水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

人の知恵、神の知恵

1コリント2:1-9

 

 

1.パウロの宣教

 

「2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。」

パウロはご存知のようにガマリエル門下の俊才で学識のある人でしたが、彼はコリント宣教に当ってはそうした知識を用いませんでした。かえって、「 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」

 コリント教会の場合、ギリシャ哲学の文化的背景があるだけに、いろいろと理論的・哲学的な言い回しで教えようとすれば、話が通じそうでした。しかし、実際には逆にキリストの福音がある種の哲学思想のひとつであると誤解されてしまう可能性が高かったからであろうと思われます。コリントを訪ねる前に、使徒17章でパウロは哲学の都アテネで、いささか哲学的な言い回しも用いて伝道して、あまり成果があげられなかったという苦い経験をしたからではないかと推測する説には説得力があります。

 パウロギリシャの知識人が喜びそうな気の利いた哲学のことばでなく、つい先ごろエルサレムで起こったイエスの十字架刑という事実とその意義をはっきりと単純に語ることにしたのです。

 「2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」というのは、パウロは手紙は力強いのですが、風采がさえませんでしたし、雄弁な人ではなかったようです(2コリント10:10)。しかし、そういうさえない説教者でありましたが、彼が語る十字架のことばによって、コリントの人々は目が開かれ、聖霊に導かれてイエスを主キリストであると信じたのです。

 「2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。 2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」

 パウロが雄弁であったり、哲学者もうならせるような思弁を用いたならば、世の人はパウロの説得力や学識によってコリントの人々が救いに導かれたのだと思うでしょうが、実際にはパウロは雄弁でもなく、哲学的思弁をもちいなかったので、ただ神の力、御霊の力によって人々が回心したのだということがあかしされるのです。

 こうしたことは往々にしてあることです。ラジオ牧師羽鳥明先生の弟羽鳥純二先生の改心は、まさにそうでした。羽鳥純二先生は当時共産党赤旗」の記者、東京大学を出た理論家でしたが、共産党内の醜いどこにでもある権力闘争に失望して党をやめてお兄さんの家にひきこもっていました。ある時、伝道会があって青森から招いた伝道者がエス様の単純な十字架の福音を東北弁でお話したそうです。そして純二先生は悔い改めて救われました。

 

2.神の知恵

では、パウロは幼稚な宣教をするというのでしょうか。いいえ。そうではなく、成熟したキリスト者の間では神の知恵を語ります。「2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」

 神の知恵とは、聖なる神の御子の十字架の死と復活によって、罪人が贖われて救われるという知恵です。その知恵は、「この世の支配者たち」にはわからないことでした。「この世の支配者たち」というのは、ユダヤの祭司長・長老たちであり、彼らがイエスを引き渡したローマ総督ピラトです。彼らは、イエスを処刑することが人類の救いの道を開くことになろうとはつゆ知らなかったのです。神に敵対するこの世の権力者たちの背後には、悪魔を頂点とする悪しき諸霊の階級をさしているという思想も聖書には見られます。

もしサタンどもが、イエスを殺すことが人類を救うことだと知っていたならば、人間どもを動かして、イエスを十字架に磔にすることはなかったでしょう。「2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

 イエス・キリストの十字架による罪の贖い、罪の赦しと救い、永遠の生命というのは、人間も、人間に何倍にもまさるサタンにも思いつかないことだったのです。

 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

   「目が見たことのないもの、

   耳が聞いたことのないもの、

   そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。

   神を愛する者のために、

   神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 それは、人間の説得力や学識でなく、聖霊のみわざでした。それゆえ、神のご栄光があらわされたのです。

 

結び 私たちは、「十字架と復活の福音なんて、あの人はだめでしょう。」と傲慢にも勝手な判断をして、人に福音を語ることを躊躇することはないでしょうか?不信仰です。主の御霊に信頼して、十字架のことばを宣べ伝えてまいりましょう。