水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

  「安息日の主」

MK2:23-28                                                 

                        

2016年7月3日 苫小牧主日朝礼拝

 

2:23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。

 2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」

 2:25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。

 2:26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」

 2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。

 2:28 人の子は安息日にも主です。」

 序 

 あるクリスチャンホームのこどもが、母親に「ねえどうして、僕達は七日にいっぺん必ず教会に行くの?イエスさまは教会に礼拝に言ったの?」と質問したそうです。母親はハタと困ってしまったそうです。けれども、なにも困ることはありません。主イエスも弟子たちも、忠実な公同礼拝のメンバーでした。当時の安息日は週の終わりの日であり、主イエスの復活の後は週の第一日が安息日に移されたという違いはありますが、確かに、イエスと弟子たちは、忠実な安息日の公同礼拝のレギュラー・メンバーでした。

 さて、本日の聖書箇所は、主イエスと弟子たちが、ある安息日に礼拝堂に向かわれる道での出来事と、礼拝堂での出来事を記録しています。このところから私たちは、安息日の意義とその守り方を学びます。また、安息日は「聖日」とも呼ばれます。聖書に「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」とあるからです。聖なるものとは、神の所有されるもの、聖日とは、神の所有される日という意味です。

 ここには、当時のパリサイ人たちの安息日律法の誤解と対照して、安息日の正しい目的と守り方が明かにされていますが、私たち異邦人が聖なるものについてバランスよく理解するためには、もうひとつのコントラストを知らねばなりません。それはヘロデのパン種とのコントラストです。イエス様は、ほかの日に「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に注意せよ」と言われました。パン種とは、ほんの少しでも全体に腐敗をもたらすものという意味です。主イエスが「パリサイ人のパン種と、ヘロデのパン種に気を付けなさい」と言われるのは、これらのパン種によって、私たちの信仰生活と教会全体にカビが生えてしまうからです。 パリサイ人のパン種とは律法主義のことであり、ヘロデのパン種とは逆に世俗主義のことです。私たちは、このふたつのパン種に注意して、安息日、聖なるものの扱いを学ばねばなりません。

 

1 パリサイ人の形式主義

 

 ある安息日、主と弟子一行は礼拝堂に向かう途中、麦畑を通りました。麦の実りはイスラエルの五月です。見渡せば、黄金色の穂が、薫風にさわさわとなびいているという景色です。天の父の、地上に生きる者たちへの慈しみを深く思わせる景色です。弟子たちは、麦畑のかおりに誘われて、「ひもじくなったので」畑のなかに入って、穂を摘んで食べ始めました。口に含んで食べるとほのかに甘さが広がります。イエス様も、弟子たちのそうした様子を、慈しみ深いまなざしで見ておられます。

 ユダヤ安息日は喜びの日とされていましたから、多くの人々はごちそうを前日に作ってお祝いをするものだそうですが、イエスと貧しい弟子たちにはそれもかなわないことであったのでしょう。グーグーとおなかがなって、ひもじくてならなかったのです。そこで、天の父は彼らに黄金の麦を朝食として恵んでくださったのです。

 ところが、そこに、パリサイ人たちがイエスに言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」(2:24)パリサイ人は、弟子たちが他人の畑で麦を拝借したということを責めているのではありません。申命記にはこうあるからです。「隣人の畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでも良い。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」(申命記23:25)貧しい人々にとっては、実にあわれみに満ちた律法ではありませんか。こうしたあわれみ深い神の律法によって、イスラエルでは、どれほど多くの貧しい人々が飢えをしのいだでしょう。ルツとナオミも、こうした神のあわれみの律法によって、生きのびることが出来ました。 パリサイ人たちは、律法の専門家ですから、もちろん、申命記の定めは知っていました。では、なにを責めているのでしょう。それは、<弟子たちが安息日に労働をした>と言って責めているのです。確かに、安息日には通常許されている労働から自分もはなれ、使用人にも離れさせ休ませなさいというのが、十戒の第四番目、安息日の戒めにあります。では、弟子たちがこの時どんな労働をしたというのでしょう。それは、「刈り入れ」と「脱穀」という労働です。まず、手で穂を摘んだということが刈り入れ。そして、それを手でこすって穂の中の実を出したことが脱穀であるというのです。

 私たちから見ると、屁理屈みたいで滑稽ですが、彼らユダヤ人律法学者はまじめにそう考えていたのです。パリサイ人たちの欠陥は総じて、神の律法の根本精神やその目的を見失って、外に現われる行動、形にのみ着目することです。本質を見失った形式主義です。

 

2 安息日律法の二つの目的

 

 まず、安息日の律法そのものに立ち返って見ましょう。申命記5章12-15節。

「5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。

 5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

 5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。

 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」

 

この箇所から安息日には二つの目的があることが分かります。

 一つは、「6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」という命令に応答してまことの神を礼拝することです。そのために、「安息日を聖なる日と」するのです。「聖とする」とは、分ける、区別するという意味のことばです。神の所有として、別に取っておくという意味です。つまり、安息日を「神が特別に所有しておられる日として、取り分けよ」ということです。ですから、旧約聖書レビ記のなかで安息日を破った者に対する罰とこれを贖ういけにえは、窃盗罪に適用される場合と同じでした。つまり、神が所有しておられるものを盗んだからです。旧約聖書には、安息日をあなどったかどで罰せられた例が七つあります。荷物を負わせたこと、薪を運んだこと、商売をしたこと、刈り入れをしたことなどです。これらの仕事を離れてる目的は、神を愛する愛の表現として礼拝をすることです。

安息日のもう一つの目的は、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という命令に答えることです。つまり、隣人にあわれみのわざを実践することです。14、15節に、子どもも奴隷も家畜も安息日には休ませてやりなさいと命じられています。古代オリエント社会においては、奴隷に休日を与えるなどということは、ほかの国々では考えられませんでした。しかし、神はイスラエルが奴隷であった時に、彼らにあわれみを示して下さいました。だから、安息日には自分が神からあわれみを受けたことを覚えて、自分の隣人にもあわれみを示しなさいというのです。

  つまり、本来、神が聖書に定められた安息日は、神が私たちを愛してくださったその愛を覚えて、神への愛の表現として礼拝をささげ、かつ、隣人に愛を表わすという目的のためにもうけられました。この目的のために、通常は許されている仕事や娯楽から離れる日なのです。旧約聖書に記録されている、安息日を破ったために神の怒りを買った七つばかりの例は、神礼拝をあなどり、隣人愛をおろそかにしたことに対する神の怒りの現われでした。

 

 けれども、パリサイ人たちは、その安息日の精神と目的を忘れて、とにかく「どんな仕事もしてはならない」ということばに着目して、「仕事」の定義を立てて、してはならないことをこと細かく定めました。律法の精神を忘れて、表面の行動だけに執着するというのがパリサイ的な聖書解釈の欠陥でした。そこで、まず三十九の禁止条項を作り、これを親としてさらにそれぞれの三十九の子の禁止条項を作って、合計三十九掛ける三十九、つまり、千五百二十一個の禁止条項としての「仕事」をリストアップしました。こうして彼らは、安息日を窒息日としたのです。こういうわけで、彼らによれば、主イエスの弟子たちは、三十九の親の第一の禁止条項に属する刈り入れと脱穀という労働をしたと責めたのです。なんとバカげた議論でしょう。

 

3 主イエスの応答

 

 イエス様の答えは神のことば旧約聖書に根ざしていて、鋭く、パリサイ人たちを沈黙させます。イエス様の反論の方法は、聖書そのものの根本精神に立ち返って、正しくその意味を示すことでした。イエスは律法を廃棄するためではなく、成就するために来られたのだからです。

 第一に主イエスが取り上げたのは、ダビデの記事でした。第一サムエル21章1節から6節。

「21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」

 21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

 21:3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」

 21:4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」

 21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」

 21:6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、【主】の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。」

イスラエル初代の王サウルは初めは良い王であったのですが、後に神をないがしろにしましたから、神は彼を王位から退けて、代わりにダビデを王として立てることにしました。サウルはそのことを知って、ダビデのいのちを狙うようになりました。そこで、ダビデは取るものの取りあえず宮廷を逃げ出すのです。ダビデの後には、彼の部下たちが付いてきました。けれども、彼らは食料もありません、武器もありません。そこで、ダビデは宮に身を寄せました。

 祭司はダビデと部下たちを気の毒に思って何か食べ物をあげたいと思いましたが、あいにくありません。そこで、主の前にささげてさげたばかりのパン12個があったので、これをダビデたちに与えました。ところで、主の前にささげたパンは、祭司と祭司の子ども以外は食べてはならないとレビ記24章5-9節に定められています。

「これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への日による捧げ物の内から、彼の受け取る永遠の分け前である。」

ところが祭司アヒメレクは、この供え物のパンを食べるようにダビデに与えました。これは確かに祭司の行動の表面だけ見れば、律法違反です。しかし、神はダビデや部下、また祭司を罰するようなことはなさいませんでした。「パリサイ人たちよ、これはどういうわけですか。」とイエスは問い返されたのです。パリサイ人たちは、ぐうの音も出ませんでした。

 どうして神は、一見すると神聖な儀式の律法を破ったように見える、ダビデたちを罰しなかったのでしょうか。もし、祭司が、神をあなどるような安易な気持で、ほかに食べ物があるのに、祭司のほか食べてはならない供えのパンをダビデに提供したならば、神は間違いなく祭司を罰したに違いありません。旧約聖書には、聖なるものをあなどった祭司や王が、神の怒りをかって火に焼かれたり(アロンの子供)、神に打たれたり(ウザ)、らいびょうに犯されたり(ウジヤ)したという例があります。しかし、ダビデは窮地に陥り飢えている部下を見て、ただ神のあわれみにすがりついたのであり、祭司アヒメレクもそのことを受け留めて、行動したのでした。ですから、神はダビデとその一行を哀れんでくださったのです。

 イエス様は、ご自分をダビデになぞらえ、弟子たちを部下になぞらえておられます。神は、ダビデとその部下たちがよりによって祭司しか食べてはならないとされた供えのパンを食べることさえ、その飢えている者たちをあわれんでよしとされたのです。ましてや、福音のために労して食べるものがない主イエスの弟子たちが、畑の麦の穂を二つ三つつまんで脱穀しすりつぶしたからということでどうして、罪とされるでしょう。

 

4 適用

 

  これを私たちに適用しましょう。ここには聖別されたものについての教えがあります。

「ヘロデのパン種に気を付けなさい。」世俗主義は言います。富にせよ時間にせよ、すべては、自分の所有なのだから、自分の都合で好きなように使えば良いじゃないか。私たちはこのようなヘロデのパン種に気を付けなければなりません。聖書は言います。神に聖別されたものとは、神の所有物です。これに手を付けることは神からの盗みです。聖書は、安息日にせよ、十分の一の捧げ物にせよ、聖なるもの、つまり、神の所有に手を付けることは、盗みであり、そのような罪に対しては神の呪いがあると言います。反対に、聖なるものを尊ぶ者は、神を尊ぶものであるから、そのような信者には神からの祝福と喜びがあるとされています。たとえば、マラキ三章八から一二節を参照。

 

 他方、聖なるものについて、パリサイ人のパン種があります。彼らは言います。「安息日に大事なことは、どんな仕事もしないことによって、神の前の善行を積むことである。たとい道端に病人が倒れていても、わき目もふらずに礼拝堂に来ることが大切である。あなたがたは、子どもを飢死させても、十分の一はささげなければならない。」

 聖なるものを尊ぶことは大切です。しかし、主イエスは神のあわれみゆえの例外があることを教えられました。例えば、本当に困窮して食べるものがないという時に、神のあわれみにすがって神への捧げ物から、頂き物をするということは許されるのです。そのような飢えている子供に、父なる神は喜んでご自分のものから、わけて下さいます。

 

 安息日の意味を明かにされてから、イエスは、このように教える自分がどのようなお方であるかを明かにされます。

 礼拝のあり方、安息日の守り方を定めるのは、イエスご自身です。「人の子は、安息日の主です。」主イエスは、宮より偉大な者であり、安息日律法をも正しく意義付ける権威をもたれるおかたです。パリサイ人たちが、なんと言おうと宮よりも偉大である方が、安息日の本来のあり方守り方を、明かにされたのです。

 安息日の意味、目的、その守り方を決定する権威を持つお方とは誰でしょう。いうまでもなく、安息日を定めた神ご自身にほかなりません。ここでも、主イエスはご自分を父なる神と等しい権威を持つ者として、明らかにされたのです。

 

 

結び)本日は、主イエス安息日をどのように守られたかというところから、聖なるものをどのように理解し、私たちがどのように聖日や捧げ物を用いるべきかを学びました。二千年の時代を隔てても、今日まで共通しているサタンの誘惑は、パリサイ人の律法主義というパン種と、ヘロデの世俗主義というパン種です。私たちは、神を恐れ愛しつつ、安息日にせよ十分の一捧げ物にせよ、聖なるものを尊びましょう。しかし、律法主義からでなく、そこに神のあわれみへの感謝の実として、礼拝と隣人への愛を豊かに表わして参りたいと願います。