水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

福音はキリスト

ロマ1:1-7                                       

2018年1月7日苫小牧

 

<一般的紹介>

 ローマ書は、世界の歴史に大きな影響を与えてきました。4世紀、西方教会最大の教会の父、「西洋の教師」と呼ばれるアウグスティヌスはローマ書13章によって回心しました。16世紀、マルチン・ルターはローマ人への手紙の研究によって、信仰による神の義を発見し、それが宗教改革へと発展し、ヨーロッパ文化全体を変革するものとなりました。カルヴァンもまたローマ書の構造をもって、『キリスト教綱要』を記しました。もしローマ書がなかったならば、ヨーロッパと米国の歴史はずいぶんちがった姿になったでしょうし、したがって、世界の歴史も大きくちがっていたでしょう。ジョン・ウェスレーはルターの『ローマ書序言』の朗読を聞いて、福音の神髄を悟り、リバイバル運動にまい進しました。そうしたリバイバル運動が世界宣教に広がって、日本にもまた福音が届いたのです。ローマ書はそういう意味では革命の書です。一個人の人生の革命の書であるばかりでなく、また教会の革命の書であるばかりでなく、世界の革命の書です。

 ローマ書の内容についての一般的特徴。ティンデルは「ロマ書は全聖書に到るための光であり、道であるのだから、わたしは、キリスト信者というキリスト信者はみな、ただこの書を知るだけにとどまらず、またただ丸暗記するだけにとどまらず、自分の霊魂のための日ごとの糧として、いつでも、たえまなく注意を払っていなければならない。」と言いました。またカルヴァンはローマ書は「聖書の宝庫のすべてを私たちに開いて見せてくれるものである」と言いました。また、ルターは「ローマ書は新約聖書の主たる書で、最も純粋な福音である」と言いました。また「ロマ書は聖書全体の輪郭を説いている所の、新約聖書すなわち福音の最も完全な要約であり、その福音を最も手短に、最もはっきりとあらわしている本である。」とも言いました。聖書66巻のなかでローマ書ほど福音の真理を全体的に明確に解き明かした書はほかにありません。

 

<執筆事情>

 ローマ書は、使徒パウロがコリントの町のガイオの家にいたときに、ローマのクリスチャンたちに当てて書いた手紙です(16:23) 。方法は口述筆記で、筆記者はテルテオでした(16:22) 。そして、フィベという人がこの手紙をローマまで携えて行ったのです(16:1-2) 。ローマ書は聖書66巻の中でもっとも神学的体系を整えたものではありますが、手紙です。使徒パウロがローマにある教会の兄弟姉妹を思い浮かべながら熱弁することをテルテオが筆記したのです。

 書かれたのは紀元59年。使徒パウロはすでに60才ほどであったと思われます。皇帝ネロの治世の5年目でした。キリスト教徒迫害の5年前です。パウロもこの手紙の数年後、ローマに行くことになり、そして殉教したと伝えられます。

 当時、都ローマはとても栄えていました。ローマは世界最大の国際都市で、「世界の道はローマに通ず」というように、文化・経済・政治の中心でした。世界のあちらこちらから、富と文物そして色々な人種がローマに集まってきておりました。手紙を読んで行くとわかるのですが、ローマ教会のメンバーにはユダヤ人も異邦人もおりました。このローマ教会はパウロが設立した教会ではなく、だれかほかの人によって始まったものでした。

 世界宣教を志すパウロとしては、この帝都ローマに行きたいと切望していました。その心情は1章8節から13節によく現れています。

 

<目的>

 ローマ書の書かれた当面の目的は、世界の人々があつまり世界の思想や宗教が集まるローマの教会の人々に、キリスト教信仰を筋道を立てて体系的に語るという必要があってのことと思われます。しかしほかのパウロの手紙と同様に、ローマの教会にとどまらず、書き写されて世界中の教会に回覧されることを意図していました。特に、コリント人への手紙などは、ある教会の特定の問題について語っているのに対して、ローマ書はもっと雄大で普遍的に全世界に向かって福音のなんたるかを明らかに教えています。したがって、ローマ書は21世紀の日本に生きている私たちに宛てられた手紙なのです。

 

1.奴隷・使徒パウロ

 

 使徒パウロの手紙の冒頭は、当時の手紙の形式によるあいさつです。すなわち、「だれそれから、だれそれへ、神とキリストからの恵みと平安があるように。」というスタイルです。しかし、手紙ごとにその「だれそれから」の部分、つまり自己紹介が少しずつ違っています。ローマ書では言います。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」。ここは原文の語順通りに訳すと、「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(新共同訳)となります。つまり、ここにパウロは、「しもべ」かつ「使徒」として自分を紹介しているのです。

 

(1)「キリストの奴隷」

 「しもべ」と訳されていることばはドゥーロスと言って、奴隷ということばです。しもべと訳されることばはほかにディイアコノスというものがありますが、ドゥーロスはディアコノスよりももっと強い印象のことばです。ドゥーロスというのはデオー(結ぶ、縛る)ということばからできたことばで、「縛られ拘束された者」ということです。キリストの奴隷、キリスト・イエスに縛られたものということです。心もからだもキリスト・イエスのものということです。

 使徒パウロは、若い日はサウロという名でした。サウロはユダヤ教パリサイ派の教師で、大学者ガマリエルの門下に訓練された俊才でした。イエス様の復活と昇天の後に、キリスト教会が宣教を始めたとき、サウロは迫害に乗りだしたのです。信者とみれば老若男女を問わず縛り上げて牢獄にぶち込み弾圧したのです。ある日、サウロは迫害の意気に燃えてエルサレムから離散してダマスコに逃亡したクリスチャンたちを捕らえるために出かけました。ところが、ダマスコ門外まで来たとき、サウロは復活のイエスの現臨に打ち倒されてしまいます。彼は声を聞きました、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」サウロは言いました、「主よ、あなたはどなですか。」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」・・・こうしてサウロは180度方向転換をし、キリストによって異邦人への福音宣教のための使徒とされたのです。

 この経緯を見ればわかるように、サウロがキリストを求めたのではなく、実にキリストがサウロを求めたのでした。サウロがキリストを捕らえたのではなく、キリストがサウロを捕らえたのです。キリストがサウロを御自分の奴隷として召されたのです。「キリスト・イエスの奴隷パウロ」と自己紹介するパウロは、まさにキリストに捕らえられた人でした。

 「奴隷」とは主人の所有物なのです。奴隷ということばの印象は悪いのではないかと思います。しかし、パウロは自分がキリストの奴隷であることを喜んでいます。それは、パウロに言わせれば、人間はキリストの奴隷つまち義の奴隷であるか、罪の奴隷であるかのどちらかであるのです。ならば当然義と愛にみちたキリストの奴隷であることはすばらしいことです。

 また、聖書において奴隷というのは米国の近代奴隷とはちょっと違いまして、アブラハムの奴隷がご主人さまの息子イサクの嫁を迎えに行ったように、主人の代表権をときには与えられるような職務なのです。彼は福音を託されてキリストの奴隷として、キリストから福音を託された代表者です。その使命の光栄さのゆえにキリストの奴隷であることを彼は喜んでいます。

 

(2)「使徒

  パウロの自己紹介のもう一つは、「神の福音のために選び分けられた使徒です。使徒とは使命を与えられ派遣された者という意味です。福音宣教という使命を託されて派遣されたパウロでした。パウロはかつて神の救いはユダヤ人だけのものであると信じていたものでした。ところが、キリストはパウロを特に異邦人に福音を宣べ伝える「異邦人への使徒」として派遣しました。彼は14節、15節で、その使命感を披瀝しています。

「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」と。

 使徒は、二千年間の教会の歴史において最も栄光ある職務です。キリストに直接お会いし、キリストによる任命を受けた者のみがこの職務についたのです。ほかの11人の弟子とはちがって、パウロはイエスの公生涯の三年間には同行しておらず、新約の教会がスタートしてから、復活のキリストに捕えられたのです。だから、彼の使徒としての正当性に対して疑義を向ける人々もいました。しかし、確かに復活のキリストがパウロを異邦人への使徒として直接にお選びになりました。

 しかし、その栄光ある職務、立場についた者であればこそ、パウロは自分は奴隷として仕える者なのだと自覚するのでしょう。奴隷とは自分のしたいことをするのではなく、ただひたすらに主人が望むことをするのです。キリストの奴隷こそ、キリストの使徒としてふさわしいのです。それは、主イエス・キリストご自身が、自分の望むことではなく、父なる神の望むことを成し遂げられたのです。ご自分の望みを、父の望みに一致させたのです。キリストの奴隷として、使徒として、パウロはキリストの混じりけのない福音を語ろうとしています。

 

2.福音はキリスト

 

  「福音」=良い知らせ

 2節から6節までは、長い挿入文となります。文の流れとしては、一節の「パウロから」から7節の「ローマにいるすべての、神に愛されている人々へ、召された聖徒たちへ」とつながっているのですが、この一節と七節の間に長い挿入があります。それは一節の「福音」ということばを受けてのことです。パウロは口述しているのですが、「福音」ということばが口から出たとたんに、福音について語りださないではいられなかったのです。使徒パウロの福音宣教への情熱のほとばしりを感じます。もう最初のあいさつから、福音を語らないではいられないのです。

 福音とはエウアンゲリオンすなわち「良い知らせ」という意味です。ではパウロはここで福音を何だと説明するでしょう。2、3節の修飾部分を省略すれば、「この福音は・・・御子に関することです。」となります。 福音はキリストに関することでって、人間に関することではない。福音とはキリストがだれなのか、何をなさったのかということである。福音とは人間が何者か、人間がなにをするかということではありません。

 救いは、人間が何者であり、人間が何をしたかということによるのではない。人間の救いは、キリストが誰であり、キリストが何をなさったかということによるのである。そういうことです。

 「私はこんな人だめな人間だとか、いや私は立派だとか、あるいは私は不道徳だとか、私はまじめだとか、私は学歴があるとかないとか、私は金持ちだとか、私は貧乏だとか、私は性格が良い、私は性格が悪い」とかそういうことは、救いについて無関係です。福音はキリストが誰であり、何をなさったか、なのです。

 日本人はしばしば「何を信じても良い。信じることがたいせつなのだ。」などと言います。信じる対象は鰯の頭でも、豚の鼻でもなんでもよい。信じるという行為、その心理作用が大事だというのです。しかし、キリスト教信仰においてはそうではない。何を信じるかが、どう信じるかよりも大切です。神でないものを神と信じ、救い主でないものを救い主と信じても何もならない。なにもならないどころか、たいへんな損失を被ります。真の神、真の救い主を信じてこそ、救いはあるのです。

 日本人が何を信じてもよいと思うのは、結局自分の力で生きるしかないと思っているからなのでしょう。しかし、御子に関する知らせが福音(よい知らせ)と呼ばれるのは、そのメッセージが人間が何をしなければならないということではなく、神の御子が救って下さるということだからです。福音とは、救いが神の御子キリストによってもたらされたということなのです。福音は、天国に行くための難行苦行の教えや努力目標ではなく、天国があちらからやってきたという喜ばしいニュースなのです。

 では、その御子はどのような方として語られるでしょうか。パウロは二つの方面から御子キリストがだれなのかということを語ります

 

 3b、4節。「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば」

 「肉によれば」これは血統としてはダビデの子孫という意味です。メシヤはこのダビデの血統から出現するということは、旧約の預言者たちがずっと予言していたことです。特に、ユダヤ人たちはそのことをよく知っていました。たとえば、イザヤ9:6-7。

 「きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」主イエス聖霊によって乙女マリヤに宿り、聖霊によって復活なさって死に対する勝利者であることを示し、自分が神の御子であることをあきらかにされました。

 

 福音は御子キリストに関することです。では、キリストは誰なのか。

①キリストはその誕生の二千年前から予言され待ち望まれ、ダビデの家系に聖霊によって受されたメシヤであり、

②また、聖霊によって、十字架において罪と死に打ち勝ちよみがえった神の御子です。

 福音は、人間の救いはこの方にかかっているのです。このキリストが私たちの救い主として来られ、私たちを罪と死から救い出して下さるのです。私たちが自分で自分を救うのではない。神の御子キリストあなたを救うのです。これが福音です。

 

結び.ローマの人々へ、苫小牧の人々へ

 

 あて先。「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。」ローマの人たちよ、あなたたちも神に愛され、神によってこの世から呼び出された者なのですね、という思いを込めてのことばです。主があなたがたを、ご自分の民としてお召しになったのです。あなたがたが神をもとめる以前に、神があなたがたを求めて愛してくださった。あなたがたが神を呼ぶ前に、神があなたがたをお召しになったのです、と。

 今朝ともに神を礼拝している私たち一人一人も、神に愛され、神のお召しにあずかった者たちです。私はあのとき自分で教会に行き始めたとか、自分で聖書を読み始めたと思うかもしれませんし、それも事実ですが、それも実は、神があなたを呼ばれたからなのです。私たちが神を求める前に、神が私たちを求め、御子イエス・キリストをくださった。これが福音、よき知らせなのです。

 こういうわけで、ローマ書はその最初のあいさつからして、人間が救われるのは、人間の行いによるのではなく、神がキリストにおいて表わされた愛と召しによるのである。救いは神の恵みであるということを示しています。それこそ福音であります。

 この福音に、私たちも与っているのです。なんとすばらしいことでしょう!

 パウロはキリストの奴隷また使徒として、このよき福音のあかしのために選ばれました。パウロだけではありません。私たち一人一人も、キリストの奴隷とされて、サタンから自由にされ、キリストのよきしらせ、福音のために遣わされているのです。