水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ことばの真実

マタイ福音書5章33節から42節

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

34**,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

35**,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

36**,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。

37**,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 

 

 イエス様は、イエス様の弟子の生き方は、当時のユダヤ社会の宗教的道徳的指導者であったパリサイ人や律法学者の正しさに勝っていなければならないと言われて、その実例を順にあげて来られました。

 パリサイ人、律法学者たちは「殺してはならない。」と教えて、刺し殺したり撃ち殺したりする具体的な殺人を禁じました。けれども、主イエスの弟子は、人に殺意を抱き、馬鹿者と怒りを爆発させて暴言を吐いたたなら、神の前にそれは言葉による殺人であり、それはすでに神の前に人殺しをしたことになることをわきまえて、悔い改め、仲直りすべきです。

 また、「姦淫をしてはならない」とパリサイ人、律法学者は教えました。しかし、イエスの弟子は情欲をもって人妻を見るならば、神の前ではすでに姦淫を犯したのだということをわきまえなさい、ということでした。つまり、霊である神様は私たちの心の中までご覧になっているのだから、うわべでなく心を神様にきよくしていただかねばならないというのです。

 パリサイ人、律法学者の義というのは、外側に現れた行ないにおいて、律法の文言と辻褄があっていればよいという教えだけれど、イエス様は、神様はあなたの心の中をご覧になっているのだとおっしゃるのです。人殺し、盗み、姦淫、不品行などさまざまな罪は、人の心の内側から湧き上がって出てくるものですから、その心の一番深いところをきよくしないかぎりは、行いが清くなることはありません。

 本日の箇所は、その心の中から出てくる、私たちのことばの問題、誓いについてイエス様はお話になります。

 

 

1 「誓ってはならない」

 

(1)当時のユダヤ社会での「誓い」の軽々しさ

さて、主イエスは「誓ってはならない」と言われました。

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』という教えはは、当然のことでしょう。たとえば、私たちは結婚式において、「浮気をしないで誠実に夫として妻としての務めを果たします」と誓約をします。また、学校に入学するときには「真面目に学業にはげみます」と誓約書を出します。あるいは借家に住もうとするときには、「家賃をちゃんと納めます」と誓約書を求められます。あるいは教会でも、洗礼や転入会によって教会に入会するにあたっては、「聖霊様の助けによって、教会の純潔と一致と平和のために祈り、主日礼拝をささげることをはじめとして、誠実に教会員としての義務を果たします」と誓約します。偽って誓ってはならない。誓ったことを主に果たすことは大事なことです。

 

けれども、イエス様はあえておっしゃいました。「34,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」

なぜ、主イエスはこんな極端とも思えることを教えられたのでしょう。主イエスのことばを正しく理解するためには、当時のユダヤの人々が日常生活の中での軽々しい誓いの習慣と、それをある意味助けてしまっていたパリサイ人、律法学者の教えについて知らないといけません。次のことばの二重括弧内は、当時のパリサイ人、律法学者が教えていたことです。マタイ23章16ー22節。

16,わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

17,愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。

18,また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

19,目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。

20,祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。

21,また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。

22,天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

 

当時のユダヤの人々は日常会話の中で「何々にかけて誓う」と軽々しく話していました。あまりにも軽々しく、そういうことば遣いがなされていたので、パリサイ人、律法学者たちは、良くない習慣だと考えましたが、みんな有罪と断じるのもなんだなあと考えたのでしょう。「何にかけるか」によって、誓いを果たさなければならない場合と、誓いを果たす義務がない場合とを区別したのです。その教えにしたがって、人々は「神殿にかけて」「祭壇にかけて」守るつもりもない約束をしていたということです。しかし、イエス様は、天であれ地であれエルサレムであれ、自分の頭であれ、神殿であれ、神殿の黄金であれ、祭壇であれ、祭壇のささげものであれ、何にかけて誓ったとしても、それはすべて神の前に誓ったことであるとおっしゃるのです。守るべき約束と守らないでもよい約束はなく、すべての約束は果たさねばならないのだ、守るつもりがないならば、最初から誓うなとおっしゃっているのです。要するに、「あなたがたが口から出す誓約、約束のことばは、すべて神の前になした約束なのだと。破ってよい誓いなどない」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、ことばの真実のたいせつさを訴えていらっしゃるのです。

 

(2)正当な誓い

 では、新約聖書は一切の誓約行為を禁止しているのでしょうか。学校に入るとき、教会んになるとき、結婚をするとき、家を借りる時など私たちは大切なことがらについて、誓約書を求められますが、キリスト者はこれらに一切応じてはならないということでしょうか。そのように、解釈し、社会的不利益をあえて受け入れたキリスト者たちもいました。み言葉に対して誠実でありたいという気持ちは立派だと思います。

 けれども、主イエスが教えようとなさったのは、全面的な誓約の禁止ではないようです。新約聖書の手紙の中で、使徒パウロは、神様を証人として、誓いをしています。たとえば

2コリント1:23「私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」

 こうしたところを見ると、イエス様がおっしゃる「誓ってはならない」ということは、当時のあまりにも軽々しい誓いに対することば遣いを戒めたものと判断するのが、穏当であろうと思います。「言葉の真実」がどんなに大事なことなのかということを、徹底的に教えようとされる強調表現であると理解すべきだということになるでしょう。私たちが日常生活の中で、奥さんを相手に、子供を相手に、友達を相手にする、どんな約束も、破ってよい約束などない。すべての約束は神の前の約束なのです。だから軽々しく誓ってはならない。キリスト者としては、心の中の表れとしてのことばと、その行いが一つになるように生きるべきです。ことばを軽んじてはなりません。

 

2 ウソについて

 

(1)ウソの父は悪魔である

 ところで、イエス様が、語ることばに真実に生きることが重要であると教えられた理由の一つは、ことばの不真実、つまり、嘘というものが悪魔から出たものであるからです。嘘を言うとき、人はすでに悪魔の罠に陥っているのです。ヨハネ福音書8章44節で、主イエスはおっしゃいました。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 ウソは悪魔から出ているのです。神様が人間夫婦を造られたとき、善悪の知識の木を園の中央に生えさせました。「園にあるほかのすべての木からはとって食べることは自由だけれど、この木からだけは食べてはいけない。食べたら、かならず死ぬ」と神はおっしゃいました。死とは神と分離してしまうことです。一本の木だけが留保された意図は、人間は、神様の主権の下で、おのれの分をわきまえつつ、この世界のすべてのよきものを享受しながら、幸福になることを望まれたのです。

 ところが悪魔がやってきて、人間にささやきました。悪魔は、「神はケチなのだ。実は、人間に幸せになってほしくないと思っている。」という嘘を吹き込みました。神は良いお方ではないという嘘を吹き込みました。私たちの最初の先祖は、与えられた自由意思を悪用して、神の戒めにそむいて、罪と死と悲惨の中に陥ってしまいました。その罪と死と悲惨は、今日に及んでいます。悪魔のウソのわなにまんまとかかってしまった結果です。

 

 人間は、神のかたちにおいて造られたので、人間の心の中には善悪の判断基準である良心があります。ですから、何か嘘をつくと、良心の痛みを感じ、ドキドキしたりするものです。けれども、悪魔はちがいます。「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」と主イエスがおっしゃったように、悪魔は根っからの嘘つきなので、うそをついてもなんの良心の呵責も感じないで、まるで息でもするように嘘ばかり言うのです。また悪魔は今日でも私たちの内側に、神の真実な愛を疑わせようとします。苦難のただなかにある時、悪魔は目には見えませんが、あなたの耳元で「神は、本当は悪意に満ちているんじゃないか。あなたのことを愛してなんかいないのではないか?」とささやきます。

 また、イエス様は「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天に蓄えなさい。」とおっしゃいましたが、悪魔は「イエスの言うのは嘘だよ。結局、カネが一番大事なんだよ。地上に富をたくわえることが、幸福の秘訣だよ。」とささやきます。多くの人は、悪魔の誘惑に乗せられて、お金が人生で一番大事なものであるかのように思い込み、神様に背を向け真実も愛も犠牲にして、永遠の滅びに向かって歩んでいます。

 

(2)ウソの招く結果

嘘は嘘を呼ぶ

 一つ嘘をつくと、その嘘をごまかすために、さらに嘘を言わねばならなくなり、そのまた嘘をごまかすためにさらに嘘を言わねばならなくなります。もし、唇が嘘をついてしまったら、恥ずかしいことですが、すぐに「ごめんなさい。今、口にしたことは嘘です。ゆるしてください。」とストップしなければなりません。ストップしないと、嘘を嘘で上塗りし続けて、あなたの人生は一から十までウソまみれということになります。そして、そのうち、誰からも信用されず、軽蔑されるようになります。

 

②嘘は現実を見えなくさせてしまう

 嘘の恐ろしさの第二は、嘘をついていると、だまされた人ばかりか、本人までも、現実が見えなくなることです。現実が見えないので、現実に即した正しい判断と行動ができなくなってしまいます。覚せい剤の入った瓶に、「これを飲むと元気になります。」と嘘が書かれていたならば、飲んですぐは「ああ、元気になった」と感じて、それを続けているうち、その人は中毒になって、人生は破滅でしょう。

 国の経済に関していえば、国の経済指標が、ここ20年悪化しているということを示しているのに、都合の悪い数字はひたすら隠して、都合の良い数字だけ並べて、「我々の素晴らしい経済政策によって景気は良い方向に向かっています」と政府が大本営発表ばかりしていると、現実を認めないので政策を転換すべきタイミングを失い、その国の経済は転落して、ついには取り返しがつかなくなるでしょう。ウソはストップしないと、取り返しがつかなくなるのです。

 

③嘘は周囲を悲惨に巻き込む

 本人だけが嘘をついている分には、本人が信用を失うだけですみますが、その人が権力を持つ立場にあると、周囲の人々までも、その嘘に付き合わされることになってしまいます。私たちは、権力者のウソを糊塗するために、一人のまじめな大阪の公務員が公文書の改ざんを命じられて、良心の呵責から自らのいのちを断つということになったことを知っています。今も、官僚たちが、職を失わないために、権力のウソに付き合わされて、国民が見ている前で、悲惨な答弁をさせられています。

 私たちの国は、70年前うその支払う代価がいかに悲惨なものかということを経験したはずです。当時、「退却」を「転進」と言い換え、「全滅」を「玉砕」と言い換える「大本営発表」によって欺かれた国民は、旅ネズミの暴走のように破滅へ突き進んだのです。先の戦争で失われた生命は、わが国で300万人、アジアで2000万人でした。

 しかし、現代の歴史修正主義者は、こうした過去の事実をも否定するので、歴史から何の教訓もえられません。

 

④嘘つきの最後はゲヘナである

 そして、すべて偽りをいう者は、神様の前で最終的にはどうなるでしょうか。このように書かれています。「すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」ヨハネ黙示録21章6-8節

 

結論 「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」
 イエス様は、当時のユダヤ社会の中で、人々がことばの真実を失い、誓いという人生における重要なことがらに関して、ペラペラといい加減なことばの使い方をしているので、心を痛められました。それで、「誓ってはならない」とおっしゃったのです。そして、言われます。

37,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 「はい」を「いいえ」と言い、「いいえ」を「はい」と言い張ることを嘘といいます。あったことをなかったことのように主張し、なかったことをあったことのようにいう「歴史修正主義」は、主イエスの道から外れた道です。

 私たち、イエス様の弟子として召された者は、「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」として生きてゆきたいと思います。

 まして軽々しく誓うことは避けましょう。人生の途上、たいせつな場面で誓約が必要なことがありましょう。その場合には、その誓約を誠実に守ることができるように、神様に祈りながら誓うことが必要です。


 今日の主イエスの教えを味わいながら思い起こしたのは、三浦綾子さんの『道ありき』の中での前川正さんのことばです。前川さんは、結核になり入院している綾子さんをたびたびお見舞いに来ました。前川さんは、帰り際に、「綾ちゃん、明日も来ます。あ、でも約束ではありませんよ。明日何が起こって来られなくなるかもしれませんから。」とおっしゃったということです。でも、前川さんは必ず来たそうです。

 自分はことばが軽いなあと改めて反省します。主イエスが教えられたように、ことばの真実に生きたいと思うものです。