水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

主イエスの家族

マルコ3章20-35節

 

2016年7月24日 苫小牧主日礼拝

3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

 3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

  3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。

 3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

 3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

 3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

 3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

   3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 

 

序 本文の構造・・・挟み込み

 本日お読みした聖書箇所は、少し珍しい書き方がされています。つまり、20節21節でイエス様の家族の者たちが、「兄ちゃんがおかしくなってしまった」と心配して迎えに来たということが語られているのですが、その話はいったん切れて、イエス様と律法学者たちの議論が挟み込まれて、31節で話が再開するのです。イエス様の律法学者との議論を聞いていた人々が、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言ったのでした。

 こういう「挟み込み」の書き方をマルコは時々しています。マルコは何を意図しているかといえば、二つの場面が同時進行していることを、この書き方でもって表わそうとしているのです。全体に共通するテーマとは、「家」ということでしょう。主イエスの肉の家、サタンの家、そして、主イエスの霊の家です。

 そこで、今日は、話をわかりやすくするために、まず、律法学者が論じていた件から、サタンの家の話、次に、聖霊をけがす罪についてお話し、最後に、イエス様の肉の家族と霊の家族についてお話します。

 

1 ベルゼブル(サタン)の家にも秩序あり

 

さて、場所はガリラヤのカペナウムあたりです。身内の人々がイエス様を連れ戻しに来たとき、イエス様のもとには、はるばるエルサレムから偉い律法学者の先生たちが来て、議論を吹っかけているところでした。律法学者たちは、イエスが数多くの人々から悪霊を追い出して、その影響力から解放していることが単なる噂ではなく、事実であるということ自体は認めざるを得ませんでした。イエス様のもとに行って、多くの人々が病気を癒され、悪霊を追い出されたという数多くの証言を確認できましたし、彼らの目の前で、そういう御業が行われていたからです。

エス様のなす数々の奇跡は「しるし」と呼ばれます。「しるし」とはサインのことで、たとえば野球で監督が三本指で頭をかくサインをすると、「次はヒットエンドランだ」とか、「次はスクイズだ」とかというメッセージを受け取るのです。イエス様の周囲に集まった多くの人々は、御子イエスの悪霊追い出しや、いやしというサインによって、「イエスは神が遣わされたお方なのだよ」という聖霊によるメッセージを受け取ったのです。

しかし、この律法学者たちは、なんとしてもイエスが神から遣わされた者であることを認めたくありませんでした。二つの理由がありました。一つは彼らの律法に関する考え方からすれば、イエスは律法をないがしろにしているように見えたからです。とくに安息日の過ごし方が問題でした。ほんとうは、イエス様こそ、安息日にもっともふさわしい愛の実践をされたのですが、彼らの目にはイエス安息日を破っていると見えました。彼らは「安息日律法を破っているような男が、神の力によって悪霊を追い出すことができるはずがない」と考えました。もう一つの理由は、「ねたみ」でした。これまで民衆は律法学者、とくにパリサイ派の律法学者を尊敬し支持していたのですが、今、急速に民衆の尊敬と人気はイエス様に移って行きつつあったからです。嫉妬というのは、真実を見る目をふさいでしまい、聖霊が与えるサインも見させなくしてしまうものなのです。

そこで、彼らはなんとしても「イエスが神から遣わされた方である」という、聖霊の語り掛けを受け入れないために、屁理屈を考えました。それは、<イエスの中には悪霊のかしらであるベルゼブル(サタンの別名)が住んでいるから、その権威でもって下級の悪霊たちを追い出しているのだ>というものでした。そして、この説を民衆に対して吹聴したのです。

 3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

しかし、主イエスは、律法学者たちをそばに呼んで、そんな屁理屈は通用しないと簡単にやっつけてしまいます。

 3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。 3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

 3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。 3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 つまりサタンの家にもちゃんと秩序があって、ボスであるサタンと、手下である悪霊たちとがいさかいを起こしたりなどしてはいないのだというのです。今、イエス様が、「強い人」であるサタンを縛り上げているからこそ、その下級の悪霊どもを追放できているのだとおっしゃるのです。

 

2 聖霊をけがす罪

 

 そして、ことのついでに、『聖霊をけがす罪』という罪について、イエス様は律法学者たちに警告なさいます。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。 3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

「永遠に赦されることがない、聖霊をけがす罪」とは一体どういうことでしょうか。結論からいいます。イエス様によって赦されない罪は一つもなく、イエス様によらないで赦される罪は一つもありません。したがって、永遠に赦されない罪とは、どこまでもイエス様を拒絶することです。

エスの「しるし」を見た律法学者たちの内側には、聖霊が「イエスは神の遣わされたお方だ。イエスを信じよ。」と語りかけられました。それを拒絶して、彼らは心かたくなにして「イエスは悪霊のかしらベルゼブルに取り付かれているのだ」と主張しました。そして悔い改めのチャンスを自らつぶしたのです。彼らは永遠の滅びを選び取りました。

聖霊は人のうちに働いて罪を自覚させ悔い改めを促し、イエスが神の御子であることを示すのです。しかし、もしイエスをあくまでも拒絶するならば、もはや、その人は悔い改めて、イエスを信じることができなくなってしまい、永遠にゆるされません。そういう人は「私は聖霊をけがす罪を犯したのだろうか」ともはや悩むこともありません。ケロリとしたものです。

私たちは聖霊が、「あなたのうちに罪がある。罪を認めなさい。イエスを信じて、神に立ち返りなさい。」と迫ってくださるならば、すなおに従うべきです。さもなければ、永遠に悔い改めることもできず、赦されず、その最後は悪魔と同じくゲヘナを終の棲家とすることになってしまいます。

「主を呼び求めよ。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めよ。」とあります。私たちの人生のなかで、主が近くに迫ってくださることは、そう何度もあるわけではありません。今、主があなたに近く迫ってくださっているならば、主を呼び求めて、己の神の前における罪を認めてイエス様を信じることです。

 

3 イエスの家族

 

(1)血縁の家族

さて、次に、イエス様の身内の人々がイエス様を迎えに来た件について、お話します。

「3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。 3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」

エス様は12歳に養父ヨセフと母マリヤとエルサレム神殿に出かけたという記事がルカ福音書にありますが、その後、どうやら大工であった養親ヨセフはどうやら早く世を去ったようです。ヨセフとマリヤの間には何人かの男女が生まれて、イエス様の弟妹となっていましたから、イエス様は一家の長男として、父の代わりを務め、母も弟妹たちもイエス様を頼りにしていたのです。「たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩みつぶさになめしこの人」でした。

ところが、やさしくて頼りがいのある、イエス兄ちゃんが30歳になったある日突然、ぷいっとナザレを出てカペナウムのほうに出かけて行きました。そして、何日も帰ってこないのです。「兄ちゃん遅いねえ」とマリヤと弟妹たちが思っていると、ガリラヤ湖のほとりカペナウムに出かけていた人がやってきて、「おい、あんたんちのイエス兄ちゃん、頭がおかしくなったみたいだぞ。カペナウムやガリラヤ湖周辺の町々で『神の国がどうのこうの』とわけのわからんこと言って回っているそうだよ。自分を預言者か何かと思い込んでいるみたいだよ。」と報せたのでした。

母マリヤをはじめ一家はびっくりして「兄ちゃんが、頭がおかしくなった。」「まあ、前から兄ちゃんはあたしがくよくよしていると、『空の鳥を見よ』なんてこの世離れしていたけれども」・・てなことを言いながら、心配して探して連れ戻しにきたのでした。母マリヤは、「いと高き方の御子があなたの胎に宿るのですよ」とかつて御使いガブリエルからの御つげを受けたわけですし、イエスが12歳のときの宮詣でのときにも不思議なことがあったのですが、それから18年もたって、すっかりあのことは忘れてしまったかのようです。

あまりにも身近すぎて、イエス様が神のみ子であることがすぐには信じがたかったのでしょう。

わかるような気がします。少し次元のちがうことですが、自分の子どもや妻や夫から、キリストの福音を知らされて悔い改めるというのは、多くの人にとってはむずかしいのかもしれませんね。照れくさいのか、面子にかかわると思うのでしょうか。そういう人間的な感情は横において、真理を真理として受け入れる謙虚さは大事なことです。

エス様の母、兄弟姉妹たちは後の日に、イエス様を受け入れるようになります。同じような境遇の人に必要なのは忍耐です。

 

(2)神の家族・・・・神のみこころを行う人々

 さてイエス様は家の中で律法学者たちと込み入った議論していらしたので、母マリヤと兄弟たちは外から人をやってイエス様を呼ばせます。恐らくここで「家」というのは、以前にもお話ししたように、広い中庭があって道路に面してアーチの入り口があり、そこから中がのぞけるような今で言うコートハウス造りになっているのです。マリヤが中庭をのぞくとイエス様がたくさんの人に取り囲まれていて近づけません。

 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

 すると、イエス様は、庭の入り口のアーチのほうをちらっと見て、今度は周囲の人々を見回して、「家族、教会とはなにか」ということについて、母マリヤや兄弟たちにとっては、相当ショッキングなことばをあえて語られます。

 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

母マリヤや兄弟たちという肉親以上に、あなたたち神の家族のほうが重要なのだと主イエスはおっしゃるのです。イエスさまは他のときにも、

10:29 「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:29,30)

とおっしゃいました。聖書は「あなたの父母を敬いなさい」と命じていますし、親の恩に報いることが大事なことだと教えています。神様が世界を造ったときに定めた三つのことは、礼拝の日と家庭と仕事ですから、家庭というものは国家以上に重要なものなのです。けれども、血縁の家庭よりももっと大事な「神の家族」があります。肉の家族は、私たちが地上にある間の一時的なものですが、神の家族はこの世で終わる一時的なものではなく、次の世にあっても続く永遠のものです。肉の家族はそれぞれの家の幸福や都合で動くものでしょうが、神の家族は神のみこころを行うことをその目的としています。また、肉の家族は閉鎖的な単位ですが、神の家族はことばも民族も国語も超えて世界中にひろがっているものであり、地上だけでなくすでに天に挙げられた兄弟姉妹たちを含んでいるものです。つまり、神の家族とは聖なる公同の教会です。

エス様は、あえて、マリヤと弟や妹たち聞こえるように、おっしゃったのです。

「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マリヤと兄弟たちは、すごい衝撃を受けたにちがいありません。特に母マリヤはおなかを痛めて生んだ子に拒絶されたのですから、ショックだったでしょう。しかし、後の日に、彼らもまた、イエス様を神の御子として信じて神の家族に入れられる日が来るのです。

 

結び

 主イエスを信じて新しい人生に入り、神の家族にはいって歩みだそうとするとき、ほとんどの場合、一時的ではあっても肉の家族との軋轢を避けることはできません。みなさんのうちの多くの方たちは、そういう経験をして来られたでしょう。今もしているかもしれません。イエス様ご自身も、同じ経験をされましたから、イエス様の家族の1人であるあなたが同じつらい経験をすることはもっともなことです。

しかし、イエス様が後に、マリヤや兄弟たちを神の家族として迎えたように、私たちもその希望をもって、まずは自分がイエス様にしたがい神のみこころを行う神の家族の一員となることが肝心なことです。そして、自分自身が神様の恵みと愛の通り管となって、神様の愛を家庭にもたらす器として用いられることが肝心なことです。やがて、ともに主を賛美するよき日が来ます。