水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神が神であるゆえに

ヨブ1:6-2:10

 

  • サタンの訴え

(1)サタン

 「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

 1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

 1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

 サタンはヨブについて神にこのように告発しました。サタンとは人類の敵であり、告発者です。サタンはもともと神に仕えることをその務めとした霊的実在である天使でしたが、その自分の領域に満足することができず、自ら「いと高き方」神のようになろうとした結果、堕落してしまいました。そのときに、同じ罪を犯した多くの御使いたちも一緒に堕落して神に敵対する勢力となりました。イザヤ書14章にはバビロンへの宣告の中にサタンへの神のさばきのことばが記されていると古代教会以来、読まれてきました。

「14:12 暁の子、明けの明星よ。

   どうしてあなたは天から落ちたのか。

   国々を打ち破った者よ。

   どうしてあなたは地に切り倒されたのか。

 14:13 あなたは心の中で言った。

   『私は天に上ろう。

   神の星々のはるか上に私の王座を上げ、

   北の果てにある会合の山にすわろう。

 14:14 密雲の頂に上り、

   いと高き方のようになろう。』

 14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、

   穴の底に落とされる。」

 サタンは別名、「龍」、「古い蛇」と呼ばれ (黙示20:2)、「この世の君」(ヨハネ14:30)「空中の権をもつ者」(エペソ2:2); 「この世の神 」(2コリント4:4)とさえ呼ばれます。サタンの仕業のねらいは、人間をまことの神から引き離すこと、そして自分を神としてあがめさせることにあります。そのためにサタンはさまざまな誘惑をしかけてきます。最初の人アダムと妻は、まんまとサタンの罠にはまって神に背いてしまいました。このたびはヨブを試みるのです。

 

 とはいえ、サタンについてもう一つ知っておくべきことは、サタンはしばしば神を自称してはいるものの、実際には実の創造主である神にはまったく匹敵しない被造物にすぎないということです。本日の個所を読めばよくわかるように、サタンは決して神と対等な立場にはありませんし、また神のように全知全能でもありませんし、遍在者でもありません。サタンは有限な被造物にすぎないのです。ヨブを誘惑しようとするときにも、サタンは神の許可を貰わなければ行なうことができない立場であることがわかります。

サタンは人間を神から引き離し自分を崇めさせようとしてさまざまな悪事を働きます。私たちは神がなぜサタンにヨブを誘惑することを許容したりなさるのだろう?といぶかしく感じないではいられません。けれども、全知全能の神は最終的にはサタンの仕業さえも逆手にとって、ご自身の御心を遂行し、栄光を現わしてしまうのです。

そうであるからこそ、私たちはどのような試練の中にも希望をもって、主を見上げて歩むことができます。もしサタンと神が対等であったなら、どちらが勝つかわかったものではないのですから、不安でたまりませんが、神が勝利者であることは最初からわかっているのです。そして、神は、神を愛する人々、すなわち神のご計画にしたがって召された人々のためには、すべてのことを働かせて益としてくださることを、わたしたちは知っているのです。

 

(2)サタンの訴え

 さて、サタンの訴えの内容です。

1:9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

 1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

 1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

 

 サタンが言いたいことは、要するに、「ヨブは神からのご利益があるから、神を畏れ悪から遠ざかっているにすぎない。今あなたがヨブに与えているご利益を取り去ってしまえば、ヨブだってあなたを呪うにちがいありません。」ということです。ヨブの宗教は、単なるご利益主義にすぎないというのです。欲望の塊であるサタンからみれば、人間は欲深で自分の得になるものは信じるだろうが、自分の得にならないものなど信じるわけがないのです。

 神が私たちにさまざまな祝福を賜るというのは、確かに聖書の約束するところです。神様は、この世ばかりか、次の世においても神様を愛する者に対して霊的にも物質的にもあらゆる祝福を与えてくださいます。その意味では、キリスト教はご利益宗教です。この世にある多くの御利益宗教がお金がもうかるとか病気が治るといった有限なご利益を与えて最後は永遠の滅びにいらせるものですが、キリスト教の神様はこの地上のもろもろの祝福に加えて永遠のいのちという無限の祝福を与えてくださるのですから、史上最強のご利益宗教はキリスト教なのです。

 けれども、キリスト教には、世のご利益宗教とは決定的な違いがあります。それは、世のご利益宗教はご利益があるから、ご利益目当てで神々をおがむのですが、キリスト教はご利益があろうとなかろうと、神が神であるからこのお方を信じるべきであると言う点です。真理というものは、そういう性格のものです。

真理というのは、それが自分の気に入ろうと入るまいと、真理です。真理というのは、それがあなたにとって目先得になろうと得になるまいと、真理です。たとえば、万有引力の法則というものがあって、高いところにあるものは下に落ちるという真理があります。たとえあなたが空を飛びたい、引力なんか大嫌いだと思って、ビルの20階から飛べば下に落ちて死んでしまいます。真理には逆らうことができません。真理というのは無条件にしたがうことを要求します。したがわなければ、自らに禍を招きます。

 

2.わざわいヨブの信仰告白

 

 サタンは神の許可を得て、ヨブのすべての持ち物に関して次々と禍をもたらします。まず500くびきの牛、500頭のろば、そしてしもべたちです。

 

 1:12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。

  1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、

 1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、

 1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 

次に、羊7000頭と多くのしもべたちです。

 

 1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 

次に、3000頭のらくだ、としもべたちです。

 

 1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 

 こうしてヨブは、「羊700頭、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ロバ500頭、それに非常におおくのしもべたち」(3節)という全財産をいっぺんで失ってしまいました。東の人々のなかで第一の富豪であったヨブは無一文になってしまったのです。たいていの人なら「神も仏もあるものか」と罵るのではないでしょうか。

しかし、ヨブは沈黙していました。「家族が守られているならば・・・」と思っていたのではないでしょうか。すると、そこに次のしもべが駆けつけます。

 

 1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。

 1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」

 

 こうしてヨブは全財産ばかりか、かわいい仲の良い子どもたち十人までも一度に失ってしまったのです。ヨブの嘆きはちょっと想像できません。次々ともたらされる悲報に対してヨブはどうしたでしょうか。

 

  1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、

 1:21 そして言った。

   「私は裸で母の胎から出て来た。

   また、裸で私はかしこに帰ろう。

   【主】は与え、【主】は取られる。

   【主】の御名はほむべきかな。」

 1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

 

 いったい、こういう信仰告白を人間がすることができるのでしょうか!?そういう驚嘆をせざるを得ない信仰告白です。私は浪人時代18歳だったでしょうか、初めて旧約聖書ヨブ記を読んで、衝撃を受けました。「これが信仰というものなのか!」という驚きでした。

 信仰というものは、いろいろな付属物をみな取り去ってしまうならば、つまるところ、真理への服従にほかならないということを知ったのです。

 

3.二度目のサタンの試み

 

 ヨブの信仰はサタンの誘惑に対して勝利を収めました。ヨブの信仰告白にサタンは、あきれかえり、悔しがって歯噛みしたにちがいありません。しかし、サタンはそれで諦めませんでした。

サタンは作戦を練り直して、再び神の前に立ちます。第二ラウンドです。今度はサタンは、二つの方面から攻撃してきました。一つはヨブの肉体を打つことです。ヨブは財産や子どもは奪われても、自分自身の肉体は打たれなかったから、あんな奇麗事の信仰告白なんぞをしているにすぎませんよというのです。

  2:1 ある日のこと、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、【主】の前に立った。

 2:2 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

 2:3 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」

 2:4 サタンは【主】に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。

 2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」

 2:6 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」

  2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。

 2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。

 ヨブは病で打たれました。しかも、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫瘍で覆われたのです。かゆくてかゆくて、ヨブは土器のかけらで自分の皮膚をかきました。24時間、その病を意識しないでは過ごせないという悪質な皮膚病です。

 

 サタンのもう一つの攻撃は、ヨブにとっての最も身近な存在であり、ヨブにとって「ふさわしい助け手」であるはずの妻を用いることでした。アダムを誘惑したとき以来、男を堕落させるにはその妻を利用するというのは、いわばサタンの常套手段でした。サタンは男は妻に弱いことをよく知っているのです。また逆にいえば、男はよい妻があってこそ主のしもべとして十分に働くことができるものです。妻たちの役割は大きいのです。

残念ながら、ヨブの妻はヨブをつまずかせるようなことを言ってしまいます。サタンが「彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」と言ったように、彼女は夫ヨブに対して神を呪えというのです。

 2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

 人間的な言い方をすれば、ヨブの妻の気持ちももっともだなあと思います。今まで夫がどれほど神様に対して忠実に歩んできたかを最も身近にあって見て来たのが、この妻でした。子どもたちがあるいは心の中で神を呪ったかもしれないと懸念して、それぞれのために全焼の生贄を捧げるほどに、神を畏れ敬ってきた夫でした。その夫が、全財産を失い、10人の子どもを失ったのです。それで、もう彼女はすでにがたがたになってしまったのかもしれません。

 その上、無一文になった夫ヨブは今度は頭の頂から足の裏まで悪性のはれものに覆われてしまいました。もう彼女は失望のあまり、決して言ってはならないことばを口にしてしまったのでした。ヨブの友人たちは後に神様から叱られるのですが、神様は、ヨブ記の最後まで彼女のことを叱ったり罰したりなさいませんでした。沈黙からの推測は困難ですが、あるいは神様もヨブの妻の弱さに同情してくださったのでしょうか。

 けれども、義人ヨブは「神を呪って死になさい」という妻をたしなめて言うのです。

 2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

 

結び

ヨブ記の一章と二章で言いたいこと。それは要するに、私たちの神様に対する信仰というのは何か得をするから信じるとか、損になれば信じないというものではないのだということです。ほんものの信仰とは、真理に基づくものです。真理というものは、それが真理であるがゆえに、自分にとって得であろうと損であろうと信じ従うことを要求するのです。

なぜ私たちはイエス・キリストの父なる神を信じるのか。このお方こそ、まことの神であられるからです。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

これは人間の信仰というのは、ここまで到達することができるのだという一つの歴史上の金字塔です。

しかし、その信仰告白は試されていくのです。