水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

愛をもって真理を

創世記37

2017.3.26

 

 本日からヨセフの生涯を通じてあらわされた神様の御心を学んでまいります。

 

1.ヨセフ---反面教師:真理を語るなら愛をもって

1-4節 ヨセフと兄たちの悪い関係

 

 ヨセフという人物は、ヤコブの十二人の息子たちのうち11番目にあたり、母はヤコブの最愛の妻ラケルラケルから生まれた子どもはヨセフと、その弟ベニヤミンです。記事はヨセフが十七歳の時から始まります。十七歳のヨセフは兄たちの羊を飼う手伝いをしていました。ヨセフから見ると、兄たちの仕事のありさまは不十分なところが色々と目に付いたわけです。そこで、父ヤコブに特別に愛されているヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げていたのでした。ルベン兄さんはこうでしたとか、シメオン兄さんはこんなことをしていました、とか。父ヤコブは、そうした噂を聞くと、「おい。ルベン、お前は羊に水もやらないでさぼっていたそうじゃないか。」とか、「シメオン、羊を危険なところへ連れて行ったそうじゃないか。」とか叱責をしていたわけです。

 当然、ヨセフは兄たちから憎まれるようになりました。そしてついには奴隷としてエジプトに売り飛ばされることにまでなってしまうのです。ヤコブが兄たちの悪い噂を告げたからです。口はわざわいのもとですね。ヤコブ書3:2-10

 

 また、父ヤコブのヨセフに対する特別扱いも兄たちのヨセフに対する憎しみを増幅させました。3節。最愛の妻ラケルの忘れ形見でしたから、ヨセフは特別に愛されました。それに、年寄り子だったから、とも書かれています。若いときの子どもには厳しくしつけをするものですが、年を取ってから生まれた子にはついつい孫に対するように甘くなってしまいがちなものですね。

 しかも、ヤコブはそれを露骨に行ないました。ヨセフにだけ高価なすその長い服を作ってやって、ほかの息子たちとは完全な差別待遇をしたのです。兄たちはよれよれの短い服を着せられていましたから、そのピッカピカの長服を見るたびにはらわたが煮え繰り返るような感情を持つようになってしまったのです。

 これは実に、父親ヤコブの愚かさだったといわざるを得ません。ヤコブ自身、子どもの頃、父や母のえこいきによる苦しみを経験したはずでした。ヤコブの父イサクは兄エサウをえこひいきしました。そのことがヤコブをどれほど不安な思いにさせたでしょうか。そして母リベカはヤコブを偏愛しました。これによって、ヤコブと兄エサウとは互いに憎みあうような関係になってしまいました。そして、ついにヤコブは数十年も家を出ることになったのです。偏愛は、軽く扱われた子だけでなく、蝶よ花よと特別扱いした子をも不幸にしてしまいます。

 けれども、愚かなことにヤコブは自分の息子のことになると、ヨセフを特別扱いしました。そして、そのことは当然の結果として、兄たちはヨセフを憎むようになり、ヨセフは兄弟の仲で孤立しました。

 

ヨセフの夢(5-11節)

 ある時、ヨセフは二つの夢を見て兄たちにその話をしました。ヨセフには兄たちに対する悪意というものは無かったように思えます。兄たちに対する悪意があったなら、こんなにもあっけらかんと自分の見た夢を話すことはできなかったでしょう。

 その夢の一つは十二の麦束の夢で、ヨセフの麦束を兄たちの麦束が囲んでお辞儀をしたというのでした。兄たちが言うように、ヨセフが兄たちを支配するという意味の夢でした。もう一つは太陽と月と十一の星がヨセフを拝んでいる夢でした。両親と兄たちが自分をあがめるようになるという内容でした。今度は父親にまでたしなめられてしまいました。

 ただヨセフの夢は神からの啓示だったのです。将来起ころうとすることを、神様はヨセフにあらかじめこの夢をもって教えられたのでした。神の啓示は啓示として真理だったのですから確かに語ってよかったでしょう。しかし、十七歳の青年ヨセフの問題点についていえば、彼には悪意というものがないにしても、知恵に欠けていたといわねばならないでしょう。生まれた時からずっと特別扱いされてきたヨセフには、軽んじられてきた兄たちの傷ついた心がまるで理解できないという問題点がありました。真理は語らねばならない。けれども「愛を持って真理を語られ」なければならないのです。

 

 ヨセフは兄たちの悪い噂を父に告げました。その内容はおそらく嘘ではなく事実だったでしょう。けれども、ヨセフは兄たちを心配し、兄たちを愛して、その事実を告げたのでしょうか。おそらくそうではありませんでした。むしろ、彼は得意げにこの二つの不思議な夢を告げたのでした。また、ヨセフが語った夢の内容は、嘘でもなかったし、実際、神からの重大な啓示であり、真理でした。けれども、それを語るヨセフには、聞く兄たちに対する愛というものがかけていたように思えます。

 私たちは確かに真理を語るに当たって、人の顔を恐れてはなりません。神のみを恐れるべきです。けれども、真理を語るに当たって、神様と隣人に対する愛をもって語ることがたいせつなことです。今日、心したい第一点はこのことです。

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストにたっすることができるためなのです。」エペソ4:15

 

2.怒りは憎しみに、憎しみは殺意に--悪魔に機会を与えるな

 

12-36節 ヨセフ、兄たちによって、隊商に売り飛ばされる

 さて、そんなことがあって何日かたったときのことです。ヨセフの兄たちはシェケムに羊の放牧に出かけていました。父ヤコブはヨセフを使いにやることにしました。兄たちの様子をうかがいにいかせたのです。いつものようにヨセフは二つ返事で出かけました。これを見ても、ヨセフには兄たちに対する悪意はなかったことがわかります。どうもヨセフは兄たちにとっては、悪気なくお目付け役のような役回りをしていたのです。

 ヨセフはいつものようにあの父親の偏愛のあかしである裾の長い派手な服を着て出かけました。ですから、兄たちには遠くから見て、すぐに「あれはヨセフだ」と分かりました。18節。また、兄たちが、夢のことでヨセフのことをどれほど憎んでいるかが良く分かるせりふですね。「夢見る者がやってくる」兄たちは、もう殺意に満ちていました。

 ヨセフがやってくると、兄たちはヨセフを捕まえ、例の長服をはぎとりました。そして、空井戸にほうりこんだのです。23,24節。長服と夢がいかに兄たちの心をいらだたせていたかがよく表現されていますね。

 

 激情にかられてヨセフを穴にほうりこみ、穴からヨセフが「兄さん。助けて!」と叫ぶのを尻目に、兄たちは食事をしました。最初は「どうやってヨセフを殺そうか」などと威勢よく話していたでしょう。けれども、食事をするうちに、兄たちはさすがに弟に手をかけて殺すことが段段恐ろしくなったようです。けれども、穴から出してやれば、ヨセフのことですから、きっと父親にこのことを言いつけるにちがいありません

 どうしたらよいかと考えるうちに、うまい具合にそこにミデヤン人の隊商がやってきました。当時のオリエントにおける大きな文明は、メソポタミアとエジプトにありました。隊商はさまざまな品物を持ってこの両地域を行ったり来たりすることによって、商売をしていたのです。そこで、ユダの発案で、ヨセフを隊商に売り飛ばすことにしたのです。兄たちはヨセフを穴から引き上げました。「お兄さんありがとう。」とヨセフが言うと、兄たちは「ふん。どういたしまして。」と言って、なんと弟のヨセフを奴隷として銀二十枚で売り飛ばしてしまったのです。兄たちの残酷な愛の冷え切った心の恐ろしさです。いくら気に入らないからといって、泣いている弟を奴隷に売り飛ばすなどという不法なことがどうして尋常な人間にできるでしょうか。兄たちの心はすっかり暗闇の力に捕えられていたのです。

 

 憎しみというのは恐ろしいもので、早く捨ててしまわないと、心の中に蓄えているうちにどんどん増殖して、とんでもない罪を犯すことにもなってしまうものです。「怒っても暗くなるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えてはいけません。」とエペソ書にあるとおりです。不当な扱いを受ければ怒りが湧くでしょう。それはある程度やむをえないことです。しかし、怒りを腹に蓄えておくことは危険です。怒りはやがて憎しみに変わります。憎しみや恨みは悪魔の大好物なのです。憎しみを抱いている人の心には悪魔がやって来て、それを殺意に変えてしまいます。ついには人殺しをしてしまうかもしれません。

 

 兄たちは憎いヨセフを奴隷に売り飛ばし、銀20枚という小遣いまで手に入れました。そして、ヨセフがいなくなったことを父ヤコブにどのように説明しようかとわるだくみをしたのです。31-33節。

 父ヤコブの嘆きはどれほどのものだったでしょうか。34節、35節をご覧ください。父「ヤコブは慰められることを拒んだ」とあります。息子たちは、父親がこんなにも悲しんでいるのをみて、初めて自分たちが犯した罪の大きさを認識したのでしょう。彼らはヨセフと再会する二十数年後まで、弟を奴隷に売り飛ばして父親を欺いたという恐ろしい犯罪の秘密を共有しつづけ、良心の呵責を感じつづけなければならなくなるのです。

 

 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26,27)

 彼らは怒り、憎しみを蓄え、ついには本当に恐ろしい罪を犯し、良心の呵責に数十年も苦しみつづけることになってしまいました。彼らは日が暮れるまで憤ったままでいつづけために悪魔に機会を与えてしまったのです。

 

結び

 多くの教訓を含むヨセフ物語の最初の章でした。

①子どもの幸せを願うならば、決して親として子どもをえこひいきしないようにということ。

②十七歳のヨセフの舌の問題から「愛をもって真理を語る」ことのたいせつさ、

③怒りを溜め込んだ結果、サタンの罠に陥ってしまい罪を犯した兄たちから、「怒っても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないように」すべきこと。

 いずれも大切なことばかりです。けれど、これらの問題は私たちが自分の力で解決できることではありません。私たちは、自らのうちにこういう問題点や罪があると気づいたら、それを神様の前にもって行きましょう。そして、自分の罪を告白して、神様を見上げることです。神様は罪を赦して下さり、神様の平安と力を私たちのうちに注いでくださいます。

④ もう一つの励まし。私たちの人生には罪とその結果としての悲惨があります。けれども、神様はそんな悲惨をも後の日に喜びに変えてくださいます。今日の聖書個所はヤコブ、ヨセフ、兄たちみな反面教師ばかりです。けれども、神様はこうした人間一人一人をお取り扱いになりつつ、彼らのマイナスばかりを集めて、後には彼らにすばらしいプラス=救いの業を進めようとしていらっしゃるという不思議な事実です。私たちは、それぞれの立場で神様の前に自分を吟味し、日々悔い改めつつ、神様の御手に自分を委ねて歩んでまいりましょう。