十字架のイエス
Lk23:33-43
2017年 苫小牧受難週主日
1.十字架上の上で
ローマ総督ピラトの法廷での裁判を終えて、主イエスは石畳のだらだらと上っていく道を一歩一歩踏みしめてついに処刑場ゴルゴタへと向かいました。途中、すでにひどく鞭打たれ憔悴していたので、途中からはひとりの巡礼者に十字架を負ってもらい、その前を主イエスは歩いて行かれました。沿道には泣いている女たち、嘲る人々の怒号がうずまいています。こうして、主イエスはエルサレム城外の処刑場である丘に到着しました。時は午前九時。処刑場は「ゴルゴタ」と呼ばれました。その意味は髑髏です。
今日、ここがゴルゴタの丘だったと言われる場所は二か所あって、一つは4世紀にコンスタンティヌス大帝が建てた聖墳墓教会のある場所です。もう一つは19世紀半ばにゴルドン将軍が提唱した場所で、ゴルドンのカルヴァリーと呼ばれるものです。ゴルドン将軍は、この丘をある方角からみて、白い石灰岩に洞窟が黒々とあいているありさまが、どくろに見えたからでした。私としてはこちらのほうが信憑性が高いように思っています。
ゴルゴタに到着すると、ローマ兵はイエス様を十字架の荒木の上に押し倒し、一人の兵士が腕をぐいっと引っ張ります。すると、もう一人の兵士がその腕に、長さ十センチはあろうかという釘を打ち込みました。よく聖画では釘は手のひらに打たれたように描かれていますが、近年、十字架刑になった囚人の遺骨が発掘されて、釘は手のひらではなく、前腕の二本の骨(橈骨と尺骨)の間に打ち込まれたのだということがわかりました。手のひらでは体重によって肉が裂けてしまうからでしょう。そして、もう一本の釘は足のかかとの骨を貫きました。いったいどれほどの激痛を主は、忍ばれたのでしょうか。
そして、三本の十字架が兵士たちによって立てられました。
「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」23:33
このようにして、紀元前8世紀に書かれたイザヤ書53章の「メシヤの墓は悪者どもとともに設けられる」という預言が成就したのでした。
ところが、十字架上の神の御子はそのとき、天を仰いで次のように祈られたのです。今、まさに自分のことを憎み、あざけり、殴りつけ、つばをはきかけ、挙句の果て、服を剥ぎ取って、釘をもって十字架に打ち付けて苦しめる人々のために祈られたのです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」23:34
・・・いったい、人間は、このような祈りをすることができるのでしょうか。主イエスはかつて弟子たちにこのように、教えてくださいました。
「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:27-36抜粋)
主イエスは、このように教えただけでなく、そのご生涯をかけてそのまま実行なさったことを私たちは福音書を読むと知ることができます。最後に、イエスさまは、ご自分を憎み、のろい、十字架にくぎ付けにして苦しめる人々のために祝福を祈られました。ご自分をつばを吐きかけて侮辱する人々のために神の赦しを求めて祈りました。こぶしで殴りつける者には反対のほほを向けました。ローマ兵はイエス様の衣を、そして下着までも剥ぎ取られました。なんという屈辱でしょうか。その上、彼らはふざけてイエスの着物をくじ引きにして引き裂いて分け合いました。しかし、イエス様は、彼らを愛されたのです。イエス様は、激痛のなかで力を振り絞ってこの人々の赦しを願って祈られたのでした。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
2.主の十字架の下の人々
(1)父よ。彼らを・・・
主イエスの十字架の人々とは、どのような人々だったのでしょう。民衆、指導者、兵士たちの言動が記されています。また、福音書の並行記事を読むと、その中には主イエスの弟子たちも紛れ込んでいました。
「 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」23:35-38
祭司長・学者といった民の指導者たちは、「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言いました。彼らは、民衆の自分たちに対する尊敬がイエスに移っていくことについて、激しい妬みを抱きました。そして、共謀して、イエスを死刑にすることを画策した人々でした。主はそういう彼らのために「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分でなにをしているのかわからないのです」と祈りました。
また、そこには多くの群衆がいました。群衆の中には、つい数日前には、ロバに乗ってエルサレムに入城する主イエスを「ホサナ!ホサナ!」と歓声を上げて、歓迎した人々も含まれていたことでしょう。彼らは、祭司長や学者たちにあおられれば、今度は無責任にも「イエスを十字架に付けろ」「十字架につけろ」と叫んだのです。群集心理というのでしょうか。恐ろしいことです。そういう、心定まらない無責任で残酷な群衆のためにも、主イエスは祈られたのです。「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのかわらないのです。」
ローマ兵たちがいました。彼らは異邦人です。ユダヤの救い主なんぞに関心もありません。自分には無関係だと思っています。ただ、ユダヤ人の王だと名乗ったイエスが、手もなく逮捕されて、むざむざ十字架に磔にされてしまうのを見て、情けない野郎だと軽蔑していたのです。ローマの兵士たちは、「ユダヤ人の王なら自分を救え」といいました。そして、遊び半分にくじをひいてイエスの下着を分けたとあります。イエスの言葉にも、苦しみにも無関心なローマの兵隊たちのためにも、主イエスは祈られました。「父よ。彼らをおゆるしください。」
そして、群衆の中には3年間主イエスと寝食をともにしてきた弟子たちも紛れ込んでいました。彼らは昨夜は「イエスのためならば、ご一緒にいのちも捨てます」と数時間前に口にしたのですが、いざ敵が迫るとイエスを捨てて逃げてしまったのでした。イエス様に従いたい、従うぞと決心しても、サタンに足をすくわれて、主を裏切ってしまう私たち。私たちのために主は「父よ。彼らをおゆるしください。」と祈られたのです。
イエスを憎む指導者たち、その時その時にフラフラ心定まらない群衆、まるで無関心なローマ兵、そしてイエスに従って生きたいと願いながら従うことのできない弱い弟子たち。主イエスは「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」と祈ってくださいました。
(2)自分を救って見ろ
指導者たちも、民衆も、ローマ兵も、十字架の下の人々のことばを見ていますと、それらは「自分を救ってみろ」ということばに集約されます。まるで判を押したように同じようなことばです。彼らの考えでは、「人を救う救い主、王、メシヤという者は、自分を救う力がなければならない」ということでした。さらに、イエス様の隣にいた十字架上の一人の犯罪人までも同じ事を言っています。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。この叫びは、人間が求めがちな「救い」がなんであるかということを示しています。彼らの求めていたのは、要するに「力」です。剣の力、富の力、政治の力。
しかし、剣の力によっても、お金の力によっても、政治の力によっても、知識の力、現代では科学の力でしょうか、そういうものによって、人は神の聖なる怒りから救われることはできません。政治も剣の力も知力も財力も科学の力それぞれ、無意味なものではありません。それぞれに意味あるものです。けれども、これらの「力」によって罪人に対する神の聖なる怒りから救うことはできません。神の怒りから救われなければ、永遠の滅びるのです。
3.二人の犯罪人
ここに十字架に付けられた二人の犯罪人がいます。彼らは今その悪業の報いを受けて、処刑されています。神様はしかし、この二人に最後のチャンスを与えてくださいました。一人はそのチャンスを生かしてパラダイスにはいり、もう一人はそのチャンスをむだにして、永遠の滅びのなかに陥りました。十字架にかかられたイエス様に対する態度が、人の永遠の運命を決定するのです。
最後の最後に救われて天国に入った犯罪人は、何か善いことをしたのでしょうか?彼は十字架で苦しむイエス様に対して水一杯差し上げることすらできませんでした。それどころか、他の福音書の平行記事によれば、彼も十字架にかけられながら、つい先ほどまでは他の人たちといっしょになって、イエスを罵っていたのです。「お前が救い主なら、自分を救い、俺たちを救え」と。けれども、彼の心は隣にいるイエス様の祈りを聞いたときに変えられました。『このお方は罪を犯してはいらっしゃらない。このお方は、尊い神の御子でいらっしゃる。』と。そうして、彼がしたことはたった二つのことでした。そのとき、彼はイエス様によってパラダイスに入れていただけたのです。その二つのこととはなにか。神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰です。
第一に自分の罪を認めて悔い改めたことです。
「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(23:41) 自分は罪を犯した、罪の報いを受けるのはあたりまえです。このように神様の前で自分の罪を認めることが救いのためにまず必要です。なぜなら、神様がイエス様をとおして与えてくださる救いとは、罪の赦しであり、罪からの救いであるからです。自分の罪を認めない人に罪の赦しを受け取ることはできません。
第二に、この犯罪人が救いのためにしたことは、イエス様を神の御子救い主として信じて、それを告白したことです。彼はいいました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(23:42)彼はイエス様が天国の御座におすわりになる神の御子であると信じて思い出してくださいとイエス様に頼って信頼したのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。そのとき、イエス様はおっしゃいました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)
ほんとうに、すべりこみセーフでした。
結び
「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」敵のためにこのように祈られたイエス様は、まことの愛の神の御子です。このお方に、自分が犯してきたすべての罪を告白しましょう。そして、イエス様、この罪深い私のことも憶えていてくださいと祈りましょう。主イエスは、必ずあなたの地上の生涯の尽きるとき、あなたをも迎えに来ておっしゃいます。
「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」