水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

あわれみ深い者

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」マタイ5:7

 

「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」ヤコブ2:13

 

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ルカ6:38

 

エス様は、「さいわいです」「さいわいです」と続く八つの祝福を、イエス様を信じ従う弟子たち、私たちに与えてくださいます。今回はその第五番目です。四つまでをあらためて振り返ってみましょう。

 最初が「心の貧しい者、悲しむ者」でした。神の前に自分の罪を認め、悲しんでいる者に、神様の恵みによる赦しが与えられ、神の子どもとされたのです。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られ」ました。これが私たちキリスト者の出発点、1塁ベースです。この神の恵みに対する応答として、神の子ども、主イエスの弟子としてどのように神の祝福のもとに生きて行くかが語られていきます。

まず、「柔和な者」。柔和ということについて、私たちは、アブラハム、主イエスの模範に学びました。学んだのは、世にあって不当な扱いを受けるときに自分の権利にしがみついて主張をするのではなく、正しく裁き給う父にさばきを委ねることです。そのとき、人は自制心をもって柔和に生きられます。

 「義に飢え渇く者」は、先週のみことばです。キリストのゆえに神の前に義と認められたので、今度は応答として弟子として主イエスに対する忠義、社会正義を実践することです。この世界では、小さな者が虐げられています。主の弟子は、小さな者たちを縛り付けている悪しきくびきを打ち砕き、困窮している人々とパンを分かち合うのです。日本では廃娼運動に取り組み戦ったのは山室軍平をはじめとするキリスト者でした。

 そして、本日、学ぼうとしているのが、「あわれみ深い者は幸いです」という5番目の祝福のことばです。「義に飢え渇く」ということばの次に、「あわれみ深い」ということばを語り出されたことに、特別にイエス様の意図を感じます。「義に飢え渇く」という激しい表現をもって、イエス様はキリストの弟子というものは、この世界に神の正義が実現することを熱心に求め戦うのだということを教えられました。しかし、キリストの弟子として忠実に生き、そうして社会正義を実現するというとき、私たちはともすると自分が正義の味方であり、自分に歯向かう者たちは悪者なのだという思いに陥ってしまう場合があることに警戒すべきです。

 

 あわれみ深い者・・・さばきの文脈で

 

  「あわれみ」ということばは、聖書を見てゆくと、二種類の文脈で用いられています。一つは「さばき」と関係することばとして用いられています。「あわれみ」とは、人をさばく、つまり、判断することにおける寛容さという意味です。他人(ひと)を判断するモノサシがゆるやかであることを「あわれみがある」というわけです。

ヤコブ2:13に次のようにあります。

「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」ヤコブ2:13

 またイエス様は、主人から莫大な借金1万タラント(3000億円)を棒引きにされながら、友人のわずかな借金百デナリ(50万円ほど)を赦さないで牢にぶち込んだ悪いしもべにかんするたとえの中で、主人にこう言わせています。

マタイ18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。33**,私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

 心得て置くべきことは、神様がわたしたちをあわれむことと、私たちが他の人をあわれむこととは比例関係にあるということです。言い換えれば、神様が、私たちをおさばきになるにあたって用いるモノサシは、私たちが他の人をさばくモノサシなのです。私たちは、今朝も、そのように「私を量ってください」とお願いしたばかりです。先ほど、『主の祈り』で、「私たちの負い目をおゆるしください。わたしたちも私たちに負い目のある人たちを許しました。」と祈りました。

 文語訳ではこうでした。

「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」

このフレーズの中の「ごとくὡς」ということばが、残念ながら新改訳聖書では省略されていますが、これは比例を表すことばです。人を赦すことと、神から赦されることは比例関係にあるのです。人を赦さないことと、神から赦されないことも比例関係にあるのです。主の祈りをささげるとき、わたしたちは神様に向かって「私に罪を犯した人を私が量ったこの物差しで、私のことも量っていいですよ」と申し上げているのです。

 残念ながら、アダム以来、私たちは利己的で不公正な者です。自分に対してはあわれみ深くて、他人に対しては情け知らずな者です。けれども、神様は公平なお方なので、私たちを公平にお取り扱いになります。あなたが他人(ひと)を量る物差しで、神様はあなたをもお量りになります。そのさばきは、この世に生きている間でのお取り扱いにおいてなされるかもしれませんし、あるいは、この世でさばき残されたことは次の世での最後の審判において、確かに神様は公平にさばきを行われるのです。ですから、神様に寛容に扱っていただくことを望むならば、私たちは隣人に対して、出来るかぎりあわれみ深くあることがたいせつです。ですから、私たちは、まず自分の目から梁を取り除いてから、他の人の目の塵を取り除くことです。

社会正義の実現を目指して戦う人々が、えてして陥りがちな過ちがあります。それは、自分自身もまた神様の前では一人の罪人にすぎないことを忘れて、あたかも正義のヒーローであるかのように思い上がって、敵対者を悪としてこれを軽々しく裁くということです。歴史を振り返れば、正義感に燃えて行われた数々の革命運動には、ほとんど必然的に、血なまぐさい粛清・内ゲバがともなって来ました。ヒロイズムに酔っ払うことは危険なことです。

 それゆえ主イエスは「義に飢え渇く者の幸い」を語られたすぐあとに、「あわれみ深い者は幸いです」と配置されたのでしょう。ですから、格別、この世に正義がなることを渇望して実践するときに、私たちは「あわれみ」を忘れないようにしなければなりません。また、正義感の強い人ほど、まず自分自身が罪人であってどれほど赦されたのかということを常に意識し続けていることが大切です。これは、社会運動というふうなことでなくても、家庭生活・職場の生活においても、正義感の強い人ほど、あわれみということを心に留めることがたいせつです

 

 あわれみ深い者・・・・ほどこしの文脈で

 

「あわれみ」にかかわるもう一つの文脈は、「ほどこし・慈善」に関することです。「あわれみふかい」とは「気前がいい」という意味です。こちらは、「義に飢え渇く」ことと積極的な意味で関係しています。というのは、この世界に公正が実現するために実践すべきことは、悪しきくびきを打ち砕き貧しい人々とともにパンを分かち合うことだからです。山室軍平の廃娼運動では、公娼制度を打ち砕くとともに、解放された女性たちにとりあえずの生活の場を提供し職業訓練をしました。

エス様は次のようにおっしゃっています。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ルカ6:38

 乏しい人に気前よく量るならば、神様が気前よくあなたにも量り返してくださるのです。だとすると、山上の祝福の第五番目は次のようにも訳せます。「人に気前よく量る者は幸いです。その人たちは気前よく量ってもらえるから。」

私たちが人に対してどれほど気前よく量るかを神様はよく見ていらっしゃるのです。そして、その量りで、神様もあなたに量ってくださいます。人に対してけちけち量る人には、神様もけちけち量られます。神様は、公平・公正なお方です。私たちは、自分は他人に対してはケチケチ計っておきながら、神様に向かって、「私には気前よくはかってください」と言いたくなるのですが、神様はたいへん公正なお方なのでそういうことはなさらないのです。

そういうわけで、私たちは施しにおいても自分で自分用のモノサシを神様の前に提出しながら生活をしているわけです。

こうした神様のお取り扱いについては、旧約聖書箴言のなかでも何度も教えられています。聖書を開いて読んでみましょう。

箴言11:24「 気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。」

 

箴言14:31 「弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」

 

箴言19:17 「貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。」

 

でも、哲学者カントみたいな人は言うかもしれませんね。「神からの報いを期待して、貧しい人々に施しをするなんてさもしい考えである。なんの報いも期待しないで施しをしてこそ、それは立派な行いである。」と。たしかに立派な理屈です。でも、私たちは現実にそんなに立派な人間ではないことを神様はよくご存知でいらっしゃって、私たちを善い行いをするように励ましてくださるのです。クリスチャンの人生は、生ける神様の恵みに対する生き生きとした応答としてのダイナミックな人生なのです。父なる神は、子である私たちと交流をもつことを望んでいてくださって、善い行いをすれば、「ほら、ごほうびだよ」といってほめてくださるのです。

富士山の山梨県の麓に都留という町があり、その教会で22年間仕えた川崎経子牧師という方がいました。。先生は聖書の他「菫(すみれ)ほどな小さき人に生まれたし」という漱石の句を、生涯の座右の銘としていらっしゃいました。中学、高校を東洋英和に学び、大学と大学院で英文学を学ばれましたが、実は、高校生のときすでに牧師をこころざさしておられました。お祖父さんが牧師だったそうです。しかし、父上は、娘が苦労のみ多い牧師となることに強く反対されたので、先生は時を待ち続けられました。「菫ほどな小さき人に生まれたし」は、その父上の書斎の掛け軸にあったことばで、これが先生の牧師職を願う動機となったというのですから不思議です。

先生は、父上が逝去された後、夜間の神学校に進み、50歳で牧師となりました。それから山梨の都留市で牧会され、その間に多くの学生が導かれ、4名が伝道職に就かれました。 この都留の時代に、頼まれてひとりの青年を統一協会から出るように説得したことをきっかけに、多くの青年たちの救出の手伝いをすることになりました。そして、22年間仕えた都留の教会を退いた後は、脱会後の人々の心のケアと社会復帰のために設立された小諸の「いのちの家」の初代所長となり、10年間奉仕されました。カルトから向けられる敵意、脅迫、誹謗中傷忍び、ひとりひとりの魂に寄り添うという、筆者など想像しただけでも髪の毛がぜんぶ抜けてしまいそうな働きに携わってこられたのです。 川崎経子師の愛唱賛美歌は331番は、師の献身の志をよく表わしています。

 

主にのみ十字架を負わせまつり われ知らず顔に あるべきかは

十字架を負いにし 聖徒たちの 御国を喜ぶ 幸やいかに

わが身も勇みて 十字架を負い 死にいたるまでも 仕えまつらん

この世のまがさち いかにもあれ 栄えのかむりは 十字架にあり

 

むすび・・・主イエスのあわれみ

 きょうは結びとして、イエス様のご生涯のなかでそのあわれみに満ちたお姿を思い出させるみことばをいくつか朗読しておきます。お聞きください。

 

マタイ9:35,36 「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」

 

 マタイ15:32 「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。』」

 

ルカ23:33、34 「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」