水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

父母を敬え  (第五戒)

出エジプト20:12

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」出エジプト20:12

 

 1  二つの愛の戒めの関係

(1)二つの愛の戒め

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」ある日、イエス様にこのように質問する律法学者がいました。イエスは答えられました。

「「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』31,第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-30)

私どもは十戒を続けて学んでいますが、十の戒めは、神様への愛と隣人への愛とを教えているのです。主イエスがこの二つの愛の戒めを必ずセットでおっしゃったこと、また、まず神様に対すること、次に隣人に関することというこの順序でおっしゃったことは何を意味しているのでしょうか。

 

(2)神を愛することと、隣人愛とは不可分

一つは、イエス様が二つの愛の命令をワンセットで話されたのは、神さまへの愛と隣人愛とはきっても切れない関係にあるからです。神を愛しているといいながら、隣人を憎んでいるとしたら、その愛は偽りです。イエス様が来られたとき、パリサイ人たちは、自分たちこそ最も神を愛しているものであるという自負を持っていました。神を愛しているからこそ律法を厳密に規定して守っているのだと考えていたのです。けれども、イエス様の目から見ると、彼らのうちには神への愛はありませんでした。イエス様が長年病んで苦しんでいる人を癒したら、パリサイ人たちはイエス安息日の規則を破ったと非難しました。非難しただけでなく、その聖なる安息日にイエスを罠にかけて殺害する相談をし始めたのです。聖なる安息日に殺人の相談とは、なんという矛盾でしょうか。神を愛しているというならば、神様がご自分のかたちとして創造なさった隣人をも愛すべきです。神への愛と隣人愛とはきっても切れないのです。

また、「私は隣人を愛しているけれども、神様のことは嫌っている」と言う人がいるかもしれません。けれども、聖書的な観点から言えば、神様を無視して隣人を愛することは出来ない相談です。私たちは人を愛するといいながら、神様を抜きにしているときには、えてして単に人を自分のために利用している場合が多いのです。自分にとって利用価値がある者はかわいがるけれども、自分にとって利用価値がないということになると、冷淡に扱ってしまう。ある男性がこんなことをおっしゃいまいた。大企業の部長をしている夫がたくさん給料をもらってきているうちは、出かけるときに妻は「行ってらっしゃい」と言ってたんですが、定年になってそういう立場でなくなったら「いってらっしゃい」と言ってくれなくなったというのです。あるいは、奥さんが若くて美貌のときには、夫がちやほやとしていたけれど、年を経て来たら見向きもしなくなったというようなこと。そういうのが人間的な愛の限界です。人間的な愛というのは、同じ「愛」と名前はついているけれども、神様の愛とはまったく別で、中身は単なる欲望が愛という衣を着けているだけのことです。

神様から愛をいただいてこそ、私たちは本当の意味で隣人を愛することができます。なぜなら、愛の源泉は神だからですまた、隣人を愛しているかどうかによって、神への愛が真実なものかがはかられるのです。このように、神さまを愛することと、隣人を愛することとはきっても切れない関係にあります。

 

(3)隣人愛に神への愛が優先する

二つ目は、確かに神への愛と隣人愛とは密接不可分なのですが、究極の選択が迫られた場合には神さまへの愛の命令が優先するということです

エス様は、あるときに、「わたしのため、また福音のために父母兄弟畑を捨てた者は、この世でその百倍を受ける・・・」とおっしゃいました。もし、あなたが伝道者・牧師としての召しを神さまがくださったとすれば、親が反対するからやめますというわけには行かないのです。親を捨ててでも、主の召しに従わねばなりません。イエス様ご自身も、公の生涯に入られたとき、母マリヤや兄弟からは理解されず反対されていたということが、福音書には記されています。しかし、やがて理解されるときがきて、母マリヤもイエス様を信じ、主の兄弟ヤコブも初代教会の指導者の一人になっていきました。

エペソ書に、「子どもたちよ。主にあって、両親に従いなさい。」とあります。「主にあって」ということばが意味していることは、このことです。「両親にしたがいなさい」とあるからといって、両親があなたに偶像を崇拝しなさいとか、泥棒をしなさいと命じるからと言って、偶像を拝んだり泥棒をしてはなりません。また、どんな親であろうと子どもに真の神様にお祈りしたり、聖書を読んだり、礼拝をささげたりすることを禁じる権利はありません。子どもたちは、そういう意味で「主にあって」両親にしたがうべきなのです。主に反逆してまで両親にしたがってはなりません。父母は神様がお立てになった神様の代理ですから、神様にそむいて子どもに命令してはいけないのです。そして、神様にそむいて子どもに命じたことは無効なのです。

両親にしたがいなさいということは、「子どもたちよ、主がご自分の代理として、あなたにその両親を立ててくださったのだから、敬意を忘れてはいけない。」ということです。親は神様が、子どもに対してご自分の代理として立てた、代表権威なのです。

 

2  神は両親を敬う人に祝福ある人生をくださる

(1)神は両親を敬う人に、地上の祝福をくださる

「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。」「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」と私たちは4つの戒めを学んでまいりましたが、これらは神様への愛の表現の方法を教えていたのです。では、きょう学ぼうとする「あなたの父母を敬え」という戒めは、神様への愛を教えているのか、それとも、隣人への愛を教えているのかどちらでしょうか。二つの解釈があります。一つは後半の隣人愛に属するとする考え、もう一つは、前半の神への愛に属するという理解です。第二の説のばあい、「子どもは父母を敬うことを通して神への愛を表現しなさい」という意味になります。神は、子どもたちに対して父母をご自分の代理として立てていらっしゃるから、子どもは父母を敬うことを通して、神様への愛を表現しなさいということに他なりません。

「あなたの両親にしたがいなさい」という命令には、地上的な祝福の約束がともなっています。「あなたの父母を敬え」という命令に従えば、「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」というのです。

これは、どういう理由でしょうか。父母を敬うことは、神を尊ぶことですから、神はその人を地上の人生においても祝福してくださるのです。たとえば、アメリカ大統領が派遣した全権大使を日本人が侮辱したら、米国大統領は自分が侮辱されたと理解してかんかんになるでしょう。戦争になるかもしれません。逆に、全権大使を丁重にお迎えするならば、大統領は自分が丁重に扱われたように感じるでしょう。両親は神様からの大使ですから、子どもたちが父母を敬うなら、神様を敬うことになるのです。

父母を敬うことは、隣人愛の基本であるから、その基本をマスターした人は、社会生活においても祝福されるのです。幼い日から父母を敬うことを学ばないでは、豊かな家庭を築くことも、社会生活をすることもむずかしくなります。逆に、子どもが両親を敬い、両親にしたがうことを身に付けることができたならば、自分が社会生活をし家庭を築く上で土台を身に付けたことになります。

 

(2)両親を敬うことは、将来の社会生活・家庭生活の基礎である理由

 では、両親を敬い、両親に従うことを学ぶと、どのようにして自分の家庭建設や社会生活がうまく行くのでしょうか。また、逆に両親を敬い従うことが身についていないと、どうして自分の家庭建設や社会生活を豊かにすることがむずかしいのでしょうか。

まず、社会生活について説明しましょう。社会にはヨコの関係とタテの関係があります。ヨコの関係とは、同僚や同級生との関係を意味しており、タテの関係とは学校の先生や会社の上司との関係を意味しているわけです。家庭に於いて、子どもはこのヨコ関係、タテ関係を学ぶことが必要です。兄弟姉妹との関係が一応おもにヨコ関係だとすると、そして、子どもにとって父母との関係はタテの関係です。

家庭で親との関係において、子どもとして適切な態度、心構えを学んでおくならば、その子は学校に行こうと、あるいは職場に入ろうと、あるいは新しく家庭を築いていこうと、適切な人間関係を作っていくことにそれほど困難はないでしょう。けれども、家庭において親との関係について基本的にたいせつなことを学んで、経験しておりませんと、その子どもは学校でも、あるいは大人になって勤め先でも、あるいは結婚して家庭でも、さまざまな人間関係のトラブルを引き起こすことになりがちなのです。

ですから、家庭においてまず「あなたの父と母を敬え。」という命令に続いて、「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」という地上において祝福が約束されているわけです。このことは、新約聖書において使徒パウロも強調していることです。エペソ6:1-3

 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

 

3.子どもとして、親として

 

(1)子どもとして

 子どもは、この戒めを子どもという立場を弁えて聞きしたがうことがたいせつです。神様は子どもたちに命じていらっしゃいます。エペソ6:1

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」

 同時に、親としては子どもに対して「あなたの父母を敬いなさい」と教える責任があります。「尊敬されるほどの人間でもないし」と、自分では思うわけですが、親を敬うことを教えるのは、自分のためではなくて子どものためなのです。親を敬うことを学ばないでいたら、その子は不幸になってしまいます。親を敬うことを学べば、その子は長じて幸福を得ることができるのです。親が何かすばらしい人物だから尊敬するというのではなく、神さまが親を子どもの監督係り養育係りとしてお立てになったのだから、親を敬う必要があるのです。親を軽んじることは神さまを軽んじることになるからです。

 

むすび

「嗚呼、たれかこの任に堪ええんや」と、親としては告白しないではいられません。けれども、神様が親を子どもたちへの代官として立ててくださいましたから、立ててくださった神様におすがりするならば、神様が親としての私たちを支えてくださいます。

また、子どもたちは親を敬うこと、親に従うことを実行することです。それが祝福あるこの地上における人生の秘訣なのです。