水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

結婚の尊さ

マタイ5章27-―32節 創世記2章18-24節 27**,

『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

28**,しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。**

29**,もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。**

30**,もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。**

31**,また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。**

32**,しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

 

 

  私たちの遣わされた日本社会では、性道徳が崩壊しています。最近3人の子どもをもつ男優の不倫事件について報じられ大騒ぎです。奥さんと子どもを傷つけ、本人は芸能界を干され6億円の賠償金を出演CMのスポンサーから求められるとのことです。さらに腐り果てているのは政府官界です。官房長官の腹心である補佐官は京都に公務で出かける際、浮気相手の女性官僚を連れて行ったことが指摘されましたが、何ら処分されませんでした。芸能界や政界など目立つ人々の不道徳は、多くの人の知るところですから、社会全体を不道徳で汚すことになります。

 残念ながらこの世は、性的不道徳で汚れています。イエス様は、この世の中に、私たちを派遣して、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」とおっしゃいます。そしていかに生きていくのかを教えてくださいました。特に、パリサイ人、律法学者たちのいう表面的な正しさに勝る、真の正しさが求められているのだということで、主イエスは6つの律法の理解を取り上げられました。今回は、二つ目「姦淫してはならない」三つ目「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」についてのお話です。

 両者に共通していることは、ともに結婚に関する戒めであるという点です。結婚という制度が、神の前では尊いものであるということを前提として、これを壊してしまう姦淫という罪と離婚の問題が取り上げられています。ですから、あらかじめ結婚という制度がどのような意味で神の前に尊いものであるかということを振り返ってから、二つの律法についてお話するのが適切でしょう。

 

1 結婚の尊さ

 

(1)神が定めたゆえに

 結婚そしてそこから始まる家庭は、人間が自分たちの都合で考え出したものではありません。結婚という制度をお定めになったのは、人間をお造りになった神なのです。

創世記2章18-24節

18**,また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」**

19**,神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。**

20**,人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。**

21**,神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。**

22**,神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。**

23**,人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」**

24**,それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

 

 

 神様が、人間が堕落する前に定めてくださった制度は三つあって、それは安息日、仕事、そして結婚(家庭)です。神様を安息日に礼拝し、仕事をし、家庭を営むということは、人間にとって最も基本的で大事なことなのです。結婚というものが、人間が自分の都合のために適当に決めた制度であるならば、適当にこれをやめてしまっても大した問題ではないでしょうが、結婚は人間が決めたことでなく神が定めた尊い制度です。

 

 

(2)結婚の三つの目的

 聖書によれば、結婚の定めの目的は三つあります。

第一の目的、もっとも大事な目的は、夫婦の愛の交わりを通して、キリストと教会の愛の交わりを予表することです。創世記1章27節に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあるように、父子聖霊の三位一体の愛の交わりの神様は、人間をご自分の似姿として造ってくださいました。ですから、神に似たものとして造られた夫婦もまた、愛の交わりをするように造られているのです。特に、聖書の中でキリストと教会の関係は花婿と花嫁になぞらえられているように、夫婦はその結婚生活・家庭建設をもって、終わりの日のキリストと教会のうるわしい交わりを予表する務めがあります。その夫婦を見た人々が、キリストと教会のまじわりはこのようなものなのだなあと感じるような、そういう夫婦であることが求められているわけです。それは、夫は妻をキリストが教会を愛されたように愛し、妻はキリストに従うように夫にしたがうことです。

 

結婚の第二の目的は、神様が最初の夫婦を「産めよ。ふえよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記2:28)と祝福して言われているように、子孫を繁栄させて、神様の被造物を治め、文化を形成させる目的を果たすことです。地を治めて文化を形成することを文化命令といいますが、一人ではこの広い地球の上では成し遂げることができません。神さまは人間の子孫が増え広がらせて、文化命令の遂行することを計画なさったのです。

 

 しかし人間が堕落してしまったので、結婚にはもう一つ、第三の目的が加わりました。それは、「不品行を防止するためです。」とパウロがコリント人への手紙の中に記している通りです。第一コリント7章9節「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」

 

 

2 姦淫してはならない

 

(1)不品行と姦淫

 このように、結婚という制度は神の尊い定めであるので、これを破壊してしまう姦淫という罪はとても重大な罪なのです。聖書においては不品行(ポルネイア)と姦淫という罪を区別しています。不品行という罪は未婚の男女がみだらな関係を持つことであって、それはもちろん罪ではありますが、死刑にはあたりませんでした。若い男女が結婚する前に性的関係をもってしまった場合には、必ず賠償をして、そして、結婚をしなさいと旧約の律法には定められています。罪ではありますが死刑ではなかったのです。

しかし、姦淫の罪を犯してしまった場合には、その男女は死刑と定められていました。姦淫は配偶者を持っている人が、配偶者を裏切って、他の異性と性交渉を持つことを意味しています。ですから、姦淫は夫婦関係を破壊し、家庭を破壊してしまう点で、不品行よりも大きな罪なのです。結婚・家庭というものは、神が創造の時につくられた尊い定めですから、これを破壊する罪は死刑にあたる重罪であるとされたのです。

なぜそれほど結婚は尊いとされたのでしょうか。それは結婚は、花婿キリストと花嫁教会のうるわしいきよい愛の交わりを予表するものであるからです。ですから、既婚者が配偶者を裏切って他の異性と性交渉を持つ姦淫は、聖書の中で偶像崇拝の譬えとして用いられています。姦淫は、花婿キリストと花嫁である教会とのきよい愛の交わりを汚す重大な罪なのです。

 

(2)情欲

 さて、イエス様が姦淫という罪についておっしゃることばには、特別に独身の賜物の与えられた男性でないかぎり恐れおののくと思います。

27**,『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

28**,しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。**

 パリサイ人、律法学者は具体的に外に現われた行動にならないかぎりは姦淫を犯したことにはならないと教えていました。今日でも、人間の間の裁判ではそういうことです。心の中において犯した罪に関しては、人間はさばくことはできませんし、人間がさばいてもいけません。イエス様は、この言葉によって、「あなたがたは、罪は人間に対して犯すことだと思っているようだが、そうではない。あなたが罪を犯すときには、聖なる神の御前で犯しているのだ。」とおっしゃっているのです。神は霊ですから、私たちの心の中の動き、私たちの心の中のけがれをご覧になっているのです。私たちは神を恐れなければなりません。

 この心の中の姦淫の罪に対処する方法について、イエス様は次のようにおっしゃいます。

29**,もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。**

30**,もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

 

これはいわゆる誇張法であって、ありのままに受け取るべきことばではありません。あなたがもし実際に、もし右目が罪を犯したので右目をえぐり取ってしまっても、いや両目をえぐり取ってしまっても、なお罪を犯してしまう自分を見出すことでしょう。では、この誇張法をもって、イエス様は何を教えようとされるのでしょうか。それは、この姦淫の罪については、もし誘惑を内側に少しでも感じたならば、決然とその人、その場を離れる態度を取るべきであるということです。誘惑に直面し、誘惑と戦おうとするのではなく、誘惑から離れることです。ヤコブの息子ヨセフが、エジプトの高官の妻から誘惑されたとき、彼は「どうしてご主人に対し、神に対して罪を犯すことができましょう。」と言い放って、その場を立ち去りました。

私が青年時代から指導されたのは、<個室、車の中など、異性と二人きりにならないようにしなさい。やむを得ない状況の場合は、ドアを開けて話すとか、その状況について妻に伝えておきなさい。あるいは車の場合は、隣の席には配偶者以外は座らせず、後部座席にすわってもらうといった配慮をすることです。うちでは妻と娘以外、隣席にすわる女性はロダだけです。

 

 

3 離婚問題

 

 次に結婚を破壊する離婚について、イエス様は次のように教えました。 

31**,また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。**

32**,しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

 『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』ということばは、当時の律法学者たちの、旧約聖書申命記24章1節「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ云々・・・」を、男の都合中心に読み誤った教えです。このような教えがなされていたので、当時のユダヤの男たちは一般に、「自分の妻が気に入らなかったら、離縁状さえ渡せば、離縁する権利がある」と思っていたようです。 主イエスの弟子たちも、イエス様の教えが離婚を非常に厳格に禁じることだったので、「結婚に関して男の権利がそんなものなら、結婚しない方がましですよ」と言い放ったことが福音書の他の箇所に記録されています。つまり、ユダヤ社会は戦前の日本のように、男尊女卑の傾向の強い社会で、夫の権利だけが強く、妻の権利はほとんど顧みられないという状況でした。そこで、旧約時代、モーセはそれでは男の身勝手であるということで、せめて離縁状だけは渡すようにという、女性を保護するための手続きを命じたのでした。

 そして「もし夫が、妻に恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり・・・」ということばの「恥ずべきこと」とは何を意味するのかについて、例えば料理が下手だとか、病弱だとか、掃除が下手だとか、しわが寄って来たとか、なんでもいいから、夫からみて「恥ずべきところ」があったら、任意に追い出すことができるということだと解釈する有名な学者もいたのです。女性は、たいへん立場が弱かったのです。

 けれども、イエス様は、そうではなく、神が二人を結ばれたのだから、離縁をしてはいけないと教えたのです。結婚は、キリストと神の民を交わりを予表し、文化命令を遂行するために子どもを産み育てるための聖なる定めです。これを壊してしまう離婚を禁止したのです。

 だた、例外として「恥ずべき理由」があるとすれば、それは「淫らな行い」だけだとおっしゃったのです。つまり、姦淫の罪を犯した場合は、例外として離婚が許容されるのだとおっしゃったのです。 姦淫という罪は、一つ目の戒めに戻りますが、このように聖なる結婚をも破壊しうる恐るべき罪なのです。なぜなら、それは配偶者を裏切ることを意味しており、神が建てた家庭を破壊してしまう行為であり、そして、終末におけるキリストと花嫁の麗しい交わりをもはやその夫婦が予表することが出来なくしてしまう行為であるからです。

 

結び

 「あなたがたは地の塩です」「世の光です」と主イエスは私たちをこの世に派遣してくださいました。この世界は、何が正しく清いことであるのかということも分らなくなっています。ますます、そのようになっていくことでしょう。そうした何が正しいかわからなくなった時代であるからこそ、キリストを信じる者たちのきよい生き方が必要であり、神様に期待されています。神が建てた結婚、そして家庭という制度を、神の前に尊ぶ生き方をしてまいりたいと思います。

 

 

 

2ミリオン行く喜び

マタイ5:38-48

 

2020年2月23日 苫小牧主日朝礼拝

 

38**,『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

39**,しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。**

40**,あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。**

41**,あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。**

42**,求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。**

43**,『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

44**,しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。**

45**,天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。**

46**,自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。**

47**,また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。**

48**,ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 

 

1 主イエスの弟子の生き方

38**,『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 これは旧約聖書律法にある賠償に関する規定です。一見して、残酷な法律だなあという感想を持つ人が多いようですが、実際にはそうではありません。この律法の意味は、喧嘩をして片目を見えなくされたら、「相手の両目奪いたい」。歯を一本おられたら、相手の歯を十本でも折って復讐したい」というふうになりがちな人間を戒めて、さばきは公平でなければならないということです。つまり、100万円の損害を与えられたら、100万円の損害賠償で満足しなさいということです。律法というのは、公正の基準ですから、これはまことに当たり前の教えです。

 

 けれども、イエス様は、ご自分の弟子たちには、もっとすごいことを求めるのです。新約の時代、聖霊が注がれた時代の神の民は、律法の定めたそういう公正ということはわきまえつつも、その当たり前を超越した生きるための聖霊のいのちが与えられていて、この世にいながら神の国の生き方をすることが期待されているのです。なぜなら、この世界は破壊され傷ついていて、ただ公正さではその傷をいやすことはできないからです。

39**,しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

40**,あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。

41**,あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

42**,求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。

43**,『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

44**,しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 

 「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」とはどういうことでしょう。叩く人が左利きということではありません。右手の甲で殴りつけるということです。それは普通に喧嘩をして殴るという行為ではなく、相手を奴隷としてさげすんで殴りつけることを意味します。そういうものすごく悪い人にも、左の頬を与えよというのです。イエスさまは何を言いたいのでしょう。

 「40**,あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」

「告訴して下着を取ろうとする」とはどういうことでしょう。下着というと、現代日本の私たちはパンツとかシャツを思い浮かべて、裁判所に告訴して「あの人のパンツをください」と訴える変人と変な裁判官を思い浮かべるかもしれませんが、そういうことではありません。ここでいう告訴というのは借金に関することを想定しています。「あの人に金を貸してやったけれど、期日までに返してくれませんでした。ついては、あの人の下着を借金のかたとして取らせてください。」というお金を貸した側が町の世話人に訴え出るということです。当時のユダヤでは、庶民が持っているのは上着は一枚と下着数枚でした。昼は下着の上に上着を一枚羽織り、夜はそれを毛布として寝るという生活でした。下着については数枚ありますから、下着は一枚とられてもなんとかやっていけますが、上着を取られたら寝ることもできないので、上着はとってはいけない、仮に取っても日没までには返却しなさいと決まっていました。

出エジプト22:25-27

25**,もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。

26**,もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。

27**,それは彼のただ一つの覆い、彼の肌をおおう衣だからである。彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いからである。

 

 けれども、イエス様は、相手が欲しがるなら下着どころではなく、権利としての上着だって相手に与えてしまえとおっしゃるのです。やっぱり極端な話です。イエス様はこの極端な話で、何をおっしゃりたいのでしょうか?

 

41節はどうでしょうか。

41**,あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

 この41節を理解できたら、今日の話がわかります。私は今一日8000歩あるくことを目標にしているのですが、「健康のために君もいっしょにウォーキングするのだ」と強制しているわけではありません。イエス様の時代、イスラエルの国はローマ帝国の属州とされていて、ローマ人たちが我が物顔にイスラエルの街を闊歩していました。敗戦後の日本の町々を米軍の兵士たちが闊歩していた、あのような状況です。ローマ帝国は属州の人々に税を課していました。お金の税としては人頭税といって、家族の頭数だけ税金をローマに納めなければなりません。だから貧乏人の子沢山だと、ほんとうに食うや食わずになってしまいました。それから労役という税がありました。ローマ人は、ユダヤ人に対して、任意に「おい、1ミリオン、私の荷物を屋敷まで運べ」と任意に徴用することができたのだそうです。労役というかたちの税です。これはユダヤ人にとって、非常な屈辱でした。ローマ人によって奴隷扱いされているという屈辱です。

 ところが、イエスさまはおっしゃいました。

41**,あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

 残忍なローマ人でさえ1ミリオンが限界だろうと考えたのに、イエスさまはその倍も行きなさいとおっしゃるのです。これはどういう意味か?続きを読めばわかります。

43**,『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44**,しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 

 こうした文脈の中でイエスさまがおっしゃる「敵」ということばを聞いて、ユダヤ人たちがすぐに意識したのは、当然のことながら憎いローマ人たちのことです。自分たちの国の主権を奪い取り、わがもの顔にイスラエル領内を闊歩し、税金を取り立て、呼び止めては「おい、1ミリオンこの荷物運べ」と命じるあのローマ人です。

 けれども、あの残忍で傲慢なローマ人でさ1ミリオンが限界だろう、と考えていたのに、イエス様は、なんと「2ミリオン行け」というのです。1ミリオン行く人は、いやいや足を引きずりながら行きます。歯を食いしばって屈辱を感じながら行きます。ところが、2ミリオン行く人は、その憎きローマ人を愛して、祝福を祈りながら軽やかに行くのです。なぜか。それは、自力ではありません。神様の愛によって行くからです。愛の力です。喜びです。イエスさまがおっしゃりたいのは、このことです。「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」とか「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」とか、「1ミリオンの求めには2ミリオン」とかいう表現でイエスさまがおっしゃりたいことは、愛の自由と自発性をもって生きよ、ということです。

 

2 天の父の子どもらしく

 

 それでこそ、イエス様の弟子、天の父の子どもだよ、とイエス様はおっしゃいます。

45**,天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

46**,自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。

47**,また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

48**,ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 

 「天の父の子どもになるためです」というのは、敵を愛する生き方をしたら、その報いとして天の父の子どもにしてあげましょう、という意味ではありません。そうではなく、イエス様を信じるものたちは、すでに身分としては天の父の子どもなのです。その証拠に、イエス様は、弟子たちに祈りを教えられたとき、神に「天にいます私たちの父よ」と祈りなさいと教えられたでしょう。実際、だからこそ、私たちは今朝も「天にいます私たちの父よ」と祈りました。イエス様「天の父のこどもになるためです」とは、すでに君たちの身分は天の父の子どもなんだが、天の父の子どもふさわしい者となれるのだよ、という意味です。天の父はどういうお方なのかということを、イエス様はまことに子供にもわかりやすく話されます。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」そういわれれば、確かに、私たちの天のお父さんは、たいそう気前の良い方ですねえ。現代の日本は、ほとんどの人が「神様なんかいるものか」と思って、造り主である父なる神に、「ありがとうございます」と感謝も礼拝も全然しないで、太陽が昇るのも雨が降るのも、ただの自然法則だと思って生活しています。実に恩知らずで無礼なことです。でも、それだからといって、神様はそういう人たちには太陽も雨も空気も差し止めにするといったことをなさいません。気前よく、ただで太陽も雨も空気も恵んでくださっています。

 あなたがたは、あの気前のよい天の父の子どもなんだろう。それならば、天の父の子供らしくしなさい、と主イエスはおっしゃるのです。ついでイエスはおっしゃいます。

 46**,自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。47**,また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

 取税人、異邦人というのは、ユダヤ人たちが軽蔑の的にしていた人たちのことです。「そんな人々だって、仲間が自分に良くしてくれたらお礼をするじゃないか。挨拶だってするじゃないか。確かに、危ない世界の人たちだって、仲間内には義理堅くあいさつしたりするじゃないか。良くしてくれる人に良くするのは当たり前だけれど、それは天の父の子どもの生き方ではない。天の父は、感謝もしない、礼拝もしない、ありがとうも言わない人たちにもよくしてやっているよ。だったら、あなた方が、神の子どもなんだから、神の子供らしく気前よく愛に生きるんだよ、」とおっしゃるのです。

「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。」というのは、そういうことです。神の子どもなんだから、強いられたからでなく、自ら進んで、相手によくしてあげたくてたまらないから、「1ミリオン」と言われたら「いやいや2ミリオン運んであげましょう」という生き方をしなさいと言われるのです。

 

適用・結び

 

 結局、愛なる神の子どもらしく、敵をも祝福する生き方をせよ。それでこそ、わたしの弟子だよ、と主イエスは私たちに命じます。社会が健全に保たれるためには、公正という原理で十分です。しかし、公正という原理だけでは、壊れてしまった社会、傷ついている人々をいやすことはできません。起こっている争いを止めることはできません。癒しのために必要なのは、愛です。敵をも祝福する行動です。

 イエスさまの生き方とは十字架を背負う生き方、贖罪的生き方でした。身近な話をしましょう。贖罪的生き方とは、人が捨てたゴミをわがゴミとして拾う生き方だと教えてくれました。だれかが道端にゴミを捨てました。公正の筋からいえば、その人が拾うべきであって、あなたには拾う義務はありません。けれども、そのままでは町はさらにゴミだらけになるでしょう。でも人が捨てたゴミを、もしあなたが自分が捨てたゴミのように拾うならば、汚い町は少しずつきれいになっていくでしょう。

 終わりの時代には、愛が冷え不法がはびこるようになるとイエスさまはおっしゃいました。そうした不法がはびこる社会を立て直すのは、イエスさまが私たちにくださった愛の生き方をおいてほかありません。

ことばの真実

マタイ福音書5章33節から42節

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

34**,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

35**,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

36**,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。

37**,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 

 

 イエス様は、イエス様の弟子の生き方は、当時のユダヤ社会の宗教的道徳的指導者であったパリサイ人や律法学者の正しさに勝っていなければならないと言われて、その実例を順にあげて来られました。

 パリサイ人、律法学者たちは「殺してはならない。」と教えて、刺し殺したり撃ち殺したりする具体的な殺人を禁じました。けれども、主イエスの弟子は、人に殺意を抱き、馬鹿者と怒りを爆発させて暴言を吐いたたなら、神の前にそれは言葉による殺人であり、それはすでに神の前に人殺しをしたことになることをわきまえて、悔い改め、仲直りすべきです。

 また、「姦淫をしてはならない」とパリサイ人、律法学者は教えました。しかし、イエスの弟子は情欲をもって人妻を見るならば、神の前ではすでに姦淫を犯したのだということをわきまえなさい、ということでした。つまり、霊である神様は私たちの心の中までご覧になっているのだから、うわべでなく心を神様にきよくしていただかねばならないというのです。

 パリサイ人、律法学者の義というのは、外側に現れた行ないにおいて、律法の文言と辻褄があっていればよいという教えだけれど、イエス様は、神様はあなたの心の中をご覧になっているのだとおっしゃるのです。人殺し、盗み、姦淫、不品行などさまざまな罪は、人の心の内側から湧き上がって出てくるものですから、その心の一番深いところをきよくしないかぎりは、行いが清くなることはありません。

 本日の箇所は、その心の中から出てくる、私たちのことばの問題、誓いについてイエス様はお話になります。

 

 

1 「誓ってはならない」

 

(1)当時のユダヤ社会での「誓い」の軽々しさ

さて、主イエスは「誓ってはならない」と言われました。

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』という教えはは、当然のことでしょう。たとえば、私たちは結婚式において、「浮気をしないで誠実に夫として妻としての務めを果たします」と誓約をします。また、学校に入学するときには「真面目に学業にはげみます」と誓約書を出します。あるいは借家に住もうとするときには、「家賃をちゃんと納めます」と誓約書を求められます。あるいは教会でも、洗礼や転入会によって教会に入会するにあたっては、「聖霊様の助けによって、教会の純潔と一致と平和のために祈り、主日礼拝をささげることをはじめとして、誠実に教会員としての義務を果たします」と誓約します。偽って誓ってはならない。誓ったことを主に果たすことは大事なことです。

 

けれども、イエス様はあえておっしゃいました。「34,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」

なぜ、主イエスはこんな極端とも思えることを教えられたのでしょう。主イエスのことばを正しく理解するためには、当時のユダヤの人々が日常生活の中での軽々しい誓いの習慣と、それをある意味助けてしまっていたパリサイ人、律法学者の教えについて知らないといけません。次のことばの二重括弧内は、当時のパリサイ人、律法学者が教えていたことです。マタイ23章16ー22節。

16,わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

17,愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。

18,また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

19,目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。

20,祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。

21,また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。

22,天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

 

当時のユダヤの人々は日常会話の中で「何々にかけて誓う」と軽々しく話していました。あまりにも軽々しく、そういうことば遣いがなされていたので、パリサイ人、律法学者たちは、良くない習慣だと考えましたが、みんな有罪と断じるのもなんだなあと考えたのでしょう。「何にかけるか」によって、誓いを果たさなければならない場合と、誓いを果たす義務がない場合とを区別したのです。その教えにしたがって、人々は「神殿にかけて」「祭壇にかけて」守るつもりもない約束をしていたということです。しかし、イエス様は、天であれ地であれエルサレムであれ、自分の頭であれ、神殿であれ、神殿の黄金であれ、祭壇であれ、祭壇のささげものであれ、何にかけて誓ったとしても、それはすべて神の前に誓ったことであるとおっしゃるのです。守るべき約束と守らないでもよい約束はなく、すべての約束は果たさねばならないのだ、守るつもりがないならば、最初から誓うなとおっしゃっているのです。要するに、「あなたがたが口から出す誓約、約束のことばは、すべて神の前になした約束なのだと。破ってよい誓いなどない」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、ことばの真実のたいせつさを訴えていらっしゃるのです。

 

(2)正当な誓い

 では、新約聖書は一切の誓約行為を禁止しているのでしょうか。学校に入るとき、教会んになるとき、結婚をするとき、家を借りる時など私たちは大切なことがらについて、誓約書を求められますが、キリスト者はこれらに一切応じてはならないということでしょうか。そのように、解釈し、社会的不利益をあえて受け入れたキリスト者たちもいました。み言葉に対して誠実でありたいという気持ちは立派だと思います。

 けれども、主イエスが教えようとなさったのは、全面的な誓約の禁止ではないようです。新約聖書の手紙の中で、使徒パウロは、神様を証人として、誓いをしています。たとえば

2コリント1:23「私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」

 こうしたところを見ると、イエス様がおっしゃる「誓ってはならない」ということは、当時のあまりにも軽々しい誓いに対することば遣いを戒めたものと判断するのが、穏当であろうと思います。「言葉の真実」がどんなに大事なことなのかということを、徹底的に教えようとされる強調表現であると理解すべきだということになるでしょう。私たちが日常生活の中で、奥さんを相手に、子供を相手に、友達を相手にする、どんな約束も、破ってよい約束などない。すべての約束は神の前の約束なのです。だから軽々しく誓ってはならない。キリスト者としては、心の中の表れとしてのことばと、その行いが一つになるように生きるべきです。ことばを軽んじてはなりません。

 

2 ウソについて

 

(1)ウソの父は悪魔である

 ところで、イエス様が、語ることばに真実に生きることが重要であると教えられた理由の一つは、ことばの不真実、つまり、嘘というものが悪魔から出たものであるからです。嘘を言うとき、人はすでに悪魔の罠に陥っているのです。ヨハネ福音書8章44節で、主イエスはおっしゃいました。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 ウソは悪魔から出ているのです。神様が人間夫婦を造られたとき、善悪の知識の木を園の中央に生えさせました。「園にあるほかのすべての木からはとって食べることは自由だけれど、この木からだけは食べてはいけない。食べたら、かならず死ぬ」と神はおっしゃいました。死とは神と分離してしまうことです。一本の木だけが留保された意図は、人間は、神様の主権の下で、おのれの分をわきまえつつ、この世界のすべてのよきものを享受しながら、幸福になることを望まれたのです。

 ところが悪魔がやってきて、人間にささやきました。悪魔は、「神はケチなのだ。実は、人間に幸せになってほしくないと思っている。」という嘘を吹き込みました。神は良いお方ではないという嘘を吹き込みました。私たちの最初の先祖は、与えられた自由意思を悪用して、神の戒めにそむいて、罪と死と悲惨の中に陥ってしまいました。その罪と死と悲惨は、今日に及んでいます。悪魔のウソのわなにまんまとかかってしまった結果です。

 

 人間は、神のかたちにおいて造られたので、人間の心の中には善悪の判断基準である良心があります。ですから、何か嘘をつくと、良心の痛みを感じ、ドキドキしたりするものです。けれども、悪魔はちがいます。「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」と主イエスがおっしゃったように、悪魔は根っからの嘘つきなので、うそをついてもなんの良心の呵責も感じないで、まるで息でもするように嘘ばかり言うのです。また悪魔は今日でも私たちの内側に、神の真実な愛を疑わせようとします。苦難のただなかにある時、悪魔は目には見えませんが、あなたの耳元で「神は、本当は悪意に満ちているんじゃないか。あなたのことを愛してなんかいないのではないか?」とささやきます。

 また、イエス様は「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天に蓄えなさい。」とおっしゃいましたが、悪魔は「イエスの言うのは嘘だよ。結局、カネが一番大事なんだよ。地上に富をたくわえることが、幸福の秘訣だよ。」とささやきます。多くの人は、悪魔の誘惑に乗せられて、お金が人生で一番大事なものであるかのように思い込み、神様に背を向け真実も愛も犠牲にして、永遠の滅びに向かって歩んでいます。

 

(2)ウソの招く結果

嘘は嘘を呼ぶ

 一つ嘘をつくと、その嘘をごまかすために、さらに嘘を言わねばならなくなり、そのまた嘘をごまかすためにさらに嘘を言わねばならなくなります。もし、唇が嘘をついてしまったら、恥ずかしいことですが、すぐに「ごめんなさい。今、口にしたことは嘘です。ゆるしてください。」とストップしなければなりません。ストップしないと、嘘を嘘で上塗りし続けて、あなたの人生は一から十までウソまみれということになります。そして、そのうち、誰からも信用されず、軽蔑されるようになります。

 

②嘘は現実を見えなくさせてしまう

 嘘の恐ろしさの第二は、嘘をついていると、だまされた人ばかりか、本人までも、現実が見えなくなることです。現実が見えないので、現実に即した正しい判断と行動ができなくなってしまいます。覚せい剤の入った瓶に、「これを飲むと元気になります。」と嘘が書かれていたならば、飲んですぐは「ああ、元気になった」と感じて、それを続けているうち、その人は中毒になって、人生は破滅でしょう。

 国の経済に関していえば、国の経済指標が、ここ20年悪化しているということを示しているのに、都合の悪い数字はひたすら隠して、都合の良い数字だけ並べて、「我々の素晴らしい経済政策によって景気は良い方向に向かっています」と政府が大本営発表ばかりしていると、現実を認めないので政策を転換すべきタイミングを失い、その国の経済は転落して、ついには取り返しがつかなくなるでしょう。ウソはストップしないと、取り返しがつかなくなるのです。

 

③嘘は周囲を悲惨に巻き込む

 本人だけが嘘をついている分には、本人が信用を失うだけですみますが、その人が権力を持つ立場にあると、周囲の人々までも、その嘘に付き合わされることになってしまいます。私たちは、権力者のウソを糊塗するために、一人のまじめな大阪の公務員が公文書の改ざんを命じられて、良心の呵責から自らのいのちを断つということになったことを知っています。今も、官僚たちが、職を失わないために、権力のウソに付き合わされて、国民が見ている前で、悲惨な答弁をさせられています。

 私たちの国は、70年前うその支払う代価がいかに悲惨なものかということを経験したはずです。当時、「退却」を「転進」と言い換え、「全滅」を「玉砕」と言い換える「大本営発表」によって欺かれた国民は、旅ネズミの暴走のように破滅へ突き進んだのです。先の戦争で失われた生命は、わが国で300万人、アジアで2000万人でした。

 しかし、現代の歴史修正主義者は、こうした過去の事実をも否定するので、歴史から何の教訓もえられません。

 

④嘘つきの最後はゲヘナである

 そして、すべて偽りをいう者は、神様の前で最終的にはどうなるでしょうか。このように書かれています。「すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」ヨハネ黙示録21章6-8節

 

結論 「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」
 イエス様は、当時のユダヤ社会の中で、人々がことばの真実を失い、誓いという人生における重要なことがらに関して、ペラペラといい加減なことばの使い方をしているので、心を痛められました。それで、「誓ってはならない」とおっしゃったのです。そして、言われます。

37,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 「はい」を「いいえ」と言い、「いいえ」を「はい」と言い張ることを嘘といいます。あったことをなかったことのように主張し、なかったことをあったことのようにいう「歴史修正主義」は、主イエスの道から外れた道です。

 私たち、イエス様の弟子として召された者は、「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」として生きてゆきたいと思います。

 まして軽々しく誓うことは避けましょう。人生の途上、たいせつな場面で誓約が必要なことがありましょう。その場合には、その誓約を誠実に守ることができるように、神様に祈りながら誓うことが必要です。


 今日の主イエスの教えを味わいながら思い起こしたのは、三浦綾子さんの『道ありき』の中での前川正さんのことばです。前川さんは、結核になり入院している綾子さんをたびたびお見舞いに来ました。前川さんは、帰り際に、「綾ちゃん、明日も来ます。あ、でも約束ではありませんよ。明日何が起こって来られなくなるかもしれませんから。」とおっしゃったということです。でも、前川さんは必ず来たそうです。

 自分はことばが軽いなあと改めて反省します。主イエスが教えられたように、ことばの真実に生きたいと思うものです。

 





ことばの真実

マタイ福音書5章33節から42節

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

34**,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

35**,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

36**,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。

37**,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 

 

 イエス様は、イエス様の弟子の生き方は、当時のユダヤ社会の宗教的道徳的指導者であったパリサイ人や律法学者の正しさに勝っていなければならないと言われて、その実例を順にあげて来られました。

 パリサイ人、律法学者たちは「殺してはならない。」と教えて、刺し殺したり撃ち殺したりする具体的な殺人を禁じました。けれども、主イエスの弟子は、人に殺意を抱き、馬鹿者と怒りを爆発させて暴言を吐いたたなら、神の前にそれは言葉による殺人であり、それはすでに神の前に人殺しをしたことになることをわきまえて、悔い改め、仲直りすべきです。

 また、「姦淫をしてはならない」とパリサイ人、律法学者は教えました。しかし、イエスの弟子は情欲をもって人妻を見るならば、神の前ではすでに姦淫を犯したのだということをわきまえなさい、ということでした。つまり、霊である神様は私たちの心の中までご覧になっているのだから、うわべでなく心を神様にきよくしていただかねばならないというのです。

 パリサイ人、律法学者の義というのは、外側に現れた行ないにおいて、律法の文言と辻褄があっていればよいという教えだけれど、イエス様は、神様はあなたの心の中をご覧になっているのだとおっしゃるのです。人殺し、盗み、姦淫、不品行などさまざまな罪は、人の心の内側から湧き上がって出てくるものですから、その心の一番深いところをきよくしないかぎりは、行いが清くなることはありません。

 本日の箇所は、その心の中から出てくる、私たちのことばの問題、誓いについてイエス様はお話になります。

 

 

1 「誓ってはならない」

 

(1)当時のユダヤ社会での「誓い」の軽々しさ

さて、主イエスは「誓ってはならない」と言われました。

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』という教えはは、当然のことでしょう。たとえば、私たちは結婚式において、「浮気をしないで誠実に夫として妻としての務めを果たします」と誓約をします。また、学校に入学するときには「真面目に学業にはげみます」と誓約書を出します。あるいは借家に住もうとするときには、「家賃をちゃんと納めます」と誓約書を求められます。あるいは教会でも、洗礼や転入会によって教会に入会するにあたっては、「聖霊様の助けによって、教会の純潔と一致と平和のために祈り、主日礼拝をささげることをはじめとして、誠実に教会員としての義務を果たします」と誓約します。偽って誓ってはならない。誓ったことを主に果たすことは大事なことです。

 

けれども、イエス様はあえておっしゃいました。「34,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」

なぜ、主イエスはこんな極端とも思えることを教えられたのでしょう。主イエスのことばを正しく理解するためには、当時のユダヤの人々が日常生活の中での軽々しい誓いの習慣と、それをある意味助けてしまっていたパリサイ人、律法学者の教えについて知らないといけません。次のことばの二重括弧内は、当時のパリサイ人、律法学者が教えていたことです。マタイ23章16ー22節。

16,わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

17,愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。

18,また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

19,目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。

20,祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。

21,また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。

22,天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

 

当時のユダヤの人々は日常会話の中で「何々にかけて誓う」と軽々しく話していました。あまりにも軽々しく、そういうことば遣いがなされていたので、パリサイ人、律法学者たちは、それは良くないなあと考えたのでしょう。「何々」によって、誓いを果たさなければならない場合と、誓いを果たす義務がない場合とを区別していたのです。その教えにしたがって、人々は「神殿にかけて」「祭壇にかけて」守るつもりもない約束をしていたということです。しかし、イエス様は、天であれ地であれエルサレムであれ、自分の頭であれ、神殿であれ、神殿の黄金であれ、祭壇であれ、祭壇のささげものであれ、何にかけて誓ったとしても、それはすべて神の前に誓ったことであるとおっしゃるのです。守るべき約束と守らないでもよい約束はなく、すべての約束は果たさねばならないのだ、守るつもりがないならば、最初から誓うなとおっしゃっているのです。要するに、「あなたがたが口から出す誓約、約束のことばは、すべて神の前になした約束なのだと。破ってよい誓いなどない」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、ことばの真実のたいせつさを訴えていらっしゃるのです。

 

(2)正当な誓い

 では、新約聖書は一切の誓約行為を禁止しているのでしょうか。学校に入るとき、教会んになるとき、結婚をするとき、家を借りる時など私たちは大切なことがらについて、誓約書を求められますが、キリスト者はこれらに一切応じてはならないということでしょうか。そのように、解釈し、社会的不利益をあえて受け入れたキリスト者たちもいました。み言葉に対して誠実でありたいという気持ちは立派だと思います。

 けれども、主イエスが教えようとなさったのは、全面的な誓約の禁止ではないようです。新約聖書の手紙の中で、使徒パウロは、神様を証人として、誓いをしています。たとえば

2コリント1:23「私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」

 こうしたところを見ると、イエス様がおっしゃる「誓ってはならない」ということは、当時のあまりにも軽々しい誓いに対することば遣いを戒めたものと判断するのが、穏当であろうと思います。「言葉の真実」がどんなに大事なことなのかということを、徹底的に教えようとされる強調表現であると理解すべきだということになるでしょう。私たちが日常生活の中で、奥さんを相手に、子供を相手に、友達を相手にする、どんな約束も、破ってよい約束などない。すべての約束は神の前の約束なのです。だから軽々しく誓ってはならない。キリスト者としては、心の中の表れとしてのことばと、その行いが一つになるように生きるべきです。ことばを軽んじてはなりません。

 

2 ウソについて

 

(1)ウソの父は悪魔である

 ところで、イエス様が、語ることばに真実に生きることが重要であると教えられた理由の一つは、ことばの不真実、つまり、嘘というものが悪魔から出たものであるからです。嘘を言うとき、人はすでに悪魔の罠に陥っているのです。ヨハネ福音書8章44節で、主イエスはおっしゃいました。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 ウソは悪魔から出ているのです。神様が人間夫婦を造られたとき、善悪の知識の木を園の中央に生えさせました。「園にあるほかのすべての木からはとって食べることは自由だけれど、この木からだけは食べてはいけない。食べたら、かならず死ぬ」と神はおっしゃいました。死とは神と分離してしまうことです。一本の木だけが留保された意図は、人間は、神様の主権の下で、おのれの分をわきまえつつ、この世界のすべてのよきものを享受しながら、幸福になることを望まれたのです。

 ところが悪魔がやってきて、人間にささやきました。悪魔は、「神はケチなのだ。実は、人間に幸せになってほしくないと思っている。」という嘘を吹き込みました。神は良いお方ではないという嘘を吹き込みました。そして、人間に神に背かせようと誘惑しました。私たちの最初の先祖は、与えられた自由意思を悪用して、神の戒めにそむいて、罪と死と悲惨の中に陥ってしまいました。その罪と死と悲惨は、今日に及んでいます。悪魔のウソのわなにまんまとかかってしまった結果です。

 

 人間は、神のかたちにおいて造られたので、人間の心の中には善悪の判断基準である良心があります。ですから、何か嘘をつくと、良心の痛みを感じ、ドキドキしたりするものです。けれども、悪魔はちがいます。「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」と主イエスがおっしゃったように、悪魔は根っからの嘘つきなので、うそをついてもなんの良心の呵責も感じないで、まるで息でもするように嘘ばかり言うのです。また悪魔は今日でも私たちの内側に、神の真実な愛を疑わせようとします。苦難のただなかにある時、悪魔は目には見えませんが、あなたの耳元で「神は、本当は悪意に満ちているんじゃないか。あなたのことを愛してなんかいないのではないか?」とささやきます。

 また、イエス様は「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天に蓄えなさい。」とおっしゃいましたが、悪魔は「イエスの言うのは嘘だよ。結局、カネが一番大事なんだよ。地上に富をたくわえることが、幸福の秘訣だよ。」とささやきます。多くの人は、悪魔の誘惑に乗せられて、お金が人生で一番大事なものであるかのように思い込み、神様に背を向け真実も愛も犠牲にして、永遠の滅びに向かって歩んでいます。

 

(2)ウソの招く結果

嘘は嘘を呼ぶ

 一つ嘘をつくと、その嘘をごまかすために、さらに嘘を言わねばならなくなり、そのまた嘘をごまかすためにさらに嘘を言わねばならなくなります。もし、唇が嘘をついてしまったら、恥ずかしいことですが、すぐに「ごめんなさい。今、口にしたことは嘘です。ゆるしてください。」とストップしなければなりません。ストップしないと、嘘を嘘で上塗りし続けて、あなたの人生は一から十までウソまみれということになります。そして、そのうち、誰からも信用されず、軽蔑されるようになります。

 

②嘘は現実を見えなくさせてしまう

 嘘の恐ろしさの第二は、嘘をついていると、だまされた人ばかりか、本人までも、現実が見えなくなることです。現実が見えないので、現実に即した正しい判断と行動ができなくなってしまいます。覚せい剤の入った瓶に、「これを飲むと元気になります。」と嘘が書かれていたならば、飲んですぐは「ああ、元気になった」と感じて、それを続けているうち、その人は中毒になって、人生は破滅でしょう。

 国の経済に関していえば、国の経済指標が、ここ20年悪化しているということを示しているのに、都合の悪い数字はひたすら隠して、都合の良い数字だけ並べて、「我々の素晴らしい経済政策によって景気は良い方向に向かっています」と政府が大本営発表ばかりしていると、現実を認めないので政策を転換すべきタイミングを失い、その国の経済は転落して、ついには取り返しがつかなくなるでしょう。ウソはストップしないと、取り返しがつかなくなるのです。

 

③嘘は周囲を悲惨に巻き込む

 本人だけが嘘をついている分には、本人が信用を失うだけですみますが、その人が権力を持つ立場にあると、周囲の人々までも、その嘘に付き合わされることになってしまいます。私たちは、権力者のウソを糊塗するために、一人のまじめな大阪の公務員が公文書の改ざんを命じられて、良心の呵責から自らのいのちを断つということになったことを知っています。今も、官僚たちが、職を失わないために、権力のウソに付き合わされて、国民が見ている前で、悲惨な答弁をさせられています。

 私たちの国は、70年前うその支払う代価がいかに悲惨なものかということを経験したはずです。当時、「退却」を「転進」と言い換え、「全滅」を「玉砕」と言い換える「大本営発表」によって欺かれた国民は、旅ネズミの暴走のように破滅へ突き進んだのです。先の戦争で失われた生命は、わが国で300万人、アジアで2000万人でした。

 しかし、現代の歴史修正主義者は、こうした過去の事実をも否定するので、歴史から何の教訓もえられません。

 

④嘘つきの最後はゲヘナである

 そして、すべて偽りをいう者は、神様の前で最終的にはどうなるでしょうか。このように書かれています。「すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」ヨハネ黙示録21章6-8節

 

結論 「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」
 イエス様は、当時のユダヤ社会の中で、人々がことばの真実を失い、誓いという人生における重要なことがらに関して、ペラペラといい加減なことばの使い方をしているので、心を痛められました。それで、「誓ってはならない」とおっしゃったのです。そして、言われます。

37,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 「はい」を「いいえ」と言い、「いいえ」を「はい」と言い張ることを嘘といいます。あったことをなかったことのように主張し、なかったことをあったことのようにいう「歴史修正主義」は、主イエスの道から外れた道です。

 私たち、イエス様の弟子として召された者は、「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」として生きてゆきたいと思います。

 まして軽々しく誓うことは避けましょう。人生の途上、たいせつな場面で誓約が必要なことがありましょう。その場合には、その誓約を誠実に守ることができるように、神様に祈りながら誓うことが必要です。


 今日の主イエスの教えを味わいながら思い起こしたのは、三浦綾子さんの『道ありき』の中での前川正さんのことばです。前川さんは、結核になり入院している綾子さんをたびたびお見舞いに来ました。前川さんは、帰り際に、「綾ちゃん、明日も来ます。あ、でも約束ではありませんよ。明日何が起こって来られなくなるかもしれませんから。」とおっしゃったということです。でも、前川さんは必ず来たそうです。

 自分はことばが軽いなあと改めて反省します。主イエスが教えられたように、ことばの真実に生きたいと思うものです。

 





御霊と知性

1コリント2章10節から3章3節  

 

1 御霊によって悟ること 

 

私たちは聖書を開くとき、御霊の光を求める祈りをします。御霊によらなければ、御霊の啓示された真理を悟ることができないからです。今日は、このことについて。

「2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」

 「これを」というのは、「十字架のことば」つまり、神の御子が十字架の死によって罪の贖いを成し遂げてくださったという真理です。この真理は世の始まる前から、神の内に隠されていた、奥義なのでした。この奥義は、サタンたちさえも知らず、この世の知恵の知りうるところではありません。だからこそ、サタンたちはキリストの人類救済のための贖罪のわざの手伝いをしたのです。イエスが神の御子であること、そしてイエスが十字架にかかることによって私たちが救われるという真理が理解できるのは、実に、御霊によることです。

 ペテロが始めてカイザリヤで信仰告白したときも、主イエスは、おっしゃいました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(Mt16:17)

 

2 神のみこころを知るためには

 

「 2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」

 人の体重を知ったり、顔立ちを知ったりするのは外から見ればわかることです。しかし、その人の心を知るには、その人がその心を開いて話してくれてはじめて可能なことです。同様に、神のみこころを知るには、神の御霊自身によるほかありません。ここに啓示が必要であり、私たちが神のみこころを知るために御霊を受ける必要がある理由があります。

「 2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」

 また、御霊について説き明かすについても、御霊のくださったことばが必要です。 「2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」

 

3 人間の三つの状態

 

 以下に、人間には御霊との関係において三通りの状態があることが記されています。

第一は「生まれながらの人間」

「 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」

 

第二は「御霊を受けている人」

 「2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。 2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」

 この第二の御霊を受けている人とは要するにクリスチャンのことですが、クリスチャンには二通りの状態があります。

 

一つは、「肉に属する人」「キリストにある幼子」です。

  「3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。 3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。 3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」

このように肉に属するキリストにある幼児は、嫉みや争いがある人たちです。言い換えると、クリスチャンだけれども、御霊の実を結んでいないクリスチャンです。

 

 そして、キリスト者として望ましい状態は、「御霊に属する人」です。これは御霊を受け、御霊のご支配を受けている人です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」というキリスト的品性を備えるようになった成人としてのクリスチャンです。

 このように成長成熟したいものですね。

人の知恵、神の知恵

1コリント2:1-9

 

 

1.パウロの宣教

 

「2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。」

パウロはご存知のようにガマリエル門下の俊才で学識のある人でしたが、彼はコリント宣教に当ってはそうした知識を用いませんでした。かえって、「 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」

 コリント教会の場合、ギリシャ哲学の文化的背景があるだけに、いろいろと理論的・哲学的な言い回しで教えようとすれば、話が通じそうでした。しかし、実際には逆にキリストの福音がある種の哲学思想のひとつであると誤解されてしまう可能性が高かったからであろうと思われます。コリントを訪ねる前に、使徒17章でパウロは哲学の都アテネで、いささか哲学的な言い回しも用いて伝道して、あまり成果があげられなかったという苦い経験をしたからではないかと推測する説には説得力があります。

 パウロギリシャの知識人が喜びそうな気の利いた哲学のことばでなく、つい先ごろエルサレムで起こったイエスの十字架刑という事実とその意義をはっきりと単純に語ることにしたのです。

 「2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」というのは、パウロは手紙は力強いのですが、風采がさえませんでしたし、雄弁な人ではなかったようです(2コリント10:10)。しかし、そういうさえない説教者でありましたが、彼が語る十字架のことばによって、コリントの人々は目が開かれ、聖霊に導かれてイエスを主キリストであると信じたのです。

 「2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。 2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」

 パウロが雄弁であったり、哲学者もうならせるような思弁を用いたならば、世の人はパウロの説得力や学識によってコリントの人々が救いに導かれたのだと思うでしょうが、実際にはパウロは雄弁でもなく、哲学的思弁をもちいなかったので、ただ神の力、御霊の力によって人々が回心したのだということがあかしされるのです。

 こうしたことは往々にしてあることです。ラジオ牧師羽鳥明先生の弟羽鳥純二先生の改心は、まさにそうでした。羽鳥純二先生は当時共産党赤旗」の記者、東京大学を出た理論家でしたが、共産党内の醜いどこにでもある権力闘争に失望して党をやめてお兄さんの家にひきこもっていました。ある時、伝道会があって青森から招いた伝道者がエス様の単純な十字架の福音を東北弁でお話したそうです。そして純二先生は悔い改めて救われました。

 

2.神の知恵

では、パウロは幼稚な宣教をするというのでしょうか。いいえ。そうではなく、成熟したキリスト者の間では神の知恵を語ります。「2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」

 神の知恵とは、聖なる神の御子の十字架の死と復活によって、罪人が贖われて救われるという知恵です。その知恵は、「この世の支配者たち」にはわからないことでした。「この世の支配者たち」というのは、ユダヤの祭司長・長老たちであり、彼らがイエスを引き渡したローマ総督ピラトです。彼らは、イエスを処刑することが人類の救いの道を開くことになろうとはつゆ知らなかったのです。神に敵対するこの世の権力者たちの背後には、悪魔を頂点とする悪しき諸霊の階級をさしているという思想も聖書には見られます。

もしサタンどもが、イエスを殺すことが人類を救うことだと知っていたならば、人間どもを動かして、イエスを十字架に磔にすることはなかったでしょう。「2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

 イエス・キリストの十字架による罪の贖い、罪の赦しと救い、永遠の生命というのは、人間も、人間に何倍にもまさるサタンにも思いつかないことだったのです。

 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

   「目が見たことのないもの、

   耳が聞いたことのないもの、

   そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。

   神を愛する者のために、

   神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 それは、人間の説得力や学識でなく、聖霊のみわざでした。それゆえ、神のご栄光があらわされたのです。

 

結び 私たちは、「十字架と復活の福音なんて、あの人はだめでしょう。」と傲慢にも勝手な判断をして、人に福音を語ることを躊躇することはないでしょうか?不信仰です。主の御霊に信頼して、十字架のことばを宣べ伝えてまいりましょう。

十字架のことば

1コリント1:18

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」1コリント1:18

 

序.人類を二分することば

 なんと強烈なことばでしょうか。このことばは人類を滅びにいたる人々と、救いを受ける人々とにすっぱりと二分してしまうのです。「人類みな兄弟」ということばが好きな現代人は、「だからキリスト教は独善的なのだ」と怒り出すかもしれません。けれども、カッカする前に聖書のいう意味を冷静に聞いてみましょう。まず滅びとはなにか。次に、救いとはなんでしょうか。そして十字架のことば、神の力とは。

 

1.滅び

 

聖書でいう「滅び」とは、創造主との人格的交わりから切り離されている状態を意味しています。神との断絶です。だから、たとえ地位もお金も名誉もあって、健康で、なに不自由なく、一見楽しそうな生活としている人であっても、創造主である神に意識的に背を向けたり、あるいは神さまに無関心でいたりするなら、北斗の拳のセリフではありませんが、「お前はすでに死んでいる」のです。「あなたがたは、かつて罪と罪過のなかに死んでいた」(エペソ2:1)とも聖書は表現しています。もちろん、肉体は生きているのですが、いのちの源である神様との関係が切れてしまっているので、死んでいるというのです。

この季節、そろそろこの寒い小海でも梅のつぼみが膨らみ始めました。あのつぼみがたくさんついた枝を切って、花瓶に差して暖かい部屋においておけば、やがて美しい花が咲くでしょう。けれども、梅の実は実るでしょうか。実ったら梅干を作ることができるでしょうか。いいえ。決して花は実を実らせることなく、花は枯れてしまいます。あだ花になってしまいます。なぜですか。それは命のもとである木の幹から切り離されているからです。うわべは生きているように見えますが、実はすでに死んでいるからです。

同様に、いのちの源である神様との関係が切れている人つまり滅びている人も、うわべは生きているように見えます。むしろ、かえって神様に背を向けている人は心にむなしさと不安を抱えているので、その現実から目をそらすために、血眼になって趣味・仕事・金儲け・おしゃれ・宗教・哲学など夢中になれるものを探し回るので、一見はでに花を咲かせていたりするかもしれません。けれども、どんなに求めてもやはり空しい。いのちがないからです。どんなに美しく咲いていたとしても、それはあだ花だからです。やがて枯れて、焼かれてしまうからです。本来、すべての人は、神との人格的交流のうちに喜びと平安を得るように造られているのに、神と断絶しているからです。人の心には神以外の何者をもってしても埋めることのできない空洞があるのです。

そして、創造主など関係ないという生きかたを選んだ人は、やがて必ず訪れる肉体の死後も、自らが望んだように、神から隔絶されたむなしい、たましいの渇きの場所である死者の国に永久に住むことになります。金持ちとラザロの話を以前に学びましたが、神を恐れぬ金持ちはよみに落ちたとき、彼はのどが渇いて渇いてしかたなくて、たとえ一滴の水でもよいから、この渇いてひりひりする舌にたらして欲しいと願ったとあります。あの渇きはなんだろうと思いめぐらすと、きっと魂のかわきを意味しているのでしょう。あの金持ちは、この世にあっては神に背を向けて、金儲けに狂奔し、贅沢三昧をすることで魂の渇きをごまかすことができたのですが、地獄にはビタ一文もって行くことはできません。人は、未来永劫つづく渇きの炎の中に落とされてしまうと、もはやごまかしはきかず、その魂の渇きはいやしがたいのです。いっそ死んでしまいたいのですが、すでに死んでしまっているので死ぬこともできません。

滅びとは、いのちの源である神との断絶であるゆえに死であり、それは、底知れずむなしく、かわくことなのです。

 

2.救い

 

 では、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1:18)ということばの「救い」とはなんであると聖書は語っているでしょうか。

救いとは、神との断絶を意味する「滅び」とは反対に、神とともに生きる人生を意味しています。その人はもしかすると経済的に豊かかもしれないし、あるいは貧しいかもしれません。立派な肩書きや地位があるかもしれないし、まったくないかもしれません。健康であるかもしれないし、病気かもしれません。そんなことは救いの本質とは関係がないことです。お金や才能や地位や健康はあったらよいことですが、もしそれが与えられているならば、それをどんなふうに神を愛し隣人を愛するために活用するかを神様の前に責任を問われるわけです。それはともかく、救いとは、創造主である神と人格的な交流のある生活なのです。救われた人は、万物の創造主である神が自分とともにいてくださって、人生を守り導いてくださることを確信しています。

たしかにクリスチャンの人生にも嬉しいこと楽しいことばかりでなく、つらいこともあります。けれども、神とともに生きる「救われた人生」には充実感平安喜びがあるものです。

神とともに生きる人生に充実感です。むなしくありません。神に背を向けた滅びた人生は、あだ花なのでむなしいものですが、神とともに生きる人生は、途上に嵐の日や日照りの日がかりにあったとしても、最後には必ず天国で実りが収穫できるからむなしくありません。「彼らのよい行いは彼らについていくからである。」と黙示録にあります。私たちのこの世における神を愛し隣人を愛するためにした、小さな行いも、神様は覚えていて「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とほめてくださいます。

また神とともに生きる人生には平安があるというのは、大船に乗った心地とでもいえばいいでしょうか。万物の創造主にして支配者であるお方が、私のことをご自分の瞳のように守って人生を導いていてくださるのですから、たとえ今病気であったり貧しかったり、あるいはかりに死ぬことがあっても、最終的に決して悪いようにはなさることがありえないからです。時には、自分の人生設計がうまくいかなくて、大きな挫折を経験することがあるかもしれませんが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と知っているから、平安があるのです。

それにしても、救われた人にも、いずれは死が訪れます。『人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている』からです。しかし、その死も、救われた人にとってはまた益なのです。同盟教団教理問答43番

キリスト者のさばきとは何ですか。

答え 神の御前で、キリストによる無罪が言い渡され、永遠に神とともに生きることが許されるためのさばきです。」

すばらしいでしょう。その日、私たちは生まれてこの方、心につぶやいたこと、口で言ったこと、手で行なったことを逐一調べ上げられ、目の当たりにさせられて、自分はなんと多くの罪を犯してきたことかと愕然とするでしょう。神様のためにした行いがなんと少なかったなあとがっかりし、「ああ私には地獄こそふさわしい」と思うかもしれません。けれども、神はおっしゃるのです。「たしかにあなたはこれらの罪を犯してきたが、あなたはイエス・キリストを信じていた。あなたの罪の罰は、すでにイエス・キリストが背負って死んだのだ。あなたはもう許されている。安心して永遠の祝福に入りなさい。」

ですから、キリスト者にとってはまさに「 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」この世での使命を果たし、走るべき道のりを走り終えれば、天国の栄光の義の冠が待っているのです。

 

 3 十字架のことばは神の力

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」1コリント1:18

 

では、人類を二分してしまう「十字架のことば」とはなんでしょうか。それは、「神の御子イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に死んでくださり、三日目によみがえられた。」という福音のことです。

最初の人が堕落して以来、すべての人には罪があります。嘘をついたり、人の幸福をねたんだり、人の悪口を言ったり、神などいるものかと暴言を吐いたり、盗んだり、人のものを欲しがったり、親不孝したり、配偶者以外の異性に情欲をいだいたりと、私たちは日々罪を積み重ねており、その罪が神と人とを断絶させているのです。神様は、十戒でお命じになりました。

「第一.あなたには、私のほかに他の神々があってはならない。

第二.あなたは自分のために偶像を造ってはならない。

第三 あなたは、主の御名をみだりに唱えてはならない。

第四 安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。

第五 あなたの父母を敬え。

第六 殺してはならない。

第七 姦淫してはならない。

第八 盗んではならない。

第九 あなたはあなたの隣人に対し偽証をしてはならない。

第十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

生まれてから死ぬまでこれらの戒めをすべて守りきった人のみが、神の御前に罪のない人ということができます。もし人が自分の力で、これらの戒めを生まれてから死ぬまでに守りきることができたなら、その人は神とともにある天国にはいることができます。あなたはどうですか。ところが、このたった十の戒めさえ守れた人は、人類の歴史上たった一人の例外を除いてほかにいないのです。

パウロという人は、まじめなユダヤ人の家庭に生まれたきまじめで優秀な人でした。彼は律法についてはパリサイ派で、人から後ろ指さされるようなことはただの一度もしていないと言えるほどでした。けれども、ある日パウロは自分にはどうしても守れない戒めがあることに気づいたのです。懸命に努力しても、いや努力すればするほど破ってしまう戒めがあることに気づいたのです。それは第十番目の戒め「隣人のものを欲しがってはならない。(むさぼってはならない)」でした。彼は次のように言っています。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」(ローマ7:7-10)

パウロは日夜「第十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」と律法を胸に唱えて努力しましたが、努力すればするほど、自分の内側からむさぼりが噴出してくる恐ろしい罪の現実を知ったのです。人の力は人を救えないと知ったのです。

私たち人間はアダム以来、みな罪を犯してきました。どんなにがんばって、どんなに努力し、どんなに修行しても、こんな人間としてあたりまえのたった十個の戒めさえ守り通すことができないのです。なんと惨めなことでしょうか。人間の力では、どのようにしても、自分を罪とその呪いから救い出すことはできないのです。

 

けれども、人にはできないことを神がしてくださいました。神様はそんな罪に打ちひしがれた私たちを哀れんでくださいました。哀れんでなんとかして救ってやりたいと思ってくださいました。そこで、2000年前、神の御子キリストが地上に人として来られました。イエス様は、私たちには決してできないことを実行なさいました。つまり、愛に満ちた完全なご生涯を送り、すべての戒めをまっとうされたのです。その上で、イエス様は十字架にかかってくださいました。私たちが、犯した数々の罪の呪いをその身に背負うためです。十字架上に釘付けにされたキリストは祈られました。「父よ。彼らを赦してください。彼らは自分でなにをしているのかわからないのです。」

私たちは罪に対する自分の無力を認める必要があります。そして、ただ神が成し遂げてくださったイエス・キリストによる罪の贖いを感謝して受け取るのです。そのとき、私たちは神の御前に罪を赦され、神とともに生きる永遠のいのちを得るのです。

人の力は、人を救うことはできませんただ神の力が私たちを罪と滅びから救うのです。十字架のことばは、神の力なのです。

 

これが、十字架のことばです。この十字架のことばを聞いて、あなたはどう思うのでしょうか。「なんと愚かなことだ。」と思うでしょうか。それとも、「なんとありがたいことばではないか。」と思うでしょうか。十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける者にとっては神の力なのです。