キリストとともに・・・罪の王国から義の王国へ
ロマ6章1節から23節
2018年5月6日
序
私たちが救われたのは、私たちの善い行ないに対する報酬としてではなく神の恵みによります。行ないによらず神の恵みによって救われた私たちは、キリストに結ばれ、キリストに属する者となって、どのように生きてゆくのかということが教えられています。
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
ここで「罪」と訳されたことばは私たちが犯したあの罪、この罪ということではなく、罪の親玉ともいうべきサタンを意味しています。かつて、私たちは空中の権をもつ支配者ともこの世の神ともよばれるサタンの支配の下にあり、サタンに属する者でした。しかし、キリストの贖いのゆえに罪赦されて義と認められた今、私たちは罪の親玉であるサタンに対して死んだのです。
そうです。神様に救われた者は、もはや罪の中にはいません。では、どのように生きていけばよいのでしょう。ここで、使徒はバプテスマの意味を教えることによって、私たちキリスト者とはどういう存在であり、どのように生きるかを教えてゆきます。
1。バプテスマの中心意義―キリストとの結合(3、5節)
バプテスマの最も中心的な意義は、キリスト者がキリストに結びつけられたことです。3節「キリスト・イエスにつくバプテスマ」5節「キリストにつぎあわされて」とある通りです。 キリスト者の祝福の一切は、キリストご自身のうちにあります。キリストを離れて、私たちはどんな祝福もいただくことはできません。私たちは、信仰によってキリストと結びつけられて、キリストから一切の恵みを頂くのです。
主イエスはあるとき、言われました。「わたしは葡萄の木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15章5節)まったくそのとおりですね。枝を幹から切り取ってしまえば、どんなに枝ぶりがよくて、花芽をいっぱいつけていて花は咲かせても、実を結ぶことは決してできません。同様に、キリスト者はキリストを離れて、義とされることも、きよくされることも、神の子どもとされることも、自我に死ぬことも、愛に生きることも、復活することも決して出来ません。
バプテスマは、信者がキリストを信じる信仰によって、いのちの源であるキリストの幹につぎ木されたことを意味しているのです。私たちの目には見えないところで現実に起こっている出来事を、目に見える形で表現しているのです。信者とキリストとの結合という出来事は、肉眼では見えませんが霊の世界で起こっている現実です。その見えないの出来事を、教会はバプテスマという儀式によって、見える形で表現するのです。それによって、その人にキリストと結びあわされたという確信を与え保証するのです。
イエスはなぜこのようなことを命じられたのでしょう。主は、私たちの霊の目が弱いので、見えるかたちにおいて、この事実を表現することによって、余りにも弱い私たちに「私はキリストに結ばれたのだ」という確信を与えてくださるのです。
2。キリストとともに罪に対して死んで、キリストと共によみがえった
(1)キリストとともに死んだ
では、キリストに結び付けられて、私たちはキリストと共に、何を経験したのでしょうか。それは、まず死です。まず、死について。 まず、バプテスマは死を意味しています。ですから、洗礼式はその人の葬式なのです。しかも、バプテスマの表わす死は二つあります。第一の死とは罪(サタン)に対する死です。2-3節。6節、10、11節。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
「罪に対して死んだ」というのは、あまり私たちにピンとこない表現ですが、どういう意味でしょうか。ここで「罪に対して死ぬ」というのは、罪の親玉、罪の卸問屋サタンを意味しています。人は生まれながらにはサタンという極悪な主人の奴隷です。この極悪な主人から解放される方法がひとつだけあります。それは死ぬ事です。しかし、どんなに極悪な主人であっても、その奴隷が死んでしまったらこれをこき使うおとはできません。だから私たちはキリストにあって罪に対して死んだのだから、罪はもはやクリスチャンを自分のためにこき使う権利がないのです。
いわば人は、「罪」というサラ金融というところから金を借りて、サラ金地獄に陥っているようなものです。「罪」の取立人はしょっちゅう訪ねて来ては、「おい。罪を犯せ。罪を犯せ。もう犯せないとはいわせないぞ。お前の目を使って罪を犯せ。お前の唇を使って罪を犯せ。お前の手を使って罪を犯せ。」と責め立てるのです。「サラ金罪」はしつこくて、地の果てまで追いかけてきます。どうしたら逃げられるでしょう。死ぬことです。死んでしまえば罪も追いかけては来られません。
私たちは神の御前では地獄の刑罰がふさわしい者です。しかし、キリストは私たちを愛して、その罪の代価を御自分の十字架の死によって支払ってくださいました。さて、バプテスマの中心的意義は、キリストを信じる者がキリストと結ばれるということでした。キリスト者は、バプテスマによってキリストに結びあわされているので、キリストとともにすでに死刑の執行を完了してしまったのです。かつての主人であった罪に対していうならばあなたは死んでしまったので、もはや罪という主人にこき使われる必要はなくなったのです。サラ金罪には、もはやあなたから罪を取り立てる権利はなくなりました。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
とあるとおりです。
(2)キリストと共によみがえった
キリストが私たちの罪のために十字架にかかられたのには、はっきりとした目的があります。それは、私たちを罪の奴隷状態から解放し、キリストとともに新しく生まれさせることです。4-6節。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
主イエスは姦淫の女をゆるされた時に、こう言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」キリストは、私たちを、罪の中に安住させるためではなく、罪から解放し、義を行なわせるために、十字架にかかられたのです。
3 罪の奴隷から義の奴隷にすでになっている
キリストの十字架にあって私たちは、法的に罪の刑罰をすでに受け終わりました。では、次に、私たちは、どのようにして実質的にサタンに支配された罪の生活から解放されるのでしょうか。ここではキリスト者としての自己認識(アイデンティティ)の重要性を取り上げています。
90年ほど前、インドで狼に育てられた双子の少女が発見されました。彼らは生まれて間もなく、狼に連れ去られました。その狼はおそらく生まれたばかりの自分の子をどういうことによってか失ったばかりで、子を捜していたのです。そして彼らを自分の子として育てました。この子たちが発見されたとき、狼のようにうなり、狼のように四つ足で走っていました。正真正銘の人間として生まれながら、なぜ彼らは狼のようになってしまったのでしょうか。それは、彼らが自分は狼であると思いこんでいたからです。アイデンティティの重要性はここにあります。人は自分が何者であるかと思いこんでいる、そのようになるのです。
聖書は言います。まず、キリストを信じた私たちは新しくなった己の身分をわきまえることが大事です。そのことを示すように6節「知っています。」8節「信じます」9節「私たちは知っています」。11節「思いなさい」。とあります。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
あなたは、現在、キリスト者とはどういう人ですかと問われたら、どう答えますか。もしかすると「罪ゆるされた罪人」でしょうか。罪という親分とキリストという親分の間を行ったり来たりしている者のように思っているかもしれません。しかし、聖書は言います。実際には、そんな中間状態のコウモリのような人はおりません。ただサタンがあなたの目をくらましているのです。キリストを信じた人は、すでに罪という親分に対しては死んでおり、神に対して生きる者となっているのです。
この事実をよく認識することがたいせつです。人は自分の思うようになるからです。自分は狼だと思っているとオオカミのようになります。罪に対して死んだ私たちは、もはや罪の奴隷ではありません。私たちは義の奴隷です。また神の子どもです。この自分の身分をわきまえることです。ここでは、神の国の兵士という身分が与えれたと述べています。
聖書はいいます。12節から14節。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。 6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
ここでパウロが、用いている「不義の器」とか「義の器」といっている「器」ということばは、重兵器という意味のことばです。当時でいえば、小さなナイフではなく、重い大きな剣のことでしょう。ここで、彼は二つの対立し戦争をしている国のことを思い浮かべて話しているのです。一つは罪の王国であり、国王はサタンです。もう一方は義の王国で、国王はキリストです。
かつて私たちは、罪の王国の兵士でありその国王である罪のために戦う義務がありました。毎日毎日罪を犯し続ける任務があったのです。そうすれば、サタンにほめられるのです。しかし、キリストは十字架によって、私たちを罪の王サタンの支配から解放してくださったので、今や私たちはキリストの兵士なのです。私たちは、今やキリストのために戦うべきです。キリストを信じてバプテスマを受け、神の国民とされた私たちは、もはや罪の王国のために自分の頭、唇、手足を用いるべきではありません。神のために用いるべきです。そのために、キリストはあなたのうちに、あたらしいいのちの御霊をくださったのです。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
「義の奴隷となった」であって、「義の奴隷になりさない」ではありません。キリストを信じる者は、すでに義の奴隷なのです。
4 義の奴隷として生きよ
6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
私たちはかつて、罪の王サタンの王国の兵士でした。その時、サタンにはあなたを支配する支配権があったのです。そして、あなたには自分の唇や目や手や足を罪を犯す兵器として、サタンという王にささげて、勤勉に罪を犯す任務がありました。頭はただ自分の損得の勘定をし、憎しみを宿し、人をねたみ、人を陥れる企みをするための武器でした。唇は、人の悪い噂を言い、人をそしるための武器でした。手は物を盗み、不品行を犯すための武器でした。
けれども、今や、イエス・キリストは十字架によってあなたを罪の王サタンの王国の支配から、神の王国に移されたのです。ですから、主イエスの喜ぶ仕事をしましょう。その頭も、その手も、その足も、耳も、目も、主を喜ぶために用いるのです。その手で神の宮を掃除したり、その手でみことばを書き記したりしましょう。私たちの唇はかつて罪という主人のものでしたが、今や主のものです。その唇をもって神を賛美し、真理を語り、兄弟姉妹を励ますための武器です。
むすび
『こどもさんびか』にこういう歌があります。
「小さい私の手はイエスさまの喜ぶ仕事をするためにある。
私のすべてはイエスさまのもの。十字架で死なれたイエスさまのもの。
小さい私の唇で主の尊いお名前ほめ歌います。
私のすべてはイエスさまのもの、十字架で死なれたイエスさまのもの。」アーメン。