水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 神を見る

 

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」

                       マタイ 5:8

 「神を見る」ということは、人間の至福のこととして、聖書では創世記に見える堕落前の人間の神との交わり、そして、最終的な御国の完成における人間の神との交わりを表現するときに記されているものです。「神のしもべたちは神の御顔を仰ぎ見る」というのです。

 

1 有限の人、無限の神存在論的に

 

(1)神を見ることはできない

 まず、存在として、神は神であられ、人は人にすぎないから、人には神を見ることはできないと教えられているみことばがあります。

「キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、,死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」1テモテ6:15、16

 神は絶対者、しかるに、人間は相対者。神は無限、しかるに、人間は有限。神は、唯一の主権者、王の王、主の主、不死の方、近づくことのできない光の中にいるお方であるから、ちっぽけな被造物にすぎない私たち人間には、見ることはおろか近づくことさえできません。「人間はだれひとり見たことのない、また見ることのできないお方」とあるように、過去から未来永劫、無限の神と有限な人間との間には越えられない深い淵があります。

それは、堕落の前のエデンの園でも、堕落後のこの世でも、また、天国に行ったとしても同じことです。神は神であり、人間はどこまでも人間なのです。そういう意味で、人は神を見ることはぜったいにできません。 罪があるとか罪がないとかいう道徳的な次元の問題ではなく、存在の次元として、無限のお方に、有限な私たちには近づくこと、見ることもできないのです。ミミズが私たち人間を理解できないように、私たち人間は神を見ることができません。

 

(2)「神のかたち」である御子を通して神を見る

 では、人間の側からは見ることも近づくこともできないほど偉大な神を私たちはどのようにして見て、知ることができるでしょうか。それを可能としてくださるのは、三位一体の神様の第二位格である御子イエスです。御子は、まず、創造において、無限の父なる神と、有限な私たち被造物の架け橋となってくださいました。というのは、次のように書かれているからです。「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。 」(コロサイ1:15)

 「かたちeikon」というのは見えるものということですから、御子イエス様は見えない神を、私たちに見えるように表わすお方なのだという意味です。創世記1章27節にあるように、「神は人をご自身のかたちにおいて創造され」ました。つまり、「神のかたち」である御子をモデルとして私たち人間を造ってくださいました。御子イエスは印鑑で、私たちは陰影(ハンコの染ミ)という関係です。

 永遠の神の御子イエス様の影がわたしたちのうちに落とされているのはどのような点でしょう。伝道者の書は言います。「神は、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者3:11)私たちのからだは物質に還元すれば、70%が水、ほかは窒素と炭とカルシウムがほとんどであとは微量要素といったところですが、それにもかかわらず私たちの心は永遠への憧れを持っています。私たちは機械ではないのです。「何のために生きるのだろうか?」と考えたり、「幸福とは?真理とは?」と考えたりするものです。永遠へのあこがれがあるのです。

エデンの園で、主はそよ風の吹く頃、園を歩き回られて、親しくアダムと交わってくださったとあります。顔と顔を見かわして、「今日は、園の様子はどうだった?」「はい。今日はヒヨドリライラックの木の枝にかけた巣の卵がかえって、ひながピーピー鳴いています。」などと話したのです。教父エイレナイオスは、あの園を歩き回られる神の声は父子聖霊の三位一体の神のなかでも、人に親しく啓示することを担当していらっしゃる御子だと語っています。アダムと妻は、イエス様とお話することができたのです。

 イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。この真理は、エデンの園でも、この世でも、次の世でも同じです。私たちは、御子を通して、父なる神を見るのです。イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです。」(同9節)ともおっしゃいました。

 

2 人は罪に堕ちて以後、主の御顔を見られなくなった・・・倫理的に

 

 さて、堕落前、そのようにして御子を通して神と豊かな交わりを許されていたアダムと妻でしたが、「善悪の知識の木から取って食べるな」という神の戒めに背いたとたんに、神様との豊かなまじわりを失ってしまいました。善悪の知識の木の実からとって食べたというのは、神の主権を拒否することを意味したからです。あの木の名前は、善悪を決定するのは神であるということを意味していたわけですが、それから取って食べるというのは、「もう神に善悪を決めていただく必要はありません。私が自分で自分の善悪を決めますから、神は無用です。」という態度を意味したのです。ここに、神様との決定的断絶が生じました。

「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)

 「神である主の御顔を避けて」というのが特徴的な表現です。アダムと妻にとって、かつて、あれほどいとおしかった主の御顔が、見たくもない、恐ろしい顔として見えるようになったのです。もちろん主の御顔が変わったわけではありません。アダムとその妻の心のほうが汚れてしまったのです。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」(マタイ 5:8)ということばと、ちょうど正反対のことが生じたのでした。心のきよくない者は不幸です。その人たちは神を見ることができないから。

 以後、旧約聖書には何度か、神の顔を見た人はことごとく恐怖におののいています。たとえば、ヤコブ

「そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。」(創世記32:30)

 また、たとえばモーセはあの燃える柴の箇所で。

出エジプト 3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

 人間にとって、本来、神様との交わりに喜びといのちとがあるのです。ところが、その神様の御顔が恐るべきものとなってしまいました。いのちの君である神を見たいけれども、見ると死ぬというジレンマの中に罪の問題が処理されていない人間はいます。

 

3 御子が受肉し、贖いを成し遂げて、再び神を見る道を用意された・・・恩寵的に

 

(1)人は自力で神を見ることはできない

 神を見ることができなくなってしまい、惨めな状態に陥った人間は、どうしたでしょう?

インドの修行僧たちは、「神を見る」「自ら神になる」ということを目指していろんな修行をしています。彼らは苦行によって魂の浄めを図りました。やはり心が汚れていると神を見ることができないことを知っているようです。だから、彼らは、断食をしたり、からだを鞭打ったり、釘で刺したり、太陽を見つめ続けて失明したり、熱い火のなかをくぐったりして肉体を痛めつければ魂が浄められると思っています。

けれども、どんなに苦行を積んでも、こころはきれいにはなりません。道徳教育はどうでしょう。道徳教育を受けた人と受けない人とでは程度の差はありましょう。けれども、それは五十歩百歩にすぎません。神様のきよさの基準にはいずれにしても達し得ないのです。こちらのビルの屋上から、100メートル離れたビルの屋上にジャンプするようなものです。私が2メートルジャンプしても谷間に落ちます、オリンピック金メダリストが8メートル跳躍しても、それは程度問題で、どちらも落っこちてしまいます。罪ある人は、どんなに修行しても教育しても、神の基準に達することはできません。

 

2 受肉と贖罪によって

 人間の側からジャンプしても神さまを見ることは到達不可能なので、神のほうがこちらに来てくださいました。それがイエス様です。もともと人間はイエス様に似た者として造られたので、人間が堕落して惨めになったとき、二千年前に人となってこの世界に来てくださったのです。そして、十字架の死と復活をもって、神と私たちの間の罪のへだてを取り除いてくださいました。御子イエスは再び、無限の神と有限な人間との架け橋、きよい神と罪ある私たちの仲保者となってくださいました。

そうして、ご自身のことば、生き方、人格そのものをもって、真の神がどのようなお方であるかを表わしてくださいました。

 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 有限な人は無限の神を知ることはできません。ミミズが私たちを理解しようとするようなものです。しかし、神が人となってくださった御子イエスを見る者は、父なる神を見ることができるようになったのです。

「7**,あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

8**,ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

9**,イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」

 

4 心の清いが神を見る

 

 ですが、福音書を見れば、人となって来られたイエス様に会って、みんながみんな神を見たわけではありません。「心のきよい者は幸いです。」と言われているように、「心の清い者」だけが神を見たのです。これはドキリとさせられることばです。

では、「心が清い」とはどういうことでしょうか?淫らな思いや憎しみといった汚らわしい思いをもたないということでしょうか。また、たしかに、そういう思いに捕らわれていると、神様のことが見えなくなってしまいます。では、けがれた思いをとにかく遠ざければ、神様が見えるかというと、どうもそうではないようです。イエス様の時代、イスラエル社会には、もっとも神に近い立場にいると自負していたパリサイ人たちがいました。一般庶民をアム・ハアレツ、地の民と呼んで、律法を怠りなく行っている自分らは清い者だと思っていました。けれども、イエス様は、彼らのことを白く塗られた墓とおっしゃいました。「「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(ヨハネ9:41)「自分は見えている」と自負していたパリサイ人たちは、見えていませんでした。何か彼らの目をふさいでいたのでしょう。その自負心、その傲慢がその目を見えなくしていたのです。

ですから、まず、私たちは自分には神が見えていないと認めることが第一歩です。

 

 「神の御顔を見る清い心」は消極面では、憎しみや怒りや淫らな思いというものを取り除いた心ですが、積極面は、愛です。聖書の中で、「神と顔と顔を合わせてみる」ことについて記した箇所があります。どこでしょうか。1コリント13章です。 

 12節に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。」とあります。イエス様を知ると、ぼんやりと神の御顔を見るようになります。鏡というのは古代の青銅の鏡のことで、ぼんやりとしか映りませんでした。天の御国では、神の御顔をあおぎみる至福の中に入れていただけます。では、この1コリント13章の文脈の中で、神の御顔を見ることのできるきよさとはどういうことだとわかりますか?「愛に生きる」ことです。

4,愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5,礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6,不正を喜ばずに、真理を喜びます。7,すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

 キリストの愛に生きるとき、私たちはこの世ではまだぼんやりとではありますが、神の御顔を見ることができるのであり、後の日には顔と顔とを合わせて見ることができるようになります。

 

結び

 日々、みことばを読んでたくわえることは大切なことです。でもそれだけでなく、イエス様が歩まれた愛の道を、自分自身も日常の中で歩むとき、少しずつイエス様の御顔を見て、そして父なる神の御顔を見ることになります。

 「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」