水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

   愛の負債

ロマ13:8-10

                              

2018年12月30日 苫小牧主日

 

 13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

 13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

 13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 

 2018年の52回の主の日を主にある兄弟姉妹たちととも礼拝を捧げることが許されたことを感謝します。今年、主の御許に引っ越した二人の兄弟姉妹がおり、じかに主にお目にかかって礼拝をささげています。天国が一層慕わしくなりました。

 また、私は病気にもならず、神様からメッセージをいただいて、毎週お伝えできたこと、説教者のために祈ってくださったことを感謝します。

 私たちは聖書の中で、もっとも順序よく書かれたローマ書から、神様の救いの計画の全貌を学んできました。まず、キリストに結ばれて罪赦され、神の子どもとされ、キリストに似た者に造り変えられていくことを1章から8章で学びました。そして、9章から11章で世界の救いの計画。12章以降は、救われた者としていかに生きるかを学んでいるところです。
 第一に、私たちの人生そのものが礼拝であること。

 第二に、キリストのからだである教会につながって生きることの大切さ。

 第三に、善をもって悪に打ち勝つべきこと。

 第四に、国家は神のしもべであるから、これを尊重し、かつ、絶対化しないことがたいせつであること。

 そして、本日は、律法と愛についてです。

 

1.律法=義務・・・無律法主義に陥るな

 

(1)律法は義務を教える

 律法というのは、人間として当然してはならないこと、果たすべき義務について教えているものです。その義務を果たさないことはすなわち罪です。律法の要約である十戒は次のように教えています。

 ①あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。

 ②あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。

  私たちは真の神のみを礼拝する義務があります。神を礼拝せず、偶像を拝むことは罪です。

 ③主の御名をみだりに唱えてはならない。

 ④安息日をおぼえて、これを聖なる日とせよ。

 ⑤あなたの父母を敬え。

 ⑥殺してはならない。

 ⑦姦淫してはならない。

 ⑧盗んではならない。

 ⑨偽証してはならない。

 ⑩隣人のものを欲しがってはならない。

 律法は、このように神の前に人間として当然、果たすべき義務と、その裏返しとして、してはならないことを教えています。

 

(2)誰に対しても、何の借りもあってはいけません=義務を果たしなさい

 パウロは、まず「13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」と命じます。

これは、単に借金するなということを言っているのではありません。前のところで国に対してはちゃんと税金を収めなさいと言ったように、国だけでなくだれに対しても果たすべき義務を果たせと言っているのです。ここでパウロがいう「借り」すなわち負債とは、果たすべき義務をはたしていないことを意味しています。

 神に生かされている私たち人間は、神に感謝し礼拝する義務があります。神を礼拝しないことは、罪であり神の前の負い目です。

 親は子を養育する義務があります。もし親が子どもを養育しないならば、親は子に対して負い目があることになります。

 子は父母に対しては、親孝行するという義務があります。もし子が親を敬わないならば、子は親に対して罪を犯し負い目があることになります。

 教師は学生を教え導く義務があります。もし教師が学生をちゃんと教えないならば、教師は学生に負い目があることになります。

 学生は教師に対して尊敬の義務があります。もし学生が教師を尊敬しないならば、学生は教師に負い目があることになります。

 教会員は、教会員になるとき、神様の前で、「自分の最善を尽くして主日礼拝を守り、教会の純潔と平和と一致のために、教会員としての義務を果たします」と誓約をしています。もし、それを果たしていなければ、負い目があることになります。

 神さまは、家族・社会・教会のなかで、私たちそれぞれに立場を与えて、義務を与えておられます。「誰に対しても、何の借りもあってはなりません」とは、まずは、それら様々のはたすべき義務を、誠実に果たしなさいということです。当たり前のことです。

 なんでパウロは、まずこんなことを力説するのでしょう? 恐らくそれは、「神様は恵みだけで救ってくださったのだから、クリスチャンはなんの義務も負ってはいないのだ。」と誤解している人がいたからです。いわゆる無律法主義という過ちに陥っているクリスチャンです。律法の行いを根拠として救われるという律法主義は間違いですが、逆に、恵みによって救われたからクリスチャンは何の果たすべき義務もないという無律法主義も間違いです。

 確かに、私たちは恵みによってキリストの義を根拠として救われました。だから、私たちは律法を守らないと地獄に落ちるから、怖いから律法を守るのではありません。律法が正しい神のご命令を私たちに告げており、私たちは神を愛しているから、自由人として律法を満たして生きるのです。「なんの借りもあってはなりません」というのは、積極的にいえば果たすべき義務を自ら進んで積極的に果たせということです。国家に対して、地域社会に対して、会社に対して、隣人に対して、教会に対して、それぞれ義務を積極的に果たしてこそ、私たちは自由人として生きることができます。

 最近の日本語では「義務」というのが「いやいややらされること」というふうに誤解している人が多いようです。しかし、義務とは義(ただ)しい務めです。正しい務めですから、喜び勇んで実行することです。

 

2.ただし、互いに愛しあうことについては別です。

 

 次に、「互いに愛しあうことについては別です」とはどういう意味でしょうか。今度は、律法の要求、義務ということより、次元の高い話です。「愛する」ことについては、私たちはどんなに愛したとしても隣人に対する負い目を返済しきることはできないという意味です。つまり、「私はもうあの人を十分に愛しましたから、もうあの人を愛する義務はありません。」と、見捨ててしまうということはありえないということです。「もう十分愛しましたから」といった瞬間、それはもはや愛ではなくなってしまいます。

 「愛は絶えることがありません。」とあるごとく、愛するという負い目は、返済完了することはありません。ひとたび、主によって出会いを与えられ、友情を結んだならば、生涯愛し続けることです。愛の負い目は永久です。

 紀元前千年、イスラエル王国の初期にヨナタンという王子がいました。ヨナタンは、青年ダビデが巨人ゴリヤテを倒したときに、ダビデと友情の契約を主の御前に結びました。ダビデはやがてヨナタンの父サウルの下にある軍人として頭角をあらわしてきます。そればかりか、ダビデは次の王として主がお立てになった方であるということをヨナタンは知ります。つまり、自分が将来約束されている王座にダビデが座るというのです。しかし、ヨナタンダビデに対する友情は、一分もゆるぐことがありませんでした。ヨナタンは終生ダビデに対する友情を保ち続け、自分のいのちをかけてダビデを守りました。ヨナタンが死んだ時、ダビデは嘆きました。「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器は失せた。」(2サムエル1:26、27)

 この世には、親友のごとくにふるまっていながら、いざ自分の立場がその友情のために危うくなるといともたやすく裏切る者がいます。そして、かつての友について悪口を言って回るような恥知らずがいます。しかし、私たちは、そうはありたくありません。いかにその友とかかわりを持つことが己にとって不利になったとしても、「誰に対しても何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」愛の負い目だけは生涯負い続けるものです。

 松原湖バイブルキャンプ教会でかつて川島牧師夫妻が奉仕をなさいました。その時に、小海町の二人の学校に上がるか上がらないかの少女がお世話になったのです。川島先生ご夫妻は体を痛めて、この地を離れてからもずっとこの二人を愛し執り成し祈り続け、励まし続けられました。やがて、少女たちは長じて一人は二十歳を越えて、もう一人は五十歳を越えて、ようやくイエス様の洗礼を受けることになりました。川島先生ご夫妻には、彼女たちに対する義務や責任はなかったでしょう。けれども、愛ゆえに祈り続けたのです。  

                                                                                                                             

3.愛は律法をまっとうする

 

 パウロは、主イエスにならって言います。「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」主イエスは、旧約の多くの戒めを要約して神を愛せよという戒めと、隣人を己のごとく愛せよという戒めに要約なさいました。しかし、もっと正確にいうならば、愛は単なる要約ではなく、もっと高い次元のことです。全身全霊をもって神様を愛することは、第一の戒めから第四の戒めを守るよりも高い次元のことです。偶像崇拝をせず、主のお名前をみだりに口にせず、安息日を守るということだけで、イコール、全身全霊をもって神様を愛していることにはならないでしょう。でも、神様を全身全霊をもって愛している人は、偶像崇拝はせず、御名をみだりに唱えず、安息日を守ります。

 同じように、己を愛するように隣人を愛することは、十戒の第五番目から第十番目を守ること以上のことであり、かつ、第五番目から第十番目をふくんでいることです。己を愛するように隣人を愛している人は親孝行だし、殺さないし、姦淫しないし、盗まないし、偽証しないし、隣人のしあわせをねたんだりしません。

 こういうわけで、隣人を愛する人は、律法を完全に守っているのです。それは、主イエスの御生涯にはっきりと現れています。だカール・ヒルティがこんなことを言っていました。「私たちは、あの人にとって何をはかってやることが、正しいことかと考えるよりも、どうしてあげることが私があの人を愛することか、と考えるときにもっとも賢明な選択をすることができる。」

 私たちは、人に対してどうはかってあげるのが正しいことかという考え方をするとき、しばしば自分を裁き主の立場において、思い上がってしまうことがあることを、ヒルティは暗に指摘しているのでしょう。そうでなく、彼を愛するとはどうすることかと考えるのです。

 ただし、そこでいう「愛する」とはどういうことかを理解しておく必要があります。「愛」という美名で自己中心的な欲求を意味することが多いからです。この隣人愛は、どのように要約されるでしょうか。いつかも紹介しましたが、キェルケゴールのことばをもう一度紹介します。みなさん、理解して憶えてください。

「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように助けてやることであり、人に愛されるとは、私が神を愛することができるように助けられることである。」

 自分を勘定に入れず、ただその人が神様を愛することができるように助けるには、何をすればよいのか?と祈り考え、行動するのです。もしかすると、その結果、自分は相手に疎まれるかもしれません。それでも、もしそれが相手がほんとうに神様を愛することに役立つことであるならば、そのように行動する。ほんとうの愛というのは、時にはそういう厳しさをふくむものです。

 

むすび

 今日、キリスト者の生き方について二つのことを学びました。

 第一は、天に国籍を持つクリスチャンとして、私たちはこの世にあっても、この世にしばられない神のしもべ、自由人です。キリストにある自由人として生きるために、私たちはこの世に負い目を負わぬために積極的に義務を果たしましょう。義務をなおざりにして借りを造ってはいけません。

 第二は、クリスチャンとしてさらに高い次元です。それは、愛することです。「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように助けてやることであり、人に愛されるとは、私が神を愛することができるように助けられることである。」