正しい礼拝
出エジプト20:4-7
2019年7月21日 苫小牧主日夕礼拝
4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
5**,それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6**,わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
7**,あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
本日は、第二戒と第三戒を学びます。
1 第二戒
神を見えるかたちに表してはいけない
十戒の第一番目は、「あなたには、わたし以外に他の神があってはならない」というものでした。第二番目「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」です。第一番目と第二番目はどうちがうのでしょうか。第一番目は、創造主以外の異教の神々を礼拝してはいけないというものですが、第二番目は、創造主である真の神を礼拝するにあたっては、偶像を用いてはならないというものです。つまり第二戒は、まことの神さまを礼拝するにあたって、「なにも見えるものがないと、ピンと来ないから、まことの神さまを見えるかたちで表現した像を造ろう」と考えてはいけないと命じているのです。
申命記4章15‐20節には次のようにあります。
「15**,あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。**
16**,堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。
17**,地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。
18**,地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。
19**,また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。
20**,主はあなたがたを取って、鉄の炉から、すなわちエジプトから導き出し、今日のようにゆずりの民とされたのである。」
「別に偶像そのものが神だと思っているわけではなくて、それが象徴するまことの神さまを実感をもって礼拝するための道具です」と理屈をつけても、神さまはそんなことをお喜びにならないのです。いや喜ばないどころか、お怒りになるのです。だから、神やキリストの絵であれ、彫像であれ、それに手を合わせたり、跪いたりすることは絶対にしてはいけません。
2 礼拝の規制原理
礼拝の仕方については、神様がお定めになっているので、人間が勝手に工夫をしてはいけないのです。これを礼拝の規制原理といいます。「まことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみこころによって制限されている」(ウ告白21:1)
礼拝以外の私たちの日常の行動について、神様はそんなに事細かく定めてはいらっしゃいません。右手で箸を持とうが、左手で持とうが、フォークを使おうが、素手で食べようが、自由です。自分の家の建て方、間取りの方角など、どのように建てようと、自由です。朝起きたら顔を洗うか、洗わないか、いつお風呂にはいるか、どんな歌を歌うかなどなど神様は、私たちの自由裁量にまかせていてくださいます。けれども、こと礼拝をどのようにささげるかについては、神様は「わたしが定めたことにしたがってささげなさい」とおっしゃったのです。
イスラエルの民が生きていたオリエント世界ではさまざまな偽りの神々が礼拝されており、それぞれの異教的な礼拝の風習がありましたから、そういうものに染まってはいけないとおっしゃったのです。申命記12章には当時のカナンの地の異教のいまわしい習俗を、「こうしたらグッとくるから」などと言って取り入れてはいけないと述べてから、結びに次のようにあります。
申命記12章32節「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを守り行わなければならない。これにつけ加えたり減らしたりしてはならない。」
残念ながらキリスト教の長い歴史の中で、この原則から外れてしまうということが起きてきました。ローマ教会の礼拝堂にはマリア像が置かれていて、それを拝むという習慣があります。あれはもともと地中海世界にあった女神崇拝を取り入れたことから始まったのだそうですが、神様の忌み嫌われることです。
3.礼拝はささげる
また、礼拝は人間的工夫によらず、神様の定めによらねばならないということから、私たちは神様がお喜びになる礼拝はなんだろうか?という基本的な考え方で礼拝をささげるのが肝心なことです。自分がぐっと来た、自分が恵まれた、自分が感動したということは二の次のことで、礼拝にかんして第一に大切なことは、神様が喜んでくださるかなのです。なぜなら、礼拝は神様にささげるものであるからです。
「礼拝を守る」とか「礼拝にあずかる」とか、下手をすると「礼拝を受ける」などという人がいますが、礼拝は神にささげるものです。礼拝を受けるのは神様です。自分が何かをもらうのでなく、神様に自分自身をささげるのが礼拝です。
だから礼拝式が終わったら、神さまの前で反省すべきことは、「きれいな讃美歌だったなあ。」とか「いい説教だったなあ」とか「あまりよくない説教だったなあ」ということではありません。礼拝後、神様の前で私たちが反省すべきことは、「今日、自分は心からの礼拝を神さまにおささげできたでしょうか?」ということなのです。私たちキリスト者は、神様の前に祭司なのですから、自分が祭司として神様の前にただしく礼拝の務めを果たせただろうかと反省すべきなのです。
もし心から礼拝を捧げられたなら、主に感謝することです。もし、心がどこかに行ってしまっていたら、悔い改めることです。
4 第三戒
7**,あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
名は体を表すといいます。名前と言うのは、その人を代表するものです。自分にとって大切な人の名前は、その名を思い出して、口に出すだけで、うれしいような温かいような気持ちになるでしょう。若い人が恋人の名をノートに書き記してドキドキするようなこともあるでしょう。堺正章さんの歌に「息で曇る窓に書いた君の名前指でたどり・・・」とかいう歌詞もありました。
逆に、人を侮辱するとしたら、その名をけがすことです。たとえば、あなたの家の表札に泥が塗り付けられていたら、自分の顔に泥を塗りつけられたかのように感じることでしょう。名はその人の人格の代表であるからです。名はその人の人格を代表するものです。ですから、人の名前を軽々しく冗談のように口にすることは侮辱にあたります。
土から造られた人間の名前においてすらそうなのですから、まして、天地万物の創造主であるまことの神さまの名前は愛と畏れをもって語るべきです。礼拝という文脈でいうならば、祈りと賛美において、私たちは主なる神様の名を呼びます。「天のお父様」と呼ぶとき、「主イエス様」と呼ぶとき、「聖霊なさま」と呼ぶとき、心を込めて、畏れを愛をもって口にすることが大事です。
英語では神様の名をけがすような表現がありますが、クリスチャンは決して口にすべきではありません。「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」のです。
ハレルヤのヤーは主のお名前です。ハレルーはほめたたえましょうという意味です。ですから、この世の人々のように意味もなくハレルヤというのはやめましょう。「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」
ただし、警戒しすぎて主の名を忘れてしまってはなりません。実際ユダヤ人は呼び名がわからなくなってしました。もともと主なる神がモーセにYHWHという四つの子音からなるご自分の名を啓示なさって、その名でよばれていました。ヘブライ語ではもともと子音だけを記すことになっていましたが、正しい母音が最初はわかっていたので呼ぶことができたのです。ところが、ユダヤ人たちは主の御名を呼ぶことを畏れ多く感じすぎたので、「主」を意味するアドナイという名に読み替えて読んでいるうちに、どういう読みかたをするのかついに誰も分らなくなってしまいました。一応学者たちは、YHWHをヤーウェと呼んだのだろうと推測していますが、確たる証拠があるわけではありません。
新約の時代になって、「その名をイエスとつけなさい」と御使いが啓示して、私たちには「イエス」という名が明らかにされましたから、私たちは、祈りにおいてであれ、賛美においてであれ、心からの畏れを愛をもって、神のお名前を呼ぶことにしましょう。
教会福音讃美歌34