平和の王
マルコ11:1-11
2017年4月2日 苫小牧
11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」
11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。
「ホサナ。
祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。
ホサナ。いと高き所に。」
序
ユダヤ三大祭りの一つである過越しの祭りの週になりました。当時、祭りの時期になると、いつもはエルサレムの人口は45000人ほどなのが、15万人から20万人に膨らんだそうです。彼らは城壁の外にキャンプして祭りに参加したのでした。そういうにぎやかな雰囲気のなかで、イエス様の一行は、いよいよエルサレムに近づきました。イエス様はエルサレムの東にある小高いオリーブ山の麓に来ました。ここには、ベタニヤとベテパゲという村があり、ベタニヤには、イエス様と親しくしていたマルタ、マリヤ、ラザロたちの家があります。イエス様は、これまでエルサレムに向けてずんずん歩いて来られましたが、立ち止まると、弟子たちを振り向いて不思議なことをおっしゃいました。
11:2「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」
ご自分がエルサレムに入城なさるにあたって、乗り物を用意しなさいとおっしゃったのです。ここまで歩いて来られたのですから、そのままスタスタ歩いてエルサレムに入って行かれたらよさそうなものですが、あえてロバに、しかも、小さなロバの子の背に乗って入城なさろうとおっしゃるのでした。
そして、その調達の仕方も面白いですね。弟子たちが、その村に入っていくとロバの子が繋がれているから、それをほどいて連れてきなさいとおっしゃるのです。ロバ泥棒と間違えられそうになったら、「主が御入用なのです。あとで返しますよ」と言っておけば大丈夫だよ、と主はおっしゃるのです。
いったいどういう意味でしょうか。
1 預言の成就のために
まず、驢馬の子を連れてきなさいとおっしゃったことには、特別の意味がありました。それは、預言を成就するためでした。旧約聖書には数々のメシヤ預言があって、イエス様はそのメシヤとしてその一つ一つを成就して行かれたのでした。紀元前8世紀、ミカという預言者は、メシヤはベツレヘムというダビデの町に生まれると神からのことばを受けて預言しました。クリスマスにはよく読まれるみことばです。
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。
あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、
イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、
永遠の昔からの定めである。
また同じく紀元前8世紀のイザヤという預言者は、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ばれる」と語り告げました。そして、その子は長じると、メシヤはすばらしい知恵に満ちたダビデのような王、いやダビデに勝る王として来られるのだとも預言しました。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、
これをささえる。今より、とこしえまで。
万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。
そのような預言者の一人にゼカリヤという人がおりました。彼は紀元前五百数十年の南ユダ王国の預言者でした。ゼカリヤ書9章9節に次のようなくだりがあります。
ゼカリヤ
9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜り、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。
神が救い主を遣わす、その千数百年も前から、予告がされました。それは、実際に、その救い主が来たときには、この方がメシヤだとわかるためでした。イエス様にあって、メシヤ預言はことごとく成就したのです。
2.ロバ
イエス様は、乗り物について詳しく指定なさいました。「誰も乗ったことのない子どものロバ」と。それはロバであること、しかも誰も乗ったことのない子ロバであることです。
馬でなくロバでなければならないのは、古代イスラエルにおいては馬は戦争のときの兵器であり、ロバは平時の乗り物であったからです。馬が兵器であることは、競馬の様子などを見てもわかるようにその性質が非常に猛々しいものであるからです。競争心が激しく、槍や剣がひらめいていても、戦士たちの雄叫びがとどろいていても、火が燃えていても飛び込んで行くのが馬の猛々しい性質です。牡馬は去勢しなければ、乗用には危険です。「あれ~槍や刀や鉄砲でけがしそうだから、遠慮しまーす。」という性質では戦争には用いようがありません。というわけで、馬は戦争のシンボルとして聖書の中では用いられているのです。というわけで、もしイエス様が馬に乗って入城されたら、それは現代のイメージでいえば、どこかの国の首相や主席や大統領のように戦車や戦闘機に乗って、勇ましげに見せるパフォーマンスを披露するようなことになってしまいます。
これに対して、ロバは平時の乗り物です。小さくて、足は遅いけれども、馬よりも荷物を載せられるそうで、利口なのがロバです。そして、馬に比べて性格が穏やかです。ロバは見かけは馬に似ていますが、その心はむしろ人懐こい犬に似ています。というわけで、ロバは平和の象徴なのです。預言者ゼカリヤは、「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。」と言います。イエス様は戦争をもたらすために来たではなく、平和をもたらすために来られた柔和な王でしたから、ロバこそイエス様がエルサレムに入城する乗り物としてふさわしかったのです。
3.まだだれも乗ったことのない子ろば
しかも、そのロバは「まだだれも乗ったことのない子どものロバでなければならない」と注文を付けられたのでした。旧約聖書民数記19章2節には「主が命じて仰せられた教えの定めはこうである。イスラエル人にいい、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない完全な赤い雌牛をあなたのところに引いてこさせよ。」とあります。それは、つまり神様のための儀式専用のものであって、新品のものであるということを意味しています。神様の直接の御用には、人間が使い古したものはだめだよという意味です。
主イエスがエルサレムに入城なさるのは、特別の聖なる意味があったので、その御用にもちいられるのは、中古品、used品、あまりものではだめで、新品でなければならない、専用でなければならないという意味です。ロバが携わるこの務めは、神の御子キリストへの奉献物としてのご奉仕なのです。
今、祈り会でレビ記を学んでいます。主題は礼拝ということです。そこには、献身をあらわす全焼のいけにえ、罪の償いをあらわす罪のためのいけにえ、労働の感謝をあらわす穀物のささげもの、そして神様との交わりを表す和解のいけにえというのが出てきます。これらのいけにえには、今申し上げたようにそれぞれ異なる意味があるわけですが、全体に共通していることは、「傷のある物はささげものにしてはならない」ということです。牛のような高価なものをささげる経済力がなければ、羊を、それでも無理なら鳩をささげればよいとされていたのですが、牛でも羊でも鳩でも、傷がないものであることが肝要でした。お金持ちならお金持ちなりに、貧しいなら貧しいなりに、神様に聖別した最高最善をささげることが求められたのです。
イエス様の御用のためにもちいられたロバの子が「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」であったということは、この神様へのささげもののスピリットに通じるものがあります。私たちの主へのささげものは、献金であったり、会堂清掃をはじめ、さまざまな奉仕です。それぞれ賜物は違いますから、人と比べる必要はありません。しかし、神様の前で、残り物や傷物をささげてはなりません。聖別されたものだけが、神様にはふさわしいのです。それは、神様は、私たちの愛を求めていらっしゃるからです。
4 イエス様の主権
主イエスの注文を聞いて、ふたりの弟子は村に入って行きました。村に入るとすぐに一匹の子ろばがつながれてあるのを見つけました。「このロバだねえ。イエス様のおっしゃったのは」「そうらしいね」と、弟子たちは、恐る恐るロバをつないであるひもをほどきます。そうしたら、案の定、見とがめられてしまいます。「こらこら、ろばの子をほどいたりして、どうするんだい。ドロボーかい。」そこにおっさんたちが立っていたのですから、当たり前です。
そこで、弟子たちは「主が御入用なのです」と答えました。
すると、おっさんたちは、「ああそうかい。主が御入用ならば、どうぞどうぞ」と許してくれました。弟子たちは顔を見合わせて、喜んでロバをイエス様の所に連れてきたのです。
この出来事は、何を意味しているのでしょう。イエス様があらかじめ電話をかけるか、メールを出して、おっさんたちにロバを用意しておいてくれと話をつけていた、そんな雰囲気です。もちろん電話もメールもあるわけがないのですが、イエス様はすべてをご存じでちゃんと予定しておられたのです。
預言を成就するために、すべてのことの手筈を、摂理をもって用意していらしたのでした。今更当たり前ですが、イエス様は只者ではありません。
11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
6.ホシャーナー
こうしてイエス様は子ロバの背に乗りました。乗ろうとすると、弟子のひとりがロバの背に上着をかけました。これは当時、王様に対して敬意をあらわすことでした。同じように、ロバが進んで行く道に人々は上着を敷き、木の枝を切って来て敷きました。弟子たちも、イエス様を迎えた人たちも、心浮き立っていました。待ちに待ったメシヤがついに来た!!という喜びでした。
11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。
「ホサナ。
祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。
ホサナ。いと高き所に。」
群衆が主イエスを乗せた子ロバが進んでいく道にあふれています。彼らはホサナ、ホシャーナー「救い給え」と叫びます。しかし、彼ら群衆は、いったい自分たちがイエス様に何を求めているのかわかっていなかったのです。彼らは、ローマ帝国の圧政から救ってくださいとか、堅苦しい律法主義神政政治から救ってくださいとか、そういうたぐいのことを願いながら、王であるイエス様にむかってホシャーナーと大声で叫んでいたのでしょう。貧困から救ってください。あの悪い人から救ってください。病気から救ってください。どの時代も、そういう思いでほとんどの人は、主に向かってホシャーナーと叫びます。
しかし、ロバの子の背中に揺られながら進んで行かれるイエス様は、柔和であくまでも静かにしていらっしゃいました。ホシャーナー「救いたまえ」という叫びは、イエス様の耳には、どのように聞こえたのでしょうか?それは、「イエス様、どうか、私たちのために十字架で呪われ死んでください。そして、私たちを罪と神の御怒りから救い出してください」という意味でした。この道は、ゴルゴタの丘に続いていることを覚悟しながら、主イエスは進んで行かれたのでありました。
今朝は聖餐式です。私たちは、「ホサナ。私たちを罪と神の聖なる怒りから救ってくださって感謝します。」という思いをもって、ゴルゴタの十字架に向かって行かれた、主イエスのご愛に感謝しつつこれに与かりましょう。