水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

小さくかつ偉大な者  

詩篇8篇                     

 

2017年12月3日

8:1 私たちの主、【主】よ。

  あなたの御名は全地にわたり、

  なんと力強いことでしょう。

  あなたのご威光は天でたたえられています。

 8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、

  力を打ち建てられました。

  それは、あなたに敵対する者のため、

  敵と復讐する者とをしずめるためでした。

 8:3 あなたの指のわざである天を見、

  あなたが整えられた月や星を見ますのに、

8:4 人とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを心に留められるとは。

  人の子とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを顧みられるとは。

 8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

  万物を彼の足の下に置かれました。

 8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 8:9 私たちの主、【主】よ。

  あなたの御名は全地にわたり、

  なんと力強いことでしょう。

 

 

 詩篇第8篇は、最初と最後の節に「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いのでしょう。」と賛歌が繰り返されます。神のご栄光はどのようにあらわされるのか、どのような者を用いて神の栄光は現わされるのでしょうか。

 

1.神を知ると自分の小ささがわかる

 

 主の御名の全能、そのご威光がいかなるものを通して現わされるかということが、語られていくのが2節以降です。

 

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 

 神の御名の力が全地に現わされる方法、そのために用いられる人はどんな人でしょうか。人間の知恵で考えれば、強力な大統領や官僚、大金持ち、ノーベル賞学者、そういうものを考えがちでしょう。権力があれば法律を作って社会を動かせるとか、お金があればそういう政治家も動かせるとか、科学的発明で大きな社会変革ができる、とか。けれども、神はそれらの知恵を愚かなものとし、神はそれらの力を無力なものとされたのです。神は、御自身の御名を「幼子と乳飲み子たちの賛美」によって現わされ、これによって神に敵対する力ある者たちを滅ぼしたまうのです。

 エルサレム入城と「宮清め」の事件の後、律法学者・長老たちはイエス様に抗議の申し立てをしました。「子どもたちがホサナといって、あなたのことをあたかもメシヤ、あたかも神のごとくに賛美しているではないか、とんでもないことだ」と。すると、主イエスはこの詩篇を引用なさいました。律法のエキスパートであると自任する者たちに対してこのことばを引用されたのです。

マタイ21:16

「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 

 また、あるとき主は祈られました。

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」(Mt11:25,26)

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 神の御力を打ち立てるのは、高ぶった人間ではなく、幼子と乳飲み子のような存在です。神の御前に己の卑しさ、貧しさを認めた人間、へりくだった魂なのです。

 

 次に詩人は、夜空を見上げます。真っ黒のビロードにダイヤモンドを散らしたように、夜空にまたたく幾千万の星。寸秒違うことなく軌道上を運行する月や星星。これらを見上げるとき、詩人は自分という存在がなんとちっぽけなものかと、思わずため息が出るのです。宇宙の広大さの中で、己は塵に過ぎぬことを悟ります。昔、散歩するとよく父が、「この星空を見ていると、自分がもっている悩みとか怒りとかいうことはなんとちっぽけでくだらないことかと思うよ。」といっていました。この地球も広大無辺の宇宙のなかでは片隅の砂粒のような者でしょう。その上に現れた私という人間は、宇宙全体からみれば、一つのウィルスみたいなものでしょう。

 けれども、詩人の神に対する驚きは、宇宙に対するよりもはるかに大きいのです。詩人の肉眼が見るのは星空ですが、霊の眼は、星空をつきぬけてその星空を造った主なる神を見るのです。しかも、神にとって、星空を創造されることなど造作ない事、「指のわざ」にすぎないではないかと歌います。その偉大な創造主がどうして私ごときに目をとめて下さるのだろうか。不思議です。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 まことの神の前に立つ時、私たち人間は、まず自分の存在の小ささを思い知らされるのです。これが人間の第一の智恵です。

 

 ところが神に背を向けた近代科学文明は、人間をたいそう傲慢にし、おろかにしてしまいました。科学の力によって人間はなんでもやることができると人間は思い上がってきました。偉大な物理学者とされている英国のスティーブン・ホーキング Hawking 博士が、Grand Design の中で「宇宙の誕生に創造者の手は必要ではない、それは物理法則にしたがって、自然発生した」。重力の法則をはじめとする物理法則によれば、無から有が生じるのは不思議ではない。むしろ存在しないことより、存在することのほうが自然なのだ、これがホーキング発言の要旨なのだそうです。 ちょっと頭の良い小学生なら言うでしょう。「博士。じゃあ、重力の法則を初めとする物理法則は創造されたんですね。」神様を畏れない傲慢な知性と文明は、バベルの塔に象徴されるように、実に愚かなのです。

 

 私たちは文明を築くことはよいことです。そのために、神様が私たちにくださったのですから。しかし、文明や科学に酔っ払ってはなりません。人間の知識と文明を神のごとくに思いこんでこれを偶像として拝んではならないのです。あらゆる偶像崇拝と同じように、文明崇拝・科学崇拝は、目先の得は約束しても最終的に人間に不幸をもたらすのです。実際、今、物理学の最先端の知識が核兵器を造りだしてしまったので、私たちは「東京に核ミサイルが落とされれば一瞬にして400万人のいのちが失われる」と聞かされて恐怖を感じなければなりません。愚かなことです。

 人間が造りあげた文明など、実は、神の御目から見るならばごくお粗末なものです。あのバベルの塔にしても、ホーキングの宇宙論にしても、この大宇宙を指先でちょいちょいと創造し治めていらっしゃる神の御目から見るならば、浅はかなものです。人間は、神様の御前に出て、自分の愚かさ、小ささをよくわきまえることこそが人間の第一の知恵です。

「主を恐れることが知識の初めである。」(箴言1章7節)

 

2.神を知ると人間の偉大さがわかる

 

 しかし、こんなにちっぽけな私という人間を、全宇宙を治めていらっしゃる神様は心に留めて下さる不思議。そればかりか、二千年前には、みずから人となってこの世界に来てくださり、十字架の死をもって罪までもあがなってくださったことはもっと不思議です。なぜ、こんなにも神様は人間に心をとめてくださるのでしょうか。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは、人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 

 そういう思いの中に啓示されてきたのは、5-8節です。

 

8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

  万物を彼の足の下に置かれました。

 8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 

 背景にあるのは、もちろん創世記1章に記される人間の創造における神の御言葉です。

「我々は我々に似るように人を造ろう。そして、彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」

 こんなに小さく卑しい私たちであるが、神は私たちをご自分の似姿、御子のかたちに似せて造って下さったのです。物理的、空間的にはいかにも小さな自分ですが、神の似姿というかぎりにおいて私たち人間は偉大なものです。地を治めるべく立てられているのです。そのように詩人は思い直すのです。私がいかに小さな者であっても、能力にも限界があっても、造り主である神の似姿に似た者であるかぎり、私には尊厳があり責任があるのだと分かったのです。

 私たちは人間として、自分の偉大さと自分の小ささとを同時に知らねばなりません。いずれの知識が欠けてもいけないのです。パスカルは言いました。

「人間に自分の悲惨さを知らせないで偉大さだけを教えることは危険なことである。また人間に自分の偉大さを知らせないで自分の悲惨さだけを教えることはさらに危険なことである。しかし、人間に自分の偉大さと同時に悲惨さを知らせることはたいへん有益なことなのである」と。

 実は、パスカルを初めとして17世紀に近代自然科学の原理を築いた人々は、実は、ことごとく神を畏れる人々でした。地動説を初めて唱えたコペルニクスは司祭でしたし、ケプラーは司祭の子どもでしたし、ガリレオ・ガリレイも敬虔なキリスト者でした。彼らは万物の創造主なる神を畏れていたからこそ、近代自然科学の土台を築くことができました。ガリレオ・ガリレイスウェーデン王妃クリスティナあての手紙に次のようなことばを残しています。

「聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものです。(中略)神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」

 「自然は、創造主なる神がロゴス(ことば・理性)をもって造った作品である。だからこそ、神の似姿にしたがって理性を与えられた人間は、これを読みとることができる」とケプラーガリレオパスカルたち近代自然科学の根本原理です。創造主が造られた世界なのだから、太陽系を成り立たせている原理も、ピサの斜塔から物が落ちる原理も共通であると考えられたので、近代物理学は成立したのです。

 しかし、現代人は、神などいないと傲慢になりながら、実に、自分で自分を惨めな者にしてしまっています。進化論や唯物論の影響の下で、ほとんどの日本人はチンパンジーよりも少しばかり智恵のあるサルにすぎないと思いこんでいます。ですから、人間としての道徳的責任というものがわからず、男と女は単なるオスとメスのようにふるまっています。サルが人生の目的を考えないように、多くの人はなんのために自分が生きているのかを考えようとしません。

 あるいは人間を精巧なコンピュータを備えたロボットにすぎないと教える学者たちもいます。故障したロボットは廃棄処分にされるように、役に立たない人間は殺してしまって良いと子どもたちは思うのです。中学生たちがホームレスのおじさんを殺してしまったという事件がありました。彼らに罪があります。しかし、彼らだけを責められないのは、彼ら自身家でも学校でも、より多くの偏差値を取るなら価値があり、偏差値の低い人間は価値がないと教えられてきたということが背景にあるのでしょう。今、多くの中学生・高校生たちは人間として扱われず、人間としての尊厳を無視されて偏差値ロボットとして扱われているのです。

 

 人間はちっぽけな存在です。しかし、同時に、偉大な存在です。それは人間が神の似姿として造られたからです。この原点に帰らねばなりません。神の似姿として造られたところに、人間の価値と尊厳の根拠があるのです。人間は、ロボットではない。サルでもない。人間は神の似姿です。

 

結び

 

 私たちは創造主である神の似姿です。神を見上げ、神を恐れ、神を愛しているかぎりにおいて、私たちは神の似姿として十分に生きることができます。神を離れてしまうならば、私たちはサルかロボットに成り下がってしまいます。

 神の御前に卑しい己、神の御前にいかにも小さな己を自覚する者こそ、全地を治めるのにふさわしいものです。ただ神の御前で己がいかに小さくはかない者であるかを認めるとき、私たちは同時に自分は神の似姿として尊厳ある者だと知ります。そのとき、神はその人を通して力を打ち立て給うのです。

 あなたの子どもに、お孫さんに、「君は、偶然生じてきた宇宙のゴミではない。ロボットでも、サルでもない。君は、神様の似姿として造られた尊い存在なんだよ。」と教えてください。