Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の子どもとして

ローマ8:12-16

 

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 

 

1.最高の恵み

 

 キリストイエス様を信じてバプテスマを受けたとき、私たちはキリストとともに罪という主人に対して死に、新しい主人である神に対して生きるものとなりました。このことを私たちは先にローマ書6章で学びました。それは言い換えると、先ほどお読みしたように「8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」ということです。肉と言うのは神様に背く自己中心の古い性質で、それが癖のように残っているのですが、それに死んで御霊によって生きていくのが私たちクリスチャンの歩みです。

 ところが、7章で私たちが知ったことは、クリスチャンは時として律法によって生きて行こうとすることによって、かえって自分の内側に住む罪が引き出されて、前にも進めず後ろにも退くこともできないような葛藤に陥ることを見たことです。神の前に正しい生き方をさせるはずの律法が、かえって罪を刺激して、罪を引き出すという奇妙なことが起こるのです。すべてではないかもしれませんが、多くのクリスチャンはパウロがしたような経験をするようです。

 その挙句、パウロはまず救いの原点に立ち返りました。ローマ8章1節「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることはありません」ということです。キリストが私たちのために罪に定められ、罪の罰を受けてくださったからです。そして、私たちは罪をすでに赦された者として、私たちはキリストの御霊によって生きていくのです。これがクリスチャンの生き方です。大事なことなので、もう一度確認しますが、第一はクリスチャンはキリストに結ばれた者として、神の前に罪はすでに赦されたという認識が大事です。第二に、すでにキリストにあって罪赦された者として、キリストの御霊によって神のために実を結ぶ生涯を生きていくのです。この御霊は、私たちをキリストを長男とする神の家族、神様の子どもとしてくださるお方です。イエス様は実子ですが、私たちは養子です。

 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)

 ローマ書においてこれまでパウロは1章から5章で、人は律法の行いによって神様の前に義と認められるのではなく、恵みのゆえに信仰によって義と認められるのだということを力説してきました。そして、6章、7章において罪を赦された者、義と認められた者として義の奴隷として正しく生きる原理的なことについて語ってきました。その上で8章において、神の子としての恵みのうちに生きることを教えるのです。

 この順序はなにを意味しているのでしょうか?神の子どもとされたという恵みは、信仰によって罪赦されて義と認めていただいたという恵みを土台として与えられた最高の恵みであることを意味しているのです。信仰によって義とされたことは、実にすばらしいことで、私自身その恵みに感激して、20歳の2月に神様の前に自分のいのちをおささげしたのです。自分の罪を知らされたとき、そして、私の罪のためにイエス様が十字架にかかってまで私を救ってくださったとわかったとき、「もはや自分のために生きたのでは申し訳ありません。神様、私の人生をあなたにおささげします。」と祈らないではいられなかったのです。ですが、パウロによれば、神の子どもとされたという恵みは、義とされた恵みを土台として、クリスチャンに与えられる最高の恵みなのです。最高の恵みというのは、これ以上ない究極的な恵みであるということです。

 しかも、この最高の恵みは、クリスチャンであるならば、誰でも受けている恵みなのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもである」とあります。神の御霊によって、「イエス様は主です。神の御子です」と信じる信仰を与えられている人がクリスチャンです。神の御霊に導かれているのがクリスチャンです。すべてのクリスチャンは、神様の子どもとしていただいているのです。

 

2.奴隷的クリスチャン

 

 しかし、私たちクリスチャンは神の御霊を受けているにもかかわらず、時々、神様からいただいた「神の子どもとされた恵み」の味わいを忘れてしまうことがあるというのです。そのときには、信仰生活を送りながら再び恐怖に陥って、また自分が神様の子どもとされているにもかかわらず、自分は奴隷にすぎないのだと思い込んでしまうのだというのです。だからこそ、パウロは次のように強調しなければなりませんでした。

 

 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(8:15)

 

 クリスチャンが奴隷的な恐怖をいだいているとはどういうことでしょうか。ここに「再び恐怖に陥れる」ということばがあります。かつてイエス様を知らないときには奴隷的な恐怖に脅かされる生活をしていた。けれども、イエス様に出会っていったんは、そういう奴隷的恐怖から解放されたのに、いつの間にか「再び」そういう奴隷的恐怖をいだくようになってしまったというのです。いつのまにかまた昔のイエス様を信じる前の奴隷的な恐怖にしばられるような生き方をするようになっているのです。

 いったい奴隷としての恐怖とはなんのことでしょうか?これは律法の下にある状態と、福音の中にある状態の違いとしてパウロがガラテヤ書3章から5章で力説していることです。奴隷と子どもの決定的なちがいとはなんでしょうか。それは子どもは自由だけれど、奴隷は不自由であるという違いです。奴隷は、主人から何ができるか、何がどの程度できるかという、その働きの多寡によって評価されるという恐怖に縛られています。けれども、子どもの場合はなにができるかできないかという働き以前に、父親はその子どもの存在そのものを喜んでいるのです。子どもはそういう自由をもっています。

 私たちはキリストを知る以前、いつも何ができるか、何ができないかということで人を裁いたり、自分をさばいたりして、生きていたのではないでしょうか。ある神学者(C.ホッジ)は、アダムが善悪の知識の木から実を取って食べて以来、すべての人は自力救済主義者となってしまったのだといいます。そうして、いつも何ができるできないで傲慢になったり卑屈になったりして生きているのです。

 

(2)やっぱり神の子どもなのです

 

エス様を信じて罪赦されたのに、またもこういう奴隷的恐怖にふたたび縛られるようになってしまった人々に対して、パウロは、いや確かにあなたがたはすでに神の子どもとされているのであって、奴隷ではありませんということをしきりに強調しています。

神の子どもとされたという事実には、二つの側面があります。一つは、身分的・法的なことです。イエス様は神の実子ですが、イエス様を信じる私たちのことを、神様は私たちを養子として入籍してくださったのだということです。 ある死刑囚がいました。彼は王様の一人息子を殺したかどで死刑が確定していたのです。いつ刑が執行されるのかと毎日ビクビクしながら、その癖、表面的には「死ぬことなんて何にも怖くねえや」と虚勢を張って獄中生活をしています。ところが、ある日、王から赦免が発令されました。突然のことに驚きながら手続きをすませると、彼は刑務所の鉄扉の前に立ちます。「二度と戻ってくるなよ。」と看守が声をかけます。「へい。お世話になりやした。」・・・ここまでが義と宣告されることです。

 「しかし、すねに傷ある俺にはシャバの風は冷てえだろうし、また舞い戻っちまうんじゃねえかな。」そんな不安が心をよぎります。ギーッ。扉が開きました。「アッ」そこには彼がその息子を殺した王様とその家族が立っています。「すみませんで済むとは思いませんが、俺はこのとおり赦しをいただきました。この上は、王様の奴隷としてなんでもさせていただきやす。」ところが、王は最後まで言わせず彼の肩をガバと抱き寄せて答えます、「いや、君は奴隷ではない。君は、これからわしの家族だ。この子たちも君と同じ境遇だったんだが、今は私の子たちだ。」そう言って、あろうことか王は彼の指に相続人の指輪をはめてくれました。・・・・これが子とされたということです。

私たちの救いにあてはめれば、このときに指にはめられた王の子どもとしての保証の指輪こそ、御子の御霊なのです。神の子供とされたという事実は一面、法的立場的なことですが、もう一つの側面は、実質的なことです。それは父はイエス様を信じる者のうちに御子の御霊をくださったので、私たちは神様を父として慕う心を授かったのです。

私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(8:15,16)

 御子の御霊は、私たちのうちに神様への信頼と愛と喜びをあふれさせてくださいます。自分は奴隷ではない、神様の子どにしていただけたのだという喜ばしい意識を継続的に与えてくださるのです。

 八木重吉という詩人は、この神の子どもとされた喜びをこんなに素朴な詩に表現しています。

1925年大正14年2月17日より

 われはまことにひとつのよみがえりなり

  

おんちち

うえさま

 

おんちち

うえさま

 

と とのうるなり

 

 主にある兄弟姉妹。天の父は、あなたがどんな働きができるか、どれほどうまくできるか、どれほど献金できるかということでなく、それ以前に、あなたの存在そのものを喜んでいてくださるのです。もし主のためにご奉仕がなにかできるとしたら、それは素晴らしい恵みです。ですが、病を得たり、年を取ったり、急な経済状況の変化で貧しくなったり、さまざまな状況のなかで、自分はなにもできなくなったと落胆している方が、あるいは、いらっしゃるかもしれません。けれど、主は、あなたの存在そのものを喜んでいてくださいます。

 

 

結び

 私たちは、なにか立派なところがあったから救われたのではありません。ただ罪のかたまりでしたが、神のあわれみの故に選ばれ、御子の贖いゆえに罪赦され義と宣告されたのです。

そのとき、神は私たちを単に義と宣告するだけでなく、私たちを子として迎えてくださいました。私たちは御子イエスを兄とし、神を父とする神の家族のうちで生きるべく召されたのです。私たちは子ですから、奴隷のように不自由ではありません。感謝と自由をもって、奉仕の生活に生きるのです。

神の子どもである私たちは相続人ですから、かの日の新しい天と新しい地の栄光をめざして、今の世にあって、父の愛をあかしし、正義が世になっていくように生きて行きます。簡単なことではありません。けれど、あせる必要はありません。胸のうちに深い平安がります。なぜなら、父なる神様が私たちとともにいてくださって、私たちの存在そのものを喜んでいてくださるからです。

老後を賢く生きる

                    老後を賢く生きる                 南牧村老人会

                                                                19990525

 

はじめに 

 三年前から、家の近くに小さな畑を借りて、いろんな種をまいてお百姓のまねごとをしています。けれど、なにしろ経験がありません。今年四月なかば、ねぎを植えました。土を一杯かけてやれば元気だろうと思って、家内とふたりでせっせと土を深く掘ってねぎを植えたのです。ところが、十日ばかりすると、よその畑のねぎは元気なのに、うちの畑のねぎはつぎつぎとしおれてきたのです。「どうしてでしょうねえ?」と福山牛乳のおじさんに見てもらいました。「こりゃあだめだよ。ねぎを植える時は、又のところまで土をかけちゃいけない。かけると腐ってしまう。又の下まで土をかけて、土用までに土寄せを二回して、土用になったら土をうんとかけてやればいい。」と教わりました。経験がない、無知というのは恐ろしいものです。以来、福山牛乳さんには畑のことをいろいろと教わっています。

 こんなわけで、私はまるでお百姓仕事には経験がないのです。私は、自分の人生の経験ということからいえば、みなさんのわずか半分や三分の二ほどではないでしょうか。戦争中や戦後やさまざまな所を通って来られ、ご苦労なさったみなさんに比べると、戦後生まれの私の経験や苦労など足下にも及びません。ですから、正直なところ、こんな私が、みなさんに何かをお教えするなどおこがましいな、と感じているのです。格別、「老いを賢く生きる」と言っても、私はまだ老人になったことがないのですから。

 ところで、先日、私よりも若い方の講演を聞きました。リハビリの専門の楽しい先生でしばしば老人ホームなどでもお話するそうです。この先生の場合、リハビリの知識と経験については、誰よりも通じているから講演者として意味があるのでしょう。そこで、もし私が皆さんにお話して意味があるとすれば、鼻たれ小僧の乏しい経験談などではなく、牧師として聖書に記されていることがらを、わかりやすくお分かちするほかあるまいと思いました。きっと、ご依頼くださった方もそういう事を期待していらっしゃると思います。 そこで、今日は、いただきました「老後を賢く生きる」という演題に沿って、聖書からなるべくわかりやすくお話をしたいと思うのです。特に、老使徒パウロという人物のことばをひもとくかたちでお話したいと思います。

 お渡ししたプリントに、聖書で老後に関する生き方を記した個所を何か所か引用してみました。

 

1.外なる人は衰えて・・・(伝道者12)

 

 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:16)

 使徒パウロとはキリスト教界の初代宣教師で、神様に豊かに用いられた人です。この手紙は彼が相当年を取って後に、コリントという町にある教会にあてて書いた手紙です。年を取ってあっちもこっちも身体が弱ってくると、段々心細く勇気がなくなります。ついつい引っ込み思案になります。使徒パウロの場合、目に病があって、視力がだんだん失われつつありました。しかし、彼は「私は勇気を失いません」といいます。それは「外なる人は衰えても、内なる人は日々あらたにされているからだ」というのです。「外なる人」とは、この肉体のことです。「内なる人」とは霊のことです。外なる人は、確かに年を取るにつれて衰えていきます。肉体の衰えについて、聖書は次のように描いています。

              

(1)老化と死

朗読 伝道者12:1-8、13、14

 2節「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(年を取ると、白内障になってだんだんとものがよく見えなくなり、涙腺が故障して始終涙が出て止まらない。)

 3節「その日には、家を守る者は震え(手が震える)、

力ある男たちは身をかがめ(背骨が曲がる)、

粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ(歯が抜けて少なくなって)

窓から眺めている女の目は暗くなる。」

 4節「通りのとびらは閉ざされ、臼を引く音も低くなり(耳が遠くなり)、

人は鳥の声に起き上がり(やたら目覚めが早くなり)、

歌を歌う娘たちはみなうなだれる(自慢の美声もしわがれてくる)。」

 5節「彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる(坂道で息切れをしてふうふういっている)。

アーモンドの花は咲き(髪は白くなり)、

いなごはのろのろ歩き(足取りものろのろとなり)、ふうちょうぼくの花は開く(性欲が減退する)。

だが人は永遠の家へと歩いて行き(つまり、死に向かっていき)、嘆く者たちが通りを歩き回る(葬列の嘆き)。

 6節。「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ(金の器とは灯火皿のことで、銀のひもはそれをつるすひも。灯火はいのちの象徴で、灯火が消えてしまうことは死を意味する。)

 みずがめは泉のかたわらで砕かれ滑車は井戸のそばでこわされる(水もいのちの象徴。死の荒涼としたありさまの描写)。」

 

 ゾクゾクするような老化の現実を見据えた文章です。この筆者自身、老人になってその老いの現実を見据えて書いているのです。外なる人は衰え、最期は死に至ります。

 

(2)死の先

 しかし、これで終わりではありません。死の先を語るのが聖書です。

「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。空の空。伝道者は言う。すべては空。」(12:7)

 聖書のことばヘブライ語では人のことをア-ダ-ムと言い、土のことをアーダマーといいます。聖書の神は創造主である神です。神様は人間を土から造られたからです。しかし、人は単なる土人形ではありません。神様は、これにいのちの息(霊)を吹き込んでくださいました。こうして人は生きる者となりました。やがて私たちの肉体は土に帰る時がやってきますが、霊はこれをくださった神様の御許に帰ることになるのです。そして、神様の御前で私たちは裁きを受けることになります。

「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」(12:14)

 ですから、希望をもって生き抜くためには、私たちは神様にお目にかかる用意をしておかなければなりません。なんの用意もしないでいきなり、審判者である神様の法廷に引き出されたら、びっくり仰天、あわててしまうでしょう。

 

2.内なる人は日々新たに(2コリント4:16-19)

 

(1)前向きに生きる

 さて、パウロの手紙にもどります。私は、この老い使徒パウロのことばを見ると、なんと雄々しく前向きな人生だろうと思うのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」すばらしいことばではありませんか。パウロ老いて死を目前にしながら、なお前向きなのです。まず、老いてなおこの前向きの姿勢でいられるのはすばらしいことです。

 山形のT牧師が老人ホームに招かれてお年寄りにお話をしたそうです。この先生は珍しい人で、手品をするプロ級の腕を持った人ですので、まず前座として手品をしました。でも、いくら手品をしてみても、おじいさんおばあちゃんたちは、何が起こったのかを見ているだけで、ちっとも感激してくれません。そこで、この牧師は内心がっかりしながらお話にはいりました。「さて、では次にお話をしましょう。題は『元気で長生きして、ぽっくり死ぬ方法』」と言いました。すると、先程まで眠そうにしていたご老人たちがみんな身を乗り出して、聞いてくださったそうです。そうでしょうね。

 「元気で長生きして、ぽっくり死ぬ方法」、その心の持ちようとはなんでしょう。T牧師に言わせれば、それは、新しいことに挑戦する心、言い換えると、前向きの心を持ち続けるということです。

 金さん、銀さんという双子のおばあちゃんが、以前TVに出ていました。そこで若いレポーターがいたずら心を起こして、金さんと銀さんをゲームセン(ゲームセンター)に連れていったのです。そう、パロとかリッチランドなどにある、あれですね。そしたら、金さん、銀さんどうしたと思いますか。ふたりとも夢中になってゲームに興じているのです。「そうか、これが若さの秘訣、ぼけない秘訣なんだなあ。」と感心してしまいました。どうも金さん、銀さんのほうが私よりも若いかもしれないななどとも感じたのです。みなさんはどうでしょう。「なにを馬鹿なことをしている。こんな年して、今さらゲームなんかばかばかしい。恥ずかしい。」というでしょうか。

 青年とは、前を見て新しいことに挑戦する心を持っている人のことです。老人とは、後ろを振り返って、「あの頃は良かったなあ」と思っている人です。そういう意味では、かりに二十代でも「十代はよかった」などと後ろを振り返ってばかりいる人は、もう老人ですし、かりに八十代でも九十代でも、新しいことへの興味を持ち続けている人の魂は青年です。戦後のキリスト教界の指導者に安藤仲市牧師という方がいたのですが、この方はよく「四十、五十は鼻たれ小僧。男盛りは七八十。」とおっしゃり、「胸に燃えるヴィジョンがあるかぎり青年である。」ともおっしゃいました。安藤先生はかつて日本が軍靴で踏み荒らしたアジアに、キリストの愛の福音を広めることをビジョンとしていたのです。たしかに安藤先生は、使徒パウロと同じように死の瞬間まで青年でした。

 自分の枠を決めてしまって、新しい事に挑戦する心を失うと老いていくのです。引っ込み思案はやめましょう。引っ込み思案は小ボケの始まりだそうです。新しい事に挑戦しましょう。例えば、畑仕事も、毎年毎年春はナス、ネギ、トマト、ジャガイモといった決まったものしか作らないというのではなく、何か聞いたことも食べたこともないけれど、ズッキーニとかカラーピーマンとかルバーブとか見たこともないような、新しい野菜の種でも蒔いて、新しい工夫をしてみましょう。

 

(2)死を前にして、なおも前向きに

 老いるという現実はさびしいものです。ですが、老いてなお前向きということでは、使徒パウロはさらにすごいことばを残しています。それこそ、金さん銀さん以上です。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリ4:16)

 肉体は衰えても、内なる人は、昨日より今日、今日より明日のほうがどんどん新しくなる、若くなるというのです。どうして使徒パウロは、老いて後、こんなにも力強く、こんなにも前向きなのでしょうか。それは、使徒パウロは主イエスキリストに対する信仰によって、死の向こうに永遠のいのちの希望、復活の希望をしっかりと持っていたからです。

 2コリント5章1~5節朗読

 幕屋というのは、テントです。テントに数年も暮らしていたらぼろぼろになってくるでしょう。雨もりがしたり、破れたりしてきます。みなさんのうちにテント暮らしの人はいないと思います。もし、テントしか住む家がないならば、不安ですよね。でも、テントがいよいよぼろくなって使い物にならなくなったら、立派な本建築の家に引っ越してきなさいと準備してくれている人がいるとするならば、安心です。その日が楽しみでしょう。

 地上の幕屋はだんだん朽ちていきます。地上の幕屋とは「外なる人」のことです。年を取るとあっちもこっちもガタが来始めます。親しいご老人が、「病院にいくと、医者はすぐ『ああ。ばあちゃん、それは『老人性~』だよ。』と目でも耳でも手でも足でも、頭でもどんな病気でも「老人性ナントカ」と名前をつけられておしまいですよ。いやんなってしまう。」と話していました。年を取ってこの外なる人、ぼろぼろになっていくテントしかなくて、引っ越す先がないならば、それは死ぬことが不安なのは当然です。

 でも、使徒パウロは希望に燃えていました。なぜかというと、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても(つまり肉体の死がやってきても)、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない天にある家です。」パウロはこの肉体が用済になって地上の生涯が終わったら、天国に行って本建築である復活のからだを受けるという希望がありました。だから、地上の幕屋が壊れるとき、死の時が恐ろしくはないのです。むしろ楽しみなのです。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」

 使徒パウロが最期の最期まで、若く、前向きだった秘訣はここにありました。すなわち、使徒パウロは死のかなたに輝く希望を抱いていたということです。

 私の恩師に朝岡茂牧師という方がいます。この先生の死は希望に満ちていました。朝岡先生は、死の床で「教会は万歳です。イエス様が見える。イエス様が見える。」といって、天に召されて行ったのです。

 

3.いつまでも残るもの--神にお会いする備え

(1コリント13:4-14:1抜粋)

 

 こういうわけで、聖書が教えるところでは、老いを賢く生きるためには、ちゃんと肉体を去って神様の御前に行く備えをする必要があるのです。神様の御前に出ることが希望に満ちているならば、それこそ最期の息を引き取る瞬間まで、私たちは前向きに生きることができます。神様にお会いする時、裁判があります。裁判官は、私たちが生まれてこの方心の中で考えたことも、口でいった言葉も、手で行なったことも全部ご存じの神様ご自身です。

 伝道者の書には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。・・・神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」とありました。

 使徒パウロも「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあって、した行為に応じて報いを受けるのです。」(2コリント5:10)と言っています。

 

 私たちは審判者におめにかかる用意をすること、造り主の目に価値ある生き方をすることが、聖書がいう知恵ある生き方、賢い生き方ということになります。

 

(1)地獄の沙汰は金次第ではない

 新約聖書のなかに「貧乏人ラザロと金持ち」というイエス様が話されたことがあります。ルカ福音書16:19-31

 ここを見てはっきりとわかることは、地獄の沙汰は金次第ではないということです。門前の貧乏人ラザロが死んだ時、だれも彼を葬ってもくれなかったようです。けれど、神様の御使いは神様を慕い愛しているラザロを天国に連れていってくれました。一方金持ちが死んだというときは、たいそうな葬式がなされ町の名士たちが集まりました。日本風に言えば、長々しい院号のくっついた戒名が誇らしげに付けられ、黒御影の巨大な墓も用意されたのです。

 私の実家は神戸なのですが、神戸と言えば広域暴力団山口組の本部があるところです。神戸の地方裁判所の目の前に山口組の事務所があるのです。もう十数年まえ、山口組の三代目組長田岡さんという人が死にましたが、そのとき組は田岡さんのために、院号付きの長々しい最高の位の戒名を買ったのです。しかし、ふざけてはいけない。地獄の沙汰は金次第ではありません。神様にワイロは通用しません。神様は公正な審判者です。

 金持ちが死んだあと目が覚めると、そこは地獄でした。地獄の沙汰は金次第ではないのです。別に金持ちが悪いというのではありません。そうではなく、イエス様がおっしゃったのは「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」ということです。門前に飢えて苦しんでいる人がいるというのに、それを見殺しにしてしまうようならば、その金は呪われた富なのです。なぜ神様は、世の中に富む人と貧しい人をいさせるのかといえば、より多く持つ人が、貧しい人と富を分かち合う愛の交わりが生まれるためなのです。それなのに、あの金持ちは自分のために蓄えて、門前で人が餓死するのを見殺しにしたのです。神が彼を地獄に落とされたのは、当然のことです。

 

(2)いつまでも残るもの-信仰・希望・愛--神様の前に持っていけるもの

 肉体の死の向こう、審判者である神様の前にまで持っていけるものとはなんなのでしょう。肉体が朽ち果てても、いつまでも残るものとはなんなのでしょう。いつまでも残るもの、それは、信仰と希望と愛です。

 1コリント13章 抜粋

「愛は寛容であり、愛は親切です。

 また人をねたみません。

 愛は自慢せず、高慢になりません。

 礼儀に反することをせず、

 自分の利益を求めず、

 怒らず、

 人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 愛は決して絶えることがありません。

 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

 その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」

 

 地上の富や名声や社会的地位などは、死後、神様の前になに一つ持って行くことはできません。 私たちは、肉体を離れても、私たちが神様の前に持っていけるもの、いつまでも残る信仰と希望と愛をこそたいせつにしなければなりません。それこそ、「老後の賢い生き方」です。

 

 信仰と希望とはなんでしょう。それは、イエス様に対する信仰と、その信仰に基づく、永遠のいのちへの希望です。私たちは心の思いと言葉と行動において、多かれ少なかれ罪のあるものです。(嘘をついたこと、脱税であれ、なんであれ盗みをしたこと、人の悪口を言ったこと、人を憎んだこと、)だから、このまんまで神様の法廷に引き出されたら、まちがいなく有罪判決を受けてしまいます。

 どうすればよいでしょう。裁判では弁護士というのがつくものですね。神様は私たちのためにすばらしい弁護士を送ってくださいました。それが神様のひとり子であるイエス・キリスト様です。イエス様は、二千年前地上に来られて、なんと私たちのために、十字架の上で身代わりに私たちの受けるはずの地獄の呪いを受けてくださったのです。そしてよみがえられたのです。ですから、イエス様を信じていれば、神様の法廷でイエス様があなたのことを弁護してくださいます。「この被告水草修治は確かに有罪です。人を憎んだこともあり、小さいころお母さんのヤクルトを盗み飲みしたこともあります。けれど、この被告水草修治の身代わりに、私がすでに十字架で苦しみました。償いは完了しております。」と。

 私はイエス様を信じてイエス様に弁護士を依頼してありますので、神様の法廷では無罪がもう確定しているのです。ですから、使徒パウロと同じように死のかなたに希望をもっています。地上の使命を終えて、あちらに行くその日が楽しみです。

 

 もう一つの準備。それは、愛です。お金や屋敷や社会的地位や立派な墓石などは、神様の前に持って行くことはできません。けれど、信仰と希望とともに、愛の行ないは神様の前に持っていくことができます。神様は、私たちを天国に迎えてくださってから、地上で行なった愛のわざに対してご褒美をくださいます。

「愛は寛容であり、愛は親切です。」

  相手をありのまま受け入れること。相手を変えてやることが親切と思ってはいけない。相手をありのまま受け入れ、かけは自分が補ってあげようという心。

「また人をねたみません。」

「愛は自慢せず、高慢になりません。」

「礼儀に反することをせず」

 ありがとう、ごめんさない、どうぞというエチケットをたいせつに、年をとったらなおのこと身だしなみもたいせつに。

「怒らず、人のした悪を思わず」

 人の(夫、嫁、だれでも)その失敗を数えないこと。

「不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

神が彼を取られたので

創世記5章

 

2018年6月14日 HBI

 

序 聖書にはあちらこちらに系図が出てきます。系図を通して神様は何を教えようとしていらっしゃるかは、その特徴に着目することによってわかります。

 

1.アダムからノアにいたる

 

創世記5章の系図の特徴の一番目は、アダムからノアにいたるラインだけを記したものであって、すべての人のことが記されているわけではないということです。カイン族のことは何も記されていませんし、また、アダムから生まれたセツ系の子孫の中でも、特にノアにいたるラインのみが記されているのです。だから、たとえばカインとアベルの誕生については何も記されておりません。

また、「何歳になってだれそれが生まれた」という書き方がされていますが、その歳まで誰も生まれなかったというわけではないでしょう。むしろ、他にも何人も生まれたのですが、ノアにつながるラインとはならなかった子どもたちの名はすべて省略されているのです。

つまり、アダムからノアにどのように子孫がつながって行ったのかという、その点に特化した系図なのです。というのは、ノアから出る者たち以外は、大洪水によってすべて滅びてしまうからです。

 

 平均寿命900歳

 

この系図の特徴の第三番目は、登場する人々の寿命がおおよそ900年であり、現代に比べると非常に長命であるという点です。あまりにも年数が長いので、学者のうちには、この寿命は個人の寿命ではなくて、それぞれ部族の存続した年数を意味しているのではないか、という説を唱える人がいます。けれども、そうであれば「およそ何百年」というふうになるはずで、何百何十何年ということにはならないはずですから、無理な解釈でしょう。

また、当時の暦の数え方が現在とは異なったのではないか、などと考えたらどうでしょう。今の1年は12ヶ月ですが、毎月1年と考えて今の1年を12年と数えるというわけです。そうすると、900歳ということは75歳を意味することになり、常識的な数字となります。しかし、この説に従うと、11章のアブラハムからノアにいたる系図との調和が図れなくなってしまいます。結局のところ、一番自然な読み方は、この寿命の長さの記述をあれこれ理屈をつけないで、そのまま受け取ることです。

この平均900年もの寿命は大洪水の前までのことでした。6章~9章の大洪水を経て後、急速に寿命が短くなっていったことが、創世記11章の系図に記されています。これは何を意味しているのでしょうか?二つの理由が考えられます。一つは創世記6章で神が「人の齢は120年にしよう」とおっしゃったことです。大洪水の後、人間の寿命が急速に短くなっていったのは神がなさったことだというメッセージです。これと関連して、大洪水の前後で自然環境に激変が生じたと結果、寿命が短くなったという説を立てる学者がいます。ノアの大洪水によって現在の地層が形成されたという研究者たちです。実際、世界中の地層の中で発見される動植物の化石は、かつてこの地球の自然環境が現在とは相当に違っていたということを明らかに示しています。羽の長さが80センチものトンボ。爬虫類もかつては非常に巨大なものたちがいたことがおびただしい化石からわかっています。ブラキオサウルスは全長25m、、巨大ワニ12m、巨大蛇15m。哺乳類でも、巨大ゴリラ3メートル、巨大ナマケモノ6m、巨大サイ8mといった化石があります。現代に生息するゾウガメの年齢が200歳を超えるそうですから、大洪水前の巨大な生物たちの寿命は、相当長かったと推測されます。なぜそのようなことが可能だったのかというと、大洪水の前には大気の状態、地表に降り注ぐ有害な宇宙線の状態などが指摘されます。酸素濃度が高いと生物は巨大化することが知られていますから、大気の状態が現代と違っていた可能性が高いでしょう。

ですから、現代の物差しで大洪水前の生物のありさまを測ることはできないのです。こうした事実は、この系図に記されている900年もの寿命の長さを説明するための助けにはなるでしょう。

 

 「生きて、・・・死んだ」そして「神がエノクをとられた」

 

 この系図の特徴の第3番目は、「誰それは生まれ・・・何年生きて、誰それを生んで・・何年生きて死んだ」と繰り返されている点です。繰り返し繰り返し「死んだ」「死んだ」「死んだ」「死んだ」と読んでいくと、なんとも不気味です。かつて人類の契約のかしらであるアダムが罪を犯したとき、彼に対して、神はおっしゃいました。創世記3章19節

「3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。

   あなたはそこから取られたのだから。

   あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

 

アダムの罪に対する呪いは、確実にその子孫たちに及んでいったのだとこの系図は語っています。死はアダム以来人類を支配しているのです。

 

 しかし、この系図にはもう一つ特徴があります。それは、系図のなかでもっとも短命なエノクの生涯に関する記述です。彼のこの世での生活は365年でした。しかも、彼に関しては、ほかの人々と違って「死んだ」とは書かれていないのです。「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。ある日、エノクが突如としていなくなってしまったのです。そして、彼がいなくなったとき、人々は「ああ、神がエノクを取られたのだ」という啓示が与えられたのでしょう。そうして、みなが納得したのです。エノクはそういう人生を生きた人でした。

「5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。 5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。

 5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」

 

 エノクの人生をひとことで言うならば、それは「神とともに歩んだ人生」でした。22節、24節に繰り返されています。だれもがエノクさんという人を思い浮かべると、彼はいつも神とともに歩んでいる人だったなあと思い浮かべる、そういう人だったのです。うれしいことがあったときには、神に感謝をささげ、悲しむべきことがあったときにも、神に祈りをささげ、何事もないときにも神を賛美している。それがエノクでした。寝てもさめても、いつも神様とともに歩んだ人、それがエノクでした。ですから、エノクが突然いなくなったとき、人々は「神がエノクを取られた」と示されて、それが胸に落ちたのです。

 エノクさんがある日散歩をしていると、神様が彼の傍らをいっしょに歩いていらっしゃいました。エノクがあのこと、このことを神様にお話し、神もまたエノクにあれこれと語りかけられる。そうして神とともに歩むうちに、気がつけば太陽は西の空に低くなっていました。神様はおっしゃいました、「エノク。もう晩くなりましたね。うちに来ますか。」するとエノクは、「では、そうさせていただきましょうか。」と答えて、彼は神の家に帰って行ったのでした。エノクという人は、神とともに歩む人生でした。

  エノクのことを考えると、私は同盟宣教団の創始者フレデリック・フランソン先生を思い出します。彼は日本を何度か訪れていますが、そのたび定宿にしていたのが、ある仕立て屋さんの家でした。その仕立て屋の主人がフランソン先生のお洋服がひどくすりきれているので、服を新調しましょうと何度提案しても、先生はまったく無頓着です。そこで、主人は一計案じまして、夜中に先生の服の寸法を測って、次回泊りに来られた時、夜中に新しいのに取り換えて置いたそうです。翌朝、フランソン先生は何も気づかないまま朝食の席につきました。それで主人は言いました「先生、お洋服」。するとフランソン先生ははじめてまじまじと自分の服を見て、こう言ったそうです。「おお!主が新しくしてくださった。」フランソン先生の秘訣は4つのCです。すなわち、

Constant Conscious Communion with Christ

 「エノクは神とともに歩んだ」ということを読むと、憧れを感じ、私もそうありたいと感じるとともに、ちょっと自分と引き比べると、なんだか先天的に自分とは質が違う人だなあという印象をもってしまうかもしれません。生まれながら、神を愛し、神とともに歩む人生を歩んだエノク。神の人エノク。聖人エノクというイメージです。

 しかし、ここに短く記された彼の人生の描写を注意深く読むと、彼の人生にも霊的な転機があったのだということがわかります。

「5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」

 人生の65年目、エノクにはメトシェラという子どもが与えられました。そのときにどういう出来事があったのかは記録されていませんが、彼はわが子を胸に抱いて、一つの決心をしたのでした。「そうだ。これからは神とともに歩む人生を生きよう。」と。それ以前、セツ系の一族に生まれたエノクが神を知らなかったわけではありません。しかし、まあまあ親が神を信じているから自分も一応神を信じ、祈りもするという程度だったのでしょう。けれど、メトシェラが生まれたときから、彼は変わりました。神とともに歩むことを決心し、以後300年間、神とともに歩む人生を歩みとおしたのでした。あるとき、彼は自分の人生のハンドルを神にお任せすることにしたのです。自分の欲望や夢の達成、そうしたものを追い求める人生をやめて、神に人生をおささげしたのでした。それは幸いな人生の始まりでした。そうして、ある日、神はエノクを取られたので、エノクはいなくなったのです。彼が世を去ったとき、人々は彼の墓碑銘というべきか、記念碑に、「エノクは神とともに歩んだ」と刻んだのです。

 

結び

 エノクの人生は当時の標準からすれば、標準の半分にも満たないものでした。決して、長いものではありませんでした。しかし、その人生はまことにすばらしい人生でした。彼が神とともに歩んだからです。あなたは、何とともに歩む人生を生きているのでしょうか。もし、あなたが突然を世をさったなら、人はあなたの墓碑銘としてなんと刻むでしょうか?「***はカネとともに歩んだ」「***は趣味とともに歩んだ」「***は会社とともに歩んだ」いろいろあるかもしれません。「***は聖書とともに歩んだ」もいいでしょう。でも、やはり「***は神とともに歩んだ」と刻んでもらえるような人生を歩みたい。

 神が人となられたのは、実に、私たちが神と共に歩む人生を生きるためです。

 

マタイ福音書1:23

 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

   活かされて生きる-いのちの御霊の法則― 

Rom7:7-8:11

 

1.肉が問題である・・・肉が問題であることに気づかないことが多い

 

 本日の本文には、「肉」とか「肉的」ということばが何度も出てきます。8章5、6,8節

5,肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。

6,肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。

7,なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

8,肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

 

 肉の問題と言っても、ダイエットの話ではありません。聖書では「肉」ということばは肉体、人間を意味している場合もありますが、ローマ書8章とガラテヤ書5章で「肉」は、聖霊(御霊)と対立的に用いられています。このように聖霊と対立的に用いられる文脈においては「肉」(σαρξ)とは「罪の奴隷としての人間のあり方」を意味しているのです。信仰生活における成長・聖化の一つの面は、この「罪の奴隷としての自分のあり方=肉」を克服するということです。

 まず、肝心なことは信仰生活の問題の中核は、この自分の肉にあることを認識することです。私たちは、自分の信仰生活がうまくいかないのは、あの人が悪いからだ、この人がわるいからだ、この環境が悪いからだなどというふうに考えがちです。そして、自分の「肉」に問題があることが見えないのです。このような性質は初めの人アダム以来、人間に入ってきました。

 最初の人アダムは、善悪の知識の木の実を食べてしまった時、神様からそれを追及されました。その時、彼は言いました。「あなたが私にくださったこの女が、私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは、「妻が悪い。妻が私が神様にしたがうことの妨害をしたのであります」といったのです。それどころか、「私にこんな変な妻をくれたのは、神様あなたではありませんか。あなたがこんな女を妻にくれたものだから、食べたんです。」と言ったのです。そして、最初の女も言いました。「へびが私を誘惑したのです。へびが悪いのです。」この時、悪魔はヒヒヒと喜んだでしょう。自分の肉に問題があるのに、ほかの者に責任を転嫁して、自分の肉にこそ問題があることに気がつかない、これこそ悪魔の巧妙な罠です。確かに悪魔は誘惑します。環境も困難かもしれません。しかし、私たちがその問題を人のせいにし、悪魔のせいにし、環境のせいにし、はては神様のせいにするとき、私たちはもはや的をはずしてしまっているのです。

 もしあのとき、アダムが「はい。私が悪かったのです。」と申し上げたら、悪魔ははぎしりしたでしょうに。私たちは問題があるときに、相手の問題、状況の悪さに目を向けることが多く、罪を犯している自分自身に光を当てることをしないことが多いのです。それではサタンの思うつぼです。まず、私たちは、信仰生活の問題の中核は、自分の肉にあるということに気づかねばなりません。

 

2.「肉」に対して律法で戦うなら勝ち目なし

 6章でキリスト者は罪に死んで義の奴隷となった者だと自覚せよという話がありました。では、罪に死に、キリストにあって義の奴隷として神に対して生きている私たちは、どのようにしてその義の道に歩むことができるでしょうか。

 7章でパウロが語っていることの第一点は、律法を頑張って守ろうとするならば、肉に対する勝ち目はないということです。 7節から20節では、もし律法によって「肉」と戦い、正しい道を歩もうとするならば、どのような結果に至るかがパウロの体験が記されています。パウロは御存じのようにもともとパリサイ人であり、たいへんまじめな人でした。それで彼としては述懐の第一番目から第九番目までは、守り通すことができたと思っていました。偶像崇拝などはしたことがないし、主の御名をみだりに唱えたこともない、安息日は厳守している、父母に不敬なこともしたことはない、殺し、姦淫、盗み、偽証などしたことはない。まじめ人間パウロは大丈夫でした。けれども、十戒の第十番目の戒め「むさぼってはならない」という禁止命令をパウロが真剣に受け止めて、実行しようとすればするほど、律法は彼のからだの中にあるむさぼりの罪を引き起こしたというのです。「むさぼってはならない」「むさぼってはならない」と自分に言い聞かせて彼は「むさぼり」という自分の肉と勝負したのです。勝負の結果はどうだったでしょうか。惨憺たるものでした。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ罪は死んだものです。」

 第十戒とは「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人の者を、欲しがってはならない。」です。パウロは朝に夕にこの戒めを繰り返して生活を正そうとしました。けれども、そうすればするほど「むさぼり」が彼を捕らえたのです。律法は私たちに罪を自覚させ、自力ではきよくは生きられないことを教えるのです。

 

3.原理を発見する

 

 彼はその己の現実のなかから驚くべき「原理」を発見するのです。

 7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

 7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

 ここに原理と訳されていることばはノモスと申しまして、法則とも律法とも訳されます。アルキメデスの原理とか万有引力の法則とかいうように、法則とは何度試してみても同じ結果が現れることです。りんごが枝を百回離れると百回とも地面に落ちる。一万回枝をはなれても一万回たしかに地面に落ちる。だから法則です。

 パウロが発見した法原理とはつまり、心に善をしたいと願っている私の内に悪(罪の法則)が宿っていて、善をしたいにもかかわらずしたくない悪をしてしまうということなのです。これは法則ですから、くつがえすことはできません。たとえば、万有引力の法則というのがあります。手を上げて下さい。はい、上がりますね。けれども、一時間上げたままでいてくださいと言っても、みなさん手が下がってしまうでしょう。そうです。万有引力の法則がありますから、さがってしまいます。つまり、法則に対して私たちはしばらくは自分の力で抵抗することができます。けれども、それはしばらくの間だけなのです。そして何度やっても同じ結果になります。

 私たちは罪の力に対してしばらくは抵抗できるでしょう。一時間、二時間、一日、三日・・・と。しかし、また同じ罪を犯してしまうのです。人によって弱点は違うでしょう。「怒っちゃいけない」とか「悪口言っちゃいけない」とか「むさぼってはならない」と思って何日かがんばっていても、また気がつくと同じ罪を犯しているのです。なぜですか。からだの中に罪の法則のせいです。それは法則です。何回やっても同じことです。それは法則であり原理ですから、肉に対しては私たちは「すべきだ」「・・してはいけない」と自分に言い聞かせて自分で戦おうと努力しても勝ち目はないのです。

 大事なことは、自分の罪をはっきりと曇りなく認識することです。そして、「私はあの人を憎んでいます。」とか「あの人を心の中で殺してしまいました。」とか率直に神に向かって告白することが大事なのです。自分自身に決定的に挫折したとき、神の働きが始まります。

 

.いのちの御霊の法則によって(8章)

 

 パウロはこの律法による罪の自覚によって、二つの認識に追いやられます。

 

(1)キリストにある義認の恵み、肉の支配からの解放を再確認する。 

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を罪のために、罪深い肉とおなじような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(8章3節)

 救われる以前、人はみな「肉」の支配下にあります。つまり罪の奴隷です。肉の命令の言いなりにならねばなりませんでした。 人間が罪の奴隷となってしまったために、律法は人間を神の御前に義とできなくなりました。そこで神は、御自分の御子イエスを人間として派遣なさり、人間として罪の罰を受けさせたのです。そこで、私たちは原理的にすでに肉の支配から解放されたのです。

 このように信仰によって、神から義と宣言されたという事実は、聖化の途上で己の罪の現実に目覚めた聖徒を支え、肉から解放されたのだということを自覚させるのです。律法は、こうしてもう一度キリスト者をキリストの恵みの原点に連れ戻すのです。私たちは弱いのです。けれども、私たちはキリストにあってすでに肉から解放されたものだということを、まず確認することです。あなたの罪は、あの主の十字架の上で死んでしまったのです。肉の支配も終わったのです。主イエスを信じる者は、すでにキリストとともに死刑になり、そして、キリストとともに葬式も終わってしまったのです。

 

(2)いのちの御霊の法則で生きる

 パウロが「罪と死の法則」を自覚させられて至ったもうひとつの所は、「いのちの御霊の法則」の認識です。2節。「罪と死の法則」に勝つには、「「・・・しなければならない」という律法で生きることではなく、もう一つのより強力な法則によるほかないのです。すなわち、罪と死の法則にまさるもう一つの法則によってのみ勝利を得ることができます。

 心の法則は神の律法に従いたいと願うものです。それは神が心に律法の命じる行いを記しておられるからです。それはいわゆる良心です(ローマ2:15)。道徳的な人は良心によって「あれは善、これは悪」と判断して道徳的な生き方をします。 けれども、からだの中には罪と死の法則があり、これは神の律法に反逆するものであり、かつ、心の法則よりも強力なため、からだは罪の法則にしたがってしまうのです。道徳的な人は、「あれは善、これは悪」と判断しながら、自分自身が悪と判断することをしてしまうのです。道徳的な人は、他人を見て非難しながら、自分も同じことをしてしまうのです。

 「心の法則」によっては「罪と死の法則」に対する勝ち目はありません。「罪と死の法則」から解放されるためには、「罪と死の法則」よりも強力な法則をもってしなければなりません。罪と死の法則よりも強力な法則とは、いのちの御霊の法則です。

 これを図解すると下の通りです。

 

心の法則 < 罪と死の法則  < いのちの御霊の法則

(律法に賛成) (律法に反逆)  (律法から解放され律法を十二分に満たす)

 

 ですから、私たちは「むさぼってはならない」という律法に固執することによってではなく、「いのちの御霊の法則」によってこそ勝利の生活をすることができるのです。「いのちの御霊の法則」によって生きるとはどういうことでしょうか。それは、自分の理屈であれは善、これは悪という判断をしている生き方でなく、「主のおことばですから従います。」という生き方をすることです。それはキリストが私のかわりに生きて下さるということなのです。

 このことについて、主イエスの「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。」(マタイ5:41)ということです。当時、ユダヤローマ帝国の属州とされており、ローマ人は任意に被支配者であるユダヤ人を1ミリオン使役することができました。ひどい話です。堪え難い屈辱です。けれども、主は2ミリオン行けと言われるのです。この世でもっともひどい人も1ミリオン行けというのが限界です。しかし、主イエスは2ミリオン行きなさいと命じます。主イエスはローマの法律よりもひどい律法で私たちを縛ろうというのでしょうか。いいえ。逆です。1ミリオン行く人は、肉の力でいやいや苦痛の中で行くでしょう。しかし、2ミリオン行く人は、喜んで行くのです。彼はもはや律法に縛られているのではなく、敵をも愛する愛によって自発的に行くからです。2ミリオン行きなさいという命令は、私たちを縛るのではなく、むしろ内に与えて下さった御霊のいのちを引き出すものなのです。これは、律法と新約的な命令との違いに適用されるものです。

 律法は「偽証してはならない」と言いましたが、新約の命令は「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」と言います。律法は「盗むな」と言いますが、新約の命令は「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」です。律法は「主の御名をみだりに唱えてはならない。」と言いますが、新約の命令は「悪いことばをいっさい口から出してはなりません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。」です。神の聖霊を悲しませてはいけません(エペソ4:25-30)。

 主イエスを信じているあなたは、すでに、いのちの御霊を受けているのです。この世には悲しみながら不平を言いながら1ミリオン行くクリスチャンと、喜んで2ミリオン行くクリスチャンがいます。キリストを信じる私たちには、愛をもって2ミリオン行くいのちが与えられています。ここに聖化における信仰の重要性があります。私は、義の奴隷となったと信じると同時に、私のうちにはいのちの御霊がおられ、2ミリオンを行くいのちがある事実を信じるのです。ただ形式的にとらえてはなりません。聖霊の内なる促しに信仰をもって自由に従うことです。

 「あなたの敵をも愛せよ」と言われる主に単純に従うことです。理屈をいえば、「ムリ!」でしょう。しかし、主イエスを見上げるのです。十字架において、あなたを愛された主イエスを見るのです。そうすると、あなたの内に生きる主イエスの御霊が、愛させてくださるのです。私たちクリスチャンは、自力でがんばって生きるのではなく、キリストの御霊によって生かされて生きるのです。                            

神の民と地の民

創世記4:16-26

2018年5月17日 HBIチャペル

 

 ここ4章16節から26節には、二つの民の歩みが記されています。一つは16節から24節までに書かれている神に背を向けて去ったカインとその子孫の一族です。これをカイン族と呼ぶことにします。もうひとつは、25,26節に記されている、神がアベル亡き後に神がアダムとエバに与えたセツとその子孫の一族です。これをセツ族と呼ぶことにします。カイン族は、神なしで自力で生きることを誇りとする一族であり、セツ族は主の名を呼び求めて生きる一族です。アウグスティヌスは、著書『神の国』で、この箇所を「女のすえと蛇のすえの抗争」(創世記3:15)、神の国と地の国の歴史の絡み合いの歴史の発端として描きました。

 

1 カイン族

 

(1)エデンの東・・・反抗と不安

4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

「ノデ」とは、さすらい・放浪という意味のことばです。兄弟を殺し悔い改めを拒んだカインは、大地に呪われて落ち着くところを持たずに放浪するようになりました。そんなカインは、エデンの東に住みますが、その地の名はノデというのです。その意味は、さすらい・放浪という意味ですから、皮肉です。

神に背を向けた人は自分自身の落ち着くべきところを持っていません。「自分は誰なのか?自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」がわからなくなるのです。自分の存在理由と自分の存在も目的がわからなくなってしまいます。造り主である神を見失った人はだれもが、その魂は落ち着く先を知らずさまよっているのです。世に生まれては来たけれど、生きる意味がわからず、むなしく死んでゆくのです。カインの末裔の悲惨です。

  

(2)レメク・・・一夫多妻主義・権力欲

 続く17節から24節には、神に背を向けたカインが町を築き、カインの子孫に最初の一夫多妻主義者レメクが生まれたということがしるされています。抜粋して読んでみます。

4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 カインが妻を得たというけれど、この妻はどこから来たのかという議論が昔から論じられます。アダムとその妻エバから生まれた娘たちがいたのでしょうし、兄弟たちも他にいたということを意味しています。カインと同じように、神と父母に反抗して去った兄弟姉妹たちがいたのでしょう。こうしてカイン族が増えていきますが、そこにレメクという男が登場します。

 4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。

  結婚は、本来、神の第二位格である御子に似たものとして造られた男女が、全人格的な交わりをし、神と神の民、キリストと教会の交わりの麗しさを表わすために定められた制度です。けれども、レメクは二人の妻アダとツィラをもちました。レメクにとって妻とは、自分の情欲を満たすための道具にすぎなかったのです。また、女性のほうも「あなた好みの女になりたい」というふうな、奴隷に甘んじるような、しかし、本音のところでは、夫の人格でなくその財力や権力を自分の虚栄心を満たすアクセサリーとみているのです。

 レメクは、その妻たちに、自分の権力・暴力を自慢して歌うのです。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。

   「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。

   私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 カイン族の精神は、神への反抗心と不安ですが、もう一つの特徴は、その不安を覆い隠すために、力を振りかざすということです。権力であれ、暴力であれ、経済力であれ、己の力でもって、神なしに成功してみせてやるという権力への意志です。

 

(3)都市・文明・芸術

 このカイン族から、都市と産業と芸術が生まれてきたというのは、注目すべきことです。

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

 

 カインが最初に町を建てたことについて、フランスの哲学者ジャック・エリュールは著書『都市の意味』という書物のなかで、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数 多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。」と発言しています。労働・文化形成自体は神の命令です。しかし、堕落後の人類の歩みを見る ときに、特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。カインは神の守りを信頼することが出来ないので住まいの周囲に塀を築き、やがてそれが都市となりました。しかし、都市について、聖書は一貫して、神に反逆し、やがて滅ぶべきものとして描いている点に注意しておくべきです。バベル、ソドム、ゴモラ、エリコ、バビロン、ツロ、ローマ、そしてエルサレムというふうに都市は人々の権力と欲望と罪が集中して、やがて、自然災害か、あるいは戦争で滅ぼされていくのです。

 また、神が明日も私たちを養ってくださることを信じない人々が、安定的に食料を得るために家畜を飼い、天使たちの賛美の聞こえない人々が自ら慰めるために音楽を工夫しました。そして、青銅と鉄器の発明者は最初は農機具は斧に、やがては他国を侵略するための武器をカイン族にもたらしました。その直後に、あのレメクの例の暴力を賛美する歌が出てきます。

「4:23私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 都市と文明が、最初にカイン族から出てきたということを聖書が啓示している意味を私たちはよく考える必要があります。文明や技術や芸術は、後に、神の民によっても用いられていくもので、一般恩寵です。

 しかし、警戒すべき面があります。それは、都市というもの、また、文明の利器や芸術は、カイン族にとっては、神に代わるもの、つまり偶像であったということです。芸術も科学も産業もみな一般恩恵ですから用いてよいのです。しかし、芸術至上主義とか、科学主義とか、経済至上主義は、みな偶像崇拝です。文明・技術・芸術は、どこまでも神のみことばの支配の下に置くかぎりは有益ですが、神のことばの支配の外においてそれ自体を目的化するならば、科学も芸術も経済も有害なものとなってしまいます。

 

3.セツ族は主の御名を呼ぶ

 

 カイン族が華々しい文明・都市国家を築き始めているとき、他方で、神はアダムとエバに、今は亡き敬虔な息子アベルに代わるもう一人の子セツを授けました。

  4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

 このセツから、セツ族が出てきて、その系譜はノアに続きます。セツがどういう人物であり、その一族がどういう人々であるかを示すことが26節に表現されています。

 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。セツは、彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた。(2017訳)

 セツは自分に生まれた男児をエノシュと名づけました。エノシュというのは「人」を意味するもう一つのことばです。エノシュということばは、形容詞の「弱い」ということばと同根のことばで、特に、神の前における人間の小ささ、弱さを表現するときに用いられることばです。(たとえば、詩篇8篇) セツはわが子が生まれたとき、この子が病弱でちゃんと成長できるだろうかと心配して、エノシュつまり「弱し」君と名づけたのではないかと思います。セツは父親として、「主よ。この弱い子に、いのちを与えてください。」と神の前にひざまづいて祈りつつ、このエノシュは育てられていきます。神の前に虚勢を張るのではなく、神の前にありのままの自分の弱さを認めるところに、祈りが生まれてきます。祈りこそ、神の民セツ族の特徴でした。カイン族の力強さ、華々しさカッコよさに対して、セツ族はパッとしないのです。例えていえば、トランペットと鼻笛みたいな違いです。1コリント1章のことばです。

1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 

 

結び・適用

 カイン族は城壁を築き、次々と文明の利器と芸術と強力な武器を生み出し、富を獲得して妻を何人もめとって華々しい歩みをしていました。他方、セツ族は、病弱の息子が生まれて、その子のために祈り始めました。世間というものは、こういう姿を見ると、カイン族が祝福されていて、セツ族はあまり祝福されていないというふうに判断するものです。いや、私たちキリスト者もカイン族の価値観に影響されてはいないでしょうか。ショッピングモールを兼ね備えたようなメガチャーチが神に祝福されていて、主の御名を真剣に呼び求めている細々とした群れには同情はしても、祝福されているとは思わないのかもしれません。

 イエス様がガリラヤで伝道をしていたとき、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人という群衆を満腹にしてやったことがありました。その時、人々はイエス様を王として担ぎ出そうとしました。自分たちはその利得にあずかろうとしたのです。しかし、イエス様はこの群集たちを避けて、この世の王として成功することを避けました。主イエスには、十字架にかけられて殺されてのち三日目に復活し、私たちを滅びから救うという使命があったからです。

 この世は、神に背を向けて、富と快楽と権力と栄誉を求めて生きています。しかし、主が祝福されるのは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」なのです。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

  悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

  柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」マタイ5:3-15

 

律法から解放されて

ローマ書7章 1-13節                                                                                     

2018年5月13日朝拝説教

 序 

 ローマ人への手紙は、6章では「罪からの解放」ということがテーマでした。「私はもはや罪の奴隷ではない、神の奴隷である」という自覚的な信仰が大事なことを学びました。まあ、わかりやすい話だと思います。

 ところが、7章に進むと、驚いたことに今度は「律法からの解放」ということがテーマとなります。律法とは十戒をはじめとして旧約聖書に記された、神の数々の命令のことです。「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。」「あなたな自分のために偶像を作ってはならない。」「あなたは主の聖名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「あなたのとなり人のものを欲しがってはならない」。どれもこれも当然正しい命令です。クリスチャンが律法から解放されたとはどういう意味なのでしょう?

 混乱を防ぐために先に答えを言っておきますが、<律法から解放された者として、律法の要求を十二分に満たす>というのが、クリスチャンの生き方です。クリスチャンが聖化の道を歩んでいくためには、罪からの解放だけでは十分ではありません。律法からの解放が必要です。

 

1.厳格な夫=律法

(1)たとえの説明

 6章では罪と人の関係は、主人と奴隷に例えられましたが、7章では律法と人との関係は夫と妻との関係になぞらえられます。

 花子さんは、太郎さんと結婚しました。ところが、結婚してみてわかったのですが、太郎と彼女はまるで性格が合いません。といって、太郎が悪い人であるわけではなく、いつも正しく厳格で、一つの間違いもしないのです。そして、妻にいろいろのことを要求します。しかも、その要求は横暴な要求ではなく、いちいち正当な要求なのです。けれども、妻花子さんの方は何もしないでいたい方です。夫太郎は細かい点までいちいち正確で几帳面ですが、妻の方はでたらめです。こんな夫婦がどうしてうまくいくでしょうか。

 さて、花子さんは失敗したと思って、もう一人の男三郎の妻になりたいのです。三郎がいいかげんなわけではありません。三郎が花子に求めることは、今の夫よりももっと大きいのです。でも、大きな違いがあります。それは、三郎は、自分が求めることを妻が行おうとするときに十分に優しく励ましそして助けてくれるのです。

 けれども、律法では、夫が生きている間に他の男に嫁ぐならば、姦淫を犯したことになります。では、どうすればよいでしょうか。夫が死ねば再婚しても、姦淫にはなりません(3節)。ところが、太郎は決して死にません。殺しても死なないほど頑健です。

 では、夫が死なないなら、花子さんが夫から解放されるためにはどうすれば良いでしょう。自分が死ぬことです。自分が死んでしまえば、夫との契約は終わりますから再婚しても姦淫にはなりません。死んでしまえば再婚なんかできませんが。

 いったいこの譬えは何を言っているのですか。前の夫太郎さんは律法を指しています。第二の男三郎はキリストを指しています。そして、花子さんは私たちクリスチャンのことです。

 

(2)律法は私たちに自分の罪と無力を認めさせる

 イエス様を信じてクリスチャンとしての歩みを始めた人は律法を遵守して生活して行こうとします。「あなたにはわたしのほかにほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。主の御名をみだりにとなえてはならない。安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。嘘をついてはならない。隣人のものを欲しがってはならない。」(出エジプト20章)

 けれども、一生懸命律法を守ろうと日々努力してみると、自分がどうしても守ることのできない律法につき当たります。パウロの場合は、十戒の第十番目でした。7節から13節。

 7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

 7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。 7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。 7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

 7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。 7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

 

 家内の小学生時代のある日、学校でどんぐりを材料に工作をすることになりました。子供たちはどんぐりを十個ずつ持参することになっていました。「みなさん、机の上に自分のどんぐりを出してください。」と先生がおっしゃいました。「はーい」と皆がそれぞれ机の上にどんぐりを出しました。すると先生がおっしゃいました。「先生は職員室に忘れ物をしたので取りに行って来ます。でも、注意しておきますが、どんぐりを決して鼻の穴に入れてはいけません。」先生が教室を出て行かれました。ところが、クラスの中に大久保ひろし君という男の子がいました。この子は「ドングリを鼻の孔に入れちゃいけないんだ」とつぶやきながら、鼻の穴にはめました。他の子がゲラゲラ笑います。ひろし君も笑った瞬間、つい息を吸い込んだのでドングリが鼻の奥に入ってしまったのです。さあたいへん。大騒ぎになって病院に連れていかれました。  

 パウロ十戒の第十番目「むさぼってはならない。」という律法に捕まえられたのです。ユダヤ教徒のまじめな家庭に育ったパウロは9つの戒めは守っているつもりでした。第十番目の律法を本気で実行しようとしはじめるまでは、パウロは自分は正しい人間であると思っていました。けれども、本気で律法を実行しようとしはじめたときに、彼は自分がどんなに罪人であるかがわかりました。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、その男奴隷、女奴隷・・・あるいは、その所有のいっさい。」パウロは、毎日毎日、律法の第十番目の戒めを唱えながら、一所懸命に「むさぼりの心」を起こすまいとしますが、そうすればするほど、むさぼりの思いが湧きあがってくるのをやめることができないことに気づきました。

 けれども、律法が悪いのではありません。律法を行うことができない私たち人間のうちに巣食っている罪が悪いのです。あの厳格な夫が悪いのではなく、グウタラな妻が悪いのと同様です。(12、13節)

 パウロにも、ついに律法を守ることによってクリスチャン生活を続けて行くことはできないと気づく日がきました。「ああ私は、ほんとうに惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 同様に、私たちもクリスチャンとして生活していくにあたって、自分の力で律法を守って生きようとするならば、ついに挫折するでしょう。また挫折しなければ、ほんとうにイエス様のたすけを求めようとしないほど、私たちはかたくなです。この「私は正しい」と主張してやまない自我を打ち砕き、キリストに「助けてください」と呼ばせるのです。そのために、律法が働きました。この「私は正しい」と主張してやまない自我こそ罪の根っこです。

 

(3)クリスチャンは死んだので、すでに律法からの解放されている

 では、どうしたら律法から解放され、キリストにあって生きることができるでしょう。夫が死んでほしいと思っても死なないように、律法から解放されたいと思っても、律法は永遠のものです。「この天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません。」(マタイ5:18)と言われる通りです。

 では、律法から解放されるためにどうすればいいのか。ここが大事です。私たちが死んでしまえば、律法の要求から解放されます。そして、実はキリストを信じキリストに結ばれた人はすでに死んでいるのです。したがって、私たちはキリストを信じたとき以来、律法の要求から解放されているのです。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」(7章4節a)。バプテスマ(洗礼)を受けた人は、もうお葬式も終わっているのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(6:4)。

 律法は「あれをしてはならない。これをしなさい。」と要求します。そして、その要求に答えない者は罪に定められ、罪は、死を要求します。しかし、キリストはすでに私たちの罪に対する律法の要求にしたがって、死なれました。キリストを信じる私たち自身もまた死刑になってしまいました。律法に対して死んでしまったのです。死んだ者に対してはもはや、律法はなにも要求できません。私たちの葬式は終わりました。律法はもう私たちに要求できません。このように、私たちはキリストを信じてバプテスマを受けたことによって、罪に対してだけでなく律法に対しても死んだので、すでに律法から解放されているのです。

 

2.キリストに結ばれて実を結ぶ

 

 こうして私たちは、新しい夫であるキリストに結ばれて、御霊を注がれて神様のために実を結ぶ者となるのです。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(4節)

 

(1)新しい夫、キリストの要求

 主イエスは私たちに、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所にきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいにやすらぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)イエス様にあって罪の重荷、律法の重荷を降ろしたのち、私たちは主イエスとくびきを共にして、主イエスのくださる荷を担って人生を歩んで行くのです。

 では、主イエスが私たちにくださる「負いやすいくびき」「軽い荷」とはなんでしょ  う。それは、主のご命令です。たとえば、

「『目には目で、歯には歯で』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとするような者には、上着もやりなさい。・・・『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ  5:38-44)

 これがどうして背負いやすく軽いくびきでしょうか。律法よりも、もっと要求水準が高いのです。律法が「奪うな」というならキリストは「与えよ」と言います。律法が「殺すな」というなら、主イエスは「愛せよ」と言うのです。

 

(2)新しい御霊によって仕える

 新しい夫であるキリストは、律法の水準ではなく、私たちに山上の説教(マタイ伝5章から7章)の水準を求めます。善悪を論じることでなく、十字架を負ってついて来ることを求めます。しかし、律法と決定的に違うことは、キリストは私たちに要求されると同時に、もし私たちが信仰をもって答えるならば、私たちのうちにあって、それを実行して下さることです。

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」このようにお求めになるとき、ある人は「こんなことは人間にはできないことですよ。」と言います。その人は敵を愛することはできません。けれども、信仰をもって「はい。私にはできませんが、おことばですから、あの人を愛します。」と答える人には、同時に主イエスは敵を愛する愛、敵のために祈る愛を注いで下さいます。あなたの信じる通りになるように。

 「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」主の御霊があなたの心にあって、このようにお求めになる時、信仰をもって「ハイ」とお答えするならば、主は同時に私たちが人の目の前にではなく、父なる神様の前に奉仕をする喜びを与えて下さいます。あなたの信じた通りになります。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、傷物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」このことばを聞いても「お金が大事です。やっぱり地上のことがすべてです。」と主のことばに反抗する人は、クリスチャンでありながら生涯地上の金銭に思いわずらって生きて行かねばなりません。しかし、主の命令に「ハイ」と信仰をを働かせて応答する者には、主イエスは天国の銀行がどんなにたしかですばらしいところであるかを見る目を開いて下さいます。そして、地上で富をも支配する自由な王として生きることができます。あなたの信じた通りになります。

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。・・なぜあなたは、兄弟の目の中のちりには目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」このことばを聞いても「でも、あの人は」と非難を続ける人は、神様に量り返されるのです。ですが、「はい」と人をさばく唇をとざして、主イエスのご命令に従う信仰の決意をする者の心から、主は裁く心を取り去って赦す心を恵んで下さいます。

 「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

 

 結び 

   主イエスを信じ、キリストに結ばれた私たちは、罪という主人に対して死んだだけでなく、律法に対しても死んだのです。したがって、律法は私たちに、「ああしろ・こうするな」と要求することはできません。もはや律法の呪いに対する恐怖は終わりました。

   キリストは私たちに、旧約の律法よりも高水準の要求をなさいます。旧約が「嘘をつくな」と言えば、新約は「真実を語れ」と求めます。旧約が「盗むな」と言えば、新約は「貧しい人に施すために働け」と言います。旧約が「殺すな」といえば、新約は「生かせ」と求めるのです。

   今は、キリストに結ばれて、内側に聖霊をいただいて、聖霊の力によって、キリストのこれらのご命令にしたがって生きていくのです。律法に縛られて正しく生きるのではなく、キリストの愛に迫られて、新しい御霊によって主に仕える。それがクリスチャンの人生です。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恩寵のみ・信仰のみ・聖書のみ

ローマ1:16,17、3:19-24

恩寵のみ・信仰のみ・聖書のみ

2017年9月23日 JECA北海道聖会 第1回メッセージ

はじめに

 ご紹介にあずかりました、日本同盟キリスト教苫小牧福音教会牧師水草修治と申します。このたびは、この宗教改革500年の記念の年、皆さんの大切な集会にご奉仕にお招きいただき、光栄に思っております。小さな土の器ですが、主のご栄光のためにご奉仕させていただきます

 宗教改革の年に聖書信仰というテーマですし、通常よりも、長めの時間をいただいておりますから、通常の聖書の解き明かしとしての説教とともに、宗教改革における「聖書のみ、恵みのみ・信仰のみ」というスローガンとその背景の歴史についても紹介したいと思っております。

 さて、私たちは今日、自分用の聖書を何冊も所有し、いつでもそれを母国語で読むことができる環境にあります。また、教会に出かければ聖書の解き明かしを日本語で訓練された説教者によって聞くことができます。しかし、これは決して当たり前のことではありません。2000年間の教会の歴史の中で、信徒一人ひとりが自分で教会に出かけて母国語聖書を閲覧できるようになり、自分の国のことばで解き明かしを聞き、さらに個人的に所有までもできるように実際的になってそれほど時間がたったわけではありません。そのようになった発端としての出来事マルチン・ルターによって始まった宗教改革です。ドイツ宗教改革スローガンは「恵みのみ(信仰のみ)」「聖書のみ」ということでした。これから、その経緯を例話としつつ、ローマローマ1:16,17、3:19-24の解き明かしをします。

 

1.中世ローマ教会の悲惨

(1)教会で聖書が忘れられる

 宗教改革について語るには、どうしてもマルチン・ルターその人について語らなければなりません。宗教改革においても、神のみことばの真理は、やはり人格を通して明らかにされたのです。神はマルチン・ルターという強烈な個性の霊的経験を通して、聖書に啓示されながら千年間も曇らされていた信仰義認の教理を再発見させたからです。

 まずこのルターの時代のカトリック教会の悲惨な状況をお話ししましょう。キリスト教会の二千年の歴史をおおざっぱに区切りますと、まず1世紀から5世紀までが古カトリック教会時代と呼ばれます。この時代、教会は帝国の迫害下にありましたが、教父たちによって聖書が読まれ、豊かに解き明かされ、正統的教理を確立しました。

次の6世紀から紀元後15世紀の1000年間は中世カトリック教会と呼ばれます。キリスト教会帝国の国教とされて、政府と対峙するほどの権力と富と名誉をもつようになります。ゲルマン民族が入り込んでフランスイギリスドイツイタリアといった国々の原型ができてきますが、それぞれの地域でもキリスト教国家宗教の地位を保っていました。しかし、富と権力と名誉を持つようになった教会は堕落していきます。権力者は教会の力を利用して、ローマ教皇に誰がなるかということに権力者権謀術数をめぐらせるようになっていきます。

 この中世には、教会では聖書が読まれなくなって行きます。当時、権威ある聖書はらラテン語聖書ウルガタでした。古代においてはラテン語は日常語でしたから、会衆は問題なく聖書を理解し儀式のことばも理解することができました。ところが、ローマ帝国が崩壊してヨーロッパ大陸にいくつもの国が生まれ、それぞれの国で特有の言語ができあがってゆくと、ラテン語はただ学者聖職者のみが理解することができる言葉となっていきます。礼拝のすべては一般人では理解できないラテン語で行われます。この中世においては、礼拝の中心は、聖書説教でなく、ミサという迷信化した儀式となっていきました。こうした状況は、1960年代までカトリック教会で続きます。

(2)神人協働説

 中世教会の教えの根本的特徴は、救いは神と人が協力して働いて救いというものは成り立つのだという考えです。神人協動説と呼ばれます。神様の恵みが90パーセントに人間のわざ10パーセントで、救いが成り立つという風なことです。

 ローマ教会では、救いの確信をもってはいけない、それは思い上がりであると教えますが、その背景には神人協働説があります。カトリックの教えでは、神に背を向けた極悪人死後、地獄に直行して出てこられません。では、天国に直行するのはだれかといえば、聖母マリア、聖人たちだけであり、ほとんどのクリスチャンは死後、天国に直行できず、煉獄に落とされるのだと教えました。むかし、ヨーロッパに出かけるとき、直接飛行機で行けず、アンカレジ経由で行きましたが、カトリックでは煉獄経由でしか天国には行けないというのです。では煉獄で何をするかといえば、煉獄という文字が示すように、火の試練でさんざん苦しんで罪の償いを済ませたならば、天国に入ることができると教えます。神の恵みが90パーセントあっても、人間の行ないが10パーセント不可欠だとすると、人はこの世と煉獄で自分の罪の償いをしなければならないということになります。  

 でも、なかなか俗世に生きる一般クリスチャンたちは、自分で努力して罪の償いができません。そこで、教会から、マリヤペテロをはじめとする聖人たちが積み上げたありあまる功徳を買うことによって、煉獄での償いを免じていただくことができるという嘘を教えました。もちろん、こんな教えの根拠は聖書に何の根拠もありません。これが免償つまり、償いを免じるという教えです。昔免罪符といいましたが、免償状といったほうが正確です。生前の生き方において罪が残っていて、煉獄に落ちたならば、その償いとして煉獄で苦しまねばならないけれど、遺族が死んだ人のために免償状をお金で買うことによって補うことができるというのでした。そのお金聖ペテロ寺院建設資金となるというものでした。 以上がルターが立ち上がった時代のキリスト教世界の風景です。

 

2 恩寵のみ

(1)きまじめな修道士

 さて1483年、ドイツのマンスフェルトで、マルチン・ルターは父ハンス・ルターの次男として生まれました。父ハンスの教育方針ドイツ人らしい峻厳なもので、ルターを悩ませた峻厳な神のイメージはこの父親の落とした影ではないかと言われます。父ハンスは鉱山夫から身を起こして坑山の所有者となっていた人物で、自分の息子には学問と名誉を手に入れさせたいと考えました。それで、マルチンをエルフルト大学文学部(現在の教養課程にあたる)に進ませます。

エルフルト大学で学んだルターは、卒業間近に、同級生試験中に急性肋膜炎で急死するという経験をしました。このとき、ルターは死の恐怖を体験し、自分自身も厳格な聖なる審判者である神の前に立たねばならないことを意識するようになりました。 やがて、マルチンは文学部を終えて彼は父の命令にしたがって法学部に入りました。当時、身分制度社会のなかで法律家になることは庶民の出世のための登竜門であったからです。

ところが、神にはルターについて別の計画がありました。法学部にはいった直後、ルターは故郷のマンスフェルトからエルフルトに戻る途中、激しい落雷に見舞われます。彼は死の恐怖におののき、「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります。」と修道士として自分の身を捧げる誓いを立ててしまいました。こうしてマルチンは父の期待に背いて、アウグスティヌス会の修道院に入ってしまうのです。落雷に打たれたルターが神、キリストにではなく、聖アンナに向かって祈ったというのは、ルター中世の迷信に縛られていたことを示しています。

 さて修道士となったルターはきわめて謹厳な修道士でした。ルター自身が後年、述懐するところによれば、「ほんとうのところ、私は敬虔な修道士であった。私は非常に厳格に修道会の戒律を守ったので、次のように言うことができる。『もしこれまでひとりの修道士でも修道士生活によって天国に入ったのなら、私もそこに入れるだろう。』と。私を知っているすべての修道士仲間は、そのことを証言してくれるだろう。なぜなら、もっと長く続いていたなら、私は徹夜、祈り、朗読、その他の務めで自らを苦しめさいなみ、そのため死んでしまっていたことだろうから。」

 しかし、彼が修道に徹して知ったことは、いかに苦行を重ねても霊魂の汚れを決してきよめることはできないという事実でした。

 やがて、ルターは資格を得てミサにおける儀式文を朗読する務めを果たさねばならない立場になりました。ミサについては厳格なルールがありました。祭服は正しく着なければならない。儀式文の朗読は低い声で口ごもらず、正確でなければならない。司祭の魂の状態は正しくなければならない。祭壇に近づく前に司祭はすべての罪をざんげして赦免を受けなければならない。ルターは恐れおののきました。自分は魂の汚れたものである。もしこのままミサをささげたならば、ちょうどあのウジヤ王が、祭壇でささげものをしたときのように、神に打たれ額にツァラアトが現れたように、自分も神に打たれるのではないだろう、と。 

自分で罪を清めることができないので、ルターは同僚の修道士に自分の生まれてこのかた犯してきた罪を思い出すかぎり洗いざらい懺悔しました。これを痛悔と言います。彼は一日に何度も懺悔しましたし、いちどきに6時間も続けて懺悔したそうです。ゆるしてもらわなければならない罪を、記憶をくまなくさがして告白します。くまなく告白して立ち上がると、告白し忘れていた罪を思い出し、また告白するのです。聴聞司祭は疲れ果てて、叫んだそうです。「おい、君よ。神はおまえに怒ってはおられない。君が神に怒っているのだ。神が希望をもてと君に銘じておられるのを、君は知らないのか。」

人間はしばしば自分の犯した罪を忘れます。それどころか、良心の呵責すら感じないで罪を犯すのです。ルターのことばに、「アダムと女は禁断の木の実からとって食べるという罪を犯しながら、それも忘れて平気でエデンの園で夕涼みしていることができたではないか。」「ヨナは主のご命令に背きながら、船倉で熟睡していたではないか。」というのがあったと記憶します。

痛悔をしてみて、さらに彼は恐ろしい自分の罪を知ることになります。痛悔とは洗礼後に犯した罪が赦されるために設けられたローマ教会の秘蹟ですが、痛悔には完全痛悔と不完全痛悔があるとされます。

完全痛悔とは、「父である神と救い主イエス・キリストを愛する心から、その愛に背き、その恩を無視したという理由から、犯した罪を悔やみ、忌み嫌う」ことであり、完全痛悔する者のみが神に罪を赦していただけるのです。

他方、不完全な痛悔とは「罪を罰する神の正義を考え、地獄、煉獄、この世における神の罰を恐れて、犯した罪を悔やみ、忌み嫌うこと」です(『カトリック要理』)。不完全な痛悔では神と和解することはできない、とされるのです。

 ルターは不完全な痛悔に陥ってにっちもさっちもいかなくなってしまいます。というのは、ルターは神の正義と神の下す罰にふるえおののいていたからです。ルターは、自分が神を信じるといっているのは、煉獄の罰から救われたいという動機からにすぎず、神を愛し、罪を憎んでいるからではありませんでした。自分は自己追求という罪によって汚れており、この自己追求こそ罪の根源でした。そして、どんなに苦行しても自己追求という罪から逃れることができない醜い自己に絶望したのでした。まさにローマ書3章19-20節のいうとおりです。

「3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

 

(2)エラスムスが卵を産み、ルターがかえした

 ルターはいかなる意味でも、自力救済の道は閉ざされていることを認めました。悩むルターは、人に勧められてヴィッテンベルク大学の一角の塔の一室で聖書研究を始めます。

聖書を読むことは、現代では私たちプロテスタントキリスト者にとってあまりにも当たり前の習慣でしょう。しかし、当時のローマ教会では修道士でさえも、聖書を読むことは当たり前のことではありませんでした。

 先に申し上げたように、古カトリック教会の時代には教会は聖書に取り組んで、教父たちは豊かな聖書講解や注解が残されていますが、中世に入りますと教会の礼拝の中心はミサを中心とする儀式にあずかることになっていきます。

 しかし、やがてルネサンスが始まります。ルネサンス運動は、ギリシャローマ芸術文学や思想に素晴らしいものがあったのだということを発見し、その復興を志します。その中でそして、その古代文学や思想を正確に知るために、ギリシャ語ラテン語で原典を読む運動が始まりました。こういう学問を身に着けた人々をフマニストと呼びます。現代いうヒューマニズムとは意味がちがいます。人間の人間たるゆえんはことばを操ることである。だから、古典を正確に読むことによって、人間を復興できると考えるのです。ですから、フマニストは人文主義者と訳します。

 ルターの時代、ヨーロッパ世界随一のフマニストがエラスムスでした。エラスムス新約聖書ギリシャ語校訂版を作ったのでした。ルターエラスムスによる校訂ギリシャ語聖書の第二版を読み、そこに福音を発見したのです。宗教改革について、「エラスムスが卵を産み、ルターがそれをかえした」と言われる所以です。

 

(3)「恵みのみ」sola gratiaの発見

 ところが、ローマ書を研究しはじめたルターは、すぐにその一章十七節につまづいてしまいました。「神の義は、その福音のなかに啓示されている。」

ルターはこの「神の義」とは、神が正義であり、その義によって罪人を罰する義であると考えました。神は、律法を行うことができずにうちひしがれている罪人を、福音のうちに啓示される義によってさらに苦しめていると彼は誤解したのです。ルターは後年、次のように言っています。

「私は義にして罪人を罰する神を愛さず、むしろ神を憎んでいた。なぜならば、私は非の打ち所のない修道士として生きて来たにもかかわらず、神の前で自分が良心の不安におののく罪人であると感じ、私の償罪の行いによって神と和解していると信じることができなかったからである。」

 しかし、やがて聖霊ルターに福音の真理を明らかにされました。すなわち、ローマ書にいう「神の義」とは、正義の神が罪人をさばく義でなくて、神が罪人にお与えになる贈り物としての義であると悟ったのです。ローマ書3章21-24節にあるとおりです。

 「 3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリストイエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

ルターは言います。「神の義は、この方が義である義ではなく、われわれがこの方により義とされる義と解されねばならない。」(「ローマ書」)神は、罪人がいかに修業しようと自分を義とできないので、キリストの義を贈り物として与えてくださったのです。これが、人は行いによらず信仰によって義とされるという使徒パウロの福音の発見、「恩寵のみ」という宗教改革の原理でした。

 その恩寵を受け取るのが、乞食の空っぽの手としての信仰です。それで、「恩寵のみ」と「信仰のみ」は同じことを意味しています。救いは、神の恵みと、人間のわざとがともに働いて成し遂げられると教えていたローマ教会に対して、いや、救いはただ神の恵みによって成し遂げられるのである。人間はただその恵みを、乞食のように空っぽの手でありがとうございますと受け取るのみであるということです。

 「恩寵のみsola gratia、信仰のみsola fide」です。

 

3 「聖書のみ」・・・宗教改革

 当時、ローマ教会は聖ペテロ寺院改築のために免償状を売り出していました。ローマ教会では、クリスチャンとは言っても、聖母マリヤや聖人しか死後天国に直行することはできず、ほとんどのクリスチャンは煉獄に落ちると教えました。そして、煉獄の苦しみを減らしてもらうには、教会から免償状を買えばよいと教えたのです。免償状説教者は、「免償状を買う者の金がチャリンと献金箱の中に落ちるとき、その者のあらゆる罪は赦され、さらに煉獄で苦しんでいるその人の親も罪赦されて天国へと移される」と説いていたのです。日本風にいえば、追善供養です。

 1517年10月31日ルターはこれに抗議して、「九十五か条の提題」を発表しました。彼としては宗教改革など起こすつもりはなく、ただ神の御前における罪が免償状を買うという安易な行ないによって赦されるという教えは、魂を永遠の滅びに陥れる危険なものであるとして、抗議をしたのです。彼がいいたかったことは、

<人は免償状を買って、「神に罪赦された、平安だ」と思った瞬間、滅びてしまう。逆に、人は自らは神の御前に滅ぶべき罪人であると恐怖しておののくときにこそ、ただキリストのうちに贈与としての義を見いだす道が開かれる。>という、ルター自身が体験し聖書見出した福音の真理でした。

 ルターは、ただ聖書の博士として教会の教えを正したいと思ったにすぎません。ところが、神のご計画は違っていて、事態はこの後、ルターにとって思いがけない方向へと展開してゆきます。ローマ教会当局は、ルターにその見解を取り消さなければ異端として破門すると通告して来たのです。

一五一九年のライプチヒ論争では、ルターは、100年ほど前(1415年)教皇に盾突いて火刑に処せられた、ボヘミヤのヤン・フスと同意見の異端であると断じられました。しかし、さらにルターは文筆活動をもって教皇制度の批判を展開していきます。そのため、彼はついに教皇から破門状を出されますが、これをヴィッテンベルクの全学生の前で公然と焼却してしまうのです。

 さらにルターは1521年4月16日から26日のヴォルムス国会に召喚され、その著書を取り消すことを最終的に求められました。拒否すれば、ヤン・フスと同じように火刑が待っているという状況です。時にルターは言いました。

皇帝陛下ならびに領主が単純な答えを求めておられますので、私は両刀論法を使わずに、次のように答えたいと思います。即ち、聖書の証しによって、あるいは明白な理由と根拠によって--なぜなら、私は、教皇公会議もそれだけでは信用していません。というのも彼らがしばしば過ちを犯し、矛盾したことをいってきたのは明白なのですから--克服され、納得させられないかぎり、私はすでに述べたように、聖書に信服し、私の良心は神のみ言葉にとらわれているのですから、私は取り消すことはできないし、また取り消そうとも思いません。(後略)」

これぞ宗教改革の形式原理「Sola Scriptura聖書のみ」の宣言でした。

ヴォルムスの国会が終わって処分が下る前に、ルター5月17日に数名の騎士たちに捕らえられて行方不明となってしまいます。暗殺されてしまったのだという噂が流れ、ドイツの希望は消えたと嘆くむきもあったが、実際には、ルターを支持するフリードリヒヴァルトブルク城に彼をかくまったのでした。ルターは、そこで歴史上はじめて聖書ドイツ語訳をしてゆくのです。まさに、「聖書のみ」を具体化・現実化していったのです。

結論 宗教改革の二大原理

(1)「聖書のみ sola scriptura」:形式原理

 ルターの足取りから宗教改革の二大原理があきらかになりました。宗教改革の形式原理と言われるのは、「聖書のみ」が教会における第一の権威であるということです。ローマ教会は今日に至るまで聖書とともに「聖伝」というものを教会の権威としています。『カトリック要理』によれば、「聖伝とは古代教会の信仰宣言、公会議、教導職の証言、古代教会の記録、教父たちの著作、古代からの礼典などによって示されている」もので、これらは「使徒たちがキリスト聖霊から受け、教会に伝えた」とされています。ルターは<「聖伝」も過ちを犯し矛盾したことを言っており、ただ聖書のみが教会の上に立つ権威である。そして、公会議はそれ自体は信仰を拘束する権威を持つものではなく、ただ聖書と一致するかぎりで承認されるものである>(『公会議と教会について』)。教会にとっての権威は、「聖書のみ」です。

(2)「恩寵のみsola gratia、信仰のみsola fide」:実質原理

 では、形式原理たる聖書が宣言する真理の中核つまり実質原理はなんでしょうか。それは、「恩寵のみ、信仰のみ」です。「恩寵のみ」は客観的な言い方で、「信仰のみ」は人間の側からの主体的な言い方ですが、両者とも実質的に同じことを意味しています。

 「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であて、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ三:二十-二二)

 神は罪人に律法と福音によって働きかけられます。律法は人間が何をなすべきかを教え、かつそれをなし得ない罪の病の現実をあらわにし、福音はこれを癒す薬を与える。福音のうちには神が罪人に与える贈り物としての義が啓示されていて、人はこれをただ信仰によってのみ受け取るのです。しかも、その信仰は、聖霊によって引き起こされる再生の最初の要素です。したがって、罪人の救いは100パーセント神の恵みにかかっている。まさに、「恩寵のみ Sola Gratia」です。