水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

平和をつくる者

マタイ5章9節、43節から48節

 

2019年11月月10日 苫小牧朝

 

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 

1 「平和」とは・・・山上の説教の文脈のなかで

 

 「平和」ということばは、旧約のヘブル語ではシャロームといいます。同じことばが、文脈に応じて平和とも平安とも訳されます。日本語では、平和というと誰かと誰か、国と国の関係で争いがない状態をいい、平安というとおもに心の中の安心な状態を意味するのですが、聖書ではひとつのことばです。

 では、「平和」をつくる者は幸いです」ということばで、イエス様が「平和」とおっしゃる意味はなんでしょうか。聖書辞典を読むよりも大事なことは、文脈をたどることです。イエス様は山上の説教の序文にあたる、この八つの祝福のなかで「平和をつくる者は、神の子どもと呼ばれる」とおっしゃっているのですから、マタイ福音書5章から7章の山上の説教の中で、「平和」と「神の子ども」というテーマがどのように用いられているのかに着目することが正しい聖書解釈の筋道です。

 「平和」と「神の子ども」の二つの結びつきを意識しながら、マタイ福音書5章から7章の山上の説教を味わってみると、5章43節から48節の教えが、イエス様がここでおっしゃろうとしている「平和」のことなのだと気づくでしょう。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 これが、イエス様の、平和をつくる神の子どもに関する教えです。

 

平和とはなにかと国語辞典で見れば、「戦争や紛争がない状態にあること。」というふうに、あまり積極的な意味では定義されていません。辞書は争いがないこと、それを平和というのです。たとえば、家庭の中にとくに争いがないことはよいことですが、それだけでイエス様がおっしゃる平和と言えるでしょうか。「喧嘩はしていないけれど、それは夫は仕事のことばかり、妻は趣味のことばかりで、単にお互い無関心なので、争いがないだけだ」というばあいだってあります。でも、「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無関心です。」というのはマザー・テレサの有名なことばがあるように、こういうのはイエス様のおっしゃる平和ではないでしょう。

エス様がおっしゃる平和とはなんでしょうか。それは、単に争いがないことではなくて、44節で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とおっしゃっているのを見ると、「互いに愛し、互いの祝福のために祈りあうような関係」であることこそ、「平和」なのだということがわかるでしょう。使徒パウロも次のように言いました。

「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。  キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:14、15) 

エス様のおっしゃる平和とは、このように積極的な愛の交わりがある状態を意味しています。互いに愛し、互いの祝福を祈りあう、そのような平和をつくる者が神の子どもと呼ばれるのです。

 

2 平和はつくるもの

 

さて、平和はこのような愛の交わりです。ですが、その素晴らしい平和は、ほうって置けば自然にできあがるものではなくて、意識してつくりだすべきものだとイエス様はおっしゃるのです。「平和をつくる者は幸いです。」平和は、自然にできるわけではなく、しかも、いつでも壊れていく恐れのあるものです。また、平和を壊すのは私たち自身の自己中心の罪の性質であったり、また、そこに付け入る悪魔の働きでもあります。ですから、「昨日まで平和だったから、今日も明日も寝ていれば平和はつづくだろう」とは行かないのです。平和は作り続けなければなりません。

人はアダムの堕落以来、利己的になってしまって、神様のみこころよりも自分の都合、隣人のしあわせよりも自分の利益のことばかり考える習性があります。しかも、面倒なことに、罪の利己的性質ゆえに、基本的に私たちは自分は正しく、人は正しくないと感じるのです。「私は正しい、あなたは正しくない」という自己中心の罪人たちが、家庭にも、地域社会にも、この地球に一緒に住んでいるのです。自己中心な私たちですから、絶えず悔い改めながら、平和をつくりだす努力をする必要があります。そういう世の中であるからこそ、私たち神の子どもた民にイエス様は期待していらっしゃいます。

身近な一例として夫婦をあげれば、一般に、結婚するまで男は一生懸命だけれど、結婚したら、仕事にのみ集中という傾向があるそうです。けれども、段々と女性も目が覚めてきて、そういうことなら「定年になって退職金が出たら、それをもらって、はいさようなら」というようなケースが出てきました。家庭に平和をつくるために、何の努力もしなければ、そこに家庭に不和が生じるのはあたりまえのことです。平和、つまり、単に争いがないというのではなく、互いに愛し合う状態というのは放っておいて維持できるわけではなくて、つくること、維持すること、育てることが必要なのです。

これは夫婦にかぎったことではなく、親子であれ、隣人関係であれ、国と国であれ同じことです。平和はつくるものです。放置すれば、そこには不和、争い、戦争が生じることになります。

 

3 平和をつくる方法・・・敵の祝福を祈る

 

 では、平和をつくる方法とはなんでしょうか。人間は愚かで、「平和をつくる者」についてもあきれ返るほど自分勝手な解釈をしてきました。アメリカにコルトという拳銃を作る会社があります。西部開拓時代、コルト社は拳銃を作り、これを「ピースメイカー」つまり「平和を作るもの」と名付けました。「うるさいやつは殺してしまう」それが平和をつくる方法だというのでしょう。しかし、実際には、敵を殺すことによって生じるのは、憎しみと復讐であり、その復讐によってまた憎しみが増大していきます。憎しみの連鎖です。

 どういう名の映画であったか忘れたのですが、おそらくイラクを舞台とした映画でした。進駐している米軍をターゲットとして大きなテロがあって米軍兵士が何人も死にました。米軍兵士たちは復讐を誓い、有名だけれど、顔の知られていないテロリストグループの指導者を捜索します。彼は民衆のなかに浸透しており、なかなか見つかりません。多くの民衆に暴力を振るった後、ようやくある民家にかくまわれた白髪の老人がそれとわかり、米兵は彼と彼をかくまった女性たちを殺害します。米兵が現場を去ると、物置から10歳ほどの男の子が出てきます。母親、祖父と祖母を殺された男の子は言うのです。「この仇は必ずとる」と。憎しみに対して憎しみで報いるならば、それは火事のようなものです。一本のマッチが家全体どころか大きな森を焼いてしまうこともあります。

 

 イエス様は平和をつくる方法はなんだとおしえられたでしょうか。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

 敵がいるということは、そこに争いがあるということです。「汝の敵を愛せよ」ということばは、よく知られたイエス様のことばですが、多くの人は「そんなことができるのは、キリスト様だけだよ。」と思うのかもしれません。たしかに、十字架の上でイエス様は「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」ということばを知ったとき、私も驚きました。こんな祈りができるのは神の御子イエス様だけだ、と思いました。でも、使徒の働きを読んでいくと、エルサレム教会の執事の一人であったステパノは、福音を語ったかどで石打にされたとき、その死の直前にこう祈りました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)敵を愛し、迫害する者のために祈るのはイエス様だけではなく、イエス様の弟子である私たちのすべきことです。イエス様は、あなたに命じているのです。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

 「敵を愛しなさい」といって、どう愛するでしょう。好きにはなれないでしょう。しかし、愛するというのは、「好き」という感情ではなくて、むしろ意志的行動です。決断です。イエス様はここで感情のことはまずさておき、行動を命じました。「迫害するもののために祈りなさい。」のろってはいけません。祝福しなさいということです。これは具体的な行動ですから、意志の決断によってできます。あなたが意志的に決断すれば、感情はついていかずとも、行動として祈ることができます。「敵意を向けて来るあの人」のために、言葉に出して、「主よ。あの人を祝福してください」と祈るのです。

 このようにして信仰によって意志的に言葉に出して祈るならば、感情はあとからついてきます。あなたが主のご命令に従って用いることばが、あなたの行動を導き、そして、感情を導くのです。ことばはヤコブ書にもあるように、大きな船にとっての舵です。ことばで私たちの生きかたも感情も、そして、人生もその航路を決めることになります。だから、わたしたちは言葉に出して、主イエスが命じられた、あなたに敵意を向けるあの人をも愛し祝福する祈りをささげるべきです。

 

結び 神の子ども・・・・父のように、善をもって悪に報いる

 「平和をつくる者は神の子どもと呼ばれる」と主イエスはおっしゃいました。なぜでしょう?それは神様というお方が、平和をつくるお方だからです。日々良いもので満たしていてくださる神様を無視し、感謝もせず、礼拝もせず、「神などいるものか。神がいるなら見せてみろ」などとうそぶいているそういう人たちにも、日々、太陽を昇らせ、雨を降らせ、空気を与え、食物を与えていてくださいます。悪に対して善を報いていらっしゃいます。ですから、私たちが神の子どもらしく、神の子どもらしく敵の祝福を祈るのです。そうすると、あなたの中に宿っている神の聖霊が躍動し、喜びを経験するでしょう。

 最後にアッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

平和の祈り
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

 

 

 

 

 

Peacemakers

The "peace" is not only in a negative state that"there is no strife" . "There is no strife among us because we are mutually indifferent" is not the peace which Jesus says. "Peace" means that there is exchange of the positive love among us. So Jesus tells us to love our enemies and pray for blessing for them.

 

Peace does not produce itself automatically  nor necessarily maintain. We have to make efforts to produce peace and to maintain it with eagerness . Between husband and wife, parent and child, a country and a country, and in what kind of relations, we should make efforts to make peace.

 

Then, what is the method of making peace? There is a handgun named “peacemaker”. Probably he who named the gun thought the it would make peace by killing an enemy. But violence makes only the chain of hate and it does not realize peace there.

 

Praying for blessing for our enemies is the method of building peace. Thus, those who love an enemy and make peace are called the child of God. It is because just God is the peacemaker. God gives a lot of graces to those who do not love Him. God gave us the beloved Son when we do not believe Him. As the children of God we want to pray for blessing for our enemies and love them.