水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

求めなさい

マルコ10:46-52                            

2017年3月26日 苫小牧主日

 

  10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。

 10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた

 10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた

 10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。

 10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

 10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

 10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

 

 

1 エリコの町

 

 主イエスの一行はエリコに来ました。すでにユダヤ地方にはいりエルサレムのすぐ近くの町です。エリコというのは世界最古の町の一つであると言われています。旧約聖書ではヨシュア記の中で、ヨシュアを指導者としたイスラエルの民が、神の命令にしたがってこの町の周囲を回ったところ、その城壁が崩れてしまったという出来事が有名です。

 エルサレムが近くなりイエス様の伝道の旅はまもなく終わろうとしています。イエス様には十二人の弟子だけではなく多くの群衆がガリラヤからついてきていました。

 ところで、この記事のルカ伝の並行記事を見ていただきたいと思います。ちょっと興味深いことがあります。

18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。

 マルコ伝とルカ伝の違いがわかるでしょうか。一見すると、矛盾しているように見えるところです。マルコ伝では、「イエスがエリコから出られると」、そこに盲人がいたということですが、ルカ伝では「イエスがエリコに近づかれたころ」とあるのです。マタイの並行記事はマルコと同じくエリコから出たところとなっています。いったいなぜ、こんな違いがあるのでしょうか。聖書を否定したい人々の喜びそうなところです。

 ところが、考古学者がエリコの町を発掘した結果おもしろいことがわかりました。イエス様の御在世当時、エリコの町は古いエリコの町と新しいエリコの町のふたつがあったのです。そして、古い町の城壁の門を抜けて、隣にある、新しいエリコの町をつなぐ道がありました。それで、古い方の町を通ってその門を出て新しい町に向かおうとしていたときのことであるとわかりました。一つのエリコの門を出て、また、もう一つのエリコの門に近づいたとき、そこに乞食がいたのです。

 一見矛盾して見える聖書箇所も、こんなふうにして実態が明らかになってくるというのは面白いことです。私たちの限りある経験や知識によって、簡単に聖書を否定するのは慎む方が賢明です。千年くらい待ったほうがいいですね。

 

2 バルテマイの求める姿

 

 日本の町は城壁に囲まれておらず、町には門はありませんが、イスラエルの町は城壁に囲まれていて、町に出入りするためには門を通らねばなりません。町の門というのは、人が一番たくさん行き来するところですから、乞食の稼ぎ場でした。今で言えば駅前ということです。門のところに一人の乞食がいました。名をバルテマイすなわちテマイの息子といいます。彼は盲人でした。当時としては盲人がつくことのできるような職業はなく、社会福祉といった働きも乏しい時代ですから、乞食をして生計を立てるほかなかったのでした。自分がもし盲人だったら、また自分が乞食をしないと食べて行けなかったら、想像するとバルテマイがどんな気持ちで暮らしていたかが少しはわかるような気がします。ごく普通の人並みな幸せも自分には縁がないのだという思いで、絶望的な状況のなかでバルテマイは生活をしていたのです。

 そんなある日、バルテマイはイエス様の噂を聞いていたのです。この記事によると、その噂によって彼は「イエス様こそ、救い主」と信じるようになっていたことがわかります。「ダビデの子」という表現は、待ち望まれたキリストすなわち救い主の別名です。いつか、自分もイエス様にお会いしたいものだ。お会いしたならば、きっとこの目を開いてほしいものだ。彼はそう考えるようになりました。

 そして、またある日、バルテマイが、いつものように古いエリコの門と、新しいエリコの門を結ぶ道端にすわっていると、回りが急ににぎやかになりました。彼が「どうしたんだい、誰か来たのかい?」と周囲の人だかりに聞くと、「ナザレのイエス様がこの門を出ていらしたんだよ。」との返事です。彼は、今こそ自分がイエス様に救いを求める、最初で最後のチャンスであると思いました。

 一刻の猶予もありません。彼は「俺は目が見えないからイエス様のところにいけないよ」とつぶやいて座り込んだままあきらめるようなことはしませんでした。目の見えないバルテマイはどうしましたか?彼には視力はありませんが、聞くことはできました。イエス様が近づいて来られたのを、その耳でキャッチできたのです。そして、しゃべることもできました。しかも、毎日の乞食商売で「右や左の旦那様。あわれな乞食にお恵みを!」と叫んで鍛えた立派な喉です。彼は欠けたものでなく、与えられた賜物を十分に活用しました。彼は大音声で叫び求めたのです。

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」 

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

 バルテマイの声があまりにばかでかく、そして何度も何度もしつこいので、みんなは「イエス様はお忙しいんだ。おとめするわけにはいかない」などといってたしなめました。しかし、いかにたしなめても、バルテマイはやめません。

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

 

 バルテマイの主を求める姿に、私は胸打たれてしまいました。こんなにも真剣に、必死で主を求めているのです。「私は目が見えないから行けない。」「きょうは仕事だからだめ。」「きょうは風邪ぎみだから。」「世間体があるから」「恥ずかしいから」「人が見ているから」などといろんなことを言い訳にして、多くの人たちは主を本気では求めようとしません。いつでも求めようと思えば求められると高を括っているのです。そして、バルテマイのように真剣に主を求めようとはしないのです。

しかし、主はあなたが自分の都合で保留しておいて、求めたいと思えばいつでも手軽に求められるようなお方ではありません。主が近づいてくださった。今というチャンスをのがしてはなりません。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。」

 

3 主の応答

 

 主イエスは弟子たちと一緒に、バルテマイの前をすたすたと通り過ぎて行かれました。バルテマイの求めがどれほど真剣なものか主は、試しておられたようです。また周囲の者たちにも、私たちにもバルテマイのその真剣そのものの求道心を学ばせたいのでしょう。

 そしてついに、主は言いました、「あの人を呼んできなさい。」ついに主イエスがバルテマイを呼んでくださったのです。

 

 するとバルテマイは上着を脱いで、すぐ立ち上がり、イエス様がいらっしゃると思われる方向に一生懸命に歩いて行きました。盲目で右に左にふらふらしていますし、けつまずきもしますが、それでも懸命に主に近づくのです。

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。「何をして欲しいのか?」主イエスは御存じなのです。しかし、あえて聞かれるのです。私たちは主に祈り求めるとき、あいまいなもの、抽象的なことではいけません。具体的に答えてもらいたければ、具体的に求めることです。具体的に答えられると、ああ、主が答えてくださった!とわかります。すると神様との交わりがますます親密になります。そして、恵みを受け取る器がだんだんと大きくなります。最初は御ちょこみたいな信仰が、コップのようになり、洗面器のようになり、風呂桶のようになり、やがて支笏湖のようになり、太平洋のようになります。

バルテマイは即座に具体的に答えました。「先生。目が見えるようになることです。」

あなたは「主よ」と叫んで、主が振り返ってくださったとき、「あなたは何が欲しいのか?」と問われたら、具体的に答えられますか?具体的に求めることです。具体的に答えられます。キリスト教はご利益宗教ではないと時々言われます。しかし、キリスト教は永遠のいのちをくださる、それに加えてすべてのよきものをくださる世界最大のご利益宗教でしょう。たしかにキリストにあって生きるとき、私たちは欲張りで利己的な生き方でなく、神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを目的として生き始めます。しかし、神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるために必要なものがあるでしょう。神様は、生ける神です。空気もお金も水も友だちも、罪の赦し、この世のいのちも、そして次の世のいのちも、すべては神様からの賜物です。私たちが神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるために必要なものはすべて与えてくださいます。具体的に求めればよいのです。

 

結び.私たちがバルテマイに私たちが学ばねばならないこと。

第一。救いということに関して、私たちは無一文の乞食であるということ。

あわれみによって、私たちは救われるのです。主から祝福をいただくのです。主の祝福は報酬ではありません。恵みなのです。

第二。バルテマイは主がそばに来られたその一回かぎりのチャンスを逃がさなかったのです。私たちの人生において、主が近く臨んでくださるときというのは、そんなにたびたびあるものではありません。キリストの福音を聞いている今が、救いの時です。

第三。万難を排して主を求める

バルテマイは、言い訳しようと思えば「目が見えないから自分は主に近づけない」とか言い訳することもできたでしょう。彼には数々のハンディがありました。しかし、彼はそんな言い訳をするよりも、彼に与えられた耳をもちいて、主イエスの到来を察知し、大声を用いて真剣に主を叫び求めたのです。

第四。バルテマイが主を求めるにあたって恥も外聞も世間体もなかった。それほど真剣に主の祝福を求めたのです。求めて求めて求め続けたのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。」

です。この率直な求めを主は期待していらっしゃいます。

第五。「何をしてほしいのか?」と主に問われたら、具体的かつ明瞭に「目が見えるようになることです」と答えたことです。

 

大審判の前夜――ノアの時代

創世記6:1-8

2016年6月19日 苫小牧夕礼拝

 

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

 6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

 6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

 6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

  6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。

 

 

序  最後の審判の型

聖書の観点からすると、私たちが生きている今の歴史は二度目の歴史です。つまり、一度目の歴史はいったんノアの大洪水という審判によって終わってしまいました。その後、二度目の歴史が始まって今日にいたっているのです。この二度目の歴史は、主イエスが再臨して世界をさばかれるときに終末を迎えることになります。ノアの大洪水の出来事は、そういう意味で、これから来ようとしている主の最後の審判の予型なのです。

 実際、主イエスはご自分の再臨と最後の審判について予告なさったとき、ノアの時代のことに触れていわれました。

 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

 そういうつもりで、本日の箇所を学びましょう。

 

1 セツ族とカナン族が混ざる

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

 6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

 

 6章2節の「神の子ら」と「人の娘」とは誰を指しているのでしょうか。ある学者たちは「神の子ら」とは天使たちを意味すると解釈していますが、それは間違いでしょう。なぜなら、主イエスがおっしゃったように、天使はめとることも嫁ぐこともないからです。むしろ、「神の子ら」という表現が意味しているのは、創世記4章に出てきたセツ族の子孫たちを意味しており、「人の娘たち」はとカイン族の子孫たちを意味していると受け取るべきでしょう。

セツ族の人々は、まことの神である主を恐れ、自らの弱さを認めつつ、主の御名を呼んで生活する敬虔な一族でした。これに対してカイン族は、神に反逆する不敬虔な一族であって、町を築き・産業や富や技術をもって、力を志向していました。二つの部族は別々の行き方をしていたのです。ところが、大審判の日が近づいたころ、それに変化が生じてきたというのが6章1,2節の記述です。「神の子らは、人の娘がいかにも美しいのを見て、その中から好き者を選んで、結婚した」というのです。セツの一族の青年たちは、結婚するにあたって相手が神様を信じているか、神様を愛している人なのかということを考えも祈りもしないで、ただ「いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んだ」というのです。自分の結婚にかんする神のみこころを祈り考えることもなく、ただ美人だとか、かわいいな・・という自分の好みで結婚をするという風潮になってしまったということです。この風潮が、大審判前夜の風潮だったというのです。

本来、結婚は、創造のときに神がお定めになった制度であり、家庭建設をとおして、三位一体の神の愛のありようをこの地上において表現し、神の栄光をあらわすためのものです。神の民に属する者でありながら、その本来の結婚の目的を忘れて、単に、かわいいな、とか、美人だな、とか、ハンサムだとか、金持ちだとか、そういう肉の欲や虚栄心で配偶者をえらぶ、そういう風潮になってしまった、それが大審判前夜の世界の風潮だったのです。つまり、神のみこころなどどうでもよくなって、自分の欲望や楽しみがすべてという風潮です。主イエスはおっしゃいました。

「24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」

聖書は結婚・家庭というものを大変重要視します。国家よりも家庭のほうが根本的に重要なのです。家庭は創造のときに定められた三つの大事な制度の一つです。三つとは、安息日・労働・結婚です。国家とは、これら三つの大事な制度を無事に護るための手段にすぎません。結婚がそれほど大事なのは、結婚によって築かれる家庭から、次の子孫が生まれてくるからです。

 

ネフィリム

そのようにして、神を恐れるものがいなくなっていき、神の子たちと人の娘たちの結婚によってネフィリムが生まれてきたといいます。

6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

 新改訳聖書では、神の子らと人の娘の結婚とネフィリムの誕生の関係がいまひとつよくわかりませんが、新共同訳では次のようにあって明瞭です。ネフィリムは、セツ族とカイン族の男女が結婚をして生まれてきた者たちでした。

 「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。」

  ネフィリムという名自体は、大洪水のあとにもこの名で呼ばれる人々が出てきて、彼らは巨人族ということになっていますが、この創世記6章の大洪水前の世界においては、肉体的に巨大だということではなくて、この世的な名士たちを意味していたということです。神を知っているセツ族の男たちが、カイン族の美女たちを選んで夫婦になり、そこに生まれてきた子たちがこの世的な名士になっていったというのです。不思議な記述ですが、少しわかるような気がしなくもありません。

クリスチャンの親のもとでは、子どもたちは世間の世俗的な家では受けられない勤勉さとか、この世離れした高い理想とかを皮膚から吸い込むことになります。ただ地上に張り付いて、親から「一番大事なのはお金だよ」とか仕込まれる家庭に育った人とは、その人生の進路が違ってきます。結局は、神に背を向けた人生を歩むことになっても、基準となる理想というものがその人の中にしみついているということになります。この世との心の距離をもちながら、なおかつ、この世のものをつかみに行ったのがネフィリムたちだったように思えます。

日本はクリスチャン人口がご存知のように非常に少なく1パーセントに満たない社会です。しかし、現在の有力政治家の中には、かつて聖書やキリスト教に近づいた経験をもった人々が割合としては非常に多いのです。実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂片山哲鳩山一郎大平正芳細川護熙、麻生太 郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。現在の内閣にもクリスチャンといわれる人々が16パーセント。その言動から見て、聖書に照らして本物のクリスチャンだろうと思えるのはきわめてわずかですが、こういう人々がいわばネフィリムなのだろうと思います。とはいえ、ネフィリムたちは結局は、神に背を向けてこの世の成功に走った人々だったわけです。

 

2 神の悔やみ、決断

 

 神は、地上の惨状を神はごらんになっていました。人々は、心の思うことはみな悪いことということになりました。神を信じ恐れることが異常なことであり、神など無視してこの世的な成功がすべてだというような生き方が正常な生き方と見られるほどに、世の中がおかしくなりました。現在の日本社会のようなありさまです。

 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 そこで、主はおっしゃいます。

6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

 

 このことばは、二通りの意味に解しうるところです。一つの解釈は、世界を大洪水で滅ぼすというこの決断をしてから、その実行までを120年間にしようという意味です。神様は、ノアとその家族たちが大きく丈夫な船を建造するために十分な時間を用意してくださったということになります。

もう一つは、神さまが人間の寿命を900年から120年程度まで短くすることにしたという理解です。というのは、この世の価値観が狂ってしまっているので、長生きすればするほどに人間は罪に染まって悪魔のようになってしまうので、そうなる前にいのちを断ってしまうためです。もともときよい神の御子に似た者として造った人間が、そんなふうに悪魔のようになることを神は防止されたということです。実際、大洪水のあとから人間の寿命が急激に短くなっていったことが、創世記11章にしるされています。それぞれの解釈に一理ありますが、私は後者を一応とっておきます。

 

 人間がもはや本来の「神の似姿」としての生き方をすっかり失ってしまい、悪魔のようになってしまい、すでにその目的から外れに外れてしまったのを神はごらんになって、神は決断をなさいます。神は非常に忍耐強いお方です。「神などいるものか」と嘯いていた私たちのことも忍耐して、太陽を昇らせ雨をふらせて必要なもののすべてを与えてくださっています。

けれども、公正な裁き主でいらっしゃいますから、最後の最後まで、どこまでも悔い改めを拒み、神をないがしろにする人々には、最終的にはきびしく公正なさばきをお与えになります。

6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 

 

 私たちの生きているこのれきしにも、ついには決着がつけられるときが来ます。2ペテロ3:3-6

 

 

「3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

 3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、

 3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」

 

 

3 しかし、ノアは

 

 こういう真っ暗な世界のなかに、ただ1人ノアという人物がいました。

6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。

 直訳すれば、「ノアは主の御目の中に恵みを見出した」となります。恵みと訳されたことばは、ヘブル語でヘーン、LXXでkarisです。ヘーンは、favour, grace, elegance、好意・恵みという意味です。口語訳では「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」とあります。このほうが直訳に近くてよいのではないかと思います。

ノアが道徳的に完璧な人だったというわけではありませんが、主の目の中で恵みを見出したというのです。この世の人々は神に無関心で、この世のことがすべてだったのですが、彼の目は主のほうを向いていました。そして、ノアというのは「慰め」ということばから来た名前なのですが、彼は、真の神に慰めを見ていたのです。ハイデルベルク信仰問答第一問答を思い出します。

 

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答え わたしがわたし自身のものではなく、 

体も魂も、生きるにも死ぬにも、 

わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。 

    この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、 

       悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 

    また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 

       髪の毛一本も落ちることができないほどに、 

       わたしを守っていてくださいます。 

       実に万事がわたしの救いのために働くのです。 

    そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、 

       今から後この方のために生きることを心から喜び 

       またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。 

 

 

結び 今、私たちが生かされている歴史にも、ついには終わりが来ます。主イエスの再臨と審判の日は日々近づいています。あなたは、主をお迎えする用意はできているでしょうか。

 この時代にあって、私たちもノアのように、主の御目の前に恵みを見出すもの、主の御目にかなうものでありたいと思います。それは、私たちがこの世のものでなく、主のうちにただひとつの慰めを見出すものであるということです。

神とともに歩む人生

創世記5章

 

2016年6月12日 苫小牧夕礼拝

  5:1 これはアダムの歴史の記録である。

  神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

 5:2 男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。

 5:3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

 5:4 アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

  5:6 セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。

 5:7 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:8 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。

  5:9 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。

 5:10 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:11 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。

  5:12 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。

 5:13 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:14 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。

  5:15 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。

 5:16 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:17 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。

  5:18 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。

 5:19 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:20 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。

  5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。

 5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。

 5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

  5:25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。

 5:26 メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。

  5:28 レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。

 5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。「【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

 5:30 レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:31 レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。

  5:32 ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。

 

序 聖書にはあちらこちらに系図が出てきます。系図を通して神様は何を教えようとしていらっしゃるかは、その特徴に着目することによってわかります。

 

1.アダムからノアにいたる

 

創世記5章の系図の特徴の一番目は、アダムからノアにいたるラインだけを記したものであって、すべての人のことが記されているわけではないということです。カイン族のことは何も記されていませんし、また、アダムから生まれたセツ系の子孫の中でも、特にノアにいたるラインのみが記されているのです。だから、たとえばカインとアベルの誕生については何も記されておりません。

また、「何歳になってだれそれが生まれた」という書き方がされていますが、その歳まで誰も生まれなかったというわけではないでしょう。むしろ、他にも何人も生まれたのですが、ノアにつながるラインとはならなかった子どもたちの名はすべて省略されているのです。

つまり、アダムからノアにどのように子孫がつながって行ったのかという、その点に特化した系図なのです。というのは、ノアから出る者たち以外は、大洪水によってすべて滅びてしまうからです。

 

2.12代に整理されている 

 

 この系図の第二の特徴は、アダム、セツ、エノシュ・・・・ノアにいたるまでが10代となっている。当時の系図の書き方としては、間に何人か省略され整理されている可能性がある。当時の系図は、12とか、あるいは七代とか、七の倍数の十四代で整理してかたちを整える書き方の習慣がありました。マタイ福音書1章に出てくるアブラハムからイエスさまにいたる系図は十四代十四代十四代で整理されています。旧約聖書に記されている系図と照らし合わせると、何人かの王の名が省略されていることがわかります。

 名前が省略されているものですから、ここに誰それが何年生きて、だれそれを生み、何歳で死んだと書いてあるからといって、その年数を足し算しても、アダムからノアにいたる年数を割り出すことはできません。昔からこれらの年数を足し算して、地球が造られた年代を計算する人たちがいますが、それは無駄なことです。

 

3 非常な長生き

 

この系図の特徴の第三番目は、登場する人々の寿命がおおよそ900年であり、現代に比べると非常に長命であるという点です。あまりにも年数が長いので、学者さんたちのうちには、この寿命は個人の寿命ではなくて、それぞれ部族の存続した年数を意味しているのではないか?という説を唱える人がいます。けれども、そうであれば「およそ何百年」というふうになるはずで、何百何十何年ということにはならないはずですから、無理な解釈でしょう。

また、当時の暦の数え方が現在とは異なったのではないか、などと考える人もいます。今の1年は12ヶ月ですが、毎月1年と考えて今の1年を12年と数えるというわけです。そうすると、900歳ということは75歳を意味することになり、常識的な数字となります。しかし、この説に従うと、11章のアブラハムからノアにいたる系図との調和が図れなくなってしまいます。

結局のところ、聖書本文を一番自然な読み方は、この寿命の長さの記述をあれこれ理屈をつけないで、そのまま受け取ることです。

この平均900年もの寿命は大洪水の前までのことでした。6章~9章の大洪水を経て後、急速に寿命が短くなっていったことが、創世記11章の系図に記されています。これは何を意味しているのでしょうか?二つの理由が考えられます。一つは創世記6章で神が「人の齢は120年にしよう」とおっしゃったことです。この120年については、このおことばから洪水までの120年間と読む説と、寿命はおよそ120年にするという意味であるという説です。後者の説と理解すると、大洪水の後、人間の寿命が急速に短くなっていったのは神がなさったことだということになります。

もう一つは大洪水の前後で自然環境に激変が生じたと結果、寿命が休息に短くなったのではないかという説を立てる学者がいます。実際、世界中の地層の中で発見される動植物の化石は、かつてこの地球の自然環境が現在とは相当に違っていたということを明らかに示しています。羽の長さが80センチものトンボの化石を上野の科学博物館で私は見たことがあります。また、長さが数十メートルもある巨大な爬虫類などは変温動物ですから、現在の気象条件では生息することは不可能です。哺乳類もかつては非常に巨大なものたちがいたことがおびただしい化石からわかっています。大洪水の後の自然環境においては到底生息することができないようなものたちがかつては、この地上を闊歩していることを私たちは知っています。これらの巨大な生物たちの寿命は、現在よりもはるかに長かったであろうと推測されます。なぜそのようなことが可能だったのかというと、大洪水の前には大気の状態、地表に降り注ぐ有害な宇宙線の状態など、さまざまな面において現代とはちがっていたからではないかという説が立てられています。あるいは、そうなのかもしれません。

ですから、現代の物差しで大洪水前の生物たちのありさまを測ることはできないのです。こうした事実は、この系図に記されている900年もの寿命の長さを説明するための助けにはなると私は受け止めています。

 

4 「生きて、・・・死んだ」

 

 この系図の特徴の第4番目は、「誰それは生まれ・・・何年生きて、誰それを生んで・・何年生きて死んだ」と繰り返されている点です。繰り返し繰り返し「死んだ」「死んだ」「死んだ」「死んだ」と読んでいくと、なんとも不気味な感じがします。

 かつて人類の契約のかしらであるアダムが罪を犯したとき、彼に対して、神はおっしゃいました。創世記3章19節

「3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。

   あなたはそこから取られたのだから。                                

   あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

アダムの罪に対する呪いは、確実にその子孫たちに及んでいったのだとこの系図は語っています。死はアダム以来人類を支配しているのです。

 

5 エノク

 

 この系図の第五の特徴は、系図のなかでもっとも短命なエノクの生涯に関する記述です。彼のこの世での生活は365年でした。しかも、彼に関しては、ほかの人々と違って「死んだ」とは書かれていないのです。「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。ある日、エノクが突如としていなくなってしまったのです。そして、彼がいなくなったとき、人々は「ああ、神がエノクを取られたのだ」という啓示が与えられたのでしょう。そうして、みなが納得したのです。エノクはそういう人生を生きた人でした。

「5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。 5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。

 5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」

 エノクの人生をひとことで言うならば、それは「神とともに歩んだ人生」でした。22節、24節に繰り返されています。だれもがエノクさんという人を思い浮かべると、彼はいつも神とともに歩んでいる人だったなあと思い浮かべる、そういう人だったのです。うれしいことがあったときには、神に感謝をささげ、悲しむべきことがあったときにも、神に祈りをささげ、何事もないときにも神を賛美している。それがエノクでした。寝てもさめても、いつも神様とともに歩んだ人、それがエノクでした。

 エノクさんがある日散歩をしていると、神様が彼の傍らをいっしょに歩いていらっしゃいました。エノクがあのこと、このことを神様にお話し、神もまたエノクにあれこれと語りかけられる。そうして神とともに歩むうちに、気がつけば太陽は西の空に低くなっていました。神様はおっしゃいました、「エノク。もう晩くなりましたね。うちに来ますか。」するとエノクは、「では、そうさせていただきましょうか。」と答えて、彼は神の家に帰って行ったのでした。エノクという人は、神とともに歩む人生でした。

 

 「エノクは神とともに歩んだ」ということを読むと、憧れを感じ、私もそうありたいと感じるとともに、ちょっと自分と引き比べると、なんだか先天的に自分とは質が違う人だなあという印象をもってしまうかもしれません。生まれながら、神を愛し、神とともに歩む人生を歩んだエノク。神の人エノク。聖人エノクというイメージです。

 しかし、ここに短く記された彼の人生を見ると、彼の人生にも霊的な転機があったのだということがわかります。

「5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」

 人生の65年目、エノクにはメトシェラという子どもが与えられました。そのときにどういう出来事があったのかは記録されていませんが、彼は生まれてきたわが子を胸に抱いて、一つの決心をしたのでした。「そうだ。これからは神とともに歩む人生を生きよう。」と。それ以前、セツ系の一族に生まれたエノクが神を知らなかったわけではありません。しかし、まあまあ親が神を信じているから自分も一応神を信じときどき祈りもするという程度だったのでしょう。けれど、メトシェラが生まれたときから、彼は変わりました。神とともに歩むことを決心し、以後300年間、神とともに歩む人生を歩みとおしたのでした。

 先天的エノクが敬虔な人であったというのではありません。あるとき、彼は自分の人生のハンドルを神にお任せすることにしたのです。自己実現、自分の欲望や夢の達成、そうしたものを追い求める人生をやめて、神に人生をおささげしたのでした。それは幸いな人生の始まりでした。そうして、ある日、神はエノクを取られたので、エノクはいなくなったのです。彼が世を去ったとき、人々は彼の墓碑銘に、「エノクは神とともに歩んだ」と刻んだのです。

 

結び

 エノクの人生は当時の標準からすれば、標準の半分にも満たないものでした。決して、長いものではありませんでした。しかし、その人生はまことにすばらしい人生でした。彼が神とともに歩んだからです。あなたは、何とともに歩む人生を生きているのでしょうか。会社とともに、仕事とともに、お金とともに・・・、クリスチャンであれば、そうではなく、神とともに歩む人生を歩んで行きましょう。自分勝手にあらぬ方にむかって歩いていって、「神様こっちこっち」と呼ぶようなことではなく、神とともに歩む人生を行くのであります。

神の民と地の民

創世記4:16-26

 

2016年6月5日 苫小牧主日夕拝

 

 ここ4章16節から26節には、二種の民の歩みが記されています。一つは16節から24節までに書かれている神に背を向けて去ったカインとその子孫の一族です。これをカイン族と呼ぶことにします。もうひとつは、25,26節に記されている、神がアベル亡き後に神がアダムとエバに与えたセツとその子孫の一族です。これをセツ族と呼ぶことにします。カイン族は、神に反逆し神なして生きてゆこうとする一族であり、セツ族は神を祈り求めて生きる一族です。アウグスティヌスは、神を愛する国は神の国、世を愛する国と地の国と呼び、神の国と地の国の絡み合いとしての歴史を描きました。

 

1 カイン族

 

(1)エデンの東・・・反抗と不安

4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

「ノデ」とは、さすらい・放浪という意味のことばです。兄弟を殺し悔い改めを拒んだカインは、大地に呪われて落ち着くところを持たずに放浪してまわるようになりました。そんなカインは、エデンの東に住みますが、その地の名はノデというのです。その意味は、さすらい・放浪という意味ですから、皮肉です。放浪という名の地に住み着いたというのですから。

神に背を向けたので、人は自分自身の落ち着くべきところを失ってしまっています。「自分は誰なのか?自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」がわからなくなるのです。自分の存在理由と自分の存在も目的がわからなくなってしまいます。

 昔、日光の華厳の滝第一高等学校の学生藤村操が「嗚呼人生不可解」と言って身を投げたという話は有名ですが、藤村操でなくとも、造り主である神を見失った人はだれもが、自分がどこから来て、どこへ行くかを知らないのです。世に生まれては来たけれど、生きる目的・生きる意味がわからないのです。だれもが無目的にただ生きて、死んでゆくのです。パスカルによれば、たいていの人はその人生のむなしさをごまかすために、さまざまな「気晴らし」をしているのです。人生のむなしさを真正面から見据えた人は、藤村操さんのように、死んでしまうのかもしれません。カインの末裔の悲惨です。

 神に背を向け、神を見失って以来、人間は心落ち着く場所を持ちません。落ち着きどころの無い不安な心、それがカインとカイン族の心の特徴です。

 

(2)レメク・・・一夫多妻主義・権力欲

 さて、続く17節から24節には、神に背を向けたカインが町を築き、カインの子孫に最初の一夫多妻主義者レメクが生まれたということがしるされています。抜粋して読んでみます。

4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 カインが妻を得たというけれど、この妻はどこから来たのかという議論が昔から論じられます。アダムとその妻エバから生まれた娘たちがいたのでしょうし、兄弟たちも他にいたということを意味しています。カインのように、神と父母に反抗して去った兄弟姉妹たちがいたということでしょう。5章にはアダム以降の系図が記されていますが、アダムの寿命は930年とありますから、その間に、神に従う子孫、神に従わない多くの子孫を残したのでしょう。その一人がカインの妻となりました。こうしてカインの子孫が増えて生きますが、そこにレメクという男が登場します。

 4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。

 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。(中略)

  結婚は、本来、神の第二位格である御子に似たものとして造られた男女が、全人格的な交わりをし、神と神の民の交わりがこのように素晴らしいものであることを表わすために定められた制度です。けれども、レメクは二人の妻アダとツィラ(鈴)をもつことにしました。レメクにとって妻とは、自分の性欲を満たすための道具となり、あるいは虚栄のための道具のような存在にすぎなかったのです。また、女性のほうも「あなた好みの女になりたい」というふうな、奴隷に甘んじるような、しかし、本音のところでは、その色香でもって夫をコントロールすることを狙っているような関係になっていきます。

 レメクは、その妻たちに、自分の権力・暴力を自慢して歌うのです。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。

   「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。

   私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 カイン族の精神は、神への反抗心と不安であると申しましたが、もう一つの特徴は、その不安を覆い隠すために力を求め、力を振りかざすということです。権力であれ、暴力であれ、経済力であれ、己の力でもって、神なしに成功してみせてやる、他者を支配したいという意志です。

 

(3)都市・文明・芸術

 このカイン族から、都市と産業と芸術が生まれてきたというのは、注目すべきことです。

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。

 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

 カインが最初に町を建てたことについて、フランスの哲学者ジャック・エリュールは著書『都市の意味』という書物のなかで、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数 多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。」と注目すべき発言をしています。神は「地を耕し、これを守れ」という命令を堕落前のアダムにお与えになりましたか ら、労働・文化形成自体はよいことです。人は、仕事につき文化的営みをすること通して神の栄光を現わすことができます。しかし、堕落後の人類の歩みを見る ときに、特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。カインは、神に背いた自分は誰かに殺されてしまうという恐怖を訴えたので、神はかれにひとつの印を与えて、彼が人殺しに遭わないようにしてくださいました。けれども、彼は神を信頼することが出来ませんでしたから、自分の住まうところの周囲に塀を築き、やがてそれが町となりました。

 そして、都市について、聖書は一貫して、神に反逆し、やがて滅ぶべきものとして描いている点に注意しておくべきです。バベルの塔、ソドム、ゴモラ、エリコ、バビロン、ツロ、そしてエルサレムというふうに都市は人々の権力と欲望と罪が集中して、やがて、自然災害か、あるいは戦争で滅ぼされていくのです。

 

 また、神が明日も私たちを養ってくださることを信用できない人々が、どのようにしたら安定的に食料を得ることが出来るだろうかと考えて家畜を飼い、天使たちの賛美に心慰められることができないので自ら慰めるために音楽を工夫するようになりました、そして、青銅と鉄器の発明者は最初は農機具は斧に、やがては他者をより多く効率的に殺害する武器をカイン族にもたらしました。その直後に、あのレメクの例の暴力を賛美する歌が出てきますから。
「4:23私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 都市と文明の利器や芸術が、最初にカイン族から出てきたということを聖書が啓示している意味を私たちはよく考える必要があります。文明や技術や芸術は、後に、神の民によっても用いられていくものです。たとえば、音楽は主を賛美するために活用されていくのですし、建築技術は神殿建築にも役立っていくのですから、文明には一般恩恵ということができます。しかし、これらの文明の利器の発端がカイン族にあったということは、何を意味しているのでしょうか?それは、都市というもの、また、文明の利器や芸術は、カイン族にとっては真の神なしで生きるためのもの、神に代わるもの、つまり偶像であったということなのです。ですから、私たちは、この点に警戒心を持っているべきです。芸術も科学も産業もみな一般恩恵ですから、神礼拝の道具とすべきです。芸術至上主義とか、科学主義とか、経済至上主義は、みな偶像崇拝です。文明・技術・芸術は、どこまでも神のみことばの支配の下に置かねばなりません。そうするならば、これらは有益なものとなりますが、神のことばの支配の外においてそれ自体を目的化するならば、科学技術も芸術も経済も有害なものとなってしまいます。

 

3.セツ族は主の御名を呼ぶ

 

 カイン族がいわば華々しい文明・都市国家を築き始めているとき、他方で、神はアダムとエバに、今は亡き敬虔な息子アベルに代わるもう一人の子セツを授けました。

  4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

 このセツから、セツ族が出てきて、その系譜はノアに続きます。セツがどういう人物であり、その一族がどういう人々であるかを示すことが26節に表現されています。

 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。

 セツは自分に生まれた男の子をエノシュと名づけたというのですが、エノシュというのは「人」を意味するもう一つのことばです。アダムは土から造られたものという意味ですが、エノシュということばは、形容詞の「弱い」ということばと同じ根のことばで、特に、神の前における人間の小ささ、弱さを表現するときに用いられることばです。たとえば、詩篇8篇にこうあります。

8:3 あなたの指のわざである天を見、

  あなたが整えられた月や星を見ますのに、

8:4 とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを心に留められるとは。

 もしかするとセツはわが子が生まれたとき、この子がとても弱くてちゃんと成長できるだろうかと心配して、エノシュつまり「弱し」君と名づけたのではないかと思います。セツは父親として、「主よ。この弱い子に、いのちを与えてください。」と神の前にひざまづいて祈りつつ、このエノシュは育てられていったのであろうと思われます。「人々は主の御名を呼ぶことをはじめた。」(直訳)のです。

 神の前に虚勢を張るのではなく、神の前にありのままの自分の弱さを徹底的に認めるところに、主をせつに呼び求める祈りが生まれてきます。これが、神の民セツ族の特徴でした。

 

結び・適用

 カイン族は城壁を築き、次々と産業と文明の利器と芸術を生み出し、富を獲得して妻を何人もめとって快楽と華々しいあゆみをしていました。他方、セツ族は、病弱の息子が生まれて、その子のために祈り始めたということを特徴としていました。世間というものは、こういう姿を見ると、カイン族が祝福されていて、セツ族はあまり祝福されていないというふうに判断するものです。いや、キリスト者たちもついこの世の価値観に影響されて、物事をうわべで見てしまい、米国にあるようなショッピングモールを兼ね備えたようなメガチャーチが華々しく巨大で富が集まる教会は祝福されていて、主の御名を真剣に呼び求めているけれど細々とした群れには同情はしても祝福されているとは思わないのかもしれません。

 イエス様がガリラヤで伝道をしていたとき、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人という群衆を満腹にしてやったことがありました。その時、人々はイエス様を王として担ぎ出そうとしました。イエス様を権力者として、自分たちはその利得にあずかろうとしたのです。しかし、イエス様はこの群集たちを避けて、この世の王として成功することを避けました。主イエスには、十字架にかけられて殺されて、私たちを滅びから救うという使命があったからです。

 この世は圧倒的に、神に背を向けて、富と快楽と権力と栄誉を求めて生きています。それが広き門です。しかし、永遠のいのちにいたる門は、狭き門です。神の前に頭をさげて、、自らの弱さを認めて、主の御名を真実に呼び求める群れであることです。主イエスはおっしゃいました。

「7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

 7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13,14

 

誘惑

創世記3:1-7

 

2016年5月8日 苫小牧主日夕礼拝

 

1 神のことばを不正確に

 

3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

 

(1)蛇

 神とその御子の似姿として造られ、園を神のみこころにしたがって耕し守るようにと任務をいただいたアダムとその妻だったのですが、彼らの有様をみていて嫉妬をした存在がいました。「蛇」です。この蛇は、黙示録12章9節に「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」とありますから、サタンを意味しています。ただ、3章1節に「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで蛇が」とあることから見ると、悪魔がこの蛇に取りついて人間を誘惑したのだと読むのがより正確な読み方であろうと思います。サタンが動物に憑依することがあるのかといえば、新約聖書では悪霊のレギオンの集団がブタに憑依したという例がありますから、蛇にとりついたとしても不思議ではありません。

 サタンというのは、もともとが神のしもべとして創造された御使いの中の身分の高い者であったようです。そういう天使たちが、自ら「いと高き方のようになろう」と思い上がった結果、堕落してしまったということのようです。古代教父オリゲネスは、イザヤ書14章におけるバビロンの王の高慢に対する神のさばきについての箇所(14章12-15節)が、サタンの高慢と堕落を暗示していると指摘しています。サタンは高慢になり神のように人間に崇められ拝まれたいという罪深い欲望ゆえにさばきを受けました。そこで、人間をも自分と同じ高慢の罪に引きずり込み、自分を拝ませ、自分と同じようにゲヘナに誘い込もうとするのです。主イエスを誘惑したときも、サタンは「もし、わたしを拝むなら・・・」と言ったでしょう。もろもろの偶像崇拝宗教の背後にはサタンやその手下である悪霊がいます。サタンとその手下たちは神々として崇められたいので、人間が刻んださまざまな偶像にとりついて礼拝されて悦に入っているのです。サタンの性格的特徴、それは高慢ということです。

 サタンの特徴をもう一つ挙げるならば、彼は神のことばをよく知っているけれども、その神のことばを捻じ曲げたり、水増ししたりして使用するということです。サタンはいいました。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 実は、サタンは女に質問するまでもなく、神のご命令をよく知っているのです。神は、実際には、

「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたはかならず死ぬ」

とおっしゃったのです。その神のことばを利用し、わざと捻じ曲げて

「園のどの木からも食べてはならないと言われたのですか。」

と女にささやきかけたのです。園に食べてよい木が100万本あったとするならば、食べることが許可されている999,999本ではなく、食べてはならないたった1本に女の注意をたくみに向けさせたのです。神が恵みによって与えてくださった祝福を数えるよりも、人間に取ることを許されなかった、たった一本の木に最初の女性の注意をひきつけました。恵みを数えるよりも、わずかな欠けに注目させたのです。私たちが感謝することを忘れて、欠けていることにのみ注目して、不平を言うようになると、サタンとその手下の悪霊どもの誘惑にひっかかっているかもしれない危険な兆候です。

 

(2)隙・・・・不正確なみことばの記憶と理解

 さて、このように蛇の誘惑をうけて、女はなんと答えたでしょう?彼女の返答を見ると、すでにサタンの罠に陥りかけていることがよくわかります。彼女は神のことばに自分勝手に付け加え、ニュアンスを変えてしまいました。みことばの不正確な記憶と不正確な理解が、サタンに付け込まれるすきでした。

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

神は「それを食べてはならない」とおっしゃいましたが、「触れてもいけない」とはおおせにはなりませんでした。彼女は、神のことばに自分のかってな言葉を付け加えてしまったのです。「それに触れてもいけない」というと、どうやら彼女はその木に一種の魔力があるように受け止めていることがうかがわれるでしょう。

 また、神は「あなたがたは必ず死ぬ」と警告なさったのに、彼女は「死ぬといけないからだ」と言い換えました。なんとなく水増しされた印象です。彼女の中に、『ほんの少し食べるくらいなら良いかもしれない』というような隙が彼女の心のうちに生じていることが読み取れるでしょう。

 

 私たちが、自分の欲望にしたがって、神のことばを水増ししたり、取り除いたりするとき、サタンの罠に陥るのです。神のことばがYesということはYesであり、神のことばがNoということはNoなのです。自分に都合よく付け加えたり、取り除いたりしてはいけません。彼女がこのような間違いを起こした原因として考えられることは、一つには彼女自身がアダムから伝え聞いた神の命令のことばを上の空で聞いていたからかもしれません。あるいはアダムが神のことばを正確に妻に伝えていなかったからかもしれません。いずれにせよ、神のことばを正確に理解するということが、サタンに対する勝利の秘訣のひとつです。

 

2 蛇の誘惑・・・三つの邪欲に

 

(1)サタンの誘惑

女がまんまとサタンの話術に乗ったので、サタンは「すきあり!」と見て、大胆に彼女に迫ります。

 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

 サタンが何を言っているのかわかりますか?サタンは、「神はウソツキだ」と主張していのです。 サタンは最初から人殺しで嘘つきですと主イエスがおっしゃいました。サタンは偽りの父とも呼ばれます。サタンにとってはウソをつくことが、その本性です。通常、人間はうそをついてしまうことがあっても、そのことに良心の痛みを感じますからドギマギしてしまうものですが、サタンの場合、また、サタンにその魂を売り渡してしまった人の場合には、ウソをついても何の痛みも痒みも感じず、あたかも呼吸をするようにウソをつき、歌を歌うようにウソをつくことができるのです。そうして、このとき、偽りの父であるサタンは、よりによって真実の神を嘘つき呼ばわりするという冒涜の罪を犯すのです。

 さらにサタンは続けます。

3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 サタンは何を言っているのでしょうか?彼は、「神はけちで嫉妬深い奴だ」と非難しているのです。サタンは「神は、人間であるあなたが神のようになるのを嫌がっているけちな奴だ」と非難しているのです。ひどいことばです。けれども、すでに女はサタンの言うなりでした。彼女の目の欲、肉の欲、虚栄心は善悪の知識の木の実に釘付けになっています。そして、のどの奥でゴクリとツバキを呑み込みました。

 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

 彼女はすでに、どうしても食べたいという肉の欲、食べたらどうなるだろうという好奇心つまり目の欲、そして神のように賢くなりたいという虚栄心という欲望の虜になっていました。欲求というものは、もともと人間が生きていくために神がくださった賜物です。食欲がなければ人は栄養不良になったり餓死したりしてしまうでしょうが、健康よりも食べることのほうが大事になってしまうとこれは邪欲です。好奇心がなければ人は物事を探求しないでしょうから本来好奇心はよいものですが、好奇のあまり麻薬や覚せい剤や命を脅かす危険なことに手を出すようになるとそれは邪欲です。向上心があって人は努力をするものですが、それが分を越えてしまうと虚栄になってしまいまして、これは邪欲です。

 サタンは私たちの欲望を刺激して誘惑するのです。

 

3 結果

 

 さて、神から食べてはならないと言われていた善悪の知識の木を食べた結果、どういうことが二人に起こったでしょうか?本日は、その前半だけ見ておきましょう。

 

  • 女は蛇のようになった

 まず、起こったことは、「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」ということです。蛇は、あの実を取って食べたら、あなたは神のようになれると言って誘惑しましたが、彼女が実際に取って食べたら、彼女はサタンのようになりました。サタンのように、夫を誘惑して、夫にも食べさせてしまったのです。悪魔の誘惑に乗るならば、人は悪魔のようになって、悪魔の手伝いをすることになってしまいます。

 

(2)欲望をコントロールできなくなった

 次に、彼らは今まで恥ずかしいと思わなかった裸を恥ずかしく思うようになり、いちじくの葉で隠すようになりました。

 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 目が開かれたというのは、それまで盲目だったが見えるようになったという意味ではありません。裸が恥ずかしいと感じるようになったという意味です。もし彼らが禁断の木の実を食べたことを恥じているならば、彼らはいちじくの葉で口を覆うマスクをつけたでしょうが、彼らが隠したのは腰でした。なぜか?それは、彼らが性器を恥じたからです。なぜ堕落前は性器を恥じる必要がなかったのに、神に背いて後は性器を恥じる必要が生じたのでしょう。このことについては、聖アウグスティヌスが『神の国』の中で詳しく論じているのですが、結論をいえば、肉体が自分の意志のいうことを聞かず、勝手にふるまうようになってしまったからです。つまり、欲望を意志をもってコントロールできなくなってしまったのです。

 神に背を向けて以来、人間は肉の欲だけでなく、目の欲、虚栄心といったものも、自分の意志でコントロールすることができず、欲望に振り回されることになってしまいました。人間は本来、神の主権の下に身を置くべきものであり、その時には、人間自身の中で意志は、その下にもろもろの欲求を置いてコントロールすることができたのです。しかし、人間が上にある権威である神に背いたとたん、人間の内部でももろもろの欲求が精神に反逆することとなったのです。神の下におるべき人間が、上にある神に反逆したとき、人間の内部において精神の下にあるべき欲求が、上にある精神に反逆することになったのでした。

 パウロはそうした苦悩について告白しています。ローマ7:15

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」

 

  • 霊的死

 実は、アダムと妻が禁断の木の実を食べてしまった、その瞬間、彼らはすでに死んでしまったのです。肉体はまだ生きていましたが、すでに、いのちの源である神との交流が絶えてしまって、彼らは霊においてすでに死んでしまったのでした。死んでしまったので、もはや自分自身を自分でコントロールする力すらなくなってしまったのです。そして、空中の権を持つ支配者であるサタンの圧制の下に置かれるものとなってしまいました。新約聖書エペソ書は次のように言っています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:1,2)

 

結び 

1.サタンというものが実在するのですから、私たちは霊的な目を開いて、欺かれないようにすることが大切です。肉の欲、目の欲、虚栄心にコントロールされないように中止すべきです。

 そのためには、聖書のことばを信じて、しっかりと自分のうちに蓄えておきましょう。そうすれば聖霊が働かれて、あなたが語ることばを与えてくださいます。

 

2.最初の人アダムと妻は、罪を犯してしまったとき、いちじくの葉でもって神の前に恥を隠そうとしました。チャールズ・ホッジという偉い神学者は、人間はアダムの堕落以来、自力救済主義者になってしまったと言いました。このイチジクの葉っぱの腰覆いは、その現れです。

 しかし、そんなもので神の前に恥を隠すことはできません。すぐにしおれてしまうでしょう。神の前に、ありのままの惨めな姿で、神様、私はこんな罪を犯してしまいましたと白旗を揚げて出ることが大事なことです。神は、私たちを恵みによって、ゆるし清める道を用意してくださいました。

   主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架に苦しんで死んでくださいました。主イエスを信じる私たちは、神との交わりのうちに招かれています。

結婚

創世記2:15-25

 

2016年5月1日主日 苫小牧夕礼拝

 

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

  2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

 2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。

 2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

 2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

 2:23 人は言った。

   「これこそ、今や、私の骨からの骨、

   私の肉からの肉。

   これを女と名づけよう。

   これは男から取られたのだから。」

 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

 2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

 

序 

 神様は万物と人間を造られたとき、三つの制度を定められました。一つは七日に一度の安息・礼拝ということであり、一つは労働ないし文化命令であり、一つは結婚ないし家庭建設ということです。礼拝、労働、家庭という三つが、神のもとにおける人間のもっとも基本的な営みです。注目すべきことは、国家などというものは存在していないということです。国家とは剣の権能つまり、悪を取りします警察権ですが、人間の堕落後に、人間が礼拝と労働と家庭を正常に営むことをさまたげる罪が入ってきたので、それを抑制するために必要になって造られた道具です。国家は、国家主義者が考えるように人間の生きる至高の目的ではなく、人間の、礼拝・労働・家庭が営まれるための手段にすぎません。

 さて、それはさておき、善悪の知識の木から話を始めます。

 

1.善悪の知識の木

 

  2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

 神様は人間を造り、エデンの園に置いて、彼にこれを耕しかつ守るという任務をお与えになったとき、善悪の知識の木をお定めになって、これだけは食べるなとおっしゃいました。これは神の人間に対する主権を意味しているのでした。つまり、人間の生きかたにおける善と悪は、人間が定めるわけではなく、神がお定めになるということを意味したのです。人間は、神がお定めになった善と悪との基準の下に身を置いて生きることが、大事なのです。善悪の知識の木の実からとって食べることは、神の主権を侵害し、自分のしたいことが善であり、したくないことが悪なのだという、態度表明を意味したのです。

 「かならず死ぬ」と言われましたが、聖書において「いのち」とは神との交わりを意味し、「死」とは神との断絶を意味します。神に背くなら必然的に、死となります。

 人間の生きる上での善悪の基準は神がお定めになっています。本日、みことばから学ぼうとする結婚についても同様です。聖書はそれほどこと細かく結婚について教えるわけではありませんが、大原則を教えています。その鍵の一節は2章24節です。

 

2.幸福な家庭スタートの順序

 

「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(2:24)

 まず、幸福な結婚、家庭建設の順序についてです。第一に「父母を離れる」つまり両親から自立する、第二に「妻と結び合う」つまり結婚する、第三に、「二人は一体となる」精神的・肉体的・経済的にもひとつとなるという順序です。ところが、現代の日本では、しばしばこの順序がさかさまになってしまっています。つまり、結婚もしていないのに、一体となってしまう。そのうち子どもが出来たから、まあ、仕方ないかということで結婚をする。けれども、夫婦ともに精神的にも、経済的にも父母から自立的できていないということです。これでは、なかなか幸福な家庭の建設はむずかしいのです。

 幸福な家庭建設のスタートのためには、まず、父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるというこの順序が大事だということをわきまえましょう。この世の風潮に惑わされず、神様が定めたのがこの順序ですから、自信を持って子どもや孫たちに教えましょう。

 

2.父母を離れる

 

 十戒は、前半と後半に分かれていて、前半は神への愛、後半は隣人愛についての戒めが記されていますが、その後半の第一番目に来るのが「あなたの父母を敬いなさい。」です。親を敬うことが人間関係、人間愛の基本であるということです。それにもかかわらず、こと結婚のためには、まず「父母を離れなさい」と命じています。父母から精神的経済的に自立しなければ、つまり、大人にならなければ、もう一つの新しい家庭を作ることは非常に困難であるからです。

 何かがあると「実家に帰らせてもらいます」という奥さんでは困り者ですし、配偶者に相談する前に、自分の親に重要なことをさきに相談するような夫も困りものです。二人はまず父母を離れるべきです。

 また、親も、子どもたちが建設し始めた家庭を、少し離れて二人を見守るということをもって、親としての愛を表現することが大事なことです。

 そうして、二人がしっかりと結び合い、よい家庭を築いて、ご両親に親孝行をしてほしいと思います。

 

3.夫婦の役割分担

 

 夫婦の役割分担についてです。男と女はともにそれぞれ神の御子の似姿として造られましたから、ともに尊い存在であることに変わりはありません。しかし、役割の上ではちがいがあります。神は最初にアダムを造り、エデンの園を耕し守るという務めを与え、食べ物に関するさだめ、善悪の知識の木のさだめを与えてから、そのふさわしい助け手として妻をお造りになりました。このことは、夫婦、その家庭において、神様は契約のかしら(代表)を夫に与えられたことを意味しています。3章にまいりますと、妻のほうが先にサタンの誘惑に破れて、夫も共犯者となってしまいますが、神様が最初に責任を問うたのは妻に対してではなく、夫に対してであったことから見ても、神様がアダムをこの最初の家庭の契約のかしらとして扱っておられることがわかります。アダムは、神の前に家庭の代表として立ち、神から受けた祝福と、善悪の知識の木の定めを妻にしっかりと伝えてリーダーシップをとる責任があったのですし、また、妻が過ちを犯したことについても、彼には相当の責任がありました。

このように神様は夫婦において、夫にリーダーシップをおゆだねになりました。妻は、そのリーダーシップを尊重することを神様から求められています。ですから、聖書は繰り返して妻に命じています。「夫に従いなさい」と。

「5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。 5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5:22-24)

「3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

 3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

 3:3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(1ペテロ3:1-4)

 そもそもリーダーシップが成り立ち、機能するためには、条件があります。それは、リーダーの下にある者が、リーダーをリーダーとして認めて尊重することです。そうでなければ、リーダーシップは発揮しようが無いのです。妻が夫のリーダーシップを認める気がまったく無いのに、夫がリーダーシップを発揮しようとすれば暴君になってしまいます。そういう意味で、妻が家庭の秩序の鍵を握っているのです。妻が夫のリーダーシップを尊重すれば、夫は妻を愛し導きやすく、妻もまた、自分のもとに子どもたちを導きやすくなります。しかし、妻が夫のリーダーシップを拒否し、子どもの前でも夫のことをこき下ろすようなことをしていると、夫はリーダーシップを放棄するか暴君になってしまいます。争いの絶えない両親を見ていると、こども不安定になってしまいます。

 夫は妻をキリストが教会を愛したようにいのちをかけて愛し、妻は夫を教会がキリストに従うように従うときに、そこに家庭の調和が生まれます。

 

4.夫婦の結び合い

 

 次に夫婦が結ばれることについて。

 神様はありとあらゆるものを造って来られて、造るたびに「よしと見られた」「よしと見られた」と繰り返して来られました。ところが、最初にアダムを造られたあと、「人がひとりでいるのはよくない」と言われました。そうして、彼に「ふさわしい助け手」として妻を与えます。

 「相応しい助け手」とはどういう意味でしょうか。神様は、彼女を単に助け手とは呼ばず、「相応しい助け手」と呼ばれたのです。神様はアダムを造ったとき、彼のところにもろもろの家畜、鳥、獣たちを連れてこられました。こうした動物のなかでも、牛や馬やロバといった家畜であれば、アダムが園を耕し守るための「助け手」にはなることができました。けれども、「相応しい助け手」になることはできませんでした。

「ふさわしい」とやくされることばネゲッドは「差し向かいの」という意味のことばです。つまり、単に労働力という意味の助けではなく、人格的な交流のある助け手、語り合う助け手、ともに祈ることのできる助け手ということです。

 

このような人格的出会いとしての交わりのために、神様は彼女をアダムをあばらから造られました。そのとき、神様はアダムに眠りを下されました。

「2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」

 神様はなぜアダムにいわば全身麻酔で眠りを下されたのでしょうか?それは、もし彼が目を覚ましていて自分のあばらから妻が造られるのを見たならば、なんだかロボットのような感じがするからでしょう。人間として完成してから、彼女はアダムの前に出現しました。それは、人格と人格の出会いがそこにあるためでした。神様は、そういう配慮をなさったのですから、夫は自分の妻を自分の道具や家畜のように考えてはなりませんし、そういう行動をしてはなりません。ずいぶんひどい言い方をあえてしましたが、かしらとして立てられている夫は、実際、そういう過ちに陥る危険があるのです。

 

結び

 神様は妻をアダムのあばらから造りました。

 神は妻をアダムの頭から造らなかったのは、妻が夫を支配するために造られたのでないからです。

 又、神が妻をアダムを足から造らなかったのは、妻が夫に踏みつけられるために造られたのでないからです。

 神は妻をアダムのわき腹から造られました。それは、妻がアダムのたくましい腕によって守られ、愛され、また、アダムのハートにもっとも近くあるためでした。

 

 この夫と妻の関係は、キリストと教会の麗しい関係の型なのです。ですから、クリスチャン夫婦は、その生き方を通して、キリストと教会の麗しい関係を表現するという崇高にして重い使命があるのです。

文化命令

創世記1章26-2章17節

 

2016年4月27日 苫小牧主日夕礼拝

 

1 神の代理人として

 

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

 人間は、神の造られた有限な被造物という点においては、他の被造物と同じです。けれども、ただ人間だけが神の御子において神に似た存在として造られたという点においてほかの被造物と違っています。神に似た存在であるということは、どういうことを意味しているかというと、人格的なものだということだと前回は大雑把な言い方をしましたが、もう少し創世記の本文自体から見ると、「初めに神が天と地を創造した」と1節にあるように、人間にはものを造る創造力というものがあります。ただし無限の神は無から万物を創造したのであり、有限な人間は材料がなくては何も造れないという違いはあります。これは他の生き物にはない特徴です。他の生き物は、自然のなかの自然の一部ですが、人間は自然界に存在しないもの、例えば、茶碗、やかん、自動車、飛行機、書物、鉛筆、パソコンなどさまざまなものを創造してしまいます。

 また、神は「光あれ」という御言葉を発せられて、光が造られ、さまざまなものが造られました。神はことばを発せられるお方です。また、三位一体のお方として「われわれのかたちに人を造ろう」とおっしゃったように、ことばをもって人格的な交わりをなさるおかたです。「まるで神は人間みたいだな」と考えるのはさかさまで、事実は、私たち人間が神みたいなものとして造られたので、言葉を語り、言葉で人格的な交流をすることができます。神様のように完全なことばは持たないとしても、私たち人間もまたことばを話し、ことばをもって交流をもち理解しあうことができるという特徴をもっています。

 また、神はさまざまなものをお造りになるプロセスの節目節目において、「よしとされた」ということばが出てきます。満足のお気持ちを表わされたということです。万物の創造主である神は、全知全能の超スーパー・コンピューターというふうな心のないモノではなく、「よし」という満足のお気持ちを持つ、そういうお方です。神の御子にあって、神に似た者として造られた私たち人間もまた、感情というものをもっていて、「よし、これはいいなあ」という感想を持つことがあります。お料理を作っていて、下ごしらえが出来て「よし」、サシスセソの順番で味をつけて「よし」というわけです。私たちにも感情というものがあります。

 知性、意志、感情、創造力などを私たちは与えられています。これは私たちが、御子イエスにあって神の似姿であるからこそです。

 

2 文化命令・・・「支配せよ」「耕し守りなさい」

 

 こうした、特別な力を神様が私たちに与えたのには目的がありました。それは、神の被造物の支配あるいは管理をさせることでした。これは「文化命令」とか「労働命令」とか呼ばれます。文化命令は、創世記では1章と2章に記されています。1章における文化命令は次のとおり。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

1章の命令には「支配せよ」とあるのが、たぶん気になる人が多いのではないかと思います。人間が暴君として振舞って環境破壊することを許しているように誤解するからです。このとき、アダムは堕落していませんから、被造物に対して暴君となるわけがなかったのです。

創世記1章は、人間が神の似姿として造られたことを教えることによって、人間は単なる被造物の一部ではないから、他の被造物を拝んではならない、むしろ、正しく知恵のある王としてこれらを治めよと教えるためです。

人間は、愛と知恵と力に満ちた無限の神の似姿として造られたのですから、有限とはいえ愛と知恵と力をもって、被造物世界を治めるべきなのです。そのことは2章の文化命令を読むとよくわかってきます。

2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。

  神である【主】が地と天を造られたとき、 2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。 2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。

 2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

 2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。 2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。 2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。 2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。 2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 

創世記2章15節は、その被造物支配の内容について教えています。

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 「耕す」こと、「守る」ことがその内容です。耕すと訳されていることばは、アバドと言いますが、その派生語がエベド「しもべ」ということばです。そこからわかるように、アバドというのは、日本風にいえば「畑の世話をする」という感じの意味です。主イエスが腰に手ぬぐいをぶら下げて、弟子たちの足を洗ってくださった。あのようなサーバントの心を持った支配なのです。

 神様は、私たち人間が、被造物のうちに秘められた可能性を引き出すことを期待していらっしゃいます。この箇所から2点指摘しておきます。

2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

 ここは面白いですね。神が雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったから、野の潅木も草もなかったというのです。人間くらいいなくても木も草も生えるだろうといいたいとことです。この箇所がこの表現をもって言おうとしていることは、人間が土地を耕すことによって、林も野の草も生えてくるのだということです。人間には被造物のうちに秘められている可能性、力を引き出す役割があります。それが文化命令です。

 また、10節から14節のうち特に11,12節には、金、ベドラハ、シマメノウといった資源について書かれていることを見ると、神様はそういう地下資源を人間が利用することを期待していらっしゃるのだと思われます。やはり、被造物支配のありかたは、大地の中に神様が秘めておられる可能性を引き出す、そういう役割を果たすお世話をするということです。文化命令ということです。

 

「守らせた」とはどういうことでしょうか。人間は神が託された被造物世界の可能性を引き出して利用してよいのですが、それと同時に、これを保全することをしなければならないという意味です。ただ環境を破壊して欲しいものを搾り取るだけ搾り取るというやりかたの利用をしてはいけないということです。たとえば、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があります。水田はお米を作るだけでなく、そこに水を蓄えることによって、地下水を涵養しますし、また、一気に水が流れ出して洪水になることを防ぎます。また、農業における土壌についても同じものばかり造っていたら必ず連作障害が出てきます。神が造られた世界は多様な世界なので、その摂理と調和した農業を工夫することが必要で、輪作体系をくむとか、律法にもあるように定期的に土地を休ませることも「守る」ことです。さらに農業は景観を美しく保つという役割もあります。単に食糧生産のためにのみ農業があるという、狭い経済一本やりの了見で農業をみてはなりません。耕し、かつ、守る働きが農業にはあるのです。

 金、ベドラハ、シマメノウに限らず、石炭や石油といった地下資源を用いることも許されています。けれども、それが環境破壊にならぬようにという配慮が必要です。空気を汚し、水を汚し、土壌を汚して、もはや人間も動物もまともに生活できなくなってしまうような地下資源の利用の仕方は、神のみこころに背くことです。そういうことを考えると、原子力の利用というのは、燃料であるウラン採掘と精製の過程からして、その工程に携わる人々の健康障害と環境破壊とをもたらしますから、神のみこころにかなっているとは言いがたいと思います。

神様は文化命令において、「耕し、利用する」と同時に、「守る」ことを求められました。

 

3 善悪の知識の木・・・神の主権の下で

 

 造り主である神は、アダムをエデンの園に置き、文化命令をお与えになったときに、食べ物は園のどの木から食べても良いとおっしゃると同時に、園の中央にある善悪の知識の木からだけは食べるな、と制限をお与えになりました。

 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 人間は善悪の知識の木を食べてはならないとは何を意味していたのでしょうか。それは、神が私たちの上に主権をもっていらっしゃるということです。私たち人間は、自分で何が善であり、何が悪であるかを決める権限をもっておらず、ことの善悪は神が主権をもってお定めになることなのだということです。

 私たちはなぜ父母を敬わなければ成らないのか。それは神が「あなたの父母を敬え」とお命じになったからです。なぜ人を殺してはいけないのか。それは神が「殺してはならない」とお命じになったからです。なぜ姦淫をしてはいけないのか。それは神が「姦淫してはならない」とお命じになったからです。・・・・人間における基本的な善悪は、神がお定めになるもので、これを人間が論じて勝手に変えてはいけません。それは自分を神とする思い上がりです。善悪の知識の木から取って食べることは、「私には神などいらない。私が私の神なのだ」という反逆を意味したのです。

 そういうわけで、神様はすべての園の木をアダムに委ねましたが、ただ善悪の知識の木だけは食べるなと禁止されたのでした。私たちは、神様が、私たち人間を御子にあってご自身の似姿として造ってくださり、私たちが神代理としてこの被造物世界を、耕し利用して、かつ、守ることが任務として与えられていることを学んできました。私たちの信仰生活は、主の日の教会だけのことでなく、学校で勉強することも、家を掃除することも、食べることも飲むことも着る事も、趣味も、すべてにわたって、神様の前でのことなのだということを覚えましょう。私たちの生活のすべてが礼拝の生活なのです。

 「ですから、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:31