水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

国家:神のしもべ

ローマ13:1-7

2018年12月16日 苫小牧主日礼拝

13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。
13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 

1.国家は世俗領域における権威である

 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。これこそあなたがたの理にかなった礼拝です。」ということばから始まった、神のみこころにかなうキリスト者としての礼拝的人生の勧めを私たちは学んでいます。今日は、その第三番目のポイントです。第一のポイントははキリストの体である教会に結ばれて生きることでした。第二のポイントでは、ノンクリスチャンで迫害してくるような人々に対しては、個人的には復讐せずさばきは神にゆだねて、善をもって悪に打ち勝ちなさいということでした。そして、本日、第三のポイントは「上に立つ権威」というものをどのように理解して生活すべきかということです。
 聖書は二つの領域における権威について教えています。一つは霊的領域における権威です。イエス様は、霊的領域における権威を教会にお与えになりました。「16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16,18,19)教会には天国の鍵が託されています。霊的領域における権威は教会に与えられており、教会における最高の権威は聖書にあります。

 では、ローマ書13章がいう「上に立つ権威」とは何を意味しているかというと、それは世俗的領域における権威である国家を意味しています。それは4節に「剣を帯びている」とあることから明らかです。つまり、警察権を託された上に立つ権威と言えば、国家以外ありません。そういうわけで、この箇所は私たちは世俗領域における権威である国家について、どのように理解し、また、どのように行動すべきかということを教えています。ローマ書が書かれた当時でいうならば、ローマ皇帝が最高の上に立つ権威でした。また、皇帝が派遣した地方総督たちも上に立つ権威でした。
 本日の箇所から、第一に上に立つ権威は神のしもべであること。第二に、上に立つ権威の務めとその限界について。第三にキリスト者としてどう生きるかについて学びます。

 

2.国家の起源

 まず、使徒は国家の起源について語っています。1節。

13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 国家は神を起源としているというのです。これは不思議なことばではないでしょうか。当時の帝国における最高権力者はローマ皇帝ネロです。ネロは58年頃には、まだ暴君というふるまいは始まっていませんでしたけれども、もちろんキリスト者ではありません。未信者の権力者です。けれども、未信者である皇帝であっても、それは神による「上に立つ権威」であるとローマ書は教えているのです。国家というのは、13章4節に書かれているように、剣という強制力を帯びています。国家は、警察、法律、裁判所、刑務所をもっていて強制的に人をしたがわせる権限をもっている組織なのです。なぜ、神さまはこの世を統治するために、国家という機構を定められたのでしょうか。
 それは、人間はアダム以来堕落してしまい、みな自己中心なものとなってしまったので、もし権力というもの、警察というものがなければ、この世界は狼と狼が食い合うような世界、弱肉強食の世界になってしまうからです。「北斗の拳」の世界です。あれは199X年世界核戦争が起こって、世界中の国家が崩壊したのち、暴力が支配する世界になってしまったという想定だそうです。残念ながら、神に背いた後の人間世界というのは、警察権力がなければ、こんな状態にまで堕落してしまうものなのです。そこで、神様は、摂理を働かせて「上に立つ権威」権力者をお立てになったのです。
 日本の戦国時代から安土桃山時代、江戸時代への流れを見ればわかるように、秀吉も家康も、もとは戦争の上手なリーダーたちで戦上手で下剋上の世界で頂点に座りました。が、いったん権力の座につくと「下剋上はいけません」と社会の秩序を定めます。刀狩をして、国が刀つまり武力を独占して、反乱がおきないようにします。こうして社会に秩序が誕生するわけです。そういうプロセスを神様は、摂理をもって導かれるのです。神さまは、こうして「上に立つ権威」、国家というしもべを用いては社会に一定の秩序を保っておられるというわけです。

 

3 国家は神のしもべである

 

(1)神のしもべであるから尊重する
 この世の中がヤクザがしたい放題するような弱肉強食になってしまわないために、神さまは摂理によって国家制度というものをお立てになりましたから、私たちは基本的に国家の権威を重んじるべきです。パウロは2節から4節で次のように教えています。

13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 たとえば、無謀な運転をすれば、取り締まりにあって、罰金を取られるわけですし、安全運転をずっとしていれば、ゴールド免許をもらったり、表彰状をもらったりすることもあるでしょう。


13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。


 こういうわけで、「上に立つ権威」は神様がお立てになったものです。どの権威であっても基本的に、どろぼうや殺人や偽証は罪であるというふうな法律を立てて、罪を取り締まっているわけです。ですから、神様の立てた権威として重んじることがたいせつなのです。逆に、上に立つ権威を軽んじて、反逆するならば、罰を受けることになります。
 私たちクリスチャンは、たしかに「私たちの国籍は天にあります」という通り、優先順位としては天の国籍が優先する神の民です。けれども、天に国籍を持ちながらも、地上に派遣されているものとして、この国の上に立つ権威をも、尊重する必要があるのです。

(2)神のしもべであるから絶対視してはいけない
 次に国家の限界についてです。上に立つ権威つまり国家は、神のしもべですから私たちはこれを尊重すべきですけれども、神ではなく神のしもべにすぎないことも私たちはわきまえておかねばなりません。このことはとても大事な認識です。というのは、人間はすぐに被造物を絶対視して神格化するからです。そうするときに、本来、神が造られた良いものが害をになります。神様が造られたものはみな良いものですが、それを神様のように大事にしすぎると、偶像崇拝になり、害になるのです。たとえば、食べ物は神様がくださったよいものですが、暴飲暴食すれば病気になるでしょう。それと同じです。国は神様がさだめた大事な働きをするものですが、国家主義化すると悲惨なことになります。国は警察権力や法律や裁判所や刑務所という強制力をもっていますから、暴走すると大変なことになるのです。
 過去の歴史を振り返ると国家権力は絶対化されてきたことがしばしばありました。聖書の中にも、そうした実例が記録されています。バビロンのネブカデネザル王は、自分を象徴する巨大な黄金の柱を建造して、諸国の民にこれを拝ませました。そして、これを拝もうとしないダニエルの友たちを迫害しました。古代ローマ帝国の時代には、ローマ皇帝が神格化されて各地に皇帝の偶像が安置されて、これを拝むことが強制されました。そうした状況は313年のミラノ勅令が発令されるまで続いたのです。わが国でもほんの七十年前に天皇が神格化された類似の状況がありました。現代でも、隣の国々で自らを絶対化した大統領や主席といった人々がいて、キリスト者たちは弾圧下にあります。
 国家は神のしもべですから、その「しもべ」としての分をわきまえつつ、務めを果たすとき、有益な働きができます。週報の祈りの課題の欄に、「為政者がその分をわきまえて、平和を作り、格差を是正する善政を行なうように」という祈りの課題を載せているのは、このローマ書13章に基づいているのです。
 どうして国家はときどき、このように暴走するのでしょうか。それは、上に立つ権威=国家権力が、分をわきまえないで傲慢になり、サタンの影響を受けて、国民の心の中にまで介入したからです。

 

3.上に立つ権威の務め

 

 では、上に立つ権威の基本的務めとはなんでしょうか。一つ目は4節に記されています。

 「彼らは無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神にしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」

 先ほど話した国の「剣の権能」です。今日のことばでいえば、司法です。ヤクザの跳梁ばっこを防止するための権能です。これが、国家というものに与えられている基本的権能なのです。神学では「剣の権能」と呼ばれてきましたが、近代の社会学用語では「暴力装置」とか「暴力の独占」などと呼ばれます。秀吉は刀狩をしましたが、まさに暴力の独占ということです。剣によって、社会秩序を保つのです。人を銃で傷つけるとか脅すとか、人を拉致、監禁すること、あるいは殺害することなどは、普通はしてはいけないことです。けれども、神様は国家権力に、悪を防止するための務めのために、剣を託しているわけです。法律、警察、検察、裁判所、刑務所これが剣の権能です。

 国家に神様が託しているもう一つの務めは、6、7節に記されています。

13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 国のもう一つの務めとは税金を集めて、これを公平に国民に再配分することです。つまり、税金で公共の道路をつくったり、橋を造ったりします。あるいは、いろいろな事情で生活に困窮している人々を助ける福祉施策をします。また国民みんなが教育を受けることができるように、予算を立てて学校を立てたり補助金を出したりしています。また税金で警察官を雇ったり裁判官を雇ったりして、社会の秩序を維持します。水道のような生きるために必要不可欠なものは、税金で維持しなければなりません。
 もし、国というものがなくて、税金という制度がなければ、私たちは全部自分でやらなければなりません。金持ちが自分のために道路を造って、俺しか通っちゃダメなどと言われたら困ってしまいます。経済活動をまったく放置すれば、富んで、貧しい者はいよいよ貧しくなるばかりですから、徴税して、富を平等に配分する、これが国の務めです。まとめにしていえば行政ということができるでしょう。
 また、政府が、この行政をえこひいきして、自分の友だちにだけ手厚く集めたお金を配分しないで、公正に配分するために、法律が必要です。こうした法律を立てる働きを立法といいます。司法、立法、行政という世俗的領域における働きを、神様は国に託しているわけです。

 

4.キリスト者としてどう生きるか

 以上のように、世俗的領域において、上に立つ権威である国家は神がお立てになったしもべであることを学びました。そのしもべとしての働きとは、司法・立法・行政ということができます。神様は国家をご自分のしもべとして立てましたから、私たちキリスト者はこの日本で、どのように生きるべきでしょうか。

(1)「神のしもべ」である国家を尊重すること
 現代は、権威を軽んじる傾向の強い時代です。けれども、キリスト者は個人としては聖書が言うように、上に立つ権威を尊重するという姿勢を持つべきです。では世俗的領域において、日本での最高の上に立つ権威とはなんでしょうか?総理大臣でしょうか?ちがいます。最高裁長官でしょうか?ちがいます。国会議長でしょうか?ちがいます。天皇でしょうか?ちがいます。彼らの上ある権威は「日本国憲法」です。そして、日本国憲法の上には「国民の総意」があります。ですから、最高の権威は「国民の総意」です。

     世俗領域の序列
1.「国民の総意」
2.日本国憲法
3.統合象徴担当天皇 と 実務担当三権(国会・内閣・最高裁
4.個々の国民

 一方、自らが権威あるたちば、たとえば警察官とか役人とかになった場合には、「神のしもべ」「国民のしもべ」公僕として、その業務を果たすべきです。

 

(2)神の前の良心をもって為政者を選挙すること

 国の務めは、「国民の総意」と憲法の下にあるものとして分をわきまえて、剣の権能をもって社会の秩序を維持し、集めた税金を公平に分配し格差を是正することですから、国がその務めを正しく果たしているのかをしっかりと見ておくことが必要です。そして、正しく選挙に参加することです。
 しかも、「国民の総意」は選挙によって表現されますから、私たちは国民あるいは町民・村民としては日本国憲法くらいは通読し、選挙においてはよく祈って良心にしたがって投票する責任があります。

 

(3)為政者のために祈ること
 1テモテ2:1「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」
 サタンは国家を暴走させたいのです。イエス様がお生まれになったとき、ヘロデ大王は自分の王座が脅かされることにおびえて、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の子供たちを皆殺しにしました。黙示録12章を見るとヘロデ大王の背後にサタンが働いていたと書かれています。権力が暴走すると、強制力をもっているからたいへん悲惨なことになります。ですから、私たちは権力者が、その分をわきまえて謙遜に、社会の秩序の維持と、富の公平な再分配と、適切な法律によって、その働きをなすように真剣に祈る必要があるのです。