水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

地を受け継ぐ者

マタイ5:5 1ペテロ2:22-25

 

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

「ああ幸いだ」「ああ幸いだ」・・・と八福の教えの三番目です。前のふたつ「心の貧しい者、悲しむ者」とは、神の前で罪を自覚して救いを求める人を意味していました。心貧しいことは悲しいことですが、そういう者の上に、神様恵みを注いで救してくださいますから、幸いなのでした。

つぎに、神様から恵みを注がれた者として、神様に応答して生きていく者に注がれる、祝福の内容は移って行きます。それが、5節「柔和な者に、注がれる神の祝福」です。まず神の恵み、そして、神への応答、これがクリスチャン生活です。

 1 柔和な者

 

 「柔和」ということばの意味は、ある国語辞典では、「性質や態度が、ものやわらかであること。」とあります。 日本語の語感としては、柔和ということばには「柔弱」つまり「やわらかくて弱弱しい」というイメージが伴っているかもしれません。「柔和」と訳されているギリシャ語ではプラエイスで新約聖書で一回しか用いられていません。英語の訳ではgentle,meek,humbleといったことばが用いられています。

 もっとも、プラエイスと同系統のことばプラウス、プラエオースという言葉は用例があります。マタイ伝では、

11:29 「わたしは心優しく(プラウス)、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」  

21:5 「シオンの娘に伝えなさい。

   『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

   柔和で(プラウス)、ろばの背に乗って、

   それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

 ペテロの手紙第一では、

1ペテロ3:4 「むしろ、柔和で(プラエオース)穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

 イエス様が心優しく、柔和なお方であったということを見ると、プラエイス、プラウス、プラエオースは「弱弱しい」ということではないことがわかります。イエス様のご生涯を見ると、どのようなこの世の権力者の顔色をも恐れずに真理を語る勇敢なお方でした。また、嵐の小舟のなかでもぐっすりと眠っていらっしゃる豪胆なお方でもありました。また、神を恐れない偽善者たちに対しては、宮清めのときのように激しく聖なる怒りを発せられることもありました。けれども、イエス様は子どもたちとかやもめなど、弱い立場にある人々に対してはどこまでも優しくていらっしゃいました。聖書でいう柔和さというのは、イエス様のような柔和さです。それは神の愛とあわれみから出ている柔和さです。

また、うちに燃える激しいものとの関係で説明するならば、内側から生じる怒りとか憤怒といった激しいものを、暴発させることなく、自制することができるという意味で、強さを内蔵している、そういう柔らかさが聖書の言う柔和さ、プラエイスです。 ある方がBMWは名車ですよとおっしゃいました。なぜかと聞けば、BMWはブレーキが違うとおっしゃいました。ドイツにはアウトバーンと呼ばれる制限速度なしの高速道路があります。そこを安全に走るためには、強力なエンジンを持っていてスピードが出ることはもちろんたいせつですが、それと同時に、そのスピードを制御するだけのブレーキの正確さがなければならないのですね。それでこそ名車です。プラエイス、柔和であるというのは、そういう意味です。

 

 主イエスに対する燃える忠誠心を持っていると同時に、その情熱が暴発して、反対意見を述べる人に怒りを爆発させるようでは柔和な人とはいえません。今、山の上でイエス様から教えをいただいている時点でのペテロは、まだ柔和という品性を備えているとは言いがたかったように思います。でも、ペテロは成熟して御霊の実を結んでから、こんな手紙を書いています。

「3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

 3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

 3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」1ペテロ3:14-16

目の前にいる弟子のヨハネも雷の子とイエス様からあだ名されたような気性の男でしたが、後には、「愛の使徒」と呼ばれるようになりました。イエス様を愛する燃える情熱が、御霊の実がむすばれていき慎みが与えられるとき、柔和な人となるのですね。

 

2 ロトに相続地を譲ったアブラハム

 

 さて、「柔和な者はさいわいです。その人は地を相続するから。」ということばを聞いて思い出す旧約聖書の人物の一人は、アブラハムです。アブラハムは75歳のときに神様の召しを受けて旅立つことになりました。そのとき、「おじさん。ぼくもぜひ連れて行ってください。」とついてきたのは、甥のロトでした。ロトは「一旗あげたい」という野心を内に秘めた青年でした。ロトは早く父を失いましたので、アブラハムは彼の後見人のようにしてきたのでした。約束の地にいっしょに旅立って、この地に到着しましたが、まもなくカナンの地は旱魃に襲われます。アブラハムは一族を連れてエジプトに逃れました。エジプトにはナイルが流れていて、旱魃でも食糧難にはならなかったからです。そこで不思議な導きで、アブラハムとロトはそれぞれ多くの富をエジプトの王から与えられて、約束の地に帰ってくることになりました。

 約束の地に戻ると、彼らはそれぞれに多くの牛と羊とやぎといった家畜の群れを飼っていたのですが、その数が増えてくると、ロトとアブラムの群れとの間に水場争い、草地争いが生じてきました。その様子をこの地の先住民であるカナン人たちが遠くからニヤニヤと眺めていました。「やつらはなんだか立派な神を崇めていると言っているが、なんのことはない。背に腹は代えられないらしいね。」と。

それに気づいたアブラムは心を痛めました。自分たちの仲たがいのせいで、主の御名を辱めるようなことになりそうだ、と。そこで、アブラムは甥のロトを連れて、カナンの地を見渡せる高いところにいっしょに行きました。アブラムはロトに言いました。

「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:8,9)

自分はロトの叔父にあたり、これまで早く父親を失った甥のロトの世話をしてきたのです。当然の権利として、アブラムは、ロトに「お前は荒地のほうに行きなさい。私は緑地のほうへ行く」ということができたのです。しかし、アブラムはあえてそうしませんでした。ロトは舌なめずりをするような目をして眼下を見渡しました。ヨルダン川の両岸の低地ははるかかなたツォアルまで緑が潤っていました。そして、ロトは叔父のアブラムに遠慮することもなく、この有利な地を奪い取って、さっさと後足で砂をかけるようにして、一家を連れて去っていったのです。

一見して、アブラムは恩知らずの甥っ子からカスをつかまされたのです。世間的にいえばまったくお人よしというほかありません。しかし、そのとき主はアブラムにおおせになりました。創世記13:14-17

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

アブラムは、ロトと争うことを避けたかったのです。そして、自分の権利を言い立てる権利があるのに、主の御名のために、自分の当然の権利を言い立てることをしませんでした。アブラムは実に柔和な人になりました。そういうアブラムに、主は、この約束の地をすべて相続させると約束なさったのです。ロトは叔父さんを出し抜いて大もうけしたと、当面は思ったのですが、結局は、戦乱とソドムの滅亡によってすべてを失うこととなります。しかし、主の御名のために争いを避けて、主に自分の損得の問題はおゆだねしたアブラムには、主はすべての祝福をおあたえになったのでした。

柔和の秘訣は、単なる我慢ではありません。単なるブレーキではありません。そうではなく、神様にすべてをおゆだねするということです。自分には分からないことがある。自分は損だなあという気持ちもないわけではない。けれども、神のご栄光のために、すべてをよきにしてくださる摂理の神様におゆだねしてしまう、そういう信仰が柔和の秘訣です。

「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」

 

3 主イエスの模範

 

 そして、柔和な者の模範はなんと言っても主イエスさまです。しもべたちに柔和であるべきことを教える文脈のなかで、ペテロは次のように主イエスの模範を語っています。

「2:18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。 2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。

 2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。 2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

  2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」1ペテロ2:18-25

 十字架をしのばれたイエス様の模範ということで思い出すことがあります。結婚して2年目、渉がこずえのおなかにいてあと二ヶ月ほどで生まれようとしていた頃、私は胃か十二指腸を病んで病院に出かけ、そこで倒れて緊急で入院したことがあります。赤血球の値が、普通の三分の一位になっている、相当おなかのなかで出血をしているから、その部位を見つけなければいけないという話で、一日目は上からカメラをつっこまれましたが、見つかりませんでした。そこで下剤をかけて、翌朝は下からカメラを入れることになりました。もちろん初めての経験でした。院長先生がしてくださったのですが、これがなかなか入りにくくて苦しいものでした。ようやく直腸からS字結腸という入りにくい部分を通過したときです。看護婦さんが駆け込んで来ました。「先生、救急患者です!」

 先生は、「すみません、ちょっと待ってください」とおっしゃっていなくなってしまったのです。私は下から大腸カメラを突っ込まれたまま仰向けに寝ていました。待てど暮らせどこぬ人を宵待ち草のやるせなさではありませんが、10分たっても先生は帰ってきません。20分たっても帰ってきません。看護婦さんはぺこぺこして「すみません。すみません。」と言っています。30分たっても先生は帰って来ません。40分たっても帰って来ません。仰向けになって、お知りから黒いホースを突っ込まれて、仰向けになっているその惨めさ。

ひどいなあ、苦しいなあ、腹立つなあ。でも私は、これは怒るべきなのかなあ?と思っていました、そして、やっぱりイエス様の十字架のことを思わないではいられませんでした。

 なんの罪も犯していないのに、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、さらに十字架の上に、くぎで打ち付けられて、公衆の面前にイエス様はさらされたのです。そうして人々から「お前が神の子なら降りて来い」などと罵られても、イエス様は、罵り返すことをなさいませんでした。炎天下、6時間、イエス様は苦しめられ辱められたのでした。

あのイエス様の受けた辱めと苦しみを思えば、自分が病院の奥の一室で、黒いホースを尻から突っ込まれて身動き取れないまま40~50分放置されたということが、どれほどのことだろうと思いました。そんなことを思っているうちに、「すみません。すみません。」と言いながら、院長先生が駆け込んでこられました。50分ほど経っていました。ようやく検査が始まりました。私のカメラが長引いたので、妻はずいぶん心配したそうです。

 

もともと私はそれほど気性の激しい人間ではありませんけれども、雷の子と呼ばれたヤコブヨハネのように、自分の気性の激しさを実はもてあましているという方がいるかもしれません。教会に来ているときは柔和そうにしているけれど、実は、家に帰ったら暴君で、自分をどうにもコントロールが難しいという人がいるかもしれません。それが、神様の前で見られているあなたのありのままの姿なのです。自分ではどうにもならないでしょう。

柔和な者ということについていうと、やっぱり十字架にかかられたイエス様を思い出すことがなによりだと思います。イエス様が、模範を示されたのですから。また、模範を示すだけではなく、イエス様はご自身の御霊を信じる私たちに与えてくださいます。

 

 イエス様はどのような心境で、このまったく不当な侮辱を耐え忍ばれたのかということがここに記されています。「正しくさばかれる方にお任せになりました。」(23節)アブラムもそうでした。いままでさんざん世話をしてやった甥のロトに背かれたとき、彼は正しくさばかれる方にお任せしたのです。これが秘訣なのですね。この世には不当な扱いというものがあります。不正なことに対して不正を正すために私たちが発言すべきときというのはもちろんあるでしょう。しかし、人生の中には、不当な目に遭わされて、それを耐え忍ばなければならないというようなことというのが、あるものです。不真面目で要領のいいやつばかりが得をして、真面目にやっている自分は損ばかりしていると感じることがあるかもしれません。けれども、世の人々と違って「正しくさばかれる方」をクリスチャンである私たちは知っています。神様が摂理を働かせてこの上なく正しく裁く日が来るのです。たとえ、この世では納得できる結果にまで至らなかったとしても、私たちは、この世がすべてではないことをも知っています。正しくさばかれるお方がいるのです。だから、正しく誠実に生きたうえで、不当な目に遭うときには、このお方に、自分の理屈も、感情も、すべておゆだねしましょう。たましいに平安が来ます。