祈りと賛美
マタイ6:5‐13
2019年5月5日 苫小牧朝礼拝
5**,また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。**
6**,あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。**
7**,また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。**
8**,ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。**
9**,ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。**
10**,御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。**
11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**
12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。**
13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
序 私たちは礼拝について学んできました。一回目は、カインとアベルの礼拝から、「俺流の礼拝はだめ。神様がお定めになったことに足したり引いたりせず、礼拝を捧げる」こと、格別、イエス様の十字架のあがない抜きに私たちの礼拝はありえないということです。
第二回目は、もう少し具体的に十戒に礼拝の原理を学びました。真の神のみを崇める。偶像を用いない。主の御名を心から歌う。安息日を大事にする。隣人と仲直りしてから礼拝するということです。
第三回目は、聖霊と真理による礼拝でした。イエス様が贖いを成し遂げて天に昇り、聖霊を下された新約の時代は、聖霊に満たされて礼拝します。
今日は、礼拝の中の祈りと賛美についてです。この二つはセットで学ぶことができます。なぜなら、「賛美とは音楽をともなった祈りである」からです。これは宗教改革者カルヴァンが言った、賛美歌の定義です。そして、実に、的を射た定義です。ですから、神様に喜ばれる賛美とは何であろうと考えるには、祈りについての教えを聖書から学ぶことが有益です。祈りの原則はことごとく、賛美の原則に適用されます。
そこで主が教えてくださった祈りの原則を賛美に適用してみよう。
1 人にではなく、神に向かって賛美する
「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」マタイ6:5
当時ユダヤ社会では祈りをささげる時、宗教家たちの中には人に見せるために祈っている人がいることを主イエスは指摘なさいました。「敬虔な人だなあ」と尊敬されたいからです。それでは祈りになりません。祈りは神に向かってささげるものであるからです。
とはいえ、教会においてみんなで心あわせて祈る祈りがあります。その時には、皆がアーメンと言えることが大事です。だから、聞こえる声で、わかりやすい言葉で、個人的なことでなく教会の皆に共通することがらを祈ればよいのです。そのためには、公の祈りのためには準備も必要でしょう。公の説教で原稿を苦労して用意するように。
同じように、賛美を歌うときに、美声を人に聞かせるためではなく、神様に聞いていただく祈りとして歌うことが肝心です。聖歌隊などで特別賛美としてみんなの前で歌うときにも、まず神様にささげるものとして歌うという意識が第一番にたいせつなことで、第二番目に意識すべきは、会衆がともにアーメンと言えるように歌うことです。
2 公の場だけでなく、日常的に賛美する
その公の場での祈りが、神に向かっての祈りであるかということは、人が見ていない一人の時にも祈っているかと言うことで測られるでしょう。ですから、主イエスは次に個人生活における祈りについて話されました。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6:5
ですから、公の祈りの奉仕をする人は、日々の個人的な祈りを大事にしてください。
同じように、日ごろ神様を全然賛美していない人が、特別賛美のときだけみんなの前では上手に歌うとしたら、その賛美はほんものではありません。賛美歌は、神様に栄光を帰する歌であって、歌っている人の栄光をあらわすための歌ではありません。
新しい讃美歌集を使い始めましたから、もっと賛美の練習をするときを持つようにしたいと思います。新しい賛美も少しずつ練習して行きましょう。
3 歌詞の意味を理解して、神様を信じて賛美する
次に、主イエスは祈りの心得として、こうおっしゃいました。
「 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」マタイ6:7、8
「異邦人が同じことばをただ繰り返す」というのは、意味のわからないおまじないのようないのりを意味しているのでしょう。ホニャラララと千回繰り返して言うと、お金持ちになれます式のことです。ですから、祈りにおいて、ハレルヤだけを繰り返すとかいうのもよくありません。ヤーは尊い神様のお名前ですから、心をこめないで10回言うより、心をこめて1回いうほうがいいのです。あなたの名前だって、そうでしょう。「修治さん、修治さん、修治さん、修治さん、修治」と繰り返し繰り返し無意味に呼ばれたら腹立つでしょう。一回、心を込めて「修治さん」呼ばれたいです。神さまも同じです。ことば数が少なくても、よく理解して心を込めて祈ることが大事です。
神様は私たちに必要なものをご存知なのに、なぜ私たちはそのことを願って祈るのでしょうか。それは、祈りというのは、単に神様に必要なものを報告することではなく、神様との人格的交わりであるからです。神さまに必要なものがあるときだけ祈るというのは、まるで「風呂、飯、寝る」しか言わないひどい息子のようです。
これは、そのまま賛美においても適用されるべき原則です。賛美をささげるとき、その讃美歌のことばをよく理解して、神様との交わりを楽しんで歌うことが大事です。音楽に乗ってなんとなく口ずさむのではいけません。意味を味わいながら歌わねばなりません。それは、あなたの祈りなのですから。詩篇歌は、聖書を開けば、ちゃんと意味が書かれています。それでも、文語の歌詞でわかりにくいことは、牧師に質問してください。今回、歌集を改めた目的の一つは、わかりにくい歌詞を避けるためです。
歌詞の意味を理解することとの関連で、音楽の効用と危険性について話しておきましょう。音楽の賛美における効能は、知性だけでなく感情や意志にまで働きかけて我々を神賛美にかきたてることにあります。
でも注意すべきことは、美しい音楽によっぱらって神様を賛美する歌詞を忘れてしまうことです。アウグスティヌスは言いました。「このようにして私は、音楽がひきこむ快楽への危険と、にもかかわらず音楽が有している救済的効果の経験とのあいだを動揺しています。しかし、もちろんいまここで確定的な判決を宣言する気はありませんが、どちらかというと、教会における歌唱の習慣を是認する方向にかたむいています。それは耳をたのしませることによって、弱い精神の持ち主にも敬虔の感情をひきおこすことができるためです。それにしても歌われている内容よりも歌そのものによって心動かされるようなことがあるとしたら、私は罰をうけるに値する罪を犯しているのだと告白します。そのような場合は、うたわれているのを聞かないほうがよかったのです。」『告白』10:33:50
ですから、音楽は賛美の歌詞に仕えるのだということ、つまり、歌詞が音楽に優先することを忘れないことが大事です。ですから歌詞にふさわしい音楽を用意することが大事です。音楽は神を賛美することばに仕えるのです。したがって、歌詞さえ聖書的なら音楽や演奏法は何でも良いというわけではない。その歌詞の内容――神崇拝・悔い改め・感謝・献身など――に、会衆を導いていくのにふさわしい曲を工夫すべきです。悔い改めの歌詞なのに、やたらと明るい曲調ではいけません。高らかな神賛美の歌詞なのに、湿っぽい曲ではいけないということです。歌詞の内容にふさわしい曲あってほしいものです。
4 自己中心でなく神中心。
まず神をほめたたえ、御心が成るように賛美する
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:9,10) 今日は私にとって都合のいいことがあったからお祈りしよう。いいことがなかったからお祈りしないという自己中心ではいけません。神があがめられ、神のみこころがなりますようにと祈るのです。
賛美もそうです。人の主な目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことです。自己実現のために生きているのは、この世の人々です。神のみこころが実現するためにこそ生きているのがクリスチャンの印です。ですから、私たちはうれしいときも悲しいときも、どんなときにも賛美をささげるのです。
5 信頼をもって。率直な願いをもって賛美する
そうはいっても、いいかっこしいで、かしこまっている必要はありません。神様に、率直に、すなおに、自分に必要なものを求めることは良いことです。親は、子どもがかしこまっているよりも、素直であることを望むでしょう。父なる神様も同じです。 ですから、イエス様はごはんくださいと祈ればいいよとおっしゃいます。
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」マタイ6:11
主は霊的なもののみならず、物質的な必要も主は満たしてくださる。キリスト教は別に禁欲主義ではありません。素直な子供のように、神に信頼して祈ればよいのです。素直に思いのたけを神様に申し上げるならば、神は耳を傾けてくださいます。
賛美においても同様です。幼子が母の胸に安心して寝るように。私たちは神に全幅の信頼を置いて、賛美を捧げるのです。
6 隣人と和解して賛美する
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」マタイ6:12
誰かと仲たがいしていることを思い出したら、行ってお詫びして仲直りしてから、祈りなさいと主イエスはおっしゃいました。
賛美についても同じです。賛美は神様へのささげものですから、誰かと仲たがいしているならば、ささげものはそこにおいて、仲直りしてから、賛美するのです。けんかしていて、怒りの心でどんなに上手に歌っても、それは神へのささげものになりません。
7 悪魔の試みを退けるためにも賛美する
「 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕マタイ6:13
主は賛美のうちに臨在されます。力強い賛美は悪魔をも退けるのです。
タイに派遣された渡辺賢治宣教師の体験をおわかちしましょう。カンボジアで政変があったとき、多くの人々がタイ国境線のウドン谷に逃げてきてキャンプを張りました。そこで、渡辺先生家族はウドン谷に宣教に行きました。すると悪霊ピイが出てきて先生家族を怖がらせました。そのとき、「罪重荷を除くは、主の力、主の血は、悪魔のわざをこぼつくしき力なり。」という聖歌を歌うと、悪霊ピイは去って行ったそうです。
結び
「賛美とは音楽をともなった祈りである」このことをしっかりと理解してください。
- 私たちは、人に聞かせるためでなく、神に聞いていただくために祈り歌うのです。
- だから公の場だけでなく、個人の祈りの場でも賛美をささげましょう。
- 賛美は祈りですから、わからないまま歌ってはいけません。ことばをよく理解して味わって歌うことが大切です。
- うれしいときだけでなく、どんなときにも、神を賛美して祈るのです。素直な心で願いをもって祈り賛美するのはよいことです。でも自己中心でなく、神中心です。
・神は賛美の内にご臨在くださり、悪魔の誘惑も退けてくださいます。