水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

いつでも祈るべきで、失望してはならない

ルカ18章1-8節

2020年1月5日 主日礼拝

 

 昨年末から、心の中に何度も何度も湧き上がってきたことばが、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない。」というみことばでした。なぜだかわかりません。そこで、2020年の最初の主の日の礼拝では、このみことばを解き明かすことにいたしました。

 

 1 . ネバ―ギブアップ

 

1**,いつでも祈るべきで、失望し(ekkakeo )てはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された(elegen impf..)。

 

 「失望する」と訳されたことばは、「がっかりする」「落胆する」「諦める」という意味のことばです。英語ではたいていギブアップすると訳されているのを見て、なるほどと思いました。いつでも祈るべきで、祈ることについてギブアップしてはいけないというのです。

 「話された」ということばは、反復を表す表現で書かれていますから、イエス様は「いつでも祈れ、ギブアップするな」ということを、この時だけでなく、たびたび弟子たちに話されたのだということでしょう。弟子のペテロやアンデレやヨハネたちが、伝道生活に疲れてがっかりしたり、論敵にやられてしまったり、食べ物がなかったり、お金がなかったりすると「先生、祈りましたけどだめでした。ギブアップです。」というと、そのたびにイエス様は「いや。いつでも祈るべきで、ギブアップするな」と、教えたのです。

 

2.最低最悪の裁判官

 

 イエス様は、こうした弟子たち、そして私たちに、いつでも祈るべきで、ギブアップしてはいけないと説得するために、譬えをもって話されました。登場人物は、ある町にいたとんでもない裁判官です。

2**,「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。」

 この裁判官は、実にどうしようもない悪質な裁判官であったとイエス様は説明します。神さまが人間にお与えになった最も大事な戒めとはなんですか。イエス様はこう問われたとき、

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29ー30)

 

とお応えになりました。神を愛し、人を愛することが人間の生きる目的です。ところが、この裁判官が「神を恐れず、人を人とも思わない」人物であったと表現するのです。しかも、他の人々が彼のことを批評して「あの裁判官はひどいね。神を畏れず、人を人とも思わないようだね。」と言っているのではなく、4節を見れば、彼は自分自身で、『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが』とつぶやいています。彼は神を恐れず、人を人と思わないことが恥ずべきことであるという気持ちすら持ち合わせていなかったのです。人間としての道から完全に外れてしまった、もうどうしようもない人間です。裁判官の条件とは、神を恐れ、神のかたちに造られた人間の尊厳をわきまえていることです。その条件をまったく持ち合わせていない、失格者の裁判官です。

 けれども、イエス様は、あえてそういう最低最悪で失格者の裁判官を譬え話の中に登場させるのです。

 

3.やもめの事情と行動

 

 ついで主イエスは、例え話に独りのやもめを登場させます。聖書にはしばしば「やもめ」が登場します。古代のユダヤ社会においては、「みなしご、やもめ、在留異国人」というのは社会的に弱い立場にいる人々の代表です。男尊女卑の社会にあって、女性には、まともな働き場もない社会でした。そこで、女性たちは結婚して夫に養われてこそ、ようやく安定した生活ができるという立場だったのです。ところが、その頼りにしていた夫に先立たれて、子どもを女手ひとつでどのようにして育てて行ったらよいのやらと、途方に暮れていたのが、やもめです。

 ところが、夫を失い貧しいだけでも大変なのに、このやもめはさらに窮地に陥れられていました。「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」と3節にありますから、彼女は何事かについて訴えられているのです。彼女が積極的にだれかを罪に落とそうとしているのではありません。立場は逆で、誰かが、彼女を訴えているのです。何があったんでしょう。たとえば、死んだ夫の遺していった借金の取り立て人が、不当な利息を突き付けて、彼女を苦しめているというようなことなのでしょう。

  彼女は裁判官のところにやってきました。そもそも裁判所は、社会的弱者の最後のよりどころです。お金持ちであったり、政治的権力を持っていたり、腕力があったりということで力をもつ人々は、自分の力にものを言わせて、自分の主張を押し通すことが出来てしまいます。社会的立場を利用して、若い女性を酔っぱらわせて、強姦しておきながら、その女性に訴えられると、権力者とのコネを利用してその罪をもみ消してしてしまおうとする卑劣な輩もいます。

 だからこそ、検察とか裁判所は、あくまでも権力やお金でなく、事実を明らかにして、法の前に公平に事柄を裁く務めがあります。法律の前では、総理大臣であろうと、大会社の社長であろうと、貧しいやもめであろうと、乞食であろうと、平等であらねばなりません。そうでなければ、裁判所の裁判所としての値打ちがないのです。権力者のお気に入りであるようなる者の意見ではなく、どこまでも法律に基づいてさばきをつけるのが、裁判官たる者の務めです。しかし、この譬えに登場する裁判官は、残念なことに、「神を恐れず、人を人とも思わない」裁判官だったというのです。

  しかし、ここに登場するやもめは、「ああ、あの、神をも畏れぬ人を人とも思わない裁判官だから、ダメだわ。勝ち目はない。」とギブアップしませんでした。ここが肝心なところです。普通に考えたら、担当判事があんな人じゃだめだ。取り下げようということになるでしょう。でも彼女はあきらめませんでした。彼女は、あの最低最悪の裁判官の心さえも覆して正しい裁きを勝ち取ったというのです。 

3**,その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては(エールケト impf)、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた

  3節にやもめの行動がでてきます。新改訳聖書は反復継続をあらわすギリシャ語の動詞の意をくんで、ていねいに「言った」でなく「言っていた」と訳しています。彼女は何度も何度も何度も何度も繰り返しやって来て、何度も何度も何度も何度も「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」と言ったのです。

 

4 裁判官の心の変化

 

 はじめのうち、このやもめが訴えに行ったとき、案の定、あの裁判版は門前払いにしていました。「この裁判官はしばらく取り合わなかった。」とある通りです。訴えをまじめに聞こうともせず、「めんどくさい女だなあ」と訴えを却下したのです。人を人とも思わない彼にとっては、やもめ一人の訴えなどどうでもよかったのです。

 けれども、何度追い返しても、やもめは毎日やってきます。朝に夕にやってきます。一か月、二か月、三か月、四か月、五か月、六か月、七か月、八か月、九か月、・・・やもめは裁判官のところにやってきては、「正しい裁きを付けて下さい。裁判官様。」と訴えて来るのです。

 そのうち、裁判官は辟易してきました。そして考えが変わってきます。4,5節

「後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」

彼はやもめの訴えを取り上げるのが面倒だったのですが、むしろ、取り上げない方が面倒なことになってきたのです。こうして、やもめはついにあの裁判官の心を動かして、訴えて勝利を得ることができたのでした。

 

 5.まして、天の父は

 

6,主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。

7,まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

8,あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。

 

 イエス様の論法は面白いですねえ。 「神を恐れず、人を人とも思わない」という人でなしの、最低最悪の裁判官ですら、やもめの執拗な懇願に対しては、答えるのです。

 では、君たちが信じている天の父なる神はいったいどのようなお方なのか。考えて見なさい。全知全能、永遠不変のお方。悪い者にも正しい者にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、愛と慈しみに富んだお方。父祖アブラハムと、恵みとまことの契約を結び、その契約に対してどこまでも誠実なお方。神は最高最善の裁判官です。。

 最低最悪の、神を恐れず人を人と思わない裁判官ですら、やもめの執拗な訴えには耳を傾けて、正しいさばきを付けるものなのだ。そうだとすれば、恵みとまことに富む公正無比な裁き主である神が、ご自分の選んだ民の訴えを聞いて、正しいさばきをつけないでおく道理があるでしょうか?ありえないことです。これがイエス様のおっしゃりたいことです。不正な裁判官でさえ正しい裁きを行うならば、公正無比な裁判官である神が正しい裁きをつけることは理の当然です。

 だから、目の前に苦難が押し寄せてきても、すぐには答えられない願いであっても、ギブアップせずに祈り続けよ、です。天の父は、私たちの罪の赦しのために、御子のいのちさえも差し出して下さったお方なのですから、「いつでも祈るべきであって、失望してはならない。」のです。

 

6 神を信頼して祈る

 

 しかし、最後にイエス様は、嘆きともとれるお言葉をつぶやかれました。

「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 主イエスが再び戻って来られる時代、神様に対してほんとうに信頼して生きている人は、ほんのわずかになってしまう、とおっしゃったのです。人々は、お金に信頼し、科学的知識に信頼するけれども、「神などいるものか。」とうそぶくような時代になるだろうと嘆かれるのです。なぜこんなことを最後におっしゃったのでしょう?

 ここまで熱心に粘り強く祈ることを学んできましたが、それ以前、もっと大切なことがあります。それは神を信頼することです。神の真実を信頼して祈ることです。人格にとって、最大の侮辱とはなんでしょうか。それは信頼しないことです。愛するといったこと以前に、「あなたは信ずるに値しない人だ」と言われることほど、がっかりさせられることはありません。ところが、私たちは時に神様の真実と愛を信じないでいるのではないでしょうか。四六時中私たちのために、あらゆる面で必要を満たしていてくださり、なによりも私たちの罪のために、尊い一人子のいのちさえおしまなかった神様の愛を疑ってよいものでしょうか。人生の嵐の中で神様の御顔が見えないときには、十字架にかかられた主イエスを見上げましょう。そこに神様があなたのために注がれた涙と愛があります。私たちは、神の愛と真実を信頼しなければなりません。

 主の再臨の近い今日、私たちの住む社会では不信仰が蔓延しています。悪い時代です。しかし、そういう中で、あなたは選ばれました。この2020年、どこまでも神に信頼して、祈り続けてまいりましょう。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)