水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 幕屋に主の栄光

Ex.40:32-38  ヨハネ1:1-2、14-18

 

32**,会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。**

33**,また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。**

34**,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。**

35**,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。**

1 影

 

 紀元前15世紀、イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷としての苦しみを経験していました。そこで神様はモーセという人物を召して、イスラエルの民の救出のために派遣されるのです。モーセは当時80歳。かたくなで残酷なエジプトの王ファラオとの長い交渉の末、神様の十の災害に、かたくななパウロも折れて、ついにイスラエルの民は解放されたのです。

 神様は、ご自分が解放したイスラエルの民のうちに住まわれます。幕屋つまりテント式神殿とは神の住まいです。もちろん天地万物の主が、小さな幕屋に住むというのは畏れ多いというか、不思議というか、奇妙なことですが、神様は神の民にご自分の臨在を示すために、あえて地上に幕屋をつくりそこに臨在を表されることになさったのです。

 私たちがここ苫小牧福音教会の会堂で礼拝するときにも、主なる神の御臨在が事実ここにあるのです。主イエスは「二人でも三人でも私の名において集まるところにはわたしもその中にいる」(マタイ18:20)とおっしゃいました。

  出エジプト記は二部構成になっており、第一部は1章から18章で、内容はエジプトの縄目からの解放をテーマとし、第二部19章以降は神とともに生きる生活の基準としての律法と、神の住まいである幕屋の建設という内容になります。つまり、ここは大事な点ですが、まことの神様のくださる救いとはまず罪の縄目からの解放であり、つぎに神とともに生きる生活であります。新約時代のことばでいえば、義認と聖化といえばよいでしょうか。

 そして、お読みした個所はこの第二部の最後、幕屋が完成した場面です(33節)。

33**,また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。

そして、幕屋(ミシュカン、LXXスケーネー) が完成すると、雲が会見の天幕をおおいました。この雲は神様の臨在が出現するときに現れる栄光(カボード、LXXドクセース)の雲です。神様のあまりにも著しい臨在のために、モーセその人さえも会見の天幕にはいることができなかったのです。34,35節

34**,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。**

35**,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

  

2 本体――キリストの受肉

 

 さて、「旧約は新約の影、新約は旧約の本体」とへブル人への手紙にあります。旧約は新約のある事柄を指差しているモデル、予表です。

 この紀元前1400年における出エジプトにおける幕屋の出来事は、それ自体驚くべきことですが、実は、それから1400年後に起こる、さらに驚くべき出来事を指差していました。それは主イエスの御降誕です。ヨハネ福音書1章1-2、14.

1**,初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。**

2**,この方は、初めに神とともにおられた。**

 

14**,ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。**

  「ことば」と呼ばれる神は、永遠からいますお方であり、万物の造り主であります。そのお方が、人となって私たちの間に住まわれたのです。注目すべきことに、ここで「住まわれた」と翻訳されていることばは、スケノオーといいまして、幕屋スケネーの動詞の形をしています。つまり、「ことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた」ということなのです。記者ヨハネはあきらかに、出エジプト記の末尾の幕屋完成の記事を意識して、この箇所を書いています。1400年前、神がモーセに命じて造らせたあの幕屋に、神の栄光が現れた、あの出来事は、永遠のことばなるお方が人として地上に幕屋を張ったことを予告していたのだ、とヨハネは言いたいのです。モーセの見た栄光は、ヨハネが見ている栄光を指さすものでした。

 万物の創造主が、地球のイスラエル民族のうちに幕屋を張らせて、そこに臨在を表されたというだけでも畏れ多いことなのに、なんとイエス・キリストにあって万物の創造主は人となって地上に下られたのでした。そして、神の民うちに幕屋を張られたのです。

 

3 受肉の意味

 

 永遠にいます偉大な神のことばがどうして、わざわざこの地上に来られたのでしょう。

 昔読んだデンマークキルケゴールという人のたとえを思い出しました。正確には覚えていませんが次のような話です。「あるところに王がいた。この王は一人の庶民の娘を愛するようになった」とキルケゴールは、神が人となられたという奇跡の中の奇跡の理解を求めて語ります。王は一人の町の娘を愛するようになりました。けれども、王は考えました。「わたしが王として彼女に、愛を告白したとしても、彼女はただ、わたしが王であるから、ただ恐れて、『はい』と受け入れるだけのことだろう。それでは真実の愛は育つまい。そこで、王は王としての身分を隠し、一人の青年としての姿をとり、この娘に求婚し、愛を育てていくという話です。

 そのように神様は私たちとの間にある創造主と被造物、無限者と有限者という隔てを乗り越えて愛を注ぎ、私たち人間と愛の交わりをするために、この世に人として幕屋を張られたのです。

 旧約の時代に、神がアブラハムの子孫イスラエルの民に幕屋をもって、臨在をあらわされたことは大いなる恵みでした。けれども、新約の時代、永遠の神の御子が、人となって私たちのうちに住んでくださったことは、さらに大きな恵みでした。

16**,私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

17**,律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 

 私たちは、御子イエスの愛のご生涯を福音書に見るとき、そのお言葉、そのご人格を通して、神は、こういう愛のお方であったのだと、如実に知ることができるようになったのです。

18**,いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 生きることには悩みや悲しみや苦しみがともなうものです。もし神様がはるかなきよい天におられるだけで、私たち地上に悩むものを見下げていらっしゃるとすれば、私たちの祈りは聞かれないでしょう。けれども、イエス様は神であられながら、貧しい大工の家庭に生まれ、貧しきうれいも、生きる悩みもすべて私たちと同じように経験してくださったのです。ですから、私たちがどんな祈りをすることをも喜んで耳を傾けて聞いてくださるのです。

 これがモーセが幕屋を神様のご命令にしたがって建設したとき、神の栄光の雲があらわれたという事件が指差していた本体です。あの予言的出来事は、イエス・キリストにあって成就したのです。私たちは、恵みの上に恵みを注がれた時代に生きている神の民として、神と御子のご愛に応えて、神を愛して生きるものとなりたいと思います。