水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

結婚の尊さ

マタイ5章27-―32節 創世記2章18-24節 27**,

『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

28**,しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。**

29**,もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。**

30**,もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。**

31**,また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。**

32**,しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

 

 

  私たちの遣わされた日本社会では、性道徳が崩壊しています。最近3人の子どもをもつ男優の不倫事件について報じられ大騒ぎです。奥さんと子どもを傷つけ、本人は芸能界を干され6億円の賠償金を出演CMのスポンサーから求められるとのことです。さらに腐り果てているのは政府官界です。官房長官の腹心である補佐官は京都に公務で出かける際、浮気相手の女性官僚を連れて行ったことが指摘されましたが、何ら処分されませんでした。芸能界や政界など目立つ人々の不道徳は、多くの人の知るところですから、社会全体を不道徳で汚すことになります。

 残念ながらこの世は、性的不道徳で汚れています。イエス様は、この世の中に、私たちを派遣して、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」とおっしゃいます。そしていかに生きていくのかを教えてくださいました。特に、パリサイ人、律法学者たちのいう表面的な正しさに勝る、真の正しさが求められているのだということで、主イエスは6つの律法の理解を取り上げられました。今回は、二つ目「姦淫してはならない」三つ目「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」についてのお話です。

 両者に共通していることは、ともに結婚に関する戒めであるという点です。結婚という制度が、神の前では尊いものであるということを前提として、これを壊してしまう姦淫という罪と離婚の問題が取り上げられています。ですから、あらかじめ結婚という制度がどのような意味で神の前に尊いものであるかということを振り返ってから、二つの律法についてお話するのが適切でしょう。

 

1 結婚の尊さ

 

(1)神が定めたゆえに

 結婚そしてそこから始まる家庭は、人間が自分たちの都合で考え出したものではありません。結婚という制度をお定めになったのは、人間をお造りになった神なのです。

創世記2章18-24節

18**,また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」**

19**,神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。**

20**,人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。**

21**,神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。**

22**,神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。**

23**,人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」**

24**,それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

 

 

 神様が、人間が堕落する前に定めてくださった制度は三つあって、それは安息日、仕事、そして結婚(家庭)です。神様を安息日に礼拝し、仕事をし、家庭を営むということは、人間にとって最も基本的で大事なことなのです。結婚というものが、人間が自分の都合のために適当に決めた制度であるならば、適当にこれをやめてしまっても大した問題ではないでしょうが、結婚は人間が決めたことでなく神が定めた尊い制度です。

 

 

(2)結婚の三つの目的

 聖書によれば、結婚の定めの目的は三つあります。

第一の目的、もっとも大事な目的は、夫婦の愛の交わりを通して、キリストと教会の愛の交わりを予表することです。創世記1章27節に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあるように、父子聖霊の三位一体の愛の交わりの神様は、人間をご自分の似姿として造ってくださいました。ですから、神に似たものとして造られた夫婦もまた、愛の交わりをするように造られているのです。特に、聖書の中でキリストと教会の関係は花婿と花嫁になぞらえられているように、夫婦はその結婚生活・家庭建設をもって、終わりの日のキリストと教会のうるわしい交わりを予表する務めがあります。その夫婦を見た人々が、キリストと教会のまじわりはこのようなものなのだなあと感じるような、そういう夫婦であることが求められているわけです。それは、夫は妻をキリストが教会を愛されたように愛し、妻はキリストに従うように夫にしたがうことです。

 

結婚の第二の目的は、神様が最初の夫婦を「産めよ。ふえよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記2:28)と祝福して言われているように、子孫を繁栄させて、神様の被造物を治め、文化を形成させる目的を果たすことです。地を治めて文化を形成することを文化命令といいますが、一人ではこの広い地球の上では成し遂げることができません。神さまは人間の子孫が増え広がらせて、文化命令の遂行することを計画なさったのです。

 

 しかし人間が堕落してしまったので、結婚にはもう一つ、第三の目的が加わりました。それは、「不品行を防止するためです。」とパウロがコリント人への手紙の中に記している通りです。第一コリント7章9節「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」

 

 

2 姦淫してはならない

 

(1)不品行と姦淫

 このように、結婚という制度は神の尊い定めであるので、これを破壊してしまう姦淫という罪はとても重大な罪なのです。聖書においては不品行(ポルネイア)と姦淫という罪を区別しています。不品行という罪は未婚の男女がみだらな関係を持つことであって、それはもちろん罪ではありますが、死刑にはあたりませんでした。若い男女が結婚する前に性的関係をもってしまった場合には、必ず賠償をして、そして、結婚をしなさいと旧約の律法には定められています。罪ではありますが死刑ではなかったのです。

しかし、姦淫の罪を犯してしまった場合には、その男女は死刑と定められていました。姦淫は配偶者を持っている人が、配偶者を裏切って、他の異性と性交渉を持つことを意味しています。ですから、姦淫は夫婦関係を破壊し、家庭を破壊してしまう点で、不品行よりも大きな罪なのです。結婚・家庭というものは、神が創造の時につくられた尊い定めですから、これを破壊する罪は死刑にあたる重罪であるとされたのです。

なぜそれほど結婚は尊いとされたのでしょうか。それは結婚は、花婿キリストと花嫁教会のうるわしいきよい愛の交わりを予表するものであるからです。ですから、既婚者が配偶者を裏切って他の異性と性交渉を持つ姦淫は、聖書の中で偶像崇拝の譬えとして用いられています。姦淫は、花婿キリストと花嫁である教会とのきよい愛の交わりを汚す重大な罪なのです。

 

(2)情欲

 さて、イエス様が姦淫という罪についておっしゃることばには、特別に独身の賜物の与えられた男性でないかぎり恐れおののくと思います。

27**,『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

28**,しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。**

 パリサイ人、律法学者は具体的に外に現われた行動にならないかぎりは姦淫を犯したことにはならないと教えていました。今日でも、人間の間の裁判ではそういうことです。心の中において犯した罪に関しては、人間はさばくことはできませんし、人間がさばいてもいけません。イエス様は、この言葉によって、「あなたがたは、罪は人間に対して犯すことだと思っているようだが、そうではない。あなたが罪を犯すときには、聖なる神の御前で犯しているのだ。」とおっしゃっているのです。神は霊ですから、私たちの心の中の動き、私たちの心の中のけがれをご覧になっているのです。私たちは神を恐れなければなりません。

 この心の中の姦淫の罪に対処する方法について、イエス様は次のようにおっしゃいます。

29**,もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。**

30**,もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

 

これはいわゆる誇張法であって、ありのままに受け取るべきことばではありません。あなたがもし実際に、もし右目が罪を犯したので右目をえぐり取ってしまっても、いや両目をえぐり取ってしまっても、なお罪を犯してしまう自分を見出すことでしょう。では、この誇張法をもって、イエス様は何を教えようとされるのでしょうか。それは、この姦淫の罪については、もし誘惑を内側に少しでも感じたならば、決然とその人、その場を離れる態度を取るべきであるということです。誘惑に直面し、誘惑と戦おうとするのではなく、誘惑から離れることです。ヤコブの息子ヨセフが、エジプトの高官の妻から誘惑されたとき、彼は「どうしてご主人に対し、神に対して罪を犯すことができましょう。」と言い放って、その場を立ち去りました。

私が青年時代から指導されたのは、<個室、車の中など、異性と二人きりにならないようにしなさい。やむを得ない状況の場合は、ドアを開けて話すとか、その状況について妻に伝えておきなさい。あるいは車の場合は、隣の席には配偶者以外は座らせず、後部座席にすわってもらうといった配慮をすることです。うちでは妻と娘以外、隣席にすわる女性はロダだけです。

 

 

3 離婚問題

 

 次に結婚を破壊する離婚について、イエス様は次のように教えました。 

31**,また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。**

32**,しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

 『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』ということばは、当時の律法学者たちの、旧約聖書申命記24章1節「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ云々・・・」を、男の都合中心に読み誤った教えです。このような教えがなされていたので、当時のユダヤの男たちは一般に、「自分の妻が気に入らなかったら、離縁状さえ渡せば、離縁する権利がある」と思っていたようです。 主イエスの弟子たちも、イエス様の教えが離婚を非常に厳格に禁じることだったので、「結婚に関して男の権利がそんなものなら、結婚しない方がましですよ」と言い放ったことが福音書の他の箇所に記録されています。つまり、ユダヤ社会は戦前の日本のように、男尊女卑の傾向の強い社会で、夫の権利だけが強く、妻の権利はほとんど顧みられないという状況でした。そこで、旧約時代、モーセはそれでは男の身勝手であるということで、せめて離縁状だけは渡すようにという、女性を保護するための手続きを命じたのでした。

 そして「もし夫が、妻に恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり・・・」ということばの「恥ずべきこと」とは何を意味するのかについて、例えば料理が下手だとか、病弱だとか、掃除が下手だとか、しわが寄って来たとか、なんでもいいから、夫からみて「恥ずべきところ」があったら、任意に追い出すことができるということだと解釈する有名な学者もいたのです。女性は、たいへん立場が弱かったのです。

 けれども、イエス様は、そうではなく、神が二人を結ばれたのだから、離縁をしてはいけないと教えたのです。結婚は、キリストと神の民を交わりを予表し、文化命令を遂行するために子どもを産み育てるための聖なる定めです。これを壊してしまう離婚を禁止したのです。

 だた、例外として「恥ずべき理由」があるとすれば、それは「淫らな行い」だけだとおっしゃったのです。つまり、姦淫の罪を犯した場合は、例外として離婚が許容されるのだとおっしゃったのです。 姦淫という罪は、一つ目の戒めに戻りますが、このように聖なる結婚をも破壊しうる恐るべき罪なのです。なぜなら、それは配偶者を裏切ることを意味しており、神が建てた家庭を破壊してしまう行為であり、そして、終末におけるキリストと花嫁の麗しい交わりをもはやその夫婦が予表することが出来なくしてしまう行為であるからです。

 

結び

 「あなたがたは地の塩です」「世の光です」と主イエスは私たちをこの世に派遣してくださいました。この世界は、何が正しく清いことであるのかということも分らなくなっています。ますます、そのようになっていくことでしょう。そうした何が正しいかわからなくなった時代であるからこそ、キリストを信じる者たちのきよい生き方が必要であり、神様に期待されています。神が建てた結婚、そして家庭という制度を、神の前に尊ぶ生き方をしてまいりたいと思います。