水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 第二のアダムとして――荒野の試み

マルコ1:12,13

2016年4月17日 苫小牧主日朝礼拝

 

「1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

 1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」マルコ1:12,13

 

 

 

1 第一のアダムと第二のアダム

 

 罪人の友となるための洗礼を受け、天から聖霊を受けて、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と父の愛の言葉を受けて、主イエスの公生涯はスタートしました。希望に胸を膨らませて、主イエスの宣教は始まったかのようです。

 ところが、父がくださった御霊は、イエスを思いがけない道へと追いやられます。イエスを荒野の試練へと投じるのです。マタイは平行記事で、「御霊はイエスを・・・導いた」ということばを用いるのに対して、マルコ伝は「追いやった」ということばを用いています。マタイが古今調ならマルコは万葉調です。御霊は父の御霊ですから、主イエスを荒野に追いやったというのは、主イエスの胸のうちに父の御心として、メシヤとしてまずは荒野に行けというメッセージが届いたということを意味しているのでしょう。メシヤとして、まずは荒野に出かけてサタンの誘惑と戦えというのが父のご計画でした。

 どういうことか?

 キリストが経験された、この荒野での試みは、人類の歴史のなかで特別の意味のある試みでした。それは、エデンの園における最初の人アダムがサタンから受けた試みと対応した出来事でした。最初の人アダムは、人類の代表として、エデンの園においてサタンの試みを受け、そして、その誘惑に破れてしまいました。これに対して、人としてお生まれになった神の御子イエスは、人類の第二の代表つまり第二のアダムとして、サタンの試みを受けて勝利を得てくださったのです。

 第一のアダムと第二のアダムの置かれた状況には類似点と相違点があります。類似点とは、両者ともに人類の代表としての人間であったということです。アダムは私たちの先祖であり、私たちの代表でした。アダムが根っこであり、私たちはその根から出ている大木の枝の先の葉っぱのようなものですから、生まれながらには私たちはアダムに属しています。ですから、もしアダムがあの善悪の知識の木におけるサタンの試みに勝利していたとすれば、その後の人類はその祝福にあずかるはずでしたが、実際には、彼がサタンの試みに敗れたので、罪の呪いとしての死が人類のなかに入ってきました。死の本質とは、いのちの源である神との分離を意味しています。

アダムの子孫はすべてアダムの罪を受け継いでいますから、その中からは罪からの救い主は出ようがありません。そこで、神はご自分の御子イエスを第二のアダム(人類の代表)として立ててくださいました。そして、主イエスはサタンの試みに会われたのでした。主イエスがサタンの試みに勝利すれば、主イエスに属する者たちはサタンに対して勝利をした者として祝福にあずかるのです。

第一のアダムと第二のアダムである主イエスの相違点とは、第一のアダムはエデンの園というこの上なく好条件においてサタンの試みにあったのに対して、第二のアダムである主イエスは荒野という非情な悪条件においてサタンの試みに会ったということです。第一のアダムはエデンの園の一本の木以外、どの木からでも食べてよいという条件でしたが、第二のアダムである主イエスは、水を手に入れることすら困難な環境で試みに会われたのです。アダムは彼の堕落以前のよい環境の元におかれてそこでサタンの試みに会いましたが、主イエスはアダムが堕落し被造物全体も悲惨な状況に陥った後の環境のなかでサタンの試みにあったわけです。

しかし、悪条件における試みであったにもかかわらず、主イエスは、サタンの試みに対して勝利を獲得なさったのです。「私はすでに世に勝ったのです。」

 

2 サタンの誘惑・・・肉の欲、目の欲、虚栄

 

 マルコは気が短い人だったのか、サタンの誘惑の内容については全部省略してしまっていますので、私たちは創世記3章のサタンの誘惑の記事と、マタイ福音書の誘惑の平行記事を比較して見てみましょう。サタンの誘惑は、いずれにおいても、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(虚栄)」(1ヨハネ2:16)に関するものでした。

創世記3:6

「3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く目に慕わしく賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

 「食べるのによい」というのは肉の欲に対する誘惑でした。肉体的・物質的な欲求です。「目に慕わしい」というのは好奇心に対する誘惑でした。好奇心が問題だというのは、たとえば「とんでもないことになることはわかっているけれど、マリファナをやってみたらどうなるんだろう?」というふうなことです。「賢くするという」というのは、サタンが「あなたは神のように目が開け神のようになる」といわれたことに対応しているのです。「神にしたがう必要などない。私が私の神なのだ」という傲慢・虚栄心ということです。

 

 他方、主イエスが第二のアダムとして荒野であった試みの記事はマタイ福音書4章3-10節にあります。まず、肉の欲に対する誘惑です。

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

 これに対して主イエスは次のように答えて勝利しました。

 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 第二に好奇心に対する誘惑です。

 4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

  これに対して主はこう答えました。

 4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 第三に虚栄・暮らし向きの自慢にかんする誘惑です。

 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

これに対して主イエスは次のように答えて勝利を得ました。

 4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

 主イエスは、このように、第二のアダムとして、つまり主イエスを信じる者たちの代表としてことごとくサタンの誘惑に対して勝利を得られたのでした。主イエスは、サタンに対する勝利者となられたのです。

 主イエスの勝利の秘訣はなにか?みことばで答えたから、とよく言われます。けれども、サタンは第二の試みでは旧約聖書詩篇のみことばを引用してイエスを誘惑したのです。サタンは聖書をよく知っています。ただみことばを引用すればサタンに勝てたというわけではなく、全身全霊をもって神を愛するという心の態度で、聖書を理解しておられたので、サタンに勝利することができたのです。

 

3 私たちはどう生きるか

 

(1)まず第二のアダムに属する者となる

 主イエスが受けた試練は、先に申しましたとおり、第二のアダムとして受けられた試練でした。神の前に、二人の人類の代表者がいます。一人は、土から造られた第一のアダムです。もう一人は、天から下り人となってくださった第二のアダム、イエス・キリストです。人は第一にアダムに属するか、第二のアダムに属するかで、その人に対する神の取り扱いが決まるのです。

 第一のアダムは、エデンの園におけるサタンの誘惑に敗れてしまいました。それゆえに、第一のアダムに属する人は永遠の滅びに定められます。人は生まれながらには、すべて第一のアダムに属しています。

 しかし、第二のアダムである主イエスは、荒野におけるサタンの試練に勝利を獲得してくださいました。主イエスはすでにサタンに対する勝利者です。ですから、第二のアダムに属する人は、サタンの圧制から解放され、神との交わりをもち、永遠のいのちに入るのです。サタンは「腹いっぱいごちそうを食べて肉の欲を満たし、麻薬でもギャンブルでも好奇心を満たし、高級車に乗ってブランドものを着こんで暮らし向きの自慢(虚栄心)を満たすことが、人生のすべてだよ。真理だの、生きる目的だの、永遠の運命だの、神だのしちめんどうなことは考えてもなんの役にも立ちはしない。」と人間を欺いて、自分と同じく永遠のゲヘナに引きずり込もうとするのです。

 あなたは永遠の滅びと永遠のいのちのどちらを希望しますか?永遠の滅び、神との分離を望む人はイエスを拒否していれば、第一のアダムに属するものとして滅びにいたります。しかし、永遠のいのちを希望する人は、イエスこそ神の御子であり、私の救い主であると信じることが必要です。「私はイエス様を罪からの救い主として信じます」と受け入れ、キリストにつくものとなった証しである洗礼を受けることです。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)とあるとおりです。

 

(2)すでに勝利した者としての、世における戦い

 そして、世にあってキリストに属す者として、キリストの後について生きていくことです。キリスト者の人生にも時折、試練があります。主イエスは「主の祈り」のなかで「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」と祈りなさいと教えてくださいましたから、あえて試練を求めるべきではありません。私たちは弱い者です。

 けれども、神様は、私たちの霊的な必要のために、試練をお与えになることがあります。また、ヨブ記によれば、神がサタンに許可を与えることさえあります。私たちは、そうした試練をどのように受け止めればよいのでしょうか。聖書は、神様は試練を手段として私たちを、さらにキリストに似た者へとつくり変えていってくださるのだと教えています。

「1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

 

「1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、 1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(1ペテロ1:6,7)

 日本には「艱難なんじを玉にす」ということばがありますが、聖書でいう試練はそういうこととはちょっと違います。艱難汝を玉にするというのは、幾多の試練をへてだんだんと強く鍛えられていくというふうなことでしょう。だんだんと自信満々になっていくというのが、日本風にいう試練でしょう。

けれども、神が私たちの成長のためにくださる試練は、むしろ、試練のなかで今まで自分が傲慢であったことを知らされて、砕かれて、ますます神様にのみ信頼して生きる者とされていくということです。放蕩息子が、父親の財産をふんだくって飛び出していって、やりたい放題自信満々でやっていたけれど、やがてお金がなくなり、そこに大飢饉が襲ってきて、我に立ち返り、悔い改めて、父のもとに帰っていきました。あれも試練です。また、旧約の聖徒たち、アブラハムヤコブ、ヨセフ、モーセダビデといった人々の生涯は試練につぐ試練でした。多くの試練をもちいて、神様はご自分の器をご自分にふさわしくつくり変えてゆかれました。

今、あなたも何か試練のなかをくぐっている途上かもしれません。それは、神様があなたを愛し、あなたを御子の姿へと近づけて行かれるプロセスです。ですから、神様の愛を見失わず、忍耐することがたいせつなことです。艱難、忍耐、練達、希望です。

すでに、勝利は私たちのものなのです。なぜなら、私たちの主、第二のアダムであるキリストがサタンに勝利をおさめてくださったからです。主イエスの勝利にあずかった者として、この世における信仰者のたたかいを戦い抜いてゆきましょう。主イエスはすでに勝利を得てくださったのです。

 

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)