水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 闘いの祈り   

詩篇第6篇                                                    

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌

6:1主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。
6:2主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:4主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。
6:6わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
6:7わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:8すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。
6:10わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

 

 この詩篇は私にとってたいへん印象深く思い出深い一篇です。私が神学校1年生のとき、父がガンで余命半年を宣言され神戸で最期の床に臥せっていたときに、東京の神学校におりました私はこれにシューマンの曲を付けたものをいくどとなく歌ったものでした。歌ったというよりも祈ったものでした。

 また、その1年後、朝岡牧師がガンとの壮絶な戦いを経て天に凱旋された後、神学校で開いた詩篇を歌う会で白石君が詩篇第六編を歌ったことを覚えています。日頃、クールな白石君が、絶句して歌えなくなり私が後半を歌いました。詩篇第六編は、魂から絞りだされる叫びであり、嘆きであり、そして勝利の祈りなのです。

 

1.苦難に主の怒りを見る(1-3節)

 

 「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私をこらしめないでください。」と詩人ダビデは叫びます。いったいどういう状況の中に彼は置かれたのでしょうか。

8節にあるように彼は「不法を行なう者ども」に取り囲まれ、10節にいう「敵」から攻撃を受けていたのです。そして、彼は肉体的にも弱り果て、骨は震えるほどであり、魂もおののいていたのです。(2、3節)

6:2 【主】よ。私をあわれんでください。

  私は衰えております。

  【主】よ。私をいやしてください。

  私の骨は恐れおののいています。

 6:3 私のたましいはただ、恐れおののいています。

  【主】よ。いつまでですか。あなたは。

 

 しかも、その状況をダビデは、主の御怒りの現れとして認識しているのです。主が私に怒りを燃やしていらっしゃる。主が私を憤っていらっしゃるのだと彼は認識したのです。

「主よ。御怒りをもって私を責めないで下さい。」

 

 あらゆる状況のなかに主の御手を見いだすこと。これはダビデの信仰でありました。ダビデの生涯をたどるとき、彼がこの詩篇のような状況に置かれたと考えられるのは、アブシャロムの反乱のときエルサレムから逃れて行くときのことでしょう。実の息子に背かれ、エルサレムを出て裸足でオリーブ山を登って悔い改めたダビデです。ダビデ一行がバフリムまで来た時、サウルの家系の者のシムイがダビデを呪ったのでありました。2サム16:5-14

 ダビデは、この事件では神の怒りの御手が自分の上にくだっていることを実感しないではいられませんでした。シムイのいうことは不当なことであり、誤解でもありました。けれども、ダビデはあえて反論しようとしませんでした。言い返そうとしませんでした。彼がシムイその人を見ていたならば、言い返したでしょう。仕返しをしたでしょう。けれども、彼はシムイを見ていたのではなく、主の御手を見ていたのです。2サム16:10-12節。

ですから、ダビデは「主よ。御怒りで私を責めないで下さい。」と祈るのです。

 

 あらゆる状況において主の摂理の御手を見るということ、これがまず今日の詩篇に学ぶことです。私たちの身の回りに起こること、格別苦難ということについて、何一つ無意味に起こることではありません。たとえ、そこに悪しき人々の悪だくみや悪魔の働きがからんでいたとしても、究極的に神様のご支配があるのです。試練については特にこう言われています。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5)

 「主の懲らしめを軽んじる」とは苦難を単なる偶然の出来事、災難としてしか見ることをせず、このことを通して主に向かい合おうとしないことです。ある人が、「病気は生き方を考えさせる神の促し」と言いました。病気だけではありません。私たちは順境にあっては主に感謝し、逆境にあっては反省して主と向かい合うべきです。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後のことを人にわからせないためである。」(伝道者7:14)

 

2.嘆願の激しさ・執拗さ

 

 次に私たちがこのダビデの祈りに驚くのは、その嘆願の激しさと執拗さではないでしょうか。4節から7節。

 6:4 帰って来てください。【主】よ。

  私のたましいを助け出してください。

  あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。

 6:5 死にあっては、

  あなたを覚えることはありません。

  よみにあっては、

  だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

 6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、

  私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、

  私のふしどを押し流します。

 6:7 私の目は、いらだちで衰え、

  私のすべての敵のために弱まりました。

 

 

 祈りは禅坊主のような悟り澄ましたものではありません。禅坊主は「無」を前にして沈黙し、なにごとかを悟るのだそうです。人格的な神を知らぬ彼らとしては、それ以外ないからでしょう。しかし、聖書的祈りとは今生きて働かれる人格の神をかきくどくことであり、生ける神との激しい格闘なのです。

アブラハムはソドムのとりなしにおいていくどもいくども、主なる神がついにはへきえきするまで粘り強くその助命を嘆願しました。ヤコブは主と相撲を取り、主に勝利者と呼ばれました。モーセイスラエルの民に対して怒りを燃やされる主の前に立ちはだかって、イスラエルを滅ぼすなら私をまず殺してからにしてくださいとまで言いました。

 そして、私たちの主イエスのゲツセマネのあの三時間にわたる祈りについてヘブル書はこう記しています。「キリストは、人としてこの世におあられたとき自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

  私たちの祈りはどうでしょうか。安易に「みこころのままに」と言うことによって悟り澄ましたような、実はいんちきの、怠慢な、口先だけの祈りに堕してはいないでしょうか。

 

3.恵みのゆえに

 

 とはいえ、ダビデの祈りはただ激しいだけのものではありませんでした。ただ単に頑固で自己主張が強いというものではありませんでした。彼の祈りがここまで粘り強くありえたのは、彼の自我の強さのゆえではありません。彼は主というお方をよく知っていました。ダビデは悔い改めつつ祈っているのです。

 ダビデはこう祈りました。4節。「帰って来てください。主よ。私のたましいを助けだして下さい。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」「あなたの恵みのゆえに」とダビデはいいました。「恵み」とはなんでしょうか。恵みとは「祝福を受ける資格のない者に注がれる、神からの一方的な祝福」のことです。

 ダビデは、自分が神から祝福を受けて当然であるなどとは思っていませんでした。彼は自分は今、神から懲らしめを受けるべき人間なのだとわかっていました。今、彼の上に主の御手がくだっていると認めていました。そして、彼は自分の義に訴えて、神様に救いを求めているのではないのです。彼は自分は「私はこれこれこれだけ立派なことをしてきましたから、神様あなたは私を救うべきです。」などと愚かなことは言わないのです。神の御前に立つ時、仮に自分が良いことをなしえたことがあったとしても、すべての良きことは神様の恵みによってさせていただいたのですし、すべての悪いことは私たちが自らなしたことなのですから。

 しかし、ダビデは救いを求めえたのです。どうしてですか。「あなたの恵みのゆえに」です。「主よあなたは恵みとまことに満ちたお方です。滅ぼされて当然の、この私をも哀れむとお約束くださったお方です。私によきところはありませんが、あなたはよいお方です。ご自身の結ばれた契約に対して真実なお方です。あなたは恵みに満ちたお方です。ですから、私はあなたの恵みゆえに救っていただけると望みを抱いているのです。」というのです。

  私たちの祈りが弱々しいときは、自分の義によりたのもうとするからです。私たちの祈りが力強いときは、主の恵みとまことによりすがるときです。

 

4.勝利の確信を得る(8-10節)

 

 嘆きと叫びと涙にはじまった祈りは、ついに勝利をもって終わります。

 

 6:8 不法を行う者ども。みな私から離れて行け。

  【主】は私の泣く声を聞かれたのだ。

 6:9 【主】は私の切なる願いを聞かれた。

  【主】は私の祈りを受け入れられる。

 6:10 私の敵は、みな恥を見、

  ただ、恐れおののきますように。

  彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。

 

 

 祈りの戦いを戦い抜いたとき、勝利の確信を得たのです。そのとき、まだ肉眼では状況は変わってはいないのです。ダビデを取り囲む敵は減っていません。けれども、祈り抜いたとき、ダビデは「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」と確信したのです。

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)と主イエスがおっしゃった通りです。この確信と平安とに至るまで祈り抜くことがたいせつなのです。聖歌256番の四節にも、「祈れみわざは必ず成ると信じて感謝をなしうるまでは。」とあります。ヤコブモーセも主イエスも祈りの戦いの後に、確信にいたって新しい歩みをしています。ヤコブは、あなたはイスラエルという祝福ある名をいただきました。モーセは、主御自身がいっしょに行くと約束をいただきました。主イエスは、十字架に苦しみを受けた後に、死者のなかからよみがえらせていただけるという勝利の確信をいただきました。そうして、確信をもって新たな歩みをそれぞれにしたのです。

 私たちの祈りにおいてたいせつなことは、この主への賛美と感謝と平安にまでつき抜けることです。「すでに得たり」と信じうるまでに御心を求め、御心を確信することです。嘆きは賛美に変えられ、願いは感謝に変えられ、不安は平安に変えられるのです。

 

結び

 ダビデは祈りの発端において苦難に主の怒りを見ました。しかし、ダビデは自分の義ではなく神の恵みによりすがって執拗な祈りの戦いを展開しました。そして戦いの到達点において、恩寵が苦難を乗り越えるのを見たのです。そして、確信を得、賛美にいたったのです。  

十字架を覆った暗闇

マルコ15:33-34

神殿の幕は破棄された(1)

マルコ

 15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

 15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

 

1.イエス様が十字架にかかられた時間

 

  マルコ福音書には、主イエスが十字架にかかられた時刻について記録があります。

「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」(マルコ15:25)

「 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。」(マルコ15:33)

 つまり、午前9時から午後3時までの6時間、イエス様は十字架についてくださったのです。この6時間は、午前9時から正午までと、正午から3時間とでずいぶん様子が異なっています。すなわち、前半は主イエスはじりじり照りつける太陽の下で十字架にかかっていらしたのですが、後半は暗闇に覆われていたという違いです。

 前半は十字架の下の人々がイエスをひどいことばで罵ったりして騒然としていました。そういう状況の中で、ルカ福音書の並行記事では十字架上のイエスが自分を十字架にかけた人々のために、「父よ彼らを赦してください」と祈ったり、隣の十字架上の死刑囚のために個人伝道をして救いに導いたといった記録があります。ヨハネ福音書の並行記事には、主イエスは残してゆかねばならない母マリヤを気遣って、愛弟子に託したりしたことが記されています。

 それに対して、正午、太陽が光を失いあたりは真っ暗になったあとは午後3時までいっさいが沈黙してしまいます。イエスさまも沈黙なさっていますが、十字架の周囲の人々の声も記録されていません。そして、午後三時になると、主イエスは暗闇を引き裂くように「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫び、「父よ。わが霊をあなたに委ねます」と言って亡くなられたのです。

 日差しの下、人々がイエスを嘲り、イエスは彼らのためにとりなし祈るという前半三時間。そして暗闇と沈黙の三時間と、その後のイエスの「わが神、わが神」という叫びと死。前半、主イエスは十字架の苦しみを忍びつつある程度の余裕をもっていらっしゃいました。この間、イエス様に対してなされた懲らしめは人間たちによるものでした。 しかし、後半の三時間、イエスは暗闇と沈黙の中で苦悶してひとことも発せられませんでした。この暗闇の中で何が行われていたのでしょうか?

 

2.暗闇

 

 次に、主イエスが十字架にかかっておられた後半の3時間、あたりを覆った暗闇は何であったのか、その意味は何だったのかについてお話しますです。

27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 (1)暗闇が歴史的事実であること

 正午から、いったいどのような仕組みで全地が三時間にもわたって暗くなったのでしょうか。黒雲が空を覆ったのでしょうか。そうではありません。ルカ福音書23章44節の並行記事には「太陽は光を失った」と記されています。太陽が光を失うことによって、全知は闇に閉ざされたというのです。そんなことがありえるでしょうか。この記述はよくある文学的フィクションなのでしょうか。

 当時、パレスチナからはるか遠く小アジア半島にフレゴンという人がいました。彼は日記をつけるのが趣味という人でした。そのフレゴンが、このときに起こった未曾有の大日蝕の記録を残しています。もちろん、この小アジアにおいたフレゴンは、イエスのことを知りませんし、このとき、はるか遠いパレスチナエルサレム城外の丘で何が起こっているのかを知る由もありません。そのフレゴンがこのように書き残しているのです。原文はラテン語です。

Quarto autem anno CCII olympiadis magna et excellens inter omnes quae ante eam acciderant defectio solis facta; dies hora sexta ita in tenebrosam noctem versus utstellae in caelo visae sint terraeque motus in Bithynia Nicae[n]ae urbis multas aedes subverterit.

「第202回のオリンピック大会の第4年目、日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であった。昼の第6時(すなわち正午)、星が見えるほどの夜となった。ビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した。」

   出典 http://www.textexcavation.com/phlegontestimonium.html

 「星が見えるほどの夜」とありますから、黒雲が空を覆ったのではないことがわかります。ルカ伝に記録されるとおり「太陽が光を失っていた」のです。

 フレゴンのいう第202回のオリンピック大会の第4年目というのは、西暦でいうと32-33年にあたります。まさに主イエスが十字架にかかられた年です。その年のユダヤ暦ニサンの月14日(ユリウス暦4月3日)、この古今未曽有の3時間にもおよぶ大日食が、全地を暗くしたということがわかります。神の御子であるイエス様がゴルゴタの丘の十字架にかかった六時間のうち後半三時間、闇が全知を覆ったのは、歴史上の事実なのです。

 

)暗闇の意味

 では、あの西暦33年ユダヤ暦ニサンの月の第15日の朝9時から午後3時、太陽が光を失って世界を覆った三時間の暗闇の意味はなんだったのでしょうか。まず、この暗闇は単なる自然現象としての日蝕ではありえません。調べてみましたら、皆既日食は最長で7分半ほどであり、金環日食で11分ほどです。ところが、あの日の暗闇は3時間にもわたったのです。 さらにまた、ユダヤの過越し祭の食事の夜は満月と決められていますが、満月の時には日蝕は物理的にありえません。したがって、主イエスが十字架にかかった日の古今未曽有の暗闇はただの自然現象でなく、神が引き起こされた特別な奇跡でした

 聖書において、神が時に起こされる奇跡を「しるし(セーメイオン)」と呼びます。しるしとはサインです。サインというものは、私たちがその意味をキャッチしなければなりません。神様は「御子イエスが十字架にかかった後半の3時間、太陽の光を失わせ闇で地を覆う」というサインを用いて、私たちに何を悟れとおっしゃっているのでしょうか?何を読み取れとおっしゃっているのでしょうか?

 それを理解するには、神さまが聖書のなかで「暗闇」がなんの表象(しるし)として用いていらっしゃるのかを理解する必要があります。旧約聖書の預言書には「暗闇」という印について次のようにあります。

アモス8:9「その日には、―神である主のみ告げ―わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに知を暗くし・・・」

ヨエル2:31「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」

ゼパニヤ1:14,15

「【主】の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。

 聞け。【主】の日を。勇士も激しく叫ぶ。

 その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、

 やみと暗黒の日、雲と暗やみの日」

 

これら預言者たちのことばを読めば、神が「暗闇」という「しるし」を用いて、終末の審判において罪人に下される神の聖なる御怒りを表現しようとなさっていることがわかります。神は聖なるお方であり、正義の審判者です。神は忍耐強く哀れみ深いお方であり、私たちの悔い改めを待っていてくださいますが、最後の最後には歴史に審判をくだし、決着をつけられるのです。その日には、隠されていたすべての罪が明るみにだされて、公正な審判がくだされ、罪人には聖なる怒りが下ることになります。

 かつてエジプトにおいて、ヘブル人を苦しめるエジプトを懲らしめるために、神はエジプトの上に十の災いをくだされました。第一の災いは血、第二の災いは蛙・・・・そして第九番目の災いはエジプト人たちを覆う暗闇でした。そして、第十番目の災いは、エジプトのすべての初子が撃たれるという恐るべき災いでした。そのとき、神が命じられたとおりに小羊をいけにえとしたヘブル人たちは災いを免れました。

 主イエスのタラントの譬えの中で、悪い不忠実なしもべが、主人が戻ってきたときに、外の暗闇に追い出されて歯ぎしりをするとおっしゃいました。暗闇は終わりの審判において罪人に下される聖なる御怒りを表しているのです。

 

 以上からわかることは、二千年前、あのゴルゴタで主イエスが十字架にかけられたとき、十字架の主イエスを覆い全地を覆った暗闇は、父なる神から、神の聖なる刑罰の表象であったということです。神の聖なる裁きが、あの三時間、尊い御子イエスの上に下されたのです。あの暗闇の三時間は、本来、私たちが受けるべき永遠の呪いが詰め込まれた三時間でした。

 御子は闇の中で、天を仰いで父の御顔を捜し求めました。御子はこの世界が造られる前から、どんなときでも御父との親しい愛の交わりのうちにおられました(ヨハネ17:5,24)。父の許を離れて、この世に降られて後も、その伝道生活のなかで御子はしばしば荒野に退いて父との交わりのうちに、平安と喜びと力とを得ておられました。天から「これはわたしの愛する子である。わたしはこの子を喜ぶ。」というやさしく力強い父の声さえも響いたのです。

 しかし、呪いの暗闇が全地を覆ったとき、御子がどんなに父の御顔の光を求めても、何も見ることはできませんでした。御子は「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれたとき、天の父は耳を覆って、最愛の御子から顔を背けられたのでした。

 

3 御父の思い

 

 御子イエスが暗闇の中で、天を振り仰いでみ父の御顔を探されたとき、天の父はどのような思いでいらしたのでしょうか。御子を見放した父は冷酷なお方なのでしょうか。父の御心を少しでも理解するために、私たちはこの出来事のさらに2000年前アブラハムがモリヤの山で愛するひとり子イサクをささげた記事を思い起こしましょう。アブラハム75歳、妻サラ65歳で、神の約束の地へと旅立ち、それから25年がたち、ついに待ち望んだ子が生まれ、その子をイサクと名付けました。その名の意味は「彼は笑う」でした。神が、アブラハムとサラとに笑いかけてくださったからです。

 約束の子イサクはアブラハムの宝でした。いのちでした。彼と妻の四半世紀の信仰生活の結晶でした。愛するひとり子イサクをアブラハムは愛し慈しみ育てました。ところがある日、アブラハムは神のお声を聞きます。

アブラハムよ」アブラハムは「はい、ここにおります」としもべとしての答えをしました。すると、神は恐るべき命令をお与えになりました。

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

 自分の宝、自分のいのち、彼の信仰の生涯の唯一の希望。星の数ほどの子孫が現れ、世界中は祝福されると約束された子、それが独り子イサクでした。その子を全焼のいけにえとしてささげよと、なんとも不可解なご命令を神はお与えになりました。アブラハムは胸引き裂かれました。神の約束を信じて故郷を旅立った日から今日まで、さまざまなことが彼の脳裏を去来したでしょう。神の約束と神のご命令が正面衝突している、この状況にあって、アブラハムはあくまでも神の約束を信じ、神のご命令にしたがったのです。そして、すんでのところで神は彼の友をお助けになりました。

 紀元前二千年モリヤの山でのアブラハムのイサク奉献の出来事は、その二千年後に、同じ場所で神ご自身が行われるイエス・キリストの十字架の出来事の型でした。天の父は、私たちを罪の呪いから救うために、尊いひとり子、愛するひとり子をいけにえとしてささげられたのでした。神の思いは、神の友アブラハムが知っています。

 御子を十字架においてささげた父の心を偲ぶ岩淵まことさんによる賛美歌。

 

         

 父の涙

 

心に迫る父の悲しみ 愛するひとり子を十字架につけた

人の罪は燃える火のよう 愛を知らずに きょうも過ぎて行く

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 

父が静かに見つめていたのは 愛するひとり子の傷ついた姿

人の罪をその身に背負い 父よ 彼らを赦してほしいと

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 

 

祈りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝一番に祈る

詩篇5篇                                                           

 聖歌隊の指揮者によって笛にあわせてうたわせたダビデの歌

5:1主よ、わたしの言葉に耳を傾け、
わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2わが王、わが神よ、
わたしの叫びの声をお聞きください。
わたしはあなたに祈っています。
5:3主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。
わたしは朝ごとにあなたのために
いけにえを備えて待ち望みます。
5:4あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。
悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
5:5高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。
あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。
5:6あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。
主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。
5:7しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、
あなたの家に入り、
聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。
5:8主よ、わたしのあだのゆえに、
あなたの義をもってわたしを導き、
わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
5:9彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、
そののどは開いた墓、
その舌はへつらいを言うのです。
5:10神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、
そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、
その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。
彼らはあなたにそむいたからです。
5:11しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、
とこしえに喜び呼ばわらせてください。
また、み名を愛する者があなたによって
喜びを得るように、彼らをお守りください。
5:12主よ、あなたは正しい者を祝福し、
盾をもってするように、
恵みをもってこれをおおい守られます。

 

 

 

 

 

1.朝一番の祈り

 

「私の言うことを耳に入れて下さい。主よ。私のうめきを聞き取ってください。

 私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」

 

 このようにダビデ王の朝の祈りは始まります。この朝の彼の祈りは「うめき」でした。今から始まろうとする一日、困難が予想され、敵があることを思うときに、彼はうめくような思い、叫ぶような思いにさせられるのでした。王という職務についていれば、毎日毎日むずかしい懸案があることでしょうからもっともなことです。

  しかし、ダビデは祈っています。「私の王、私の神」と。ダビデは王ですが、自分が最高責任者であると思うと責任の重さに押しつぶされてしまいますが、ダビデは自分がてっぺんにいるのではなく、神が自分の王として君臨してくださるのだということに安心を得ているのです。神は、王として彼の叫びに耳を傾けてくださるのです。祈りはあるときには整えられた美しいことばで祈られることもありましょう。けれども、主は、かりに私たちの祈りがそのような美しいことばでなくとも、うめきであろうと叫びであろうと、私たちの祈りが魂の奥底からの真実であるかぎり、それを聞いてくださるのです。

 「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。

  朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」 

                                                                        

 朝、一番に祈るということはとてもたいせつなことです。旧約の聖徒たちも、そして私たちの主イエスも、新約の時代の先輩たちも、主のために実り多い生涯を送った聖徒たちはことごとく朝の祈りをたいせつにした人たちでした。ほかの詩篇で見るならば、

59:16「まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。」

88:13「しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。」

 

 主イエスのガリラヤ伝道の初日は多忙をきわめました。翌朝、弟子たちはくたびれはてて泥のように眠りこけていました。しかし、その時、主は暗いうちから祈っていらっしゃいました。福音書はこう記しています。

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)

 「絶えず祈りなさい」と聖書は命じるのですから、私たちは心で祈りつつ一日中過ごします。クリスチャン生活は二十四時間祈りです。けれども、同時に特別に主の御前に静まって祈りの時を一日のうちに持つ必要がある。それは朝一番です。何をするよりも先に、まず主に祈ることが必要です。家族に「おはよう」という前に、まず神様に「おはようございます」とあいさつすべきです。新聞を読む前に、ニュースを聞く前に、仕事をする前に、とにかく起き上がったら、神様にご挨拶します。 朝一番の祈り、ダビデにそれが必要でした。神の御子である主イエスにさえそれが必要でした。ましてや、弱い私たちにはなおのこと、神との交わりとしての朝の祈りが必要です。

 なぜでしょうか。それは、虎視眈々と私たちの魂をつけねらっている悪魔がこの世にいるからです。なんとかして、私たちを誘惑し、罪を犯させ、落胆させて、神様の役に立たぬ者にしてしまい、私たちを滅ぼしてしまおうとするやからがいるからです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよ

うに、食いつくすべき者を捜し求めながら、歩き回っています。」(1ペテロ5:8)

 そこでダビデは祈ります。

「朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」

 何があろうととにもかくにも朝明けに祈る。最優先順位に朝の祈りをもってくることです。主婦など聖書を味わうことまで含めた朝まとまった時間が取れないとしても、まず祈る。聖書は人心地ついてからだとしても、まず静まって祈ることです。それは10分あればできることです。

 

2.聖別(4-7節)

 

 神様に向かって祈りのうめき、叫びをあげて、しばらく心静めると、神様のきよさが感じられます。朝の祈りにおいてたいせつな第一のことは、「ああしてください。こうしてください。」とお願いを並べたてることではありません。お願いもよいことですが、それが一番ではない。

 何が第一にたいせつか? それは主と向かい合うことです。そして、主に触れることです。主を知ることです。主に知って頂いていることを知ること。そして、主に自分の身も心もゆだねることです。みことばを味わあったあと、そのとき問いの最初はかならず「神様はどのようなお方ですか?」ということです。神様がどのようなお方であるかということを御言葉を通して思い巡らし、このお方に向かって祈るのです。                                                                             

 神様はあなたの便利屋ではありません。神様は朝早くあなたの注文を聞きに来たご用聞きではありません。神様はあなたの主であり、あなたの友となってくださったのです。愛するとは、まず相手に関心を持つことです。相手がどのような趣味があるのか、どのような性格なのか、どのような生い立ちなのか。人格を愛するならば、私たちは相手がどのような人なのかを知りたくなるものです。ただ自分の言いたいことを言い、注文をつけて「はい。ではようなら。」というならば、よくてご用聞きに注文をしているようなものです。神様をご用聞きや自動販売機のようにあつかうような失礼が許されるはずがありましょうか。それでは、あなたが主であって、神様があなたの奴隷ということになってしまいます。そんな祈りを主はお聞きになるでしょうか。逆でしょう。

 どうすればよいか。まず神様の御名をお呼びする前、1分、二分心静めしばらく唇を閉ざして、神様御自身がどのようなお方であるかを聖霊様の導きのうちに味わうことです。そして、最初の呼びかけになります。

「天の御父様」

「私を愛の大盾で囲んで下さる神様。」

「聖なる神様」

「私の羊飼いなる神様」

「歴史の支配者である神よ」「天地万物の造り主なる神様」

 祈りはこの最初の神様への呼びかけで導かれます。

 

 この朝の祈りでは、ダビデの前に神様は「私の王」つまり、正義のさばき主として立ち現れてこられました。

「あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいはあなたとともに住まないからです。」(4節)

と。この神認識があとの祈りを導いています。神様は「誇り高ぶる者」「不法を行なうもの」「偽りを言う者」「血を流す者」「欺く者」を忌み嫌われるのです。正義の王のきよい臨在を意識したときに、ダビデはまずこうした罪を離れる必要を感じました。神様の御前に出ようとしたとき、まず罪を離れなければならない。傲慢、不法、偽りをまず告白し、主の恵みによる赦しに包まれて、御前にひれふすのです。

 「しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれふします。」

 ディボーションとは神様の御前にひれ伏すことでした。神様に知性も感情も意志も体も心も持ち物もみなあゆだねすることでした。この世から聖別して自分を神様のものとしてしまうことでした。

 

3.世の戦いに

 

 正義の王である神を知り、主の御前にひれ伏して自分を聖別した後、ダビデの祈りはこれから出てゆかねばならない世の戦いにかんすることに向けられて行きます。神様の御前に聖別されて、私たちは世捨て人となるわけにはいかない。神様の御前に聖別された後、世に派遣されて行かねばならないのです。

「真理によって彼らを聖め別かってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17、18)

 

 そこで願いが生じてきます。祈りの課題が生じてきます。

 自分が遣わされて行くべき世を思うとき、ダビデ王は危険を感じたのです。さまざまな人々や手練手管を用いて自分を誘惑しようとしていると感じたのです。だから「主よ。私を待ちぶせている者がおりますから、あなたの義によって私を導いて下さい。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」と祈ります。

 ダビデが特に警戒したのは、その唇をもって誘惑し、へつらい、欺こうとしてくる人々

のことでした。

9節「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。

彼らののどは開いた墓で、彼らはその舌でへつらいをいうのです。」

 

と。ダビデは国王という務め上、毎日毎日多くの人々の訴えや進言を聞きました。多くの人々の意見を聞き、だれのことばに真実があり、だれのことばに偽りがあり、へつらいであり、だれの意見を取りあげるべきであり、だれの言葉を退けるべきかということを常に的確に判断しなければならなかったのです。

 人間の性(さが)としては自分をほめそやし、持ち上げてくれる人のことばを聞きたいものでしょう。自分の過ちを指摘することばには、耳を閉ざしたくなるものでしょう。しかし、そうするならば私利私欲のために巧みなことばをもって王を利用する人々によって国の前途を誤ることになりましょう。ダビデは、だから、主に向かって祈るのです。

      

「主よ。私を待ちぶせている者がおりますから、あなたの義によって私を導いて下さい。

私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」

「神よ、彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。云々

 

 

 私たちは、国王ではありませんけれども、キリストにあって私たちには預言職(伝道する務め)、祭司職(祈り捧げる務め)とともに王職が与えられています。それは、この世にあって与えられたさまざまな持ち場、立場において、正義を行なって行くことです。

 世にはいろいろな誘惑がありましょう。人々は、あなたを名誉欲、金銭欲、性欲、世間体、人情こうしたさまざまなものをもって誘惑するでしょう。しかし、小なりとはいえ、私たちもまたキリストにある王としてこれらの誘惑を退けて、義を行なわねばなりません。そのためには、やはり毎朝祈る必要があります。

「主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いて下さい。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」と。

 

4.頌栄

 

 そして、祈りは最後に賛美と祝福をもって閉じることになります。11、12節。

「こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」

 

 祈りは賛美にまでつきぬけるならば、すばらしい。それは確信にいたった印です。私たちの人生はつきつめるならば、主を賛美するために与えられた人生にほかなりません。ほかのことはそのための手段です。仕事をするにも、遊ぶにも、食べるにも飲むにも、神の栄光を現わすようになのです。

 主が再び来られて新しい天と新しい地が来るならば、そこではただただ主への賛美がなされるのみです。そして神の愛のうちに私たちは生きることになります。

 

むすび

「主よ。朝明けに、私の声を聞いて下さい。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」朝一番の祈りは、第一に自らを主の御前に聖別して主と交わること、第二に、主によって一日の悪魔との戦いに備えること。第三に、主に栄光をお返しすることでした。神は、きょうもあなたに、「さあ、行ってらっしゃい。わたしがあなたとともにいる!恐れることはない。わたしが愛の大盾であなたを囲む。」と力をくださいます。

 

主イエスの覚悟

マルコ15:22-32

 15:22 そして、彼らはイエスゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。

 15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。

 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

 15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

 15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

 15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。

 15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。

 15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。

 15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 

 

1.ゴルゴタ・・・死について

 

 主イエスはサンヒドリン、ピラトの官邸での裁判で有罪とされ、激しく鞭打たれた後、重い荒木の十字架を背負って処刑場へと向かわれました。その処刑場の名はゴルゴタと呼ばれました(22節)。ラテン語ではcalvariaといいます。 ゴルゴタとはサレコウベという不気味な名がこの丘に付けられたのは、処刑場にサレコウベがごろごろ落ちていたからであろうと推測した中世の画家は、十字架の下にサレコウベが落ちている絵を描きましたが、それは誤解のようです。考古学者であったゴルドン将軍は、白い石灰岩でできた丘にできた自然の穴がちょうどサレコウベに見えるところを見つけて、これこそゴルゴタの丘だという説を唱えました。これがゴルドンのカルヴァリーと呼ばれる丘で、伝統的に言われてきたゴルゴタの丘よりもヨハネ福音書の記述と調和するものです。いずれにせよ、ゴルゴタとは不気味な処刑場の名にふさわしいものでした。

 されこうべに象徴される死は人間にとって不気味なものです。ある人たちは「命ある者はすべて死ぬのだ」と自分に言い聞かせて、死の恐れを超越しようと厳しい修行しました。また、「死は恐れるに足りない。なぜなら、死が訪れたとき、私はそこにいないからだ。」などと言った哲学者もいました。しかし、そんな修行や屁理屈が必要だということ自体が、死はいかにも不自然で恐ろしいものだという事実を示しています。死が本当に恐れるに足りないならば、強弁する必要もなければ修行する必要もありません。

 聖書は、本来、死は異常なのだと教えています。死は、神に対する人間の反逆に対する呪いとして始まったからです。「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」人は、心の底で死に対しておびえながら生活をしています。なぜでしょうか?愛する者との別れがあるから。それも一つの理由でしょう。しかし、もっと深い理由があります。聖書によれば「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(1コリント15:56)とあります。大きなスズメバチがブーンと目の前に迫ってきたら私たちは恐れます。なぜですか?ハチにはとげがあるからです。もしとげを抜いてしまったなら、ハチは怖くもなんともありません。なぜ人は死を恐れるのか?それは死にはとげがあるからです。そのとげとは罪です。そして、「罪の力は律法です」というのは、罪があるならば、人は神の律法の基準にしたがって、有罪判決を受けて燃えるゲヘナに陥らなければならないという意味です。

「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています。」とみことばは言っています。死後、あなたの生前の心の思いと言葉と行動のすべてをご存知の聖なる審判者の前に立たねばなりません。神の前に出て、罪のない人はただの一人も存在しません。誰にも隠しておきたい恥ずべき罪が洗いざらい神の前に露わにされ、神の律法に従って有罪判決が下されます。だから、人が死を恐れるのは正常なことです。

 神の御子イエス様は、私たちを死後の有罪判決から解放するために、二千年前、人としての性質を帯びてこの世に生まれてくださいました。そして、ゴルゴタの十字架の上で、私たち人間の罪に対する律法ののろいを一身に引き受けて死んでくださったのです。

 

2.苦味をまぜたぶどう酒を拒む・・・イエス様の覚悟

 

 さて、ゴルゴタの丘に到着すると、処刑人であるローマ兵たちは、イエスの処刑の準備に取り掛かりました。イエスを十字架の上に仰向けに押し倒し、犬釘で打ち付ける前にすることがありました。それは「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲ませることでした(23節)。マタイでは「苦みを混ぜた葡萄酒」とあります。それは、一種の麻酔効果があるものでした。

 十字架刑というのは、一見すると、江戸時代の磔に似ているのですが、実際にははるかに残酷なものです。ローマ帝国における十字架刑というのは十字架に釘で打ちつけて後、これを引き起こしてぶら下げてから、止めをさすことなく、苦痛の中に長時間放置して、絶命するのを待つというものでした。十字架が引き起こされると両手と足のくぎに全体重がかかり激痛が走りますが、突っ張るのをやめると呼吸困難に陥ります。十字架上の罪人が、余りにもひどくもだえ苦しむので、残忍なローマ兵もさすがに見るに耐えず、「没薬を混ぜたぶどう酒」を犯罪者に飲ませることになっていました。どんな犯罪人も、この苦味を混ぜたぶどう酒をごくごくと飲んで、からだの神経を麻痺させて少しでも苦痛をのがれようとしました。イエス様の両脇の強盗たちも苦味をまぜたぶどう酒を飲んだのです。

 ところが、イエス様は、今まさに釘が撃ち込まれようとしているのに、ローマ兵たちが「ほれ、飲め。少しは楽になるぞ。」と没薬を混ぜたぶどう酒を差し出されると、あえて、これを拒否なさいました。

 15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。

なぜでしょうか?それは、主イエスは私たちを罪の呪いから贖いだすための苦しみの杯を一滴残らず飲み干す覚悟を固めていらしたからです。エス様はご自分に下される激痛によって、私たちに平安を与え、その打ち傷によって私たちを癒すのだから、自分が十二分に苦むのだ覚悟を決めておられたのです。もったいないことです。

旧約聖書イザヤ書の預言に、このように書かれています。

53:5 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

   私たちの咎のために砕かれた。

   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

   彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 

 イエス様はこの預言を成就するために、没薬を混ぜたぶどう酒を「いらない」と拒否なさったのでした。私たちの呪いをその身に引き受け、その引き換えに、ご自分が持っておられる祝福を私たちに差し出されたのです。

 

3.兵士たち・・・無関心・辱め

 

 エス様のこの十字架の死に対して、十字架の下の人々はどんな反応を示したのでしょうか。

 異邦人であるローマの兵士たちは、イエスにさんざん辱めを加えました。力こそ正義である価値観のローマ兵たちにとっては、無抵抗で敵に捕まえられ、弟子たちにも見捨てられた弱弱しいイエスは軽蔑すべき者でしたから。兵士たちは、没薬の入ったぶどう酒を拒むのを不思議に思ったでしょう。「なんだこいつ!俺たちの温情を拒みやがって。へんな野郎だ。さんざん苦しむがいいや。」とでも思ったでしょうか。

 そして、兵士たちは、十字架の下で悪ふざけにくじ引きを始めました。もちろんイエス様の着物が欲しいわけではありません。くじ引きをしてイエスの着物を分けたのです。主イエスは犯罪者のように着物を剥ぎ取られて、衆人環視の中に置かれたのです。かりにあなた自身、衆人環視の中で、裸にされてさらしものにされたら、と考えるとどうでしょうか。イエス様は、私たちのために十字架に釘付けにされるという肉体的な苦痛だけでなく、精神的な辱めをも忍ばれました。ほんとうに申し訳ないことです。

 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

 「ユダヤ人の王である」という罪状書きにしても、彼らがイエスをほんとうに王として遇しているわけではなく、単なる悪ふざけにすぎません。イエス様の苦しみや悲しみの深刻さに対して、十字架の下の兵士たちの悪ふざけがあまりにもひどい。

 

 主イエスの死は単なる死ではなく、辱めの果ての死でなければならなかったのはどういうわけなのだろうか?と私は長く考えました。例えばお釈迦さんの死といえば、悲嘆にくれる弟子たちに囲まれて、静かに入滅したということが言われています。また、ソクラテスは、裁判にかけられ不当な裁定であったという点では、イエスさまと共通しています。しかし、彼は、自らの哲学に従って「悪法も法なり」として死刑判決を受け入れ、自ら毒杯をあおって従容として死につきました。いずれも尊厳ある死です。ところが主イエスの死は、弟子たちには逃げられ、侮辱のきわみの死でした。なぜでしょうか。それは、私たちの神の前の高ぶりという罪に対する報いを、主イエスが代わりに受けてくださったことを意味しています。「神などなくても、自分は生きていける」といった、神の被造物にすぎない人間としての分を越えた愚かな傲慢の罪に対しては、侮辱が報いられねばならなかったのです。

 

4.「神の子なら十字架から降りて来い・・・誤解されたメシヤ像

 

(1)道行く人々

 十字架はゴルゴタの丘の上の小路の端に立てられ、両脇には二人の強盗の十字架が立てられました。(38節) かたわらを行く人々は、十字架にはりつけにされたイエスを見上げて、罵ります。その中には、つい六日前には、「ホサナ!ダビデの子に。」と歓声を挙げて棕櫚の葉をふりながらイエス様のエルサレム入城を迎えた人々もいたはずです。

15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 通行人たちはなぜイエス様に対する態度を変えたのでしょうか。彼らは、「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。と叫んでいます。マタイの並行記事では「神の子なら自分を救ってみろ」ともあります。彼らが期待した「神の子」とは、奇跡をなす圧倒的な力をもち、十字架などものともせずに釘をぐいっと引き抜いて、飛び降りてきて、ローマ兵たちをなぎ倒し、ピラトをその座から引きずり下ろして叩き切るようなヒーローだったからでしょう。彼らがイエスに期待したのは偉大な奇跡を起こし、剣の刃でにっくきローマ帝国を打倒して、この国に独立をもたらし、かつてのダビデ・ソロモン王朝の栄華を再現するような偉大な王でした。

ここ数日の間、イエス様はエルサレム神殿を訪れては、次々にやって来る論敵を、見事に退けてこられました。サドカイ派パリサイ派も、弁舌においては、イエス様にはまったく太刀打ちできませんでした。民衆の期待は膨らみました。ところが、英雄だと期待させたイエスは、ゲツセマネの園で何の抵抗もせずにむざむざと逮捕されてしまい、ユダヤの法廷でも雌羊のようにおとなしく、ローマ総督ピラトの法廷でも惨めな姿を晒し、ついには、十字架刑になってしまったのを見て愛想が尽きたのでした。頭上に掲げられた「ユダヤ人の王」という罪状書きの看板も腹立たしいことでした。彼らの根本的な間違いは、彼らの「神の子」観、メシヤ観でした。民衆は軍事的英雄としてのメシヤを期待し、その期待がはずれたのでイエスを見捨てたのでした。

 

(2)祭司長たち

 他方、「祭司長、律法学者、長老たち」は、ユダヤ最高議会のメンバーたち、つまり当時のイスラエルの支配階級の人々です。イスラエルローマ帝国の属州の一部であり、ローマ帝国政府は、それぞれの属州の支配階級を利用して統治を行っていました。サンヒドリンの人々は、ローマ帝国の支配体制の一部をなしていました。彼らがイエスを亡き者にすべきだと考えたのは、イエスがこの体制を揺るがす危険人物だと考えたからです。要するに、彼らがイエスを殺した理由は、保身、既得権益を維持することでした。

エスを裁判にかけたとき、サンヒドリン議員たちは、自己正当化する理由が見つかりました。それは、イエスは自分のことを神の御子であると証言したという事実です。「人間が神の子を名乗るとは、神への冒涜も甚だしい。当然、冒とく罪で死刑にあたる」と彼らは考えたのです。

ここ3年間、ずいぶんてこずったけれども、ついにこの危険人物イエスを十字架にかけることができたという満足感に浸りながら、イエス様を嘲ります。彼らの抱いていたメシヤ観も道行く人々と似たり寄ったりでした。彼らにとってメシヤとはイスラエルの王として、強大な権力を振るう者でした。十字架につけられたイエスなど、彼らのイメージするメシヤとは遠く隔たっていました。

 15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。 15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 

結び

 主イエスの十字架の下には、神に無関心で、どこまでも世俗的で、腕力や権力にしか価値を見出さないようなローマ兵たちでした。ローマ兵たちにとって十字架は愚かなことであり、みじめなものでした。彼らにとって「王」というのは栄光と権威と富をもち剣をもって敵を打ち倒す強力な存在でなければならなかったのですが、イエスは富も剣も栄光も持たなく、衣まではぎ取られた、それこそなにもない男でした。

また、民衆も同じです。イエス様を世俗的な王に祭り上げようとして、そうでないと知ると失望してイエスを見限ったような民衆でした。憎きローマを追い出し、自分たちの愛国心を満足させ、生活をよくしてくれるそういうメシヤを彼らは期待していました。そういう民衆にとってもイエスが十字架にかかったことは愚かなことでした。

 また、サンヒドリン議員たちは、自分たちの権益を守ることに窮々としていて、それを脅かすと思いこんだ狂信的な革命家イエスを謀殺してしまうような人々でした。彼らにたてついて十字架にかかってしまったイエスは愚か者にすぎませんでした。

 彼らが思い込んでいたメシヤは、愛国心であれ、生活改善であれ、自己実現であれ、肉の欲望を満足させてくれるそういう男でした。神の前における、自分の罪をきよめてくださる王ではなかったのです。イエスの十字架の死は、滅びにいたる人々には、理解しがたい愚かなことなのです。

 

しかし、主イエスはあえて十字架に自ら進んでつき、その没薬の葡萄酒さえも拒んであえて激痛をしのばれたのです。なぜでしょうか?それは、私たち人間の根本的な問題は、貧困でもなく、病気でもなく、民族の誇りを奪われていることでもなく、神の前における罪であるからです。

主イエスは、貧しさの憂いや生活の困難もあえて舐めてこられました。多くの病気に苦しむ人々を、病からも解放してこられました。けれども、主イエスは、私たちが抱えている根本問題は、貧困や病気ではないことをもご存知でした。貧困も病気も人を神から引き離すことはなく、永遠のゲヘナに陥れることもありませんから。

罪こそは人を神と断絶させ、ついには私たちを永遠の滅びに陥れるものです。そこで主イエスは、聖なる神の前における私たちの罪を引き受けてくださいました。そして、私たちが神とともに生きる永遠のいのちに生きることができるようにしてくださいました。そして、イエス様を信じる者にとって、恐るべき死は克服され、死は永遠のいのちへの門と変えられたのです。

 

「十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」1コリント1:18

 

十字架を負う恵み

マルコ15:16-21

 

  15:16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。 15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。 15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。 15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。 15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

  

 

1.王として

 

(1)王のいでたち 

ローマ総督ピラトがイエスに有罪判決を言い渡すと、総督の兵士たちはイエスを官邸に連れ込みます。すると、その中庭に兵士たち全員ぞろぞろとイエスの周りを取り囲みました。彼らは、この餌食をなぶりものにしてやろうとニヤニヤと残忍な笑みを浮かべています。この後、兵士たちはイエス様に対する振る舞いは何を意味しているのでしょうか。
 彼らはイエスの着物を脱がせて、緋色(深紅、赤い)外套を着せ掛けました。ローマ兵のマントなのでしょうか? 次に、そこいらに生えていた荊を輪にして、イエスの頭に王冠として押し付けました。主の額から幾筋もの血が滴り落ちました。王の杖としては葦の棒を持たせられます。

緋色のマント、荊の冠、右手に王の杖は、王としてのいでたちでした。そうして、おどけてイエスの前にひざまづいて「ユダヤ人の王さま、ばんざい!」と彼らはイエスを侮辱したのです。そうして、さらにイエスにペッとつばきを吐きかけ、王の杖である葦を取り上げて、イエスの頭を何度もたたいたのでした。

 

兵士たちはなぜ主イエスにこんな侮辱をしたのでしょうか?ユダヤのサンヒドリンがイエスを訴えた罪状は、「イエスユダヤ人の王を名乗り、民を煽動して、ローマ皇帝にたて突いた」ということであったからです。十字架でイエス様の頭上に掲げられた罪状書きにも「ユダヤ人の王」と記されました。聖画でときどき見かけるINRIというのは、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMナザレのイエスユダヤ人の王」の頭文字です。敵になんの抵抗もせず、むざむざと捕まえられてなぶられっぱなしで、王と名乗っているイエスを侮蔑したのです。軍事力で世界を手中に収めたローマ人の価値観は、「力こそ正義である」というものでしたから、彼らからすれば、無抵抗を貫くイエスが王と名乗るのはちゃんちゃらおかしいことだったのです。

 

(2)王として自由な精神

 「力こそ正義」という世界では、暴力に対しては暴力を報い、怒りに対しては怒りをもって報い、憎しみに対しては憎しみをもって報いるというのが、常識です。しかし、そこには必ず絶えることのない憎しみの連鎖が生じます。国と国の間でも、民族と民族の間でも、仕返しに対して仕返しをする、すると、その仕返しに対してさらに仕返しをし、そのまた仕返しに対して仕返しをして、その連鎖はやむことがながありません。しかも、その連鎖は世代を超えて子々孫々にまでつながっていくのです。彼らを操る黒幕は悪魔です。 これは国と国の間だけでなく、私たちの社会生活、家庭生活でも同じことです。意地悪をされたから、意地悪をして返す。すると、それに対してまた意地悪が返ってきて、エスカレートして行き、ひどくすると殺人が起こってきます。背後で彼らをコントロールするのは悪魔です。

 王である主イエスは、まったく違う道を選びました。罵られても罵り返さず、右のほほを打たれたら左のほほを差し出し、憎まれたら愛するという道でした。悪魔も、主イエスをコントロールすることができないのです。奴隷とは不自由な者で、自分をコントロールできません。これに対して、王とは自由な存在です。誰に支配されることもなく、自分の主体的な意志で自分の行動を選ぶことができる。それが王です。敵をも愛する主イエスは、真に自由な王でした。

 荊の冠を押し付けられて額から血を流し、葦の王杖を持ち、コブシで殴りつけられ、つばを吐きかけられた主イエス。しかし、その主イエスの心は憎しみに囚われることなく、父なる神を見上げ、敵を愛していらっしゃいました。主イエスは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、いっさいを天の父にゆだねていました。これこそ、気高い、自由な王としてのキリストの姿でした。このようにして、王なるキリストは、悪魔と戦い、罪と戦い、私たちの贖いを成し遂げられるのです。

 

(3)いばらの冠の王

 キリストが王であることについては、歴史の中で多くの人々が誤解してきたように思います。中世ヨーロッパのアッシジのフランチェスコの青年時代を描いた「ブラザーサン、シスタームーン」という映画があります。その中で、アッシジの町から青年たちが鎧兜に身を固めて長槍をもって隣国との戦いに出陣していく場面があります。その時、町の司祭が十字架のキリスト像を掲げて、彼らを祝福するのですが、そのキリスト像は銀色の鎧に身を固めて金色の王冠をかぶって、恐ろしい顔をしているのです。つまり、大将軍としての王キリストです。青年フランチェスコもそうして出陣しますが、戦地で憔悴して帰還し、療養生活をします。やや体調がよくなり野を散歩していたとき、崩れ落ちたサン・ダミアーノ礼拝堂を見つけました。その正面には優しいお顔をした十字架のキリスト像が掲げられていました。フランチェスコは、これに慰められたのです。

 福音書に記録された本物のキリストは、いばらの冠をかぶり、今にも折れそうな葦の王杖をもった優しい王なのです。この事実が意味することを、私たちはよくかみしめなければなりません。キリストは神に敵対する私たちを憎むことでなく、私たちを愛し、私たちの罪をかぶるために十字架で命を捨てる、そのようにして悪魔に勝利を収めた王なのです。

 

2 クレネ人シモン・・・十字架を背負う恵み

 (1)無理やり十字架を背負わされて

ピラトはイエスユダヤ人たちに引き渡す前に、兵士たちにひどく鞭打たせましたから、イエスの背中の皮膚は破れてしまい、主イエスは相当に憔悴していました。そのイエスの血まみれの背中に兵士たちは、はりつけにするための十字架を背負わせます。十字架を担う主イエスは、エルサレム城外のゴルゴタの丘への道を進んで行かれます。石畳の、両側に家並みが迫るだらだらとした坂道です。一歩一歩進んでゆく道の両側に、野次馬がずらりと並んでいて罵声を浴びせかけます。過越しの祭りの時期ですから、エルサレムには人があふれていました。

 その野次馬の中にクレネ、北アフリカリビアから、やってきた1人の巡礼がいました。彼の名はシモン。彼はエルサレム神殿に詣でるために、一張羅に着替えて神殿に向かおうとしていたのです。ところが、ゴルゴタに引かれていく囚人たちが通る道のところで足止めになっていたのでしょう。すると、シモンの前に十字架を背負った囚人があえぎながら歩いてきたのですが、その男だけは頭に荊の冠をかぶせられています。そして、彼の目の前まで来るとけつまずいて倒れ、重い十字架がドスンとその囚人の上に落ちたのです。ローマ兵がその囚人に駆け寄って「立て!立ち上がれ!」と罵り、群衆たちがも嘲りますが、どうしても立ち上がることができません。ローマ兵はあたりをぐるりと見回すと、気の毒そうに眺めているシモンを指差すと命じました。

「おい。お前が、イエスの十字架を運んでやれ!」

 シモンはいやでした。しかし、ローマ兵たちに無理やりにイエスの十字架を背負わされてしまいます。

  15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

 シモンは決して自ら進んでではなく、いやいやイエスの十字架を処刑場にまで運ぶ役を担うことになったのでした。ずっしりと背中に負わせられた血まみれの十字架に、せっかくの晴れ着もイエスの血にまみれてしまいました。周りの人々はシモンのことを、間抜けな野郎だなあと気の毒そうに見ています。シモンは泣き出したい気持ちだったでしょう。けれども、前を一歩一歩進んでいく主イエスの背中を見ながら、彼はゴルゴタへと向かって行ったのでした。

 

(2)クレネ人シモンのその後

 不思議なことは、イエス様の十字架を背負ってゴルゴタまで運んだ、こんな名もないような人の名が、福音書記者によって、きちんと「クレネ人シモン」と記録されているという事実です。この事実は何を意味しているのでしょうか?少し考えれば、わかることですが、後日、クレネ人シモンという名が初代教会の中でよく知られる名前となっていたことを意味しています。つまり、シモンは後日初代教会のメンバーとなって、教会の集いの中で、「実は、おいらがイエス様の十字架をゴルゴタまで背負って、お手伝いをしたんだよ。」と証しをすることがあったのでしょう。初代教会では、「クレネ人シモンさん」といえば、イエス様の十字架を背負った男、ということでした。

  マルコ15:21の紹介を見ると、「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父」とあります。

アレキサンデルとルポスという兄弟が初代教会の名の知れたメンバーだったからです。ルポスという名は、使徒パウロがローマ教会に宛てた手紙の中に登場します。そこでは「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私との母によろしく」(ローマ16:13)とあります。このところを見ると、使徒パウロは巡回伝道においてルポスのお母さんにずいぶん世話になっていて、ルポスとは兄弟のように親しい間柄になっていたことがわかります。

 さらに、アフリカ・リビアのクレネ出身のシモンらしき初代教会の人物をさがすと、その名はまず使徒の働き13章1節に見えます。

13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。

 「ニゲルと呼ばれるシメオン」と呼ばれている人です。ニゲルというのはギリシャ語で「黒い」という意味ですから、アフリカ・リビア出身のシモンの肌が黒かったという意味でしょう。彼はアンテオケ教会における指導者の1人になっていたということがうかがえます。

 こうしてみると、無理やりに主イエスの十字架を負わされたシモンでしたが、この主イエスとの出会いから、彼はキリストへの信仰を与えられ、さらにその信仰は妻に、息子のアレクサンデルとルポスにも伝えられたことがわかります。彼らはみな初代キリスト教会において、一生懸命に福音の宣教のために献身的に協力する人々となっていったことがわかります。シモンが泣きながらでも十字架を背負ってイエス様について行ったことは、実は、シモンに与えられた神の恵みだったのです。

 

結び  三つのことをまとめます。

 第一。主イエスは荊の冠をかぶる王でした。その姿は表面的には惨めさのきわみでした。しかし、主イエスこそは自由な精神をもった王でした。罵られても罵り返さず、憎まれても愛し、悪に対して善を報いることがおできになったことは、主イエスがまことに気高い自由な精神の王だったことの証です。主イエスは気高い自由な王でしたから、相手が悪をなしても、善を報いることができたのです。

 

 第二。クレネ人シモンは、最初は無理やりに十字架を背負わされました。けれども、ゴルゴタに向かって一歩一歩踏みしめて行かれる血まみれの背中を見ながらついて行き、十字架の上で「父よ、彼らを赦してください」と敵を赦す祈る主イエスの声を聞いたとき、「このお方は神の御子だ」とわかったのです。そして、その信仰は妻へ、息子たちへと受け継がれ、シモンの家族は、主の十字架の福音のために奉仕をする祝福された家族となっていったのです。十字架を背負う恵みです。

 

 第三に私たちの贖罪的生き方、十字架を背負う生き方について。私たちの罪を背負って十字架に死に、私たちを神の前にゆるすことのできるお方は、むろん、神の御子であるイエス様だけです。しかし、イエス様を信じる私たちに、主イエスはおっしゃいます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:23,24)主は、私たちにも十字架を背負ってついてきなさいとおっしゃいます。そこにいのちがある、と。

 先週の北海道の牧師研修会で教わったばかりですが、賀川豊彦はイエス様とイエス様にしたがう人のことを、「人格的白血球運動者」と呼びました。白血球というのは、体の中に入り込んだ病原菌を自分が引き受けることによって、からだ全体を病から救う働きをしています。そのように、賀川さんは世の罪をわがこととして引き受けることによって、世界に光をもたらしました。また、やなせたかしさんもまたアンパンマンに贖罪的な生き方を表現しました。アンパンマンは、おなかがすいて弱っている者のために自分の頭をちぎって食べさせてあげます。また、人が捨てたゴミを自分のゴミとして拾う生き方です。人の迷惑をイエス様の愛によって喜んで引き受けることによって、暗い世の中を明るくし、汚れた世の中をきれいにしていく。それが贖罪的な生き方であり、そういう生き方をするキリスト者のまわりに神の国が広がっていくのです。

 

新聖歌445

「重くともなれが十字架 担い行け笑みもて

 試みにあいし人々 助けうる時あらん

*笑みをたたえて 感謝 抱きて

 十字架を担え 神より報いをば受くべし」

主とくびきをともにする

マタイ11:28-30

            主とくびきをともにする

 

 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

1 人生の重荷 

(1)生活上の重荷

 「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず」と苦労人の家康が言ったように、人生に重荷はつきものです。私たちは職場において、家庭において、あるいは学校で、地域社会において、それぞれ重荷があります。そうした荷物をしっかりとかついて歩んでいくのが人生であるというのはそのとおりでしょう。私たちにはそれぞれ自分で負うべき重荷というものがあるものです(ガラテヤ6:5)。

ですが、ここでイエス様がおっしゃる「疲れた人」はもうくたびれてしまった人、疲れ果ててしまった、燃え尽きてしまった人です。あまりにも荷が重すぎて、それに押しつぶされてしまいそうな人、押しつぶされてしまった人です。職場の人間関係が重荷で苦しんでいる人がいます。負いきれない責任を負わされて体や心を病んでしまう人がふえています。家庭内のいざこざに悩んでいて、仕事から帰っても家の窓の光が見えてくると、安心よりも恐れがわいてくるような人もいるでしょう。

世間では、赤提灯や怪しげなネオンサインは「あなたを休ませてあげるわよ」とか言ってくれて、それは一時的には重荷を忘れさせてくれるのでしょう。しかし、それはどこまでも一時的なものですし、深入りすると体を壊したり、家庭不和を助長してしまったりもします。

 イエス様は、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいます。具体的にはどうすればよいのでしょう。部屋の中で、あるいは車の中で、あるいは散歩道で、一人になって声に出してイエス様に、あなたの思いのたけをことごとく、ありのままにお話しすることです。格式ばったお祈りである必要はありません。

「イエス様、きょう私は職場でこんなことがありました。上司の誰それに、こんな嫌味を言われて・・・・もうくたびれてしまいました。あなたに重荷をおゆだねします。」と、あるいは、「イエス様、学校でA君がわたしのことを・・・・」と始めればよいのです。始まりはそうであっても、祈りというのは御霊に導かれて、やがて神様を知り、みこころに迫っていき、そうすると肩の荷が軽くなるのです。 

 そのように、心を開いてありのままを声に出してお話しして、重荷を解き下ろしましょう。そうすると、魂に平安が訪れます。経験的に言って、声に出して祈るのがいいと思います。声に出さないでぶつぶつ言っていると、えてして祈っているのか、それとも単なる思い煩いに満ちた独りごとを言っているのかわからなくなってしまいがちだからです。声に出して主に向かって、格好をつけず、ありのままにお話しすることがたいせつです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)

 それがむずかしいときには、詩篇を声に出して読むといいです。詩篇には私たちの魂の祈りがあります。心にとまった一篇を声に出して読むうちに、それがあなたの祈りになっていくでしょう。そうして、不思議な平安があなたを支配するでしょう。

 

(2)罪という重荷

 私たちが気づくべきもうひとつの重荷があります。すべての人が背負っていながら、多くの場合その重荷に気づかない深刻な重荷があります。その重荷で、実は自分が苦しんでいて、周囲の人も苦しんでいるのに、そのことがわからないことさえあります。それは自分自身の罪という重荷です。

私たちは他人の罪には気付きます。妻は夫の罪に敏感ですし、夫は妻の罪に敏感です。親は子供の罪に敏感で、子供は親の罪に敏感です。しかし、私たちは自分自身の罪には、鈍感なのです。なぜでしょうか。その<自分の罪には鈍感で、ほかの人の罪については敏感であるという、自己中心の性質>、これこそが罪の根本的な性質であるからです。

 この自己中心の罪の性質は、アダムが堕落したときから人間のなかに入ってきました。サタンが「あなたは神のようになれるのですよ」と最初の人を誘惑してアダムがその誘惑に負けて以来、人はみな本来世界の中心であるべき神様を押しのけてまで、人は自己中心・利己的にものを考えるようになってしまいました。罪には、偶像崇拝に始まり、親不孝、殺人、姦通、盗み、偽証といろいろありますが、いずれの罪の場合でも、その中心には「自己中心で、自分の都合ばかり考えている」という性質があるでしょう。こうして、アダム以来、私たちはお互いを傷つけ合い、苦しめあって生きるようになってしまっています。この世の不幸のすべてではありませんが、その多くの部分は私たちの罪が原因となっています。

 罪はこの世の対人関係において私たちを苦しめるだけではありません。罪が、何よりも恐ろしいのは神との関係を破壊してしまうからです。罪を抱え、罪にしがみついているならば、私たちは神様の前で平安を失ってしまいます。「悪者は負う者もいないのに逃げる」と箴言28:1にあるように。そして最終的には、病気や貧困や仕事の失敗は人を燃えるゲヘナに陥れることはありません。しかし、罪は人をゲヘナに陥れる恐るべき致命的な重荷です。

 けれども、イエス様は、「その最も恐るべき私たちの罪の重荷をもみもとに下すがよい」とおっしゃってくださいます。「そのために、私は来たのだ」と。

あの人、この人の罪を言い立てるのをやめて、神様の前で自分自身を振り返り、ほかならぬ私が罪を背負っている事実を認めて、イエス様の前に自分の罪の重荷を下ろすのです。そうして、「イエス様、申し訳ありませんが、この私の罪を引き受けてください」と申し上げましょう。イエス様は、ほかでもない、あなたの罪を十字架で背負うために来てくださいました。主の前に、罪の重荷を下したら、神からの平安が、あなたの魂を支配するでしょう。神様は主イエスに身を避けるあなたに、「あなたを赦そう。あなたを義とした」と宣言してくださるのです。

 

2.主のくびきを負いなさい

 

 さて、主のみもとに人生の重荷、罪の重荷を下して、ああこれで楽になったで終わりではありません。その平安を持続する生き方があるのです。どういうふうに生きていくのか。

 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

 たましいの安らぎの秘訣は、イエス様の「くびきを負う」ことです。くびきというのは、牛や馬がくびに付ける、あの道具です。頸引きが縮まって「くびき」というようになりました。二頭の牛が並んで荷車を引こうとすれば、歩調が合っていなければなりませんから、首のところにくびきを付けるのです。主イエスが、「わたしのくびきを負いなさい」とおっしゃるのには、三つの面があります。

 

(1)人生の同伴者

エス様とくびきを共にするということばのひとつの意味は、イエス様が人生の同伴者となってくださるという約束です。「これまで君はひとりで頑張ってきただろうけれど、これからは、わたしと一緒に生きていこうではないか」とおっしゃるのです。

ひとりぼっちで頑張っているのはたいへんしんどいことです。友達がいるというのはありがたいことです。でも、どんな友だちでも夫婦でも話せないこと、話してはいけないことがあるでしょう。

ですが、もともと私たち人間をご自分の似姿として造ってくださったお方、また、世界の歴史をご支配なさっているお方、また、私たちを愛してご自分のいのちをも惜しまなかったお方、復活して永遠の生命を保証してくださっているお方が、「きみの人生の同伴者はわたしだ」と言ってくださるのです。なんとありがたく、力強い励ましでしょうか。

「イエス様、今日から私もあなたのくびきを負います、どうぞ負わせてください」と祈りましょう。

 

(2)イエス様の御心に生きる

エス様とくびきを共にするということの二つ目の意味は、キリスト者として私たちは、以前のようにもう自分の生きたいように生きるのではなく、イエス様の御心を自分の道として選びとって生きていくのだということです。世間では「自己実現」ということばが流行っていますが、「みこころの実現」のために生きてこそキリスト者です。だから、私たちは「みこころの天に成るごとく、地にもなさせたまえ」と今日も祈りました。

そして、自己実現ではなく、みこころの実現にこそ、安らぎがあるということです。そして自由もあるのです。なぜか?私たちは自分のことを知らずに暴走しますが、主イエスは私たち一人一人のことを最もよくご存じで、私たちにそれぞれに最もふさわしい道を用意していてくださるからです。

「これまで君は、自分の人生を自分のものだと思い込んで、好きな方向に進んで行っては、あっちにぶつかり、こっちにぶつかって苦しんできただろうけれど、これからはわたしとともに人生の行路を行くのだ」とおっしゃるのです。

 

(3)主の平安を分けていただく

主イエスとともに生きているならば、私たちは主の平安を分けていただくことができます。嵐のガリラヤ湖の小舟のなかでも主イエスはぐっすりと眠っていました。それは禅僧のような半分死んだ状態に自分の意識をコントロールすることによる平安ではなく、全能の父なる神の愛のなかに守られているという事実からくる平安です。私たちは主の御手のなかにあるのですから、泣くべき時に泣き、うれしい時には笑い、いかるべき時には怒ってよいのです。天の父の力強くやさしい御手のなかでのことです。

その平安があるとき、主イエスのようにやさしくへりくだっていることになります。強がる必要がないからです。

 

むすび

 人生は重き荷を負ってとおき道をゆくがごとしです。しかし、私たちは、罪の重荷を十字架の主イエスのもとに下して、自分勝手に生きた人生を捨てて、主イエスのくださったくびきを負って神のみこころの実現のために、自分の人生をたどっていくことが許され期待されています。なんと幸いなことでしょうか。それ栄光の御国につながる人生です。

十字架の意味

ローマ3:19-30                                                       

                                        十字架の意味

         2017年10月22日 苫小牧福音教会 

 

 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 ( ローマ3:19-26)

 

 

はじめに

  以前、「十字架はもともと何の道具かわかりますか?」教会にまだ来たこともないカップルに質問すると、女性は「アクセサリー、胸にかざるペンダント」、また、男性は「ドラキュラ除け」とかいう答えをいただいたことがあります。でも、たしかに最近はクリスチャンでなくても、十字架のペンダントを胸につけている人や、イヤリングとして十字架をつけている人が結構いるものです。そういうアクセサリーにするといえば、普通は美しいもの、かわいらしいものでしょう。ところが、十字架というものは、本来は恐ろしいもの、忌まわしい道具でした。何しろ、十字架はローマ帝国の時代、極悪人を死刑にするための道具、処刑具でしたから。十字架は、ギロチンとか電気椅子とか絞首刑の縄というのと同じ類のものなのです。そんなものをアクセサリーにするのは、よほど悪趣味な人でしょう。

 けれども、十字架は二千年前に、イエス・キリストが十字架にかかられたとき以来、美しいもの、神が私たちに注いでいらっしゃる愛のシンボルとなりました。 2000年前、イエス・キリストエルサレムゴルゴタの丘の上で十字架刑になりました。しかし、その日から数えて三日目の未明、イエスは復活されたのです。本日は、このキリストの十字架の意味についてお話します。

 

1.律法とその役割…私たちに罪を自覚させる

 

 まず19節と20節。

 

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 

 

 万物の創造主である神は、法をもって世界を治めていらっしゃいます。今朝もまちがいなく太陽が昇り朝がやってきたのは、神様が宇宙を万有引力の法則や慣性の法則といった物理で支配しているからです。神様は人間の生き方についても法を定めていらっしゃいます。それを律法といいますが、エッセンスは十戒にまとめられています。

 第一「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。」

第二「あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」創造主以外のもろもろの偶像を拝んだことが一度でもある人は、有罪です。

 第三「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりにとなえてはならない。」神様の名は恐れを愛をもって口にしなさいということです。神を馬鹿にしたようなことばを使ったことのある人は有罪です。

 第四「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」安息日は、神様をあがめ隣人愛を表す日です。神を無視して仕事や自分の快楽のために用いたならば、有罪です。

 

 以上が、世界と人間の造り主に対する人間の義務を表した律法です。アメリカで車で左を走って警察につかまったら「そんな法律知らなかった」ではすまないでしょう。神様が造ったこの世界に住まわせてもらっていて「そんな律法知らなかった」ではすみません。・・では、後半はどうでしょうか。

 

 第五「あなたの父母を敬え。」あなたはいまだかつてお父さん、お母さんを侮辱することばを吐いたことはありませんか。一度でもあれば、あなたは神の御前に有罪です。

 第六「殺してはならない。」心の中を御覧になる神は、あなたの心の中のひそかな殺意をも殺人とみなされます。「あんな人死んでしまえばいいのに」と一度でもつぶやいたなら、あなたは神様の前では殺人者です。

 第七「姦淫してはならない。」結婚関係外で性的快楽を求めてはいけないということです。しかも心の中をご覧になる神様の前で、です。「情欲をもって女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです。」とイエス様はおっしゃいました。

 第八「盗んではならない。」。「10万円盗んではならない」とも「100円盗んではならない」とはありません。ただ「盗んではならない」とあります。10万円でも100円でも神様の前では泥棒です。ニュースである鉄道会社の悩みを聞きました。入場券の回収率が30パーセントくらいしかないという悩みです。あとの70パーセントくらいはキセル乗車に使われているらしいというのです。

 第九「偽証してはならない。」嘘をついてはいけないことは誰でも知っています。では、生まれてこの方一度も嘘をついたことのない人は、ここにいますか?

 第十「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」この律法は、神がただ単に外側に現れた行動だけを戒めるものではなく、心の思いを御覧になっているということを示しています。隣人の家、財産、奥さんを欲しがるとは、不当な欲望です。心の中で友達の幸福をねたむ心を起こすならば、その人は神様の前に有罪です。

 さて、いかがでしょうか。この律法に照らして、あなたは「私は無罪です」と言えるでしょうか?いないでしょう。19、20節に言う通りです。

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  あなた自身はどうでしょうか。

 私たちが、本日の聖書箇所から教えられる第一のポイントは、私たちは神様の基準である律法に照らすと、まちがいなく有罪であるということです。

                                                                                  

2.キリストが差し出す義(21、22節)                                        

 

 第二の点に移ります。21節です。

 

(1)贈り物としての義=キリスト

 「しかし、今は律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」

 「今は」というのは「キリストが二千年前に来られて以降の時代は」という意味です。「律法と預言者」というのは旧約聖書の当時の呼び名です。「キリスト後の時代は、十戒とは別に、しかも旧約聖書によって予告されて、神の義が示された」というのです。

 「神の義」とは何か?といえば、それは神とあなたの間の正常な関係ということです。言い換えると、神様から「あなたは正しい。無罪だ。」と言っていただける関係です。今日、死んで、神の法廷に引き出されて「あなたは無罪放免だ」と宣言していただける確信があるでしょうか。十戒に照らすと、到底、そんな宣言は期待できないのが私たちです。

 しかし、です。今の時代、キリストの時代は、それが可能となりました。キリストが、神の義をあなたのために用意してくださいました。

22節「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

 「与えられ」とあるでしょう。イエス様が私たちに差し出していらっしゃるのは義というのは、「キリストを信じるすべての人」に与えられる、ギフトです。あの数々の律法を自分で百パーセントまもって買い取る義ではなくて、贈り物としての義なのです。 「ただ、神の恵みにより」「価なしに」(24)とあるのはその意味です。働きがあるものが受ける祝福は、恵みではなくて報酬です。何の働きもないものが受ける祝福が恵みです。私たちは律法を守れていないのに、神様は、一方的な愛をもって祝福をくださるので、恵みなのです。「価なしに」というのは代金を払わないで、ということです。プレゼントを受け取るのに代金を支払う人はいません。

 今日の大事な点の二つ目。キリストは私たちに贈り物として、神の義をくださった。贈り物として、神様との正常な関係をあなたに「さあどうぞ。受け取りなさい。」差し出してくださっているということです。

 

 

(2)義とする根拠

 しかし、正義の審判者である神様が私たちを義と宣言するには根拠が必要です。神様は正しい裁判官でご自分た立てた法をきちんと守るお方ですから、ことをウヤムヤにして「まあいいや。俺が赦す。君は正しいよ。」なんていいかげんなことはなさいません。神様は法をもってこの宇宙を治めていらっしゃるのです。もし、神ご自身が法を好き勝手に破ったりしたら、この宇宙は壊れてしまいます。

 この世界のありさまを見ていて、「こんなに罪が放置されているのだから、神はいない。いたとしても、その神は正義の神ではない。」という風にいう人がいます。聖書の答えを言えば、それは神が忍耐しておられるのです。もし神が忍耐してくださらなければ、そのように神を非難している人自身も罪に定められ地獄に落とされるところです。

 しかし、神様はついにこの歴史の中で、ご自身の正義を証明し、同時に、キリストを信じる者を義と宣言する準備をなしとげられました。それが、イエス様の十字架と復活の出来事です。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

  神様は、神の律法を破ることに対して正当な償いを要求されます。その要求を、神の御子イエス様が満たされたのです。それは2つの方法によります。愛の完全なご生涯と十字架の死と復活によってです。神の正しさは、宇宙全体よりも価値ある御子による償いを要求するほどに完全なものであることが、証明されました。

 イエス様はそのご生涯にわたって、神様が求められた完全な愛の生き方を実行されたことによります。イエス様はその愛のご生涯において、一度も偶像崇拝せず、一度も主の名をみだりに唱えることなく、安息日を正しく守り、父母を敬い、人に殺意を持つこともなく、みだらな思いを持つこともなく、嘘をつくこともなく、隣人をねたむこともありませんでした。かえって、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分自身を愛するように愛するという完全なご生涯を送られました。三年間、イエスさまと寝食をともにしたペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見いだされませんでした」と証言しています。

 イエス様が私たちのために贖い(身受け金)を用意されたもう一つの方法は、あの十字架にかかって死ぬんことによってでした。「罪から来る報酬は死である」と聖書に定められています。神様の前で、罪は死をもって償わねばならないのです。私たちは自分自身が罪がありますから、私が十字架にかかってもそれは私自身の罪の報酬にしかなりません。しかし、尊い神の御子であるお方が、ほんとうの人となって私たちの身代わりとなってあの十字架において私たちが神様の前に受けるべき罰を受けてくださいました。このことによって、イエス様は私たちのために贖いを用意してくださいました。

 イエス様はこのように、完全な愛のご生涯と十字架における罪の償いとによって、私たちを身受けする用意をしてくださったのです。律法は私たちに正しく生きる道を教えています。私たちはそれを正しく守るどころか、破ってしまいました。そこで、イエス様は、完全な愛の生涯を送り、私たちが破ったために受けなければならない罰はすべてご自分があの十字架の死において代わりに引き受けてくださいました。イエス様は、私たちが受けるべき罰を受け、かつ、私たちが実行しなければならなかった神への愛と隣人への愛の律法を完全に果たされました。

 このイエス様のうちにある義を根拠として、神様は私たちを義と認めて下さるのです。

 

 3 信仰によって受け取る(27-30節)

 

 第三点に移ります。それは、どのようにしたら私たちはイエス様の贈り物としての義をいただくことができるのでしょう。神様の前に罪ゆるされて平和なこころで生きていけるのでしょう。また、死後は地獄でなく天国に行けるのでしょう?それは、イエス様を信じる信仰という空っぽの手を差し出すことによってです。このように書いてあるからです。 

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者はたれも皆救われん。」です。私はかつてクリスチャンになる前にこの歌を聞いて、「なんという無責任な歌だろう」と腹立たしく思ったものでした。実際、この言葉は、救われる者には恵みの言葉ですが、滅びに至る人には抵抗を感じさせることばなのです。なぜでしょう。「信じるだけで救われる」ということばは、人間としてのの誇りやプライドを傷つけるからです。それは「お前は乞食だ。自分じゃなにもできないよ。乞食なら、乞食らしく、『神様お恵み下さい。神様あわれんでください。』と言いなさい。」と聞こえるからです。

 実際、聞こえるだけではなく、事実、そう言っているのです。「そんなみじめったらしいことできるか!私には私の正義がある、私には私の生き方がある。私には私のプライドがある。」と反発するのです。

 しかし、神様の御前にあっては、人は感謝し、へりくだって生きることこそふさわしいのです。神様の御前には、私たちは乞食です。いったい、私たちの持っているもので、神様にもらわなかったものがなにかひとつでもあるというのでしょうか。私たちが何か善い行いをできたとしたら、それはすべて神様からいただいたものです。神にもらわなかったものは罪だけです。・・・ならば、どうして誇るのでしょうか。

 神様はこの誇りを打ち砕くために、律法の行いにはよらず信仰による、恵みの救いを用意なさったのです。律法を行うことによって獲得しようとする義は、この誇りという壁にぶち当たるのです。律法を行うことによって義を得ようとすると、人は「私はこんなに立派な人間になった。」と思います。そのような思い上がりこそ、実は、神様の最も忌み嫌われる罪です。ですから、神様はこの救いを、ただ恵みによって、無代無償で与えようとおっしゃいます。

 私の父は、洗礼準備をしているとき、私に言いました。「お父ちゃんは、もうちょっと正しく生きられるようになってから、洗礼受けようかなと思う。」と。私は聞きました。「じゃあ、いつになったら正しい生き方ができるようになるの?」そうしたら、「そやなあ。そんなこと言っていたら、いつまでも洗礼は受けられへんな。」そして父と母はそろって洗礼を受けました。父が50歳、母は49歳でした。

  行いによらずただ信仰によって義とされるという真理は、自分は弱い罪人であると自覚する人にとっては希望です。それと同時に、信仰義認の真理は、「神なしでも自分なりに立派に生きていける」という誇りを持つ人間には狭き門なのです。

 

結び

  あなたは、神様の律法に照らしたとき、自分には罪があるなあ、自分は罪人だなあということを認めるようになりましたか。

 イエス様は、完全な愛の生涯と、十字架における罪の償いを根拠として、私たちに、神様の前の赦し、義の宣告をプレゼントしてくださいました。私たちがこのプレゼントを受け取るために必要なことは、二つです。第一に「神様、私はあなたの御前に罪人です。」と認めること、第二に「イエス様を信じます。」と告白することです。

 

 「神へのいけにえは砕かれた心、砕かれた悔いた魂。

神よ。あなたはそれをさげすまれません。」詩編51編20節