水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

奉仕への召しと備え

Ex4。1-17

 

 

 荒野で羊を数十年間飼う生活をして、すでに80歳を迎えていたモーセでしたが、心身共に強壮ではありました。この日もミデヤンの荒野を草を求めて羊を追ってきたところで、主とお会いしたのでした。燃えても燃え尽きない柴の木に主は臨在を表されて、モーセイスラエルのエジプト脱出のリーダーとしてお召しになったのでした。主は「わたしはある」という名を表し、さらに今後の計画を明らかにされました。

 けれども、これほどはっきりとした召しを受けながら、なおモーセは躊躇していました。かつての若い日であれば、肉の自信まんまんに「わたしがイスラエルを救います」と言えたはずのモーセでしたが、今は、そんな自信はひとかけらもなくなってしまっています。4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」

そんなモーセを神様は奉仕へと召しだしたまうのです。どんな方法によってでしょうか。それが本日のみことばです。

 

1 「あなたの手にあるものは」vv1-

 

 主は「あなたの手にあるそれはなにか?」と問われました。彼は「杖です」と答えます。「ただの杖です。こんなものが、エジプトの権力者ファラオに対して、いったい何の役に立ちますか?」という気持ちです。モーセが持っていた杖はお爺さんだから持っていたのではなく、羊飼いの必須アイテムの杖です。

 羊飼いの杖一本で、何万という軍団を要するエジプト王に対抗するのは、竹やりでB29を相手に戦うようなものです。しかし、人間の目にはつまらないものであっても、神様が目を留め、神様が命じたまうままに用いるならば、これが証しの道具となることを、この御言葉は教えます。 

4:2 【主】は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

 4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

 4:4 【主】はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。

 4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。

 

 杖はモーセがもともと持っていたものです。ただの羊飼いの杖です。が、こんなものは何の役にも立たないと思っていたものですが、神がこれを選び用いなさるならば、すばらしい働きができるのです。私の恩師の朝岡茂牧師は戦前にピョンヤンで生まれ、戦後、すべてを失って帰国されましたが、中学生の時に結核を発病しました。当時、不治の病とされたのです。それから十数年間の闘病生活の末、朝岡先生はイエス様を信じて洗礼を受けました。救われた喜びで、「これからの残された人生、自分のために生きたのでは、申し訳ない。」と思い、自分の人生をイエス様におささげしたいと表明しました。けれども、そのとき、すでに片肺を失っていた朝岡先生は、自分には説教者、牧師となることは無理だと思っていました。けれども、先生は癒され強められ、私などよりもはるかに大きな声の出る説教者として大活躍なさったのです。

 自分など役に立たないと独り決めしてはなりません。主がお用いになるとき、役に立つのです。

 

2 ツァラアトのしるし、ナイル川の水を血にというしるし

 さらに主はモーセに「手をふところに入れよ」とおっしゃいました。するとその手はツァラアトに冒され雪のように白くなり、また、懐に入れるともとに戻りました。

4:6 【主】はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。

 4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。

 

ツァラアトは当時、非常に恐れられていた病です。ツァラアトのもっとも重症の場合は、雪のように白くなり、治癒不可能なのだそうです(エリコット)。神さまはモーセの手を、そういう最も重症のツァラアトにたちどころにし、たちどころに癒して見せたのです。これは驚異でした。神は生殺与奪の権を持つお方であるあかしです。

 

 さらにもう一つのしるしを主はモーセに与えました。 

4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」

 ナイル川の水を血にするということは、何を意味するのか?ナイル川は世界最長の川です。遥か遠くアフリカ大陸の熱帯雨林から滋養分をたっぷりに含んだ水を集めて砂漠の国エジプトを潤し、大地を肥沃にし、そして大西洋にそそぐのです。歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」といったように、ナイル川あってこそのエジプトです。ナイル川がなければ、エジプト文明というものは成立不可能でした。エジプト人は、ですからナイル川を神としてあがめていました。けれども、そのナイルの水をもまことの神は支配するお方であるというしるしです。主なる神の圧倒的主権を表現します

 「わたしはある」という神が、私たちの生殺与奪の権と、ナイルの神をも支配するお方であることをこれらの印は意味しました。私たちを神様がお召しになるとき、戸惑うことがある。しかし、神様はすでにその使命達成のために必要なものを、能力を備えていてくださるということです。

 

3 同労者を備えてくださる

 このように印を用意されてもモーセは躊躇します。それは、彼が口下手だったことです。 

もう一つ、10節

4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 四十年ほど前、エジプトにおいて最高の学問を授けられたモーセは雄弁でした。古代社会において、雄弁術というのは政治を行う上で最も重要な素養でした。けれども、数十年、荒野で羊たちだけを相手に過ごす生活をして、モーセは今や口が重くなっていました。無理もないことです。私は大学受験浪人をしたとき図書館で受験勉強をしましたが、朝9時に入館するとき「おはようございます」といって、晩6時に帰宅するときに「さようなら」という以外一言も口を開かないでいると、実際、舌が回らなくなることを経験しました。まして、モーセは荒野で四十年です。羊相手なら話はできても、人間相手には話はできないと彼は感じました。まして、相手は最高権力者パロです。

 しかし、躊躇するモーセに主はおっしゃいました。

 4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。

 4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 しかしなおもモーセはしり込みしました。自分は到底、そんな召しにお答えすることはできません。もっとふさわしい人がいる、と。

 4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

 

  すると、主は怒りながら、アロンをスポークスマンつまり代弁者として用意するとおっしゃいました。

4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

 4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。

 4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

 4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

 

 このたびは神様はモーセに雄弁な口を授けるのではなく、雄弁な助力者としてアロンをお与えになったのでした。

  私たちはここから何を学び取るべきでしょうか?私たちは、神様のために召されたとき、全部自分で背負い込んでしまう必要はない。なんでも自分でできなければならないと考える必要はない。自分ができないならば、神様にそうしたまものを持っている人を与えてくださいと祈ればよいのです。神さまは必要な人をちゃんと備えてくださいます。