水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ああ幸いだ!

マタイ5:1-4

2019年9月29日 苫小牧福音教会主日礼拝

 

1**,その群衆を見て、エスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。**

2**,そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。**

3**,「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。**

4**,悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

  

1 山に登り、腰を下ろし

 

マタイ福音書5章から7章は、ご存知のように山上の垂訓と呼ばれます。直前に「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」(4:24)に見るように、あの時代にも罪と病と貧困とさまざまな問題のなかで苦しみ悲しんでいる人々がたくさんいました。イエス様は、福音を語り、そして、肉体の癒しのわざを行われました。ある日、こうした伝道と奉仕の働きの合間に特に弟子として選んだ人たちに声をかけました。「さあ、山に登ろう。」

「5:1 その群衆を見て、エスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。」

 弟子たちはぞくぞくとやってくる病人や悪霊付きの世話をすることで、目が回るように忙しかったのです。働くことは大事ですが、それだけでは、弟子たちは神のみこころが何であるのかを見失ってしまいます。忙しいという字は、心を亡ぼすと書きます。そこで、イエス様は弟子たちを山に退かせて静まり、主のことばを聞くときに招かれたのでした。今で言えば、6日間のこの世での生活を離れ、時を聖別して教会に集って主のみことばに耳を傾けることです。あるいは、11月の修養会でゆっくり神のことばを聞くことに似ています。神のことばに静かに聞くことがなければ、どんな働きも心を亡ぼし、人生を亡ぼすことになります。

 

 また、イエス様がわざわざ「山」で神の民の生き方を弟子たちに教えられたことには、理由のあることでした。神様は山で特に大事な啓示を与えます。旧約時代1500年前にモーセがあのシナイ山で、十戒を初めとする神の民の生き方の基準となる律法を授かって民に与えたように、今、新約時代にふさわしく、イエス様は弟子たちに天国の民としての生き方をお教えになろうとしていたのです。

同じ山でも雰囲気はずいぶん違います。シナイ山は草一本生えていない巨大な岩山で、啓示があったときには、黒雲が山頂を覆って稲妻がひらめき、民は震え上がりました。他方、イエス様の山は緑したたるガリラヤの穏やかな丘です。新約の時代は恵みの上に恵みが注がれた時代です。イエス様は神のことばである旧約の律法にも勝る権威をご自分は持って語るのです。

 

 さて、山に登るとイエス様は「腰を下ろされた」とあります。イエス様の時代、教師特に大事なことは座って教えました。弟子たちは立って聞いたそうです。「いっしょに山に登ろう」と誘われて、弟子たちはハイキングだと思ったかもしれませんが、山に着くと、イエス様がおもむろに岩に腰掛けて弟子たちを呼んだので、「これから大事なお話をなさるのだな・・」と弟子たちは緊張した面持ちでイエス様のもとに集ったのです。実際、そのとおりで、1500年前に主なる神がホレブの山でモーセに与え十戒に勝る教えをイエス様はこれから語ろうとなさっているのです。

 

2.「ああ、幸いだ」・・・八つの祝福から始まる

 

「山上の説教」の特徴は、「幸いです。」という祝福から始まることにあります。原文の語順は、「幸いなるかな。心の貧しい者は。」となっています。しかも、その祝福は8度も繰り返されますので、八福の教えなどと呼ばれます。

「ああ幸いだ、心の貧しい者は。   ああ幸いだ、悲しむ者は。

ああ幸いだ、柔和な者は。      ああ幸いだ、義に飢え渇く者は。

ああ幸いだ、あわれみ深い者は。   ああ幸いだ、心のきよい者は。

ああ幸いだ、平和をつくる者は。   ああ幸いだ、義のために迫害されている者は。」

 「しあわせだなあ。ぼくは君といるときが一番しあわせなんだ。ぼくは死ぬまで君を放さないぞ。いいだろ。」という歌手がいました。「君」を、わが君イエス様に置き換えるといいですね。『死ぬまでイエス様を離さないぞ。」と。いやイエス様があなたを「死ぬまで話さないぞ」とおっしゃるのです。
 でも、実は「しあわせ」と「さいわい」は少しちがいます。幸せというのは、仕合わせ、つまり、めぐり合わせがよいという状況に左右されるhappy, happeningですが、幸いというのは、あなたは神に祝福されているblessedという意味です。神がともにいてくださるので、晴れだろうと嵐だろうと、お金があろうと無かろうと、嬉しい時も泣きたいときも、変わらす幸いなのです。

 「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない」「主の御名をみだりに唱えてはならない」「殺してはならない」といった禁止命令でなく、「ああ幸いだ」と八つの祝福からこの山上の説教は始まります。「あなたがたは、なんと神に祝福されていることでしょう!」山上の祝福には、知恵と警告も含まれていますが、その前に、八つの祝福があるのです。山上の説教に基調として流れているのは、神の祝福です。本日学ぼうとする、「心の貧しい者の幸い」「悲しむ者の幸い」は、まさにこの神の恵みを表わしています。

 

3.「心の貧しい者は」「悲しむ者は」

 

 さて、本日は山上の八つの祝福の最初の二つだけとりあげます。

3**,「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。**

4**,悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

 「心の豊かな者は幸いです」というのが普通でしょう。「喜んでいる者は幸いです」というのが普通です。「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。」というのは、なんだかへそ曲がりに聞こえます。イエス様は何をおっしゃりたいのでしょうか。

 ときどき、「心の貧しい者」というのは「謙遜な人」という意味であると説明されることがありますが、これはちょっとちがうようです。謙遜はもちろん大切なキリスト者としての徳目ですが、謙遜な人については、少しあとの「柔和な者は幸いです」で教えられています。謙遜はたいせつなキリスト者の徳目です。

 しかし。「心の貧しい者」というのは、直訳すれば「心における乞食 hoi ptwkoi pneumati」です。権力者だけどいばってないとか、名誉があるけどそれにおごらないとか、お金持ちだけどそれを鼻にかけないとかいうのでなく、本当に権力も名誉もお金もない人です。「実るほど頭をたれる・・・」というような実りはない人です。ふつうに考えたら、「幸いだ」なんて思えない人です。実際、今、イエス様の目の前にいるのは元漁師さんだけれど、すべてを捨ててイエス様についてきた人たち数名、同胞から蛇蝎のように嫌われていた元取税人、元テロリストといった面々です。権力も名誉もお金もない男たちです。イエス様は彼らに「君たちは幸いです」とおっしゃいました。それは、その何もない人たちにイエス様を通じて神の愛と祝福が天から注がれているからなのです。

エス様のおっしゃることを理解するには、ルカ伝のイエス様のお話を思い出すのが一番でしょう。

「18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

 18:10 『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18:9-14

 

 この取税人こそ、イエス様がおっしゃる「心貧しく悲しむ人」です。彼は神の宮に来たとき、自分の一週間の歩みを振り返ると神様の前に顔を上げることができずに、胸を打ちたたいて、「ああつくづく俺は罪深いなあ」と思えて情けなく、涙が出てきてしまったのです。

 「月曜日は、あの貧しいやもめからもカネをふんだくり、火曜日は貧乏な年寄りからも税金を取り立ててきて、『人でなし!売国奴!』と背中に罵る声を聞いて帰ってきたなあ。水曜日は、貧乏な大衆食堂の夫婦から無理に・・・実際、おれは自分の生活のために、ローマ帝国に媚を売るおれは人でなしで売国奴だものなあ。」そう振り返ると、彼は情けなくて仕方なかったのです。だれも取税人になりたい人などいませんでしたが、どうしても家族を養うために取税人をしていたのです。取税人は同胞ユダヤ人の前では虎の威を借る狐そのもので、ローマ帝国の威を借りて虚勢を張っていました。そうでなければ、当時取税人は勤まりませんから。

 けれども、神殿にやってきて聖なる神様の前に出て、自らを振り返れば、自分のありのままの姿はなんと汚らわしく情けないものであることか。取税人は「ああ、神様、こんな罪人をあわれんでください!」と泣きながら祈るほかないのでした。しかし、そういう彼をイエス様は「ああ、君は幸いだなあ!天の御国は君のものだよ。」と慰めてくださるのです。

 私たちも、実際、主の日の朝、神様の前に出て、自らを振り返るとき、この取税人と同じではないでしょうか。私は、一週間を振り返ると、また聖餐式の朝には特に、「こんな罪人をあわれんでください」と申し上げないではいられません。そんな私に「ああ、おまえは幸いだ。天の御国はおまえのものだ。わたしがお前のために、十字架に死んだのだから。」と主はおっしゃるのです。救いは、恵みなのです。

 

結び

 「心の貧しい者、悲しむ者」とは、ほんとうに神様の前で、「ああ、私はだめだ。私は自分で自分の罪をどうすることもできない。主よ、こんな罪深い私をあわれんでください。」と認めた人なのです。

 以前、新潟は長岡の方の、こんなあかしを読んだことがあります。その方は、新聞記者で、社内ではみんなから「良寛さん」とあだ名がつけられるほどに誠実で温厚なかただったそうです。ある日、彼は誘われて本田弘慈先生の伝道会に出かけました。大きな公会堂で行われて、彼は二階席の奥に座っていました。本田先生が福音を語り終え、「今、神様の前に自分がどうにもならない罪人であると認め、そんなわたしを救うためにイエス様が十字架にかかってくださったと信じる方は、前に出ていらっしゃい。」と招きをしました。すると、あの新聞記者はすっと立ち上がって階段を下りて、前に歩み出てクリスチャンとなったのでした。

・・・彼は後に述懐しています。「わたしは皆さんから人物温厚で誠実な人と思われて、『良寛さん』などとあだ名をいただきました。けれども、私は決してそんな清い立派な人間ではありません。心の中には蛇蝎が住んでいる醜い人間です。だから、『良寛さん』というあだ名が重荷で重荷で苦しくてたまらなかったのです。そんなわたしのために、わたしのすべてをご存知の上で、十字架にかかってくださったお方イエス様を、わたしは信じたのです。」

  自分の罪に苦しみもだえているあなた、自分の罪を悲しんでいるあなたに、主イエスはおっしゃいます。

「ああ幸いだなあ。心の貧しい君は。天の御国は君のものだ。

ああ幸いだなあ。悲しんでいる君は。わたしがあなたを慰めてあげよう。」