水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の選び

ローマ9章6-29節

 

2018年10月7日

1.約束の子どもが救われる

 

 主イエスが十字架にかかって三日目によみがえり、天に昇って父なる神の右に着座し、聖霊を注がれて初代教会が成立しました。そのペンテコステの日、三千人もの人々が教会に加わりました。その人々の多くはイエス様の宣教にじかに触れて準備の出来た人々であったのでしょう。ユダヤ人の祭司たちの中からもバプテスマを受ける人々が起こりました。イエスの復活の宣教する初代教会はイスラエルの中で華々しく前進するかに見えました。ところが、イエスの復活を受け入れないユダヤ教当局はエルサレムの初代教会を激しく弾圧し始めました。急先鋒は若き日のサウロです。使徒たちは地下にもぐってエルサレム教会を守りましたが、信徒たちはエルサレムをのがれて地方へと散って、それぞれ行く先々でイエス様の福音をあかししてゆくのです。さらには、アンテオケ教会から派遣されたパウロバルナバは異邦人にも積極的に伝道し始めました。こうしてユダヤ人たちの一部はイエスを信じて教会のメンバーになりましたが、多くのユダヤ人たちは心頑なにして、イエスを受け入れませんでした。

このような状況を見て、「『ああ、神様がアブラハムの子孫を神の民イスラエルとして救うというお約束は無効になってしまったのか。』と考える人がいるだろう」と使徒パウロは見越して、「そんなことはない。神のことばは無効になったのではない」と話を進めるのです。パウロは、そもそも旧約聖書を虚心坦懐に読めば、アブラハムから生まれる肉の子孫がみな神の民となったわけではないではないことを、旧約聖書の記事を指さすのです。神様は、アブラハムから出る子孫のうちの、ある者をご自分の子として選び、ある者は子として選ばなかった事実を指摘するのです。実例が二つ挙げられます。

一つ目は、アブラハムから生まれた子イシュマエルとイサクです。

9:6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、

 9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。

 9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

 9:9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

 紀元前2000年、神様はメソポタミアのウルという都市に住んでいたアブラムを選んで、神の命令にしたがって約束の地へ行けば、彼の子孫は星の数のようになると約束なさいました。当時彼は75歳、妻サライは65歳でした。しかし、待てど暮らせどサライはみごもらないうちに10年がたち、彼女はもはや子どものできるからだでなくなってしまいました。あせった妻サライは、当時のオリエントの習慣にしたがって、自分の侍女ハガルに借り腹をして夫アブラムの子を得たのです。けれども、これは神様のみこころにかなう方法ではありませんでした。それからさらに十数年たったとき、神様はアブラハムとサラに現れて「来年の今頃、サラは男の子を産みます。」とおっしゃいました。「その子が星の数ほどになると言った、あの約束の子です。」というわけです。そうして生まれたのがイサクです。そして結局イシュマエルは退けられ、イサクがアブラハムの相続人となりました。

アブラハムの血統、つまに「肉の子ども」としては、イシュマエルとイサクがいましたが、神様の約束の子はイサクの方だけでした。・・・そのように、アブラハムの血統であるイスラエル民族みなが神の民だというわけではなく、神の約束の子孫だけが神の民なのだというのが、旧約聖書にも記された原則なのです。

 パウロはこのことを立証するために、もう一つの例を挙げます。

 9:10 このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

 9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、

 9:12 「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。

 9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

 アブラハムから生まれたイサクはリベカという女性と結婚しました。なかなか子どもが与えられないでいましたが、ついにリベカはみごもりました。おなかのなかで双子が暴れているので、リベカは不安になりましたが、そのとき神様が彼女に啓示を与えました。「兄は弟に仕える」と。つまり、お兄ちゃんはエサウ、弟はヤコブでしたが、神様の約束の子はヤコブの方であるということを、神様はまだ赤ん坊がリベカのおなかの中にいるうちに告げたのです。おなかの中に二人ともいるのですから、どちらが良い子で、どちらが悪い子であるかはわかりません。どちらも、神の前に善も悪もしていません。ですから、神様は、エサウが悪いことをして、ヤコブが善いことをしたから、そのように選んだのではありません。彼らがお母さんのおなかの中にいて、世に出て善いことも悪いことも何もしていないうちに、またその人柄がどういうものかも現れないうちにヤコブを選んだとおっしゃったわけです。

 「選ぶ」というと、たとえばミカンの入った段ボール箱に「特選」とあると、サイズも色も甘味も特別良いものを選ばれたということになりますが、神様の選びはそういう意味ではありません。人間の側の理由ではなく、ただ神様のみこころのまま自由に選ぶのです。

 要するに、神様が選んだ約束の者が神の民になるのだと聖書は教えているのです。だからイエス様がこの世に来られて宣教し、十字架にかかってよみがえった時、悔い改めてイエス様を信じ受け入れ、神の民、教会のメンバーになったユダヤ人たちは約束の子たちであり、イエスを拒んだユダヤ人たちは、血統はアブラハムの子孫であっても、神の約束の子たち選ばれた者イスラエルではもともとなかったのだというわけです。だから、神の約束が無効になったというのは誤解なのです。神の約束は絶対に真実です。

 

2.事は神のあわれみによる

 

 しかし、今度は「神はイサクを選びイシュマエルを選ばなかった。また神はヤコブを選び、エサウを選ばなかったということなら、神様は不公平じゃないか。」という風に,理屈を言い不平を鳴らす人たちがきっといるだろうとパウロは想定して、話を次に進めます。

  9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

 「絶対にそんなことはありません」というのは「メー・ゲノイト」というギリシャ語なのですが、パウロは、人間の議論が神の正義を否定しそうになるときに、決まって発する激しいことばです。神が正義であるということは、議論の前提です。議論の前提どころか、この宇宙全体の前提です。その前提を見失ってしまえば、もはやこの宇宙そのものが成り立ちません。なぜなら神こそこの宇宙を支配する法則のいっさいをお定めになったお方だからです。法則というのは、物理法則だけでなく、化学の法則も、議論を成り立たせる論理の法則も、道徳の法則も、なにもかもです。神は無から万物を創造し、絶対主権者としてこの世界を治めていらっしゃるお方です。その世界の中に被造物である私たちは生まれ、今日も生かされています。神が正義であるということは、公理なので、それを疑ったら議論そのものが成り立ちません。

 神は万物を無から造り、これを治める絶対主権者ですから、モーセにこうおっしゃいました。 9:15「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」。誰を憐み、誰をいつくしむかは、神の主権に属することであって、被造物である私たちが文句をさしはさむことではありません。 9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです

 さらにパウロは、人がその心を柔らかくしたり、頑なにしたりすることも、神のみこころによることなのだと、エジプトの王パロの例を挙げて言います。神がモーセを通して、パロに「奴隷とされているイスラエル人を解放せよ」と命じましたが、パロは心を何度も頑なにしました。最初パロは自分で頑なにしていたようですが、そのうち「主がパロの心を頑なにした」ということばがでてきます。それには神の意図がありました。それは17節にあるとおりです。

9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。

 パロは己の自由意志をもって心頑なにしているのですが、その自由意志もまた神の掌の中にあるのです。「王の心は、主の手の中にある水のようなもので、みこころのままに動かされるのです。

 9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

 

3.創造主の絶対主権

 

 すると、さらに人間の肉の論理がまつわりつくことをパウロは想定していいます。

  9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」

 人間としてはもっともな理屈です。これに対して、パウロはそもそも神とは誰であり、あなたは何者なのか?と問いかけます。

 9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

 9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

 陶器師は粘土をこねにこねることが終わると、その手の中で器を作り上げます。ある器は天皇陛下の食卓のお皿になり、ある器は百円ショップの棚に並ぶお皿になります。どういうものにするかは、陶器師の心のままです。神は陶器師なので、イシュマエルをどのような器として用いるか、イサクをどういう器とするか、ヤコブを、エサウをどういう器とするかはそのみこころのままです。私たちも同様です。私たちは神を恐れなければなりません。神は創造主であり、私たちはその手の中の器です。

「なしたまえ なが旨 すえつくり わが主よ」です。

 

4.全人類は滅ぶべきものであるのに、神は寛容をもって、ユダヤ人からも異邦人からも、憐みの器を選ばれた

 

 最後の点です。アダムにあって、全人類は創造主である神に背き、罪に陥りました。私たち人間は一人残らず、アダム以来の罪に汚されていて、毎日、その心の思いにおいて、その言葉において、その手のわざにおいて罪に罪を重ねています。積み重ねるから罪というのかといわんばかりに。ですから、私たちは一人残らず実は滅ぼされるべき怒りの器なのです。陶器師が窯出しをすると、気に入らないものは次々に床にたたきつけて壊してしまいます。陶器師にはそうする権利があるのです。ところが、神様という陶器師はすこし変わっていらっしゃって、いや寛容でいらっしゃるので、できそこないの器もなんとか憐れんで癒して、神の器として生かしてやろうと思ってくださいました。

  9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

 9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

 そのために、神は尊い御子をこの世にくだし、御子は愛の完全な生涯を送られた後、十字架にかけられ、十字架の上からご自分をののしり、唾までも吐きかけている人々、当然神の怒りを買って滅ぶべき人々のためにも祈られたのです。「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから。」こうして、私たちは神の驚くべき寛容と忍耐と愛とを知ることになりました。

 そして、神様はその救いにあずかり、神の民を構成する者を、アブラハムの血統に属するユダヤ民族だけでなく、世界中のあらゆる民族から選んでくださいました。異邦人の救いについては、預言者ホセアがちゃんと予言しているよ、とパウロは述べます。

 9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

 9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。

   「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、

   愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

 9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、

   わたしが言ったその場所で、彼らは、

   生ける神の子どもと呼ばれる。」

 そして、イスラエル民族全部が救われるのでなく、その一部の「残された者」だけが救われるのだと旧約聖書は預言しているではないか、とも述べるのです。

 9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。

   「たといイスラエルの子どもたちの数は、

   海べの砂のようであっても、

   救われるのは、残された者である。

 9:28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、

   地上に成し遂げられる。」

 9:29 また、イザヤがこう預言したとおりです。

   「もし万軍の主が、私たちに

   子孫を残されなかったら、

   私たちはソドムのようになり、

   ゴモラと同じものとされたであろう。」

 結局、救われる神の民とはイスラエル民族の中の「残された者」と異邦人の中から選び出された者があわさった群れなのです。

 

結び 神様に背いてしまったときから、私たち人間のものの考え方は、その前提が間違って逆さまなのです。だからわからないのです。どうまちがっているのか?

 多くの人は、まるで神様のことを、人間を幸福にするための道具のように考えている。それでは、まるで人間が主権者であって、神様がしもべのようです。真実はさかさまです。神が創造主であり主権者ですから、私たちこそ神の御栄光をあらわすために造られた器なのです。

 また、まるで人間が善い者であって、救われるのが当たり前であり、滅びるのは不当なことのように考えている。これまた間違いです。神に背いて悪いことを考えたり、言ったり、したりしている私たちは、神の律法に照らせば、滅びて当たり前、滅びるのが正当なことなのです。・・・しかし、神様は憐れんでくださったのです。だから、感謝すべきなのです。