水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

勝利者キリスト

マタイ4:1-11

 

1**,それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

2**,そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。**

3**,すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」**

4**,イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」**

5**,すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、**

6**,こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」**

7**,イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」**

8**,悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、**

9**,こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」**

10**,そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」**

11**,すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。 

 

1 二人のアダム

 

ヨハネから洗礼を受けたあと、いよいよ福音宣教スタート!と思いきや、そうではなくイエス様はユダヤの荒野に行かれました。ユダヤの荒野は、石切り場のような風景がえんえんと続いているという感じの赤茶けた岩砂漠で、ところどころに潅木が生えているだけです。昼は厳しい日差しが容赦なく照り付け、夜はしんしんと冷え込みます。ところが、「4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」とあります。イエス様が悪魔の試みに遭うことは、御霊の導き、つまり、父なる神のみむねだったのです。父なる神のご計画の中で、イエス様は悪魔の試みに遭うということを救い主としての任務とされたのです。

 イエス様が経験なさった試みは、救いの歴史の中の位置づけますと、最初の人アダムが受けた試みと「対」の出来事でした。エス様は、父なる神様の前で、人類の代表です。ですから、イエス様は「第二のアダム」と呼ばれることもあります。アダムは人類の代表として悪魔の試みを受けて破れましたが、イエス様は人類の第二の代表として悪魔の試みに遭い勝利を収めたのです。人は、アダムという代表に属するか、あるいは、イエス・キリストという代表に属するか、二つにひとつです。生まれながらには人は第一のアダムに属していますから、実際、すべての人はアダム以来の罪の性質を受けて生まれてきます。いわゆる原罪です。結末は滅びです。しかし、人生の途上でキリストの福音と出会い、受け入れるならば、キリスト・イエス様に属する者となって永遠のいのちに入れられるのです。

 

 ところで、アダムとイエス様は人類の代表として悪魔の試みにあったという点では共通していますが、試みに遭われた環境はずいぶんと違っています。アダムは、この上なく快適なエデンの園で、善悪の知識の木を例外として、どの木からでも滋養たっぷりのおいしい木の実をとって食べて良いとされていました。他方、イエス様のほうは40日間断食なさったあと、じりじり太陽が照りつける炎天下、あるいは、砂嵐が吹きすさぶ荒野で、食べ物などまるで見当たりません。

 これは堕落前と堕落後の、人間の置かれている環境のちがいを象徴しているのでしょう。堕落前、アダムは最善の環境にあり、あえて罪を犯す必要もなく、自由意志をもって神に対する服従を選ぶには有利な立場にありながら、あえて罪を犯しました。

アダムが堕落したとき、神様は、アダムにおっしゃいました。「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。土地はあなたに対していばらとアザミを生えさせる・・・」、被造物世界もまたのろわれた状態になってしまったのです。イエス様が試みを受けるためにいらっしゃった荒野は、こうしたアダムの堕落以来のろわれた被造物世界を象徴しているのです。しかし、エス様は、こうした最悪の環境で、悪魔のこころみに勝利を得られたのです。イエス様は勝利者です。

 

2 肉の欲への試み

 

 悪魔の誘惑は肉の欲、目の欲、虚栄心に対するものでした。まず肉の欲に対する試みです。

 「2**,そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。

3**,すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」

4**,イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

 悪魔は意地悪です。人がおなかがすいて、なにか食べたいなあと思っていると、それに付け込んでくる。お金がない、お金がほしいと思っているとそれに付け込んでくるのです。ヤコブ書1章に、「14**,人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。15**,そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。悪魔はまず、肉体的・物質的な欲求を悪魔は攻撃しました。エデンの園で最初の人アダムの妻に対する場合は、禁断の木の実は「それは食べるのによく・・・」と書かれています。食欲をそそられたのです。悪魔は、イエス様に対して言いました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」

 イエス様の答えは、旧約聖書申命記の引用でした。しかし、注意してください!この二重括弧の中です。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』というのは、「パンはもちろん必要だけれど、聖書もまた大事ですよ」という意味ではありません。そのように誤解している人がとても多いようですが、少し考えてみてください。「パンも必要だけど、聖書も必要です」などと返事をしたら、悪魔は「そうだろう。腹が減った今必要なのは、聖書でなく、パンだ。だから、石をパンに変えろと言っているんだよ。」とさらに誘惑するだけのことでしょう。

エス様は申命記を引用して何を言おうとし、また悪魔はそれを聞いて退散したのでしょうか。イエス様が引用なさった申命記のその箇所の前後を見る必要があります。申命記8章2、3節。

「2**,あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。**

3**,それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」

 かつて、イスラエルの民が荒野を旅した40年間、彼らは荒野で何を食べて生活したのでしょうか。あのとき神様はことばをもって作られたマナという不思議な食べ物をもって彼らを養われたのです。ですから、イエス様が悪魔を論破なさったことば、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」の真の意味は、「人はパンだけで生きるのではなく、神がことばをもってつくられたマナによっても生きて行けるよ」という意味にほかなりません。つまり、神様は、神様を信じて従う民には、物質的・経済的な必要をも不思議に満たして、生かしてくださるのだという意味にほかなりません。つまりは、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」という約束と同じ意味です。そのように言われたからこそ、悪魔はすごすごと退散したのです。

 どんな場合でも、イエス様を信じて神さまを第一にして生きていくことです。そうすれば、イエス様は必ずあなたの経済的・物質的な必要も満たしてくださいます。だから、大胆にイエス様にしたがってまいりましょう。 悪魔の物質的誘惑に打ち勝つ秘訣は、神に信頼して神の国とその義を第一に求めることです

 

3 目の欲への試みと正しい聖書解釈原理

 

 次に目の欲に対する誘惑です。

 5**,すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、**

6**,こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」**

7**,イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 「目の欲」というのは好奇心です。「高いところから飛び降りてみたい」という風な危険に対する好奇心を悪魔がくすぐったのです。好奇心で身を亡ぼす人たちが今日でもいるではありませんか。麻薬・覚せい剤をやったらどんな風になるんだろう、占いをやってみたいな、ちょっと浮気してみたいな・・・などと、というのも好奇心です。そんなことをしたら、身を滅ぼすかもしれないし、人を傷つけるかもしれないとわかっていて、それでも人がその罠に足を踏み入れてしまうのは「目の欲」への悪魔の誘惑に敗れたせいです。アダムの妻の「目の欲」に対して悪魔が誘惑したときは、禁断の木の実は彼女の「目に慕わしかった」と表現されています。あなたも、この種の悪魔の誘惑を経験したことがあるでしょう。

 しかも、今回悪魔は、イエス様を誘惑するにあたって、旧約聖書を引用しています。6節の二重括弧『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』というのは、旧約聖書詩篇91篇11,12節の引用です。イエス様が旧約聖書の引用をもって、第一の試みに耐えたので、今度は悪魔は「俺だって・・・」と旧約聖書を引用したのです。悪魔は聖書をよく知っていて、曲解へと私たちを導こうとするのです。

 これに対して、イエス様は、正しい聖書解釈に基づく引用をもって、悪魔を撃退しました。「あなたの神である主を試みてはならない」と。これは申命記6章16節の引用です。

 

 ここには、正しい聖書解釈の根本的原理が記されています。聖書解釈学という学問があって、たとえば、<前後の文脈をわきまえなさい。書かれた時代の文脈をわきまえなさい。また、歴史書か、書簡か、預言か、詩かといったジャンルをわきまえて解釈しなさい。いろいろな翻訳を比較しなさい。>などという解釈の技術が教えられています。これらはもちろん大切なことです。しかし、どんな解釈技術よりもはるかにたいせつなことがあります。聖書解釈においてもっとも大事なことは、神様を愛し、神さまを礼拝する目的をもって聖書を読むという心の態度です。神様に反逆する心の態度で聖書を読んでも正しく理解はできません。悪魔がしたように、神様を試みる思いで聖書を読んでも正しく理解することはできないのです。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはならない」とおっしゃいました。神様を愛し信頼せずに聖書をいかに読んでも無駄、いや有害なことです。

 人のおもな目的とは、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことですから、まして、聖書を読むときの心の態度は、へりくだって神に愛し信頼していることが肝心です。目の欲に対する誘惑に勝利する秘訣とは、神への信頼です。

 

4 権力欲・虚栄心にかんする誘惑

 

 第三に、権力欲あるいは虚栄心(暮らし向きの自慢)に対する誘惑です。悪魔は人としてのイエス様に不思議な幻をもって、世界中の国々の王国の栄耀栄華のありさまを見せました。当時西はローマ皇帝ティベリウス)の宮殿、東は大漢帝国(後漢光武帝)が栄えていました。 4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、9こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」

権力の座というものは魅力的なものなのでしょう。政治家なら大統領に、総理大臣に、官僚ならば事務次官の椅子、経団連の会長、法曹なら最高裁判事となって、人を支配する力を持つということです。奥様たちの暮らし向きの自慢についていえば、東京なら調布の高級住宅街に住み、車はメルセデスロールスロイス、夫が大企業の営業部長であることとか、軽井沢に別荘がありますとか、まあ、そんな自慢をしたいという欲求、それが虚栄心です。「虚栄」というのは、読んで字のごとく「むなしい栄光」です。神の前では無価値な栄光です。

本物の栄光というのは、神の前で賞賛されるものです。それは、神様がそれぞれに与えてくださった持ち場立場タラントにしたがって、どれだけ神を愛し、隣人愛の実践をしたかということが問われるのです。どんな地位につこうと構わないし、どれほど財産を持とうとそれ自体罪ではありません。ですが、そういう地位や富を任された人は、それらをどれだけ活用して、神を愛し隣人を愛するために活用したかが、死後、神様の前で問われるのです。ただ自分の欲のために高い地位を利用し、富をたくわえたとしたら、神の前では、恥ずべきことです。だから、虚栄はまさにむなしい栄えなのです。

 悪魔は、今日でも拝み屋や宗教を用いて、権力欲・虚栄心につけいって「私を拝むならば、権力の座、虚栄に満ちた地位も思いのままですよ。」と誘惑しているではありませんか。人々は、神社やあやしげな拝屋のところにいって、「ライバルを追い落として私が社長になれますように。」「お金持ちと結婚できますように。」「優勝できますように。」などと拝んでいるのです。実際、歴代のごうまんな皇帝や王や総統や大統領や宰相たちは権力を手に入れるために、悪魔にたましいを渡した人々です。彼らは悪魔が落とされる火の池に永遠に苦しんでいます。

 しかし、イエス様はこうした悪魔の誘惑に対しても、正しく解釈した聖書のみことばをもって勝利を得られました。「4:10下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」悪魔の権力欲・虚栄心をくすぐる誘惑に対する勝利は、イエス・キリストにあって、まことの神のみを礼拝するということによってのみ得られるものです。

 

むすび

 荒野の40日間の試みにおいて、イエス様は第二のアダムとして悪魔の試みにみごとに勝利を収めてくださいました。かつて、アダムがエデンの園で誘惑に負けてしまいましたが、このたびイエス様は勝利を収めたのです。それは、真の神を信頼しきって満足し、真の神のみを礼拝する者としての勝利でした。

 キリストは、第二のアダムとして悪魔に対してすでに勝利されたので、私たちがキリストを信じ、キリストにつくならば、わたしたちは信仰によって悪魔に対する勝利者となっているのです。

 それと同時に、私たちはすでに悪魔に対する勝利を得たものとして、日々の生活のなかで、キリストの足跡に倣いましょう。私たちも天の父にまったく信頼しきって、肉の欲、目の欲、虚栄心への誘惑を退けて、真の神のみを礼拝し、勝利者として歩みましょう。

 「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」ローマ16:20

悪魔も知らなかったこと

 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。(1コリント2:6-9)

  ここで「奥義のうちにある隠された神の知恵」とは、1章30節がいうようにキリストとキリストの十字架による贖罪の業を意味している。「キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」とあるとおりである。知恵はギリシャ語でsofiaというが、これは七十人訳聖書箴言8章に登場する「知恵sofia」(ヘブル語でホクマー)である。箴言8章を読めば、その知恵とは、万物の創造にさきだって神とともにあり、万物の創造を手伝ったお方を指している。キリストは、永遠の神の御子であり、万物の創造に携わったお方である。

 1コリントの文脈では、知恵とは「十字架につけられたキリスト」(2:2)を指している。つまり、1章18節「十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあるように、神の知恵である神の御子イエス・キリストは、十字架に辱めの死を経験して後、よみがえられることによって、私たちに救い(義と聖めと贖い)となってくださった。

 永遠の神の御子が、十字架にかかられることによって、私たちに救いをもたらすという神のご計画・知恵は、「世界の始まる前から」のものであった。だから、この計画を知るのは、世の始まる前から存在した神のみであって、我々よりもはるかに多くの知識を持つ天使たちも知らず、堕落したみ使いであるサタンとその手下の霊たちも知らかなった。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」と言われている。

 「この世の支配者たち」は、神の御子イエスが十字架にかかって私たちを罪から救い出すという知恵を知らなかったとある。「この世の支配者たち」とは、ユダヤのサンヘドリンの議員たち、そしてピラトやヘロデたちを指しているように見える。だがそれだけでなく、「この世の支配者たち」はヘロデたちの背後にいて、彼らを操ったサタンと悪しき霊たちを意味していると思われる。この世の支配者たち」という言い回しは、ヨハネ12:31、同14:30、エペソ2:2と関係、類似している。

ヨハネ12:31「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」

エペソ2:2「 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

 たしかに悪魔とその手下どもが、もしイエスを十字架にはりつけにすることが、神が罪人を救うための方法であると知っていたなら、彼らは権力者たちを動かし、イスカリオテ・ユダを動かしてイエスを十字架に磔にすることは決してなかっただろう。十字架のことばは、滅びに至る人々、その背後の滅びる霊たちにとっては愚かなのである。 しかし、御霊を受けた者たちには、神の力であり、神の知恵なのである。

 私たちは十字架の福音を何度も聞かされ、何度も話しているために、それがサタンも知らなかった「隠されていた奥義」であることを忘れているかもしれない。しかし、万物の創造に与った知恵である神の御子が人として世に来られ、辱めをものともせずに十字架にかかって苦しみ死んで、罪人の罪を担われたというのは、実に、驚くべき神の知恵であることをもう一度思い起こし感謝したい。

 ちなみにC.S.ルイスは『ライオンと魔女』を、この1コリント書2章を背景として物語を書いている。そこには、「世の始まる前からの掟」が出てくる。「犯された罪はその償いのために死を要求する」という掟が刻まれた石舞台があり(これは律法をさす)、これは魔女も知っていた。しかし、「誰か罪なき者が罪を犯した者のために死ぬならば、復活が起こり、石舞台は割れる」というのが、「世の始まる前からの掟」である。キリストを象徴するライオン、アスランは、罪を犯したエドモンドの身代わりとなって、魔女によって石舞台で殺されたが、アスランは復活して石舞台は割れてしまったのである。

終着駅に着く前に

2020年1月26日苫小牧主日礼拝

21**,昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。**

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、**

24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。**

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。**

26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。(マタイ5:21-26)

 序

 イエス様が来られた1世紀のイスラエルの国は、旧約聖書の律法にもとづく神政政治を行なっていました。そうしたユダヤ社会でしたから、社会の指導者たちは律法にかんする知識をもっている人々で、律法学者たちは尊敬される務めを果たしている人々だったのです。パリサイ人というのは、そうした律法の解釈の一つの学派で、モーセの律法を厳格に守るべきであると考える人々で、伝統主義者でした。彼らは、民の中に位置していて、民の中にあって道徳的宗教的に指導をしていました。

 

1 イエス様の権威  「しかし、わたしはあなたがたに言います。

 

21、22a 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」

 ここで「殺してはならない」というのはモーセ十戒の第六番目の戒めです。モーセ十戒とは、モーセが考え出したことではなく、紀元前1400年頃、神様がモーセを通して、神の民に与えた人としての生き方です。イスラエル民族は、この神のことばである律法を土台として国家と社会を形成しました。紀元前1000年頃から400年間ほどが王国の時代で、この王国時代にイザヤ、エレミヤ、ホセア、エリヤ、エリシャなど多くの預言者が出現しましたが、預言者たちは律法と別に新しいことを告げたのではありません。旧約時代の預言者たちは、ひたすら悔い改めてモーセの律法に立ち返れと教えたのです。偶像崇拝と不道徳な社会になってしまっている君たちは、悔い改めなければ、神はこの国を滅ぼしてしまうぞ、悔い改めよと言ったのです。預言者たちは律法にまさることを教えようとしたわけではなく、そこに立ち返れと教えたのです。イスラエルの民は、しかし、預言者たちのいうことを聞かず、結局紀元前6世紀にはその国は滅ぼされてしまいました。

 イエス様が来られたころには、イスラエルは一応復興したもののローマ帝国の属国でした。律法学者たちが、旧約聖書の律法を民に教えていたのです。「『殺してはならない』という神の戒めが何を意味しているかというと、大学者のA先生はこのように教え、学者のB先生はこのように教えています。私としてはB先生の言うように解釈するのが正しいと思います。」というふうな教え方をしたようです。

 ところが、イエス様はおっしゃるのです。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」つまり、「A先生の説はこうで、B先生の説はこうで、C先生の説はこうです。わたしはB先生を支持する」というふうに教えるのではなく、イエス様は「わたしはこう教える」とおっしゃるので、弟子たちはびっくりしたのです。マルコ伝には「人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(マルコ1:22)とあります。主イエスは、律法の制定者である神としての権威をもって、山上の説教をなさったのです。しかもイエス様は、神としての権威をもって、福音の時代の神の民の生き方についての戒めを告げたのです。「旧約時代には、あのようにモーセを通して教えておいたが、これからの福音の時代が来たからには、わたしは、これからはこのように教えるからよく聞きなさい」とおっしゃったのです。イエス様は、律法を定め、それを更新する神の権威をお持ちなのです。

 

 2 神は、心と唇のことばを聞いて裁かれる

 

 では、イエス様の教えと、昔の人々の教えとそれを踏襲する律法学者たちの教えはどのように違うのでしょうか。
 22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 律法学者たちは、実際に、行動として実際に人を殺すならば、それは殺人罪に当たるということを教えていました。今日の日本の法律でもそうです。ナイフであれ、けん銃であれ、毒殺であれ、とにかく外に現われた行動によって、人の命を奪って初めて殺人罪という罪が成立して、裁判所で裁判が行われます。パリサイ人、律法学者たちは、「心の中で人のことを憎むこと」「口で人を罵ること」は問題にしませんでした。

 ところが、イエス様は「殺してはならない」という戒めは、実際に人を殺さなくても、まず心の中で人を怒り、憎み、殺意を抱くならば、神の前では殺人を犯したことになるのだとおっしゃるのです。さらに、その唇で人に向かって「能無し」とか「ばか者」というものは、神様の前ではすでに殺人という罪を犯したのです。ここには数十人の殺人者がいるでしょう。神さまの御前に出たとき「私は人殺しなどという大それた罪はおかしていません。」と断言できる人は、この地球上に一人もいないのです。

 神さまは霊ですから、あなたが心の中のつぶやくことばを聞いていらっしゃいますし、私たちが口にする言葉も当然聞いて、記憶にとどめていらっしゃいます。

 なぜ神さまは、私たちが隣人を憎み、殺意を抱くことをこれほどまでにお怒りになるのでしょうか。それは神さまは愛であり、愛である神さまは、本来、私たち人間を憎みあうために造られたのではなく、私たちが互いに赦し合い、愛し合うために造られたからです。愛である父と子と聖霊の神さまは、わたしたちをご自分の似姿、尊い存在としてとして造ってくださいました。それは私たちが地上にあって互いに愛することによって、神さまの栄光を現すためです。ですから、私たちが憎み合うことは、神さまをたいへん悲しませ、そして怒らせることなのです。

 ところが、なんとこの地上には神さまを怒らせ、悲しませることが多いことでしょうか。

神様の目からご覧になると、私たち人間の世界は日常的に親が子を殺し、子が親を殺し、兄が弟を殺し、妹が姉を殺し、近所の人同士も表面的に取り繕いながらも、心の中では殺し合いをしているのです。恐ろしい世界です。そうして、「心の中で人を憎たらしいと思うのは自由だ」とか、「ことばで怒りをぶつけること程度は大した問題ではない」などとうそぶいたりしているわけです。しかし、心の中にあることばが口に出てくるのであり、口で罵ることばは、やがてその人を突き動かして取り返しのつかないことをしでかすことになるのです。

 行動をきよくしたいならば、心の中に呟くことばを清くしなければなりません。そして、行動を正しくしたいならば口にすることばを、正しくしなければなりません。心の中、唇で話すことばが、あなたを動かすことになるのです。言葉は大きな船の舵です。小さな舵が大きな船を右に左に動かすように、あなたが心にあることば、あなたが口でいうことばが、あなたの人生を右に左に動かすのです。

 

.終着駅に着く前に

 

(1)神礼拝と隣人関係

 次に、イエス様は、そんな私たちに、神に礼拝をささげることと、隣人愛との関係は、切っても切れない関係にあるんだよと教えます。礼拝とは、神さまへの愛の表現であり、神さまへのささげ物をするということは、神さまへの愛と献身の表現です。ところが、イエス様は「あなたたちが神さまにささげ物をしようとするとき、だれか身近な者にうらまれていることを思い出すことはないか?」と問われるのです。

マタイ 5:23-24

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 

 このように命令なさったのです。「人に恨まれており、仲たがいしているような状態のまま、ささげ物をしたって、わたしはそんなささげ物は受け取らないよ」と神さまはおっしゃるわけです。なぜでしょうか?・・・神を愛することと、隣人を愛することとは密接不可分であるからです。

第一ヨハネ4章20,21節

「20**,神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21**,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」

  

(2)終着駅に着く前に

 エス様はこのように神さまとの和解と隣人との和解のたいせつさをお教えになり、続いて、私たち一人一人の一生というものは、訴えられて汽車に乗っているようなものであると教えられたのです。汽車が終着駅に到着すると、「終着、聖なる裁判所前!」ということになります。

マタイ 5:25-26

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。

 長野県小海町で伝道していたとき、Sさんというおばあちゃんとの出会いがありました。農家のおばあちゃんで、若いときはたいへん力持ちの働き者だったそうです。でも、とっても、きつい人で、そのお嫁さんのTさん話をうかがうと、「それはたいへんだったですねえ」というほかないほどでした。Tさんは、若い日に聖書を読むようになっていたのですが、洗礼にはいたらないまま結婚をしました。でも結婚してまもなく、「私は教会に行きたい」というと、お姑のさださんに聖書を捨てられてしまったのです。それから30年後、私が小海に開拓伝道にはいって、Tさんは洗礼を受けました。

 その後、私はそのSばあちゃんの住む離れを訪問するようになりました。訪問して話をして、「賛美歌を歌ってあげましょう」というと、「実は、わたしゃ若いときには教会に通っていたことがあるだよ。だから讃美歌を知っているだよ」と、ハーモニカで「いつくしみ深き」とか「主よみもとに」など讃美歌を吹いてくれました。Sさんは隣の群馬県の富岡製紙場に十代に集団就職して働いていたことがあり、その工場の前には教会があって、女工さんたちはみんな日曜日になると教会にいって讃美歌を歌うのを楽しみにしていたのです。そこを出ると東京の文京区のあるお屋敷にお手伝いさんになったら、そのおうちがクリスチャンだったそうです。けれども、嫁いできた家が天台宗の檀家総代の家だったので、そのことは封印して数十年いらしたそうです。そして、

 何度かかよってお話をするうちに、Sばあちゃんは、1月のある日、わたしについてイエス様の名を呼ぶようになられました。「イエス様、わたしを助けてください。」とご自分で祈るようになられました。そういう祈りをされて間もない日の夜、お嫁さんであるTさんにたいせつなときを持たれたそうです。 その夜、Sさんは、お嫁さんのTさんと二人だけのとき、いろいろなことを話されたそうです。そして、「若いときは、きつくあたって悪かったなあ。」とお詫びをされたそうです。Tさんは、「そんなことないよ。ばあちゃんのおかげで、わたしはたくさんのこと教えてもらったから、感謝しているよ。ありがとう。」と応じられたそうです。

 イエス様を受け入れられたとき、聖霊様がSばあちゃんの心のうちに、新しい創造のわざをなさったのでした。聖霊が働かれると、人はかたくなな魂が打ち砕かれて自分の罪を悟り、悔い改めの実をむすぶようにしてくださるのです。平和をつくる神の子どもとしての実を結ぶように新しい創造がなされるのです。実際、Tさんと和解という平和の実をむすぶことができたのです。Sばあちゃんは、洗礼を受け、二か月後に天に召されました。その記念礼拝を前に、孫娘のYさんから手紙をいただきました。

 

水草先生
 祖母の洗礼、祖母と母の言葉少なくも豊かな交わり、安らかな死と、大きな恵み
を下さった神様を誉め讃えます。
 生前何度も訪問していただき、洗礼へ導いて下さったこと、本当にありがとうご
ざいます。母が時々様子を伝えてくれましたが、祖母は水草先生との交わりや賛
美を本当に喜んでいたとのことです。重ねて感謝します。
 18日に記念礼拝を持って下さること、嬉しく思います。
・・・・
 洗礼後の祖母は私や、特に母に会いたがり、・・・母との交わりを喜んでいたようです。昏睡に入る前も、会いたい人の名をただ「T」としか言わなかったそうです。イエス様がよくわからないらしいと聞いていたのですが、あれだけ嫌っていた母をあんなに慕うことに、祖母には本当に聖霊が注がれたのだと思いました。ぶつかったりしながらも祖母に誠実を尽くし続け、親族に辛くあたられても祝福を祈り続ける母の姿は、美しかったです。私は初めて母を心底美しいと思いました。神様はこのような姿を「礼拝」として、「生きたささげもの」として喜んで下さるのではないかと思いました。祖母の件は、母の姿から学ぶという恵みをも私に届けてくれました。
 小海での礼拝が豊かに祝福されるよう、お祈りしています。

                            S.Y」

 

むすび

 私たち一人一人の人生は、聖な法廷に向かって毎日毎日歩いている道行です。「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることがさだまっている」と聖書にある通りです。

 私たちは、聖なる法廷に出るために二つの備えをしなければなりません。それは第一に神さまとの和解です。私たちは生まれながらに、神さまの怒りを受けるべき者たちです。神さまに造られながら、神様を無視して、自分の力で生きられると思い上がって生きています。これが根本的な罪なのです。しかし、イエスさまが和解のために来られ、私たちに代わって十字架でのろいをうけてくださいましたから、主イエス様を信じ受け容れることです。そうすれば、神さまと和解できます。

 聖なる法廷へのよき備えの第二は、隣人と和解をすることです。あなたが人生のなかで隣人の胸につきたてた言葉の刃、隣人に対して抱いた憎しみや怒りには、いろいろな理由や言い訳もあるでしょう。けれども、どんな言い訳をしたとしても、聖霊様が心に住んでおられるなら、あなたの良心に対してささやかれます。「あなたは恨まれているんじゃないのか。あなたは、あの人を傷つけた。あなたは、そのままで神の法廷に出ることができるのか?」と。

そういう御霊の示しがあったならば、へりくだって和解をすることです。私たちは、本来、憎み合い、傷つけあうためにともに暮すようにされているのではなく、互いに愛し合い、助け合うためにこそ生かされているのです。

 さだばあちゃんのクリスチャンとしての地上の生涯は短く、二ヶ月にも満たないものでした。けれども、この短い期間にさださんは、聖なる法廷にでる準備をきちんとして、召されて行かれました。私たちはどうでしょうか。今夜、主が迎えに来られたならば、あなたは聖なる法廷に出るための備えができていますか。

愛は律法を満たす

マタイ5:17-20

 

2020年1月19日 苫小牧主日礼拝

 

5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

 

 

1 律法と預言者

 

 17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

「律法と預言者」という表現は、旧約聖書という意味です。当時、旧約聖書は、「律法と預言者」とか「律法と預言者詩篇」というふうに呼ばれました。主イエスの大胆な言動について、敵対する人たちも、あるいはイエス様の弟子たちの中にも、「イエスは、律法と預言者つまり旧約聖書を廃棄してしまうつもりなのではないか?」と誤解している人たちがいたので、このようにおっしゃったのです。

エス様の大胆な振舞いというのは、たとえば、イエス様は安息日に忠実に礼拝を守りましたけれど、礼拝を終えると、その場で病人をいやしてやったというようなことです。律法学者たちに言わせれば、病人を癒すという行為は彼らが解釈するところの、安息日に禁じられている「仕事」であるから、イエス安息日律法を破っていると思ったわけです。けれども、イエス様に言わせれば、これこそ最も適切な安息日の守り方だったのです。本来安息日は、神を礼拝することと、隣人愛を実践する日ですから。

 また、イエス様は取税人マタイを弟子にとって、素行の悪い彼の友だち、取税人仲間、遊女たち連中とも一緒に楽しそうに食事をすることがありました。またイエス様は、遊女たちにさえ神様について伝えていました。これも律法学者の先生たちは、とんでもないことであると考えました。律法学者たちは、取税人や遊女とは口も利かないし、まして同じ屋根の下にはいって食事をするなどということは宗教的なけがれにあたるとしていました。この点でも、イエスは「律法と預言者」つまり旧約聖書を廃棄しようとしていると非難したのです。しかし、律法には異邦人といっしょに食事をするなとはありませんし、主イエスに言わせれば、旧約聖書によれば、神は罪に陥ったダビデにもあわれみを注がれたお方でした。

 また、イエス様は、選民ユダヤ人だけでなく、異邦人であっても求める人には、福音を語りましたし、病で臥せっている人があればそれが異邦人であっても癒しのわざも行なわれました。ユダヤ人、格別、パリサイ人や律法学者たちは、神の恵みはただユダヤ人にのみ特別に注がれることを信じて、教えていたのに何たることかというのです。というわけで、イエスは「律法と預言者を廃棄しようとしている」と非難したのです。しかし、旧約聖書には、神はユダヤ人だけでなく異邦人をも創造し生かしておられ、異邦人もやがてまことの神を賛美する日が来ることが書かれています。詩篇67篇を開いてみましょう。

67**篇**

1**,どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。セラ**

2**,あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。**

3**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

4**,国々の民が喜びまた喜び歌いますように。それはあなたが公平に諸国の民をさばき地の国民を導かれるからです。セラ**

5**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

6**,大地はその実りを産み出しました。神が私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。**

7**,神が私たちを祝福してくださり地の果てのすべての者が神を恐れますように。

 

 

弟子たちの中にも、イエス様が旧約聖書を廃棄しようとなさっているのだと誤解するむきがあっただろうと思います。ですから、イエス様は弟子たちを前にして、そういう誤解をしないようにと、この山上の垂訓で、キリストの弟子、キリスト者の生き方について述べてゆくまえに、新約の聖徒として、旧約聖書、特に律法をどのようにとらえるべきなのかについておっしゃるのです。

「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 2千年間の教会の歴史を振り返ると、旧約聖書を破棄して新約聖書のみを神のことばだとする異端がときおり生じました。その最初はグノーシス主義とマルキオン主義というもので、旧約のユダヤ的なものを否定して、パウロ文書の一部を重んじるという異端でした。福音書の中ではパウロとゆかりの深いルカ福音書のみを彼らは評価しました。しかし、イエス様ご自身は「わたしは旧約聖書を破棄するために来たのではなく成就するために来た」とおっしゃったのです。

 20世紀に入ってからも、旧約聖書を廃棄し、キリスト教からユダヤ的なものを捨て去ろうとした人々は、ヒトラーの時代のドイツの神学者たちでした。ヒトラーユダヤ人絶滅政策を採りましたので、キリスト教からユダヤ的なものを排除しようとしたのです。しかし、これはナンセンスなことです。イエス様はまぎれもなく民族的にいえばユダヤ人でしたから。イエス様はおっしゃるのです。「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 

2 イエス様が律法を成就する方法

 

 「5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 イエス様は律法を成就するために来たとおっしゃいます。それはどのようにしてでしょうか?律法の要求が満たされるには、二つの道があります。ひとつは、私たちがその律法が言っていることを実行することです。「殺すなかれ」という命令に対して、「殺さない」という応答をするとき、律法の要求は満たされます。「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」という律法の要求に対して、偶像をつくらないという応答によって、律法は満たされることになります。これがひとつ。

ですが、神様は人間が律法の要求を完全には守ることができないことをご存知でしたから、「偶像を礼拝するな」「安息日をまもりなさい」「あなたの父母を敬え」「殺すな」「盗むな」などといった道徳的な律法を守れず破ってしまった場合のために、神様はもう一種類の律法を与えていました。それはいけにえに関する律法であって、律法を破ってしまった場合に定められたいけにえをささげて償いをするというものでした。イエス様は、十字架においてまことの小羊のいけにえとして御自分を犠牲とされて、私たちが律法にそむいて犯した罪の償いをしてくださり、復活してくださいました。

エス様は私たちの罪の償いを十字架でなしとげ、さらに、天にもどられて天から信じる私たちに聖霊を注いで、神様のみこころを行なう力をくださるのです。このようにして、イエス様は律法を成就なさるのです。

 

3 律法に関する二つの間違い

 

 ですが、律法の受け止め方については二つの間違いがあります。それは律法主義と無律法主義です。

(1)律法主

 律法主義というのは、数々の律法を守ることによって、神の前に点数をかせいで自分の義を立てるという考え方です。神様の前にはあなたの人生を量る天秤があって、律法を守ったら右の皿に、破ったら左の皿に分銅が置かれて行き、審判のときに右の皿が下がっていたら天国に、左が下がっていたら地獄におちるということです。この何が間違えているかというと、神様は完全なお方なので完全に守れないかぎり神様の前で義であると認められることはありえないからです。そして人間は罪があるので、人は律法を完全に守ることができないことは明白です。

ヤコブ2:10「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」

また、律法主義者の陥りがちな罠は、偽善と形式主義です。というのは、律法主義で完璧を目指そうとすると、いきおい律法を破ったのだけれど、守ったことにするために言葉のつじつまを合わせようとするからです。イエス様の時代にパリサイ人たちは、そういう作業を一生懸命していたようです。法律の文言のつじつま合わせというのは、国会での官僚の答弁など聞いていて、よくあることです。

 

(2)無律法主

 律法の受け止め方についての第二の間違いは、無律法主義です。自分は恵みによって救われた。だから律法などは要らないのだと思い込んで、偶像礼拝をしたり、安息日を軽んじたり、親不孝をしたり、姦淫したり、偽証をしたり、盗みを働いたりといった好き勝手な振る舞いをしても大丈夫だという考え方が無律法主義です。

 イエス様はそんなことはまったく教えませんでした。十戒は、キリスト者の義務を教えているのです。

5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 

3 キリスト者の義

 

 では、正しい律法の受け止め方とはなんでしょうか。それは、キリストがわたしのために十字架にかかってよみがえり、わたしを赦してくださいましたから、こそ神のご期待に応え、神の律法を大切にして生きていくのです。もはや律法を破ったら呪われるという恐怖からではなく、いやいやながらでなく、キリストにおいて表された神の愛に対する感謝の応答として、十戒をガイドとしてこれを重んじて生きることです。私たちは律法を守らなければ呪われるのが怖いからではなく、律法の呪いから解放された者として、愛をもって律法の要求を十二分に満たして生きることが許されているのです。それはイエスを信じる者のうちに与えられる聖霊によって、可能にされているのです。

5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 キリスト者の義は、律法学者・パリサイ人の義よりも勝っているのです。二つの意味で優っているのです。

それは、第一に律法を守りえなかったことにかんする償いはイエス様があの十字架の贖いと復活によって、完全に満たしていてくださるからです。キリストの義を私たちは贈り物としていただいているのです。

 

 キリスト者の義が律法学者たちの義にまさっているのは、第二に私たちは律法ののろいに対する恐怖からとか、いやいやこれを行なうのではなく、神様を愛するゆえに、自発的に神様のみこころを行なおうとするからです。律法の要諦は、全身全霊をもって神を愛することと、隣人を自分のように愛することですから、いやいやながら恐怖のゆえに奴隷的根性で律法を守ることを神様はお喜びになりません。神様は、愛をもってみこころを行なうことを、喜んでくださるのです。聖霊がそれをさせてくださいます。

 私たちは偶像崇拝をすると呪われ地獄に落ちるから偶像崇拝をしないのではなく、唯一まことの神様を愛しているから、真の神様だけを礼拝します。

 私たちは主の御名をみだりに唱えると呪われるから、そうしないのではなく、私を愛し私のためにいのちまで惜しまなかったお方のお名前ですから、私たちは心からの感謝と喜びをもってイエス様の名を口にします。

 私たちは安息日を守らないと死刑になるからこれを守るのではなく、安息日に私を愛してくださった神様に兄弟姉妹と感謝の礼拝をささげたいから、これを大事にするのです。  私たちは父母を敬わないと呪われるから父母にいやいや従うのではなく、神が立てた大切な父母ですから敬います。

 私たちは人のものをただ盗まないのではなく、生活に困窮している人たちにも進んで施しをします。 嘘をいわないだけでなく、真実を語ります。 隣人のものを欲しがらないのではなく、神がくださった恵みのゆえにいつも喜び、絶えず祈り、すべてのものに感謝して満ち足りるのです。

このように二重の意味で、私たちキリスト者の義は、神様の御目から見るときに、パリサイ人たちの義に勝っているのです。すなわち、愛をもって自発的に律法にまさる行いをする点、破ってしまった場合の罪の償いは主イエスが十二分に成し遂げてくださったことです。 神様にイエス様の十字架のゆえに罪を赦されたことを感謝しながら、神様のみこころを愛をもって十二分に実行するものでありたいのです。

 

 

 

地の塩、世の光

マタイ5:13-16

2019年1月12日 苫小牧

13**,あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。**

14**,あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。**

15**,また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。**

16**,このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

 

1.地の塩、世の

 

 主イエスは信じ従う私たちに8つの祝福をお与えになりました。今朝も、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」としての、私たちへの祝福です。それは、新約の時代の神の国の民に与えられた祝福でした。祝福を受けた者として、神の民はこれからどういう生き方をしていくのかを、イエス様は教えてくださるのです。神の祝福をまず受けたので、その恵みにどのように答えて生きていくかという、この順番が大事なことです。

 私たちの世にあっての存在と働きを、イエス様は、地の塩、世の光と表現されました。 

スーパーにいくと「天塩」という銘柄の塩が売られていますが、天の塩でなく、地の塩だとおっしゃるのです。その意味は、主イエスの弟子というものは、確かに「私たちの国籍は天にあります」という者なのですが、その天の御国に住んでいるわけでなく、地に遣わされたものであるという意味です。イエス様はあるとき、父なる神に向かってこう祈られました。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17,18)

またイエス様は、「あなたがたは天の光です」とはおっしゃらないで、「あなたがたは世の光です」とおっしゃいました。これも同じことです。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17,18)とおっしゃるとおり、私たちは天國を照らす光ではなく、天国から暗いこの世に遣わされて世を照らす光なのです。天国には神様が住んでいらっしゃるから、私たちが照らす必要はありません。照らす必要があるのは、この世です。ここに天国の光をもっていきともす者として、私たちキリスト者はこの世に派遣されました。

エス様に信じ従う者は、天の御国の国民ですが、その御国から、この世に派遣されている者です。あなたは、自分がそれぞれの家庭や地域や職場や学校に、またこの現代日本と言う国にイエス様によって派遣されているのだという自覚を持っているでしょうか。この自覚がまず大事なことです。

私たちは天国人ですから、第一の忠誠は神さまに対するものでなければなりません。日本人である前に天国人なのです。この世と調子を合わせてはいけません。この世の価値観に流されてはいけません。神様と調子を合わせて生きていきます。しかし、イエス様によって、この世に証人として遣わされていることを忘れて、まるで世捨て人のように、この世は没交渉にして生きていてはいけません。遣わされた地域、職場の人々の中に入って行って、神の栄光をあらわす生き方をする必要があります。つまり、世から聖別されたという意識と、世へと派遣されたという意識の両方がたいせつです。聖別意識と派遣意識です。

実は去年の忘年会の終わりの締めの係をしてくださいと言われました。万歳とか一本締めとかなんかそういうのがありますよね。でも、参加者は「キリスト教式でどうぞ」と仰るので、一年間の感謝と、それぞれのお店の祝福、健康の祝福をお祈りしました。先週木曜日は理事会があり、そのとき肉の青山さんは、牧師室にかけてあった「みことば三十一日」をくださいとおっしゃるので差し上げました。少しずつですけれど、この地域の人たちにイエス様を証できればと願っています。

 

 地の塩

 

)うまみを引き出す

塩の働きのひとつはうまみを引き立て、うまみを引き出すことです。ほんの一つまみの塩で、たとえば味気ないおかゆがおいしい甘味を感じさせるようになります。お汁粉を作るにも、お砂糖に比べたらほんの何十分の一に過ぎない一つまみの塩で、甘味が増すのです。塩というのは、とっても素晴らしい力をもって、料理やお菓子の甘味やうまみを引き出すのです。

「あなたがたは、地の塩です」とイエス様はおっしゃいました。この世は味気ない世界です。イエス様が、終わりの時代、「愛が冷えてしまうので不法がはびこります」とおっしゃったように、この世はますます味気ない世界になっていくなあと感じないでしょうか。味気ない世界、それは愛の冷えた世界です。

世界を味気なくしてしまう現代社会の原因はなんでしょうか?そのひとつは、イエス様がおっしゃったように、カネがすべてだという拝金主義とか効率主義です。<すべてのものは金銭に換算して価値が量られる>といった見方が、この世を味気なくしてしまっています。マモニズムといえばいつも私はイスカリオテ・ユダを思い出します。イエス様がいよいよ十字架にかかるためにエルサレムに行こうとされるとき、ベタニヤのマリヤがイエス様に惜しげもなく注いだ香油について、イスカリオテ・ユダが「これは300デナリもするじゃないか。もったいない。」と値積りしました。彼にはマリアの十字架に向かおうとするイエス様への愛がわかりませんでした。ただ300デナリという金銭に換算しただけです。なんでもかんでもカネに換算する人は、すでに拝金主義の偶像崇拝者です。

「あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります~♪」と恋人が一生懸命に夜なべをして手編みのセーターを作ってくれたら、「なんだこんなのシマムラに行けば、1000円もしないでもっといいの売ってるよ。」などと言う男がいたら、なんと味気ない男でしょう。こんな愚劣な男は、誰が作ったかしれないブランド物の何万円のセーターなら満足するのでしょう。カネがすべてなのです。

 イエス様は私たちキリスト者に「あなたがたは地の塩です」とおっしゃいました。日本にクリスチャンは1パーセントと言われます。でも、塩の働きということを考えると、私たちは自分が少数派であることを恥じることはありません。お汁粉に一つまみの塩で、うんと甘さが増します。少数派のクリスチャンであっても、ちゃんと祈り、ちゃんと考え、ちゃんと働くならば、無味乾燥なこの社会に味わいを引き出すことができます。神様のために素晴らしい働きができるのです。私たちが、イエス様のくださった御霊の働きによって、この世にあってイエス様のみことばにしたがって、神様の愛に生きていくとき、私たちは塩として味のある世界を作り出すことができます。効率がすべて、金儲けがすべてといった無意味で味気ないこの世界を、味のある世界とされるのです。

 

)防腐効果

 塩の働きはまた、ものを腐らせないことです。漬物を塩で漬けるのは、うまみを引き出すと同時に保存が利くようにするためです。

 世の光放送のラジオ牧師羽鳥明先生が御自分をクリスチャンへと導いた同級生について、こんな証しをなさっていました。羽鳥先生が旧制中学生のときは日本は戦時下にありました。各学校には、配属将校が置かれていました。ある将校が来ると、教壇に立って言い放ちました。「ヤソはわが国体に反する、アメリカの宗教じゃ。ここにヤソはおるか。名乗ってみろ。俺がどうにかしてやる。」すると、一人の同級生がすくっと立ち上がって言いました。「私はクリスチャンです。イエス・キリストがわたしの罪のために、十字架で死んでよみがえられたことを信じています。」そして静かに座りました。その男は、いつも柔和でにこやかでした。そして、彼の周りには汚れたものがなく、周囲の人々をきよめる不思議な力をもっていたのです。」

 「あなたがたは地の塩です。」と主イエスはおっしゃいました。この世界は、神様に背を向けて、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で汚れがますますひどくなってゆこうとしています。世と世の欲は滅びます。その中にクリスチャンは派遣されて、イエス様のみことばを信じてしたがって行けば、周囲が不思議にきよめられていきます。イエス様の清さが、クリスチャンを通して周りに浸透して行き、この世がソドムとゴモラのように腐りきって滅びてしまうのを防止することになります。あのとき、神様はもしソドムの町に10人の正しい人がいれば、この町を亡ぼさないとおっしゃいました。実際には10人もいなかったので、滅ぼされてしまいましたが。しかし、わずかな人数であっても神を恐れてきよく歩む者がいるならば、神はその地を滅ぼさないのです。ですから、世の人たちは何も知りませんが、クリスチャンであるあなたは、この日本の国を、

苫小牧の町を神の恐るべきさばきから守っているのです。

「あなたがたは地の塩です」と主はおっしゃいました。私たちは、味気ない世界に、うまみを引き出し味をつけ、腐りつつある世界をきよくして腐らせず、神のさばきから守るという大切な役割をになっているのです。

 

 世の光

 

 また、主イエスは私たちにおっしゃいます。

14**,あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。**

15**,また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。**

16**,このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

 塩も光もともにこの地上、この世界で、イエス様の弟子たちの果たす役割を表しています。両者は、どうちがうのでしょう。たぶん、塩が地味な目立たないところ、周囲に溶け込み浸透して行って働くのに対して、光の方は一目に立つ働きであるということを意味するのでしょう。塩は、見えないかたちで浸透して行って、味気ない世界に味を付けたり、腐りそうなものの腐敗を防いだりしますが、光は見えるかたちでの神の証しを意味するということができましょう。

 人目に立つために偽善的な良いわざについてイエス様は言われました。「あなたの右手のしていることを、左手に知らせるな。」けれども、人目に立つことを恐れるあまり、なすべき良いわざを行なわないとしたら、それはおかしなことになります。たとえば電車の中に空き缶が転がっているのを見つけたけれど、だれも拾おうとしない。けれど、ほうって置けば、誰かがそれを踏んで転んで大怪我をするかもしれません。そんなとき、『右の手のしていることを左の手に知らせるなとイエス様がおっしゃったから、人目に立つよいことをするのはやめよう』などと思っているうちに、誰かが空き缶を踏んで転んで大けがしたら何にもなりません。人目についても、つかなくても、善いことはするのです。

 電車でおばあさんがふらふらしていたら、さっと立ち上がって席を譲ると目立つから「右の手のしていることを左の手にしらせない」ためだと、寝たふりをしてはいけません。さっと立ち上がって、席を譲るとおばあさんも助かるし、そういうことが社会であたりまえのことになれば、もっとこの社会はお互い住みやすくなります。

 

 ところで、光というものはどれだけ大切なことでしょう。2018年9月6日、胆振東部地震で北海道全部が大停電になって、私たちは夜を暗闇の中でしばらく過ごしました。光がないというのは、まことに不便なものだと改めて知りました。光があってこそ、暗い夜も生活することができます。

また、植物は太陽から注がれる光を受けて、光合成を行ない、小さな種から大きな作物となって行きます。直径一ミリほどの種が、大きな白菜になったり、大根になったりします。降り注ぐ光の力です。光はエネルギーであって、そのエネルギーがいのちをはぐくむのですね。光がなければ、私たち地球で生きるものたちはみな食べ物を得ることができず餓死してしまいます。

 「あなたがたは世界の光です」と主イエスはおっしゃいました。イエス様が光そのものですが、私たちもまたイエス様の光を映してこの世を照らす光としての役割をになっています。光はエネルギーであって、いのちを育む力です。元気を失っている人、希望を失って悲しんでいる人のそばに寄り添って、静かに話を聞くことによって、イエス様のいのちのエネルギーをお分かちできるとしたら、そのとき、あなたも世の光です。喜ぶ者とともに喜び、なく者とともに泣くならば、あなたも世の光です。そういう共感をしてくれる人がいたら、と思っている人は今の世界にはとても多いのですね。

  「あなたがたは世の光です」と主イエスは私たちにおっしゃいます。暗闇の海の中で難破している舟のような人生を漂っている人たちにとって、クリスチャンは真理といのちに導く灯台の光です。私も、高校時代、そういう友人に出会って、牧師のもとへ、教会へ、イエス様へと導かれたのでした。ほとんどの皆さんにとっても、ご自分の人生にとって灯台の役割をしてくれた人がいたのではありませんか。小野君枝姉によってイエス様のもとへ、教会へと導かれた方たちが何人もいるとうかがいました。

「あなたがたは世界の光です」。だから、自分がキリスト者であることを隠してはいけません。人生の暗闇に迷い、沈没しそうな難破船のような状態に陥っている人が、あなたのそばにいるかもしれません。あなたという光がなければ、その人は本当に人生に絶望して沈没してしまうかもしれないのです。だから、私はクリスチャンですと、旗印を鮮明にして生きて行きましょう。

「私はクリスチャンです。私はわたしの罪のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったイエス・キリストを信じています。」いつでも、どこでも、もし問われたならば、このようにあなたの中にある信仰と希望を告白することにしましょう。

 

結び

地の塩として人々の中に浸透して、地道に生きること。

世の光として、「私はクリスチャンです。イエス様こそ希望です。」と恥ずかしがらずに証して生きること。これらのことを大切にしてまいりましょう。

クリスチャンはとても貴重な存在なのです。

いのちと時

マルコ4章26-34節

2016年8月21日

 「神の国」とは神の支配という意味だと先にお話ししました。神の国の究極的な完成は、次の世においてですが、今の世にあっても、神様のみこころが成っていく所にはすでに神の国は来ているのです。 「神の国」は、あなたの心の中に、あなたの個人生活の中に、あなたの教会生活の中に、家庭生活の中に、職場の中に、社会生活の中に、世界に広がっていくものです。その神の国のひろがりはどういう性格を持っているのかについて、主イエスは二つのたとえばなしで話されました。一つ目は種まきの譬えです。

「4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 

1 「種」                                                  

 まず注目すべきことは、神の国が大きくなっていくことが、建物の建設や工業製品の製作ではなく、「種を蒔く」ことに譬えられているという点です。種というのは、そこにいのちがあるということです。神のご支配が広がっていくというのは、生命あるものの成長にたとえられることなのです。

 クリスチャンとして私たちが成長していくということ、キリスト教会が成長して実を実らせていくということ、福音の感化が地域社会に広がっていくということ、世界に広がっていくとくことは、生命的なことであって、工業的なことではないというのです。あるいは農業的であって、工業的でないということです。神の国は生命なのです。

 

2 「種を蒔く」

作物を期待するとき、人間の側は何をするのかといえば、まず、ともかく神の国が成長するための基本は「種をまく」ことです。種にいのちがあっても、その種を後生大事に袋の中に保存しておいては、決して芽が出る事も収穫を得ることもありません。真っ黒でフカフカの土の畑を用意しても、種を蒔かねばお話しになりません。どんなに水をまいても、草取りをしても、種を蒔いていなければ、何も始まりません。

「種」とはみことばです(4:14)。神の国はみことばが地に蒔かれ芽を出して成長するのです。どんな人間的な心理学や社会運動も、神の国の成長にはならないのです。教会がボランティア的活動を行ったりすることはありますし、牧会上人の心の理解のために心理学やカウンセリングの技術が役に立つこともあります。しかし、神のことばが語られ、その種がまかれないならば、誰一人救われて神の支配に帰する人はありません。教会は、神のことばを宣べ伝えるのです。伝道と社会的責任のふたつが教会の使命ですが、優先順位は伝道が先です。

 私たち一人一人の霊的な成長ということにおいても、まずは、神のみことばを自分の心にまくということです。主の日ごとに、あるいは祈祷会ごとに、また、日々の聖書通読でみことばをしっかりと聞き、自分の生活に適用することです。そうするときに、あなたの人格の隅々にまで神の支配がひろがり、あなたの生活の隅々にまで、神のご支配がひろがり、やがて家庭に地域社会に、神の国が広がってゆきます。

 

3 「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」

 米作りを考えると、苗代に種を蒔き、田んぼの代掻きをし、田植えをし、猛烈に伸びる雑草を取り、水の管理をし、そして収穫ということになります。「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」というのはこのようなことが含まれます。

私たちの信仰生活にも必須のルーチンワークがあります。時々はたとえばライフラインの集いとか、わくわくデーとか、クリスマス特別プログラムなど楽しいことがありますが、多くの日々は、朝起きたら、聖書を読んで心に種まきをし、今日一日、歩むべき道を信仰を働かせてくださいと祈り、そして、夜には一日の十の恵みを数え上げて、また罪の告白をして主イエスの十字架の下で悔い改めてゆるしをいただき、また感謝を捧げて眠りにつく。こうした単調とも思えることを毎日毎日コツコツと繰り返すことが、神の国があなたの生活に広がっていく上で大事なことです。

また、教会の成長ということについても、たまに行うイベントに頼って伝道するのではなく、毎月、毎週、伝道することが基本です。私は東京で9年間宣教師と伝道をした後、長野県の山間部の南佐久郡で開拓伝道を志しました。そのとき、何人かの先輩の先生がたにお話しをうかがいに行きました。その中で一番印象に残ったのは開拓伝道の実を上げてこられたT先生の話でした。どのようにして伝道して来られたのかとうかがうと、T先生は「うちでは特別伝道集会はしないことにしている。特伝をすると、それだけで伝道しているという自己満足に陥るからです。伝道は、毎月、毎週するものです。その基本は個人伝道です。」とおっしゃいました。おっしゃることばは、私にとってまさに図星でした。

それで、小海に開拓伝道に入ってから、私に毎月できる伝道を考えて、毎月「通信小海」という伝道新聞を作って南佐久郡全戸に新聞折込にして伝道をしたのです。方法はいろいろありえましょうが、毎月毎週毎日の伝道ということを実行していきたいと思います。

 

4 「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実」

いのちには時間がかかり、段階があります。「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫のときが来たからです。」苗ができないのに穂ができることはありません。穂がないのに、実が熟すこともありません。初めに苗、次に穂、次に穂の中に実という順番があります。成長には時間がかかり段階があるということです。種から一足飛びに花が咲くということなどないのです。だから焦らないことです。

神の国が、あなたの人格のなかで成育していくことについて、このことを考えて見ましょう。「はじめに苗」というのは、義認と「子とされること」です。<神の前に自分の罪を認めて、イエス様が私の罪からの救い主であると信じて受け入れると、神はあなたの罪を赦してくださり、かつ、ご自分の子として神の家族のうちに迎えてくださる>ことです。これが「はじめに苗」です。神様の前に自分の罪を認めて、イエス様を罪からの救い主として受け入れることなしには、キリスト者生活をスタートすることはできません。どんなに奉仕に熱心でも、どんなにたくさん献金をしても、どんなに十戒を基準として道徳的な生活に励んでみても、その人は救われていないのです。まず、自分の罪を認めて、主イエスの十字架と復活は私のためでしたと信仰をもって受け入れることです。

洗礼の準備クラスで長島茂雄選手の一塁ベース踏み忘れ事件の話をしました。一塁ベースを踏まずに二塁、三塁を回ってホームベースに帰ってきても、アウトです。イエス様の十字架が自分の罪のためであったという事実を受け入れないままに、どんなに忠実に献金をささげ、奉仕をし、毎週礼拝に来られても、最後はアウトです。「カルヴァリの十字架がわがためなり」という信仰が一塁ベースです。

その上で、「次に穂」「穂の中に実がはいり収穫」となります。これはクリスチャンの一生涯をかけて、イエス様に似た人柄に変えられていくこと、すなわち、御霊の実を結ぶことです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。みことばと祈りと教会生活をたいせつにすること、そして、試練が訪れたときには祈りつつ忍耐すること。そうすれば、こうした御霊の実が実っていきます。

 

5 成長は神の力による

                                                                                 「どのようにしてか、人は知りません」とか「地は人手によらず実をならせるもの」とあります。このことばでもって主イエスはなにをおっしゃろうとするのでしょう。それは、私たちは神の国の成長のためになすべきこととして御言葉をまくとか、水をやるとかはあるにしても成長させるのは神の力であるということです。植物を育てるとわかることは、種まきをした、水をやったからといって、みながみな同じように成長するわけではないということです。あるものの発芽は早く、あるものは遅い。あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは20倍。それぞれの種の個性があって、人間の計画通りには行きません。

 

 そのように、私たちは霊的成長のために努力しますが、ほんとうに成長させてくださるのは神様の聖霊なのです。私たちは神の協力者ですが、成長させるのは神なのです。神様にゆだねていく、あせらない、時がよくても悪くても、神様に期待して忠実に生きる。そういった姿勢がたいせつであるゆえんです。

 もうひとつの譬え言われていることはこのことです。

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、 4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

  神の国は、神の力によるものだからこそ、思い掛けないほどの成長がありえるのです。人間の常識でははかりしれないほどの成長があるのです。実際、主イエスの福音は、最初は小さなからし種ほどのものでした。世界の片隅イスラエルでした。面積は2万770平方キロメートル。北海道は8万3千450平方キロですから、北海道の四分の一ほどにすぎません。その片田舎のナザレから始まった神の国、教会は、今や全世界を覆う大木となりました。それは人間の力によるのではなく、神の力によるものであるからです。

 そして、あなた自身のこと。自分を見限ってはいけません。「自分はこの程度のものだ」とか「自分はこういう性格だから仕方ない」などと見限って、悔い改めを徹底しない人がいます。そうでなく、主が求め給うままにすなおに悔い改め、主イエスの十字架によるゆるしを素直に信じて歩むならば、神はあなたをも支配してゆくようになります。やがて、あなたの家族までも救いに導かれるでしょう。神の国からし種のようなものです。今はちっぽけであっても朝は起きて夜は寝て、そうこうしているならば、やがて大きな木になるのです。それは人の力による成長ではなく、神の力による成長であるからです。私たちは、日々御言葉にしたしみ、悔い改めつつ安んじて聖霊に信頼して神の国が教会としても、あなたの家族においても拡大して行く事を信じて歩みましょう。

 神の国は、信じる者のところを訪れるのです。

 

量るように量られる

Mk4.24,25

「4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

 4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

 

 主イエスの「神の国」つま、神のご支配のもとに生きる人生についての教えが続いていきます。今日は、その中で、私たちは他の人を量るように量られるという、神の国の法則ということを学びたいと思います。「量るように量られる」という法則については、聖書の中では二つの意味のひろがりがあります。

第一は、神のご支配の下に生きるクリスチャンの幸いな経済法則として私たちが他の人を「量るように量られる」ということであり、第二は、裁きにかんして私たちは他の人を「量るように量られる」ことについてです。本日はお話しの順序として、まず、神の国の経済法則として「量るように量られる」という法則について、次に、神の国のさばきの原則として「量るように量られる」ことをお話ししましょう。

 

1 神の国の経済原則

 

 神の国の経済原則といえば、旧約レビ記、マラキ書、新約ではマタイ福音書で十分の一は神のものとして十分の九で生活するところに祝福があるとありますが、主イエスは新約時代のクリスチャンには加えてもうひとつの経済原則を教えられました。それが「量るように量られる」です。イエス様がお教えになったのは、マルコ福音書4章24,25節、および、ルカ福音書6章38節です。

ルカ6:38

「6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 イギリスにいた敬虔なクリスチャン、ムーアさんというご夫妻の証を読んだことがあります。ムーアさんたちはお金であれ食べ物であれなにかが手に入ると、それはすべて自分たちに与えられたものではなくて、その一部は神様が誰か自分の周囲の乏しい人に与えるために余分にくださっているものなのだという認識をもって生活をしていました。そして、自分たちの必要はいつでも必要なものは満たされていました。

 ところがある夕食時、ムーアさん夫婦はそのときお金がなくて、食卓についてパンが変えませんでした。夫婦は祈りました。「神様。私たちが施すことをお約束したものでありならが、忘れていたものがあったのでしょうか?教えてください。」こう祈っているうちに、「あ、あれだ!」と思い出して、二人は目を開けてにっこりと笑いました。地下室に、近くの孤児院に寄付するために取り置いていた一缶のバターを持っていくのを忘れていたことに気づいたのです。そこで夫婦はそのバター缶を孤児院に持ってゆきました。夫婦が、よかったね、といいながら帰って来ると、玄関にはちゃんと誰が持ってきてくださったのか、パンが置いてありました。

 そういえば、かつて私も似たような経験をしたことがあります。多くのクリスチャンは、ムーアさんだけでなく、そういう経験をしているのかもしれません。

 神様が私たちクリスチャンに何かをくださるときには、あらかじめ余分をつけてくださるのです。乏しい人に与えて、そこに愛の交わりが実現するために託してくださったのですから、収入があったとき全部自分だけで消費してはいけません。箴言22章2節に「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である。」とあります。 パウロはこんな勧めもしています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」私たちに健康が与えられて仕事ができているのは、神様の恵みです。その恵みを通じて、私たちが仕事をして収入を得るとき、神様は私たちが困っている人たちに施しをするぶんも余分につけていてくださるのです。そして、そこに愛の交わりが生じ、また、神を経験することがあるのです。(ペイフォワード)

 あるとき、東京渋谷にある教団事務所に、月曜日にある委員会にまいりましたら、委員長の石川弘司先生がご自分が遅刻したお詫びとかいって、ご自分が好きなアンパンを買ってきてくださいました。私は「ああ、こずえはアンパンが大好きだがら、もって帰ってやろう。」と私はかばんに入れました。仕事が終わって、翌火曜日午前11時頃、信州の自宅についたら家内がお茶を出してくれました。そこでかばんを開けて、「昨日は石川先生がアンパンを買ってきてくれたんだ。はいお土産。」と言いました。そしてお茶を飲みながら、昨日あったあのこと、このことをお互い報告していたのですが、こずえの目の前で、無意識にそのアンパンを全部たべてしまいました。こずえは目をまん丸にしていました。・・・こいうのはよくない例です。

 神様がなにかくださったとき、余分を付けてくださっているんだということを忘れないで憶えておきましょう。

 

2 神の国のさばきの原則

 

 次に神の国のさばきの原則としての「量るように量り返される」という法則について、です。神様が私たちひとりひとりをさばくにあたっての裁きの物差しについてです。まずマタイ7章1-5節

 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

 7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 イエス様が、私たちをご覧になると、「あなたがたはたいへん不公正な人間だねえ。他の人を量る物差しと、自分を量る物差しが違うではないか」と呆れていらっしゃるのです。人を量る物差しはたいへん厳格であるくせに、自分を量る物差しはやたらと広やかでいい加減ではないか、と。人の目のなかのおが屑が気になって仕方がないくせ、自分の目には大きな丸太棒が入っていても平気で一向気づかないじゃないか、というのです。大体、自分の目に丸太棒が入っていたら目など見えないでしょう。そうだ、あなたがたは自分の欠点、自分の失敗については、やたら寛容なくせに、他人の失敗や欠陥については、やたら情け知らずなのです。

 人のほっぺについているご飯粒はすぐ見えますが、自分のほっぺについているご飯粒には気が付かないでしょう。

 ですから、こうして人を指差すとき、自分のほうを三本の指が指していることを意識しましょう。

 

3 あわれみ深くあること

 

 ルカ6章36-37節

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 神様は私たちと違ってたいへん公正なお方なので、その裁きは公正です。私たちは、えてして他人を量る物差しは厳格で、自分を計る物差しは緩やかですが、神様があなたをさばくときには、あなたが他人を量ったその物差しによって、あなたをも量るのです。だから、自分に対する神様のさばきの基準はいわば自己申告制なのです。私たちは人をさばくときに、神様の前に、私をこの基準でさばいてくださいと申し出ているのです。

もし神様からきびしく取り扱っていただきたいならば、他の人とくに兄弟姉妹に厳しく非難することです。神様はその基準であなたを取り扱ってくださいます。しかし、もし、あなたが神様から寛容に取り扱っていただくことを望むならば、あなたの隣人、特に兄弟姉妹に対して寛容であることです。神様はおっしゃいます。「おまえは、彼をずいぶん厳しく非難しているけれど、その基準で、わたしはあなた自身をも非難するが、あなたはそれで大丈夫なのだな。」とおっしゃるのです。これが神の国におけるさばきの法則です。

 ある書物で読んだ話です。中国のある地域の牧師たちの集いの中で、1人の牧師の息子が不道徳な罪を犯したことをとてもがっかりして報告しました。そして「祈って欲しい」と。そのとき、一人の正義感の強い別の牧師が手厳しく、その牧師を非難しました。

「聖書には、『自分自身の家を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話することができるでしょう。』(1テモテ3:5)と、牧師・長老の資格について教えられています。あなたは自分の息子をちゃんと指導できていないのに、牧師の資格があるのですか?」・・・たしかに正論です。しかし、正論を吐く前に、その同労者がどれほどその件で苦しんでいるかを思いやる憐れみが必要だったでしょう。・・・その後しばらく経って、あの正義感の強い牧師の子どもが甚だしい罪を犯したそうです。・・・彼は他人を量ったように量られたのでした。

 神は公正なお方です。私たちは自分に甘く、他人に辛い物差しを当てますが、神は私たちが他人をさばいたその基準で、私たちに量り返されます。

 

 私たちは今朝も主の祈りを祈りました。主の祈りの中に、文語訳では「われらに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とあります。新改訳では「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも私たちに負い目のある人たちをゆるしました。」とあります。文語で「ごとく」と訳されたことばは、ギリシャ語でホースというのですが、「比例して」という意味のことばです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦すのと比例して、私たちの負い目を赦してください。」と私たちは祈るのです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦さないのに比例して、私たちの負い目を赦さないでください。」と祈っているのです。

 これはクリスチャンに対する永遠のさばきに関することではありません。永遠のさばきについていうならば、神様はイエス・キリストにあって、私たちを絶対的にゆるしてくださいました。ここで言っているのは、神の神の民クリスチャンに対するお取り扱いについていっているのです。クリスチャンは誰かを赦さないでいるとしても、神様はその他人を直ちにクリスチャンではない地獄行きだなどとはおっしゃいません。キリストの十字架のゆえに、そのクリスチャンの罪は赦されたのです。しかし、だからと言って誰かのことを「私は決して赦さない」という心でい続けるならば、その人は自分が神から赦されたという喜びと平安を失ってしまいます。神様は、自分が罪ゆるされたことがどれほど大きな神の愛と犠牲によるのかを教えるために、その不寛容なクリスチャンを厳格に取り扱われるのです。

 お父さんと二人の息子がいたとします。ある日、兄息子が父親が大事にしていたものを壊してしまいましたが、『ごめんなさい、お父さん』というので赦してやりました。ところが、弟が兄の大事にしていたものを壊してしまいました。すると兄は弟がどんなに謝っても赦してやりません。そこで、父親は「お前がお父さんの大事なものを壊したとき赦してやったではないか。そんなことなら、お父さんはお前のことを赦さない。」と言うでしょう。その父親は長男にゆるしを学ばせるために、一時的に長男を懲らしめるのです。

そのように、もしあなたが兄弟を赦さないでいると、神様は、あなたから神様に赦されたという平安を奪ってしまいす。ですから、私たちにとって大切なことは兄弟姉妹に対して、あわれみ深くあることです。

ヤコブ2章3節

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

 

結び 

 パウロは、愛の章である第一コリント書13章で、愛について教えるにあたって、まず「愛は寛容であり・・・」と語っています。神様が、私たちを赦してくださったように赦すものでありましょう。また、神様が私たちに気前よく測ってくださるように、兄弟姉妹に気前よく測るものとなりましょう。