水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

十戒:礼拝の原則

出エジプト記20章2‐17節

 

2019年4月7日 苫小牧主日礼拝

 

序  十戒の序文

 2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」は十戒の序文です。アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、エジプトに430年間も過ごしていました。そして、エジプトの習俗にも罪にも相当染まっていたようです。

 十戒が与えられたのは、エジプトにおいてではありませんでした。エジプトにおいて十戒を与え、「もし十戒を守ることができたら、エジプトから助けてやろう」と神様がおっしゃったわけではありません。そうではなく、神様は「わたしは、先祖アブラハムに対して結んだ約束があったから、その約束を守るために、あなたがたイスラエルの民をまずエジプトから救い出したのだよ」とおっしゃっているのです。恵みによって救い出したのだから、これからは、この十戒を守って、わたしを礼拝して共に生きるのだと神様は招いていてくださるのです。

 出エジプト記の3部構成からも、そのことは明らかです。

 第一部は1章から18章でエジプト脱出の経緯です。つまり神さまがモーセをもちいてどのようにイスラエルがエジプトからの脱出したかについて書かれています。

 第二部19章から24章までは律法です。つまり、どのように神様に従っていくかが書かれています。

 第三部25章から40章までは幕屋建設です。幕屋とは神様の家を意味していて、今でいう礼拝堂です。そこで神と神の民は出会うのです。

 アウトラインが教えていることは、神の民を礼拝の生活つまり神と共に生きる生活に招いていらっしゃるということであり、律法とは神とともに生きるためのガイドラインであるということです。その神の礼拝の民として生きるガイドラインである律法が要約されたのが、十戒でした。

 新約の時代の神の民である私たちについても、救いの順序は同じことです。神様は私たちが十戒を守って立派に生きているから「合格だ」といって、悪魔の支配から救い出してくださったわけではありません。そうでなく、まずイエス様の十字架と復活を根拠として恵みによって私たちを悪魔の支配から救ってくださいました。神さまは、恵みによって救われた私たちを、神と共に生きる礼拝の生活へと招いていてくださいます。その神と共に生きる礼拝の生活のガイドラインとして、十戒は今も役に立つものです。

 

 

1.第一戒  真の神のみを礼拝する

 

 礼拝において、一番目に大事なことは、天地万物の創造主である真の神のみを礼拝しなさいということです。3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」

 日本人は長年の間、本当の神さまを知らないで来ました。でも、何かを恐れて生きることは大事なことなのだという宗教的感覚は持っていました。それで、とにかく何でもいいから信じることは大事なことなのだと考える人が多くなってしまったように思います。昔のうたに「なにごとにおはしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」というのがあります。なんかよくわからないけれど、ただただありがたやというのです。けれども、第一の戒めは言います。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」天地万物を造られた父子聖霊の三位一体の神以外を、神として礼拝してはいけないのです。

 イスラエルの民のこのあとに続く歴史を見てみると、彼らは主なる神をすっかり忘れてしまったということはありませんでした。ずっと主なる神を礼拝してはいたのです。けれども、彼らは「主なる神のみ」を礼拝するのでなく、カナンの地にあった土俗のバアル、アシュタロテという男神、女神をも、真の神と並べて礼拝するようになりました。そして、神の怒りを買って、国は滅びてしまうのです。

 日本は多神教の世界で、八百万の神々が拝まれています。また世界は多元主義の時代とかいって、キリスト教もいいけど仏教もイスラム教も樽前神社もいい、オウム真理教以外なに信じていても天国に行けるという風潮があります。そうして、キリスト教は多くの宗教の一つであるというふうに、世間の人は思っています。だから、「キリストだけが救いです」というのは、とても偏狭な考え方であるとか排他的だと言って非難します。

 けれども、神の言葉である聖書はなんと言っていますか。イエス様はなんとおっしゃっていますか。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

また、使徒はこう言っています。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 私たちは、天地万物の造り主であり、唯一の救い主である、父子聖霊の三位一体の神のみを礼拝します。3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」

 

 

2 第二戒  礼拝に偶像を用いてはならない

 

 礼拝の第二の戒めは、4節から6節です。「4**,あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。5**,それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6**,わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

 命じられていることは、真の神に礼拝を捧げるにあたって、神の偶像を造ってもちいてはならないということです。神は見えない方だから、ぴんと来ない、ぐっと来ないから、立派な見える偶像を造って拝みたいというのです。

 この罪は、イスラエルの民が出エジプト記32章の中で犯しています。モーセが山に登ったまま帰ってこないものですから、イスラエルの民はモーセはもう死んでしまったに違いないということで、アロンに神の像を作ってくれと願います。アロンは、イスラエルの民に「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」と言い、,民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来たので、彼はそれを溶かして鋳型にはめて金の子牛の像を作って、これを礼拝させたのでした。そのとき、アロンは言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」新改訳2017がエロヒムをここで「神々」と訳したのは間違いでしょう。子牛像は一頭でした。アロンは、これが主なる神の像だといったのです。つまり、アロンは真の神を礼拝するにしても、イスラエルの民にはどうもぴんと来ないから、像を作ってみたわけです。この出来事は、主なる神の怒りを買うことになりました。

 旧約聖書にも契約の箱の上にケルビムという天使の像をつくることは神が求めたことですから、なんでも像を造ってはいけないというのではありません。そうでなく、神を現わすために像を作るなとおっしゃったのです。それは、どんなにたくみで美しく立派な偶像であっても、真の神を現わすことは決してできず、かえってけがすことになるからです。ですから、主なる神はことばでご自分のみ旨をあらわして、決して像を造るなとおっしゃるのです。

 新約聖書の時代、神様の御子が受肉され見える人として来られたので、むかしから画家たちは面長でひげを生やしたハンサムな青年としてイエス様を描きます。けれども、福音書を見ると、イエス様の背が高かったとか低かったとか、やせていたとか太っていたとか、ハンサムだったとかそうでなかったとか、髪の色、目の色がどうだったとか、ひげがあったとかなかったとかいうことは、一切書かれていません。不思議なほどです。聖書記者たちの中に、イエス様の見える姿については書いてはいけないという自覚があったのだと思います。だからイエス様の聖画像や彫像をもちいて礼拝することはしてはなりません。

 私たちは、神様がことばをもって啓示されたのですから、ことばをもって神様のことを知ることが大切なのだということをわきまえましょう。

 

3 第三戒  御名をみだりに用いてはならない

 

 礼拝に関する第三の注意点は7節、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」です。日本でも「名は体を表す」と言いますが、ヘブル思想でも名前は単なる記号ではなく、その名が示す本体を表すものとされています。実際、私たちの生活でも、名前と言うのはその本人を直に指し示すものですから、名前を侮辱するということは、本人を侮辱することになります。たとえば、あなたの家の壁に泥がくっつけられたのと、あなたの家の玄関のあなたの名前が書かれた表札に泥がべったりつけられたのとでは、まったく重みがちがうでしょう。あなたの名が書かれた表札にべったり泥がつけられると、自分の顔に泥をつけられたというふうに感じるものです。

 人の名前を取り上げて、それで遊ぶのもよくないことです。私は子どものときから、学年が変わるたびに担任の先生に「水臭いなあ」と言われてきましたが、言ってる側は面白いつもりかもしれませんが、言われている側は、愉快なものではありません。教師を軽蔑するようになっただけのことです。思い出すと、私も神学校時代の同級生の名前を読み替えて失礼なことを言って傷つけました。申し訳ないことをしました。

 土から造られた被造物にすぎない私たちですら、そうなのですから、まして、天地万物の聖なる創造主のお名前は大切にしなければなりません。私たちは軽々しく主のお名前を用いたりしないように注意しましょう。心を込めて、愛と畏れとをもって主の名を呼ぶことが大事です。

 礼拝の中で、神様のお名前を呼ぶ時と言うのは、特に、祈りと賛美歌を歌うときでしょう。「天のお父様」と呼び、「イエス様」と呼ぶとき、また「ハレルヤ」というときに、私たちは愛と畏れをもって呼ぶべきです。「ヤ」というのは、モーセに対して神様がお告げになったご自分の名ヤーウェのことです。賛美において、祈りにおいて、主の御名を心こめて呼ぶ者でありましょう。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」積極的にいえば、「神様の名を呼ぶときには、愛と畏れと喜びをもって呼びなさい」です。

 

4 第四戒  安息日を覚える

 

 恵みによって救われた私たちは、礼拝に関して、第一にまことの神のみを礼拝すべきこと、第二に実感をこめて神を礼拝するためといって偶像を用いてはならないこと、主の御名を呼ぶときには敬虔な心で呼ぶべきことと学んできましたが、それが具体的な礼拝の生活となるのは、礼拝の日を神さまのものとして、他の六日間と取り分けることによってです。これを聖書のことばで聖別するといいます。

 安息日8**,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

9**,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

10**,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 旧約時代は安息日は週の終わりの日とされていましたが、新約時代には、安息日はイエス様が復活なさった日を記念して、週の初めの日に移されました。使徒の働きを見ても、すでに、週の初めの日に礼拝をしていた様子はうかがえます。使徒パウロがトロアスを訪ねたときの記事です。

使徒20:7 「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」

 

5 第五~第十戒  隣人愛と神への愛

 

 そして、十戒の第五から第十の戒めは隣人愛に関する戒めです。

12**,あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。**

13**,殺してはならない。**

14**,姦淫してはならない。**

15**,盗んではならない。**

16**,あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。**

17**,あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。

 これらは私たちが神様にささげる礼拝と関係があるでしょうか。大いにあります。主イエスはおっしゃいました。

「 5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:23,24)

 十戒の後半の罪を犯して、兄弟姉妹との関係に問題があるならば、そのままにして神様の前に礼拝をささげないで、仲直りしてから礼拝をささげるべきです。主イエスがおっしゃったように、隣人愛と神への愛とは密接不可分な関係があるのです。ペテロも、妻につらくあたっていると、神様は夫たちよ、あなたがたの祈りに神がきいて下さらないですよと警告しています(1ペテロ3:7参照)。

 

結び

 以上のように、私たちは礼拝の原則について学んできました。

序 私たちは、イエス様の血潮によりすがっている者として、礼拝の民に招かれました。

第一 まことの神のみを礼拝しなさい。ほかの神々をあわせ礼拝するな。

第二 神を実感して礼拝するためだといって偶像を用いてはいけない。

第三 祈りと賛美において、神様の名を呼ぶときには、愛と畏れと喜びをもって呼びなさい」。

第四 安息日の公の礼拝を大事にしなさい。

第五~第十 そして、隣人に恨まれていることを思い出したら、仲直りしてから礼拝すること。

 

 このあと私たちは月に一度の聖餐に与ろうとしていますが、その備えのときに、私たちは「自分を吟味しなさい」と聖書は勧めています。こうした自己吟味をして、神に喜ばれる礼拝をささげましょう。