水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

終着駅に着く前に

2020年1月26日苫小牧主日礼拝

21**,昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。**

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、**

24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。**

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。**

26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。(マタイ5:21-26)

 序

 イエス様が来られた1世紀のイスラエルの国は、旧約聖書の律法にもとづく神政政治を行なっていました。そうしたユダヤ社会でしたから、社会の指導者たちは律法にかんする知識をもっている人々で、律法学者たちは尊敬される務めを果たしている人々だったのです。パリサイ人というのは、そうした律法の解釈の一つの学派で、モーセの律法を厳格に守るべきであると考える人々で、伝統主義者でした。彼らは、民の中に位置していて、民の中にあって道徳的宗教的に指導をしていました。

 

1 イエス様の権威  「しかし、わたしはあなたがたに言います。

 

21、22a 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」

 ここで「殺してはならない」というのはモーセ十戒の第六番目の戒めです。モーセ十戒とは、モーセが考え出したことではなく、紀元前1400年頃、神様がモーセを通して、神の民に与えた人としての生き方です。イスラエル民族は、この神のことばである律法を土台として国家と社会を形成しました。紀元前1000年頃から400年間ほどが王国の時代で、この王国時代にイザヤ、エレミヤ、ホセア、エリヤ、エリシャなど多くの預言者が出現しましたが、預言者たちは律法と別に新しいことを告げたのではありません。旧約時代の預言者たちは、ひたすら悔い改めてモーセの律法に立ち返れと教えたのです。偶像崇拝と不道徳な社会になってしまっている君たちは、悔い改めなければ、神はこの国を滅ぼしてしまうぞ、悔い改めよと言ったのです。預言者たちは律法にまさることを教えようとしたわけではなく、そこに立ち返れと教えたのです。イスラエルの民は、しかし、預言者たちのいうことを聞かず、結局紀元前6世紀にはその国は滅ぼされてしまいました。

 イエス様が来られたころには、イスラエルは一応復興したもののローマ帝国の属国でした。律法学者たちが、旧約聖書の律法を民に教えていたのです。「『殺してはならない』という神の戒めが何を意味しているかというと、大学者のA先生はこのように教え、学者のB先生はこのように教えています。私としてはB先生の言うように解釈するのが正しいと思います。」というふうな教え方をしたようです。

 ところが、イエス様はおっしゃるのです。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」つまり、「A先生の説はこうで、B先生の説はこうで、C先生の説はこうです。わたしはB先生を支持する」というふうに教えるのではなく、イエス様は「わたしはこう教える」とおっしゃるので、弟子たちはびっくりしたのです。マルコ伝には「人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(マルコ1:22)とあります。主イエスは、律法の制定者である神としての権威をもって、山上の説教をなさったのです。しかもイエス様は、神としての権威をもって、福音の時代の神の民の生き方についての戒めを告げたのです。「旧約時代には、あのようにモーセを通して教えておいたが、これからの福音の時代が来たからには、わたしは、これからはこのように教えるからよく聞きなさい」とおっしゃったのです。イエス様は、律法を定め、それを更新する神の権威をお持ちなのです。

 

 2 神は、心と唇のことばを聞いて裁かれる

 

 では、イエス様の教えと、昔の人々の教えとそれを踏襲する律法学者たちの教えはどのように違うのでしょうか。
 22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 律法学者たちは、実際に、行動として実際に人を殺すならば、それは殺人罪に当たるということを教えていました。今日の日本の法律でもそうです。ナイフであれ、けん銃であれ、毒殺であれ、とにかく外に現われた行動によって、人の命を奪って初めて殺人罪という罪が成立して、裁判所で裁判が行われます。パリサイ人、律法学者たちは、「心の中で人のことを憎むこと」「口で人を罵ること」は問題にしませんでした。

 ところが、イエス様は「殺してはならない」という戒めは、実際に人を殺さなくても、まず心の中で人を怒り、憎み、殺意を抱くならば、神の前では殺人を犯したことになるのだとおっしゃるのです。さらに、その唇で人に向かって「能無し」とか「ばか者」というものは、神様の前ではすでに殺人という罪を犯したのです。ここには数十人の殺人者がいるでしょう。神さまの御前に出たとき「私は人殺しなどという大それた罪はおかしていません。」と断言できる人は、この地球上に一人もいないのです。

 神さまは霊ですから、あなたが心の中のつぶやくことばを聞いていらっしゃいますし、私たちが口にする言葉も当然聞いて、記憶にとどめていらっしゃいます。

 なぜ神さまは、私たちが隣人を憎み、殺意を抱くことをこれほどまでにお怒りになるのでしょうか。それは神さまは愛であり、愛である神さまは、本来、私たち人間を憎みあうために造られたのではなく、私たちが互いに赦し合い、愛し合うために造られたからです。愛である父と子と聖霊の神さまは、わたしたちをご自分の似姿、尊い存在としてとして造ってくださいました。それは私たちが地上にあって互いに愛することによって、神さまの栄光を現すためです。ですから、私たちが憎み合うことは、神さまをたいへん悲しませ、そして怒らせることなのです。

 ところが、なんとこの地上には神さまを怒らせ、悲しませることが多いことでしょうか。

神様の目からご覧になると、私たち人間の世界は日常的に親が子を殺し、子が親を殺し、兄が弟を殺し、妹が姉を殺し、近所の人同士も表面的に取り繕いながらも、心の中では殺し合いをしているのです。恐ろしい世界です。そうして、「心の中で人を憎たらしいと思うのは自由だ」とか、「ことばで怒りをぶつけること程度は大した問題ではない」などとうそぶいたりしているわけです。しかし、心の中にあることばが口に出てくるのであり、口で罵ることばは、やがてその人を突き動かして取り返しのつかないことをしでかすことになるのです。

 行動をきよくしたいならば、心の中に呟くことばを清くしなければなりません。そして、行動を正しくしたいならば口にすることばを、正しくしなければなりません。心の中、唇で話すことばが、あなたを動かすことになるのです。言葉は大きな船の舵です。小さな舵が大きな船を右に左に動かすように、あなたが心にあることば、あなたが口でいうことばが、あなたの人生を右に左に動かすのです。

 

.終着駅に着く前に

 

(1)神礼拝と隣人関係

 次に、イエス様は、そんな私たちに、神に礼拝をささげることと、隣人愛との関係は、切っても切れない関係にあるんだよと教えます。礼拝とは、神さまへの愛の表現であり、神さまへのささげ物をするということは、神さまへの愛と献身の表現です。ところが、イエス様は「あなたたちが神さまにささげ物をしようとするとき、だれか身近な者にうらまれていることを思い出すことはないか?」と問われるのです。

マタイ 5:23-24

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 

 このように命令なさったのです。「人に恨まれており、仲たがいしているような状態のまま、ささげ物をしたって、わたしはそんなささげ物は受け取らないよ」と神さまはおっしゃるわけです。なぜでしょうか?・・・神を愛することと、隣人を愛することとは密接不可分であるからです。

第一ヨハネ4章20,21節

「20**,神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21**,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」

  

(2)終着駅に着く前に

 エス様はこのように神さまとの和解と隣人との和解のたいせつさをお教えになり、続いて、私たち一人一人の一生というものは、訴えられて汽車に乗っているようなものであると教えられたのです。汽車が終着駅に到着すると、「終着、聖なる裁判所前!」ということになります。

マタイ 5:25-26

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。

 長野県小海町で伝道していたとき、Sさんというおばあちゃんとの出会いがありました。農家のおばあちゃんで、若いときはたいへん力持ちの働き者だったそうです。でも、とっても、きつい人で、そのお嫁さんのTさん話をうかがうと、「それはたいへんだったですねえ」というほかないほどでした。Tさんは、若い日に聖書を読むようになっていたのですが、洗礼にはいたらないまま結婚をしました。でも結婚してまもなく、「私は教会に行きたい」というと、お姑のさださんに聖書を捨てられてしまったのです。それから30年後、私が小海に開拓伝道にはいって、Tさんは洗礼を受けました。

 その後、私はそのSばあちゃんの住む離れを訪問するようになりました。訪問して話をして、「賛美歌を歌ってあげましょう」というと、「実は、わたしゃ若いときには教会に通っていたことがあるだよ。だから讃美歌を知っているだよ」と、ハーモニカで「いつくしみ深き」とか「主よみもとに」など讃美歌を吹いてくれました。Sさんは隣の群馬県の富岡製紙場に十代に集団就職して働いていたことがあり、その工場の前には教会があって、女工さんたちはみんな日曜日になると教会にいって讃美歌を歌うのを楽しみにしていたのです。そこを出ると東京の文京区のあるお屋敷にお手伝いさんになったら、そのおうちがクリスチャンだったそうです。けれども、嫁いできた家が天台宗の檀家総代の家だったので、そのことは封印して数十年いらしたそうです。そして、

 何度かかよってお話をするうちに、Sばあちゃんは、1月のある日、わたしについてイエス様の名を呼ぶようになられました。「イエス様、わたしを助けてください。」とご自分で祈るようになられました。そういう祈りをされて間もない日の夜、お嫁さんであるTさんにたいせつなときを持たれたそうです。 その夜、Sさんは、お嫁さんのTさんと二人だけのとき、いろいろなことを話されたそうです。そして、「若いときは、きつくあたって悪かったなあ。」とお詫びをされたそうです。Tさんは、「そんなことないよ。ばあちゃんのおかげで、わたしはたくさんのこと教えてもらったから、感謝しているよ。ありがとう。」と応じられたそうです。

 イエス様を受け入れられたとき、聖霊様がSばあちゃんの心のうちに、新しい創造のわざをなさったのでした。聖霊が働かれると、人はかたくなな魂が打ち砕かれて自分の罪を悟り、悔い改めの実をむすぶようにしてくださるのです。平和をつくる神の子どもとしての実を結ぶように新しい創造がなされるのです。実際、Tさんと和解という平和の実をむすぶことができたのです。Sばあちゃんは、洗礼を受け、二か月後に天に召されました。その記念礼拝を前に、孫娘のYさんから手紙をいただきました。

 

水草先生
 祖母の洗礼、祖母と母の言葉少なくも豊かな交わり、安らかな死と、大きな恵み
を下さった神様を誉め讃えます。
 生前何度も訪問していただき、洗礼へ導いて下さったこと、本当にありがとうご
ざいます。母が時々様子を伝えてくれましたが、祖母は水草先生との交わりや賛
美を本当に喜んでいたとのことです。重ねて感謝します。
 18日に記念礼拝を持って下さること、嬉しく思います。
・・・・
 洗礼後の祖母は私や、特に母に会いたがり、・・・母との交わりを喜んでいたようです。昏睡に入る前も、会いたい人の名をただ「T」としか言わなかったそうです。イエス様がよくわからないらしいと聞いていたのですが、あれだけ嫌っていた母をあんなに慕うことに、祖母には本当に聖霊が注がれたのだと思いました。ぶつかったりしながらも祖母に誠実を尽くし続け、親族に辛くあたられても祝福を祈り続ける母の姿は、美しかったです。私は初めて母を心底美しいと思いました。神様はこのような姿を「礼拝」として、「生きたささげもの」として喜んで下さるのではないかと思いました。祖母の件は、母の姿から学ぶという恵みをも私に届けてくれました。
 小海での礼拝が豊かに祝福されるよう、お祈りしています。

                            S.Y」

 

むすび

 私たち一人一人の人生は、聖な法廷に向かって毎日毎日歩いている道行です。「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることがさだまっている」と聖書にある通りです。

 私たちは、聖なる法廷に出るために二つの備えをしなければなりません。それは第一に神さまとの和解です。私たちは生まれながらに、神さまの怒りを受けるべき者たちです。神さまに造られながら、神様を無視して、自分の力で生きられると思い上がって生きています。これが根本的な罪なのです。しかし、イエスさまが和解のために来られ、私たちに代わって十字架でのろいをうけてくださいましたから、主イエス様を信じ受け容れることです。そうすれば、神さまと和解できます。

 聖なる法廷へのよき備えの第二は、隣人と和解をすることです。あなたが人生のなかで隣人の胸につきたてた言葉の刃、隣人に対して抱いた憎しみや怒りには、いろいろな理由や言い訳もあるでしょう。けれども、どんな言い訳をしたとしても、聖霊様が心に住んでおられるなら、あなたの良心に対してささやかれます。「あなたは恨まれているんじゃないのか。あなたは、あの人を傷つけた。あなたは、そのままで神の法廷に出ることができるのか?」と。

そういう御霊の示しがあったならば、へりくだって和解をすることです。私たちは、本来、憎み合い、傷つけあうためにともに暮すようにされているのではなく、互いに愛し合い、助け合うためにこそ生かされているのです。

 さだばあちゃんのクリスチャンとしての地上の生涯は短く、二ヶ月にも満たないものでした。けれども、この短い期間にさださんは、聖なる法廷にでる準備をきちんとして、召されて行かれました。私たちはどうでしょうか。今夜、主が迎えに来られたならば、あなたは聖なる法廷に出るための備えができていますか。