水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の価値観、この世の価値観

出エジプト5章

2019年2月28日 苫小牧夕拝

 

 1  モーセはまだ怖がっていた

 

 イスラエルの民に、神のみ旨を告げたところ、彼らは先祖アブラハムへの契約をおぼえていてくださり、彼らを顧みてくださった神に礼拝をささげました。そして、いよいよモーセはパロのところへ出かけてゆきます。

1**,その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」

モーセが告げた主からの命令の趣旨は、主の前にれいはいをさせよということです。

するとパロは、なんで自分がヤーウェとやらの命令を聞かねばならないのだと反発します。彼は人に命令することはあっても、命令を受けることなどないのです。特に、エジプトの神々でなく、奴隷にすぎないイスラエル人の神の命令など聞く気はさらさらありません。

2**,ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」

 パロの剣幕におそれをなしてしまったモーセは、次のようにパロに答えます。

3**,彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」**

 

 少しおかしいですね。モーセは主のことばをそのまま伝えていません。4章23節を振り返ってみましょう。「わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」

 モーセは、パロには刺激が強すぎると思って、少しみことばを和らげて話してしまっているのです。モーセはまだ主のしもべに徹することができないでいると思われます。しかし、ここで彼を責めるのはよしましょう。神様も責めていらっしゃらないからです。この後、モーセはパロとの交渉を通じて、徐々に神のしもべ、神の預言者らしく、鍛えられていくことを期待しましょう。

 

 2  パロ、この世の王

 

(1)パロの俗的価値観

 ついでパロは、モーセたちの言うことを曲解して言います。

4**,エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」**

5**,ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」**

 

 パロの解釈では、モーセとアロンは、単にイスラエルにサボる口実を与えようとしているにすぎないということです。神を礼拝することなど、労働者が仕事をサボるための口実に過ぎないのだというのが、権力者であるパロの価値観なのです。

 この箇所を読むと、私が神学生時代に、私の知り合いの牧師澤正彦牧師が起こした、「日曜日授業欠席処分取り消し訴訟」のことを思い出します。小学生の娘さんが日曜日に授業参観があったのですが、娘さんは日曜学校と礼拝に出ることを希望して、あらかじめ学校にその旨を知らせて授業参観には出ませんでした。すると学校は、この子を欠席処分にしたのです。

 これに対して原告両親は、時善意教会学校の宗教行事の参加させるため出席できない旨を各担任に通知すると共に、①公立学校は日曜日に授業すべきではない、②日曜日に授業を行う場合はあらかじめ父母、子どもに任意であることを伝え、出欠をとるべきではない、③日曜日授業は、教育法が保障している宗教教育の自由をおかすものである、との要請を出していた。しかし授業は行われ、欠席とされたので、欠席の取り消しと損害賠償を校長、東京都に請求した。」のでした。

 けれども、学校も裁判所も、これを認めませんでした。神を礼拝することなど、学校をサボる口実にすぎない。神を礼拝することなど、たいした価値のない私的なことにすぎないという価値観が、日本社会の法廷と学校の価値観だということなのでしょう。それで、私はこの出エジプト記5章を読むと、あの裁判を思い出すのです。しかし、天地万物を造り、日々私たちのいのちを支えてくださった神様に感謝をささげ礼拝することほど公的で重要な務めは、ほかにはありません。

 「人間の主な目的はなんであるか?」といえば、「それは神を礼拝し、神を永遠によろこぶ」ことなのですから。その神礼拝のためにこそ、日々の仕事もあるのです。神をあがめることが目的であり、仕事その他の営みはその手段なのです。神礼拝に仕事が勝るという考えは、偶像礼拝にほかなりません。そして偶像化された仕事は、人を苦しめ不幸にしてしまいます。

 

(2)パロのパワハラ

 そして、パロは嫌がらせをします。6節から9節まで。

 6**,その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。**

7**,「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。**

8**,しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。**

9**,あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」**

10**,そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。**

11**,おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」**

12**,そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。**

13**,監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」**

14**,ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」**

15**,そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。**

16**,しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」**

17**,ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。**

18**,今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」**

 

 これは典型的なパワーハラスメントですね。職場のパワーハラスメントとは、「職務上の地位や人間関係などの職場内での優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為を」のことです。まさしく、これですね。パロは、真の神様を礼拝をしたいという人間としての当然の権利の主張に対して、パワハラで応じたのでした。

 経済第一主義といいますか、マモニズムといいますか、そういうものにパロの頭と心は一杯で、神様を礼拝することなどくそくらえというような状態でした。そして、自分こそ最高権力者であると自負していたのに、自分に対して命令をする「神」という存在に我慢がならなかったのです。パロはこの世の権力者の陥りがちな典型的な醜い姿です。パロの愚かなプライドは、自らとエジプトの民に災いを招くことになります。

 

3   イスラエルの民の反応

 

 イスラエルの民は、こうした事態の中でどのように反応したでしょうか。モーセとともに堅く信仰に立ったでしょうか。そうではありませんでした。こんな結果になったことについて、モーセとアロンをなじったのでした。

19**,イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。**

20**,彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。**

21**,彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」

 

 ほんの少し前には、モーセとアロンから主の啓示を聞いて、奇跡まで見せてもらって、主をあがめたのに、試みに遭わせられると途端にこんなことを言うのが忘恩の民イスラエルでした。こうした様子はこのあとも何度も何度も繰り返されます。無理もないといえばそうなのかもしれませんが、同情ばかりしているわけにはいきません。みなさんは同じ過ちを犯さないように、彼らイスラエルの民を反面教師としていただきたいと思います。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」(ヘブル13:17)

 神様と民の間にはさまれたモーセとアロンを見ると、なんだか中間管理職の悲哀のようなものを感じます。モーセは、民のために、主の前に嘆くのです。

22**,それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。**

23**,私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」

 

結び

 

 主から召しを受け、使命をいただいて遣わされたモーセですが、まだ腹がすわっておらず、パロのことを恐れていました。これからモーセは鍛えられていくのです。神様は忍耐をもって、私たちの人生を導き、神の役に立つ器へと造り変えていってくださるお方です。

 この世の価値観、経済第一主義、マモニズムの背景には、サタンがうごめいているものです。私たちは揺るぐことなく、

「問 人間の主な目的はなんであるか? 

答え 人間の主な目的は、神を礼拝し、神を永遠によろこぶことである。」

という告白をもって生きてまいりましょう。