水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神はあなたを愛している

ヨハネ3章16節

2019年6月16日 苫小牧伝道礼拝

  

 聖書は永遠のベストセラーと言われますし、偉人たちは聖書についてさまざまなことを言い残しています。ナポレオンは「聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。」と言い、アブラハム・リンカンは「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある。」と言っています。

 そんな聖書ですが、実際に手に取ると、六法全書みたいに分厚くて、読み通すことは不可能と思ってしまいそうです。「こんな分厚い本だけれど、要するに何が書いてあるのか?」それを知りたいならば、ヨハネ3章16節を理解して憶えていただけばいいのです。これは奥義のかなめ、聖書の中の聖書です。今日は、それを順々にお話ししましょう。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3章16節

 

1 神は・・・世を愛された

 

(1)神とは天地万物の創造主。

 日本は八百万の神々がいると言われます。そういう神々と、聖書の神とはどこがどうちがうのでしょう。一言でいえば、八百万の神々は、たとえば人間が大きな岩にしめ縄をまいて神にしておこうとか、野球がうまいから彼を野球の神に祀り上げようとか、東郷さんは戦争に強かったから軍神にしておこうといって祭り上げたものです。つまり、この種の神々はみな人間が造ったものです。

 これに対して、聖書の神はこの宇宙全体を造り、私たち人間を造った唯一の神です。「初めに、神が天と地を創造した。」とある通りです。ここが違います。

 

(2)父と子と聖霊の愛の交わりの神

 この創造主である神様は、人間をお造りになったとき、神はおっしゃいました。「さあ、われわれのかたちに人を造ろう。」・・・「われわれ」と神がおっしゃったことに注意してください。先ほど、人間は八百万の神々を造ったけれど、真の神は唯一のお方であると申し上げました。ところがこの唯一の神は、ご自分を指してときどき「われわれ」とおっしゃいます。

 それは、唯一の神のうちに、父と御子の愛の交わりがあるからです。最初に読んだように、父なる神は、ひとり子イエス様と、聖霊による愛の交わりのうちにいきていらっしゃるのです。ヨハネ福音書第一章に「はじめにことばがあった、ことばは神とともにあった。ことばは神とともにあった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とあるとおりです。

 創造主である神は、愛の交わりの神です。

 

(3)神が人を造った目的

父と子と聖霊の愛の交わりの神様は、私たちを御子に似た存在として造りました。それは、私たちが、全身全霊をもって神を愛し、また、私たちがお互いに愛し合い、また、この世界を愛をもって治めるためでした。神は愛のお方ですから、その神様の愛が、この世界にも満ちるために私たち人間を作られたのです。

人間の主な目的は、神を愛し礼拝をもってそれを表すことです。また、神がくださった隣人を自分自身のように愛することです。また、世界を神のみこころにしたがって愛をもって治めることです。

 

2 滅び

 

(1)滅び

 けれども、ヨハネ福音書3章16節には、「滅び」ということばが出てきます。聖書がいう「滅び」とはなんでしょうか。滅びとは、天地万物の創造主との断絶状態を意味しています。神を親、私たちを子どもとすれば、人が滅びているとは家出した子どもの状態だということです。親はいるけれど、相談できないのです。滅びた人生にはいくつかのしるしがあります。

 

(2)人生のむなしさ

滅びの人生の第一の印はむなしさです。高校生のとき、私は身近な人の急な死という出来事があって、「人間はなんのために生きているんだろう?人生の目的とはなんだろう?」と考えるようになりました。当時わたしは国文学者になりたいなということで、それをとりあえずの目標として勉強していました。でも、目的はなにかというと、何もわかりませんでした。もし人生を電車に譬えるとすると、わかっている終着点はただ死ぬということだけでした。人が生きているのが、結局は死ぬためでしかないとしたら、なんとむなしいことでしょうか。

創造主である神が人を造られましたから、人の主な目的は、神の栄光をあらわし、神の栄光をあらわすことです。しかし、神に背を向けてしまったとたん、人はその人生の目的がわからなくなって、人生はむなしく無意味なものとなってしまいました。むなしさが滅びの人生の第一の印です。

 

(3)罪の奴隷

 神に背を向け、滅びた人生の第二のしるしは、罪の奴隷状態であるということです。奴隷状態というのはしたくないことをさせられるということです。

 たとい神様に背を向けていても、神様は人を御子に似たものとして造られたので、良心というものが備えられています。ですから、人はウソをつくとか、盗みをするとか、人を傷つけるとか、浮気をするとかするときに、良心の呵責をおぼえます。それで良心の呵責をおぼえて、もう二度とこの罪は犯すまいと決心を自分の内側でしたとしても、また、おなじ罪を犯してしまいます。自分でしたくもない罪を犯してしまうのです。まるで自分の中に、もう一人の悪い奴が住んでいるような状態です。人は罪の奴隷、サタンの奴隷となっているのです。

 これは、神に背を向けてしまって以来、人間がずっと悩んできたことなのです。心理学者も、教育者も医者も解決することはできません。

 

(4)死の向こうへの恐怖

 そして、滅びている状態の人のもう一つのしるしは、死の向こうへの恐怖です。哲学者は虚勢を張って、「死は怖くない。なぜなら、死んだとき私はそこにいないから。」などと屁理屈をこねました。でも、そんな理屈をこねなければならないほど、人間は死が怖いのです。それは、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていることを、人は心のもっとも深いところで知っているからです。そして、他の人の目の前では善い人としてふるまっているけれども、実際には、人目に隠れて、あるいは、心の中で邪悪なことをしてしまう自分自身を知っているからです。

 実際、もしあなたが今日、キリストを無視して死ぬならば、あなたは神の前に有罪判決を受けて永遠の滅びに陥らねばなりません。

 生きる目的のわからないむなしさ、罪の奴隷状態、死の向こうへの恐怖。あなたは、滅びのしるしをもっていないでしょうか。それは、神様が、あなたを神の栄光をあらわす器として造られたのに、あなたが神に背を向けていることによっているのです。

 

3 しかし、神は世を愛し、御子をくださった

 

 けれども、最初に申し上げたとおり、「神は世を愛された」のです。神はあなたを愛されたのです。神は、ご自分に敵対し、感謝もせず、心と唇と手で日々罪を犯しながら、永遠の滅びへと突進している私たち人間を愛してくださったのです。なぜなら、神は愛であるからです。そこで御子をくださいました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあるとおりです。

 御父は御子に言われたのでしょう。「人間たちは、私たちに背を向け、神などいるものかと言いながら、そして滅びへ滅びへとむなしい人生をたどっている。互いに傷つけあって苦しんでいる。あのままでは永遠の滅びに陥ってしまう。しかし、わたしは彼らを助けたいのだ。御子よ、お前が人となって彼らのもとへ行き、彼らの罪を背負って、救ってやってほしい。」そこで、二千年前、御子は人となってこの世に生まれてくださいました。

 父なる神と瓜二つの御子が人となってこの世界に来てくださったことによって、私たちは真の神がどのようなお方であるかということを知ることができました。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところのひとり子の神が神を説き明かされたのである。」主イエスがどのようなお方であるかを知りたければ、福音書を読まれるといいのです。イエス様のご生涯を歌った賛美歌「この人を見よ」で紹介しましょう。

「まぶねの中にうぶごえ上げ 匠の家に人となりて

貧しき憂え 生くる悩み つぶさになめしこの人を見よ」

 イエス様は人間の世に生まれるにあたって、王侯貴族や大富豪の家を選ばず、庶民である大工さんの家に生まれました。そうして、貧しさ、生活の苦しさということを経験してくださったのです。それは、私たちを理解する友となるためでした。

「食するひまも打ち忘れて 虐げられし人を訪ね

 友なき者の友となりて 心砕きしこの人を見よ」

 イエス様は食べる時間も惜しんで しいたげられた人、貧しい人、ツァラアトという忌み嫌われ差別される病気の人を訪ねました。またお金はあったけれども、町の嫌われ者であった取税人を訪ねて、その友達となりました。自分のようなものはイエス様に出会った人々は神の愛を体験したのです。

「すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで

 十字架の上にあげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」

 こうしてイエス様はすべての愛を注ぎつくし与えましたが、その生き方は当時のユダヤ社会の指導者であった人々の妬みや怒りを買うことになりました。民衆の人気は、イエス様に集まっていったからです。そうして、ついにイエス様は紀元後30年4月、ユダヤの裁判にかけられ、ついでローマ総督による裁判にかけられ、結局、死刑にされることになりました。主イエスは十字架に釘付けにされてしまいます。どれほどの悲しみと痛みと苦しみであったことでしょう。しかし、主イエスは十字架の上で祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」

「この人を見よ。この人にぞ、こよなき愛は現れたる。

この人を見よ。この人こそ、人となりたる生ける神なれ」

 神は愛です。そして、イエス様は、まさしく人となった生ける神でありました。

 

 たしかに主イエスはねたむ人々に捕まえられて十字架で処刑されたのです。けれども、主イエスはあらかじめこうおっしゃっていました。「だれもわたしからいのちを奪う者はいません。わたしが自分からいのちを捨て、また、いのちを取り戻すのです。」神様の御子が人となってこの世界に来られたのは、私たちを罪の呪いから救い出すためでした。罪の呪いを受けたままならば、私たちは神と断然し敵対しついにはゲヘナに落ちなければなりません。そこで、イエス様は私たちの罪の呪い、ゲヘナで受けるべき刑罰を、自発的にその身に引き受けてくださったのちに、三日目にイエス様はまことのからだをもって復活しました。その後弟子たちに40日間ご自分を表し、教えを与え、40日たつと天に上げられ、父なる神の右に着座されました。

 

結び 御子を信じる

 

 罪ゆえに私たちは生まれながら、神と断絶して、滅びていたものです。そして、むなしい人生、知らずに悪魔の奴隷とされている人生、死の恐怖に縛られた人生をとぼとぼと歩んでいます。その行き着く先は、地獄です。

けれども、人となられた神の御子イエス様は、あの十字架の上で、私たちの罪の呪いを引き受けてくださいました。イエス様は人間なので人間の代表また身代わりとなることがお出来になり、また、イエス様は全能の神なので、すべての人の罪を背負い、悪魔から私たちを救い出すことがお出来になります。

 では、イエス様が成し遂げてくださった救いの準備を私たちはどのようにして受け取ればよいのでしょうか。ヨハネ福音書3章16節に戻りましょう。「御子を信じる者が亡びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。あなたが罪と死と永遠の滅びを免れるためにすべきことは、ただ一つ、御子イエス様を信じることです。

 御子イエス様を信じるとは、神様の前で、私はたしかに罪がありますと認めることです。そして、イエス様が私の罪のために十字架にかかってよみがえってくださった、神の御子ですと口で告白することです。