水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

量るように量られる

Mk4.24,25

「4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

 4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

 

 主イエスの「神の国」つま、神のご支配のもとに生きる人生についての教えが続いていきます。今日は、その中で、私たちは他の人を量るように量られるという、神の国の法則ということを学びたいと思います。「量るように量られる」という法則については、聖書の中では二つの意味のひろがりがあります。

第一は、神のご支配の下に生きるクリスチャンの幸いな経済法則として私たちが他の人を「量るように量られる」ということであり、第二は、裁きにかんして私たちは他の人を「量るように量られる」ことについてです。本日はお話しの順序として、まず、神の国の経済法則として「量るように量られる」という法則について、次に、神の国のさばきの原則として「量るように量られる」ことをお話ししましょう。

 

1 神の国の経済原則

 

 神の国の経済原則といえば、旧約レビ記、マラキ書、新約ではマタイ福音書で十分の一は神のものとして十分の九で生活するところに祝福があるとありますが、主イエスは新約時代のクリスチャンには加えてもうひとつの経済原則を教えられました。それが「量るように量られる」です。イエス様がお教えになったのは、マルコ福音書4章24,25節、および、ルカ福音書6章38節です。

ルカ6:38

「6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 イギリスにいた敬虔なクリスチャン、ムーアさんというご夫妻の証を読んだことがあります。ムーアさんたちはお金であれ食べ物であれなにかが手に入ると、それはすべて自分たちに与えられたものではなくて、その一部は神様が誰か自分の周囲の乏しい人に与えるために余分にくださっているものなのだという認識をもって生活をしていました。そして、自分たちの必要はいつでも必要なものは満たされていました。

 ところがある夕食時、ムーアさん夫婦はそのときお金がなくて、食卓についてパンが変えませんでした。夫婦は祈りました。「神様。私たちが施すことをお約束したものでありならが、忘れていたものがあったのでしょうか?教えてください。」こう祈っているうちに、「あ、あれだ!」と思い出して、二人は目を開けてにっこりと笑いました。地下室に、近くの孤児院に寄付するために取り置いていた一缶のバターを持っていくのを忘れていたことに気づいたのです。そこで夫婦はそのバター缶を孤児院に持ってゆきました。夫婦が、よかったね、といいながら帰って来ると、玄関にはちゃんと誰が持ってきてくださったのか、パンが置いてありました。

 そういえば、かつて私も似たような経験をしたことがあります。多くのクリスチャンは、ムーアさんだけでなく、そういう経験をしているのかもしれません。

 神様が私たちクリスチャンに何かをくださるときには、あらかじめ余分をつけてくださるのです。乏しい人に与えて、そこに愛の交わりが実現するために託してくださったのですから、収入があったとき全部自分だけで消費してはいけません。箴言22章2節に「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である。」とあります。 パウロはこんな勧めもしています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」私たちに健康が与えられて仕事ができているのは、神様の恵みです。その恵みを通じて、私たちが仕事をして収入を得るとき、神様は私たちが困っている人たちに施しをするぶんも余分につけていてくださるのです。そして、そこに愛の交わりが生じ、また、神を経験することがあるのです。(ペイフォワード)

 あるとき、東京渋谷にある教団事務所に、月曜日にある委員会にまいりましたら、委員長の石川弘司先生がご自分が遅刻したお詫びとかいって、ご自分が好きなアンパンを買ってきてくださいました。私は「ああ、こずえはアンパンが大好きだがら、もって帰ってやろう。」と私はかばんに入れました。仕事が終わって、翌火曜日午前11時頃、信州の自宅についたら家内がお茶を出してくれました。そこでかばんを開けて、「昨日は石川先生がアンパンを買ってきてくれたんだ。はいお土産。」と言いました。そしてお茶を飲みながら、昨日あったあのこと、このことをお互い報告していたのですが、こずえの目の前で、無意識にそのアンパンを全部たべてしまいました。こずえは目をまん丸にしていました。・・・こいうのはよくない例です。

 神様がなにかくださったとき、余分を付けてくださっているんだということを忘れないで憶えておきましょう。

 

2 神の国のさばきの原則

 

 次に神の国のさばきの原則としての「量るように量り返される」という法則について、です。神様が私たちひとりひとりをさばくにあたっての裁きの物差しについてです。まずマタイ7章1-5節

 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

 7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 イエス様が、私たちをご覧になると、「あなたがたはたいへん不公正な人間だねえ。他の人を量る物差しと、自分を量る物差しが違うではないか」と呆れていらっしゃるのです。人を量る物差しはたいへん厳格であるくせに、自分を量る物差しはやたらと広やかでいい加減ではないか、と。人の目のなかのおが屑が気になって仕方がないくせ、自分の目には大きな丸太棒が入っていても平気で一向気づかないじゃないか、というのです。大体、自分の目に丸太棒が入っていたら目など見えないでしょう。そうだ、あなたがたは自分の欠点、自分の失敗については、やたら寛容なくせに、他人の失敗や欠陥については、やたら情け知らずなのです。

 人のほっぺについているご飯粒はすぐ見えますが、自分のほっぺについているご飯粒には気が付かないでしょう。

 ですから、こうして人を指差すとき、自分のほうを三本の指が指していることを意識しましょう。

 

3 あわれみ深くあること

 

 ルカ6章36-37節

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 神様は私たちと違ってたいへん公正なお方なので、その裁きは公正です。私たちは、えてして他人を量る物差しは厳格で、自分を計る物差しは緩やかですが、神様があなたをさばくときには、あなたが他人を量ったその物差しによって、あなたをも量るのです。だから、自分に対する神様のさばきの基準はいわば自己申告制なのです。私たちは人をさばくときに、神様の前に、私をこの基準でさばいてくださいと申し出ているのです。

もし神様からきびしく取り扱っていただきたいならば、他の人とくに兄弟姉妹に厳しく非難することです。神様はその基準であなたを取り扱ってくださいます。しかし、もし、あなたが神様から寛容に取り扱っていただくことを望むならば、あなたの隣人、特に兄弟姉妹に対して寛容であることです。神様はおっしゃいます。「おまえは、彼をずいぶん厳しく非難しているけれど、その基準で、わたしはあなた自身をも非難するが、あなたはそれで大丈夫なのだな。」とおっしゃるのです。これが神の国におけるさばきの法則です。

 ある書物で読んだ話です。中国のある地域の牧師たちの集いの中で、1人の牧師の息子が不道徳な罪を犯したことをとてもがっかりして報告しました。そして「祈って欲しい」と。そのとき、一人の正義感の強い別の牧師が手厳しく、その牧師を非難しました。

「聖書には、『自分自身の家を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話することができるでしょう。』(1テモテ3:5)と、牧師・長老の資格について教えられています。あなたは自分の息子をちゃんと指導できていないのに、牧師の資格があるのですか?」・・・たしかに正論です。しかし、正論を吐く前に、その同労者がどれほどその件で苦しんでいるかを思いやる憐れみが必要だったでしょう。・・・その後しばらく経って、あの正義感の強い牧師の子どもが甚だしい罪を犯したそうです。・・・彼は他人を量ったように量られたのでした。

 神は公正なお方です。私たちは自分に甘く、他人に辛い物差しを当てますが、神は私たちが他人をさばいたその基準で、私たちに量り返されます。

 

 私たちは今朝も主の祈りを祈りました。主の祈りの中に、文語訳では「われらに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とあります。新改訳では「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも私たちに負い目のある人たちをゆるしました。」とあります。文語で「ごとく」と訳されたことばは、ギリシャ語でホースというのですが、「比例して」という意味のことばです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦すのと比例して、私たちの負い目を赦してください。」と私たちは祈るのです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦さないのに比例して、私たちの負い目を赦さないでください。」と祈っているのです。

 これはクリスチャンに対する永遠のさばきに関することではありません。永遠のさばきについていうならば、神様はイエス・キリストにあって、私たちを絶対的にゆるしてくださいました。ここで言っているのは、神の神の民クリスチャンに対するお取り扱いについていっているのです。クリスチャンは誰かを赦さないでいるとしても、神様はその他人を直ちにクリスチャンではない地獄行きだなどとはおっしゃいません。キリストの十字架のゆえに、そのクリスチャンの罪は赦されたのです。しかし、だからと言って誰かのことを「私は決して赦さない」という心でい続けるならば、その人は自分が神から赦されたという喜びと平安を失ってしまいます。神様は、自分が罪ゆるされたことがどれほど大きな神の愛と犠牲によるのかを教えるために、その不寛容なクリスチャンを厳格に取り扱われるのです。

 お父さんと二人の息子がいたとします。ある日、兄息子が父親が大事にしていたものを壊してしまいましたが、『ごめんなさい、お父さん』というので赦してやりました。ところが、弟が兄の大事にしていたものを壊してしまいました。すると兄は弟がどんなに謝っても赦してやりません。そこで、父親は「お前がお父さんの大事なものを壊したとき赦してやったではないか。そんなことなら、お父さんはお前のことを赦さない。」と言うでしょう。その父親は長男にゆるしを学ばせるために、一時的に長男を懲らしめるのです。

そのように、もしあなたが兄弟を赦さないでいると、神様は、あなたから神様に赦されたという平安を奪ってしまいす。ですから、私たちにとって大切なことは兄弟姉妹に対して、あわれみ深くあることです。

ヤコブ2章3節

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

 

結び 

 パウロは、愛の章である第一コリント書13章で、愛について教えるにあたって、まず「愛は寛容であり・・・」と語っています。神様が、私たちを赦してくださったように赦すものでありましょう。また、神様が私たちに気前よく測ってくださるように、兄弟姉妹に気前よく測るものとなりましょう。