水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

素晴らしいイエス様

ルカ8:40-56

 

1 会堂司ヤイロと娘

 

ルカ 8:41-42

 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。

 彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。

 会堂管理者ヤイロとあります。神政政治が行なわれていた当時のユダヤ社会では、会堂管理者といえば町の名士でした。社会的に地位と敬虔で立派な人だという名誉を持っていましたし、雇い人たちが大勢いる屋敷の様子を見ても、経済的にも豊かだったのだろうと想像がつきます。

ヤイロは父親として、娘が今日、十二歳を迎えるまで蝶よ花よと育てられました。ヤイロは、わが娘には経済的な面だけでなく、道徳的にも宗教的にも一流のものを身に付けさせてやろうと思っていたはずです。そして今は12歳。12歳というのは、ユダヤ社会では特別な意味がありました。神殿礼拝が許される年齢が12歳だったのです。つまり、12歳というのは、宗教的な意味で一人前になったと見なされる年なのでした。ここまで立派に育ってきた愛娘は、ヤイロにとっては目に入れても痛くない宝だったのです。

ところが、十二歳のある日突然、この娘は急病に冒され、生と死の間をさまようことになります。けれども、今、娘が病に冒され死が間近に迫ったとき、父ヤイロは、自分は娘に何もしてやることができないという現実にはじめて直面したのです。娘のためならば、自分のいのちでもくれてやってもと思うのが親心ですが、何もしてやれないのです。会堂管理人としての宗教的・道徳的生活の誇りも、名誉も、お金も、娘に迫り来る死に対しては、まるで無力でした。ヤイロはプライドを打ち砕かれて、イエス様のもとに来たのです。そして若い青年イエス様の前にひれ伏しました。

 

 

2.長血の女

(1)イエスにさわること:女の信仰

ルカ 8:43-44

 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも治してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。

 ヤイロの話を聞いて、イエス様は彼の家に向かいます。ところが、簡単には前に進めません。この頃にはイエス様の名前はガリラヤ地方ばかりかユダヤ地方にまで鳴り響いていましたし、しばらく舟でゲラサ地方に行ってしまったあと、お帰りになったばかりですから、癒しを受けたい人、話を聞きたい人、ただの野次馬たちが殺到していました。道を歩いてヤイロの家に行くこともたいへんです。「群衆がみもとに押し迫ってきた」とあります。

 そうした群衆の中に青白い頬をして、ショールを頭からまとったひとりの女がいました。彼女は「十二年の間長血をわずらっていた」と書かれています。ヤイロの娘が12歳であったことと不思議に符合しています。長血という病は婦人病の一種で、月のものの血がずっと止まらないという病気でした。旧約聖書には「血はいのちである」ということばがありますから、彼女は、出血するたびに、毎日少しずつ迫ってくる死の影に脅えていました。毎日、疼くような痛みにたえ、体調不良の中で彼女はすごしてきたのです。

 しかも、当時の社会では、このような血が流れる婦人病は宗教的に汚れているとされ、人々の中には出てきてはならない、さわってはいけないとされていました。ですから、彼女は社会からも排斥されてひとりぼっちだったのです。

 ところが、疼痛とひたひたと近づく死の恐怖と孤独の中にいたとき、彼女は主イエスの噂を耳にしました。遠くからイエス様の話を聞いたこともあったのではないかと思います。ですから、彼女はイエス様のお着物のふさにでも触ることができたら、きっと直ると信じたのです。そして、彼女はその信仰を実行にうつしたのです。

 女は、からだに異変を感じました。絶えずうずくような痛みに悩まされていたのに、その痛みが去りました。いつも貧血でフラフラしていたのに、今はからだの内側から力が湧いてくるようです。癒されたのです。彼女は「イエス様は救い主であり、全能者でいらっしゃるから、イエス様にふれれば必ず直る」と信じました。そして、事実、信じたとおりになったのです。

 

 するとイエス様は立ち止まられました。そして、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。」(ルカ 8:45)のです。ペテロは当惑して言います。「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」つまり、おおぜいの群衆が押し迫って、みんなイエス様にさわりまくっているのです。まるでお相撲さんが花道を行くときに、ファンがその体に触れるみたいに、みんなイエス様にさわればいいことあるとか思ってさわりまくっているのです。それなのに、「誰がわたしにさわった」なんておっしゃっても、そりゃ無茶な質問ですよとペテロは言ったのです。けれどもイエス様は、なおおっしゃいます。だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」(ルカ 8:46)。

 イエス様が「だれかがわたしにさわった」とおっしゃるのは、ただ単に物理的にイエス様にさわったという意味ではなさそうです。たしかに物理的には、何十人と言う人々があるいはもっと多くの人々がイエス様のからだを触りました。けれども、彼らはさわっているようで実は、本当の意味ではイエス様にさわっていなかったのです。イエス様を本当の意味でさわったのはたった一人でした。エス様のからだから神様の力を引き出すような触り方をした人はたった一人でした。あの長血の女だけが、信仰をもってイエス様にさわったのです

ですから、イエス様は、(ルカ 8:48)「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」とおっしゃったのです。

 

 エス様にお会いする、イエス様をさわるということはどういうことなのか?私たちは本当の意味でイエス様をさわっているのか?」と、私たちはこの出来事から、考えさせられます。多くの人はイエス様のファンであるかもしれない。イエスの伝記を読むかもしれない。福音書を読むでしょう。そのようにして、イエス様にふれるということをしているかもしれません。けれども、あなたはイエス様のおからだから力が引き出されるような触り方をしているでしょうか?そこが問われているのです。

「娘よ。あなたの信仰があなたを治したのです。」イエス様は、こうおっしゃるのです。たしかに私たちもクリスチャンとして、礼拝の生活をしています。洗礼も受けました。では、私たちは、ほんとうにイエス様を具体的生活のなかで、イエス様のからだから流れてくる「力」を経験しているでしょうか?それは信仰をもってイエス様にふれているかどうかということなのです。あなたは、あの長血の女のように、本気でイエス様を信じてイエス様に触れているでしょうか?

 

(2)社会的にもいやす 

 『誰がさわりましたか?』『だれかイエス様にさわしましたが?」と弟子たちがみんなに問い掛けると、女は震えながら前に出てきました。

ルカ 8:47

 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した

 どうしてイエス様は、わざわざこの女の人を前に出させたのでしょう。ご自分がなさった奇跡をみんなの前に明らかにするためでしょうか?そうではありません。イエス様はしばしばご自分が行なわれた癒しの奇跡があまり知れ渡ることを望まれないこともあるのです。では、なぜこの場合はわざわざ彼女を公衆の前に引き出すようなことをなさったのでしょうか。それはイエス様の必要のためではなく、彼女の必要のためでした。

 彼女は長血という病気に罹ってから、社会的には孤立した立場にありました。みんなに触れてはいけないとされていたのです。でも、今、確かにその病は癒され、きよめられたということが明らかにされました。これから、彼女は誰はばかることなく、社会の中に生活することができるようになるのです。イエス様は、彼女の肉体を癒してくださっただけではなく、社会的にも癒してくださったのでした。

社会的に癒されたというのは、単にこの町の人々に彼女の癒しが知れ渡ったということだけではありません。そうではなく、彼女自身のびくびくと縮こまっていた心が社会に向かって開かれたということです。彼女は、十二年間、人前に出ることをはばかって生活をして来ましたが、このときみんなの前で自分の身に起こってきたこと、つらかったこと、悲しかったこと、そして、このたびの癒しの御わざを話して、新しい人生の出発をすることが出来たのでした。

 

3 恐れないで、ただ信じていなさい

 

 さて、長血の女が十二年間の身の上話をしているとき、会堂管理者ヤイロはイエス様の傍らでイライラしていました。『先生早く、そんな女にかかわっていないで、私の娘のところに来てください。』という気持ちだったにちがいありません。「女はもう用は済んだではありませんか。早く行きましょう。」という気持ちだったでしょう。

でも、イエス様は長血の女が話す12年分の身の上話にじっと耳を傾けていらっしゃいます。地位も名誉もお金もある会堂管理者の娘であろうと、社会からはけがらわしいとして打ち捨てられた長血の女であろうと、イエス様にとっては同じです。

 そうしているうちに、管理者の家から使いの者が息せき切って走ってきて言いました。「ご主人様、お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」(8:49)

ヤイロはその場にへたり込んでしまいます。イエス様はおっしゃいました。恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」(8:50)

 使いの者は、『お嬢様は危篤です』といったのではありません。『死んだ』と言ったのです。それなのに、なおも「恐れないで、ただ信じなさい」とおっしゃるのです。「死は人類最後の敵」であるとも「死は恐怖の大王」であるとも言われます。どんな財力を持つ人も、権力をほしいままにした帝王も、死には決して打ち勝つことはできませんでした。死は人類最後の敵なのです。恐怖の大王なのです。

 実際、ヤイロの屋敷に着いてみると、そこはもう葬式の備えが始まっていました。人々は主人ヤイロの娘の死を嘆いているのです。死を前にしては、誰もが無力感をいだいていました。イエス様は、「死んだのではない。眠っているのです。」つまり、わたしが神の力をもって娘をもう一度目醒めさせようとおっしゃるのです。けれども、人々はイエスをあざ笑ったとまで書かれています。「すでに息が絶えて、心臓の鼓動が止まって、体はつめたくなり、死後硬直も始まっています。何が眠っているだ?」と嘲笑ったのです。死に対しては、たとえイエスでもなんにも出来るわけが無いと思っているからです。

 まことに人間に対して、死は絶対的な力を持っているようです。死は恐怖の大王です。最後の敵です。

 ルカ 8:52-53

 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」

 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。

 けれども、イエス様は死に勝利なさったただひとりのお方です「死など恐れるな。死者もわたしにとっては、眠っているも同然だ。」とおっしゃる方がここにいるのです。ご自分の死によって死を滅ぼしてしまわれたイエス・キリストです。

 死は、アダム以来人間の罪に対する呪いとして入ってきたものです。しかし、イエス様はあの十字架の上でその人類の罪に対する呪いとしての死を死んでしまわれました。ご自分の上に永遠の呪いを引き受けることで、私たちを呪いとしての死から解放してくださったのです。イエス様は、死んでいる12歳の娘に向かって命令なさいます。「子どもよ。起きなさい。」(8:54)「すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」のです。

 涙に暮れていた父親ヤイロも母親も、そして同室を許された三人の弟子も驚愕したにちがいありません。これは病の癒しではないのです。死者のよみがえりです。

 

 でも、私はそれに続くイエス様のおことばを読むときに、つくづくイエス様はすばらしいなあと感動するのです。「それでエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」(56-57節)

 私なら「どうです。先ほど笑った人たち、わたしの力がわかりましたか。」とでも言いたくなりそうなところです。でもイエス様は、ひとこと「この子、おなかがすいているでしょう。なにか娘に食べ物をあげなさい。」とおっしゃったのです。いったい、神さま以外に、だれがこんなことを言えるでしょうか!じ~んと来ます。イエス様はほんとうに素晴らしいお方です。神の御子です。

 

結び

 自分の無力を悟って打ち砕かれて、イエス様の前にひれ伏したヤイロの信仰。また、絶望のなかからイエス様に触れてイエス様のおからだから力を引き出した長血の女の信仰。私たちは前半でこういうことを学びました。

 そして、わたしたちのイエス様は、まことに信頼すべき神です。身分や地位で分け隔てをなさらないイエス様、死の中からいのちを呼び出す権威を持つイエス様は、おなかのすいた子どもにも、やさしいあわれみをかけてくださる神なのです。このイエス様を信じずして誰を信じるべきでしょうか。