水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

正しい人の罪

ルカ15.1-3,25-32         

 パリサイ人・律法学者は、愛国者で生真面目に律法を守って生活していました。他方、取税人・罪人たちは売国奴で律法をないがしろにしていました。ですから、パリサイ人たちは、主イエスが、取税人・罪人たちに親しく神のことばを語り、食事までいっしょにすることに憤ったのです。主イエスのあまりの寛容さは不当なこととして映ったのです。そこで、主イエスは譬えをもって彼らを諭されました。譬えに登場する気ままな弟息子は取税人・罪びとを指し、勤勉な兄息子はパリサイ人・律法学者を指し、父親は神とイエスご自身のことを指しています。

 

1.兄の人となりについて一般的観察

 

 弟が帰って来た時、「兄は畑にいた」とあります。兄は勤勉な男でした。弟が出奔して、兄は「道楽者の弟などいなくなってせいせいした。」と思って畑を耕して暮らしていました。まじめな兄息子からすると、そばに怠け者で夢見がちな弟がいるだけで、イライラしてしまうからでした。兄息子はこの日も星を頂いて畑仕事に出かけ、星をいただいて家路につきました。ところが、家の灯が見えてきますと、弟が家を飛び出してから絶えて久しく聞いたこともなかった笛やタンバリンの音や楽しげな歌声、歓声が聞こえてきました。

 兄は、「弟が帰ってきたんじゃないか?」と察しましたが、彼は弟の顔など見たくありません。そこで彼は家に入ろうともせず、しもべを呼び出して聞きました。

「いったい、何があったんだ。」

不機嫌な兄の顔を見てしもべは緊張ぎみに答えます。

「はい。弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、御父様が大喜びでまるまる太った子牛をほふらせての大宴会です。」

 兄はムッとしました。

「あんな道楽者が帰ってきたからといって、なんで父さんはこんなに大歓迎をするんだ。」

兄息子は家に入ろうともせず、暗がりで家に背を向けて立っています。

兄の憤りはある意味もっともなのです。信州の山里で伝道するようになって、農家の方が何人か救われてきて、話を聴いて私は初めて兄息子の気持ちが理解できるようになりました。農家では、将来家を継ぐ長男とそうでない次男以下の扱いがずいぶん違います。長男のHさんは小学校高学年から、農繁期となれば働き手で、夏休み学校のプールにもろくすっぽ行ったことがないそうですが、一方で弟はプールに通いでした。高校生ともなれば兄は一層本格的な働き手で朝四時から日が落ちるまで畑で汗を流し、一方、弟はミュージシャンを夢見てギターに凝っていたといいます。やがて、長男は農家を継ぎ、弟は好きな仕事について家を出て行きました。けれども、盆や正月になると家族をつれて帰ってくると、お父さんお母さんはめったに顔が見られないからか、弟家族を歓迎をして、帰りにはこっそり封筒に入れた小遣いも持たせてやるというわけです。長男と長男の嫁はおもしろくないわけです。

さて、召し使いはおろおろしてお父さんに告げに行きます。「ご主人さま。兄息子さまが帰られましたが、弟さんのために宴会を催したことについて、たいそうなお怒りで、家に入ってくださいません。」今まで喜びの叫びに満ちた宴会に暗い影が差し、弟もうつむいてしまいます。

 

 そこで、父親は出てきて、暗がりでふて腐れている兄をいろいろとなだめます。当時の威厳ある父親が、不機嫌になった息子をなだめるために、わざわざ席をはずして出てくるというのも珍しいことだったでしょう。けれども、兄は父の言うことを耳を貸そうとはしません。それどころか、彼は弟を非難し、父親が不当であるとなじります。29節、30節。

 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はあなたに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。  それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

 

 新改訳は「私はお父さんに仕え」と訳していますが、ギリシャ語本文では「私はあなたに仕え」とあります。お父さんとは呼んでいないのです。冷ややかなことばです。さらに、兄息子は、皮肉たっぷりに「このあなたの息子のためには・・」と弟のことを指して言うのです。

 これに対して、父親は答えます。「子よ」あれは「おまえの弟」ではないかと。31、32節。

子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 新改訳第3版で訳出された「子よ(テクナ)」というのは、「坊や」ということです。「別にあの次男坊だけをかわいがっているわけではない。坊や。おまえだった私にとってかわいい息子なんだよ」という気持ちをこめて、テクナです。それだけに、父親としては、「どうしてお前には、血のつながった弟の帰還を喜べないのだ?!」と言いたいのです。心を堅く閉ざして、実の弟が生きて帰ったのに喜べないほど冷ややか兄の言動に、父親は、深く心を痛めています。この子は生真面目だけれど、どうやら人として欠けたところがあると感じて心配しているのです。父親が兄に期待しているのは、「汝の敵を愛せよ」というような高度なアガペーの愛ではなく、ごく自然な情けです。親が子に、子が親に、兄弟姉妹同士がいだくような人間らしい情けストルゲーです。その情けさえもないのは、どうしたことかと父親は心配しているのです。

 

2.律法主義と偽善

 

 主イエスは、この譬えを通して何を教えたいのでしょう。理解の第一の手がかりは、イエス様がこのたとえ話をなさった相手、パリサイ人、律法学者だったことです。主は法主義の危険性を兄の言動を用いて露わにしていらっしゃるのです。兄が父に向かって言ったことばに、律法主義的宗教性の問題点を理解するためのかぎのことば、気になる表現が二つあります。彼は言いました。

『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え戒めを破ったことは一度もありません。』

気になることば一つ目は「仕える」ということばです。「仕える」ということばは、奴隷doulosの動詞の形、doulowが用いられています。もちろん、このことばは必ずしも悪い意味で用いられるとはかぎりませんが、ここの文脈では意味深長です。兄息子は、こう言いたいのでしょう。「私は長年、あなたに対して、自分を押し殺して、なにもかも我慢して、奴隷のように仕えdoulowてきたではありませんか。欲しい物を欲しいとも言わず、我慢ばかりしてやってきたではありませんか。」と。律法主義には愛の自発性が欠如しています

もう一つの気になることばは、「戒めを破ったことは一度もありません。」と胸を張っていったことです。自分は戒めを破ったことがない。このことが兄息子の誇りでした。兄息子のうちには、「やりたい放題の弟とはちがって、父の戒めに一度も背かず、営々と善行を積み上げて来たのは、この私だ。」という誇りが満ちています。彼は自分こそ義人であるというプライドがあります。律法主義者は律法を守ること自体を目的とするようになる傾向があって、法主義は傲慢な性格を造ってしまうのです

 律法主義は決して真の義人を作ることはできません。律法主義はただ偽善者を作るのみです。事実、この兄息子は一生懸命戒めを破るまいと励むうちに、偽善者になってしまっています。彼は弟の悪口を言い、そして弟を赦した父親をなじりますが、彼には自分自身が見えていません。父や弟の目のちりを指摘しますが、自分の目に太い梁があることに気づきません。兄は「ごらんなさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」と昂然と言い放ちました。・・・本当でしょうか?兄息子は本当に戒めを一つも破ったことはないのでしょうか。

十戒の第十番目に「あなたの隣人のものをほしがってはならない。」とあります。自分に正当な権利がないものを欲しがるなというのです。言い換えると、人の幸せを妬むなということです。ではこの兄はどうですか。お父さんが弟に優しくしてやるのが、ねたましくてならないのです。弟のために屠られた子牛がねたましいのです。彼は、戒めは一つも破ったことはないと豪語していますが、実際には今まさに戒めを破っているまっ最中です。このように法主義者はうわべを正しそうに整えることいによって、中身が見えなくなって、結局、偽善者になってしまいます。

こうして、法主義は、表面は立派だけれど、傲慢で、人間的情愛さえ欠けた偽善者を作ってしまうのです

この兄は実の弟が無事に帰ってきたことを少しも喜ぶことができませんでした。彼は、父親に向かって、弟ということばを口にするのもいまいましくて、「このあなたの息子」と言い放っています。こんな奴、私とは関係ないといいたいのです。

このようにして、兄息子は、「自分は一つも戒めを破っていない」と思い込んでいますが、実は、彼はあらゆる戒めのうちで最も重要な戒めを破っています。最も重要な戒めとはなんですか。「あなたの隣人を愛せよ」です。彼は父を愛していません。また「弟など帰ってこなければよかった。いなくなればよい」と弟を憎悪し、殺意に近い感情さえも抱いています。

 兄は、自分は親孝行で何一つ悪いことはしていないと自負していますが、実際には弟が父の心を悲しませたのに勝って父の心を悲しませているのです。自分の子供が憎みあっているというのを見るほど、親の胸が引き裂かれるような思いがすることがあるでしょうか。しかし、この兄息子には父の痛みがわかりません。

ローマ1:31の「情知らずastorgous」ということばについて、高橋三郎は注目すべきことを述べています。「『自然の情愛にかけている』(アストルゴス)の背後にはストルゲーという、たとえば親子の間に見られるような、生まれつきの愛情を表現することばがあり、これが欠如している人、つまり人間らしさを失っていることが、ここで指摘されているのである。律法的宗教人にこういう類型の人がよく見かけられる。」(ロマ書講義)

 まじめも勤勉も良いことです。けれども、たとえどんなに勤勉でも、愛がなければ何にもなりません。放蕩な弟と同様、兄もまた失われている罪人なのです。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。・・・・・・・・・・・

  こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 

3.父の愛(キリストの福音)を受け入れよ

 

 律法主義は義人をつくることはできず、偽善者をつくるのみです。では何が人をまことの義人とするのでしょうか。ただキリストの福音のみが、義人を創造することができます。

喜びにあふれた宴席に背を向けて、暗がりのなかで腕を組み独りふてくされている兄。それは、「ただイエスを信じれば救われるなどと、虫の良い話があるものか!」とつぶやきながら、神に対して心を開かないでいる人の姿です。「不真面目なやつが恵みだけで救われるというなら、自分のようにまじめに生きている人間の努力はどうなる。ふざけるな。」と神様のあわれみ深さを受け入れられない人の姿です。

 もう一度、あの兄息子に対する父の行動を見てみましょう。権威ある父親は、宴も半ばに自分の席を立って、暗がりでふて腐れている兄息子のところまで来てくれました。そして、「ぼうや。おまえも私にとっては大事な息子なんだよ。」とこんなに辞を低くして、胸を傷めながら宥めてくれました。この父のへりくだりは、弟息子が帰ってきたとき、かわいそうに思って駆け出して抱きしめて何度も何度も口付けをした父の愛と同じ愛です。いや。それにも勝る胸の痛みを父は感じています。

 栄光に満ちた神のひとり子であられるお方が、その天の御座を棄ててこの罪の世に駆け下って来て下さいました。このイエス様を十字架に追いやった直接の下手人とは、どういう人々でしたか。札付きの罪人である取税人や遊女がイエスを十字架に追いやったのですか。いいえ。きまじめで「私は正しい」と自負していた律法学者・パリサイ人や祭司たちこそが、直接的な意味で神の御子を十字架に追いやった人々でした。十字架の下で彼らがののしるのを聞きながら、主イエスは、彼らのために祈られました。『父よ。彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。』

 私たちの罪が神のみ子を十字架に苦しめました。その通りです。しかし、むしろ私たちの「正義」が神のみ子を苦しめることがさらに多い。このことを私たちは悟るべきです。