。では、どのようなものとして彼らは聖書を知らなかったのでしょうか。また聖書はどのようなものとして知るべきであると、主イエスはおっしゃるのでしょうか。

 聖書を完全無欠な真理、神のことばそのものとして知ることです。主イエス様は聖書を隅からすみまで完全無欠な神のことばであると主張なさるのです。旧約の小さな一句を根拠に死者の復活を証明なさった一事を見てもよくわかります。また主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」(マタイ5:18)とおっしゃいました。サドカイ派の人々は、聖書のことばよりも自分の経験やギリシャ哲学を上に置いていたのです。そして、自分たちの理屈にかなわない奇跡の記事、復活の約束などは、勝手にはぶいて読んでいたのです。ですから、彼らはあなたがたは「聖書を知らない」と言われたのです。

 私たちは「旧新約聖書六十六巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。」と同盟教団の信仰告白の第一条に告白しています。私たちは一点一画までも誤りのない神のことばとして、聖書を信じなければなりません。

 

 「神の力を知らない」とサドカイ派は主イエス様からしかられました。それは彼らは神様も、自然法則の下にあるかのように思っていたのです。神様の力も自然法則には及ばないと思いこんでいたのです。ですから、自然法則に反する復活や奇跡などということはありえないことと考えたのです。

 神様とはいったいどういうお方ですか。まことの神様は、無から天地万物をそのお言葉によって創造なさったお方ではありませんか。万有引力の法則も、生命法則も、すべて神様が創造なさった被造物にすぎないのです。いのちを造られたのも、いのちを取りあげられるのも神御自身です。だから、命を再びお与えになるのもまた神の力にとって当然可能なことなのです。奇跡を行なうことができないならば、それは神ではありません。それは自然法則にしばられた被造物にすぎないのです。

 まことの神は、命を造り、命を与え、命を奪い、また信じる者に再び命をお与えになることのできるお方なのです。

 

(結び)

 今日でもサドカイ派のような神学者や牧師や小説家などがいます。これは18世紀、19世紀の啓蒙主義哲学、デカルト、カント、ヘーゲルの哲学の影響を受けた自由主義キリスト教といいます。自由主義キリスト教でいう自由とは、聖書と教会の伝統から理性が自由であるということです。理性の方が聖書より上という立場です。

  1910年のアメリカ合衆国長老教会大会で、自由主義キリスト教えに対して、聖書主義に立つ5つの基本信条が確認されました。

1 聖書は誤りのない神のことばであること(Inerrancy of the Bible)

2 イエス・キリストの処女降誕と神性(イザヤ7:14) (The virgin birth and deity of Jesus Christ)

3.キリストの代償的贖罪の教理(ヘブル9章) (The doctrine of atonement)

4.イエス・キリストの体の復活(マタイ28) (The bodily resurrection of Jesus Christ)

5.イエス・キリストの再臨 (The bodily second coming of Jesus Christ )

 自由主義キリスト教は、近現代のサドカイ派です。今日、一般の書店で手に入るキリスト教関係の書物の多くは自由主義キリスト教の影響を色濃く受けています。彼らは一流の知識人として自他共に認めるような人々です。その昔、イスラエルサドカイ派の祭司連が主イエスの時代のローマ帝国に対するユダヤ教の顔役であったのと同じです。

 しかし、主イエスは彼らにおっしゃるに違いありません。

 「あなたがたは、聖書も神の力も知らない。」                              

  私たちは、主イエスに倣って、聖書の一言一句を生ける神のことばと信じます。また、主イエスに倣って、死者をよみがえらせる力をもっていらっしゃる生ける神を信じます。それこそ主イエスの弟子にふさわしい信仰です。

いのちのことば

ヨハネの手紙第一1:1-4

                                                        

 

 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──

 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 

 

1.いのちのことば(1、2節)

 

 ヨハネは、これから私たちに伝えようとすることは「いのちのことば(ロゴス・テース・ゾーエース)」であると言います。「いのちのことば」とは何でしょうか。

 

 古代から人間は死を恐れつつ永遠のいのちを捜してきました。それは洋の東西を問いません。中国では秦の始皇帝は不老長寿の薬を見つけ、これを飲んでいたそうですが、それが水銀だったのでかえって水銀中毒でいのちを縮めてしまったそうです。ギリシャの哲学者ソクラテスは、哲学とは死に関する学問であるとさえ言いました。それは言い換えると、永遠のいのちを望みながら、実際には死んでいかねばならない人間の不思議さを考えることが哲学であるということでしょうか。ソクラテスからしばらく後に現れた哲学者たちにストア派というのがありました。彼らは死を恐れぬものの考え方を編み出しました。「死は恐れるに足りない。なぜなら、死がやってきたとき、すでに私はそこにいないからである。」なかなかのへりくつです。しかし、こんなことを言えばいうほど、彼らがいかに死にこだわり死を恐れていたかがわかります。

 世界の理法とか人生論とか倫理とか道徳。哲学者や思想家たちはいろんなことを昔から考えてきました。それは、生きることいのちということ人生について、そして死ということについてです。使徒ヨハネが手紙を書いた相手は、ギリシャ文化の影響の下にある人たちでした。ギリシャ文化圏のストア派の哲学者たちはロゴスということばで、神が定めた宇宙の理法を意味していましたから、ギリシャ文化圏の読者たちが、ロゴスという言葉を読めば、さてヨハネ先生はどういう「ロゴス」どういう哲学を展開するのだろうかという読み方をされたのでしょう。はたして「いのちのことば」ロゴステーズゾーエースの話です。

 

  ところが、いきなり初めからヨハネは「いのちのロゴス」について、不思議なことを語ります。「いのちのロゴス」を私たちは「この耳で聞いたし、この目で見たし、じっと見つめたし、また手でさわりもしたんだよ。」というのです。「ことばlogosをこの耳で聞いた」というのはわかります。また「書物でlogosを学んだ」というものわかります。しかし、ヨハネは「ロゴスを見た、じっと見た、手でさわった」というのです。ロゴスがどうして見えましょう。ロゴスがどうして手でさわれましょう。ロゴスは宇宙の理法です。「目で見て、耳で聞いて、手でさわれる」ものは、ただ歴史の現実のなかに時間と空間のなかに現れた現実のものだけではありませんか。

 この宇宙を支配する「いのちのロゴス」とは、人となって来られ、イスラエルのガリラヤ地方を歩まれたイエス・キリストそのお方であるというのです。

 

2 グノーシス主義に対して

 

 ヨハネが「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」それが「いのちのロゴス」イエス・キリストであるという不思議な紹介をしているのには、背景があります。

 ギリシャの哲学では、真理とか善とか美というものは、観念として存在するものであって、それが一個の人格としてこの世に出現するということなど考えられないことでした。

 ギリシャ思想においては基本的に、物質ないし肉体は悪であり、精神は善であるという考え方がありました。こうしたことを背景として、イエス様についてとんでもない異端説グノーシス主義が流行しつつありました。グノーシス主義者はキリストの受肉を否定しました。なぜなら、善であるキリストが悪である肉体をもつことは論理的にありえないからです。だから、「永遠のいのちである神がこの世界に現実の人となって来られたことはなかった、幻として現れたのである。」と教えました。これを仮現説といいます。また、言いました。彼らはまた「イエスはからだをもって復活などしなかった、幻として現れたにすぎない。また、弟子たちの心の中に暖かいすばらしい思いでとして生きているのが復活のイエスである」というのです。煮詰めて言えば、彼らはキリストの受肉を否定し、肉体をもって十字架で苦しまれたことを否定したのです。こうしたグノーシス思想を背景として、ヨハネは次のように言っています。

4:2 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

 そこで、ヨハネは「いや、私はこの耳で人となられた神の肉声を聞き、そのお顔をこの目で見た、じっと見た。そしてこの手でイエス様にさわったよ。」というのです。

 

 ギリシャ哲学と聞くと難しくいかめしい感じがしますが、イエス様の時代に流行していた二つの哲学学派の教えを簡単に説明しましょう。その課題は「どうしたら人間は幸せになれるか?」でした。エピクロス派は考えました。「腹が減ったら飯を食うと幸せになれる。だから「人が幸せになるためには、欲を快楽によって満たすことが必要である。」と。快楽説です。  もう一方のストア派は考えました。「欲は満たしてもまたすぐにかわくものだ。欲に追い回されているから人は幸福になれないのだ。だから、欲を押さえる訓練をすれば、人は幸福になれるはずだ。」禁欲説です。

 いずれにしても、欲を満たすためになにかすべきである。いや欲をおさえるために訓練をする。「何かする」ことによって、人生は幸せになれると思ったのです。「ああすべきである」「こうすべきである」ということばです。ストレスの多い今日の日本にもいろんな道徳的な教えが花盛りです。PHP、モラロジー、成長の家、実践倫理などなどと。

 しかし、ほんとうの苦しみと無力の中にあるとき、人は「前向きになれないから」困っているのですし、「ゆとりをもって考えられない」「自分をほめられない」から困っているのです。あるいは「あれをほしがるべきではない」という道徳のことばはわかっていても、「自分の欲を押さえられない」ので救われないのです。単なる道徳とか観念とか「ことば」では、ほんとうには人は救われないのです。いきいきとした人生を生きられないのです。なぜか。そこには「ことば」はあっても現実的な「いのち」がないからです。

 

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて、---このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、それをあかしし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」

 つまり、ヨハネが伝えようとしているよい知らせ、単なることばではない。真理という観念でもない。道徳でもない。人生哲学でもない。ヨハネが伝えようとしている福音「いのちのことば」とは、今現実に生きて働かれるイエス・キリストというご人格なのです。あなたが何かをすることによって、救われるのではない。あなたが主イエスに信頼して自分をおゆだねするならば、イエスがあなたをお救いになるのです。イエスは、生きておられあなたを愛しておられるからです。

 

3.交わり

 

(1)交わりの回復者

 主イエスが「いのちのことば」と呼ばれるのはなぜでしょうか。「いのち」とはなんでしょうか。聖書によれば、いのちとは神との交わりです。たとえば、主イエスはおっしゃいました。

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて、火に投げ込むので、それはもえてしまいます。」ヨハネ15:5、6

 私たちは、本来、創造主であるお方のもとにあって、創造主から生きる力をいただいてこそいきいきと生きられるものです。ところが、創造主に背を向け、その御許を離れ、自分勝手に歩んでいる。そこにいのちはありません。死があるだけです。枝がぶどうの木についていなければ、しばらくは青い葉っぱを付けてはいても、決して実を結ばないのと同じことです。

 創造主なる神様を離れた人生は死です。その明らかなしるしの一つは心がむなしいということです。いろんなことを一生懸命にやっても、むなしいのです。それは「自分は何のために生きているのかわからない」ということです。被造物の存在目的は、創造者が決めるものです。たとえば時計の存在目的は、人間が時を告げ知らせることであると決めたからはっきりしています。でもゴミには存在目的ないでしょう。なぜならわざわざ意図してゴミを造る人はいないからです。創造者がいなければ被造物には存在目的はありません。ですから、創造主を見失ったら、人間は自分がなんのために生きているかわからないゴミになってしまうのです。

 神を離れた人生には愛がありません。なぜなら神は愛だからであり、愛は神からでているからです。たしかにクリスチャンになったからといって、簡単に敵をも愛せるようになるかというと、そうでもありません。つくづく自分には愛がないなあという反省をすることがしばしばあります。けれども、もう一度、神様を知る前の自分のことを思い出すと、それこそ愛がないなあなどという反省をすることもなく、自分のことばかり考えていた、人を踏み台にしても自分はよい道に生きたいとかばかり考えていたことを思います。そして、人生そういうものだとあきらめ高を括っていたのでした。たしかに、私の人生は変えられました。どうしてですか。いのちのことばである生けるキリストが、私とともに生きて下さるようになったからです。

 主イエスが「いのち」と呼ばれるのは、主イエスにあってこそ私たちは、この創造主である父なる神との交わりを回復されたからです。私たちは、主イエスにあって、父なる神様との人格的交わりを回復しました。

 

(2)交わり--教会

 主イエスが回復してくださるいのちの交わりとは、どういうものでしょうか。3節。「私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父及び御子イエス・キリストとの交わりです。」

 キリスト教は交わり(コイノニア)の宗教であるといわれます。それは、洞窟のなかで孤独な座禅の修業をするというのではなく、御子イエスと父とそして、御父を仰ぐ兄弟姉妹たちとの交わりのうちに生きることが、キリスト信仰の姿であるからです。神御自身が三位一体の神として、御父と御子とは聖霊にあって完全な愛の交わりのうちにいらっしゃるのです。キリストの福音が宣べ伝えられるならば、そこに教会が形成されていくのです。教会とは単なる人間集団ではありません。教会とは御父および御子との聖霊による愛の交わりなのです。

 私が教会に通い始めてまもないころ、まだ洗礼を受ける前のことでした。私は礼拝が終わるとすぐに家にかえるようにしていたのです。ところが、ある主の日のことです。S君という友人が私を引き止めて言いました。「水草、きょうは青年会に残っていけや。まじわりということも奉仕の一つなんやから。」と。そのとき、初めて私は教会で人々と会話をしたりともに祈ったりするということが、そんなに大切な奉仕なんだと知ったのです。それまで、私は自分で聖書を読み、礼拝に出て説教を聞いて、自分で神様のことを知って生活すれば、それで十分だと思っていました。頭だけ理屈だけの信仰だったわけです。けれども、その日を境にして私は教会の兄弟姉妹とともに語らい、ともに祈り、共に賛美し、ともに重荷を分かち合うということがほんとうに喜びになったのです。

 炭火が一個だけだと消えてしまうけれど、何個か集まるとかっかと燃えるように、私の信仰もかっかと喜びに燃えあがるようになったのです。クリスチャンになってつらつら考えると、私は教会生活のなかでほとんどの神様の恵みをいただいて来たのです。白石君のように戒めてくれる兄弟がいて、私は目が醒めました。多くの兄弟姉妹に祈られて私の信仰は成長しました。愛することを知らない孤独な人間だったのに、愛し愛されること、赦し赦されることを多くの体験によって学びました。

 みなさん。三位一体の神は交わりの神、愛の神です。私たちは、愛なる三位一体の神様の愛を、この苫小牧の交わりのうちに実現していくべく、召されているのです。                                                                              

  ヨハネ福音書13:34、35

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

 

神のものは神に

マルコ12:13-17

 

2017年6月25日 苫小牧主日礼拝

 

1 背景

 

 イエス様がエルサレムに入ると、つぎつぎに宗教家たちが論争を挑んできました。イエス様に難問をふっかけて、公衆の面前で立ち往生させてやれば、イエスの人気も衰えてしまうだろうと考えていたのでしょう。今回、パリサイ人たちはヘロデ党の者たちといっしょにエスのところにやって来たとあります。パリサイ派とヘロデ党はもともと犬猿の仲でした。パリサイ派国粋主義民族主義的ですから反ローマ的でした。他方、ヘロデ党の人々は、ローマ帝国の傀儡政権であるヘロデの王家を支持していた親ローマ派でした。けれども、イエスを葬り去るということに関しては、彼らはそうした節操もなく、共謀していたというわけです。

12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。

 彼らはイエスが言い逃れをしたり、ごまかしたりしないように、あらかじめこんなことを言います。

12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。

 彼らが用意した罠というのは、ローマ帝国皇帝カイザルに対する納税問題でした。当時のイスラエルローマ帝国の属州とされていました。属州というのはある程度自治を認められながらも、肝心なところはローマ帝国から派遣された総督に牛耳られているという体制のありかたでした。今イエス様がこられたユダヤ地方の人々は、ローマ帝国政府とユダヤ最高議会との下に置かれていて、ローマ帝国政府に対しても納税しなければならないという状況にあったわけです。

 ヘロデ党の人々は、親ローマ主義ですから、当然カイザルに税金を納めるべきであるという立場で、パリサイ派イスラエルは神の王国であるから、異邦人のローマ政府、異邦人の皇帝に税金を納めることは間違っているという主張をしていたわけです。そこでイエスがカイザルに納税すべきだというならば、パリサイ人たちがイエスをそれは律法に反することだと非難するための論陣をはるつもりで、逆に、イエスがカイザルに納税すべきではないと言ったならば、ヘロデ党はイエスローマ皇帝に反逆するものだと訴えることができると考えていたわけでしょう。

12:14後半 「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

 

2 イエスの答え

 

 主イエスは、彼らに貨幣を見せよとおっしゃいます。彼らは1デナリ貨幣を差し出します。5千円札か1万円札にあたる貨幣です。カイザルの肖像が刻まれています。

 12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」

12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。

そこで、イエス様は、さらりとおっしゃいます。

 12:17「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 

エス様はなにをおっしゃりたいのでしょうか。「神は、あなたたちに天の国籍とこの世の国籍とを与えてくださっている。ところが、君たちは天の国籍と地上の国籍をゴチャゴチャにしているから、そういう混乱に陥っているのだ。地上の国籍にかんする義務はカイザルに対して果たせばよいし、天の国籍にかんする義務は神に対して果たすのが正しいことなのだ。」ということです。

 使徒ペテロは、きっと主イエスのことばを思い出しながら、国家権力というものは、神が立てた神のしもべですから、それなりに敬意をはらうべきであると教えています。1ペテロ2章12-15節

2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。 2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。

 また、使徒パウロは、神が国家権力に与えた務めと、私たちキリスト者の地上の国籍に関する義務について、ローマ書13章1-7節で、少し敷衍して述べています。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

 13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

 13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

 

この世の権力者に神様が託した仕事は、①警察権をもって社会の秩序を維持することと、②税金を集めて富の再分配をして貧富の格差を是正することを初めとする国民の福利です。だから、私たちが彼らに協力して税金を納めることは神のみこころにかなっているのです。

 

3 カイザルは悪魔にとりつかれると「神のもの」を欲する

 

 ですが、もう一つ大切なポイントがあります。主イエスは、「カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に」とおっしゃったことの後半「神のものは神に」です。

新約聖書を見ると、えてしてこの世の権力者というものは「カイザルのもの」に満足せず、「神のもの」までも欲しがる性質があると教えられています。「カイザルのもの」とは、先ほど申しましたように、社会秩序を維持することと、富の再分配によって貧富の格差を是正することというふうに、「世俗的業務」のことです。そして、その業務に携わっている者として、それなりの敬意を国民から払ってもらうことです。しかし、聖書によればこの世の権力者はしばしば「神のもの」に手を出してきました。

 1サムエル13章1-15節をあとでごらんください。紀元前11世紀、預言者サムエルの時代、サウルという王がいました。彼は最初は謙遜そうな人物だったのですが、途中おかしくなります。ギルガルでペリシテ人との戦があったとき、戦いの前に神にいけにえをささげる儀式をしなければなりませんでした。その務めは預言者であり祭司であるサムエルが果たすことと定められていたのです。ところがサムエルの到着が遅れているので、サウル王はあせって自分がこの儀式を執り行ってしまったのです。サウル王は、これによって神の怒りを買い、結局、彼は滅ぼされてしまいます。

 もう一つ2歴代誌26章。南北朝時代、紀元前8世紀のウジヤ王も同じような過ちを犯しました。ウジヤ王は神から力と知恵を与えられて外交においても、また農業政策においても成功を収めて、国内は安定しました。そのとき国民はそのことを感謝するためにエルサレム神殿に出かけて行ったのです。ところが、王は面白くありません。彼の目には、民が感謝すべきは自分であるのに、民は祭司たちに感謝をしに行っているように見えたのでした。そこでウジヤは、自ら神殿にずかずかと入って行き、祭司にのみ許されていた神の前に香をたくということをしようとしたのです。その瞬間、神はウジヤ王を撃ちました。彼は残りの生涯、ツァラートで世間から隔離されて生活しなければなりませんでした。

 古代教会の時代にはローマ帝国は、皇帝礼拝を国民に求めるようになりました。各地に皇帝の偶像を設置して、これを拝むならよし、拝まないならば極刑に処するということでした。やはり、世俗業務のみ任されたカイザルでありながら、己が分を越えて「神のもの」までも欲しがったのです。

 黙示録13章はこうした権力者の行動の霊的背景を教えています。権力者は、サタンの影響を受け、魂を売り渡し、その代わりにサタンから力と権威と位を受けるとき、世俗的業務だけでは我慢ができなくなり、自ら聖なるものに手を出し、時には自分に対する礼拝までも求めるようになるのです。しかし、それは必ず悲惨な結果を、権力者自身だけでなく、国民にももたらすことになります。

 ですから、私たちは聖書が勧めるように、為政者がその分をわきまえて、謙遜に誠実のその務めを果たすように祈らねばなりません。

 

4 近代日本の場合

 

 近代日本ではどうでしょうか?江戸時代は幕藩体制下にあって、この列島の住民たちは「長州人」「薩摩人」という風に思っていて「日本人」という意識は、ほとんどなかったと言われます。けれども、江戸末期・明治の最初に、伊藤博文たちが世界を視察した結果、「日本列島の中でこんなにバラバラでは、インドや中国のように、この日本も植民地にされてしまう」という危機感をいだきました。そこで、なんとかしてこの列島の住民全員に「日本人」という意識をもたせなければならないと考えました。

それで伊藤博文は、キリスト教のマネをして天皇を中心とする国家神道をつくりました。それまでこの列島にはあちこちに神社や祠はあっても特定の教義も、統一した組織もありませんでした。それを伊勢神宮を頂上に置いて全国の神社を格付けし、神仏まぜこぜの神社からは仏像を廃棄して、明治23年以降は教育勅語で学校教育を通して国民の中に国家神道を浸透させました。

それで、日本人は小学校に上がる前から一旦戦争となれば、天皇のために命を捨てることこそが、最も価値ある死に方であるという教義を刷り込まれてゆきます。日清戦争日露戦争第一次世界大戦、そして満州事変(満州侵略)に始まり、原爆投下で終わる昭和15年戦争を経験してゆくわけですが、このころにはすでに日本人はみな国家神道を子どものころから刷り込まれた世代ばかりになって熱狂し、戦争に突入したのです。

戦争になると思想統制・宗教統制が厳しくされ、最初共産主義者を取り締まるためにつくられた治安維持法は、改変されてゆき、自由主義思想を持つ人々、そして、神社参拝を拒否するキリスト者も取り締まられることになりました。治安維持法で逮捕された人々は、日本本土と朝鮮半島で9万3000人以上にのぼります。194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したといいます。そして先の戦争では、実に300万人の日本人が命を落とし、2000万のアジアの人々が犠牲となって、戦争は終わりました。

国家権力が「カイザルのものはカイザルに」ということに満足せず、「神のもの」までも自分のものとして奪い取ろうとするときに、これほど悲惨な結果を生むことになります。

敗戦の翌々年1947年発布された日本国憲法第20条に政教分離原則が明示されました。もはや、国は国家神道をもって国民を洗脳してはならないと厳格に定められています。「第三項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

 

「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に。」政府が、この原則を厳格に守るようにとりなし祈ることはキリスト者の務めとして非常にたいせつなことです。

 

祈り

「2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」

ヨセフの信仰

創世記50章15節から26節

 

 

50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。

 50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

 50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

 50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

  50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。

 50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。

 50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

 50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

 50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 

 

1.摂理の信仰

 

 さてヤコブが死ぬと、ヨセフの兄弟たちは再び恐怖にとらわれてしまいます。

50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。

 父ヤコブが生きている間は、弟ヨセフは父に免じて自分たちを寛容に扱ってくれたけれども、父が死んだ今となってはヨセフの復讐をとどめるものはなにもないと兄たちは考えたのです。自分たちがヨセフの立場であったなら、きっと父が死ねば復讐をするだろうと思ったからです。

 

かつて兄たちは父に依怙贔屓されている弟ヨセフをねたみ、なきものにしようとしました。兄たちはさすがに殺すのが恐ろしくなったので、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしたのです。ヨセフは、エジプトで奴隷としてはたらき、牢獄に投じられて、たいへんな苦難を味わいました。しかし、神様は実にふしぎな導きをもって、ヨセフをエジプトの宰相としての地位に引き上げたのです。

他方、神様はカナンの地に飢饉を送りました。そのために、ヨセフの兄たちはエジプトに食料を買い付けに来て、宰相となっていた弟ヨセフと20年ぶりで再会したのです。このとき、兄たちはきっとヨセフが自分たちに復讐するにちがいないという恐怖にとらわれたのでした。しかし、あのときヨセフは兄たちを赦しました。ヨセフは言いました。45:5-8。

45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 

 

 ヨセフは災いも、人間の悪意さえも、善に転じたまう神様の摂理を信じて、兄たちを心の底から赦すことができたのです。しかし、兄たちは自分たちが赦されたことを確信することができなかったのです。自分たちがヨセフに対して犯した罪があまりにも大きかったので、赦されていることを信じることができないでいたのでした。

16,17節。

50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

 50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 

 自分は赦しているのに、兄たちには赦していることが信じてもらえなくて、ヨセフはなきました。そうして、もう一度、心から赦したこと兄たちに告げ、やさしく語りかけたのでした。

50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

 

 私たちはここで、ヨセフの信仰をもう一度確認させられるのです。そして、それを私たち自身のものとしたいと願うのです。ヨセフの信仰は、神の摂理を堅く信じる信仰でした。ヨセフの信じる神の摂理とは20節にされています。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとえ目の前に見える状況がいかに厳しくとも、「そこで神様を愛する、神様にしたがう」という決断をするのです。そうすれば、神様はかならず難しいことも益に変えてくださいます。ヨセフは、奴隷とされ、さらに囚人となっても、神様とともに生きました。神の摂理を信じたからです。ヨセフはそうして祝福ある人生を手に入れたのでした。それは彼が総理大臣になったことがすばらしいというだけではありません。

もし彼がエジプトの宰相の地位についたとしても、彼の心の中に兄たちに対する恨みを宿しつづけているとすれば、彼はきっと生涯不幸だったでしょう。恨みや怒りや憎しみは人の骨を枯らしてしまいます。ヨセフが幸いだったのは、彼が神の摂理を信じることで、兄たちに対する恨みや怒りや復讐心から解放されたことです。そうして、赦す心、平安な人生をいただいたことです。

 

2.希望

 

 もう一点、ヨセフに学んでおきたいことがあります。お読みした箇所の後半です。

 

50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。

 50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。

 50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

 50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

 50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 

ヨセフはエジプトで宰相にまで上り詰めました。名宰相ヨセフのゆえに、7年間も続く大飢饉の中でエジプトの人々は命が助かったのでした。エジプト王パロも、ヨセフを尊敬し、彼に実権を委ねていたのです。ヨセフはこの地で尊敬の的でありました。功成り名を遂げる人生というものがあるとすれば、ヨセフの人生はまさにそういう人生でした。その舞台はエジプトだったのです。しかし、ヨセフは自分が死んだ後、自分がエジプトの土になってしまうことを望みませんでした。彼は、自分の亡骸がアブラハム、イサク、ヤコブが葬られたカナンの地のマクペラの畑地の小さな洞穴に葬られることを希望しました。それは、父ヤコブと同じ信仰の告白でした。

すなわち、ヘブル書11章13,14節「11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。」

ヨセフのミイラとなって、エジプト脱出の日まで保管されます。実際、後の日にモーセはヨセフのミイラを約束の地に携えてゆくのです。

「13:19 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。」

 ヨセフは神の約束をしっかりと握りぬいた生涯をまっとうしたのです。彼は、そういう者として非常に優秀な行政官として手腕を発揮したのでした。天にしっかりとした希望をもっている者こそ、自分の欲得でなく神の御旨にしたがうものなのでした。

 

結び

 ヤコブの信仰は、神の約束の相続者として天を見上げる信仰でした。ヨセフの信仰は日々私たちの人生に働いてくださる神の摂理を信じる信仰です。私たちも小なりとはいえ、彼らと同じ神を信じる者として、天の御国の約束をしっかりと握り、この地上の生涯を一歩一歩神様あなたを愛しますという信仰の決断とともに歩んでいきたいのです。