水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

契約の神

Ex6

2019年3月10日 夕礼拝

 

 主の召しを受けても、さんざん躊躇していたモーセですが、主に兄アロンをスポークスマンとして付けるから大丈夫だと説得されて、ファラオのもとへと行きました。しかし、前回みたように、派遣された当初、モーセは神のことばをファラオを怒らせないように少々水増しして伝えるというありさまでした。

 ファラオは、お前たち怠け者の奴隷の神、主など知らない。そんな神のいうことを聞く気などまったくないという反応でした。あらかじめ主から、この結果については告げられていたことではありましたが、改めてその通りになって見ると、モーセとアロンはがっかりします。ファラオは、へブル人奴隷のレンガ造りの労働条件を理不尽に悪化させるというパワハラをします。意図したのは、モーセとへブル人たちの仲を裂こうということです。お前たち、モーセのいうことなど聞いていたら、よけいに生活は苦しくなるのだぞと身をもって知らしめようとしたのです。

 案の定、重労働でくたびれ果てていたへブル人たちはモーセとアロンに反発し、彼らを呪うようなことさえ口にします。それで、モーセはがっかりしてしまいます。こういう背景で、6章は始まります。

 

1 必要なのは忍耐 1節 

 

 がっかりしているモーセに対して、主は今一度、「今にわかるよ」となだめます。

1,主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」

 種を蒔いたら、翌日には花が咲き、その翌日には実がなるというものではないのですが、この段階のモーセはまだそのことを学んでいませんでした。作物を育てるといえば、地を耕して畑を作り、肥料をまいて、種を蒔いて水をやり、一週間ほどして芽が出て、カラスが食べに来るのを警戒しながら、草取り等を死ながら、忍耐していると、段々と茎が出て葉っぱが出て成長し、何か月かして花がようやく咲いて、それからしばらくすると実がなるものです。

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは」なんっですか?そう「忍耐です。」へブル10:36

 神のみこころを行なうことは種まき、種まきからいきなり収穫とはなりません。神のみこころを行なわなければ、約束のものが手に入ることがないのは事実ですが、神のみこころを行なったからといって、翌日約束のものが手に入るだけではありません。忍耐が必要です。目先の状況、人の反応にいちいちふらふらしないで、忍耐をもってコツコツと神の御心を行ない続けることが必要です。

 

2 契約の確認  2-9節

 

 そして、神は契約の内容をモーセに確認してくださいます。

(1)わたしは主である

2,神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしはである。

3わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブ全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。

 

 これを読んで、あれ?と思う人が多いでしょう。というのは、「主」という太字の名は、創世記の最初の方から出てくるからです。主の名を呼び始めたという表現は、セツ族の人々でも出てきました。では、ここで言う「主という名では知らせなかった」とはどういう意味なのでしょうか。「知らせる」というヘブル語のことばの意味は、単にヤーウェという名前だよということを意味するわけでなく、その名に含まれている深い意味を教えることはなかったという意味なのです。ヤーダーという動詞は、深い意味があるのです。

 ですから、ここで語られていることは、ユアハウェという神の名がこれまで全然用いられていなかったという意味ではありません。ただ、この神の名には特別の意味が含まれていることについては知らせていなかったという意味です。

 では「主」という名にはどういう意味があるのでしょう。それは主は全能の神であるだけでなく、民にお与えになった契約にどこまでも忠実なお方であり、神の民を救い出すお方であるという意味です。主という名と契約と言うことは、密接に結びついています。特に、「わたしは主である」という表現は特別のもので、モーセ五書で25回用いられていて、どの場合も、同じ「主は全能の神であるだけでなく、民にお与えになった契約にどこまでも忠実なお方であり、神の民を救い出すお方である」という思想と結びついているのです。みなさんも注意して読んでみてください。4節以降、契約の中身が出てきます。「契約を立てた」(4節)、「契約を思いい越した」(5節)と出てくるでしょう。

 

  • 契約の中身は3点あります

 先祖アブラハムへの契約の内容の一つは、カナンの地を与えるということです。

4**,わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。

 先祖アブラハムへの契約の内容の第二は苦役から救い出すこと。

6**,それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。**

 そして第三に、契約の主題はは7節前半です。

7わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。**

8わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」

 

 なぜ、主題が7節前半とわかるかというと、次のキアスムスとなっているからです。

 A約束の地を与える、

 B苦役から救う、

 C神が彼らを民とし、神が民の神となる

 B苦役から救う、

 A約束の地を与える

 というキアスムスになっているので、波紋の中央にある神が彼らをご自分の民とするが中心テーマだとわかるわけです。天地万物の主、全能の神が、主という名を明らかにして、アブラハムに結んだ契約を今実行しようとしているのだとおっしゃるのです。

 けれども民は疲れ果て、心かたくなにしたのです。

 9モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。

 

3 モーセの口下手、逃げ口上・・・聖書―神の契約の書

 

10-13 主はあらためて失意のモーセにパロに対する命令を下しますが、モーセは自分は口下手であると訴えるので、モーセだけでなくアロンに命令を下される。

10,主はモーセに告げられた。11「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」

12しかし、モーセは主の前で訴えた。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

13,主はモーセとアロンに語り、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられた。

 14-26は話の本筋から離れて、モーセとアロンが属するレビ諸氏族の系図がは注釈としてさみこまれています。筆者の意図は、26-27節を見るとわかるように、ファラオに対して主の御告げを伝えたモーセをアロンの来歴を紹介することです。26,このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。

27,エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。

 話の本筋からやや離れますが、ここで聖書という歴史の書の特徴を確認しておきましょう。聖書の特徴は出エジプトの立役者であるモーセさえも美化し英雄的に描くことをしないで、ありのままに描いているところです。

28,主がエジプトの地でモーセに語られたときに、

29主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」

30,しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 モーセは主に召されて預言者とされたものの、臆病で引っ込み思案で、自分は到底そんな重責を担うことはできませんと何度も逃げ回っています。そうして逃げ回ったことが、何度も繰り返し記されています。こうしたところが聖書の特徴というか、聖書が神の言葉であるゆえんです。

 旧約聖書は、イスラエル国家の根幹をなすもので、表面的に見ると、世界の国々で政府が歴史書と同じようなものに見えます。国家というものは、歴史を編むにあたっては、その国家の正統性を擁護することを目的とし、その国の過去の指導者たちは美化されるものです。古代エジプトのある碑文には戦争に勝ったことは記録されていますが、負けたことは書かれていないといいます。私たちの国でいえば、古事記日本書紀がそうした歴史書で、8世紀前半に大和朝廷の正統性を示すものとして書かれました。現代でも国の歴史に何を記し、国民に何を教えるかについて議論があります。古代史では日本の歴史教科書と韓国の歴史教科書でおいてちがいがあります。現代史では天皇と日本政府と軍隊が何をしたかについて論争があります。安倍さんは「美しい国、日本」と言って、あったことをなかったことのようにして美化する歴史修正主義者たちです。国家による歴史の記述は、すこぶる政治的なものです。

 ところが、聖書は不思議なほどに人間を決して美化しません。モーセという最大の預言者であり、国家の土台にあたる人物も、聖書においては口下手を理由に主の召しから逃げ回る臆病者というわけで形無しです。旧約聖書は、国家の正統性を表し、美化するために編纂したものではないことが明白です。旧約聖書は、諸国の歴史書とはまるで異なっているのです。では、聖書とはなにか。聖書という書物の性格を一言で言えば、真実な主なる神がご自分の民に与えた契約の書なのです。私たちの神は、契約の神、主です。私たちに救いの契約を与え、与えた契約に対しては、どこまでも忠実に実行してくだわるおかたなのです。

 主イエスは最後の晩餐で新しい契約を結んで言われました。マタイ26章28節「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」主は恵みによってご自分が流した契約の血の真実にかけて、私たちを赦し、私たちを救ってくださるのです。