水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

あなたの罪は赦された

マルコ2:1-12

 

2016年5月29日 苫小牧福音教会朝礼拝

 

2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。

 2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。

  2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。

 2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。

 2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

  2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。

 2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」

 2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。

 2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

 2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、

 2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

 2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。

 

 

1 みことばを

 

 主イエスが再びカペナウムに戻られました。すでに主の癒しや悪霊を追い出す働きの評判は高くなっていて、ペテロの家だと思われますが、ここに来られると人々は玄関口までいっぱいにむせ返るようです。多くの人々は、主イエスの奇跡を見たいということで集まっていたのでしょう。しかし、イエス様がなさっていたことは、みことばを福音を語ることでした(2節)。

2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。

 2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、エスはみことばを話しておられた

 そうです。福音宣教のためにこそ、主イエスは立ち上がられたのです。神の前の罪を赦し、永遠のいのちと神の御国をもたらす福音のために、主はこの世に来られたのです。

 

2 彼らの信仰を見て

 

 さて、そこに一人の中風の男が友人四人に連れられてきました。中風というのは働き盛りの血圧の高い人を襲う脳溢血の後遺症です。男は歳の頃は五十代か六十代。半身不随、あるいは全身不随になってしまったのです。昨日までは網を引いたたくましい腕がきょうは箸一本もてません。舟を操作することは愚か、歩くことすらできないのです。かつての一家の大黒柱が、今は家族のお荷物をなってしまいました。彼は、自分ではイエス様のところにもやって来る事もできませんでしたが、四人の友達が彼を戸板に載せて連れてきました。

 ところがペテロの家にやってくると、戸口まで人でいっぱいです。窓から覗き込めば、確かに主イエスが中にいて、なにやら話をしていらっしゃる。しかし、四人は決してあきらめませんでした。彼らは屋上に上がりまして、屋根に穴をあけて病人を釣り降ろしたのです。日本の家屋を思い浮かべたら、そんなことできないと思うでしょう。しかし、イスラエルではそうではありません。当時の家は屋根が平らで、しかも屋上にものを置くよう平らに構造になっていて、家のわきには屋上に続く階段がありました。屋根は梁を渡したあとに葦などを渡してその上に泥を塗るといった至って簡単な造りでしたから、穴もあけられたわけです。

まあ、それにしても人の家の屋根に穴をあけてしまう、そこまでしてこの友達をイエス様のところに連れていってやりたい、この熱意、その友情はどうでしょう。ここまでして主イエスのもとにあの人を連れてきたい、イエス様ならきっと治してくれる、そういう熱意と信仰が目に見えるようです

2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。

 一方、家のなかでは屋根の上でガタガタを音がするので、何事かと皆が天井を見上げていると、穴が開いてわらや泥が落ちてきておおさわぎです。イエス様のお話は妨害されて中断してしまいました。見ていると、ちょうど泥とわらにまみれたイエス様の真上から男が釣り降ろされてきます。

エス様はことの次第がみな分かりました。そして、注目しましょう。5節。

2:5 イエス彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

エス様はこの四人の男の無作法極まりないやりかたに対して、「わたしが大切な話をしている最中に、なんということだ!」とお怒りになりませんでした。イエス様の目は、この四人の男たちの行動、その姿に「彼らの信仰を見た」とあります。たとえ、やることが無作法であったり、人生が失敗だらけであったとしても、私たちがほんとうにイエス様を信じているならば、イエス様は私たちの信仰をみて喜んで下さいます。

 ここでひとつ不思議なことは、主イエスが中風で倒れて身動きができない男のことではなく、「彼らの」信仰を見て、彼の罪をゆるすと宣言してくださったということです。もちろん中風の人本人の信仰がなかったというわけではありません。ここで聖書が私たちに教えようとすることは、友に家族に救われて欲しいと願う私たちの信仰の熱心を主イエスはちゃんと見ていてくださるという事実です。私たちは心の中であの人を教会に誘いたいなと思いながら、なかなか勇気がなくて言い出せないことがあります。「私をへんなものに誘わないでちょうだいとか言われたらどうしよう」とか、何も言われない先から心配してしまうのです。でも、神様に祈って、「まず私にあの人を誘う勇気と信仰をください」とお祈りして、そうして、主のもとにお連れしましょう。主イエスはあなたの信仰を見ていてくださいます。

 

3 子よ あなたの罪は赦された

 

 さて、イエス様はこの五十あるいは六十歳のこの中風の男に宣言なさいました。「子よ。あなたの罪はゆるされた。」と。恐らく周囲の多くの人たちにとっては、期待はずれだったでしょう。人々は今、目の前で行われる奇跡を期待していたからです。しかし、思うにイエス様はこの男がほんとうに心の底に求めていた、渇き求めていたものを与えたのです。それは罪の赦しです

 働き盛りの男を襲う突然の病。今までは一家の大黒柱であったのに、一夜にして、一家のお荷物になってしまったという衝撃。そして、そんな経験をなさったらわかることですが、私たちは病気になると二つのことを意識するものです。

一つには、死です。ポール・トゥルニエという医師で牧師であった人は、「すべての病気は死のしるしなのです。」と言っています。「先生、悪いでしょうか?」と患者が医者に聞くとき、患者は「この病は死にいたる病でしょうか?」と聞いているのだと。

そしてもう一つはです。「なにか俺は神様から罰を当てられるようなことをしただろうか。」突然の病に倒れて、天井の節穴を数えるような生活をしていると、しぜんと男五十年の人生を振り返ってしまいます。そうすると、確かに神様のまえに顔も上げられないようなことの一つや二つ、妻や子にも告白できないようなことの二つや三つはあったでしょう。病気をすると、自分の罪を意識する。そして死を意識する。死の向こうの神様の厳しい裁きを意識するのです。毎日毎日天井の節穴を数えるような生活をしながら、男は神の御前の己の罪を意識しないではいられなかったのでしょう。詩篇51:1-7

 あなたの豊かなあわれみによって、

  私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

 51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、

  私の罪から、私をきよめてください。

 51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。

  私の罪は、いつも私の目の前にあります。

 51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、

  あなたの御目に悪であることを行いました。

  それゆえ、

  あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、

  さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、

  罪ある者として母は私をみごもりました。

 51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。

  それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

 51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。

  そうすれば、私はきよくなりましょう。

  私を洗ってください。

  そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

 主イエスは、彼に宣言されました。「子よ。あなたの罪は赦された。」

 

4 主イエスの神としての権威

 

 しかし、この場に主イエスの言葉に難癖をつける人々がいました。立錐の余地なくみんな立ちんぼうにしているのに、そこに席をあてがわれて座っていた律法学者の偉い先生たちです。彼らは最近ガリラヤ地方に登場したナザレのイエスが何を教えているかを調査して、異端審問にかけようとしていたのです。そして、心の中でぶつぶつと言いました7節。

「こいつは、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪をゆるすことができよう。」

これもっともな神学的議論です。本庄さんと寺沢さんがいて、本庄さんが以前になにか角丸さんにえらいめいわくをかけてしまっていたとします。本庄さんが、「あやまらなくちゃなあ」と思っているとします。すると、そこに佐藤さんが来て、「本庄さん、あなたの罪はゆるされました」と宣言したら、角丸さんはいうでしょう。「おいおい、佐藤さん、赦すのは俺だよ。どういう資格があって、佐藤さんが本庄さんを赦すんだい?佐藤さん神様じゃないだろう。」

そうです、イエス様が「あなたの罪は赦された」とおっしゃった宣言は、神様にしかできない宣言なのです。赦すということは、通常、被害者が頭を下げてきた加害者に対してすることです。それ以外の人が、加害者を赦してあげますとはいえないのです。言えるとしたら、さばき主である神だけなのです。さすがに律法学者さんで、彼らの理屈は筋が通っています。彼らは、「お前は何を言っているんだ。神でないお前が、この中風の男に罪の赦しを宣言したって、なんの効果もありはしない。もし本当だというなら、しるしを見せてみろ」といいたいわけです。

 彼らはもう一歩先の驚くべき真理を悟りませんでした。自分たちの心の中のつぶやきまでも逐一知っている、このイエスという男が、人として来られた神であるという事実を。この罪にうちひしがれている男に、罪のゆるしを宣言なさった、このイエスこそ神なのです。

 

 ところで、当時のユダヤ人はしるしとしての「しるし」としての奇跡を求めていました。ここでいえば、主イエスが「あなたの罪はゆるされた」という宣言が本当だというならば、その証拠としての奇跡を見せてみろというわけです。そこで、主イエスは、かたくなな彼らのために「しるし」としての奇跡を行われますが、先立って、こうおっしゃったのです。

2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

 2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」

 いうまでもなく、「起きて、寝床をたたんで歩け」というほうが、「あなたの罪は赦された」というよりも簡単なことです。病者を起きて歩かせるというようなことは、癒しの賜物がある人ならばできることですが、後者は「あなたの罪は赦された」というのは神の権威をもってしなければならないからです。「おきて歩け」がかりに10キログラム持ち上げることに譬えるとすると、「あなたの罪は赦された」は1億トン持ち上げることです。10キログラム持ち上げられても、1億トン持ち上げられる証拠にはなりませんから、「しるし」として奇跡を求めることはナンセンスなことです。ナンセンスではありますが、律法学者があまりにかたくななので、主イエスは彼らに歩調を合わせてやったのです。

こう言ってから、中風の人に、

 2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

 2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。

 

むすび

 二点、学んだことを確認しておきましょう。

第一に、「子よ。あなたの罪は赦された。」という主イエスのことばです。主は何よりも罪のゆるしを宣言なさりたかったのです。体の病気のことは二の次でした。もしそこにけちを付ける律法学者がいなかったら、彼の病のいやしをする必要はありませんでした。からだの病気は肉体は滅ぼしてもその人を永遠の地獄に陥れることはないからです。しかし、罪は人の魂を永遠の地獄の炎の池に陥れてしまいます。

私たちは、友や己の肉体の癒しを求めて祈るのはよいことです。けれども、それ以上にその人の救いのために祈りましょう。

第二に、あの四人の男たちの友への熱意、信仰に学びましょう。なんとかして彼をイエス様の所に連れて行ってやりたい、連れて行ってやるぞという信仰の熱意です。行動です。祈りにおいて、教会に友を連れてくることにおいて私たちも同じことができます。 たとえ私たちが失敗したり無作法したりしても、イエス様は私たちの行動に信仰を認めて喜んで下さいます。失敗を恐れず大胆に主に近づこうではありませんか。