水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

罪の報酬、主の賜物

 

から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

 

 

 

(1)本来の人間のあり方

 神様は最初、人間を造られたときに、人を特別な存在として造られました。それは、まず人は神の似姿として造られたということです。神は正しく愛に満ちた知性と感情と意志んおある無限の人格ですから、人は有限ではありますが人格的存在として造られたのです。知性と感情と意志がある者、知性をもって物事を考え、単に本能にしたがってではなく自らの意志をもって行動し、感情をもって喜びや悲しみや怒りを感じるものとして造られたのです。

 また、神はご自分に似た人格的な存在として造られた私たちに生きる目的を与えました。その目的とは、神を礼拝し、隣人を愛し、そして神のみこころに沿って被造物世界を正しく治めるということでした。そのように生きているならば、人はほんとうに幸せだったはずです。想像してみてください。神を礼拝し、隣人を愛し愛され、神のしもべとして世界を神のみこころにしたがって治めることが出来たなら、これほど素晴らしいことはありません。

 そして、神は私たち人間が神を崇め、隣人を愛し、世界を適切に管理して生きていくことができるために、私たちに必要ないっさいをいつも供給していてくださいます。太陽を昇らせ雨を降らせ、季節の収穫で私たちを生かしていてくださいます。

 

(2)罪(悪魔)

 ところが、堕落天使である悪魔が人間を誘惑し、人はこの主な生きる目的を見失ってしまいました。私は多くの人に会って、個人的に福音を語ってきましたが、そのたびに「自分の人生の主な目的はなんだと思いますか?」と質問をしました。けれども、ちゃんと答えられる人には一人も会ったことがありません。たいていは「生きる目的なんて考えたこともないなあ。」という答えですが、一人だけこう言いました。「わたしは死ぬために生きています。」と。どんなに生きていても、最後は死ぬしかないのだから、死ぬために生きているというのはなるほどです。

 ローマ書6章では、悪魔の別名であるかのように「罪」(単数)ということばが用いられています。「罪」はギリシャ語でハマルティア、ヘブライ語でハーターと言い、弓術の用語で「的外れ」を意味します。悪魔は、私たちを、神を愛し、隣人を愛し、被造物を正しく治めるという目的から外させるからです。人が、自分に今日もいのちを与えていてくださる神様を愛し、隣人を愛し、被造物を治めるという目的から外れて、ただ何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうか、金がもうかった、損したということだけに関心をもつ生き方をしていることが、的外れなのです。人は、いわば悪魔株式会社に就職して、社長である悪魔のために、ウソをついたり、人を憎んだり、盗みをしたり、浮気をしたり、と悪いことをしている。そうすると、悪魔社長は「今日も人を憎んだか。よい忠実なしもべだ。」「今日もウソをついたな。よくやった」といって、報酬をくれる。その報酬は「死」だというわけです。

 そんな報酬欲しい人がいるでしょうか。

 

(3)現実罪

 悪魔にたぶらかされて、神に背を向けたことから派生して、さまざまの罪が出てきました。イエス様は、あるとき当時の旧約の法律の専門家たちと汚れについて議論になりました。その専門家たちは人間のけがれというのは、手を洗うというような儀式をすることできよめられる表面的なものだと思っていたようです。彼らがお上品ぶっているので、イエス様はあえて下品な口ぶりで、言われました。マルコ7:18ー23

「外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されちまうよ。」

  また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 不品行・姦淫・好色というのは配偶者以外の人と性的関係を結ぶことです。これは配偶者を傷つけ、子どもたちを傷つけ、家庭を破壊します。旧約聖書時代の律法では石打の刑にあたる罪です。主イエスは、「情欲をもって(妻以外)の女性を見る者は、神の前では姦淫を犯したのだ」とおっしゃいます。

 「貪欲」「ねたみ」「そしり」とはなんでしょう。貪欲とは他人の幸福や評判を欲しがることです。しかし得られないので他人を憎むことを「ねたみ」といいます。ねたみから、その人の悪評を立てることを「そしり」といい、それでも飽き足らず奪ってしまうと「盗み」です。他人が幸福になったら、一緒に「良かったね」と言えるのが、本来の人間としては正常な反応ですが、逆にねたみ、憎み、そしり、盗んでしまうのです。こういう罪を放置すればついには殺人にいたります。

 A牧師がこんな反省をしていました。ご自分がある日曜日、他の教会での働きがあって、友人のB牧師を呼んで説教をしてもらったそうです。その日の午後に務めを終えて帰って来た彼は、信徒の人たちに質問しました。「今日の午前の礼拝はどうでしたか?」すると信徒の一人が「B先生の説教は、実に素晴らしくて、本当にひさしぶりにものすごく感動しました。」 A牧師は「それは良かったですね。」と答えたそうですが、「そのとき、私の顔が引きつっているんじゃないかと心配しました。本来、すばらしいB先生のお話を兄弟姉妹が聞くことが出来たのですから、感謝すればよいものを、罪深いことに私は心穏やかではいられなかったのです。神の前に悔い改めました。」

 

 不品行・姦淫・好色・殺人という罪も、貪欲・妬み・そしりという罪も、神の住まわれる聖なる天国にはふさわしくないことはおわかりでしょう。そんな罪が天国にいっても一杯あったら、そこは天国でなく地獄です。これらの罪は、悪魔の住まう汚れた地獄にふさわしいものです。こうしたさまざまの罪は、あの「的外れ」の罪が原因なのです。人間の目的は、いのちをくださった神様を礼拝し、隣人を愛し、被造物を治めることなのに、神に背を向けていると、こうした諸々の罪が出てくるのです。

   

2 報酬としての死

 

 「罪から来る報酬は死です」。悪魔は、私たちが神を忘れ、感謝もせず、隣人の幸福を妬み、親不孝をし、盗んだり、殺したり、浮気したり、嘘をついたり、という色々な罪を日々犯していると給料をくれるのです。その給料とは死です。「死」とはなんでしょうか?聖書は3つの死があると教えています。

 

  第一は霊的な死、言い換えると、神なき人生です。黙示録に「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」とあるように、肉体的には生きていてからだは動き頭も働くのですが、神との関係が断絶している状態です。神なき人生が霊的死です。まことの神との交わりのない人生です。神との生きた交わりが断絶した状態です。神さまはきよいいのちの泉です。そのきよいいのちの泉から離れてしまっているので、人はきよい心と、きよい唇と、きよい行動をもって生きられなくなっています。

 

 第二の死は肉体的死です。肉体が死ぬと、霊は肉体を離れて、それぞれ生前の行いに相応しいところへと、行くのです。

 

 第三番目の死とは、永遠の滅び、ゲヘナです。

 人には一度肉体的に死ぬことと、肉体の死後にさばきを受けることが定まっていますが、そのとき、神さまは私たちが体にあったときに、心の中で思ったこと、口にしたことば、手で行ったことなどあらゆることをご存知ですから、その行いにしたがって公正な裁きを行なわれます。

 天国は神様の住まいです。神さまに背を向けて、神などいない、いらないという人は、望み通りに神のいない所に永遠に住むことになります。これを聖書は永遠の死と呼びます。そこには悪魔も落とされています。

 罪から来る報酬は死です。神の前に罪の問題が解決されていなければ、人は今の世にあって、その心の思いと、ことばと、手足でもって、いろいろな罪を犯しながら、神さまを無視し、的を外れたむなしい人生を歩み、最後には永遠の滅びに陥ってしまいます。

 

 永遠のいのち

 

 しかし、聖書は言います。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」永遠のほろびではなく、永遠のいのちに入る道があるのです。永遠のいのちとはなんでしょうか?いのちとは、死とは反対のことを意味しています。

 聖書のいう「死」とは、第一に、神なき人生、第二に、からだの死、第三に永遠の滅びを意味していました。永遠のいのちとはその反対すなわち、第一に神とともに生きる人生、第二に、からだの復活、第三に永遠の祝福です。

 

 私自身、かつて、神などいるはずがないと思って生きていた時代がありました。ところが、19歳の時イエス様を信じて、神とともに生きる人生を歩むようになりました。何が変わったでしょうか?

 ①まず、人生の主な目的がわかりました。それまでは、「結局死んでしまうだけなら、人生はむなしいなあ」と感じていましたが、神様が私を造り、私に世にあって、神の栄光を顕す人生を歩むことを期待していてくださることがわかりました。生きる甲斐のある人生となりました。

 ②次に、イエス様を信じて、また教会における神の家族を与えられました。今朝もこうしてともに賛美をささげ、礼拝がささげられること、苦楽をともにできる神の家族がいることは、なんと素晴らしいことでしょう。世の人たちの多くは孤独の中にいます。

 ③第三に、罪をゆるされた平安です。イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活によって、神様の前の罪が赦されたことがわかったので、神との平和を得ました。

 ④第四に、永遠の祝福。新しい天地、天国の希望です。やがて最後の審判で、主の前に出るならば、イエス様が「あなたの罪の呪いは、すべてわたしが十字架で背負ってしまいました。」とおっしゃり、無罪放免が告げられます。無罪放免どころではありません。天の御国は想像を絶するすばらしい住まいを用意していてくださいます。父なる神と御子イエス様が王座に着き、その御座から永遠のいのちである聖霊が流れ出て都全体をうるおしています。そこには、悲しみも、叫びも、苦しみも、罪も、恐怖もありません。みなが謙遜で互いを愛し合い、仕えあい、喜びと感謝と感動と平安とがあふれています。

 

  イエス様にあって神に愛されていることを知って生活するうちに、まるで不十分であることを認めますが、私のような人間さえも少しずつ変えられて愛ということを知るようになりました。今60歳です。イエス様を信じて41年間、ほんとうによかったなあと思います。この先、この世に何年住まうかは、神のみこころのままですが、行く先が愛の神の永遠の住まいであることは、ほんとうに安心です。

 あなたは、天国とゲヘナとどちらを永遠の住まいとしたいでしょうか。

 

結び 報酬と賜物の違い

 

 では、どのようにして私たちは永遠のいのち、すなわち、①生きる甲斐のある人生、②神と共にある素晴らしい人生と、③罪ゆるされた平安と、④永遠の祝福を受け取るのでしょうか。

 永遠の死の受け取り方と、永遠のいのちの受け取り方は違います。死は罪に対する報酬ですから、悪魔が神に背を向け罪を犯した者には与えられます。

 他方、永遠のいのちは賜物、ギフトです。贈り物はどのようにして受け取るのでしょうか。遠慮しないで、ただ相手の自分に対する善意を信頼して、「ありがとうございます」と言って受け取るのです。私たちが、キリスト・イエスにある永遠のいのちを受け取るのも同じです。「わたしは聖なる神さまの前には罪あるものです。ごめんなさい。」とまず認めます。「でも、こんな私を愛して、私を赦すためにイエス様が来てくださったことを感謝します。」と言って受け取ります。

 

<追記>

新約聖書学において、パウロ神学の中にも黙示文学的要素があるというのが、わりと近年の研究なのだそうですが、研究者でなくても普通に読めばそういう部分は読み取れます。ローマ書5章11節までに問題とされる罪は、私たちが犯す罪を意味していますが、6章に出てくる「罪」は「罪に対して死ぬ」(2節)、「私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」(6節)「死んでしまった者は罪から解放されている」(7節)「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」(12節)といった表現を読むと、「罪」(単数)がある人格的な存在つまり悪魔を指していると読めば、恐らく一番無理なく読めるところです。
 パウロはエペソ書2章でも、「空中の権をもつ支配者」について語っていますし、同6章11節以降もそうです。