水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

涙とともに種まく者は

詩篇126

 

**都上りの歌。**

1**,主がシオンを復興してくださったとき

  私たちは夢を見ている者のようであった。

2**,そのとき私たちの口は笑いで満たされ

  私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。

そのとき諸国の人々は言った。

  「主は彼らのために大いなることをなさった。」

3**,主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。

4**,主よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。

5**,涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。

6**,種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。

 

1.歴史的背景  バビロン捕囚

 

  今朝味わう詩篇126篇も、私たちが礼拝で用いている詩篇歌に含まれているものです。その意味をよく味わいながら、主を賛美する助けになればと願って、この朝、説き明かしを準備しました。詩篇126篇には歴史的背景があり、それを理解することが深く味わうために大切です。

 紀元前2000年神に選ばれたアブラハムの子孫イスラエルの民は、アブラハムに約束された通り、ダビデは紀元前995年にイスラエル統一王国を築きました。神様は、イスラエルの民が、聖なる国民、祭司の王国として、世界の諸民族に神様の正義を教え、世界のためにとりなすことを意図しておられました。世界中の諸民族は偶像崇拝と不道徳に染まっていましたが、イスラエルは真の神は創造主ただ一人であることを示し、律法に従って公正な社会を建設する使命がありました。申命記に記された契約によれば、彼らがその契約を守るなら祝福を守らないなら呪いを約束されました。申命記28章はイスラエル民族に対する祝福と呪いが記された重要な章です。まず、祝福について。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。」申命記28:1

 しかし、もし彼らが主の御子絵に聞き従わず、その契約を破るなら、神は遠くから強大な異民族を押し寄せさせて、イスラエルの国を滅ぼし、彼らを遠くへ捕囚の民として連れ去るようにさせるとあらかじめ定めていらっしゃいました。

「49**,主は遠く地の果てから一つの国を来させ、鷲が獲物に向かって舞い降りるように、あなたを襲わせる。その話すことばをあなたが聞いたこともない国である。」申命記28:49

「62**,あなたがたは空の星のように多かったが、少人数しか残されない。あなたの神、主の御声に聞き従わなかったからである。**

63**,かつて、主があなたがたを幸せにし、あなたがたを増やすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれる。あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。**

64**,主は地の果てから地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散らす。あなたはそこで、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった、木や石で造られたほかの神々に仕える。**

65**,これら異邦の民の間にあって、あなたは一息つくこともできず、足の裏を休める場もない。主はそこで、あなたの心を不安にし、目を衰えさせ、たましいを弱らせる。」申命記28:62-65

 ところが、神様からこのような警告を与えられていながら、イスラエルの国は神の前に罪を重ねて行きました。ダビデの息子ソロモン王は、外国の神々を国内に取り入れ、王国は彼の死後南北に分裂してしまいます。北王国はヤロブアム1世のとき金の子牛を拝む国家宗教を創設し、神のみこころからすぐに外れて行き、721年アッシリヤ帝国に滅ぼされてしまい、民は奴隷として連れ去られて散らされてしまいます。

 一方ユダ王国は北に比べると少々ましでしたが、結局、紀元前586年、バビロニア帝国の王ネブカデネザルによってエルサレムの都は滅び、神殿は破壊され、廃墟となってしまいました。最後の王ゼデキヤは連れ去られ目玉をくりぬかれてしまい、またユダヤ人たちはバビロンに捕虜として連れ去られ、奴隷としての境涯に陥ったのでした。歴史上、名高いバビロン捕囚の出来事です。これは長年にわたるイスラエルの民の罪に対する神からの裁きでした。

 このバビロン捕囚の時代の民の悲しみを記したのが詩篇137篇です。

「バビロンの川のほとりそこに私たちは座りシオンを思い出して泣いた。**

2**,街中の柳の木々に私たちは竪琴を掛けた。**

3**,それは私たちを捕らえて来た者たちがそこで私たちに歌を求め私たちを苦しめる者たちが余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。**

4**,どうして私たちが異国の地で主の歌を歌えるだろうか。」

 

.神殿再建命令の奇蹟に神の民は喜ぶ

    

 罪ゆえに祖国を失い、異郷で奴隷として虐げられていた民でしたが、神は1500年前に彼らの先祖アブラハムに対して約束を覚えていらっしゃいました。そこで、神は歴史を動かします。南ユダ王国を滅ぼしたバビロニア帝国は非常に強大な帝国でした。世界の七不思議の一つといわれる、バビロンの空中庭園は、国王ネブカデネザルが誇りとしたものでした。その権力は永久に続くのではないかと思われていました。ところが、おごれる者久しからずで、バビロニアはネブカデネザルの次の王の時代にはペルシャ人によって滅ぼされ、今度はペルシャ人がかわってオリエント世界を制覇します。

 そして、世界史上の不思議と呼ばれることが起こりました。なんと紀元前538年、ペルシャの王クロスが廃墟となっていたエルサレム神殿再建を思い立ち、そのためにバビロンに寄留していたユダヤ人たちを故郷に帰還させたのです。クロスは真の神を知らない異国ペルシャの王です。そのクロス王があろうことか、エルサレムにある天地の主である神の神殿の再建を思い立ったのです。それはまことにありえない夢のような出来事ですから、ユダヤ人たちも周囲の国々の人々も首をひねって「クロス王様は何を考えておられるのか?」と、「不思議なことがあるものだ」と大いに驚いたのでした。これが、本日の詩篇126篇です。1節、2節。

 1**,主がシオンを復興してくださったとき

  私たちは夢を見ている者のようであった。

2**,そのとき私たちの口は笑いで満たされ

  私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。

そのとき諸国の人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなさった。」

 私たちの主なる神は生きておられ、その民に対して結んだ契約を決してお忘れになりません。そして、王の心を動かし、御手をもって歴史を動かされたのです。

 

2.なお捕らわれ人たちを

    

 主がすばらしいことをしてくださったので、都エルサレムに帰る人々は喜びの賛美に満ち満ちていました。おなかの底から、賛美があふれ出たのです。そして、故郷に到着すると神殿再建にとりかかったのでした。

 しかし、実際にエルサレム再建のために故郷への帰還を許されたのは、捕囚の憂き目にあるユダヤ人のうち、まだごく一部にすぎませんでした。まだまだ帰って来るべき神の民がたくさん捕囚の地に残されていたのです。

 そこで詩人は歌います。3節、4節。

3**,主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。

4**,主よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。

 イスラエル北方のヘルモン山の雪が、春になると溶け出してくだり下ってゴーゴーと音を立てる川となってネゲブ地方を潤すように、なお捕囚の地バビロンに残された多くの神の民を帰してくださいと祈るのです。「私の父も、母も、子どももまだ帰ってきていない」という人もいたでしょう。「私の友もまだエルサレム帰還を許されていない」という人もいたでしょう。「自分たちだけが、こうして救われて帰ってきて良いわけはない。この再建のなったエルサレムの都に、神殿に、なおなお神が満ちるべきです。主よ。」と祈っているのです。

 

. 涙とともに種を蒔く者は

 

 さて、父母の故郷に帰ってきた人々が、そこに見たのは、死んだ父母が言っていた豊かな「乳と蜜の流れる沃野」ではありませんでした。かつての畑はほうき草がぼうぼうと生える荒地に変わり果てていました。エルサレムの城壁は黒く焦げて崩れ果てていました。草を抜き、石を拾い、肥料を入れ、土を耕し、畑を作り直して、ようやく種まきとなるのです。荒れ果てて土壌の吹き飛んだ地では、種を蒔いてもそんなに簡単に収穫をえることができるわけでもありません。

 けれども、荒れはてた地をながめて失望して家でごろりとしていては、一本の収穫も期待できませんが、涙を流しつつも種を蒔くならば、必ず喜び叫びながら刈り取る日がくるのです。種入れをかかえて、なきながらでも畑に出かけるものは、やがて収穫の季節には喜び叫びながら帰ってくることになります。

5**,涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。

6**,種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。

 

4.適用

 

 この詩篇から何を私たちは学ぶのでしょう。私たちの生活に何を教えられますか。

 私たちは、悪魔のとりことなって、生ける神を知らず、偽りのむなしい神々に仕えて生きる生活をしていました。ですから、ほんとうの生きる目的がわからず、お金を手に入れては安心し、人の幸福を妬み、むなしく罪深い最後には永遠の滅びに向かう無意味な生活をしていました。悪魔の奴隷、罪の奴隷でした。

 けれども、神さまは、私たちを人生の途上で召してくださり、聖霊によって目を開いて、イエス様の福音を信じるものとしてくださいました。そして、「私の人生の主な目的は、神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことです」ということができる、素晴らしい人生に入れてくださったのです。主の日ごとに、真の父子聖霊の神さまに礼拝をささげる、本来の人間の生き方へと連れ戻してくださったのです。そうして、生活のあらゆる領域において、神の栄光をあらわす神の国の建設のために有意義な人生を送っています。そうして、最後には永遠の神の国へと招き入れていただくのです。これは実に大いなる特権です。

 

 けれども、なおこの世界には、私たちの周囲にはまだ主のもとに帰ってきていない、サタンの束縛のもとに置かれて希望のない滅びへのむなしい人生を送っている主の民が大勢いるのです。ですから私たちは「主よ。春の増水のときの、また大雨が降った時の千曲の流れのように、この苫小牧の、胆振の地域の滅び行くあなたの民を帰らせてください!」と祈らないではいられません。「私の夫、私の妻、私の子ども、私の父母、あの友人、この親戚・・・彼らもあなたのもとに帰ってこさせてください。そして、ともに主の御前に賛美と礼拝を捧げることができるようにしてください。」と切に祈らないではいられません。

 そのために、この地の人々の救いのためにこそ、この会堂は捧げられたのではありませんか。いま神の民が戻ってきたのはほんの一部分です。なお真の神を、キリストの十字架を知らずに滅び行くたましいは数多い。続々と救われる魂を与えてください。大丈夫です。

 

 私たちは涙を流しながらも主の福音の種をまきたいと思います。主の福音をあかししましょう。因習、物質主義、偏見など人々の心を固く縛っています。先日、昭和通り商店街の理事会があったとき、理事さんが数名、「キリストの福音はなんだかすばらしいもののようだね。通信は楽しみにしています。」と言ってくださいました。でも、イエス様を信じるというところまで踏み切ることができないでいます。倦まずたゆまず、福音の種を蒔き続けてまいりましょう。

  会堂のなかにぬくぬくと留まっているのではなく、福音の種を携えて出て行きましょう。涙を流し苦労をしながら滅び行く魂のために祈りましょう、証ししましょう。具体的に、あの人、この人を今年こそイエス様に導こうと身近な人々を思い浮かべ、祈り始めてください。

5**,涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。**

6**,種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。