水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

説教とは

ネヘミヤ8:1-8

2019年5月12日 苫小牧主日礼拝

 1民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。2そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、3水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。4学者エズラは、このために作られた木の壇の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。5エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。6エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。7ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。8彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。 

 

1.礼拝プログラム

 

 新しい年度になって、私たちは「御霊と真理による礼拝」をテーマに、礼拝とは何かということについてみことばに耳を傾けてきました。日本同盟基督教団の信仰問答書に「礼拝とは何ですか?」という31番目の問いがあり、それにこたえて「礼拝とは神との会見です。聖書の朗読と説教とを通して、神のみ旨を学び、わたしたちの賛美と祈りと献金とをもって、神にお応えします。」とあります。

 まず礼拝とは神様との会見です。私たちは公の礼拝に集いますが、それは神様とお目にかかるためです。一人でデボーションすることも大事なことですが、イエス様は「二人でも三人でもわたしの名によって集うところには、わたしもそこにいる」とおっしゃいましたから、主イエス様の名によってともに集うところに主のご臨在が特別にあるという約束があります。先日、イースター子ども会で弟子トマスの劇をしましたが、復活の主イエスは一人で待っていたトマスのところではなく、ぶるぶる震えながら集まっていた他の弟子たちの所に現れたのです。

 皆がイエス様の名によって集う礼拝の中で、どのようにして私たちは主と出会うのかといえば、神様の側からは「聖書の朗読と説教」があり、それに対して私たちの側からは「賛美と祈りと献金」をもって応答するという風にして、出会うのです。週報の礼拝次第を見れば、

最初に神様の招きのことばが朗読されます。

それにこたえて、私たちは賛美と祈りをささげます。

次に神の方から紙芝居です。

次にそれにこたえて、私たちから使徒信条告白、賛美二つ。

そして神様から聖書朗読と説教。

応答として賛美と献金

そして、私たちの側から頌栄で神にご栄光をおささげして、

最後に、神様からの祝福が取り次がれる祝祷という順序になっています。

 このように、礼拝は神との会見であり、その内容は、神からのことばと、それに対する応答としての祈りと賛美と献金で礼拝は成り立っています。聖餐式は、見えない神のことばを見える、食べられるかたちに表現したものです。食べられる神のことば。というわけで、礼拝における神様の臨在は聖霊を伴うみことばによってもたらされるわけです。

 教会の歴史では古代教会では聖書の解き明かしが熱心に行われましたが、中世にはいりラテン語訳聖書のみが正しいとされて、人々の日常のことばがラテン語でなくなっても、延々とラテン語聖書しか読まれない時代が千年ほど続きました。そのころは、聖餐のパンに与ることが礼拝の中心になっていました。しかし、16世紀に宗教改革が起こり、聖書が各国のことばに翻訳されるようになって、神の言葉が礼拝の中心に戻ってきました。プロテスタント教会の礼拝プログラム全体の中で、中心に位置するのは、聖書朗読と説教です。では、礼拝の中心を占める聖書と説教とはなんなのか?ということをまずネヘミヤ記から学びます。そのあと、説教を聞く人たちの務めについて。

 

2.説教とは聖書朗読の解き明かしである

 

(1)歴史的背景

 歴史的背景。紀元前14世紀、神様はモーセを通して、律法の書と呼ばれるモーセ五書をお与えになりました。イスラエルの民は、「心を尽くしいのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」という命令と、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令にしたがって約束の地において、祭司の王国を建てていくことを神様は命じました。それは、イスラエルの国を通して真の神の素晴らしさ、救いと祝福が世界の諸民族の前に表されるためです。しかし、もし彼らが偶像崇拝にふけり、みなしごやもめや在留異国人といった社会的弱者が虐げられる格差社会にしてしまうならば、神は外国の軍隊をもってイスラエルを滅ぼし、民を外国へと捕虜として連れて行かせると、神はあらかじめ申命記において警告していました。 

 しかし、その警告にもかかわらず、イスラエルの民はこの律法の書から離れて、土俗の偶像崇拝や、周辺のオリエント諸国の偶像崇拝を取り入れてしまいました。「心を尽くしいのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」という命令に背いたのです。また、神の言葉に背いて、みなしご、やもめ、在留異国人の訴えが取り上げられない不公正な社会にしてしまいました。「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令に背いたのです。神が送った預言者たちは、悔い改めて律法に立ち返れというメッセージを発し続けましたが、北イスラエルも南ユダ王国も悔い改めませんでした。

 そこで、神は程度の酷い北イスラエル王国を8世紀にはアッシリヤに滅ぼさせました。彼らは他国へ捕虜とされてしまい、消息不明になってしまいます。そして、紀元前6世紀には南ユダ王国もバビロンに滅ぼされてしまい、民は捕虜とされてしまいます。バビロン捕囚です。

 しかし、神様はバビロンをほどなく滅ぼし、それを引き継いだのはペルシャ帝国でした。ペルシャ帝国の王たちは、不思議なことにキュロス王から始めて、ダレイオス王、アルタクセルクセス王たちは、エルサレム神殿の復興をさせるために民をカナンの地に帰還させました。さまざまの妨害を乗り越えで、ネヘミヤはエルサレム再建を指導し、ついに、城壁が建て直されて扉がつけられ、門衛、レビ人、聖歌隊が任命されたのでした。これが7章までです。そして、8章で礼拝の場面となるわけです。

 

(2)律法の書の朗読

1民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。2そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、3水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。

  民は渇いていました。水ではなく、神の言葉に飢え渇いていたのです。そして、モーセの書を読んでくれるようにエズラに願ったので、学者エズラは神の言葉の朗読をしたのです。彼らは、自分たちの先祖が長年にわたって神のことばをないがしろにして、読まなくなってしまったことによって、北イスラエル、南ユダ王国は滅ぼされたことがわかっていたのですね。神のことばを読まなくなったので、偶像崇拝が罪であることもわからなくなって行き、隣人をしいたげることが罪であることすらわからなくなってしまったのです。そして、祭司の王国としての実質を失って滅ぼされたのです。そこで、律法の書に立ち返ることが、彼らのやり直しにとって必須だったのです。

 律法の書の朗読を聞いて、民は感激しました。朝から真昼まで、律法が朗読されるのを聞いたからです。

5エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。6エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。

 ところが、困ったことがありました。それは学者でない一般の男女には、律法の書が読まれても、その言葉がよくわからなくなっていたのです。その理由は、数百年前に記された律法のことばが、その時代から800年も後の紀元前6世紀のユダヤ人たちにはわからなくなっていたということでしょう。もしイスラエルの民が律法を読み続けていたら、彼らが日ごろ用いるヘブライ語もそれほど変化しなかったかもしれませんが、そこから離れてしまっていたので、ヘブライ語が大きく変化したようです。800年前ということでいえば、私たちも平家物語などを読めば、それが日本語であるとはわかるものの、古典文法や語彙を勉強しなければ正確な理解がむずかしいでしょう。ですから、説明が必要でした。そこでレビ人たちが、それを民に解き明かしました。

 7ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。8彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。

 これが説教です。聖書は紀元前14世紀から1世紀の終わりまでの間に書かれたものです。旧約聖書ヘブライ語で記され、新約聖書ギリシャ語で記されています。現代の日本人にとっては、言語としても時間的にも文化的にもたいへん遠く隔たったものです。

 でも、今日私たちは神の言葉である聖書を読んで理解することができます。3つ理由があります。第一に、聖書が現代日本語に翻訳されているからです。第二に、聖書と神学を専門に勉強した説教者がこれを説き明かすからです。そして、第三に聖霊が聖書を読む私たちの心を照らしてくださるからです。

 礼拝における説教とは聖書の解き明かしであって、人間が考えた講話や漫談ではありません。神さまは、聖書の各巻を記した聖書記者の属していた当時の時代と文化と言語をもちいて、66の巻物から成る聖書を啓示してくださいました。ですから、説教者は聖書全体によって神のご計画の全体を把握して、かつ、各聖書記者たちの属した時代の文化と言語と、現代日本における文化と言語の隔たりを埋めて、みなさんに神様のみこころを告げるのが仕事であるわけです。そのために、聖書語学と聖書全体に関する教理の体系、教会の歴史、教理の歴史などいわゆる神学の学びを神学校でしています。

 

 牧師は説教のための営みのすべてを聖霊様に導かれ、励まされ、力づけられこそなすことができます。聖霊様の助けなくしては不可能なことです。

 ヨハネ14:26,「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ですから、みなさんは必ず牧師の説教の準備と奉仕のためにお祈りください。使徒パウロは、牢につながれていましたが、エペソ書でこのように求めています。

エペソ6:19,20「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

 

3.説教を聞く人々の務め・・・ウェストミンスター大教理問答

 では、説教を聞く側のみなさんは、どのように聞くべきなのでしょうか。それについて、ウェストミンスター大教理問答書160はつぎのように述べていることを紹介したいと思います。

  問160 み言葉の説教を聞く者に、何が求められているか。

答 み言葉の説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、

第一に 勤勉・準備・祈りをもってそれに聞くこと、

第二に、聞いた説教を聖書によって調べること、

第三に、信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること、

第四に、それについてめい想し、語り合うこと、

第五に、心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶことである。

  第一のことはすでに申し上げました。第二の「聞いた説教を聖書によって調べること」というのは、ベレヤの信徒たちが熱心にしていたことでした。次のように書かれています。使徒17:10ー12「兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。」

 パウロがイエスのことと旧約聖書のメシヤ預言を照らし合わせて、「イエスこそキリストです。悔い改めてイエスを信じなさい。」と宣べ伝えたのを聞いたベレヤ教会の兄弟姉妹たちは、それは本当なのかと旧約聖書の預言と照らし合わせてみたのでした。そして、その通りだと確信して救われたのです。みなさんも、説教を聞いたなら、それが聖書の教えにかなっているかを確認してください。そうすれば、あなたの中で確信となります。 

 第三に、「信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること」です。説教を聞いても、信仰、愛、柔和という心の備えをもって聞かなければ益になりません。へブル書4章2節には、こうあります。「2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」とあるように、かりに正しく説き明かされた説教を聞いても、信仰をもって聞かなければ、何の役にも立ちません。

 聖書の解き明かしを聞いて、信仰、愛、柔和という心の備えをもってこれを聞くならば、あなたはこの世だけでなく、次の世においてまで絶大な益を受けることができます。みことばが悔い改めを求めるならば、悔い改めることです。みことばが信じることを求めるならば、信じることです。みことばが、何かあなたに警告を与えるならば、畏れおののくことです。使徒パウロはテサロニケの兄弟姉妹に向かって言いました。1テサロニケ2:13「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」

  第四に、みことばをめい想し、語り合うことです。一人で思いめぐらし、兄弟姉妹とのコイノニアや祈り会や家族で説き明かされた御言葉について語り合うことです。エペソ書5章19節に詩篇をもって互いに語り合いなさいとあります。自分で思いめぐらすことも有益ですが、主にある兄弟姉妹とともにみことばを語り合うこともまた有益です。なぜなら、「二人三人、わたしの名によって集うところに、わたしもともにいる」とイエス様が約束してくださったからです。私は、祈り、学び、説教原稿に一言一句書き上げますが、実際に、みなさんを前にして語り始めると、そこで新しい御言葉に関する洞察が与えられるものです。

  そして、第五に、「心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶこと」です。聖書は約束するのです。みことばを昼も夜も思いめぐらしていれば、必ずあなたの生活は変わり、実を結ぶようになります。詩篇第一篇に、「主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人、その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える」とあります。みことばの解き明かしである説教を聞いても、会堂を出たらもう忘れているというようなことで、生活において実を結ぶことはありえません。みことばを生活の中で何度も口ずさみ、にれはむのです。みことばを紙にメモして台所とか、仕事机の前にメモしておいて、牛が反芻するように、何度も何度もです。

 そうすれば、必ず、あなたの人生に、主のみことばが実を結ぶことになります。