水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

荒野にて

Ex2:11-22             

2019年1月20日 苫小牧夕礼拝

 

2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。

 2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

 2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。

 2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。

 2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

  2:16 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、

 2:17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 2:18 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。」

 2:19 彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」

 2:20 父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」

 2:21 モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。

 2:22 彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからである。

 

 

序 神様は、ご自分の器をお用いになる前に、荒野に彼を追いやることがある。そういうことを今夕の本文を読むときに教えられます。神様は、モーセに何をなさろうとしているのでしょうか。

 

1 同胞愛の目覚め

 

 神様の不思議な摂理で、モーセはエジプトの宮廷で、前の女王の養子として育つことになりました。そこで当時の世界で最高の帝王学を身に着け、一定の権力を持ち、社会的には特権階級に位置するところで成長し、生活をする人となったのでした。

 ところが、モーセはある年齢に達したとき、にわかに同胞愛に目覚めました。いったい何があったのかは、映画などを見るとさまざま推測していますが、実際のところは謎です。モーセは自分の出生の秘密を知らないまま成長していって、相当の年齢に達して、その秘密を知るようになったという推測をする人もいますし、そうでない人もいます。事実はわかりません。しかし、とにかく、事実として、彼は相当の年齢に達したころ、自分がエジプト人ではなく奴隷として苦しみにあっているヘブル人なのだということを自覚するようになりました。そして、今自分がエジプトの王族として持っている地位や名声や安楽な生活を捨ててでも、同胞を救いたいと願ったのでした。そういう願いを持ち始めたころ、モーセがへブル人たちが苦役にあえいでいる現場で、エジプト人にひどく鞭うたれているのを見ることになったのでした。おうとしたその事柄自体はよいこと、賞賛すべきことでした。へブル人への手紙にもそのようにモーセの決断を評価しています。

 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

 11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 

 

 その決断は、確かに信仰によるものでした。また、パロの娘の子であることに伴う特権のこの世的なすばらしさを考えれば、これを神の民イスラエルのために撃ち捨てるということは、生半可な覚悟でできることでは決してありません。彼の決意は並みならぬものがあったのです。しかし、まだ神はモーセをこの段階で用いようとはなさいませんでした。恐らくモーセの行動には肉的なヒロイズムが含まれていたのだと思います。 エジプトでモーセのことを知らぬものなどいませんでした。そういう自分が、へブル人の救済のために、犠牲をいとわず立ち上がるならば、同胞へブル人たちは、感謝感激で自分をリーダーとして迎えてくれるに違いないと思っていたのです。ところが、そうではありませんでした。

2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。

 2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」

 

 ちょっと雰囲気を出して言い換えれば、「モーセさんよ。あんたみたいにエジプトの宮廷でぬくぬく育ってきたボンボンが、今になって、わたしは君たちの救い主だ。リーダーだ。と言ったって、誰がついていくもんかね。俺たちは奴隷だ。泥にまみれて鞭で打たれて、ひーひー這いずり回って生きているんだ。あんたなんかに、俺たちの気持ちがわかるもんかい。・・・あ、怒ったね。おいおい、また昨日のエジプト人のように、おいらも殺そうっていうのかい。あー怖い怖い。」という風な感じです。

 エジプトの宮廷を去り、へブル人にも受け入れられないモーセは行き場を失いました。そして、逃亡者となり、ミデヤンの地にまで逃れて行きます。ミデヤンとは、アカバ湾の東側のアラビア半島の地です。当時、エジプトの領土はシナイ半島をも呑み込んでいましたから、アカバ湾の東側アラビア半島にまで逃れる必要があったのでした。モーセは実に数十年にわたってこのミデヤンの荒野で過ごすことになります。

 

2 荒野で

 

 ミデヤンの荒野に行きますと、ここで一つの出会いがありました。祭司レウエルとその娘たち7人との出会いです。16-17節はさっそうとしたモーセの姿が彷彿とさせられる出来事でした。

2:16 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、

 2:17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 

 乱暴な羊飼いたちをあっというまに追い払ったモーセをうっとりと見つめる七人の娘。なんだか映画みたいですねえ。チャールトン・ヘストンを思い出します。七人の娘たちは乙女心をときめかせながら、この出来事を父レウエルに告げます。「お父様、私たちが水場で羊に水をやっていたら、いつもの乱暴な羊飼いたちがやってきて意地悪をしたの。そうしたら、立派なエジプトの人かしら青年が来て、バッタバッタとなぎ倒して追い払ってくださったのよ。」と七人は口々に父親にその様子を接げたのでした。

 「これはお礼を申し上げなければ」、ということで父はモーセを呼びに行かせ、モーセもそのもてなしを受けます。話を聞けば行くあてもないという。そこでレウエルは、そういうことならばうちの娘と所帯をもって、いっしょにくらしませんかと勧めます。こうして、モーセは思い切って、この荒野に住むことに決意したのです。

 

 しかし、モーセのうちには期するものがあったことが、生まれた子につけた名からわかります。ゲルショム。「私は外国にいる寄留者だ」という意味でした。モーセは自分が寄留者であって、やがて時が来れば帰るべき所へと旅立つものであるということを心に刻んでいるのです。

 

 ともかく、モーセはこのミデヤンの地で羊の世話をしながら、数十年間くらすことになります。エジプトの宮廷とはおよそかけはなれた生活をすることになるのです。今まではエジプトの宮廷で仕えられ、上げ善据え膳で、かしずかれるのが当たり前という生活でしたが、今は羊たちに仕える生活をします。ほしいものはなんでも手に入るという生活をしてきましたが、これからは荒野で窮乏にも耐えながらの生活です。エジプトの宮廷で、快適な生活をしていましたが、これからは荒野で水を見つけるにも一苦労という生活をします。まるで無駄な数十年ではないかと思えます。

 けれど、小さな平凡な家庭の喜びという慰めを主はくださいました。また、荒野にはエジプトの宮廷にいたときにはなかった、後に多くの人々を連れて荒野を旅する備えとしてのさまざまの経験がありました。激しい日差し、砂嵐は、人間の計画のままには決して動かない。そこで忍耐を学び、自分を見つめ、主を見上げる生活をするのです。こうしてモーセは肉なるもの、自我が死滅して、柔和な者となります。後に、モーセは地上でもっとも柔和な人、主の用いやすい器となったのです。

 

結び

 私たちは良かれと思って、大決心をして、やる気まんまんで立ちあがったのに、その出鼻をくじかれるといった経験をすることがあります。そういうとき、私たちはがっかりしてしまいます。失意落胆してしまう。もう三十年以上も前のことですが、私自身も神学校出たての駆け出しだったとき、純粋に燃えがって、そういう苦い経験をしたことがあります。

 私たちはそういうとき、協力的でない他の人をうらんだり、状況に対して不平を言ったりしがちかもしれません。けれども、主のみこころは異なるところにあります。「お前がしようとしたことはよいことだ。しかし、お前はまだわたしのしもべとしてふさわしくなっていない。」と主がおっしゃいます。「おまえは、自分の知恵と才覚と学識でことをなそうとしているが、それはやめなさい。ただわたしのときを待ち、わたしの力にのみより頼むことができるようになるまで、きみを荒野で訓練しよう。」とおっしゃっているかもしれません。誰の賞賛もなく、収穫がなにもないように見える日々のなかで、静かに、日々の務めに励みながら、主のときを待つ。モーセはこうして神の人として練り上げられていきました。