水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

「殺すな。生かせ。」 (第六戒)

 「殺してはならない」出エジプト20章13節

  

序 第6番目の戒め「殺してはならない」です。このあと禁止命令が「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人のものをほしがってはならい」と続きます。私たちは新約の時代の神の民として、こうした禁止命令を基本的にどのように理解するかということについて、最初に2点だけ説明してから、話を進めていきます。

 第一は、十戒は、旧約新約の時代を超える道徳律法なので、今日もこれらは有効であるということです。

 第二は、旧約時代に啓示された十戒は「~するな」というブレーキ的な性格が強いのですが、聖霊がすべての信徒に注がれた新約時代には、これらの十戒は、心の動機まで考慮して理解しなおし、また、アクセル的に理解しなおすべきであるということです。

 

1.なぜ「殺してはならない」のか?

 

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という本がNHK新書にあります。この本が出されたのは今からもう20年ほど前のことです。その年、17歳の少年たちによる殺人事件が相次ぎました。そして、彼らは取り調べに対して「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問をして、世間を驚かせたのです。ある少年は見ず知らずのおばあさんを殺害して、「もう生きてても社会に価値のなくなったばあさんを殺してなぜいけないのか」と問うたのです。偏差値とか経済的効率でその価値を測られてきた青年の社会への復讐だったのかもしれません。

 それにしても「なぜ人を殺してはいけない」のでしょうか?聖書はなんと言っているでしょうか。

創世記9:6

「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」

 神が私たち人間ひとりひとりを、御自身のかたちとして造られたので、人間は尊厳ある存在なのです。ですから、私たちは人を殺してはいけません。その人が仕事ができようとできまいと、ハンサムだろうとそうでなかろうと。幼子だろうと、老人だろうと。いわゆる健常者だろうと障害者であろうと、私たち一人一人は、神のかたちに造られた存在であるゆえに尊いので、殺してはいけないのです。

 

2.「殺人」とは?

 

 では、「殺してはならない」という戒めは私たちに何を求めているのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答は次のようにまとめています。

問105 神様は第六戒において、何を求めておられますか。
答 わたしが、わたしの隣人を、思いや言葉、態度、ましてや行いをもってでも、自分みずから、あるいは他の人を通して、ののしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしないことです。
 また、わたしが、むしろ、すべての復讐心を捨てて、わたし自身が自分を傷つけたり、無理に危険を冒したりしないことです。
 それゆえに、役人は殺人を防ぐために剣を帯びているのです。

 

 つまり、私たちの心の中まで見ていらっしゃる神様の目からすれば、「殺す」ということは、相手の心臓を停止させるという行為だけでなく、心の中に憎しみや殺意を抱くこと、その憎しみをもって相手を睨みつけること、ののしること、侮辱することなどがすでに恐ろしい殺人罪なのです。ここには、過去に何人かすでに殺してしまったという心当たりある人がいるかもしれません。

 主イエスは、おっしゃいました。

マタイ5章21ー22節

「21昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。**

 

 また、殺してはならないのは、他人だけではなく、自分自身を含みます。このごろ自殺ということばを自死ということばに言い換えて、ごまかす報道がありますが、神様の前に自らの命を奪うことは殺人罪にあたります。また、ことさら死の危険に身をさらすことも、いのちをくださった神を侮ること、神を試みる罪です。

 

3.「殺さない」ためには

 

 では、神の前に「殺人罪を犯さない」ために、私たちは具体的にどうすればよいのでしょうか。「復讐心を捨て去る」ことであるとハイデルベルクは教えています。復讐心・怒り・憎しみというものを抱き続けると、恐るべき結果を招くことになります。

人間は知性と感情と意志(行動)という三つの働きがあります。通常は、知性で物事を判断し、その判断に基づいて意志して行動し、そして、そこに感情がついてきます。たとえば、ここにおまんじゅうがあったとして、それが真夏に4,5日置いたものだと知性で認識するならば、美味しそうに見えても、食べないで捨てるわけです。でも、食べたいという感情が強すぎると、知性がこれは腐っているから危ないという判断が鈍ってしまって、食べるという行動に出て、結果、食中毒になってしまいます。感情は欲の影響を受けやすいので、人生において感情を優先させることは危険です。

復讐心や怒りという感情を抱き続けると、知性がマヒして正しい価値判断ができなくなり、私にはこの人を殺す権利があるなどと間違った判断するようになり、ついには相手のいのちを奪い、相手の家族も、自分と自分の家族の人生も破壊する取り返しのつかない行動をしてしまうことになります。だから、聖書は怒り・復讐心の芽が出たら日が暮れる前に摘んでしまうことが肝心であると命じています。

エペソ4章

「26**,怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。**

27**,悪魔に機会を与えないようにしなさい。」

 悪魔は、憎しみや復讐心が大好物なのです。あなたが復讐心「仕返ししてやる」という心を捨てないで、いつまでも心に蓄えているならば、悪魔がやってきて、恐ろしい罪を犯すようにと、言葉たくみにいざなうのです。「あなたの憎しみはもっともなことだ、あなたには復讐をする正当な権利がある。悪いのはあいつであって、あなたはまったく悪くない。あなたは謝る必要など少しもない。あなたは被害者だ。・・・さあ、復讐するんだ。」悪魔にチャンスを与えてはいけません。あなたが、憎しみを心に抱えたままでいると、目ざとい悪魔はあなたの心にするりと入り込むのです。復讐心は日が暮れる前に、捨てることです。

 

復讐心から解放される秘訣は、自分が永遠の裁判官の前に出る日があることを思い出すことです。あなたに被害を及ぼした人も、あなた自身もすべてをご存知の裁判官の前に出ることになります。あなたの加害者は神がさばきます。あなたがどんなに自分を正当化しても復讐心をいだき続けていること自体、殺人です。自分の殺人罪を正当化して、あなたは永遠の審判者の前に出のは恐ろしいことです。主イエスはおっしゃいました。

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、**

24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。**

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。**

26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。

 先日、M姉が主の御許に召されました。今は、主の御許でこの上なく楽しく暮らしていらっしゃいますが、召される一週間前に私が訪問したとき、マリ子さんはぽろぽろ涙を流していました。それは妹さんとその昔仲たがいして、赦せないという思いを持ち続けていたのです。ところが、その妹さんが見舞いにきてくださったのでした。M姉は自分はなんと心の狭い人間なのか、と嘆いていたのです。でも、そのようにして悔い改めて彼女は永遠の裁判官の前に出る前に備えができたのでした。


4.さらにすぐれた道―生かすこと

 

「殺してはならない」という戒めは、ただ私たちが人を殺さず、憎まずにいれば満たしたことになるのかというと、そうではありません。もしそうなら、絶海の孤島でロビンソン・クルーソーのように、誰とも関係をもたない生活をすればよいでしょう。しかし、そうではありません。ハイデルベルク信仰問答は次のように言います。

問107 しかし、わたしたちが、わたしたちの隣人を、そう告げられたように殺さなければ、この戒めを既に満たしていることになるのですか。
答 いいえ、違います。
 なぜなら神様は、ねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、
わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。
 隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、
その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです。

 

積極的に隣人を自分自身のように愛する生活をしている人は、「殺してはならない」という戒めをすでに満たしているのです。「復讐しないぞ」「憎まない」「恨まないぞ」と頑張っていると、相手の憎たらしい顔や声がかえって心に浮かんできて、かえって憎しみにとらわれてしまいます。「ドングリを鼻の穴にいれてはいけません」と命じられると、つい鼻の穴にドングリを入れたくなってしまうのと同じです。むしろ、積極的に、愛することです。

そのことを、主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」とお命じになりました。愛するとき、私たちは律法から解放されて自由になります。自由にされて、神の戒めを十二分に満たすことができるのです。「あなたの敵を愛しなさい」という主の命令は、あなたを縛り付ける戒めではなく、あなたを解放する福音なのです。

悪に対して悪をもって反応をするとき、私たちは敵の奴隷となっています。相手にコントロールされているのです。しかし、悪に対して善をむくいることができたら、あなたは神の子として自由に活かされているのです。これが、さらにすぐれた道であり、自由の道であり、神の子どもとしての道です。主に、「私を御霊に満たしてください」と信じて祈るとき、この自由な神の子どもとしての生き方をしていることに気付くでしょう。

 

結び

 殺すのでなく、むしろ、生かすこと。ここに神の子どもとしての自由の道があります。