水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

満ち足りる(第十戒)

 

Ex20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

 

1 欲と貪欲

 

人間の三大欲求とは食欲・睡眠欲・性欲だというそうです。そのいずれが欠けても、人類は滅びてしまいます。また、知的な欲がなければ学問は進歩しないでしょう。欲それ自体は神様の被造物ですから悪いものではなく、むしろ良いものです。

では、この第十番目の戒め「欲しがってはならない」とは何を意味しているのでしょうか。「欲しがってはならない」ということばは、古い翻訳では「貪るなかれ」となっていました。神様は欲自体が罪であるとはおっしゃいません。欲もまた人が生きていく上で必要なものです。ただ、どんな良いものも、ある許された範囲の中で用いられるかぎり良いのであって、その範囲を越えると罪になります。自分に正当な権利があるものを欲することはなんら問題ありませんが、自分に正当な権利がないものまで欲するとき、その欲はむさぼりという罪にあたります。それが、この第十戒のまず意味するところです。

Ex20:17 「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

おなかがすいたから、自分の冷蔵庫のなかにあるものを欲しいとおもうのはよい。お金を払ってパンを買って、まず自分の物としてから食べるはよい。しかし、おなかがすいたからといってスーパーマーケットの食料品売り場のものを食べたいというのは罪です。自分の奥さんとキスをしたいと思うのは良い事ですが、隣の奥さんとキスしたいと思うのは罪です。自分に正当な権利がないものを欲しがってはいけないのです。隣人が幸せになるとそれに妬みを感じて、その幸せを奪い取りたいと欲する、これが貪欲という罪です。

むさぼりの罪は、本人が神の前に罪を問われるだけでなく、たとえば隣人の妻に対する欲情はやがて二つの家庭を破壊し、当事者だけでなく子どもたちの人生にも暗い影を落すことになります。

 

貪欲、つまり、自分に権利のないものを欲しがる罪は、個人の生活を悲惨なものとするばかりでなく、国や民族をも悲惨に陥れます。聖書は、使徒17:26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。」と言っていますが、帝国主義者は神様にいただいた自民族の住まいの境界を超えて、他の民族に与えられた領土や資源をも欲しがるのです。かつて、スペインは「太陽の没することのない帝国」であると自らを誇っていました。その後、イギリスはスペインの無敵艦隊を滅ぼしてその植民地を引き継いで「太陽の没することのない帝国」だと誇っていました。ですが、神様の目から見れば、帝国主義者の誇りは、我が国は貪欲の罪をもって他民族の富を略奪するという罪を、世界の歴史上もっともたくさん犯した極悪な国ですと言っているにすぎません。

他人事ではありません。私たちの国は明治維新以後、帝国主義列強に追いつこうとして富国強兵に励みましたが、その結末があの敗戦でした。日本が明治を迎えた時代、アジアでは、イギリスはインド・ビルマ・マレーを食い物にし、フランスはインドシナ半島を食い物にし、オランダはインドネシア諸島を食い物にし、アメリカはフィリピンを食い物にし、中国もまたイギリスをはじめとする欧米列強に貪られつつありました。我国は、「大東亜共栄圏構想」で、これらの欧米列強を追い出してアジアを解放し、共存共栄の世界を造ろうと宣伝しました。しかし、矢内原忠雄は、日韓併合満州国建国など我が国のしていることもまた、欧米列強と同じむさぼりの罪であると喝破しました。その貪欲の罪に対するさばきが、先の敗戦でした。そして結果的に、アジア各地に独立運動が起こり、かつてアジアを貪り食っていた欧米列強もまた追い出されることになったのです。日本も、また欧米列強もともに神から貪欲の罪に対する裁きを受けたのです。

 

貪欲という罪は、このように個人にも社会にも国にも悲惨をもたらします。現代においても、湾岸戦争イラク戦争は、実のところはこの地域の資源である石油ヘの貪欲が原因でした。また、アフリカ各地の内戦で、少なくとも1350万人が故郷を失って難民となって飢餓に瀕しています。その原因は、ダイヤモンドへの貪欲と貪欲の衝突です。世界のダイヤモンドの75パーセントはアフリカ各地が産出しており、コンゴアンゴラシエラレオネとその周辺諸国の争いはダイヤモンドをめぐるものです。「赤道直下のコンゴ民主共和国の東部では、コンゴ領内から自国に攻めてきそうなゲリラ軍と戦うためという理由で、隣のルワンダウガンダから、それぞれ軍が侵入し、駐屯しているが、彼らの本当の任務は、コンゴで採れるダイヤモンドや金などを持ち出すことです」(田中宇)。こうした争いのために、何万という無辜の民が殺され、一千万人を超える難民が生じ、多くの男の子たちが誘拐され兵士とされ、あるいは、少女たちは性的な慰み者とされているのです。

貪欲は恐ろしいものです。ヤコブ書が次のように指摘するとおりです。「4:2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」

 

2 十戒は内面を衝く

 

 さて、第十番目の戒めには他の九つの戒めにない特徴があります。神様の目は私どもの外側に現われた行いだけでなく、私どもの内面つまり心の中の思いまでも及んでいるのだということを示しているという点です。1番目から9番目の戒めは、外側に現われる行いについて戒めています。「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」とか、「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」とか、「殺してはならない」とか、「盗んではならない」とか、これらはみな外側に現われて人の目に映り、耳に聞こえたりする罪です。

 人間の世界ではせいぜいうわべに現われた罪について非難されたり、罰せられたりするだけです。心のなかで思ったことまでさばかれることはありません。また、人間の分としては、外に現われたことまでしか裁くことはしてはいけません。もし裁判所が、「あなたは、Aさんに対して殺意を抱いたので、殺人未遂として処罰します」と言い出したら大変なことです。権力による人間社会の秩序維持という面では、うわべだけで充分です。そうでなければ、権力が恐ろしい存在になります。

けれども、十戒を私たちにお与えになった神様は私たちを心ある存在としてお造りになりましたから、私たちの心の中までじっと見ていらっしゃり、終わりの審判においては私たちの行いだけでなく、心の中までさばきます。神の前では、罪はうわべの問題ではなく、私たちの内側の問題なのです。単にうわべのことであれば、神社でするように、はたきで塵を払うようにお祓いでもすればよい。けれども、罪は内側の問題なのです。イエス様はおっしゃいました。

14**,イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。**

15**,外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」**

17**,イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。

18**,イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。

19**,それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。**

20**,イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。**

21**,内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、**

22**,姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、**

23**,これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

 主イエスがおっしゃるように、すべての罪は内側から出てきます。殺人は怒りや妬みや憎しみといった内面の罪が芽が出たときにすぐ摘んでしまわなかった結果です。盗みは、貪欲が生じた芽のときに摘み取らなかった結果です。

「貪ってはならない」という戒めは、罪というものが私たちのうわべの問題ではなく、私たちの内側の深い所に巣食っている問題なのだということを明らかにします。パウロは、次のように言っています。彼は9つの戒めはきちんと守ることができたので、自分は義人だと自負していたが、第十番目の戒め「貪ってはならない」によって、自分は救いようのない罪人であることを悟ったと。(ローマ7章7節―13節)

 私たちは「あなたはあなたの隣人のものを欲しがってはならない」という戒めによって、自分は自分の欲望をコントロールすることができないみじめな罪人であることを認めざるを得なくさせられるのです。

 

3 解決―――キリストにあって満ち足りる

 

 私たちは、律法によって神様の義の基準を知り、自分の罪を悟ることができます。ある人たちは律法をさらに細かく規定すれば、罪が防止できると考えます。けれども、神様の前で本当に罪の問題を解決するためには、私たちが新しく生まれ「満ち足りる」ことが必要なのです。満ち足りていれば欲しがりませんから。

神様に愛されていることを知るとき、私たちの心は満ち足りて、人をねたむ必要がなくなります。ある牧師さんが子どものころの経験を話していました。小学生のとき、遠足に行った話をしていました。Aさんという女の子がいました。Bくんがみんなが持ってきていない当時は珍しいチョコレートをもってきて、Aさんにみせびらかしたそうです。でもAさんはにこにこ笑っていて、全然うらやましがらなかったのです。後でわかったのですが、Aさんのおうちはお菓子屋さんだったのです。

貪りとは、隣人の幸せを妬み、それを欲しがることですが、神の愛に満ち足りるとき、私たちは「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」ことができるようになります。地上ではなお罪深い肉の性質に悩まされますが、神さまが私に注がれている愛の豊かさを知れば知るほど、私たちは貪りという罪から真に解放され、御国に帰る日には完全に貪りの罪から解放されて愛に生きる人となることができます。ですから、天国はまさに愛の園なのです。